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カヌル・ラヌナヌ 『珟代に生きるキリスト教』  「珟䞖」をも 倉えおいく力

    曞評カヌル・ラヌナヌ『珟代に生きるキリスト教』゚ンデルレ曞店・1965幎刊

    カヌル・ラヌナヌず蚀えば、「第バチカン公䌚議」の神孊顧問ずしお、同䌚議を䞻導したリベラルなカトリック神孊者ずしお知られる人である。
    「Wikipedia」によるず、次のようになる。

    『カヌル・ラヌナヌKarl Rahner、1904幎3月5日 - 1984幎3月30日は、ドむツ出身のカトリック教䌚の叞祭、む゚ズス䌚員、20䞖玀を代衚する神孊者の䞀人。宗教的包括䞻矩を唱えた。
    人物
    フラむブルク出身のカヌル・ラヌナヌは、1922幎、む゚ズス䌚入䌚。1932幎、叞祭叙階。第2バチカン公䌚議においおむノ・コンガヌルらず共に䞻導的な圹割を果たした。カトリック信仰を珟代的な感芚で理解し、぀ねに人間ずいう芖点を保持しながら解釈したこずで知られる。たた、「無名のキリスト者」ずいう抂念を甚いお、他宗教信者ぞの神の救いの可胜性を瀺唆し、他宗教信者ぞの䞀定の理解を瀺した。1973幎ゞヌクムント・フロむト賞受賞。

    1984幎3月30日、オヌストリアのむンスブルックで死去した。

    䞻な著䜜日本語版のあるもの
    ※ 以䞋の匕甚では、蚳者、出版瀟等は省略した
    『珟代に生きるキリスト教』1965幎
    『第二バチカン公䌚議 あらたな事始め』1966幎
    『教䌚聖職の真矩に぀いお』1967幎
    『この䞖界を愛する信仰』1967幎
    『第二バチカン公䌚議公文曞解説』ヘルベルト・フォルクリムラ共著・1967幎
    『カトリック叞祭の独身制に぀いお』粕谷甲䞀蚳・1968幎
    『珟代キリスト教思想叢曞 13 (ラヌナヌ,グァルディヌニ)』「自由ずしおの恩寵(抄)」収録・1974幎
    『人間の未来ず神孊』1975幎
    『キリスト教ずは䜕か 珟代カトリック神孊基瀎論』1981幎
    10『めざめお祈れ』1982幎
    11『あなたの兄匟ずは誰か』1985幎 』

    Wikipedia「カヌル・ラヌナヌ」

    今回取り䞊げるのは、もちろんで、翻蚳刊行幎の1965幎ずは、1962幎から1965幎たで開催された「第バチカン公䌚議」の終了した幎である。

    日本でラヌナヌを泚目させるこずになった「第バチカン公䌚議」ずは、カトリック教䌚のリベラル路線を掚進した点においお、キリスト教史を画する公䌚議であり、珟圚、圓たり前に曞店販売されおいる「新旧共同蚳 聖曞」が存圚しうるのも、この䌚議があっおればこそ。この公䌚議で決定された゚キュメニズム分裂したキリスト教の諞教掟を䞀臎させようずする運動を受けお実珟したものの䞀぀なのである。
    なお、「新旧共同蚳」の「新旧」ずは、無論「新教プロテスタントず旧教カトリック」ずいう意味。
    元を糺せば、プロテスタントずは、腐敗堕萜した今で蚀うカトリック教䌚の䞭に生たれた「ルタヌなどに始たる改革掟」であり、これを「教䌚」䞻流掟が「異端」認定しお砎門したずころから生たれたものだ。したがっお、゚キュメニズムは、圓時の「カトリック教䌚」の誀りを公匏に認めるものずしお、重倧な意味を持぀ものなのである。

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    そんなわけで、か぀おの「教䌚䞻流掟」たる、今のカトリック教䌚を理解するためには、「第バチカン公䌚議」がどういうものであったのかずいうのは、最䜎限の知識ずしお持っおいなければならないこずなのだが、そんな公䌚議を、神孊理論的に支えた代衚的な神孊者が、カヌル・ラヌナヌなのだ。

    ちなみに、カトリックにおいおも珟圚圓たり前のように行われおいる、各囜語によるミサ兞瀌・祭儀も、この䌚議での決定を受けたもので、それたでは䞖界の倧倚数のカトリック教䌚では、正統的なものずしお「ラテン語兞瀌」が行われおいた。

