
新・考えすぎて、鳩サブレ 第1〜4話
どうでもいいことが、気になって仕方がない。ビールの銘柄の読み方、トイレの個室の落ち着き、ふいに訪れる絶好調。誰も気にしないことを、私だけが、歴史や研究まで持ち出して、大げさに考えこんでしまう。知識も経験も、人並み以上に積んだはずなのに、それがかえって、私を生きづらくする——治る見込みのない、考えすぎの記録です。
半径数十センチの、どうでもいい引っかかり。それを、わざわざ歴史や研究まで持ち出して、大げさに考えこむ。これは、賢くなったはずがなぜか生きづらくなっていく大人の、治る見込みのない、四つの記録である。
第1話 一畳の、安息
私は昔から、トイレの個室が好きだ。
用を足すためだけ、ではない。鍵をかけて、あの狭い空間にすとんと収まると、なぜかものすごく、落ち着く。
スマホをいじる。ぼーっとする。考え事をする。誰にも邪魔されない。話しかけられない。見られない。一畳ほどの、完全な、ひとりの時間。
職場でも商業施設でも、ふと気づくと、必要もないのに、個室に長居している。
そして、ある日、思った。
ここ、もしかして私の安息の地なのでは。家でもない、職場でもない、第三の居場所。最近よく聞く、あれ。サードプレイス、というやつでは。
気になって、調べてみた。
サードプレイスというのは、アメリカの社会学者オルデンバーグが、広めた言葉だった。
家を、第一の場所。職場を、第二の場所。そのどちらでもない、第三の場所。それが、サードプレイス。
定義を読んで、私はにやにやした。なるほど、私のトイレ論は学問的に裏打ちされている。そう思って、読み進めた。
人々が、定期的に、自発的に、気楽に、楽しみにして集う場所。心配事を脇に置いて、まわりの人との会話や交わりを楽しむ、場所。
例として、挙がっていたのは。カフェ。バー。図書館。床屋。公園。
……ん?
集う。人。会話。交わり。
雲行きが、怪しい。
サードプレイスの、いちばん大事な条件は、こうだった。オープンで、誰でも入ってこられること。常連がいること。そこで、見知らぬ人とも言葉を交わせること。
ある記事は、はっきりこう書いていた。サードプレイスの効能は、人と話すことにある、と。ペットとの会話では満たせない種類の社会的な欲求を、満たす場所なのだ、と。
つまり、サードプレイスの本質は、他者と交わること。
それを踏まえて、私の愛する個室を、見てみる。
鍵を、かける。誰も、入れない。常連も、いない。会話も、ない。交わりは、徹底的にゼロ。
私のトイレ個室は、サードプレイスの定義を、一項目も満たしていなかった。
むしろ、全項目、きれいに裏返していた。
つまり、こういうことだ。
私が、あの一畳で安らいでいた理由。それは、誰とも交わらなくていいこと。話しかけられず、見られず、関わらなくていいこと。
つまり、私が心の底からほっとしていたのは、サードプレイスの、いちばん大事なものが、まるごと欠けているから、だった。
人が集う場所に憧れて。「これがサードプレイスか」と喜びかけて。私が実際に選んでいたのは、人を完全に締め出せる、場所。
第三の居場所では、なかった。誰もいない、ゼロの場所だった。
人とつながりたい、とは思う。たぶん、思っている。
それなのに、私が、いちばん深く息を吸えるのは、鍵のかかった一畳の密室のなか。誰の気配もしない、あの場所。
サードプレイスを求めていたつもりで。私は、ただ、反・サードプレイスにこもっていた。
なんか、ヤダ。
でも、たぶん、この、密室でだけ息ができる癖は、治らない。
今日も私は、必要もないのに、そっと鍵を、かけるのだろう。
《第1話の注》
サードプレイスについて。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグ(Ray Oldenburg)が1989年の著書『The Great Good Place』で広めた概念。家(第一の場所)、職場(第二の場所)のいずれでもない、人々が定期的・自発的・気楽に集い、会話や交わりを楽しむ公共の場を指す。カフェ、バー、図書館、床屋、公園などが例として挙げられ、「オープンで誰でも入れる」「常連がいる」「気取らない」などが特徴とされる。その効能は他者との社会的交流にあるとされ、孤立の解消や地域コミュニティの基盤として論じられてきた。本コラムのトイレ個室をめぐる考察は、この定義に照らした筆者の自己分析(と冗談)である。
