
私を引き止めたもの― ある夜の記憶 ―
看護師という仕事をしていると、非日常の死が日常の中に溶け込んでいる。病棟の廊下を歩けば、今夜が峠かもしれない患者がいる。処置室には生と死の境目に立つ命がある。そういう場所に長く身を置いていると、自分の何かが変わっていく気がする。感覚が研ぎ澄まされるのか、それとも馴染んでしまうのか。私にはわからない。ただ、あの夜のことは、ずっと頭の隅に引っかかっている。
その夜は、友人夫婦の家に集まってから飲みに行く約束をしていた。私は自転車で向かい、誰よりも先に着いた。アパートの一室で友人夫婦と他愛もない話をしながら、別の友人が来るのを待っていた。特に変わったことは何もない、ありふれた週末の夜だった。
別の友人が到着し、さあ行こうかという空気になった。コートを手に取りかけた、その瞬間だった。
突然、眠気が来た。
眠気、という言葉は正確ではないかもしれない。それは頭が重くなるとか、あくびが出るとかそういう類のものではなかった。まるで何か見えない重い物が身体にのしかかる感覚だった。身体が動かない。正確には、動かしたくない。外に出るという選択肢が、まるで存在しないかのように感じられた。
寝不足ではなかった。酒も飲んでいなかった。体調も悪くない。なのに私は、友人たちに向かって言っていた。
「悪いけど、私はここで寝ていくから、みんなで行ってきて。」
友人たちは驚いた顔をした。当然だろう。せっかく集まったのに何を言い出すのかと、何度も誘ってくれた。しかし私の身体は頑として動かなかった。動けなかった、というより、動いてはいけないと感じていた。説明できない感覚だった。
友人たちは仕方なく、私をその部屋に残して出かけていった。
不思議なのは、その後のことだ。熟睡したわけではない。深い眠りに落ちたわけでも、夢を見たわけでもない。ただ、そこにいた。眠気だけがある、という奇妙な状態の中で、部屋の天井を見ていた。カーテンの向こうは暗く、夜の静けさが部屋を満たしていた。友人たちが帰ってきたとき、私は何事もなく起き上がり、そのまま自転車で家に帰った。何も見なかった。何も聞かなかった。何も起きなかった。
そのはずだった。
しばらくして、友人夫婦がそのアパートを引っ越した。引越しの理由を聞いたとき、私は思わず背中が冷たくなった。
帰宅すると、閉めたはずのカーテンが開いている。一度や二度ではない。何度も、何度も繰り返される。誰かに開けられたとしか思えなかった、と友人夫婦は言った。そして私は初めて知った。あのアパートの周囲には寺が多く、窓の外には墓地が広がっていたことを。
あの夜、あの部屋の窓のすぐ向こうに、無数の墓石が並んでいたのだ。私はカーテンを閉めた暗い部屋で、ひとり横になっていた。その窓の向こうに何があったのかも知らずに。
霊道、という言葉を聞いたことがある。死者の魂が通るとされる道のことだ。寺と墓地が隣り合う土地には、そういった道が走ることがあると言われる。カーテンが繰り返し開けられるのは、その道を行き来するものが通り抜けるためかもしれない。
では、あの夜の私は何だったのか。
引き止められた、と思っている。あの強烈な眠気は、眠気ではなかった。外に出るな、という何かのメッセージだったのではないかと。霊感などないと思っていた。今でも自分が特別な感覚を持っているとは思わない。ただ、死のそばで働く人間には、何かが近づいてくることがあるのかもしれない。患者の最期に立ち会い続けた身体が、あの夜の異変を感じ取っていたとしたら。
友人たちは無事に帰ってきた。私も何事もなく家に帰った。何も起きなかった夜だ。
―― でも私は今も、強烈な眠気で動けなかったあの夜のことを思い出す。
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