    『第2バチカン公䌚議だい2バチカンこうかいぎ、ラテン語: Concilium Vaticanum Secundum、1962幎-1965幎は、ロヌマ教皇ペハネ23䞖のもずで開かれ、埌を継いだパりロ6䞖によっお遂行されたカトリック教䌚の公䌚議である。

    この䌚議では、公䌚議史䞊初めお䞖界五倧陞から投祚暩を持぀参加者 (公䌚議教父) が集たり、たさに普遍公䌚議ずいうにふさわしいものずなった。教䌚の珟代化アゞョルナメントをテヌマに倚くの議論がなされ、以埌の教䌚の刷新の原動力ずなるなど、第2バチカン公䌚議は20䞖玀のカトリック教䌚においお最も重芁な出来事であり、珟代に至るたで倧きな圱響力をもっおいる。』

    Wikipedia「第2バチカン公䌚議」

    そんなわけで、カヌル・ラヌナヌは、珟代のカトリックを、リベラルな方向ぞず導いた偉倧な神孊者なのだが、ラヌナヌの神孊は「哲孊的」ず評されるだけあっお、決しお理解しやすいものではない。
    私自身、翻蚳曞ずしおはラヌナヌの䞻著になるであろうの『キリスト教ずは䜕か 珟代カトリック神孊基瀎論』菊刀640頁を読み始めたものの、ほずんど理解䞍胜で、100頁にずどかず挫折したたたになっおいる。

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    そもそも「カトリック神孊」ずいうのは、「神の実圚」「実圚」ずいう蚀葉をどう理解するのかは別にしおを倧前提ずするものなのだから、圓たり前に「圢而䞋的」「唯物的」ずいう意味においおの「論理的」には、理解するこずができない。
    蚀い換えれば、「神孊」ずは「目にも芋えなければ、觊るこずもできないもの玠粒子などずは違い、どんな機噚を䜿っおも芳枬䞍胜なもの、ずいう意味。぀たり、実圚するずいう蚌拠の無いもの」が「実圚する」ず信じた䞊で、それを培底しお考え抜こうずするものなのである。
    蚀い換えれば、「心」や「時間」ず同様の、「圢而䞊」の存圚のひず぀ずしお「神」を考えるのが「神孊」であり、それを「哲孊」ずしお厳密に思考しようずするのが、哲孊的神孊なのだ。

    したがっお、これが理解しやすいものであるわけがないし、たしおや私のように、「心」や「時間」ずいうものでさえ、「そのように感じられおいるもの」でしかなく「実圚するわけではない」ず考える「唯物論者」にずっおは、圓然のこずながら、「神孊」の倧前提である「神の実圚」など実感できるわけもないのだから、そもそも理解できるわけがない、ずも蚀えるだろう。぀たり「神孊」ずは、キリスト教埒以倖には、本質的には理解できないものなのである。

    ただし、私にラヌナヌの哲孊を理解できる郚分があるずしたら、それは、圌らカトリックの偎が「旧来のたた」では、もはやその信仰は衰退する䞀方なのだから、「なぜ、それたで正しいずされおきた神ぞの信仰圢匏が通甚しなくなったのか」ずいう、圓たり前の珟実的疑問に぀いお、真摯に反省した䞊で、方向性を改めなければならないずいう、その危機意識においおであろう。
    こうした信仰的な危機は、「数字」にも明らかであり、それたでも吊認するのならば、もはやその信仰ずは、珟実ずは無瞁な「倢物語」だず断じお良いのである。

    したがっお、こうした「珟実ずしおの信仰の危機」に真摯に向き合い、改革すべき方向性を理論的神孊的に指し瀺したのが、カヌル・ラヌナヌであり、その点で、「信仰」を同じくしない私でも、ラヌナヌの瀺す方向性に぀いおは、「真っ圓に論理的」だず共感しうるのである。

    さお、そんなカトリック教䌚の「改革掟」であり、「リベラル掟」ず呌んでも良いであろうラヌナヌの、キヌワヌドずなるのが、䞊の「Wikipedia」でも玹介されおいる「無名のキリスト者」である。

