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産めない私の母の日 ー16歳で白血病になった私が娘と出会うまで

    少し遅い母の日

    「ママ―!」

    幼稚園から帰ってきた娘が
    元気よくリビングの扉を開けて入ってくる。

    共働き夫婦。
    娘の送り迎えは夫の担当だ。
    私は夕食を作りながら、日中仕事で出来ていない家事をこなす。
    そこに娘の元気な声が響くのが、いつもの愛おしい日常。

    が、その日は少しだけ娘の様子が違った。

    なんだかもじもじしながら、
    ビニール袋を私に差し出してくる。

    帰り道でパパにおやつでも買ってもらったかな?
    そう思いながら中身を覗くと、
    なんとも可愛らしい小さなお花のブーケが入っていた。

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    「…え?ええ?!ええーーー!!ありがとう!!」

    そういえば、数日前が母の日だった。
    幼稚園で描いた私の似顔絵を
    先週プレゼントしてもらったばかりだ。

    だけど、この小さなブーケは
    娘が私のために「これにする」と自ら選んで買ってくれたものだという。

    ちょっと遅い、母の日のお花。

    娘のはにかんだ笑顔に、
    私も嬉しさが溢れてしまう。

    ――あぁ、そうか。私はこの子のママなんだ。

    母の日に娘から花をもらう。
    20年前の私が聞いたら、きっと信じなかっただろう。

    そんな未来が、自分に訪れるなんて。

    無菌室で過ごした青春

    「君の病気は急性骨髄性白血病です」

    そう病室で聞かされたのは16歳のとき。
    高校2年生に進級したばかりだった。
    告知された日のことは、20年以上経った今でもリアルに覚えている。

    まさに青天の霹靂。
    「なにも悪いことしてないのに!」と叫びながら母に抱きついて泣いた。

    白血病はガンの中でも治療期間が長い病気だ。
    私は治療のために高校を休学し、
    無菌室の中で半年間、抗がん剤治療を受けた。

    副作用はしんどかったし、
    髪が抜けてつるっ禿げになってしまったのは悲しかった。
    けれど休学したことで、昨日まで一緒に笑い合っていた友達と
    同じ日に卒業することができなくなってしまったことの方が、
    私には何倍も辛かった。

    当時の私は自分に見えているものが世界の全てで、
    先の人生のことなど考えることもなく、
    目の前のことだけを見ていた。

    だから自分が死ぬかもしれないなんて考えなかったし、
    白血病や、その治療について多少勉強はしたものの、
    退院した後の生活がどうなるかなんて全く考えてなかった。

    治療が終われば、
    また当たり前のように元通りの生活に戻れると、
    信じて疑わなかった。

    再発

    長い治療が終わり、無事に寛解。

    闘病生活を経て、
    将来は医療の臨床現場に関わる仕事がしたいと考えるようになった私は
    二回目の高校2年生に張り切っていた。

    「留年した自分を、周りは普通に受け入れてくれるだろうか…」

    不安はもちろん大きかったが、
    それよりも早く元の同級生たちに追いつきたい、
    遅れた分を取り戻したいという気持ちの方が勝っていた。

    だけど…神様は残酷だ。

    ある日の学校帰り。
    「前から食べたいと言っていたタルトを買いに行こう」
    携帯に母からのメール。
    しかも、スクールバスの降り場まで車で迎えに行くという。
    何か特別な日でも無いのに。

    おかしい。胸がざわざわする。

    ケーキ屋さんのショーケースには、母の日が近かったからだろう、
    カーネーションに見立てたピンクのクリームが
    たっぷりと乗ったタルトが並んでいる。

    せっかくだからとそのタルトを買い、
    店員さんから受け取った白い箱を、
    少しウキウキした気持ちで見つめながら母の車に乗る。
    自宅に向かう静かな車内で母が口を開いた。

