
さすらいのひとり
通過するように、生きていること。
ボルネオ島で泊まったホテルは、静かな離れの棟と、レストランや売店が集まるにぎやかな棟に分かれていた。
棟の間を移動するため、ゴルフカートのような小さなバギーがあり、滞在中、私たちは何度もそれに乗った。
息子は、着いてすぐに「バギー」ということばを覚えた。
部屋を出るたびに「バギー?」と尋ね、遠くから車体が見えると、嬉しそうに走っていく。
帰国の日、空港へ向かう車の中でも、窓の外を見ながら何度か「バギー?」と呟いていた。
私にとってそれは、ホテル内の移動手段でしかなかった。
息子にとっては、違ったのかもしれない。
車で3時間かけてようやく到着した、ガラマ川。
船着き場で見つけた黒い猫に、息子はずっと話しかけていた。しゃがみ込み、小さな声で何かを伝え続ける。
猫は陽が当たる床の上に悠然と寝転がり、懸命に身体を舐めているだけで、ちらりと目線をあげることもない。
それでも息子は飽きることなく、その場を離れようとしなかった。
旅の間、驚くほどたくさんの人やモノに「バイバイ」をした。
レストランを出るとき、売店の前を通るとき、バギーを降りるとき。
或いは、見つめていた鳥が飛び立ったとき。
息子は、その場で出会った存在に、丁寧に手を振った。
名前も知らない、もう二度と会うこともないかもしれない相手に向かって、何度も振り返りながら、小さな手を懸命に振る。
まだ一歳9ヶ月。
旅先と、日常の区別が曖昧なのかもしれない。
「バイバイ」が最近のブームなだけなのかもしれなかった。
それでも、息子を見ながら、不思議な感覚が込み上がる。
この子は、どこにいても、そこで暮らしているみたいだ、と。
どの世界にも、彼はきちんと、存在している。
バギーも、毎朝挨拶をしてくれるホテルのスタッフも、ガラマ川の船着き場で出会った猫も、彼にとっては、すべてが地続きの世界として存在しているように見えた。

これまで、一人で何十ヶ国も旅してきた。
そのたび、旅先で出会う人々や風景に心を動かされてきたつもりだった。
海から吹く湿った風の匂いや、首のうしろをじりじりと焼くような砂漠の日差し。
道端の売店のおばさんと交わす、ささやかな挨拶。
ブータンを案内してくれた、私よりずっと若い、少年なようなガイド。彼のはにかんだ笑顔も、遠慮がちな話し方も、兄弟が8人いると語ったことも、鮮明に覚えている。
ただの旅ではなく、暮らしながら長く滞在した土地もある。
インドの高地にある、小さな町での数ヶ月。
西アフリカにある、赤い土の村で過ごしたひと夏もあった。
これまで見知らぬ土地の中で過ごしてきた瞬間たち。
愛おしいものとして自分の記憶の箱の中に、大切に大切に、おさめてきたはずだった。
けれど息子を見ていると、自分はずっと、世界をただ「訪れて」いただけだったのかもしれない、と思う。
旅のこと、だけではなかった。
景色を見て、理解して、記憶して、また次の場所へ向かう。
どこへ行っても、私はただ、その世界をほんの一瞬通り過ぎる人間のままだった。
ただの、さすらい。
それは、孤独とは違うように感じる。
帰る場所もあるし、大切な人もいる。
仕事もあるし、好きなものも場所もある。
息子は毎日、太陽のようにまっすぐな声でだーいすきと、甘い体温を身体ごと渡してくれる。
そのたびに、私はたしかに、温かいものが身体の内側に込み上げるのを感じる。
それでも、ずっとどこかを移動し続けているような感覚が残っていた。
根を下ろせない、というほど不安定なものではない。
ただ、どこへいても、だれといても、それはただの通過点に過ぎないような、感覚。
だから、息子の姿は、ときどき目がくらむほど眩しい。
彼は、世界を観察する前に、その中へ入っていく。
そして、その世界に受け止められる。
確かにそこに、いつも存在している。
目の前にいる人へ笑いかけ、猫に話しかけ、土地の名前を覚え、その場所の時間の流れに、何のためらいもなく身体を預けていく。
その姿を見ていると、世界には、こんなふうに存在する方法もあるのだと、静かに驚かされる。
帰国後しばらく経った今も、息子はときどき思い出したように「バギー?」と呟く。
彼の中ではきっと、ボルネオはひとつづきの世界として、存在しているのだろう。