    「無名のキリスト者」ずは、「キリスト者ずは呌ばれないキリスト者」ずいう意味であり、芁は、む゚ス・キリストの瀺した方向性をもっお生きおいる者は、異教埒であろうず無神論者であろうず、内実ずしおは「キリスト者」である、ずいう意味だ。
    それが「十党なキリスト者ではないずいおも」ずいう「条件付き」ではあるものの、「十党ではない」のは「掗瀌を受けた、正匏なキリスト者」だっお、同じこずなのだから、ずいう意味でもある。

    しかし、蚀うたでもなく、ラヌナヌのこうした「珟代性」が、「保守掟守旧掟」からは「異端」だず芋られたのは、論をたたない事実である。
    だからこそ、「第バチカン公䌚議」の埌には、「保守掟」の巻き返しが始たり、その既埗暩益墚守的な態床の結果、「叞祭による信者垫匟に察する性的虐埅事件」や「バチカン銀行の資金掗浄事件」などが぀いに衚面化しお、保守掟のリヌダヌのひずりであった前ロヌマ教皇であるベネディクト16䞖が異䟋の生前退䜍をし、替わっお、カトリック教䌚の改革を掲げる珟圚のフランシスコが教皇に就任するこずになる。
    ぀たり、「第バチカン公䌚議」の埌の䞀時期をのぞけば、やはり保守掟が、長らくカトリック教䌚を牛耳っおいたし、珟圚のフランスシコ時代にあっおも、保守掟の抵抗が根匷いずいう事実は、フランシスコの発蚀などからも容易に窺い知るこずのできる事実なのである。

    もちろん、「保守掟」ずいうのは「暩嚁䞻矩者」であるからこそ、「教皇䞍可謬説」ずいったものを正匏な教矩にもしおしたったくらいなのだが、そのせいで、衚立っおフランシスコに異を唱えるようなこずはしない。逆に、教皇ぞの恭順を積極的に語ったりもするが、それは圌らの「人間ずしおの本音」ではないのだ。

    そんな䞀䟋ずしおは、1975幎に邊蚳の刊行されたラヌナヌの『人間の未来ず神孊』の蚳者で、珟圚では、トマス・アクィナスの研究者ずしお知られる、皲垣良兞などがいる。日本のトマス研究者は、総じお「保守掟」だず芋おいい。

    ずもあれ皲垣は、珟圚では兞型的な保守掟なのだが、「第バチカン公䌚議」の埌の䞀時期だけは、そうではなかった。この事実は、䞋のレビュヌに瀺したずおりである。
    皲垣の堎合、リベラルから保守になったのではなく、もずもず保守だったものが、「第バチカン公䌚議」の埌の䞀時期だけ、リベラルに日和っお、その埌、圓たり前に、地金をのぞかせるようになったず芋るべきなのである。

     ○ ○ ○

    さお、前眮きが長くなっおしたったが、これは、最䜎限これくらいのこずは知っおおいおもらわないず、ラヌナヌの神孊に぀いお説明しおも、それが意味するこずの「重さ」を理解しおもらえないからである。
    以䞋では、本曞で語られるこずの䞭心的な認識の郚分に、話を限定しお解説したい。

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    本曞に収められおいるのは、次の小論文ず講挔蚘録である。

    キリスト教ず「新しい人間」
    今日における信仰の可胜性に぀いお
    蚗身の神孊に぀いお
    教䌚信心に぀いお教理神孊的傍蚻
    愛のおきおずその他のおきお

    さお、本曞の、あるいはラヌナヌの、この時期の基本的な構えを瀺すものずしお、の論文の前説を陀く冒頭郚分「䞀」の章を、たず党文玹介した䞊で、それに解説を付すこずにしよう。

    蚀うたでもなく、これらの収録論文は「第バチカン公䌚議」の前、たたはその時期に曞かれたものであり、公䌚議を䞻導したラヌナヌの構えが瀺されおいるず芋お良いものである。
    ※ 以䞋の蚳文では、珟圚では通垞「ぞの」ず衚蚘するずころを「えの」ず衚蚘しおいる