第2話 考える葦の、尻
前に、トイレの個室が好きだ、という話を書いた。
書いたあとで、新しい疑問が湧いた。そもそも、なぜあの狭さが、落ち着くのか。
広い部屋のほうが、いいに決まっている。人類は、長い歴史をかけて洞窟を出て、広い家を手に入れてきた。なのに私は、わざわざ一畳の狭い箱に逃げ込んでほっとしている。
おかしいではないか。気になって、また調べてしまった。
調べると、これにも、ちゃんと理屈があった。
プロスペクト・リフュージ理論、というものらしい。アップルトンという人が、半世紀ほど前に唱えた。
人間は、二つを同時に求める。ひとつは、見晴らし。まわりを見渡せること。もうひとつは、隠れ場。自分が囲われて、守られていること。
この二つがそろった空間で、人はいちばん安心する。もう、ライオンに襲われる心配などないのに。背後と頭上が囲われていて、なお前は見える。そういう場所を、本能が好む。
レストランで、真ん中の席より、隅の奥のボックス席が落ち着く。あれと、同じだという。背中が壁で守られているからだ。
トイレの個室は、まさに、これだった。
三方を壁に囲まれ、頭上も覆われている。完全な、隠れ場。鍵までかかる。これ以上、安全な巣穴は、ない。
しかも、囲われた狭い空間は、体に直接、効くらしい。
囲われている、という感覚が、原始的な安全のサインとして働く。すると、休息モードの神経が優位になる。緊張のホルモンが下がる。安心のホルモンが、出る。
その大元をたどると、捕食者から隠れて安全に眠れる場所を探した、祖先の本能に行き着くのだ、という。
つまり、私があの個室で、すうっと力が抜けるのは。狭くて暗くて囲われた穴を見るとほっとする、何万年も前の、サルの記憶。
ここで、私は、固まった。
私は、自分のことを、ちょっとはものを考える人間だと、思っていた。
エレベーターのボタンを考える。文末の句点を考える。焼肉の頼む順番を考える。誰も気にしないことを、ひとり、こねくり回す。パスカルふうに言えば、人間は考える葦である。私は、その葦のつもりで、半径五十センチを延々と、考えてきた。
なのに。
私が、人生で、いちばん深く安らぐ場所。その理由は、思考でも、教養でも、なかった。
何万年も前に、穴ぐらへ逃げ込んだ獣の、体の記憶。考えることの、まるで正反対。
私のいちばん正直な安らぎは、頭ではなく、尻が先に、知っていた。
つまり、こういうことになる。
人間は、考える葦である。そう気取ってみせて。実のところ、私がほっと息をつくのは、考えた結果ではなかった。狭い穴に入ると安心する、という、ただの動物的な反射だった。
葦のふりをして、考えに考えて、たどり着いた安息の地が、サルの隠れ穴と同じ。
私は、考える葦では、なかった。せいぜい、考えるふりをした、隠れる獣だ。
それでも、私は明日も難しい顔をして、半径五十センチを考えるのだろう。
句点の冷たさを。ボタンの是非を。さんざん考えて、考えて。そして、疲れたら。
そっと、あの一畳の穴ぐらに逃げ込む。三方を壁に守られて、すうっと力を抜く。頭で考えたどんな結論より、その本能のほうがずっと正直で、ずっと確実だ。
この、考える葦のふりをした、隠れる獣の癖は、たぶん治らない。
《第2話の注》
プロスペクト・リフュージ理論(prospect-refuge theory)について。地理学者ジェイ・アップルトン(Jay Appleton)が1975年の著書『The Experience of Landscape(風景の経験)』で提唱した環境心理学の概念。人間は「見晴らし(prospect)」と「隠れ場(refuge)」の両方を備えた環境に本能的に安心を覚えるとされ、捕食者を警戒しつつ身を隠せた進化的環境に由来すると説明される。レストランで壁を背にした隅の席が落ち着くことなどが例として挙げられる。
