
とつぜん、介護。
2011年8月31日。
明け方、携帯のマナーモードで目が覚めて、寝ていたことに気づいた。
止めようとしてハッとした。
違う、目覚ましじゃない、電話だ。
夫からだ。
「お母さんの心拍数がだいぶ落ちてきたから、病院に来てくれる?」
跳ねるように起きて、そばに置いていたバッグを掴んで玄関に向かった。
はじめに
今から20年くらい前のこと。
30代前半の私は、いきなり義母の介護をすることになった。
私は1999年に年の離れた夫と結婚。同時に看護師として5年間勤めた病院を退職し専業主婦に。2000年に義父母と二世帯同居を始め、2001年に女の子を出産。2005年に介護施設で働き始めた。病院と施設の違いに驚きながら、少しずつ介護という仕事に向き合い始めた。
異変
その日は急に訪れた。
パートを終え、幼稚園児の娘と帰宅すると、義母が言った。
「なんか、頭が痛いんだよね」
義母はこの頃70代。これまで体の不調はあっても大きな問題はなかった。
「いつから?」という私の問いに、義母は答えた。
「病院から戻る時から」
痛みは強くはないが良くもならない。
手足の痺れや動きにくさ、歩きにくさ、
話しにくさはない。
痛いのは、頭の右側。
血圧は、病院では高くなかった。
定期受診の後だけど、念のため受診に行った。
「大したことありませんね、様子を見ましょう」って言われて終わるんじゃないかという予想は、外れた。
義母の頭のCT検査の後、診察室に入ると、義母はストレッチャーに横たわり、点滴と膀胱留置カテーテル(おしっこの管)が入れられていた。医師から話があった。
「脳出血です。このまま入院が必要になりますが、満床のため別の病院に救急搬送となります。」
え?脳出血?
話は耳には入るものの、状況が理解できない。
救急車の到着を待つ間、義母が不安そうなのを見てハッとした。
「そうだよ、一番不安なのはお義母さんじゃないか!しっかりしないと!」
ここでようやく現実を受けとめた。
義母が運ばれた救急車に乗り込み、入院先へと向かった。
もし仕事先で、施設の高齢者の方が同じ状況になったら、
看護師として落ち着いて「不安にならないように声掛けしなくちゃ!」
「状態の変化に気をつけなくては。ご家族の方への連絡は・・・」
とか考えられたんだろうけど、この時の私は文字通り「頭が真っ白」。
入院の手続き後、会社にいる夫に電話で報告し、義父は70代後半で耳が遠いため、電話ではなく帰宅後に話した。義父はとても驚いていたが、その後は狼狽えたりする様子はなかった。
各々がいろんな気持ちを抱えて夜を過ごした。
義父の本気
翌朝、義父がいつになく真剣な顔で私に言った。
「洗濯の仕方を教えてくれる?」
義父は昭和初期の生まれ。若い時は大工をしていて、家事は全て義母が担当。口数が少ない人だった。義母も「全く、何にもやらないんだから」とぼやいていた。
義父はお酒が大好きで、毎日のように晩酌していた。泥酔して道端で寝ていたり、お風呂で寝たまま沈みかけているのを、義母が一人で救出したこともあった。
そんな義父が、義母に代わって家事をする決心をした。
洗濯だけでなく、お米の炊き方やゴミ出しの仕方も知りたいと。
頼んでこないことに驚きながら、私は義父に説明した。
そして義父はこの日からきっぱりと、あんなに大好きだったお酒を断った。
義母の入院による生活の変化にきちんと向き合おうとする義父を見て、「義父はちょっと頼りないな」と思っていた自分が恥ずかしかった。
義父はそれから、全ての家事を行い、自転車でお惣菜を買い、炊いたご飯と一緒に食べるようになった。私も作ったおかずは、偏食が多くてなかなか食べてもらえず、諦めた。
入院の翌日、下着などの必要なものを持って義母のもとへ向かった。
義母は話ができる状態だった。状態は安定していて、まずは一安心。ただ、左の手足に軽い麻痺が出た。2週間後にリハビリの専門の病院に転院が決まった。
年中さん、涙の訴え
義母が入院してから、当時年中さんの娘は延長保育となり、私はパートの後面会をして、夕方に娘のお迎えというのがルーティンになっていた。
娘は状況を子供なりに理解しているようだった。
ある日の夕方、面会を終えて幼稚園にお迎えに行くと、俯いた娘が私のところにきた。
「いっつも一人になっちゃうの。みんな先に帰っちゃうの。寂しいの」
そう話す娘の目から、ぽろぽろ涙がこぼれた。
確かにお迎えが最後になることが多かった。
そうか、それは寂しいよね。
でも、毎日ではなくても面会は必要。
夫も娘の帰る時間には対応できない。
担任の先生に相談すると
「私がそばにいて寂しくないようにします」と言って下さった。
先生の協力のおかげで、なんとか延長保育は継続できた。
義母の病状は安定しており、それぞれが頑張っているおかげで、今のところはなんとかなりそう。
そう思った私は、甘かった。
過酷なダブルパンチ
状態が安定し、リハビリ病院に転院した義母。
数日後の面会で看護師さんからお話があった。
「病室で、自殺を図りました」
ーえっ?