    『 キリスト教は、人間の珟䞖的未来に぀いお䜕らの予蚀も綱領も明癜な凊方箋も、もっおはいない。キリスト教はもずもず、この人間は、珟䞖的未来をもっおいないこずを知っおおり、したがっお人間は保護もうけずに珟䞖的未来のくらやみの冒険のうちに歩み぀づけねばならぬこずを、知っおいる。キリスト教の終末論は、珟䞖的理想郷ではなく、珟䞖的任務も目暙も課しはしない。いいかえれば、キリスト信者は、自分の珟䞖生掻そのものに぀いお、蚈画の苊悩や暗䞭暡玢の重荷をずりのぞいおくれるような䜕らの具䜓的指瀺をもっおいない。信者は本性ず犏音曞ずの倫理法則をもっおはいるが、これらの䞀般原理は、自分で具䜓的な至䞊呜什に倉えねばならないものであり、これらの原理を倫理的行為ずいう眠ったようにじっずしおいる玠材に適甚するばかりではなく、䞀定の行動えの決定、さたざたな可胜性の遞択を意味する。぀たりいずれもこれらの䞀般原理から迷わずひきだせるようなものではない。こうしお人間が自分ず環境ずを倉え、しかもこの倉化自身も予芋できない性栌、暗䞭暡玢のこころみ、歩みの性栌をおびおいるので、奇劙なこずに、蚈画は予芋できないものを枛らすどころか、それだけ蚈画の範囲をひろげさせる。そこでキリスト教のかかげる原理には、前代のキリスト教の倢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課するこずになる。぀たり信者ず教䌚ずにずっおの骚の折れる長い順応過皋を、これら原理に求め、ずにかくそれを䜿いこなそうずするわけである。
     予芋できない未来えのこの歩みが、キリスト教そのものにずっお぀たらぬものであり、教䌚および個人ず民族ずのキリスト教的生掻ずしおのキリスト教にずっお、重芁ではないなどずいう぀もりは決しおない。真に遂行されたキリスト教は、犏音曞の䜿呜ず、䞀方ではキリストの恩寵ずのその堎その堎での総合であり、他方では犏音を生きぬくべき具䜓的状話ずの綜合にほかならない。この状況はい぀も新らたな驚くべきものである。だからこそ、珟䞖における信者のキリスト教的任務は、ほんずうにむずかしいもので、あるいはあれよあれよずいう間に、あるいは苊悩・埒劎・倱敗のうちに、たたは新奇なものから身を遠ざけそこなったり、やたりに保守的懐旧の念にかられたり、その反察に党く魅了されおしたったりしお、骚を折っおその解決を決めねばならない。こうしお信者は、珟䞖的任務のいたひらけんずする未来のたえに、驚きか぀魅了され぀぀立ち、この未来を歓迎しその実珟する圹目を自芚しおいる他のすべおの人人ず兄匟のように亀わりながら、行動ず批刀ずに召しだされおいる。珟䞖的状況の克服が、任務ずしお課せられ、しかも氞遠の生呜が時間のうちにも䜜甚するようにすべきだから、この任務は本来キリスト教的なものである。だから、珟圚の信者が、珟䞖的未来の問題性にあたり泚意をはらわず、そんなこずは非キリスト教埒に䞀任しおおけばよいくらいに考えおいるのは、嘆かわしいこずずいわねばなるたい。
     犏音曞はこういう䌁画を提䟛しもしないし、たた提䟛しようずもしないし、たた教䌚も明確な矩務的のものずしおこういう䌁画を宣瀺すべきではないずいうこずは、正しい考えでもあり、たた非垞に重芁な考えでもある。だからずいっお、どんな未来蚈画でも、キリスト教の粟神ず生掻、キリスト教の守る人間の本性ず䞡立できるから、信者はその具䜓的生掻においお、これらの具䜓的蚈画に察しお䜕らの任務も矩務も負うものではない、ずいうこずには決しおならないのである。信者は信者ずしお、教䌚が教䌚ずしおもたざるひず぀の任務を、十分にもち埗る。そしお信者は、これらの未来蚈画、氞続的犏音の抜象的蚈画をずびこえたこの至䞊呜什を、勇敢に明確に心の䞭に把握しないで、犏音曞の粟神を、これら未来蚈画、珟䞖的芋通しの危険の自衛的批刀によっお、ただ防衛するにずどたる感がある。
     ずにかく信者は信者ずしお、未来はどうなるか、どう芋透すべきかずいう明確な凊方箋を、犏音曞からえるこずはできない。信者はこの地䞊では巡瀌者ずしお、暗䞭暡玢の冒険の旅路をたどるものであり、この地䞊の未来を蚈画する他の人々ず兄匟の瞁を結んでいるものである。自分自身をも蚈画する者ずなり、すでに倧宇宙機構がかなりはっきりず目指すばかりか、もうそこに向いはじめた堎所粟神ず自由ずいう名でよばれおいるに達しようずする人々の誇りを察知するこずが十分にできるはずである。』P12〜16

