超短編小説 足音
目の調子が悪い事が、40代に入ってから増えた。
「まさか自分が」とは思っていたが、どうやらこれが『老眼』というものらしい。
近くの文字が、ぼやけて読めない。
スマホの明るさを調整しても、目薬を差しても治らない。
色々な事を試して、最後の手段としてようやく「眼鏡をずらす事」を試みる。
認めたくなかった。
「もしこれで鮮明に読めてしまったら」と思うと、それが何だか恐ろしかった。
「老化」という当たり前に来るはずのものが、何故か自分には無関係だと思っていた。
当たり前が、当たり前に来ただけの事。
ずらした眼鏡の下。
霞んだ視界の先には、そこだけ浮き上がるように鮮明な文字が浮かんでいた。
視力が落ちる事によって、逆に見えるようになってしまった、彼の影。
来るべき時が来る。
来るべき時が、来た。
それは、聞こえないほど小さな小さな足音で、私がこの世に生まれた時から、背後にぴたりと張り付いていた。
年を重ねるにつれ、彼は大胆さを増す。
視界を歪め、音を遠ざけ、足腰を弱め、病を重くし、現在と過去の境を曖昧にする。
最後には私をゆっくりと抱き締める。
彼はまだ、私の歩調に合わせて、ゆっくりゆっくりと近付いて来るだろう。
余程運が悪くない限り、あと数十年は私の背中を追うだけだろう。
しかし、私が身動きも取れなくなった時。
その足音が、はっきりと聞こえるほど大きくなった時。
彼は私を追い越して、まじまじと私を見つめて、ゆっくりと顔を近付ける。
そして。
その恐ろしい彼の顔を見ながら、私の心臓は動くのをやめるのだろう。
吐息がかかる距離で。
その冷たい両手で、私を抱き締めるのだろう。
どんな顔をしているのだろう。
恐ろしくて仕方がない。
いっそ見えなくなるほど老いてしまえば、顔を見ずに済むだろうか。
いっそ聞こえなくなるほど老いてしまえば、足音に怯えずに済むだろうか。
流行りの音楽を聴きながら。
若者の背中を追い掛けながら。
今日も私は、彼から必死に逃げている。