病室の窓から飛び降りようとしたと。
さいわい、窓がはめ殺しで未遂ですんだ。
確かに、義母が「リハビリは嫌だ。主治医の先生が怖い」と言っているのは聞いていた。
軽いとはいえ、麻痺のある体を受け入れられなかったかもしれないが、そこまで思い詰めていたとは。
その頃から食欲が落ち、義母の顔には表情がなく、目も虚ろだった。
脳出血後の後遺症の一つの「抑うつ状態」との診断で、リハビリ病院の退院を早め、専門科の受診を勧められた。
退院が早まったのは、もう一つ理由があった。
食欲低下に対する検査を行った結果、早期胃がんが見つかり、手術を勧められたのだ。
この状態で、入院して手術なんて。
大きな問題が2つ。
ひとつは、2つの病気を一緒に診てくれる病院を探すこと。
リハビリ病院の医師は、胃癌を診断した義母のかかりつけの病院に紹介状を書いて下さった。精神科はなかったけど、何十年もお世話になった病院なので、まず相談してみることになった。
もうひとつは、本人に病状をどう伝えるか。
がんの告知は、この頃はそれまでのように「隠す」のではなく、「告知して
本人が納得した状態で治療を進める」のが主流になっていた。
リハビリ病院では、義母にはっきりとは伝えていないようだった。
自殺を図り、抑うつ状態が改善していない義母に伝えられるか?どう伝えたら?
また自殺を図ったら?
大きな問題を2つも抱えたまま、義母は退院してきた。
何から手をつけたら良いかわからないまま、自宅での療養が始まった。
私は職場に事情を話し、落ち着くまでの期間の休職を申し出た。
職場の上司は大変気遣ってくださり、休職も了承。
義母の介護生活が本格的に始まった。
義母は食欲はなく、トイレ以外はずっと寝たきりだった。リハビリのおかげで、家の中は壁を伝ってなんとか歩行可能。杖は家の中ではほとんど使用しなかった。
私は、食事の工夫や、必要な日用品の購入、内服のサポート、着替えや体拭きの他、義母の気持ちを聞き続けることが日課となった。
義母と私の連絡ツールは、部屋間インターホン。
二世帯住宅を建てた時に取り付けたものだが、これがナースコールがわりになるとは、その時は予想もしていなかった。
インターホンが鳴って「はーい」と答えるが、無言。
私が義父母の部屋に行くと
義母が力無く横になりながら「ーーー死にたい」と呟く。
家の中も暗い雰囲気になり、先の見えない状況にみんな疲弊していた。
何よりも義母の行き場のない辛さを、早くなんとかしてあげたかった。
藁をもつかむ思い
肝心の病院探しは、難航。
退院してすぐかかりつけ病院に相談したが、精神科はなく病状の安定していない「うつ」の、しかも自殺未遂歴がある患者を受け入れることはできないと、断わられた。
想定内だったが、別の病院を紹介してもらうまではいかず、結局自分で探すしかなかった。
今ほど病院紹介サイトはなく、自分で一つ一つ電話で確認していった。
義母は長時間の待ち時間に耐えられる状態ではなく、受診先と時間が確定しないと連れ出せなかった。
まずはうつ病を診てくれる病院を探し、義母を連れて受診した。そこは精神科と神経内科のみの専門病院(仮にSSセンター)だった。そこで内服治療が始まり、一歩前進した気がした。
そして、胃がんに対しては、精神科がある総合病院を見つけた。
ここなら、胃がんとうつを診てくれるのではないか。
電話で診察可能であることを確認。
どうか、お願いします。
私の気持ちもギリギリだった。
義母をなんとか説得し、受診した。
待ち時間が1時間を過ぎたあたりで義母が座っていられなくなった。
職員さんに事情を話し、ベッドをお借りした。
ぐったりと生気のない義母を見て、祈るしかできなかった。
お願い、お願い、どうか、義母を助けてください。
義母の順番になり、お借りした車椅子に義母を乗せて診察室の中に入り、
状況を説明すると、医師は困ったような顔でこう言った。
「精神科は、ここは外来しかないので、入院ができないんですよ」
え?治療してもらえないの?
