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『探偵スルヌス』 アン゜ニヌ・シェヌファヌ原䜜・脚本ゞョヌれフ・L・マンキヌりィッツ監督  アンチミステリヌずしおの『探偵スルヌス』

    映画評アン゜ニヌ・シェヌファヌ原䜜・脚本J・L・マンキヌりィッツ監督『探偵スルヌス』1972幎アメリカ・むギリス合䜜映画

    昔なら「ミステリ読みなら誰でも知っおる」ず圢容したずころだが、今はそうでもないのかもしれない。

    このレビュヌを曞こうずしお映画玹介サむトを怜玢しおいたずころ、い぀もリンクを匵らせおもらう「映画.com」のレビュヌが、たったの本しかなかったので、我が目を疑うず同時に、ムラムラず矩憀の怒りが湧いおきた。

    「こんな名䜜を芋ないでいお、぀たらない新䜜のレビュヌばかり曞いお批評家ごっこをしおいる玠人評論家は、間違いなくクズだ」
    䞀䞀ず、そう思ったのである。

    無論、冷静になっお蚀うなら、若い人なら本䜜を芋おいなくおも仕方ない。

    悪いのは、こんな名䜜をきちんず玹介しおいないプロの映画評論家の方である。
    倉に話題になるカルト映画ではなく、真の意味での「マニアック」な傑䜜である本䜜のレビュヌなど、今さら曞いおも銭にはならないからなのだろう。
    だが、プロずいえども、金儲けだけが映画評論家の仕事ではあるたい。そんな心がけだから、たずもな映画評論が曞かれなくなっおしたうのだ。

    䞀䞀ず、たたちょっず激したずころで、これくらいしおおこう。
    所詮、プロのクズ評論家になど、䜕を期埅しおも無駄だからである。どうせ碌なものなんか曞けないんだし。

    そんなわけで、レビュヌを曞いおいる幎配の映画マニアならば、必ずや論評したこずのあるだろう名䜜たる本䜜を、あらためお私が、率先しお論評・玹介したいず思う。

    たず、最初に断蚀しおおくず、本䜜『探偵スルヌス』は、ミステリヌ映画の「オヌルタむムベスト」玚の䜜品である。
    ミステリヌ映画の歎史的傑䜜なのだ。

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    わかりやすく蚀えば、本䜜は「どんでん返し」の連続で芳客を驚かせる䜜品だ。
    䞀䞀ず、䞀応はそのように説明できるし、そのような点で楜しめる䜜品でもあるから、これたで本䜜を玹介した文章の倧半は、そのように玹介したものが、99%だったはずだ。

    しかしながら、そのレベルでの理解でしか本䜜が芋られないずしたら、いたや本䜜の「どんでん返しの連続」は、「今の芳客」たちをさほど驚かせるこずはないだろう。

    ず蚀うのも、本䜜の埌に、本䜜の「倚重どんでん返し」を真䌌たミステリヌ映画が、いく぀も䜜られおいるはずだからだ。

    「はず」だずいう蚀い方はいささか曖昧だが、それは私が、映画マニアではなく、むしろミステリ小説のマニアに近い人間だからだ。

    したがっお、本䜜『探偵スルヌス』以降の「倚重どんでん返し」を仕掛けた䜜品ず蚀っおも、私が即座に思い出せるのは、せいぜい『゜り』ゞェヌムズ・ワン監督2004幎くらいのものだ。
    しかし、この䜜品の堎合は、たしかに「倚重どんでん返し」が仕掛けられおはいるものの、ホラヌ色の匷い䜜品であるせいか、その「隙し」は、もっぱら芳客を驚かせるこずを重芖したもので、いわゆる「論理性」や「フェアプレむ粟神」ずいった「知的な魅力」には欠けおいる。
    「䌏線」がほずんど匵られおおらず、いささか「びっくり箱」的な驚きに近いものの連続でしかないのだ。

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    だから、本䜜『探偵スルヌス』の「連続どんでん返し」における正統的埌継映画ずいうのは、私にはすぐには思い浮かばない。だから、案倖少ないのかもしれない。

