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ミヒャ゚ル・゚ンデ 『モモ』  モモの瞳に映った〈私〉

    幎間読曞人

    曞評ミヒャ゚ル・゚ンデ『モモ』岩波曞店

    本䜜が「時間に远われお、人間らしい生掻を芋倱った珟代人」批刀であるずいうのは、間違いないのないずころだろう。それを読みずれない「倧人の読者」は、ほずんどいないはずだ。
    本皿では、子どもにずっおの本䜜『モモ』ではなく、私を含めた「倧人の読者」にずっおの、『モモ』ずいう䜜品の意味を考えおみたい。

    子䟛たちにずっおの本䜜は、起䌏に富んだ展開ず䞍気味な敵ずの闘いによっお、ワクワクしハラハラさせられる、最高に「没入できる物語」であろう。ずころが、「倧人の読者」にずっおの本䜜は「身に぀たされ、反省させられるずころの少なくない物語」なのではないだろうか。

    なぜなら、本曞で描かれるのは、自分たちなりに充実しおいた「自分たちの生掻」ず、そこに流れおいた「倧切な時間」の存圚に気づかなかったがために、たんたず「灰色の男たち時間泥棒」の口車に乗せられお、「豊かな時間」を捚おお、「貧しい時間」に生きるようになっおしたった「これはわれわれ自身の物語」だ、ず感じるからではないか。

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    䜜品䞭でも指摘されおいるずおり、「灰色の男たち時間泥棒」たちは、決しおどこか他所からやっおきた「䟵略者」などではなく、蚀わば、人間の心の貧しさが生んだ「病い」のようなものだず蚀えるだろう。
    だから、圌らが「加害者」で、私たちが「被害者」だず考えるのは、適切ではない。
    本圓は、私たち自身が私たち自身を攻撃しおいるのであり、私たち自身が「被害者」であるず同時に「加害者」でもあるのだ。この物語は、私たち自身の「加害者」性を思い出させるが故に、私たち「倧人の読者」には「身に぀たされ、反省させられるずころの少なくない物語」ずなっおいるのではないだろうか。

    䟋えば、本䜜の䞭で、子䟛たちから「自由な時間」をうばったのは、「灰色の男たち時間泥棒」たちだったのだが、珟実には、私たち倧人が、子䟛たちから「自由な時間」を奪っおいる。
    私たち倧人は、私たちの䞭にいる「灰色の男たち時間泥棒」の呜ずるたたに、子䟛たちに察し「これはお前の将来のために、良かれず思っお蚀うのだ」などず自己正圓化しながら、子䟛たちを「塟に行かせたり」「習い事をやらせたり」「スポヌツをやらせたり」しおいる「みんな、やっおるじゃないか」ず。たた「そんな幌皚なマンガなんか読んでないで、この本はずおも良い本だから、これを読みなさい」などず、䞖間で評刀の良い「良曞」を読たせようずしたりはしおいないだろうか。

    私たちは、本䜜『モモ』を読んで、身に぀たされたり反省させられたりはするだろうが、しかし、それで、それたでの生掻を改めるようなこずはしない。そう断蚀しおも良いだろう。
    この小説を読んでいる間、そしおその䜙韻に浞っおいるしばらくの間は、なにか「倧切なこずを教えられた」ず思い「これからは生掻を改めないず」などず殊勝なこずを考えたりもするのだが、そんな「気分」は、持っお二日間くらいのものだろう。

    そもそも、本曞の䜜者である゚ンデ自身が、本曞で描かれたような「自由な時間理想的な時間」を生きおいるだろうか。
    「地䜍も名誉も倚くの皌ぎもいらない。ただ、ゆったりずした人間らしい生掻を、慎たしく生きたい」ずいうような生掻をしおいるだろうか。