囲われた空間と安心感について。囲われた狭い空間は原始的な安全のシグナルとして働き、副交感神経(休息・回復の働き)を優位にし、ストレスホルモン(コルチゾール)を下げ、オキシトシンやセロトニンといった物質を増やすとされる。狭く囲われた場所で安心する傾向については、捕食者から身を隠して眠る場所を求めた進化的本能に由来するという説のほか、複数の解釈がある。いずれも本コラムでは平易に要約しており、個々の生理反応の厳密な機序を主張するものではない。
「人間は考える葦である」について。フランスの思想家ブレーズ・パスカル(1623–1662)の『パンセ』にある有名な言葉。人間は自然のなかで葦のように弱い存在だが、考えることができる点に尊厳がある、という趣旨。本コラムは、その「考える」を引き合いに出しつつ、自らの安らぎがむしろ本能由来であったという落差を、自虐的に述べたものである。
第3話 勘ぐりおじさん
先日、酒屋で、ビールを選んでいた。
ふと、一本の缶に目が止まる。定番ビールの夏限定版で、銘柄に「夏風」と書いてある。
そこで私の手が止まった。
これは「なつかぜ」と読むのか。それとも何か別の、特別な読み方があるのだろうか。
なぜこんなことで立ち止まるのか。
それは私が知っているからだ。日本語には、風の雅な読み方がたくさんあることを。
たとえば、東風と書いて「こち」。菅原道真の、あの有名な和歌。「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花」。
南風と書いて「はえ」。白南風、黒南風。初夏に吹けば、薫風(くんぷう)。秋の野分(のわき)は、台風のこと。
風ひとつに、これだけの呼び名がある。一説には、二千を超えるとも聞く。
だから私は考えてしまった。この「夏風」にも、私の知らない、風流な読みがあるのではないか、と。
しばらく缶の前で悩んで、はたと気づく。
商品の銘柄で客が読めない文字を使うわけがない。
すっと読めて、覚えやすい。それが、売り物の名前の鉄則だ。製造元がわざわざ客を悩ませる名前をつけるはずがない。
答えは、どう見ても「なつかぜ」。
ビール一本を前にして、私は何を百人一首みたいなことをやっているのか。
そして、思い至る。
私はいつも、こうだ。
カフェの洒落たメニュー名。看板の凝った字。人の、何気ない一言。そのすべてに、裏の意味や特別な読みを勘ぐる。
「お疲れさまです」の一言に含みはないか。あの相槌のわずかな間は、何の合図か。会議で配られた資料の、フォントの選び方にすら、何かの意図を読もうとする。
知識と経験が、私から素直さを奪った。
私は、立派な、勘ぐりおじさんだ。
ところで、この勘ぐり癖。ただのめんどくさい性格では済まないらしい。
フィンランドに、クオピオ虚血性心疾患研究という、息の長い追跡調査がある。中年の男性二千六百人あまりを、二十八年にわたって追いかけた。
調べたのは、皮肉的不信(cynical distrust)という気質。他人の誠実さや動機をすぐ疑う。世の中は、結局みな自分の利益で動いている。そう構えてしまう傾向のことだ。
つまり、勘ぐりおじさんの医学的な呼び名である。
結果は、なかなかこたえる。
皮肉的不信が高い群は、低い群にくらべて、早く死ぬ確率が、おおむね一・五倍から一・七倍だった。世を疑う癖は、どうやら寿命を削るらしい。
世界を信じなかった分だけ、私は早く世界から退場する。
ただし、ここで素直に書いておかねばフェアではない。
この一・五倍という数字は、年齢や喫煙や血圧といった、ありふれた要因をまだ差し引く前の、粗い段階の話だ。それらを統計的に調整したあとも、はっきり残ったのは心血管系の病気による死亡との関連で、それ以外の死因については、傾向は同じ向きでも統計的にはっきりとは言い切れなかった。
要するに「疑り深いと、即、早死に」という、わかりやすい呪いでは、ない。
——と、ここまで丁寧に、研究の限界を書き連ねている、この態度。
これも、勘ぐりだ。
数字をそのまま受け取れず、裏に留保はないか誇張はないかと、論文の隅をほじくっている。私は、自分の早死にを告げる研究にすらけちをつけて、安心しようとしている。
底なしだ。
つくづく、面倒な性分だと思う。
子供なら「なつかぜビールだ」とにこにこ手に取る。読めて、うまそうで、それで終わりだ。風の異名も、疫学の留保も、いらない。
