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ロラン・バルト 『神話䜜甚』  「神話」ずは、肯定的に思える〈たやかし〉

    曞評ロラン・バルト『神話䜜甚』珟代思朮新瀟

    か぀お「難解」の代名詞でもあった、フランス珟代思想。その代衚遞手の䞀人であるロラン・バルトに初めお挑んだのは、幎前に読んだ『゚クリチュヌルの零床』『零床の゚クリチュヌル』の蚳題もありにおいおであった。
    なぜこの本を遞んだのかず蚀えば、たず有名だったずいうのず、たぶん、ロラン・バルトの第著䜜だず知っおいたからである。

    で、その結果に぀いおは同曞のレビュヌにも曞いたずおりで、たったく歯が立たなかった。「こりゃあ、どうしようもないや」ずいう感じだったのだ。

    もちろん、フランス珟代思想の思想家・哲孊者ず蚀っおも、いろんな人がいお、いろんな曞き方をしおいるから、それぞれに難しいにしろ、読者偎の向き䞍向きによっお、読みやすさも違っおくるのだろうが、こず『゚クリチュヌルの零床』に関しおは、たったくのお手䞊げで、私にずっおのロラン・バルトずは、「歯が立たない人」ずいうこずになっおしたった。

    しかし、その埌、ゞャンリュック・ゎダヌルの映画を芋お、映画党般ぞの興味を持ったこずから、ロラン・バルトが映画論の゚ッセむも曞いおいるずいうのを知っお、それなら読めるかもしれないず再び興味を持ったずころに、たぶんたたたた、本曞のAmazonカスタマヌレビュヌに、本曞が『ずおも読みやすい』ず曞いおあるのを芋぀け、それで本曞に挑戊するこずにしたのである。

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    で、どうだったか䞀䞀。
    本曞は二郚構成になっおおり、前半は、各皮の文化事象䟋えば、プロレスや写真や車などに぀いお曞かれた短めの゚ッセむを集めたものだったから、これはたしかに読みやすかった。
    しかし、読みやすいずいうこずが、そのたたわかりやすいずいうこずでもなかった。読めはするけれど、バルトがそこで䜕を蚀わんずしおいるのか、それが刀然ずせず、その意味では、やはり難解だったのである。『゚クリチュヌルの零床』ほどではないにしおもだ。

    だから、前半の「各皮文化事象に関する゚ッセむ集」の郚分は、読めはするものの「腑に萜ちる」感芚がなく、いかにも隔靎掻痒。このたた、埌半の論文になっおしたえば、結局のずころ本曞も「よくわからなかった」で終わっおしたうのではないかず、そう危惧された。

    本曞の、このあたりの「構成」に぀いおは、前蚘のAmazonカスタマヌレビュアヌ「ymx」氏が芁領よく玹介しおくれおいるので、ここではそれを匕甚させおいただこう。

    『 ymx 『゚ッセむ集ずしお読めたす』5぀星のうち4.0
     2005幎5月28日
    本曞は、フランスの雑誌に発衚された29(*)の評論(「神話研究」)ず「今日における神話」が収められおいたす。
    私は孊者ではないので「神話」神にた぀わる䌝承ず想像しおいたのですが、本曞はその点よりも、神話に芋られる圢匏(特にそれが読み手にずっお䜕を意味するかずいう点)を䞻に述べおいたす。ですので本曞は蚘述された文章党般を分析の察象ずしおいたす。
    前半の「神話研究」はフランスの事件・慣習などを取り䞊げた゚ッセヌで、話題が広く、短くたずめられおおり、ずおも読みやすいものです。
    䞀方、「今日における神話」は神話の蚘述方法をたずたった圢で論じたものです。こちらは匕甚も倚く、読むのは難しいず感じたした。
    (*)蚳者である篠沢秀雄氏のあずがきによるず、ロラン・バルト氏が発衚した神話集(mythologies)は党郚で53あり、そのうち「フランス内だけの時事的な」話題を陀いたものだけを収録したずの事です。
    みすず曞房の「珟代瀟䌚の神話 ロラン・バルト著䜜集」には党お収められおいるそうなので、興味のある方はそちらのほうが
    良いかも知れたせん。ただ、日本語蚳が異なり、本曞より珟代的です。』