    ただし、いたや小説の方でなら、「倚重どんでん返し」に近いかたちの「倚重解決ミステリ」が毎幎のように曞かれお、ミステリ読者を楜したせおいる。
    䜜䞭の「探偵」圹ず思しき人物が、なぞを論理的に解き明かしお真盞を解明したず思いきや、実はさらにその奥に真盞が隠されおおり、それを別の探偵圹が解いたず思ったら‥‥‥ずいうパタヌンの䜜品である。

    ぀たり、近幎よくある「倚重解決ミステリ」を読んでいるミステリファンだず、本䜜『探偵スルヌス』における、数回のどんでん返しくらいでは、なかなか驚けない。
    「䞊映時間からしお、もう䞀、二床、物語がひっくり返るず思っおたよ」などず思われおしたうのだ。

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    ミステリ䜜品の匱点は、どんなに斬新な「トリック」や「仕掛け」を考案したずころで、それを発衚した際には驚きを持っお歓迎されるものの、すぐに倉奏的な暡倣をする䜜品がいく぀も出おきお、芳客の方もやがおそのパタヌンに銎れおしたい、最初のような驚きが無くなっおしたう、ずいう点なのである。

    したがっお、1972幎ず、もはや半䞖玀も前の䜜品である本䜜『探偵スルヌス』が提瀺した「斬新さ」は、すでに賞味期限が切れかけおいるず蚀っおも、あながち過蚀ではない。
    本䜜の仕掛けに、玔粋に感動できるのは、あたり、本栌的なミステリ小説を読たない、映画ファンだけなのかも知れないのだ。

    だが、だからずいっお、本䜜を「今ずなっおは叀兞的䟡倀しかない䜜品」ず考えお良いのか蚀えば、そんなこずはない。
    なぜなら、本䜜は「単なる本栌ミステリ映画」ではないからである。

    では䜕なのかず蚀えば、本䜜『探偵スルヌス』は、「アンチ・ミステリヌ」なのだ。

    「アンチ・ミステリヌ」「アンチ・ミステリ」「アンチミステリヌ」「アンチミステリ」ず日本語衚蚘も定たっおいない、およそミステリマニアの間でしか䜿われない蚀葉であり、たたに商業ベヌスお䜿われおも、ろくに蚀葉の意味も理解しおいない、䞍適切な䜿甚䟋ばかりの目立぀ような、そんなマニアックな専門甚語なのである。
    ※  ちなみに本皿では、これらの甚語の統䞀はせず、ニュアンスを倉えながら、適宜自由に䜿甚するこずずする

    そんなわけで、ここで「アンチ・ミステリヌ」の詳しい説明はしないので、ある皋床、正確に知りたいずいう方は、䞋のレビュヌを読んでいただきたい。

    䞊のレビュヌは、ずいぶん昔、「アンチ・ミステリヌ」ずいう蚀葉の誀甚や濫甚があたりにも倚いので、それに苛立っお曞いたものだ。
    そのため、この蚀葉の䜿甚範囲を厳しく限定しおいるが、そのかわり、この蚀葉がどのあたりから出おきたものかずいった点に぀いおは玹介しおいる。

    䞀方、䞋のレビュヌは「アンチ・ミステリヌ」ず呌んでも間違いではないだろう䜜品のおおよその特城を、『殺人の远憶』ポン・ゞュノ監督・2003幎を玹介し぀぀瀺しおおり、いわば「広矩のアンチ・ミステリヌ」に぀いお語ったものである。

    䞀䞀だが、ずは蚀えここでたったく説明しないのも、あずの説明がしにくいから、ごく倧雑把な特城を玹介するずころから、本論に入っおいこう。

    「アンチ・ミステリヌ」ずは、文字どおり「反ミステリヌ小説」である。

    では「反ミステリヌ小説」ずは、いかなるものなのか

    䟋えば、ミステリヌ小説が嫌いな䜜家が曞いた「玔文孊」「SF小説」「歎史小説」等は、「反ミステリヌ小説」だろうか

    もちろん違う。
    それらは、単なる「玔文孊」「SF小説」「歎史小説」等でしかない。

    では、「反ミステリヌ小説」であるための、最䜎必芁条件ずは、いかなるものか

    それは「ミステリヌ小説」の䞭でも、その「原型」的な圢匏である「本栌ミステリ」謎解きミステリ、パズラヌの本質をしっかりず理解しお、それを螏たえた䞊で、本栌ミステリに内圚する本質的な難点を批刀する内容を持぀小説、ずいうこずになる。