気がつくと、ボロボロ涙を流しながら
「電話で診てくれるって言ったじゃないですか!
義母がこんなに辛い思いしているのに、頑張ってここまできたのに。
じゃあ、一体どうしたらいいんですか!」
と叫んでいた。
ーーーその後どうやって診察室を出て、家に戻ってきたか覚えていない。
こうしている間にも、がんは進行している。
私は追い詰められていった。
一筋の光明
2週間ごとに通っていたSSセンターの精神科。
一度、義母がどうしても起きられず、でも薬がなくなるので
私だけで受診に行った。
疲れ切っていた私は医師に泣きついた。
「胃がんの治療が必要なのに、うつ病の急性期だからと
受け入れてくれない。どうしたらいいのかわからない。」
すると医師はこう答えた。
「僕の病院で診ましょうか。僕は週1回ここで診察していますが、
実はK市総合医療センター(仮)の医師なんです」
そこは、あらゆる診療科があり、もちろん胃がんも治療してもらえる。
真っ暗闇に光がぱあっと差すような、そんな気持ちになった。
何度もうなづきながら、その医師へ義母をお願いすることにした。
よかった、先に進める。義母が助かる。
張りつめていた心も体も、一気に緩んだ。
義母は、この時点で「がんじゃないか」と疑っていたが、
入院後、担当医からきちんと病状説明を受けた。
手術は無事に成功し、胃を部分切除。
その後の経過も良好で、うつの症状も安定していった。
自殺を図った頃の憔悴しきった義母は、もういなかった。
退院してから、義父母は穏やかに暮らしていた。
私は消化の良い料理を作って持っていったが、
他の家事は、義父が全てやってくれた。
義母は、家の中ではなんとか自力で歩け、
トイレも時間をかけて自分でできていた。
それどころか、義父のサポートで入浴も自分のペースで
できるようになった。
私の出番は、定期受診の付き添い、薬のセット、血圧測定くらいしかなかったため、週3日の短時間パートとして復職した。
穏やかな日々が戻ってきて、安心していた。
あの時までは。
3回目の入院
手術から一年ほど経った頃。
義母が「体が動かしにくい」と言った。
嫌な予感がして、すぐにSSセンターに受診。
検査室の前で義母の検査終了を待っていると、技師さんが飛んできて
「脳梗塞です」
と報告してくださった。
ーーあぁ、またか。
義母はそのまま病室へ通され、先生からの説明は私一人で聞いた。
梗塞を起こしたのは、前回と同じ右側。
発見が早かったので、ダメージは大きくはないとのこと。
夫や義父にすぐ伝えた。
前回のことが鮮明に蘇った。
でも、今回は違う。うつも安定しているし、病院も決まっている。
ところが、予想外の出来事が私を待っていた。
個室移動の、まさかの理由
入院して数日経った頃、職場で朝のミーティング中に
病院の看護師さんから電話が来た。
「申し訳ありませんが、(義母)様を個室に移したいのですが」
ーーまさか、急変?
背筋がザワっとした。
「他の患者さんのお世話をしてしまうんです」
どういうこと?