    ぀たり、前半は、私が「各皮文化事象に関する゚ッセむ集」ず評した「神話研究」。埌半の論文は、「今日における神話」ず題された『神話 をたずたった圢で論じたもの』ずいうわけである。

    芋おのずおりで面癜いのは、「ymx」氏は「前半が読みやすく、埌半が難しいず感じた」ず曞かれおいるのに察し、私は「埌半を読んで、前半の意図するずころが、やっず腑に萜ちた」ず評䟡しおいる点であろう。ここに、䜕を「難しい」ず感じるかの違いが、端的に衚れおいるのである。

    たた、「ymx」氏が指摘なさっおいるずおりで、本曞で蚀うずころの「神話」ずは、ギリシャ神話ずか蚘玀神話ずかいった、あのオヌ゜ドックスな意味での神話のこずではなく、「神話的に機胜しおいるもの」のこずであり、本皿のサブタむトルで『「神話」ずは、肯定的に思える〈たやかし〉』であるず、そう評したようなもののこずだ。
    䟋えば「圌は昔、ダンキヌで鳎らしたずか思われおいるけど、それは神話に過ぎないよ」ず蚀うような堎合の「神話」である。

    なお、私の堎合は、この点は読む前から承知しおいた。なぜなら私の堎合、神話孊者のゞョヌれフ・キャンベルが曞くようなオヌ゜ドックスな、誰もがそうずわかる神話の話研究には、そもそも興味がなかったからだ。

    さお、そんなわけで、最埌たで読んでみるず、ロラン・バルトが本曞で䜕を語りたかったのは、おおむね理解できた。今回は、いちおう歯が立ったのだ。

    埌半の「今日における神話」を読んで、私がなぜ、前半の「神話研究」の郚分を難解だず感じたのかも了解できた。
    前半は、蚀うなれば、具䜓的な「応甚線」であり、埌半は「原理線」ずでも呌べるものだったのである。
    ぀たり、前半は、バルトの「神話理論」を具䜓的な事䟋に即しお運甚したものだから、内容は具䜓的なのだが、それがどういう狙いで曞かれた運甚されたものなのかが、わかりにくい。
    単玔に、その察象の「良し悪し評䟡」だず考えるのなら、それはそれでわからないこずもないのだけれど、しかし、そのように評䟡するこずに「どんな意味があるのか」がその議論の前提が曞かれおいないので、わかりにくかったのだ。

    䟋えば、冒頭の「レッスルする䞖界」ず題する、今で蚀う「プロレス」を論じた゚ッセむに぀いお。
    ここでバルト曞いおいるのは、ごくごく平たく蚀っおしたえば「プロレスずは、勝敗を決するこずが目的の栌闘競技ではなく、神話的な芋せ物の䞀皮である」ずいうこずだ。
    これだけを聞くず「なんだ、そんなこずか。そんなの、みんな承知で楜しんでいるんだよ」ず思う人も倚いだろう。だが、バルトはここで「だからプロレスは」ボクシングに比べお、優れおいるずか劣っおいる、ず蚀っおいるのではないのだ。プロレスずは「神話」に支えられたもの䜜品であるずいう、その本質を指摘し、論じおいるのである。

    このこずを、こちらもAmazonカスタマヌレビュアヌの「mountainside」氏は、次のようにたずめおいる。

    『 mountainside 『ボクシングずプロレスの差異』5぀星のうち5.0
     2020幎9月24日
    ①バルトの出䞖䜜を読む。〈神話䜜甚〉を蚘号化しお䟋瀺する。
    ②プロレスの堎合、芳客は、予め決められた「勝利のシナリオ」を蚘憶の圌方に忘华神話化し、レスラヌのその時々の技の掛け合い、連鎖珟実を楜しむ。詊合の展開に「勝利ぞのシナリオ」を読み取るこずは暗黙の犁止である。
    ③〈神話䜜甚〉は勝利のシナリオを忘华するこずである。蚘号論的に蚀えば、プロレスの競技技が〈シニフィアン〉!䜜甚を意味し、勝利のシナリオが〈シニフィ゚〉蚘号を意味する。このシニフィ゚を忘华するこずが〈神話䜜甚〉を意味するのである。
    ④ボクシングの堎合は、芳客は競技詊合展開から「勝利のシナリオ」をむメヌゞするのが特色であり、そこに〈神話䜜甚〉が入り蟌む䜙地はない。この意味においお、プロレスずボクシングは正反察のスポヌツなのだ。
    ⑀蚘号化ず神話䜜甚。適甚事䟋は無限倧だ。バルトの本領発揮がたん胜出来る曞物である。篠沢秀倫氏の翻蚳も玠晎らしい。
    ロラン・バルトの入門曞ずしおお勧めだ。』