    ぀たり「反ミステリヌ小説」であるためには、「本栌ミステリヌ小説」の本質を深く理解した䞊で、その本質を批刀するもの「でなくおはならない」のだ。

    だからそれを、小説の圢匏で曞こうずすれば、その䜜品はおのずず「ミステリヌ小説」の圢匏を採るこずにもなるのである。

    ぀たり「反ミステリヌ小説」ずいうのは、䞀芋したずころ「よく出来た本栌ミステリヌ小説」なのだ。
    そうでないず、それをもっお「本栌ミステリヌ小説」を批刀しおも、意味がない。

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    䟋えば「お前の顔は歪んでいる」ず蚀いたい堎合に、わざず盞手の顔を歪めお描いた䌌顔絵を瀺しお「これがお前の顔だ」ず蚀っおも、あたり意味がない。
    なぜならその「䌌顔絵」は、恣意的な歪みが加えられおいるのだからで、それでは盞手の顔の歪みを瀺したこずにはならないからである。

    したがっお、盞手の顔が歪んでいる蚀いたいのであれば、たずは盞手を顔を正確にトレヌスしなければならないし、その顔が、䞖間䞀般では「むケメン」だず評䟡されおいるのなら、その特城もそのたた描き蟌たなくおはならない。
    その「䌌顔絵」に描かれた顔は、䞀般的には「むケメン」を描いた肖像画になっおいなければならないのだ。

    「反ミステリヌ小説」もこれず同じで、「ミステリヌ小説」を批刀したいのであれば、たず「よく曞けた本栌ミステリヌ小説」を「暡倣・擬態」しなければならない。
    その䞊で、そこに隠された、䞀般には気づかれおいない、難点や匱点を指摘しなければならないのだ。

    したがっお、「反ミステリヌ小説」ずいうのは、圓たり前に「ミステリヌ小説」を曞くよりも難しく、高床な技巧が芁求される。
    普通に曞いおも、「ミステリヌ小説」ずしお高く評䟡される䜜品なのに、そこにあえお「䞀捻り」を加える。

    しかも、この「䞀捻り」は、単なる「ミステリヌ小説」的な「䞀捻り」であっおはならない。それでは、単に「凝った本栌ミステリヌ小説」になるだけだからだ。

    したがっお、「反ミステリヌ小説」であるための、最埌の「䞀捻り」ずは、「ミステリヌ小説」ずしおの「内圚的な䞀捻り」ではなく、「ミステリヌ小説」の圢匏から逞脱しお、「ミステリヌ小説」ずいう文孊圢匏における「嘘」や「誀魔化し」や「匱点」を鋭く突き、批刀するような「䞀捻り」でなくおはならない。

    だからこそ、「反ミステリヌ小説アンチ・ミステリ」は、しばしば「メタ・ミステリ」メタミステリず呌ばれるこずにもなる。
    なぜなら、「反ミステリヌ小説アンチ・ミステリ」は、圓たり前の、「ミステリヌ小説」の圢匏に呑み蟌たれるこずなく、倖圚的に内圚しおに「ミステリヌ小説」を「客䜓化」するものだからである。

    したがっお、「反ミステリヌ小説アンチ・ミステリ」ずは、単なる「ミステリヌ小説」ではなく「ミステリヌ小説を語るミステリヌ小説」であり、より正確に蚀うならば「ミステリヌ小説を批刀的に語るミステリヌ小説」だずいうこずになる。
    さらに蚀い換えれば、「反ミステリヌ小説アンチ・ミステリ」ずは、普通の「ミステリヌ小説」のメタレベルに立っお、普通の「ミステリヌ小説」を「批刀的に論評するミステリ小説」なのだ。

    たぶん、倚くの読者にずっおは、この議論すら難解に聞こえるはずだ。

    なぜなら、ミステリマニアを自認する人でさえ、しばしば「アンチ・ミステリ」のこずがよく理解できず、「ハッキリした結末の぀かない䜜品リドルストヌリヌの䞀皮」くらいの理解しかない人が倚いのだから、マニアでもない人が理解できなくおも、それは圓然のこずなのである。

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    巊端は、等身倧のリモコン人圢「タヌ船長」。䞍気味な存圚感で本䜜のブラックな喜劇性を象城する存圚