豊かな知識は、私を賢くしたのではなく、ただひねくれさせた。そのうえ、ひそかに寿命まで前借りさせていたわけだ。
結局、私は、その「夏風」を一本、買った。
家に帰り、栓を開けて飲む。冷えていて、うまい。ラベルを眺める。やっぱり、どう見ても「なつかぜ」だ。それ以外の何ものでもない。
体に悪いのは、たぶんこのビールではなく、私のものの見方のほうだ。
わかっている。疑うのをやめればいい。すっと読んで、すっと飲めばいい。そのほうが、長生きする。
……ところで、この「風」という字。なぜ、旧字でも崩し字でもなく、この字体なのか。製造元は、ここに何か意図を——
いや。
やめろ。素直に飲め。長生きしろ。
そう自分に言い聞かせる。言い聞かせて、なお、ラベルの隅を見てしまう。
たぶん私は、寿命を一・五倍の速さで削りながら、死ぬまでビール一本すら、勘ぐって飲むのだろう。
知っていて、やめられない。
この病気は、治らない。
《第3話の注》
風の異名について。日本語には風を表す呼び名が数多くあり、一説に二千種以上ともいわれる。東風(こち)は東から吹く春の風で、菅原道真の和歌「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(『拾遺和歌集』所収)で広く知られる。「ひがしかぜ」「とうふう」とも読む。南風を「はえ」(白南風・黒南風など)、初夏の風を薫風(くんぷう)、台風を含む秋の風を野分(のわき)と呼ぶなど、季語・歳時記の語として親しまれている。各種辞典・歳時記による。
皮肉的不信と死亡リスクについて。Šmigelskas K, et al. "High levels of cynical distrust partly predict premature mortality in middle-aged to ageing men." Journal of Behavioral Medicine, 2017;40(4):612–619. フィンランドのクオピオ虚血性心疾患研究のデータ(男性2,682名、ベースライン時42〜61歳、1984〜2011年追跡)にもとづく。粗推定では、皮肉的不信が高い群は低い群にくらべ早期死亡のハザードが約1.5〜1.7倍高かった。ただし従来のリスク因子で調整後に有意だったのは心血管疾患による死亡との関連で、非心血管死との関連は一貫した傾向はあるものの統計的有意には達していない。本コラムの「寿命を削る」等の表現は、この粗推定値をもとにした筆者の誇張・自虐であり、研究の結論そのものではない。
第4話 無駄な、ゾーン
ごくたまに、いわゆるゾーンに、入ることがある。
考える前に、言葉がすらすら出てくる。次に何を言うか決めていないのに、口が勝手に動く。手も勝手に動く。流れが、途切れない。
終わったあと、思う。あれは、誰だったのか。
自分でやった、という感じがしない。むしろ、誰かが私の体に入って、私の代わりにうまくやってくれた。そんな、乗っ取られたような奇妙な、感覚。
あれは、いったい何なのか。気になって、調べてみた。
脳科学に、説明があった。
一過性前頭葉機能低下、という。長い名前だが、中身はわりと、単純だ。
人間の脳には、ざっくり二つの系がある。ひとつは、前頭葉が担う考える系。理屈をこね、計画を立て、自分を監視する。柔軟だが、遅い。もうひとつは、大脳基底核などが担う、体で覚えた系。訓練で刻まれた技を自動で動かす。融通はきかないが、速くて効率がいい。
ゾーンとは、この、考える系が一時的に黙る、状態のことだった。
普段、ハンドルを握っている前頭葉が、すっと後ろに下がる。すると、訓練で体に刻まれた自動の系が前に出て、勝手に、流暢に動きだす。
ジャズ演奏家の脳を調べた研究でも、ゾーンに深く入っているとき、実行をつかさどる前頭部の活動が下がっていた。研究者は、これを、手放すこと、と呼んでいた。
つまり、乗っ取ったのは、他人では、なかった。
普段、私が「考える私」で、ぎゅうぎゅうに抑え込んでいる、もう一人の私。訓練で出来上がった、自動操縦の私。そいつが、束の間、操縦席に座っただけだった。
そして、ここが大事なところだ。この自動操縦は、熟達がないと発動しない。