義母が入院しているのは、集中治療室。
比較的軽症の4人部屋に入院していた。
病状が安定してきたとはいえ、勝手に動くだけでも危険なのに、
他の患者さんのお世話を始めたと。
私は、脱力してその場にへたりこんだ。
ーー何やってんの、お義母さん。
看護師さんに平謝りして、個室への移動をお願いした。
その日の仕事終わりに面会に行くと、義母は施錠できる個室にいた。
状況把握ができていないのか、全くそのことに触れない義母。
それどころか「あの廊下の隅に、夜になると男の人が立ってるんだよ」と
怯えている。
「何か心配なことがあったら、看護師さんに相談するんだよ」と伝え、
面会を終えた。
義母は、病状が安定し2週間後に家に戻ってきた。
ところが、一難去って、また一難。
初めての介護申請
今後は専門の人の支援が必要になると考え、介護申請のために役所へ行った。
手続きを済ませると、役所の人から
「この中から、ケアマネジャーのいる事業所を選んでください。」
と、パンフレットを渡された。
え?
自分で探すの?
役所の人が見つけてくれるのかと思ってた。
ズラーっと並ぶ事業所名を見ても、よくわからない。
ふと目に止まった「地域包括支援センター」に電話すると、
居宅支援介護事業所を紹介してくれた。
申し込み、契約までスムーズにいき、義母の介護度を決めるための認定調査が行われた。
1ヶ月くらいたって、要介護2と判定。
さて、ここからがまた大変。
ケアマネジャーと相談し、デイサービスを利用する方向になった。
ところが、義母が嫌がった。
これまで何も言わず協力していた義父までも、首を縦に振らない。
なぜか。
「施設なんて、姥捨山みたいなもんだ」
という考えを強く持っていたから。
施設がどんなものかを口で言ってわかってもらうのは難しい。
否定的な意見を持っているならなおさら。
こうなったらーー。
百聞は一見にしかずの施設見学
「じゃあ、どんなところか一度見に行ってみない?嫌ならやめればいいんだしさ」
私の提案に二人とも渋々ながら応じてくれ、3人での施設見学が実現した。
実は、義父母と出かけることは、今までほとんどなかった。
義父母と初めての外出が、施設見学。
施設に向かう車内は、いろんな意味で緊張感が漂っていた。
施設の職員さんから説明を受け、デイサービスの利用者さんや施設内の様子を見た義父母の印象は、割と好感触だった。特に義母は、同年代の女性のご利用者が多かったせいか「話し相手ができる」と利用に前向きになった。
帰りは行きとは違い、明るい雰囲気の車内。
二人の承諾を得て、デイサービスを週2回利用することになった。
ここでまた義母は、予想外の行動に出た。
180度転換の理由
デイサービス利用初日。
私は不安な思いで仕事に向かった。
ドタキャンしたり、帰ってきてから「楽しくないから行かない」とか
言わないだろうか。
でも、それは杞憂に終わった。
義母は、歓迎されとても楽しかったようだ。
ちょうど義母の誕生月で素敵なバースデイカードをもらってきていた。
初日からこんなにしてもらえるところでよかった。
利用を初めてしばらくたったある日。
仕事から帰宅し玄関を開けると、玄関の上がりかまちに座っている義母。
靴を履いて、デイサービス用のバッグを手にしていた。
今日はデイサービスの日ではなく、今は午後3時半。
訳がわからず、義母に「どうしたの?」と聞くと、黙っている。
首を傾げる私に義父が
「朝からそこでずっと、迎えを待っているんだよ」と困り顔。
ーーえ?
「お義母さん、今日はデイサービスの日じゃないから、お部屋に戻ろう」
私の促しに、義母は応じてくれた。
なんでだろう。曜日がわからなくなったのかな。
でもこれが、何回か続いた。
義父の言うことは聞かず、ずっと玄関でデイの送迎車を待つ義母。
利用前はあんなに嫌がっていたのに、こんなに好きになったのはなんで?
