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Photo byishi99

知識は消える。でも教育は残る。

    授業に「1時間5000円」の価値があるのか?

    学習塾でアルバイトをしていると、ふと残酷な現実に直面することがある。

    自分の時給は1,300円程度だが、目の前の生徒(保護者)は、この1時間の授業に対して5000円近い対価を支払っているという事実だ。その差額に気づいた時、真面目な講師ほどこう自問自答するのではないだろうか。

    「果たして自分の授業には、本当に5000円の価値があるのだろうか?」

    今の時代、知識の伝達はAIで代替可能

    もし「知識を授けること」だけが教育だとするなら、その価値は極めて怪しい。わかりやすい解説なら1,500円の参考書を買って読めば事足りるし、今の時代、ChatGPTやGeminiなどのAIに尋ねれば、無料で、しかも瞬時に精度の高い答えが返ってくる。「知識の伝達」だけなら、人間でなくても、本やYouTube、最新のAIが代わりにできるだろう。

    だとすれば、生徒側が支払っている「1時間5000円」というお金は、一体何に対する対価なのだろうか。

    短期的な目線で言えば、「受験に合格するため」「塾の環境のもとで良い先生に勉強のペースメイクをしてもらうため」という答えになるだろう。しかし今回は、教育論という一段深い視座から、この対価の正体について考えてみたい。

    アインシュタインの思う「教育」とは

    ドイツの理論物理学者アルベルト・アインシュタインが残した(とされる)有名な言葉がある。

    「教育とは、学校で学んだことを一切忘れてしまった後に、なお残っているもの。」

    Albert Einstein

    教壇に立つ者なら、この言葉にハッとさせられるのではないだろうか。

    表面的に見れば、塾や学校で行われているのは「学習指導要領に準拠した内容の伝達」であり、「志望校に合格するための知識や解法テクニックの指導」である。

    誤解のないように申し添えておくが、私は決して知識の伝達そのものを軽視しているわけではない。確固たる基礎知識がなければ、専門的な内容を考えるための「道具」を持たないことになり、自ら思考することすら不可能になってしまう。正確な知識の習得は、論理的な思考力や豊かな表現力を育むための強靭な土台として不可欠である。

    しかし、それはあくまで教育という営みに必要な一要素に過ぎない。知識の伝達だけに終始してしまえば、いずれその価値はAIに飲み込まれてしまう。私たちが黒板の前に立ち、数式を通じて本当に手渡そうとしているものは、単なる情報の羅列ではないはずだ。

    勉強という体験をいかにデザインするか

    私が考える本当の教育の価値とは、「生徒たちが自ら深く学び、より多くのことを吸収するためには、どのような動機付けが必要か」をゼロから考え、実行すること。そしてその体験を通して、生徒自身に「自分の思う人生を自主的にデザインしていく力」を身につけさせることである。

    塾講師をやっていて思うことは、生徒に科目の専門的内容を正しくかつわかりやすく教えることは非常に大事なのだが、生徒にそもそも勉強をどう進めるのが良いのかという勉強法を教えたり、動機付けを与えることは、それと同等に大事だということだ。

    たとえば、ただ黒板や紙に数式を書いて解説するだけの授業を抜け出し、関数の形を直感的に掴ませるために自作の「グラフかるた」というゲームに挑戦してみる。グラフがかかれたカードが机の上にあって、読まれた数式からグラフを取る。グラフを頭の中で描くとき、数式のどこに着目して、選択肢を絞っていくのか、普段の数学の問題集とは全く違った頭の使い方をするのである。

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    数研出版「グラフかるた」

    あるいは数ヶ月に1度、範囲を定めた「大テスト」を企画し、生徒が仲間と切磋琢磨しながら勉強し、共に成長する場を創り出す。

    これらは単なる知識の伝達ではない。基礎知識という道具を与えた上で、生徒たちを巻き込み、何かに没頭する楽しさや、目標への正しいアプローチ(勉強法)を感覚的に身に着けさせるための、いわば勉強という体験のデザインなのである。

