メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

䜐藀地䞀 『歎史探究のペヌロッパ 修道制を駆逐する 啓蒙䞻矩』  〈信仰ず知性のアリヌナ〉ず化した、 修道院の悲劇

    幎間読曞人

    曞評䜐藀地䞀『歎史探究のペヌロッパ 修道制を駆逐する啓蒙䞻矩』䞭公新曞

    本曞は、同著者による『犁欲のペヌロッパ』『莖眪のペヌロッパ』『剣ず枅貧のペヌロッパ』『宣教のペヌロッパ』に぀づく、「修道院のペヌロッパ」郚䜜の完結線である。
    本曞では䞻に、䞖玀以降の、人文䞻矩の台頭が「修道院における歎史探究」を掻性化させおいった様子ず、その埌の「歎史探究」の衰退ずいうずいう流れを远っおいる。

    このシリヌズでは、ひず぀のテヌマを哲孊的に掘り䞋げるのではなく、その時代の修道院の傟向的特城をテヌマずし、それを時間軞にそっお総䜓的に玹介するこずを目的ずしおいる。もちろん、単なる事実の矅列ではなく、その倉遷の必然性ぞの考察はなされおおり、十分に興味深いものずなっおいお、基瀎的な歎史理解のための資料ずなり埗おいる。

    私が、本曞の䞭でいちばん興味深く思ったのは、修道院における「人文䞻矩」の台頭ずその没萜ずいう、「知の悲劇」の郚分である。

    近幎、キリスト教関係の孊者が「䞭䞖は暗黒ではなかった」ずいうようなこずを曞いおいるのを、よく芋かける。これはたぶん、䞭䞖ペヌロッパずいうず、キリスト教が政治暩力ず結び぀いお「人間らしい自由を抑圧しおいた」ずいう暗いむメヌゞが匷いからだろう。
    そうした犍々しい「闇」を、「ルネッサンス文芞埩興」の「光」が照らし祓った、人々はやっず「教䌚」による信仰的断眪を怖れるこずなく「近代的な人間䞭心の䟡倀芳」を远及するこずができるようになった、人間は「宗教の桎梏」からようやく解攟されお「自由」を勝ち埗たのだ。䞀䞀ずいうのが、「ルネッサンス」を賛矎する堎合の、䞀般的な理解なのではないだろうか。

    しかし、こういう蚀われ方が、キリスト教関係者にずっお䞍本意なのは、蚀うたでもない。「いやいや、䞭䞖は暗黒などではなかったですよ。䞭䞖は、近代を準備した時代であり、䞭䞖あっおこその近代なのです。䟋えば、今で蚀う科孊も哲孊も、神孊の䞭から生たれおきたものなのです。そこを勘違いしおはいけない。圓然のこずながら、䞭䞖にも、圱もあれば光もあったのです」ずいうようなこずだろう。そのようなわけで、圌らが匷調するのは、䞭䞖の、特にキリスト教関係郚分での「光」の偎面ずいうこずになる。

    もちろん、こうした意芋も間違いではないのだけれど、だからず蚀っお「目新しい意芋や解釈」が正しいずいう保蚌など、どこにもない。特に政治や宗教が絡んでいるずころでは、「ものは蚀いよう」で、自分たちの「党掟」に郜合のよい理屈をこね䞊げるのを仕事ずしおいる「党掟むデオロヌグ」のような「ひも付きの孊者」もいるから、そこは甚心しおかからなければならない。
    実際、キリスト教関連の孊者には、圓然のこずながら、キリスト教埒信者もいお、そういう信埒孊者たちは本音はどうあれ「神は実圚する」「む゚スは埩掻した」「キリストは再臚する」ずかいったこずを「信じおいる」ず、「教䌚」においおは「告癜」しおいる人たちなのだ。圓然「孊問よりも信仰が倧事」ずいう孊者もいるのだから、「神の実圚」を信じおいない読者は、そうした孊者の曞くものを、眉に唟しお読むべきなのである。

    ずころが、そうした信埒孊者は、自著の「著者玹介」で、自身がクリスチャンだず明瀺するこずが、めったにない。
    「孊問の䞖界」では、自身の「信仰」に巊右されない、「孊者の良心」に基づく研究・発衚を行うずいう「タテマ゚」になっおいるから、わざわざ自身の信仰的垰属を明瀺しないのが「習慣」ずなっおいるのかもしれないが、人ずいうのは「匿名」になるず、しばしば人が倉わるように、自身のアむデンティティたる「信仰」を明瀺しおいる堎合ずそうではない堎合ずでは、おのずず態床も倉わりがち。぀たり、「正䜓」がバレおいなければ、自身の信仰的「党掟」に郜合の良いこずを、かなり手前味噌に語ったりもしがちなのである。
    なにしろ、信仰者も「人間」なのだから、それはたあ仕方のないずころでもあるのだけれど、少なくずも読者の方は、そのあたりに泚意を払い、特に政治や宗教がらみの本に぀いおは、著者の蚀い分を「鵜呑みにしない慎重さ」が重芁なのである。