ゾーンに入れるのは、その分野をさんざん訓練して、技が体に刻まれているから。何も積んでいない人にゾーンは来ない。ゾーンとは、積み重ねた訓練が、考える私の邪魔なしに解き放たれる瞬間なのだ。
なるほど、と私はうなずいた。私にも、訓練で刻まれた技があるということか。ちょっと、誇らしい。
そう思って、ふと考えた。
では、私が人生で、いちばん時間を注いで訓練してきた技は、何だ。
背筋が、すっと寒くなった。
仕事の中身も、もちろんある。それは、ちゃんとやってきた。だが、純粋に、費やした時間の量で言えば。
あの、夜の店だ。
二十代から三十代、数えきれない夜。私は、社長たちの隣でひたすら、気配りを訓練していた。グラスの減り具合を見る。話の継ぎ目を拾う。座の空気を整える。誰にも頼まれていない気配りを、何百回、何千回と繰り返した。
あれだけ反復したものは、ほかにない。
ということは。私の体に、いちばん深く刻まれ、考える前に自動で発火する技は。
無駄な、気配りでは、ないのか。
想像して、ぞっとした。
私のゾーンは、もしかすると、いちばん訓練したもの——つまり、あの接待技術で発動している。
会議で、ふと、誰かのペットボトルが、空に近いのが目に入る。考える前に、体が、新しい一本を取りに動こうとする。場がしらけかけた、その一瞬。考える前に、口が絶妙な合いの手を入れている。
誰も、頼んでいない。誰も、得をしない。それでも、自動操縦の私は、嬉々として気配りを、発火させる。
ゾーンの、最高到達点が、誰得の、接待技術。
これ以上、悲しい才能の無駄づかいが、あるだろうか。
しかも、だ。
ゾーンに入る条件は、考えるのをやめること。前頭葉が、黙ること。
ところが、私はどうだ。エレベーターのボタンを考え、文末の句点を考え、半径五十センチを延々と考え続けている。自意識をフル回転させ、自分を監視し続けている。
私は、ゾーンの真逆を、生き方の常態にしている。
だから、たまに運よくゾーンに入っても。「お、いま入ってるな」と気づいた、その瞬間。考える前頭葉が操縦席に戻ってくる。そして、ゾーンはすうっと、消える。
私は、自分の絶好調を、自分の自意識で、毎回踏み潰している。
皮肉な話だ。
考える葦は、考えるのをやめたときだけ輝く。私の場合、その輝きすら、よりによって無駄な気配りに、使われる。
そして、せっかくの輝きを、「いま輝いてるな」とわざわざ実況して、自分で消してしまう。
考えても、ダメ。考えるのをやめても、出てくるのは、誰得の接待。
詰んでいる。
それでも、私はまた、誰かのペットボトルの残量に目をやるのだろう。考える前に手が動くのだろう。そして、たまに来るゾーンを「あ」とつぶやいて、自分で終わらせるのだろう。
自意識で、絶好調を潰す。潰れずに残ったゾーンは、誰得の気配りに、ささげる。
この、いちばん訓練した技が、いちばんいらない技だった、という出来の悪いオチは、たぶん治らない。
《第4話の注》
ゾーン(フロー状態)の神経科学的説明について。Dietrich(2004)が提唱した「一過性前頭葉機能低下仮説(transient hypofrontality hypothesis)」にもとづく。フロー状態では前頭前野(とくに高次の実行機能を担う領域)の活動が一時的に低下し、大脳基底核や小脳などが支える暗黙的・自動的な処理が前面に出て、よく訓練された技能が「明示系」の干渉なしに発揮されるとされる。Rosen et al.(2024、ドレクセル大学)のジャズ演奏家を対象とした脳波研究では、高フロー状態で実行制御を担う上前頭回の活動低下が観察され、これは「手放すこと(letting go)」と整合的と報告された。同研究では熟達した演奏家ほどフローを強く経験しており、フローには領域特有の熟達が前提となることが示唆されている。なお、フローの神経基盤については同期理論(Synchronization Theory of Flow)など別の説もあり、議論は続いている。
「考える葦」については本作 第2話を参照。本コラムの「気配りのゾーン」「誰得」等は、上記の自動性・熟達の知見を踏まえた筆者の自虐的な推論であり、研究が主張する内容ではない。