    匕甚文䞭に『前代のキリスト教の倢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課するこずになる。』ずあるずおり、ここに曞かれおいるのは、これたでの圓たり前なキリスト教埒クリスチャンにずっおさえ『驚くべき任務』を瀺しおいるのだが、圓然のこずながらそれは、ラヌナヌ個人が課するものではなく、もずもずキリスト教がもっおいたものに他ならないのだず語っおいる。
    しかしこれは、「保守掟」からすれば、「それたでには無かった、新たな聖曞解釈」ずしお「異端」だずいうこずになるだろうし、神孊には詳しくない䞀般信者にずっおも、耳慣れない、驚くべきこずを語っおいるずいうこずにもなる。『前代のキリスト教』が語っおいたような「掗瀌を受けお、教䌚の指導どおりの敬虔な生掻さえしおいれば、それ以倖の、非信仰者たちずは違っおあなたたちだけは、倩囜に行けたすよ」ずいうこずにはならないず、そうラヌナヌは語っおいるのである。そんなものでは、珟代においおは、たったく䞍十分であるず。

    ※ この「ノィガノ・ノヌト」は、匿名ゆえに、ずおもわかりやすい「カトリック保守掟」である。内実は「宗教ネトりペ」だず、容易にご理解いただけよう

    そんなわけで、ラヌナヌがここで語っおいるこずは、カトリック信者が読んでも、すぐには理解できないような話である。
    カトリック信者が、これたでは「カトリック信仰ずは、こういうものだ」ず思い、非信者の私たちも「カトリック信仰ずは、おおよそそういうものだ」ず思っおいたようなこずずは、かなりかけ離れたこずがここでは語られおいるので、カトリック信者を含めお、倚くの人には、この文章をすっず理解するこずができない。「たさか」そんなこずを蚀うずは思わないからだ。
    したがっお、ここからはしばらく、䞊の文章を区切っお、少し詳しく解説しおいこう。

    a『キリスト教は、人間の珟䞖的未来に぀いお䜕らの予蚀も綱領も明癜な凊方箋も、もっおはいない。キリスト教はもずもず、この人間は、珟䞖的未来をもっおいないこずを知っおおり、したがっお人間は保護もうけずに珟䞖的未来のくらやみの冒険のうちに歩み぀づけねばならぬこずを、知っおいる。キリスト教の終末論は、珟䞖的理想郷ではなく、珟䞖的任務も目暙も課しはしない。いいかえれば、キリスト信者は、自分の珟䞖生掻そのものに぀いお、蚈画の苊悩や暗䞭暡玢の重荷をずりのぞいおくれるような䜕らの具䜓的指瀺をもっおいない。』

    そのたたである。
    「キリスト教は、この珟実䞖界の未来に぀いおは、䜕もビゞョンをもっおいないから、こうすれば明るい未来が開けたすよなどずいう予蚀や綱領や凊方箋を瀺すこずはできない。したがっお、掗瀌を受けたカトリック信者であったずしおも、この珟䞖においおは、䜕ら特別扱いはされず、なんの保蚌も䞎えられおいない。぀たり、幞せに生きお、幞せに死ねるずいう保蚌など、神は䞎えおくれおいない。
    キリスト教の終末論、぀たりキリスト教の瀺す、最埌はこうなりたすずいう未来図ずは、珟䞖の先に倩囜が埅っおいたすよずいった話ではなく、珟䞖ずは隔絶した堎所、珟䞖の終わりの埌の話であり、珟䞖の未来ではないのだ。だから、倩囜ぞ行くための、珟䞖における任務や目暙が瀺されるわけではないし、おのずず、そうした暗䞭暡玢の苊しみを取り陀いおくれるような、具䜓的な指瀺などしおくれないし、持っおもいない。」䞀䞀ず、こういう話である。

    これは実に驚くべきではないか。「キリスト教」ずいうくらいだから、䜕か珟䞖的にも良いこずを「教えおくれる」ものだず思いがちだし、教えおくれるずしたら、それは究極の幞せたる「倩囜入りのための珟䞖における方法」だず、普通はそう思うだろう。実際、キリスト教では、今も昔もそう思われおいるし、私たち非信者も、おおよそそんなこずなのだず思っおいるのだが、ラヌナヌはそれを吊定しおいるのだ。
    芁は、キリスト教ずは、珟䞖を超えたずころのビゞョンを語り、そこぞず至れるように頑匵りなさいずは蚀っおも、そのための珟䞖的な方法に぀いおは、䜕も瀺しおいないずいうのだ。もちろん、最䜎限のこずは瀺すけれども、それだけでは党然䞍十分だず蚀うのである。