    そして重要なのは、このような体験は、決して小手先の指導テクニックからは生まれないということだ。「どうすれば目の前の生徒の心に火をつけられるのか?」は、生徒によって千差万別だ。だから、上に書いたことは単なる自分のやった一例にすぎないのであって、模範解答など存在しないし、その場で工夫して考えていく必要がある。だからこそ、モチベーションの上げ方に教師が悩み、生徒に合った指導法を自ら創り出していく過程には、教師自身の人間性が色濃く反映される。

    体験をデザインして生徒に共有するという行為は、教師がどういうスタンスで他者や学問に向き合っているかという生き様の露呈に他ならないのである。

    信頼なしに「行間の教育」は育たない

    ここで一つ大きな誤解を解いておかなければならない。教師の人間性や思考のスタンスといったものは、たった1回(1時間)の授業で魔法のように伝わることは絶対にないのである。

    教育には「行間」がある。直接は語られないけれど、時間をかけた関わりの中で生徒がいつの間にか受け取っていくものが存在する。思考のスタンス、物事への向き合い方、壁にぶつかったときの粘り強さ、などである。そういうものは、授業のカリキュラムやシラバスには一行も書かれていない。

    この「行間の教育」が生徒の心に届くためには、大前提として強固な信頼関係が必要不可欠である。毎週顔を合わせ、生徒が分からない問題に向き合い、共にウンウンと唸りながら、時には他愛のない雑談で笑い合う。そうした何気ない時間の蓄積を通して初めて、生徒は「あ、この先生はこういう人なんだな」「こういうことを言わんとしているんだな」と、大人の言いたいことの本質を徐々に理解していく。教育における真の価値とは、点滴のように少しずつ、時間をかけて生徒の内面へと浸透していくものなのだ。

    さらに言えば、授業に込められたメッセージの本当の価値は、教わったその瞬間にすべて理解されるとは限らない。その場では何気なく受け流していた言葉や振る舞いが、数年後に生徒自身が様々な壁にぶつかり、人生の経験を積んだある日、ふと「ああ、あの時あの人が言わんとしていたのは、こういうことだったのか」と、鮮やかな実感を伴って点と点が繋がる瞬間が訪れることもある。教育とはある意味、土に種をまく行為に似ているかもしれない。すぐには成果がわからなくとも、長い時間を超えて遅れて実ってくることも多い。

    授業は生涯を支える投資に成り得る

    だからこそ、月に数万円といった決して安くない月謝を払い、同じ先生のもとへ継続して通うことには、受験のための知識を得る以上の意味があるように思うのだ。

    生徒が支払っているのは、単なる「知識のダウンロード代」ではない。生身の人間である教師と信頼関係を築き、その背中から無意識のうちに、人生で何か決断をするときに必要となる「思考のOS」や「自分の人生をデザインする力」を身に着けていくための、時間と共有空間に対する投資ではないだろうか。

    残酷な事実として、受験を突破するために詰め込んだ知識の大半は、数年も経てば記憶の彼方へと消え去ってしまうだろう。複雑な積分計算の方法や、徳川第n代将軍の業績といった、受験勉強で培った知識を大人になってからも説明できる人はごく僅かなように思う。試しに誰か東京駅でインタビューでもしてみてほしい。多分数%程度だと思う。

    しかし、生徒の頭から知識が抜けさってしまった後にも、決して消えずに残り続けるものがある。「授業や雑談を通して気がつけば本質を理解していた感動の感覚」、「自分たちを信頼し、本気で向き合ってくれた先生の姿」。あなたの思い出に残っている先生は誰ですか、どんな先生でしたか?と問えば、多くの大人は答えてくれるように思う。

    仮に、1年間塾に通い続けて数十万円かかったとしても、その後の人生が80年(約30,000日)続くとすれば、日割りにすれば1日あたりわずか数円の計算になる。改めてそう気づくと、少し驚く。今後80年続いていく人生を自主的に切り拓いていくための羅針盤が、学生時代の投資(日割りで1日数円程度)で手に入るとしたら、、、授業の価値は5000円どころの話ではない、ということだ。

    知識は消える。でも教育は残る。

    AIが数秒で答えを出す時代に、私たちが時間をかけて築き上げた信頼関係の先に、人間が教育を通して人間に何か大事な考え方やスタンスを残すことができたとしたら。

    それこそが、教育の本当の価値なのではないだろうか。そしてこの仕事は、人間にしかできないであろう。

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