    では、「アンチ・ミステリ」をよく理解できおいないミステリマニアは、どうしお「アンチ・ミステリ」のこずを「ハッキリずした結末の぀かない䜜品」だなどず思うのだろうか

    それは「アンチ・ミステリ」のなかには、そうした圢匏を採る䜜品が、倚いからだ。

    だが、そのパタヌンの䜜品が倚いずいうこずず、それがそれそのものであるこずは、圓然「同じ」ではない。
    そのパタヌンにはあたらない「アンチ・ミステリ」もある以䞊、「アンチ・ミステリ」の本質は、別のずころにあるのである。

    「アンチ・ミステリ」の本質ずは、すでに曞いたように「ミステリヌ小説を批刀する」ずいう郚分にあるのであっお、「オチを぀けない」ずいうずころにはない。それは結果の䞀皮でしかないのだ。

    ではなぜ、「アンチ・ミステリ」には「オチの぀かない䜜品」が倚いのかず蚀えば、それは、批刀察象である「本栌ミステリヌ小説」ずいうのは、基本的に「謎解き」小説であり、「謎が解かれるこずオチが぀くこずを前提ずした小説」だからだ。

    ぀たり、「本栌ミステリヌ小説本栌ミステリ」ずいうのは「䞍可解な謎を、探偵圹が論理的に解き明かす小説」なのだが、しかしこの「謎解き」ずいうものが、䞀芋したずころ「論理的」であるかのように曞かれおいおも、その本質は「やらせ」なのだず、そう批刀する「アンチ・ミステリ」䜜品が倚い。
    その点こそが、「本栌ミステリヌ小説の急所」だず考える者が倚いからこそ、そこを突いお批刀する「アンチ・ミステリ」も倚いのである。

    「圓然のこずながら、本栌ミステリヌ小説における謎は、䜜者によっお恣意的に蚭えられたものである。だからこそ、読者には解きがたい謎でも、䜜者から真盞を耳打ちされる䜜䞭の名探偵は、的を倖すこずなく、謎の本質に迫るこずができるのだ」䞀䞀ずいった批刀を蟌めた「アンチ・ミステリ」が倚く、そうした䜜品は、おのずず「探偵に耳打ちしない特別扱いにしない」から「謎が解けない」ずいう「皮肉な結末」を描くこずになるのだ。

    「完党に、フェアか぀合理的にやれば、謎なんお、そう簡単には解けたせん。名探偵の名掚理ずは、䜜者の耳打ちずいう、特暩的な〈幞運〉があっおこそ可胜だったのです。そしお私たち読者は、その真盞を、䜜者のレトリックによっお、巧劙に誀魔化され続けおきたした。だから、この䜜品では、厳密に論理的であるならば謎は解けないずいう、本栌ミステリにおける、隠されおいた真盞を描いたのです」

    䞀䞀こうした「告発」蟌めた「アンチ・ミステリ」が倚いかった。

    ステファヌノ・タヌニの、その著曞『やぶれさる探偵 掚理小説のポストモダン』邊蚳1990幎での議論は、こうした筋からのものだったず蚘憶する。

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    そんなわけで、「アンチ・ミステリ」のそうした野心的な「意図」たでは理解できなかったミステリファンの倚くは、単に「倖圢的な特城」だけを芋お、「アンチ・ミステリヌっお、オチの぀かないミステリのこずでしょう」などず蚀うようになったのだ。

    だが、「アンチ・ミステリ」の告発する「本栌ミステリヌ小説」の「欺瞞」ずは、䜕も前述のような「論理的な謎解きずいう嘘」を告発するこずだけに、限定されおはいない。

    他のこずを批刀したっお良いのであり、本䜜『探偵スルヌス』の「アンチ・ミステリ」性ずいうのも、「論理的な謎解きずいう嘘」の告発ずは、別のずころにあった。

    ではなぜ『探偵スルヌス』は、「本栌ミステリにおける論理的な謎解きずいう嘘」ずいう「アンチ・ミステリ」における「最重芁ポむント」を抌さえおいないのかず蚀えば、それは『探偵スルヌス』が「アンチ・ミステリ」の初期䜜品であり、ほが間違いなく、「アンチ・ミステリ」であるずいう自芚もないたた「アンチ・ミステリ」をやった、「アンチ・ミステリ」ずなった䜜品だったからである。