    「…病気がね、再発したんだって」

    声色から、母が涙を堪えていることが分かる。

    ……やっぱりね、おかしいと思ったんだよ。
    せっかく髪もショートカットくらいまで伸びてきたのにな。

    帰宅すると、「なんで、この子ばっかりが」と言いながら
    おばあちゃんが崩れるように泣いていた。

    おばあちゃん…、泣きたいのはこっちだよ。

    この日は私も母も、声を上げずに静かに泣いた。
    そしてまた、あの無菌室へと戻った。

    骨髄移植。あの日、聞き流した言葉

    私が聞かされていなかっただけで、
    家族は主治医から再発の可能性は50%ほどあると言われていたらしい。

    再発してしまったことをふまえ、
    今回は化学療法だけでなく、骨髄移植も行うことになった。

    弟とはHLA(白血球の型)が合わず、ドナーは骨髄バンクに頼ることに。
    幸いにも早々にドナーとなってくれる方が見つかり、
    再入院から約4か月後、移植認定病院へ転院して移植に臨んだ。

    移植に向けた準備が進む中で
    医師がちょっと深刻そうな顔で説明してくれたことがある。
    それは、移植に伴う大量の抗がん剤治療等により
    「不妊」になるということ。

    卵子保存という手もあるが、
    今の身体の状態では出血リスクもあり難しいと言われた。

    なんだ、そんなことか。
    「不妊」になるらしいということは事前に調べて知っていたし、
    大人になってからお金を貯めて不妊治療すればいいだけの話だ。
    多少苦労はするかもしれないが、そうすれば子どもは授かれる。

    家族も「子どもを産めることよりも今は命の方が大事だから」
    と言っていた。まぁ、そうだよね。命に代わるものは無いもん。

    実はこの時、私は盛大な勘違いをしていた。

    でも、その勘違いに誰も気づいていなかった。

    私も、気づいていなかった。

    その後も移植に向けた治療は進み、
    無事、移植も成功。

    移植後の慢性GVHD(移植片対宿主病)とは一生の付き合いになったし、
    初発で退院したときのように
    スムーズに日常に戻ることもできなかったけれど、
    高校にも復学し、少しずつ闘病生活を過去のものにしていった。

    そして移植以来、生理は全くこなくなった。

    私だけが知らなかった真実。絶望と怒り

    社会人になり、
    私は自分の闘病経験を何かに活かせないかと考えていた。

    ネットで検索すると、
    地元で血液疾患患者の支援と骨髄バンクの普及啓発活動をしている
    NPO法人にヒット。
    早速、連絡を取りボランティア登録をした。

    そこで紹介された患者会で私は真実を知ることになる。

    治療により妊孕性を失っている私は、
    不妊治療をしても、子どもを授かれる可能性は、
    限りなくゼロであることを。

    嘘だ。そんな馬鹿な。

    愕然とした。
    だって先生は「不妊」になるとしか言わなかったじゃないか。
    不妊治療してもダメだなんて聞いてない。

    私は絶望と怒りに震えながら
    「本当に1%も可能性は無いのか」ともがいた。

    血液内科、婦人科、有名な不妊クリニック

    いくつもの病院を回ったが、
    いずれの医師からも返ってくる答えは「No」

    諦めの悪い私の態度に、めんどくさい奴だと思ったのだろう。

    「結婚のご予定でもあるんですか?」

    ある婦人科の女医から言われた、
    冷たい言葉に何かがプツリと切れ、
    私はもう、医者にすがるのをやめた。

    理解あるパートナーとの出会い

    夫とは、学生の頃に始めた趣味を通じて出会った。

    私のボランティア活動を手伝ってもらう機会があり、
    それを機に交際をスタート。

    自分の闘病経験や子どもが産めない身体であることも話した。
    彼は驚くでも同情するでもなく、
    「あ、そうなんだ~」くらいの軽いテンションで受け止めた。
    私のことを、可哀そうな特別な人とは1ミリも思っていないようだ。

    実は過去に、闘病歴を知らない友人に
    思い切って打ち明けたら「重いよ」と言われて撃沈したことがある。
    「かわいそう」と同情されたり、
    なんて返せばいいのかと相手を戸惑わせてしまったりすることも多かった。