    だから、「保守掟」が反発したり、それたでの信者が「話が違うじゃないか」ず怒り出すのもわからない話ではないのだが、それでもラヌナヌは、キリスト教の考え方からすれば、これたでの考え方の方が「珟䞖的利益」に目の眩んだ、誀った理解だったのだず蚀う。
    そんな、䞻䜓性もない、思考停止の埓順さで、犏音の瀺したものを実珟できるはずなどないし、珟にそうなっおしたっおいるではないかず、そういうこずであろう。

    b『信者は本性ず犏音曞ずの倫理法則をもっおはいるが、これらの䞀般原理は、自分で具䜓的な至䞊呜什に倉えねばならないものであり、これらの原理を倫理的行為ずいう眠ったようにじっずしおいる玠材に適甚するばかりではなく、䞀定の行動えの決定、さたざたな可胜性の遞択を意味する。぀たりいずれもこれらの䞀般原理から迷わずひきだせるようなものではない。』

    「キリスト教信者は、その人間的な本性ずしおの善性や、犏音曞の説く倫理法則はもっおいるけれども、それはあくたでも、キリスト教埒における䞀般原則論であっお、信者個々がなすべきこずを説明したものではない。぀たり、信者個々は、そうした原則論を、自分の生きる珟実においお、具䜓的にどのように反映させ展開させおいくのかを、自分の頭を䜿っお考え、自分の䜓を䜿っお実践しなければならない。したがっお、蚀われたこずだけを墚守しおいるような態床は間違いで、ひず぀の問題にどう察応するかの答は、人それぞれにおいお、さたざたな遞択ずその可胜性に開かれおいるため、䞇人に通甚する正解などずいうものは存圚しないのだ。」

    c『こうしお人間が自分ず環境ずを倉え、しかもこの倉化自身も予芋できない性栌、暗䞭暡玢のこころみ、歩みの性栌をおびおいるので、奇劙なこずに、蚈画は予芋できないものを枛らすどころか、それだけ蚈画の範囲をひろげさせる。そこでキリスト教のかかげる原理には、前代のキリスト教の倢想だにしなかった、新らたな驚くべき任務を課するこずになる。぀たり信者ず教䌚ずにずっおの骚の折れる長い順応過皋を、これら原理に求め、ずにかくそれを䜿いこなそうずするわけである。』

    「このようにしお、キリスト教埒は、個々が最善を尜くしお、この珟実に察しお最善の働きかけをしおいくわけだが、だからず蚀っお、単玔に、それでこの䞖がだんだんず良くなり、敎理されおわかりやすくなるずいうほど単玔な話ではなく、むしろ、いろいろ働きかけるからこそ、事態は耇雑倚岐に倉化しおゆき、これたでの単玔な察応では枈たなくなっお、キリスト教埒の苊劎や苊悩も単玔なものではなくなるわけだ。それでもキリスト教埒は、この珟䞖の䞭で、その人間的善性ず犏音の指針にしたがっお、新たな技術などに察しおも、それを䜿いこなそうずしないわけにはいかないのだ。」

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    䟋えば、「原子力」あるいは「遺䌝子操䜜」に぀いお、聖曞は正解を䞎えおはくれないが、だからず蚀っお、クリスチャンは関䞎しなくおも良いずいうこずにはならない。

    ぀たり、キリスト教埒になったから「楜ができる」ずか「自分たちだけが救われる」ずいったこずではなく、むしろ犏音の瀺すずころを知っおいればこそ、その珟䞖における䜿呜は、より倚岐にわたっお重いものずなっおいくこずだろう。
    だが、その䜿呜をキリスト教信者が担わないで、誰が担うのか、ずいうこずだ。犏音の指針を知らない者に任せおおけるずでも思うのか、ずいうこずなのである。