    で、私は、ここで本曞の著者が、そのような信埒孊者だず蚀いたいのではない。
    信埒なのかどうなのか、曞かれおいないのでわからないし、私が読んだかぎりでは、著者はクリスチャンではないず思うので、仮にクリスチャンであったずしおも、十分に研究察象ぞの客芳性の担保ができおいるのだから、問題はないず評䟡しおいる。
    ぀たり、ここで私が蚀いたいのは「珟代ですら、孊者だからずいっお公正䞭立だずは限らないのだから、教䌚の絶察暩嚁が傟き始めた時期ずは蚀え、近代にさしかかった時代には、ただただ孊者の宗教的非党掟性は担保されおなどいなかった」ずいうこずなのである。本曞が扱っおいるのは、そういう時代だずいうこずなのだ。

    前述のずおり「䞭䞖にも、光はあった」。これは圓然である。同時に「闇」もあったし、そっちの方が問題芖されるずいうのも圓然である。だからこそ「ルネッサンスの光」が長らく匷調されおきたのであり、それは決しお故なきこずではなかったのだ。
    そしお本曞で䞻に扱われる「人文䞻矩」ずは、たさに「䞭䞖の闇」ぞの反発ずしお出おきたものであり、だからこそ「人文䞻矩」は、ルネッサンスの先駆ずもなったのだ。

    「人文䞻矩者」あるいは、枡蟺䞀倫に即しお蚀えば「ナマニストヒュヌマニスト」が、キリスト教以前の「非キリスト教文孊」を重芖したのは、䞭䞖の「スコラ孊スコラ神孊」が、あたりにも「人間の珟実」を眮去りにしお、「信仰的思匁」に偏したからである。

    キリスト教ずは「唯䞀神信仰」であり、人は「神のために」生きるのが、正しいずされる。神に「仕える」のである。
    したがっお、信仰によっお「人が救われる」のは、「正しい信仰」の「結果」ではあっおも「目的」ではない。぀たり、自分が「救われるために」信仰をし神を信じるずいう態床は、厳密に蚀えば「信仰」ではなく、「信仰の道具化神の道具化」でしかない。
    正しいキリスト教埒は「神のために」生きなければならないのだから、それは「神䞭心䞻矩」であっお、「人間䞭心䞻矩」ではない。「人間䞭心䞻矩」であっおはならない。「人間第䞀」ずいう考え方は、ある意味では、キリスト教が犁じた「偶像厇拝」の䞀皮だずさえ蚀い埗るものだからだ。

    したがっお、キリスト教信仰の䞖界においおは、「ヒュヌマニズム人間䞻矩」は、決しお圓たり前ではない。人間は「神」ぞの信仰を第䞀ずすべきなのだから、「人間」のために「神」を脇に眮くずか埌回しにするなどずいうこずは間違いなのだ。
    たずえ「人間」を脇に眮き、埌回しにしおでも、人は「神のため」に生きなければならない。それが「キリスト教信仰」なのだ。
    そしお、このような考え方が根底にあるからこそ、「十字軍、異端審問、魔女狩り」などの歎史に芋られる「信仰のためならば、異教埒や異端者を殲滅するこずも正しい」などずいう理屈も出おき埗たのであり、そしおそうした理屈は、今もなお生き続けおいるのである。

    キリスト教信者がよく口にする蚀葉で、私たち非信仰者にはなかなか呑み蟌みがたいものずしお「神における自由」あるいは「信仰による自由」ずいうのがある。芁は「神を信じ、信仰を持っおいるからこそ、キリスト教信者は、真に自由なのだ」ずいう䞻匵である。
    私たち「非信仰者」からすれば、信仰を持ち、それに本気で取り組むず、あれこれの「戒埋」があっお「䞍自由」なのではないかず思える。
    䟋えば、信仰も持っおいなければ、神瀟であろうがお寺であろうが山であろうが川であろうが、ありがたそうなものは䜕でも「無責任」に拝んで、願い事をしたりするこずができるから「自由」きわたりないのだが、特定の宗教の信者になるず、その教矩や戒埋に瞛られお、非信仰者のようには「奜き勝手」ができなくなる。だから「䞍自由だ」ず思うのだが、これはキリスト教埒に蚀わせるず「逆」だずいうこずになるのだ。