謎は義母の死後、ようやく解けた。
義母が亡くなって数年後、私は縁あって系列の施設で働くことになった。
デイサービスのスタッフさんと話す機会があり、「実は数年前、義母がそちらでお世話になってたんです。」と義母の名前を伝えると、そのスタッフさんが目を見開いた。
「あぁー、あの人だ。
ほらあの、⚪︎⚪︎さんのことが大好きだった人ですね」
⚪︎⚪︎さんとは、デイサービスのリーダー的存在の男性スタッフのことで、
明るくて気さくなその人が義母のお気に入りだったそうだ。
そういうことか。
今でいう「推し」に会いに、義母はデイサービスに通っていた。
そりゃ、楽しいし毎日行きたくなるなぁ。わかる。
義母に理由を聞いていたら、義母は答えてくれただろうか。
ーーでもこの後、楽しいデイサービスに通えなくなってしまう。
夫、異変に気付く
夫はその日、有給休暇だった。
夫は朝の出勤準備をしていた私のところに来て言った。
「なんか、お袋が薬が飲み込めないんだって」
ーーえ?急にどうしたんだろう。
今までなかったその状況に、私は首を傾げた。
義母のところに行くと、特に他に様子が変わっている様子はなく、
血圧も問題ない。話し方も手足の動きも異常はない。
ただ、飲み込めない。
そこだけが引っかかる。
悩んでいるうちに時間が過ぎていく。
娘の幼稚園送迎と出勤時間が近づき焦りが出てきた私を見て、夫が
「俺がやるよ」
と言ってくれたので、夫にお願いして私と娘は家を出た。
職場に着いて夫に電話すると
「今から救急車で病院に行くことになった。俺が行くから大丈夫」
と心強い返事があり、夫に頼ることにした。
結果は、脳梗塞。
入院先は、かかりつけ医のSSセンター集中治療室。
夫は「そういう症状があったら、すぐ救急に連絡くださっていいんですよって言われたよ」と話してくれた。
この時に夫がいてくれて、よかった。
家族で、詐欺を疑う
義母が入院して数日後、義母宛に荷物が届いた。
中身はオールインワンの化粧品。
義母はネットはもちろん、テレビ通販にも興味はない。
もしかして、いわゆる「押し買い」では?
居間に緊張が走った。
まずは義母に確認した方が。
心配させないような言い方をあれこれ考えながら、
面会の時に実物を持参し、義母には何かのついでを装い確認すると
「あぁそれ、買ったよ」との返事。
よかった。
「じゃあ、退院の時に使えるように、カバンに入れておこうね」
と、しまった。
再び、病院からの電話
さらに数日後、仕事中の私に病院から電話があった。
「(義母)様を、個室に移動したいのですが」
今度はなんだ。身構える私。
「病棟から抜け出そうとされたんです」
「えっ?」
思わず声が出た。
ーーお義母さん、いったい何をやってるの!
電話口だけど平身低頭の謝罪を繰り返し、
鍵付きの個室移動をお願いした。
面会に行くと、義母は広めの個室のベッドでポツンと座っていた。
自業自得とはいえ、会話する時間もほとんどなくなり、
壁にもたれてドアから見える景色をボーッと見て過ごしていた。
今度は、何か気分転換になるようなものを持ってこようかな。
しょんぼりしている義母に、ちょっとでも元気になってもらえたらと
次の面会時に持って行ったのは、
義母の思い出が詰まったアルバムと
デイサービスでもらった塗り絵と、色鉛筆。
義父と、夏休み中の当時小4の娘もつれていった。
病室に入ると、こちらを見る義母。
娘を見ると笑顔になるけど、元気がない。
「ほらお義母さん、アルバム持ってきたよ。」と明るく声をかけ、
ページをめくった。
白黒の写真の、若い頃の義父母。
子供の頃の夫と、夫の弟、親戚もみんな写っている。
義父は静かに義母に寄り添って一緒に写真を見ていた。
穏やかな義母の表情を見たのは、それが最後だった。
急変
その夜病院から、義母の急変を告げる電話があった。
義父と娘を起こし、急いで着替えて私の運転で3人で病院へ。
夫は夜遅く終わる仕事の日で、すぐに電話した。
病室へ行くと、点滴と膀胱留置カテーテルを入れられた義母がベッドに横たわっていた。
声をかけると「はーい」と弱々しく返事をしますが、目が開かない。
この数時間で一体何が起こったの?