    だから、彼が放ってくれたそのフラットな空気感は、
    私にとってどれほど救いだったか分からない。
    彼と一緒にいるのはとても楽だった。

    そのうち結婚したいなと思うようになったけれど、
    現実の壁が脳裏をよぎる。
    彼は田舎の長男で、私は子どもを産めない。

    母親からは暗に結婚は諦めろと言われ、
    彼も未来の話はあまりしたがらなかった。

    きっと、私が産めないからだ。

    不妊を理由に破談になった患者さんの話を思い出す。
    勝手に悲しい未来を想像して辛くなる。

    少し乱暴な言い方かもしれないが、
    産めないことが先にわかるか、後にわかるかだけの違いなのに
    なぜこんなにも悩まなくてはいけないのか。

    ひとりで勝手に憤って、落ち込んで、泣いて。
    いま振り返るとあの時期は感情の起伏がとんでもなく忙しかった。

    だからこそ、彼からプロポーズされたときは喜びが爆発しすぎて、
    「結婚してください」と彼が言い終わる前に
    「はい!」と食い気味に返事をしてしまった。
    嬉しくて、翌日には速攻でゼクシィを買いに走った。

    私のすべてを知ったうえで「守る」と言ってくれた彼の言葉が、
    とてつもなく嬉しかった。

    患者仲間がママになった!

    結婚生活がはじまると
    夫婦ふたりの生活も案外悪くない。

    思い立って弾丸旅行をしたり、
    夜中のドライブに出かけておしゃれなバーで飲んだり。
    とにかく自由で身軽だ。
    夫と過ごす毎日は本当に楽しかった。

    でも、心の底にある澱は消えてくれない。

    職場の同僚の妊娠、
    SNSに投稿される友人の出産報告、
    どうしても心から喜んであげられない自分がいる。

    友人が赤ちゃんのエコー写真を投稿しているのを見たときには、
    胸が苦しすぎて本気で吐きそうになった。

    「産めない自分」に対する暗い想いは、
    幸せな結婚をしても変わらず、
    歳を重ねるごとに増えていく周囲のおめでた報告に、
    私の心はどんどんすり減っていった。

    そんな時だ、患者会で知り合ったOちゃんがママになったと聞いたのは。

    Oちゃんは同じ市内に住んでいて、
    私と同じく血液疾患の治療の影響で不妊状態となった仲間だった。

    その彼女がママになった!
    特別養子縁組で、赤ちゃんを迎えたというのだ。

    驚いた。そして、それ以上に嬉しかった。

    患者仲間がママになった、という事実は、
    長いあいだ閉ざされたままだった扉を、そっと開いてくれた。

    子どもを産めないという現実は変わらない。
    それでも、「母になる」という未来まで失われたわけではなかったのだ。

    暗いトンネルの先に、小さな光が見えた気がした。

    里親登録。命の鎖をつなぐために

    「特別養子縁組」という言葉は知っていたし、
    自分が親になれる可能性としてなんとなく考えてもいた。
    でも結婚して、二人の生活も悪くないかぁと思ってるうちに
    具体的な行動に出ようという気持ちは薄くなっていた。

    それが、こんな身近に当事者が現れたのだから
    気持ちが再燃しないわけがない。

    Oちゃんに連絡を取ると、私は夢中で質問を重ねた。
    夫とも何度も話をしたのち、
    ついに私たち夫婦は、里親登録のために児童相談所の門を叩いた。

    私たち夫婦にとっては人生を変える大きな一歩。
    しかし、周囲のすべての人が賛同してくれたわけではなかった。
    一部の家族からは、激しい反対を受けた。

    「親になりたいのか、子育てという経験をしたいだけなのか分からない」 「大きくなってから、何か問題が起きたらどうするんだ」

    そんなの悪魔の証明だ。

    “普通に産める人”には絶対にぶつけないであろう言葉を
    “産めない私”には容赦なくぶつけてくる。
    怒りと悲しみ、悔しさで震える私に、夫が静かに、力強く言ってくれた。 「僕たちの態度で証明していくしかないよ」
    その言葉が、私に前を向く勇気をくれた。