    キリスト教埒によるず、぀たり「キリスト教の教矩」によれば、人間ずは生たれながらにしお「原眪」を抱えおおり、それゆえの「苊しみアダムず゚バが課せられた、生きるための苊しみや劎圹」に瞛られおいる。
    ぀たらない䞖俗的な地䜍や名声ぞの欲望に瞛られたり、お金キリスト教で蚀うずころの「マモンの神」。぀たり貪欲に瞛られたりしお、自ら窮屈で぀たらない生き方に瞛られおおり、これが即ち「䞍自由」な生であり、人はそれを生きるしかないのだ。
    だが、「神」信仰を持ち、「神こそがすべお」だずいうこずを知れば、䜕ものにも瞛られるこずが無くなるので、根源的な「自由」が埗られる。䞀䞀ず、こういう理屈なのである。

    䞭には、説埗されそうになった人もいるかも知れない。だが、非信仰者の倧半は、このキリスト教の正統教矩による「自由」論を、倒錯的な「屁理屈」だずしか思わないだろう。
    事ほど巊様に、いたでも「信仰者ず非信仰者ずの、珟実認識のギャップ」は小さくはないのである。そしお、繰り返しになるが、たしお近代初期においおおや、ずいうこずなのだ。

    前述のずおり、䞭䞖ペヌロッパは「神䞭心䞻矩」の䞖界だった。だから「人文䞻矩者」が、「スコラ孊」的な「人間䞍圚の孊問」に疑矩を呈したずしおも、それは「神より人間」ずいうこずではなく、「神は人間を䜜り、人間を愛されたもうたのだから、人間を倧切にしなければならない人間䞍圚ではいけない」ずいう理屈であった。
    なにしろ「人文䞻矩者」もたたキリスト教埒であったのだから、こういうふうに考えるのは圓然だし、ただこの頃には「異端」排斥がなされおいたのであるから、「神より人間」などずは、口が裂けおも公蚀できなかったのである。

    しかし、印刷術の発明にずもなう「曞籍」の流通にずもなっお、それたでは「教䌚」に独占されおいた「聖曞」も、広く䞀般信者にたで届きうるものずなり、「知識の独占」が䞍可胜になった。぀たり、「知識的暩嚁を嵩に着た、蚀いたい攟題」が䞍可胜になっおきたからこそ、「人文䞻矩者」たちは「信仰もたた、歎史的事実に即したものでなければならない」ず䞻匵した。なにしろ、神は䞇胜の絶察正矩なのだから、「歎史的事実」を研究したら「神に䞍郜合な事実が出おきた」などずいうこずは「あり埗ない」。むしろ「歎史的事実に即した研究」によっお埗られる「知識」は、必然的に「神の正矩ず栄光を裏づけるものである」はずなのだ。だから、内向きな「抜象的思匁」に淫するのではなく、「神の勝利の歎史」を研究しようではないか、ずいうのが「人文䞻矩者」の理屈だったのである。

    しかしたた、そこたで手攟しに「神を信じられない」キリスト教埒は、「歎史的事実の探求」ずやらは、䜕かず「たずい」ず考えた。
    「キリスト教の歎史」ずは、すこし勉匷した人なら知っおのずおり、たさに「血に塗れた歎史」だったのだから、そうしたものが山ほど埋められたたたになっおいる歎史を掘りかえすのは「たずい」ず、そう考えた「キリスト教の暩力者」や、これたでどおりの「教䌚の暩嚁」を守りたいずいう「保守掟」がいたのも、圓然のこずであった。
    そしお、こうした「反・人文䞻矩」の「保守掟」が、「歎史探究」を始めた「人文孊者」たる修道士たちに向けた攻撃ずは「修道士ずは、信仰のために生きる者のこずで、孊問的欲望に淫する者のこずではない」ずいった理屈だった。
    ぀たり「祈りず劎働」の時間を削っおたで「孊問」をやるような修道士は、根本的なずころで信仰を誀っおいるのだずいう批刀を、「神䞭心䞻矩・信仰䞭心䞻矩者」は唱えだした。「本ばかり読んでないで、他にやるべきこずがあるだろう。䟋えば、祈るこずであり、匱者に手を差し䌞べる掻動だ」ずいうのが、「信仰を、非孊問的なものに止めおおきたい保守掟」の、耳ざわりのいい「人文䞻矩者批刀」の蚀葉ずなったのである。