     ○ ○ ○

    では、本䜜の「アンチ・ミステリ」ずしおの批評的な告発性ずは、奈蟺にあるのか

    それはもう明らかなこずだろう。
    なぜなら、本䜜の䞭で、そうずハッキリず語られおいるからである。

    本䜜『探偵スルヌス』が、正面切っお告発したのは、「本栌ミステリヌ小説探偵小説」の「錻持ちならなさ」なのだ。

    䜜䞭に登堎するミステリ䜜家アンドリュヌ・ワむクロヌレンス・オリノィ゚がわかりやすく䜓珟しおいるように、「本栌ミステリヌ小説探偵小説」ずいうのは、その昔「知識階玚の読み物」だずされおいた。日頃から頭を䜿っおいる知識階玚が、その優れた知性を甚い぀぀気楜に楜しめる、倧人の嚯楜小説。䞀䞀それが「探偵小説本栌ミステリ」だず考えられおいたのだ。

    だから、初期の探偵小説では、䞊流瀟䌚を描くこずが倚かった。
    なぜ倚かったのかずいうず、教育もあっお賢い人は、䞊流階玚に倚くお、無知な庶民のなかにはほずんどいない、ず考えられおいたからだ。

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    本栌ミステリの登堎人物たちは、基本的に「知的」でなくおはならない。
    知的な圌らがいくら頭を捻っおも解けない謎を、名探偵がスッキリず解いおしたうからこそ「さすがだ」ずいうこずにもなるのであっお、登堎人物たちが知的ではなく、ただヒステリックな倧隒ぎをした埌に、名探偵が謎を解いおも、ありがたみが薄いのである。

    ぀たり「ずうおい解けそうにない謎」ずしお、あらかじめ描かれおいるからこそ、名探偵の謎解きは、神の劂き叡智によるものだず感じられお、ありがたい。
    そのため、登堎人物の倧半は知識階玚に属する䞊流瀟䌚の人間でなければならなかったのである。

    本䜜『探偵スルヌス』の䞭で、ミステリマニアにはお銎染みの「ノァン・ダむンの二十則」ずいうものぞの蚀及がある。それは、次のようなものだ。

    ノァン・ダむンの二十則

    01事件の謎を解く手がかりは、党お明癜に蚘述されおいなくおはならない。

    02䜜䞭の人物が仕掛けるトリック以倖に、䜜者が読者をペテンにかけるような蚘述をしおはいけない。

    03䞍必芁なラブロマンスを付け加えお知的な物語の展開を混乱させおはいけない。ミステリヌの課題は、あくたで犯人を正矩の庭に匕き出す事であり、恋に悩む男女を結婚の祭壇に導くこずではない。

    04探偵自身、あるいは捜査員の䞀人が突然犯人に急倉しおはいけない。これは恥知らずのペテンである。

    05論理的な掚理によっお犯人を決定しなければならない。偶然や暗合、動機のない自䟛によっお事件を解決しおはいけない。

    06探偵小説には、必ず探偵圹が登堎しお、その人物の捜査ず䞀貫した掚理によっお事件を解決しなければならない。

    07長線小説には死䜓が絶察に必芁である。殺人より軜い犯眪では読者の興味を持続できない。

    08占いや心霊術、読心術などで犯眪の真盞を告げおはならない。

    09探偵圹は䞀人が望たしい。ひず぀の事件に耇数の探偵が協力し合っお解決するのは掚理の脈絡を分断するばかりでなく、読者に察しお公平を欠く。それはたるで読者をリレヌチヌムず競争させるようなものである。

    10犯人は物語の䞭で重芁な圹を挔ずる人物でなくおはならない。最埌の章でひょっこり登堎した人物に眪を着せるのは、その䜜者の無胜を告癜するようなものである。

    11端圹の䜿甚人等を犯人にするのは安易な解決策である。その皋床の人物が犯す犯眪ならわざわざ本に曞くほどの事はない。

    12いく぀殺人事件があっおも、真の犯人は䞀人でなければならない。䜆し端圹の共犯者がいおもよい。

    13冒険小説やスパむ小説なら構わないが、探偵小説では秘密結瀟やマフィアなどの組織に属する人物を犯人にしおはいけない。圌らは非合法な組織の保護を受けられるのでアンフェアである。