別室で医師より状態説明があり、頭部CTの写真から、私でもひと目でかなり危険な状態とわかった。
「出血性脳梗塞です。夕食の後に急に意識を失いました。
この状態ですと意識が戻らず、あと1週間くらいでしょう。」
頭が真っ白になった。
とりあえず、上司に電話だ。
このくらいしか思いつかなかった。
夜で申し訳なかったけど、看護師の上司に電話で義母の病状説明と
CTの結果を話すと、「仕事のことは気にしないで、お義母様のことをしてあげて。」と言ってくださった。
夫が病院で合流することになり、薄暗くて静かなロビーで待っていると、夫が息を切らして走ってきた。
その後、夫に対し先生から改めて病状説明がされ、ロビーに戻ってきた夫が言った。
「延命処置はどこまでする?って聞かれた」
延命処置とは、人工呼吸器や経管栄養(胃ろうなど)での栄養補給、酸素や点滴などの「命を繋ぐための処置」のこと。
夫と義父は顔を見合わせていましたが、すぐに結論は出なかった。
私は嫁で、「こうした方がいい」と先頭に立って言える立場ではない。
これは義弟(夫の弟)も交えてする話だ。
夫は義弟と電話で話し合い、結局「点滴と酸素までを希望」という結論に
達した。
ここから、交代で義母の病室に詰める日々が始まった。
物言わぬ義母と過ごす病室
義母が昏睡状態に入ってから、我が家と義弟一家で交代で面会に行き、病室で過ごす時間が増えた。
夏休みだったこともあり、子供連れでの面会となった。子供達が飽きないように、話しながら鶴を折ったりして過ごした。時々義母に声をかけましたが、返事はなかった。ただ、身動きもせず横たわり呼吸を続けている状態だった。
私たちの声が聞こえているといいな。寂しくないといいな。
状態は大きく変化はなく、夜は家に戻った。緊急時に備え、パジャマではなく綿のワンピースなどで寝ました。疲れいたけど浅い眠りの日々が続いた。
医師が示した1週間は超え、2週間も超えた。義母は大きな変化もなく深い眠りについたままだった。医師が「心臓の強い方ですね」と驚いていた。
でも確実に、お別れの時が近づいている。
面会の合間に、夫は葬儀社との契約をした。
その後義母の状態はゆっくり変化し、モニターが示す心拍数が徐々に少なくなっていった。
夫と義父が、夜も病院に泊まることになった。
娘と家に帰った私は、落ち着かない気持ちのまま床に就きました。
旅立ち
明け方、携帯のマナーモードで目が覚めて、寝ていたことに気づき
止めようとしてハッとした。
違う、目覚ましじゃない、電話だ。
夫からだった。
「心拍数がだいぶ落ちてきたから、こっちに来てくれる?」
娘を起こして、そばに置いていたバッグを掴んで玄関に向かったが、寝起きだし安全運転できる冷静さはなかった。
タクシー会社の電話口の方が手続きに戸惑っていて、心の中で「こんな時に」とイライラしている私がいた。
タクシーに娘と乗り込み、「どうか間に合って」と祈った。
病院のロビーの隅で声を押し殺して泣く義弟が目に入り、
間に合わなかったことを悟った。
ーー実は病室に入ってからの一部の記憶が、私にはない。
24歳になった娘にこの時の様子を覚えているか、先日聞いた。
「病室に入ったら、お父さんがばあばに向かって手を合わせてた。
じいじは泣いてた。看護師さんがお母さんに『お嫁さんが看護師だって
自慢していましたよ』って話してて、お母さんがそうですかって泣いてた」
娘は受け止めきれていなかったのか、泣きはせず呆然としていたようでしたが、その光景ははっきりと彼女の記憶に刻まれていた。
私は、一番覚えておきたい場面を忘れていたことに驚いた。
私は義母の死化粧をさせていただいた。
そうだ、あれを使おう。
あの、オールインワン化粧品。
退院したら使おうって、カバンに入れたもの。
義母に「お義母さん、ほら使ってみようよ。」と話しかけながら、白いけどまだほんのり温かい顔に優しく馴染ませた。
化粧を終え、夫や義弟が「いいんじゃない?」という仕上がりになった。
義母は喜んでくれているだろうか。
義母の死後、ずっと思っていることがある。
義母の死に立ち会えたのは、義父と夫と義弟の3人。
もしかしたら、家族水入らずの時を義母は選んだのではないか。
感情表現が上手ではない義母だったが、1回目の脳出血の後、義母が泣きながら私に言ってくれた。
「あなたがいなかったら、どうなっていたかわからない」
私だけがもらった言葉。
今でも心の中にしまってある。
こうして、6年に渡る初めての介護は終わった。