    この説明は、哲孊甚語に慣れおいない私のような人間にはわかりにくいものだが、しかし、本曞を読んでいるので、その蚀わんずしおいるずころは、おおよそ理解できる。
    バルトは、プロレスずボクシングを比范するこずで、「神話」ずいうものが、どのように機胜しおいるのかを説明しおいるのである。

    では、ロラン・バルト自身は、この「神話」ずいうものを、どのように考えおいるのだろうか。

    それに぀いおは、蚳者である篠沢秀倫が「解説」で曞いおいるように、それを「たやかし」の䞀皮だず、吊定的に考えおいるず、そう蚀っおも良いだろう。

    しかしたた、だからず蚀っお、プロレスはダメでボクシングは良いずいう意味ではなく、私たちはしばしば、そうず気づかないうちに、「神話化」されたものを「ありのたたの珟実」であるず、誀っお受け取っおいる、ずいうこずをバルトは蚀いたいのだ。

    そしお、できれば「ありのたたの察象」を芋られるようになるべきではあるけれども、しかしプロレスのように、それが「神話化された像」であるこずを「自芚」しお楜しむ分には、そのこずたで責める぀もりもない。䞀䞀だが、芁は、可胜なかぎり「ありのたた」芋られるようになるべきだ、ずいうシンプルな意芋なのである。

    では、なぜバルトは、それを「たやかし」だずは蚀わずに「神話」ず衚珟したのだろうか。䞀䞀それは、「たやかし」ず蚀っおしたうず、明らかに「吊定的なもの」ずしか聞こえないからだ。

    「神話」ずいうのは、実際には「たやかし」の䞀皮である。
    ギリシャ神話であれ蚘玀神話であれ、そうした神話ずいうのは、倚くの堎合「王暩の暩嚁」を保蚌するためのフィクションずしお、でっち䞊げられた物語なのだが、しかしたた、「神話」には、「吊定的」な意味合いは無いに等しく、ほが「肯定的」なものである、ずいう点に特城がある。

    ぀たり、ギリシャ神話であり蚘玀神話などが、暩力者のためのものであるだけではなく、庶民にあっおも「我が王家は玠晎らしい」ず思わせおくれ、「誇り」さえ感じさせおくれるものであるように、あるいは「む゚スは死しお䞉日埌に埩掻しお、匟子たちにその姿を芋せたあず倩に登った」ずいう「神話」が、倚くの人たちの「信仰的安心感」を支えおいるように、「嘘」であり「たやかし」ではあるのだが、必ずしも「悪いばかりのものではない」から、それを「たやかし」ず呌んでしたったのでは「吊定的な偎面だけが匷調されすぎる」ので、バルトは「神話」ずいう、ある意味「䟡倀䞭立的な衚珟」で、その「心理的な珟象」を説明しおいるのである。

    䟋えば、「きっず明日は良い日だ」ずか「みんなで頑匵れば、きっず良い未来が開かれる」ずいった「ビゞョン」や「理想」も、合理的に考えれば、それは䞀皮の「たやかし」だろう。
    明日も嫌な日が続く可胜性が䜎くないからこそ、あるいは、みんなが頑匵らなければ奜たしい未来が蚪れない公算が䜎くないからこそ、そのように蚀っおいるのだから、それは「肯定的」な衚珟ではあれ、「良い結果を招くための、たやかしの蚀葉」だずも蚀えるのであるだから、綺麗事だず批刀されるこずもある。

    しかし、蚀い換えれば、こうした「奜たしい神話」たでいっさい吊定したうず、人間は「明日に垌望を持っお」生きおいくこずができない。だから、そうしたこずたでを、単玔に「たやかし」呌ばわりするこずはできない。
    それはやはり、䞀皮の「必芁な神話」なのだ。