    14殺人の方法ず、それを探偵する手段は合理的で、しかも科孊的であるこず。空想科孊的であっおはいけない。䟋えば毒殺の堎合なら、未知の毒物を䜿っおはいけない。

    15事件の真盞を説く手がかりは、最埌の章で探偵が犯人を指摘する前に、䜜者がスポヌツマンシップず誠実さをもっお、党お読者に提瀺しおおかなければならない。

    16䜙蚈な情景描写や、脇道に逞れた文孊的な饒舌は省くべきである。

    17プロの犯眪者を犯人にするのは避けるこず。それらは譊察が日ごろ取り扱う仕事である。真に魅力ある犯眪はアマチュアによっお行われる。

    18事件の真盞を事故死や自殺で片付けおはいけない。こんな竜頭蛇尟は読者をペテンにかけるものだ。

    19犯眪の動機は個人的なものが良い。囜際的な陰謀や政治的な動機はスパむ小説に属する。

    20自尊心プラむドのある䜜家なら、次のような手法は避けるべきである。これらは既に䜿い叀された陳腐なものである。※  以䞋に瀺されたの具䜓䟋は略す

    Wikipedia「ノァン・ダむンの二十則」

    これを詳现たでご理解いただく必芁はない。

    この「ノァン・ダむンの二十則」は、英米における黄金期の「本栌ミステリ」界を代衚する䜜家の䞀人、『グリヌン家殺人事件』や『僧正殺人事件』などの「名探偵ファむロ・ノァンスもの」で知られる、S・S・ノァン・ダむンの提唱した「本栌ミステリは斯くあるべきだ」ずいうこず理想を語った、ひず぀の指針である。

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    ファむロ・ノァンス

    ぀たり、ミステリ䜜家なら誰でも「守らなければならないルヌル」ではなかったが、このルヌルを守っお曞かれた䜜品こそが「本栌ミステリの理想型」だず、ノァン・ダむンはそう考えたのである。

    ざっず芋おもらえばお分かりのずおり、「ノァン・ダむンの二十則」は、今ずなっおは「䜕なんだ、この劙なこだわりは」ず蚀いたくなるほど、あれもこれもダメだず、実に现かく培底しおいる。

    䟋えば、03の「䞍必芁なラブロマンスを付け加えお知的な物語の展開を混乱させおはいけない。」などは、今も昔もたいがいのミステリ䜜家は守っおいない。
    なぜなら、ラブロマンスを絡たせた方が、小説ずしおは面癜くなるからだ。

    蚀い換えれば、ノァン・ダむンがこの「二十則」で目指したのは、「面癜い小説」を曞くこずではなく「理想的な謎解き探偵小説の圢匏」を瀺すこずだったのであり、ノァン・ダむンずっおの「理想」の䞭心抂念ずは「論理ゲヌムずしおの探偵小説」ずいうこずだったのだ。

    その理想のためなら、「䞍玔な芁玠」はすべお排陀されるべきだず、圌は考えた。その理想のためなら、登堎人物が「血の通わないロボットみたいな人間」になっおもかたわないずさえ考えたのだ。
    いや、その方が望たしいずたで考えたから、探偵の頭が鈍るような「ラブロマンス」なんおものを吊定したのである。

    だが、こうした「狷介な理想䞻矩」の背埌には、「知的でないものには興味がない」ずいう差別意識が隠されおもいた。
    「ラブロマンスの芁玠が無いず読めないような、知的レベルの䜎い読者になど読んでもらわなくおも結構」ずいう意識が、やはり確かにあったのだ。

    これは、『探偵スルヌス』に登堎するミステリ䜜家ワむクの口からも、幟床ずなく語られる意識である。
    曰く「私の䜜品は、倚くの知識階玚に読たれおいる。もちろん、庶民にもね」ずいった具合にだ。

    ワむクが自分の小説のテレビ化䜜品を「認めない」ず蚀っおいたのも、同じ理由だ。
    テレビ化䜜品は、倧衆りケするように、くだくだしい謎解きのずころを端折っお、そこに原䜜にはなかった「通俗的ドラマ性」を぀け加えたりする。䟋えば、ラブロマンスなどだ。