    半年にわたる座学研修と施設実習を経て、無事に里親登録完了。
    私も誰かの親になれる権利を得たのだと、なんだか嬉しかった。

    登録後も、先輩里親さんの体験発表会に参加したり、
    座談会で色んなお話を聞かせてもらった。
    その中で、とても印象的な言葉がある。
    家族から反対された言葉を引きずっていると吐露した私に、
    ある先輩里親さんが優しくかけてくれた言葉だ。

    「育てていくってのはね、親からの鎖をつないでいくってことなんだよ」

    その瞬間、
    呪いのように私の頭にこびりついていた反対の言葉たちが、
    すっと消えていくのがわかった。

    親になりたいからとか、子育てがしたいからとか、
    誰かのため、自分のため、
    そういうことじゃないんだ。

    人間が何千年もやってきた
    「もらった命の鎖を、ただ次に繋ぐ」という営みなのだ。

    かつて10代の頃、
    骨髄移植で見ず知らずのドナーさんに命の鎖を繋いでもらった私には、
    これ以上ないほどしっくりくる、腑に落ちる言葉だった。

    児童相談所から、私の携帯に突然の電話がかかってきたのは、
    それから半年後のことだった。

    産まずに母になった日

    3年前のある日、私と夫は落ち着かない気持ちで車を走らせていた。

    今日、私たちはパパとママになる。

    児童相談所から、委託の打診があったのはつい2週間前のことだ。
    間もなく生まれる赤ちゃんをお願いしたい、と。
    そこからはバタバタと必要な準備を整え、
    とにかく実母さんの安産だけを祈って過ごした。

    出産後、児童相談所との面談で
    実母さんが「里親さんはどんな方ですか?」と尋ねたという。

    自分がお腹を痛めて産んだ子の人生を託す相手なのだから当然だ。
    そう思うと同時に、20年前の骨髄移植のあと
    私もドナーさんはどんな人なんだろうと考えたことを思い出した。

    ドナーさんが繋いでくれた、私の命の鎖。
    実母さんが私たちに託してくれた、娘の命の鎖。
    そして、私を育ててくれた自分の母からの鎖。

    それらを全部抱きしめて、私が次の未来へと繋いでいく。
    その想いを残したくて、
    娘の名前には、実母さんのお名前から一文字をいただいた。

    産院に着き、個室に通されたあと、職員さんと共に娘の待つ病室へ向かう。
    小さなベッドで眠る、生後5日目の本当に小さな小さな命。
    私は緊張しながら、その小さな命に声をかけた。


    「はじめまして」

    命の鎖は続いていく

    「ママは赤色でー、Sちゃんはピンクなんだよ!」

    娘は私の分だけでなく、
    自分用にもミニブーケを買ってもらったようで、
    嬉しそうに並べて見せてくれる。

    「一緒に写真を撮ろう!」と誘うと、
    娘は口をにーっと横に大きく開いて、
    パパの構えるカメラに向かってピースサインを作った。
    ピースをするときに、ちょっと首を傾げてしまうところが私にそっくり。
    私たちは毎日一緒に笑って、こうして似たもの親子になっていく。

    “Thank you Mother”と書かれた市販のカードの裏には、
    3歳の娘が一生懸命に筆を動かしたであろう、
    文字とも絵とも判断がつかない線がいっぱい走っている。
    他人から見ればただの落書きかもしれない。
    けれど私にとっては、どんな高価な宝石よりも価値のある、
    世界に一つだけの娘からのラブレターだ。

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    なんて書いてあるのかはわからないけど宝物

    娘とはじめて病院で会ったあの日、
    ちゃんとこの小さな命を育てていけるのか不安で、
    私は心の中でしか「ママだよ」と言えなかった。

    だけど今は違う。

    娘と過ごした3年間は、
    想像していたよりずっと泥臭くて、慌ただしくて、大変だった。
    それでも、その毎日はかけがえのない宝物になった。

    母の日にもらった小さな花束。
    読めない文字でいっぱいのカード。
    そして、何の迷いもなく私を呼ぶ「ママ」の声。

    だから、自信を持って言える。

    世界中の誰に対しても。

    そして何より自分自身に対して。


    私はこの子のママだ。

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