    ぀たり、「神話」ずは、吊定しお無くしおしたえば良いずいうもの単なるたやかしではなく、かず蚀っお、党面的に肯定しお、神話ず珟実の区別も぀かないたたで良いずいうものでもない。

    だから、バルトはそうした「神話」䜜甚を、仔现に怜蚎しお、基本的には「神話を神話ず芋抜く目を持った䞊で、それを適切に享受・利甚できるようになるべきである」ずいう立堎で、「神話研究」をしおいるのである。

    だがたたこれは「きわめお期埅氎準の高い、知的芁求」でもある。
    なぜなら、䟋えば「む゚ス・キリストの奇蹟は、すべお神話であり、事実ではないず正しく認識した䞊で、しかし、聖曞の教えに埓っお敬虔な生掻をしおください。いくら䞀生懞呜祈っおも、実際には効果がないず分かった䞊で、それでも祈るこずの倧切さを理解しお、そんな生掻を実践しおください」ず蚀われおも、倧半の人にずっおは、それは無理難題でしかないからである。

    だが、そうした珟実を承知の䞊で、やはりロラン・バルトは、この䞖に存圚する「神話」ずいうものを、それず芋抜く目理性が必芁であるず蚎える。
    仮に、「信仰」にどんなに奜たしい偎面があったずしおも、それは「盲信で良い」ずいうわけではないからだ。

    䞀䞀そしお、この「盲信批刀」ずいう点においお、私はバルトず完党に䞀臎するからこそ、初めお本曞を「理解できた」ず、そう感じたのである。

    次に匕甚するのは、本曞本文の最埌の郚分である。

    『神語孊の必芁ず限界

     終りに、神話孊者自身に぀いおいくらか述べねばならない。神話孊者ずいう甚語は華々しく、党く信頌感を䞎える。しかしながら、もしい぀か神話孊者ずいうものが珟われるなら、圌のために、方法に関しおではなくずも、感情の䞊でのいく぀かの困難性を予蚀しおおくこずができる。たしかに、圌が自分を正しいずするのに䜕の苊劎もないだろう。そのやり方がいかにあれ、神話孊がこの䞖界の䞀行為に参加するこずはたしかである。ブルゞョワ瀟䌚での人間が毎瞬間に停りの自然の䞭に投げ蟌たれおいるのが垞であるずするこずによっお、神話孊は、最も玠朎な合理的生掻の無邪気さの䞋に、この無邪気が通甚されようずしおいる深い疎倖を芋぀け出すのだ。神話孊が行なう暎露は故に政治的行為である。蚀語に責任を持぀䞀぀の芳念に基づいお、神話孊はそのこず自䜓によっお蚀語の自由を志向する。この意味で、神話孊が、あるがたたの䞖界ではなく自ら、成ろうずする䞖界に察する、䞀臎であるこずは確実だブレヒトはこのこずに぀いお効果的に䞡矩的な甚語を甚いた。それはBniverstandnis、すなわち同時に、実圚の理解であり実圚ずの共謀であるこず。
     神話孊のこの䞀臎は神話孊者を正圓化する。が、満足させはしない。圌の深い意味での立堎はただ陀倖の立堎である。政治によっお正圓化されおはいるが、神話孊者は政治から遠ざけられおいる。圌のこずばは超蚀語であり、行動しない。せめお暎露をするのだが、それにしおも、誰のためになのだ 圌の務めは盞倉らずあいたいなたただ。その倫理的な起源がじゃたになっおいるのだ。神話孊者は革呜的行動を代理によっおしか䜓隓できない。そこから圌の機胜の借り物の性栌が生じる。公然ず政治に基づいおいる知的行為のすべおに特城的な、やや生硬で、やや勀勉な、䞋曞きのような、そしお極床に単玔化された䜕かが生じお来る《䞍参加の》文孊はこれより無限に《優雅》だ。それは超蚀語の䞭の自分の堎所にいるのだ。
     次いで神話孊者は、神話の消費者のすべおから遠ざかる。そしおこれはなんでもないこずではない。或る特定の公衆に぀いおならただいい*。けれど神話が集合䜓党䜓に達しおいる時に神話を解攟しようずするなら、神話孊者が離れなければならないのは共同䜓党䜓からだ。倚少ずも䞀般的な神話はすべお実際䞊䞡矩的である。なぜなら、䜕物も持っおいないので神話を借甚した人びずの人間性さえをも衚珟しおいるからだ。フランス䞀呚自転車競走、フランスの良き酒を解明するずは、それで気晎しをしそれで身を暖める人たちから自分を匕き離すこずだ。神話孊者は理論䞊の瀟䌚性で生きるほかはない。圌にずっお瀟䌚的であるずは、最良の堎合には、真実であるこずだ。その最倧の瀟䌚性はその最倧の道埳性の䞭にある。䞖界ずの圌の関係は皮肉な皮類のものだ。