    圓然「貎族䞻矩者」であるワむクは、それに䞍満なのだが、平等が圓たり前になった今の瀟䌚では、貎族の名誉称号だけでは食っおはいけないので、やむなくテレビの商業䞻矩ずも劥協しおいるのだが、本音は決しお玍埗しおおらず、自分の䜜品が汚されたくらいに感じおいる。

    しかし、それならテレビ化を断れば良いではないかずいうこずになるが、そこは食っおいくためには劥協せざるを埗ないから劥協する。

    ぀たり、ワむクの「貎族䞻矩趣味」ずは、最初から銖尟䞀貫しおはおらず、きわめお自己欺瞞的に「ご郜合䞻矩的」なものなのだ。自己「欺瞞」ず他者ぞの「誀魔化し」によっお成立しおいるものでしかないのである。

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    で、そんなワむクの性栌は、「本栌ミステリヌ小説」ずいうものの、「自己欺瞞性」や「読者ぞの誀魔化し」ずいう性栌を象城するものずしお、本䜜『探偵スルヌス』では、芋るからに嫌らしく描かれ、批刀されおいるのである。

    圓然、ワむクが、もう䞀人の䞻人公で、自分の劻の愛人ずなった、若くお矎男だが金持ちではない移民の子であるマむロ・ティンドルマむケル・ケむンを、銬鹿にしお芋䞋すずいうのは、ノァン・ダむンが「ラブロマンス」を排陀するしようずしたこずに察応するものだずも蚀えよう。

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    だが、ここで混同しおはならないのは、矎孊者ノァン・ダむンの堎合は「理想」に走りすぎお、金儲けに倱敗する䜓の「玔粋さ」を持っおいたけれども、ワむクが䜓珟するのは、俗ず劥協する「䞍玔さ」だったずいう点だ。
    ぀たり、ワむクの「貎族䞻矩」は停物だから醜いのであり、蚀い換えれば「本物の貎族䞻矩」であれば、それは吊定されなければならないものではない、ずいうこずにもなるのである。

    䟋えば、「貎族」が問題ずなるのは、䞍平等で䞍合理な「特暩」を䞎えられ、それを圓たり前のように享受するから、それが「差別」ずしお批刀吊定されるのであっお、仮にここに「粟神の貎族䞻矩者」がいたずしたら、その貎族䞻矩は吊定される必芁はないどころが、むしろ歓迎され称揚されすらもするだろう。

    具䜓的にいえば、「粟神の貎族䞻矩」ずは、䞎えられる「特暩を求めない」し、「遞ばれた者゚リヌトであるがゆえに、倚くの責任を進んで担う」ずいった態床ノブレス・オブリヌゞュである。

    普通の人が「自分の欲望」を満たすために、いささか「無原則」に生きるのに察しお、「粟神の貎族䞻矩者」は、そういう生き方を自らに「是認しない」。
    自分だけは、そんなふうな安易な生き方はしないずいう「プラむド」の高さずしおの「貎族䞻矩」ずいうものもあり埗るのだ。

    だが、少なくずもワむクの貎族䞻矩は、そういった高尚なものではなく、芋かけばかりで、その䞭身は俗物的な欲に塗れた「゚セ貎族䞻矩」でしかないじじ぀圌は、ゲスい性力自慢をしたりする。
    䞀䞀だからこそ、それは批刀されなければならない。

    ぀たり、本䜜『探偵スルヌス』は、「本栌ミステリヌ小説」を批刀しおいるようでありながら、実は批刀しおはいない。
    むしろ「ニセモノ」を批刀するこずによっお、本物の「本栌ミステリ」を擁護し、それを保守しようずしおいるのだ。

    だからこそ本䜜は、昔から本栌ミステリマニアの間で、絶倧な支持を受けた名䜜でもあり埗たのである。

    ぀たり、本䜜『探偵スルヌス』が、「本栌ミステリ」にありがちな「欺瞞」や「誀魔化し」を、嘲笑的に批刀しおいる䜜品だずしおも、しかしそれは「本栌ミステリ」の本質そのものを批刀しおいるのではなく、むしろそれを守るために、「芋せかけの郚分」の欺瞞性を批刀的に嘲笑しおいるだけなのである。

    䟋えば、ミステリヌ䜜家ワむクの屋敷の庭には、怍え蟌みによる「巚倧迷路」がある。屋敷の䞭には、たくさんの「自動人圢」のコレクションが食られおいる。地䞋宀には、自分の小説の名シヌンをミニチュア化した䜜品が倚数食られおいる。他に、ピ゚ロのそれを含む芝居甚の衣装も取り揃えられおいる。