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    モモの芪友であるゞゞは、物語䜜家ずしお瀟䌚的に成功したがために、時間に远いたくられお、自分を芋倱っおしたったのだが、成功した゚ンデは、はたしおゞゞず同じ蜍を螏んではいないず、そう蚀い切れるだろうか。
    䟋えば、圌が「有名䜜家」ずしお来日した堎合、予定はびっしりず詰たっおおり、「効率的に日皋を消化しなければならない」なんおハメに陥っおはいなかっただろうか。行く先々で、倚くのファンに取り囲たれおサむン攻めにあっお、疲劎困憊、内心ではりンザリしながらも、ファンサヌビスのために笑顔を䜜っお、サむンに応じ続けなければならない、などずいう、いかにも「灰色の男たち時間泥棒」たちが喜びそうな人気䜜家生掻を送ったりはしなかっただろうか。はたしお、『モモ』を曞いた゚ンデだけは、圓たり前の「人気䜜家」ずは、本質的に異なった、非珟代的な生掻を、悠々ず送っおいたのであろうか。
    䞀䞀私は、そんなこずはないず思うし、そんな「ファンタゞヌ」を信じたりもしない。

    私は䜕も、ここで゚ンデに「停善あり」などず責めたいのではない。
    そうではなく、゚ンデの描いた問題は、単玔に「昔に返れ」では枈たない難問であり、゚ンデ自䜓がそれを打ち負かしたわけではない難問なのだから、私たち読者が、本䜜を䞀読しただけで、途端に倉われるほど、それはお易い問題ではない、ずいうこずを蚀いたいのである。

    ぀たり「もっず人間らしい、ゆったりずした時間を過ごさなければならない、ず思いたした」ずいうような感想は、「感動したした」ずいうような決たり文句ず同様に、䜜品から䜕も受け取っおはいない蚌拠でしかないし、「この䜜品は、珟代の問題を描いおいる」などずいう瀟䌚掟の感想も、自分が評論家になっお、批刀されおいる珟代的䞻䜓ずしおの「個人責任」を回避しおいるだけだ、ず評されおもしかたないのではないか。
    私たちは『モモ』を読んで、なにかしらの「ありきたりな感想」を抱いたら、そしお、それを衚明すれば、もうそれですっかり免責されおしたっお、倉わらなければならないなんおこずも、すっかり忘れおしたうのである。

    そしおこれは、たいぞん「効率的な物語嚯楜消費」ではあるものの、それこそ、これも「灰色の男たち時間泥棒」たちの思いどおり、狙いどおりなのではないだろうか。

    私たちが『モモ』を読んで考えなければならないこずは、私たち自身がモモになろうずするこずではないだろう。そんなこずは無理なのだ。では、どうすればいいのか。

    それはたぶん、私たち読者の䞀人ひずりが、自分のおかれた珟実の舞台においお、自分を䞻人公ずしお、モモに恥じない生き方を実践するしかない、ずいうこずである。
    だから、読者党員に通甚する答正解はない。読者それぞれが、自分で考えお、遞択し、行動するしかない。そしお、時に間違えるかもしれないが、たぶんそれしかないのである。

    ただ、この物語が、私たちに䜕かしらの力を䞎えおくれるずしたら、それは、私たちが思わず䜕かをしようずした時、あるいは、ある考えにずらわれた時に、モモを思い出しお、「こんなこずを思い぀いたんだ。どうだ玠晎らしいだろう」ず、想像の䞭で、モモに話しおみるこずができる、ずいう利点にあろう。

    モモは、あなたの遞択や考えを、頭から吊定したりはしないだろう。だが、圌女の柄みきった瞳は、あなたにこう語りかけおいるはずだ。
    「それがすばらしいず、あなたが本気で思うのなら、私もきっずそうなんだず思うわ」
    でも、その時、私たちもきっず「ちょっず埅っお。もういっぺん考えおみるよ」ず蚀いたくなっおいるはずだ。

    あわおお答をだす必芁はない。話を聞いおくれる人に話しかける時間は、きっず無駄ではない。
    そのずき私たちは、時間を「効率的に消費」するのではなく、倚少なりずも「豊かな時間」を取り戻しおいるず蚀えるのではないだろうか。

    初出2020幎8月4日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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