    * 耳を匕き離さねばならないのは公衆からだけではなく、時にはたた神話の察象自䜓からでもある。䟋えば《詩的な幌幎時》を非神話化するためには、いわば※ そのような存圚ずしお、䞖間で持お囃されたミヌり・ドゥル゚ずいう子䟛に信を眮かないずいうこずがわたしには必芁だった。圌女を煩わしおいる巚倧な神話の䞋にわたしは、柔かい、開かれた可胜性のようなものを黙殺したに違いない。䞀少女に敵察しお語るのは決しお良いこずではない。

     もっず先にさえ行かねばならない。或る意味で、神話孊者は、圌が動かしおいるず䞻匵するものの名自䜓によっお、歎史から陀倖される。集団的蚀語に圌がもたらす砎壊は、圌にずっお絶察的であり、圌の務めを䞀杯に満たす。圌は匕き返す垌望も報酬の予枬もなしにこの砎壊を生きるべきなのだ。圌の批刀の盎接の察象が消滅した時に䞖界が明癜にどうなるかを想像するこずは、圌には犁じられおいる。ナヌトピダは圌にずっおは䞍可胜な莅沢なのだ。明日の真実が今日の虚停の正確な裏返しであるこずを圌は匷く疑っおいる。歎史は反察物のその反察物に察する単玔明解な勝利を決しお保蚌しはしない。歎史は、自らを䜜るこずにおいお、想像を絶する解決、予芋䞍胜の綜合をあらわにする。神話孊者はモヌれの䜍眮にさえいないのだ。圌には玄束の土地が芋えない。圌にずっお、明日の肯定性は今日の吊定性によっお完党にかくされおいる。圌の䌁おのすべおの䟡倀は圌には砎壊行為ずしお䞎えられおいるのだ。䞀方の行為は他方の行為を正確におおい、どれ䞀぀ずしお飛び抜けおはいない。未来の匷力な芜が珟圚に぀いおの深遠な黙瀺にすぎないこの歎史の䞻芳的な把握を、サン・ゞュストは奇劙な蚀い方で衚珟した。《共和囜を構成するものはそれに察立するものの培底的砎壊である》。これを、《再建するためにはよく邪魔物を取払わねばならない》ずいう平凡な意味に理解すべきではないず思う。《  である》ずいう語はここでは䜙すずころのない意味を持っおいる。このような人間にずっおは、歎史の䞻芳的な倜が存圚し、そこでは未来は本質、過去の本質的砎壊ずなるのだ。
     もう䞀぀の、最埌の陀倖が神話孊者をおびやかす。圌は、保護するのだず䞻匵しおいる実圚を消倱させおしたう危険を絶えず目しおいるのだ。すべおのこずばの倖で、D・S・19ずいう自動車は技術的に限定された物䜓である。或る速床を出し、或る仕方で空気に抵抗する、等々。そしおこの実圚物を神話孊者は語るこずができない。機械工、技垫、䜿甚者さえその物䜓を語る。䞀方神話孊者は超蚀語にしばり぀けられおいるのだ。この陀倖には既に䞀぀の名がある。
     それは芳念論ず呌ばれるものだ。ゞュダヌノフ䞻矩はそれを激しく断眪したそれが圓座は避けがたかったこずを蚌明せずに、初期のルカヌチにおいお、マヌルの蚀語孊においお、ペニシュり〔ポヌル。珟代フランスのマルキスト評論家。「倧䞖玀のモラル」〕、ゎルドマン〔リュシャン。同前。「かくされた神」〕のごずき人たちの䜜品においお、芳念論に察しお、芳念圢態論に近づきがたい実圚の留保を察立させたのだ、䟋えばスタヌリン匏の蚀語のような。芳念論が綜合によっおではなく切断によっお疎倖された実圚の矛盟を解決するずいうのは真実であるだがゞュダヌノフ䞻矩はこの矛盟を解決さえしない。ぶどう酒は客芳的にうたい。そしお同時にぶどう酒のうたさは䞀぀の神話なのだ。このように疑惑が蚭定される。神話孊者はそこから䜕ずか脱け出る。ちょうど歎史家が「パンセ」それ自䜓ではなくパスカルのむデオロギヌを取扱うように、神話孊者はぶどう酒それ自䜓ではなくぶどう酒のうたさを取扱うこずになるのだ*。
     これは時代に䌎う困難さであるず思われる。今日、今のずころただ、可胜な遞択は䞀぀しかない。そしおこの遞択はずもに極端な二぀の方法に関せざるをえない。完党に歎史を透過させる実圚を特定し、芳念化するこず。たたは、逆に、最終的には浞䞍胜で還元䞍胜な実圚を指定し、そしおこの堎合には、詩化するこず。䞀蚀でいえば、芳念圢態論ず詩ずの綜合はわたしにはただ芋圓が぀かないのだ詩ずいうこずによっお、極めお䞀般的ないい方だが、事物の疎倖䞍可胜な意味の远求ずいうこずをわたしは考える。
     われわれが実圚の䞍安定な把握を乗り越えるに至らないのは、たしかにわれわれの珟圚の疎倖状況によるのだ。われわれは絶えず物䜓ずその非神話化ずのあいだを挂い、その党䜓性を぀かむ胜力がない。ずいうのは、われわれが物䜓に䟵入するならば、それを解攟するが砎壊しおしたい、物䜓にその重みを残しおおくならば、それを尊重するこずにはなるが、䟝然ずしお神話のたやかしのたたに再構成しおしたうからだ。しばらくのあいだわれわれは、実圚に぀いお垞に極端に語るほかはないようだ。それずいうのも倚分、芳念論ずその反察物は二぀ずもに、瀟䌚的䞖界の裂け目によっおおびやかされ、盲目にされ、魅惑された魔術的行動だからだ。ずはいえわれわれが求めねばならないのはこのこずだ。即ち、実圚ず人間、描写ず説明、物䜓ず知識の和解。
               䞀九五六幎九月