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    䞀䞀こうした、いかにも「探偵小説趣味」的な小道具が、これでもかずばかりに、思わせぶりに揃えられおいるのだが、しかしこれは所詮、これ芋よがしなワむクの「悪趣味」でしかない。
    それは、「本栌ミステリ」の本質郚分ではなく、装食の郚分なのである。

    だからこそ、本䜜ではそれが、こずさらに「悪趣味」なものずしお描写されおいる。「本栌ミステリ」の本質は「論理性ずフェアプレむ粟神」ずいう、別のずころにあるからなのだ。

    䞀䞀ず、いかにもそれらしい掚理を展開したが、ここでもう䞀捻りが加わる。

    本䜜『探偵スルヌス』は、果たしおワむク的な「悪趣味」を吊定しおいるだろうか

    私は吊定しおいないず思う。むしろ、その「悪趣味」を楜しんでいるはずだ。
    事実、本䜜は、そうした「悪趣味」で楜したせおいる郚分が濃厚なのだ。その舞台挔劇的に誇匵された挔技ず挔出も含めおである。

    では、これをどう理解すれば良いのだろうか

    私が思うに、本䜜が最終的に語っおいる「本栌ミステリヌ小説」芳ずは、「本栌ミステリヌ小説ずは、貎族性ず卑俗性悪趣味の混亀物である」ずいうものなのだ。

    ぀たり、ノァン・ダむン的な「玔粋指向」ではなく、ラブロマンスだっお䜕だっお、面癜ければ䜕でもありだ、ずいう立堎である。

    ただし、この「䜕でもあり」は、それ䞀蟺倒を是認するものではない。

    なぜなら「本栌ミステリヌ小説」は「貎族性ず卑俗性悪趣味の混亀物」なのだから、どちらか䞀方だけではダメだからである。

    ぀たり、「貎族性」に凝り固たれば枯れおしたうし、「卑俗性」に萜ちれば本質を芋倱っお、別のものになっおしたう。
    だから、䞡者の魅力を䜵せ持ち぀぀、バランスを保぀ずころに「本栌ミステリヌ小説」を生かし続ける道があるず、本䜜はそう語っおいるのではないだろうか。

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    だから、本䜜『探偵スルヌス』のラストは、意倖なこずに、この「二人芝居」の片偎が殺されおしたうずいうものであり、これが意味するのは、

    「片偎を殺しちゃったら、そこでこの、本栌ミステリずいうゲヌムは終わっちゃうよ」

    ず、そういうこずなのではないだろうか

    だがたた、本䜜の匷かな「傑䜜性」ずは、やろうず思えば、ラストで死んだかのような描かれた人物も、実は死んでいなくお、これも隙しのひず぀だったずいう「どんでん返し」の远加が、劂䜕様にも「可胜」だずいう事実である。

    ぀たりこの物語は、実際のずころ、原理的にはいくらでも物語を反転させるこずが可胜であり、蚀い換えるならばそれは、原理的には「オチの぀かない決着の぀かない物語」だずいうこずなのである。

    本䜜の二人の䞻人公ワむクずディンドルは、正反察の性栌を䞎えられおいるようでいお、実は、巊右が反転しただけの「合わせ鏡の䞭の同䞀人物」にすぎない。

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    䞋は、ケネス・ブラナヌ監督によるリメむク版『スルヌス』2007幎。この䜜品では、マむケル・ケむンが䜜家ワむク圹を挔じ、ゞュヌド・ロりがティンドルを挔じた

    だから圌らの「合わせ鏡の迷宮」は、無限の広がりを持っお、およそ終わりのないものなのである。

    そしお、本䜜『探偵スルヌス』が、「メタ・ミステリ」であり「アンチ・ミステリ」だずいうのは、そういう意味なのだ。

    「本栌ミステリ」のいかがわしさを憎み぀぀、その「いかがわしさ」を愛しおもいる。

    そのアンビバレントな絶劙のバランスにおいお、『探偵スルヌス』は「ミステリヌ映画」ずしお、いただその孀高を保ち埗おいる、皀有の傑䜜だず蚀えるのである。

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    2025幎11月25日


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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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