    さらには、「人文䞻矩者」的な「叀兞䞻矩」が「りザい」ず感じる、「未来ず進歩発展」に惹かれた新しい人たち、぀たり「啓蒙䞻矩者」「進歩䞻矩者」も台頭しおきた。デカルトやモンテスキュヌなどに代衚される「近代的」な人たちであり、圌らからすれば、「人文䞻矩」ずいう「歎史的事実過去」にこだわる態床は、きわめお「䞍自由」か぀「埌ろ向き」なものに感じられたのである。

    このようにしお「人文䞻矩者」は、「教䌚の守旧掟」ず「啓蒙䞻矩者」ずいう真逆の党掟から、いわば挟み撃ちにされるこずずなり、それが「孊問をする修道院」ずいうものを、時代遅れにし、その象城であるむ゚ズス䌚の解䜓にも぀ながっおいった。もはや、孊問は修道院の䞭だけで、内向きでやるものではなく、広く開かれたものずしお行われるものず考えられるようになっおいったのである。

    この結果自䜓は、決しお間違いではないだろう。「キリスト教䌚が、知を独占利甚する」などずいうこずが、「フェア公正」なこずだずは、少なくずも今の我々には考えるこずはできない。
    しかし、キリスト教䌚から「人文䞻矩的孊知」が攟擲された、ずいう事実を忘れおはいけない。「信仰者は信仰に励んであればいいのだ」ずいうのは、いちおうの「正論」には芋えようが、しかし、そうした考え方がもたらす信仰ずは、芁は「劄信」であり、「劄信を求める信仰」ずいうこずになっおしたうからである。

    「さすがに今のキリスト教䌚は、そんなこずないだろう」ず考える人も、日本では少なくないだろう。だが、珟実はそうではない。
    カトリック教䌚には今でも「悪魔祓い垫祓魔垫」が、正匏な圹職ずしお生きおいる。ずいうこずは「悪魔は実圚する」ずいうのが、カトリックの立堎なのだ。悪魔祓い垫は、粟神的な病いを癒すための「方䟿」ずしお「悪魔払いごっこ」をやっおいるのではない。そうではなく、逆に「悪魔」が人に入っお「粟神的な病い」をひき起す堎合があるから、それを「祓う」ずいう考えによっお、存圚しおいるのである。
    では、プロテスタントはどうかず蚀えば、政治方面で䜕かず話題になっおいる、アメリカの「犏音掟」ずいうのは、プロテスタントが䞭心であり、その信仰態床は、䞋手をするずカトリック以䞊に「前近代的」で、だからこそ「聖曞に曞いおあるこずは、䞀字䞀句そのたた信じる」ずいった「聖曞原理䞻矩者」が、「地球は6000幎前にできた」ずか「人間は、単现胞動物から猿を経お人間に進化したのではなない。人間は、最初から人間ずしお、神に䜜られたのだ」ずいったこずを「歎史的事実」だず本気で䞻匵し、時に裁刀で争ったりもするのである。

    事ほど巊様に「宗教ずは、危険なもの」だずいうこずを、私たちは決しお忘れおはならない。
    もちろん、キリスト教埒にも立掟な人は倧勢いるし、真っ圓な知恵ず人間的良識を備えた人も倧勢いる。
    しかしだ、「人文孊者」たちが「守旧掟」たちの「修道士は、祈るこずが本業で、孊問にかたけおなどいおはいけない」ずいった理屈によっお、苊境に远いやられたずいう歎史を、私たちは忘れおはならないのだ。
    信仰は、い぀の時代にも容易に「知的先祖返り」を起こすものだし、それでいお「われわれの態床こそが、真の信仰である」などず「信仰の玔粋さ」を装っお、「暩嚁付けられた劄信」を振りかざすこずも珍しくないのだずいう「歎史的事実」を、深く銘蚘すべきなのである。

    「敬虔な祈りに満たされた修道院」ず蚀えば、倚くの人はその「静かな荘厳さ」に奜印象を持぀だろうが、それは容易に「理性の攟棄」を正圓化するものにもなりうるのだずいうこずを、私たちは忘れるべきではない。

    䞖俗の蚀葉でいえば、「信仰ずは、䞀皮のむデオロギヌ」であり、むデオロギヌは良くも悪くも、倚くの人たちを「狂気」に远いやっお、倚くの人々を虐殺した「悪魔」にもなりうるのである。もちろん、「日本教」ずお、その䟋倖ではなかったのだから。

    初出2019幎12月19日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

     ○ ○ ○

    ・

     ○ ○ ○

    ・

     ○ ○ ○

    ・

    ・

     ○ ○ ○

    ・

    ・


     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

    あなたぞのおすすめ