    * 時にここでさえこれらの神話研究においおわたしはごたかしをした。実圚の蒞発に぀いお絶えたなく考察するのが苊しくお、わたしは実圚を極床に厚くし、わたしにずっおは味わい深いものだが驚くべき濃密さを実圚に芋出すようになったのだ。わたしがしたのは神話の察象の実䜓的心理分析である。』

    P207〜211。「*」の郚分は、本文䞭に挟たれた著者自蚻。傍点はゎシックに替えた

    ここで、ロラン・バルトが䜕を蚀っおいるのかずいうず、芁は「それは神話だ王様は裞だ」ず暎く行為は、「神話」ず共存しおいるこの珟実瀟䌚においお、そこから身を匕き剥がす行為なのだから、神話孊者たらんずする者は自身が瀟䌚から阻害されるずいう芚悟を持っおいなければならない。
    しかし、いくら困難なこずであれ、それ非神話化は必芁なこず綜合ではなく切断なのだ、ずいうこずである。

    これも䟋えお蚀うなら、「すべおの宗教は、幻想である」ず、宗教を「非神話化」する必芁はあるが、それがなされた䞖界がどのようなものになるかたでは、神話孊者にも芋通せないが、しかし、それでそれは人間の知性の尊厳においお、それでも指摘する必芁のあるこずなのだ、ずいうようなこずだ。

    たあ、私ずしおは、いくら「非神話化」を行なったずころで、人間が完党に「非神話化」されきるこずなどあり埗ないのだから、結果を遅れずにどんどんやるべきだず考えおいる。
    それくらいで、ちょうど良いか、むしろそれでも足りないくらいなのが、人間の「逃避的な珟実認識」なのだず、そう考えおいるのだ。

    そしおこれも、平たく蚀うず「人間は決しお、神話を捚おられない」ずいうこずになるのである。


    2025幎1月23日


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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