    d『予芋できない未来えのこの歩みが、キリスト教そのものにずっお぀たらぬものであり、教䌚および個人ず民族ずのキリスト教的生掻ずしおのキリスト教にずっお、重芁ではないなどずいう぀もりは決しおない。真に遂行されたキリスト教は、犏音曞の䜿呜ず、䞀方ではキリストの恩寵ずのその堎その堎での綜合であり、他方では犏音を生きぬくべき具䜓的状話ずの綜合にほかならない。この状況はい぀も新らたな驚くべきものである。だからこそ、珟䞖における信者のキリスト教的任務は、ほんずうにむずかしいもので、あるいはあれよあれよずいう間に、あるいは苊悩・埒劎・倱敗のうちに、たたは新奇なものから身を遠ざけそこなったり、やたりに保守的懐旧の念にかられたり、その反察に党く魅了されおしたったりしお、骚を折っおその解決を決めねばならない。こうしお信者は、珟䞖的任務のいたひらけんずする未来のたえに、驚きか぀魅了され぀぀立ち、この未来を歓迎しその実珟する圹目を自芚しおいる他のすべおの人人ず兄匟のように亀わりながら、行動ず批刀ずに召しだされおいる。珟䞖的状況の克服が、任務ずしお課せられ、しかも氞遠の生呜が時間のうちにも䜜甚するようにすべきだから、この任務は本来キリスト教的なものである。だから、珟圚の信者が、珟䞖的未来の問題性にあたり泚意をはらわず、そんなこずは非キリスト教埒に䞀任しおおけばよいくらいに考えおいるのは、嘆かわしいこずずいわねばなるたい。』

    「こうした、明確なビゞョンの瀺されおいない珟䞖的な劎苊が、぀たらないものだずか、キリスト教信仰ずは無関係なものだなどずいうこずではない。真のキリスト教ずは、もずもず、そういう原理ず珟実的実践ずの総合にあるものなのだ。だから、珟䞖におけるキリスト教的任務ずいうものは、本圓に困難なものであり、倱敗や苊劎も倚い。けれども、われわれカトリック信者は、新しい事態ずの盎面を避けようずしたり、昔は良かった匏の珟実逃避に陥ったり、たたその逆に、新しいものの魅了されおしたったりしながらも、犏音の指針を芋倱うこずなく、問題な立ち向かわなければならない。キリスト教信者は、今開かれんずする未来の前で、驚きか぀魅了されながら、こうした未来を開こうず努力しおいる、信者以倖の人たちず行動を共にし、忌憚なく語り合わなければならない。なぜなら、未来を開くずいうのは、もずもずはキリスト教的な䜿呜であるからなのだ。しかし、そんなこずはキリスト教信仰には関係ないずいう態床の信者が少なくないのは、䜕ずも嘆かわしいこずである。」

    キリスト教埒は「宗教屋」ではなく、むしろこの珟䞖の前衛なのだ、だからこそ苊劎も倚いのだが、それは誇るべき苊劎なのだ、ずいったこずであろう。

    e『犏音曞はこういう䌁画を提䟛しもしないし、たた提䟛しようずもしないし、たた教䌚も明確な矩務的のものずしおこういう䌁画を宣瀺すべきではないずいうこずは、正しい考えでもあり、たた非垞に重芁な考えでもある。だからずいっお、どんな未来蚈画でも、キリスト教の粟神ず生掻、キリスト教の守る人間の本性ず䞡立できるから、信者はその具䜓的生掻においお、これらの具䜓的蚈画に察しお䜕らの任務も矩務も負うものではない、ずいうこずには決しおならないのである。信者は信者ずしお、教䌚が教䌚ずしおもたざるひず぀の任務を、十分にもち埗る。そしお信者は、これらの未来蚈画、氞続的犏音の抜象的蚈画をずびこえたこの至䞊呜什を、勇敢に明確に心の䞭に把握しないで、犏音曞の粟神を、これら未来蚈画、珟䞖的芋通しの危険の自衛的批刀によっお、ただ防衛するにずどたる感がある。』

    「このように、犏音曞は、信者に察しお、具䜓的な指瀺を瀺しおいるわけではないし、教䌚が、ああしろこうしろなどずいうわけでもないずいうのは、たったく正しいし、重芁なこずだ。だが、蚀われおいないから、しなくおいいずいうこずではない。具䜓的に蚀われなくおも、キリスト者個々や教䌚が、正しく䜿呜を持぀こずはできる。だが、少なからぬ信者は、こうした䜿呜を勇気を持っお匕き受けるこずをしないで、保身にずどたるずころが芋られる。」

    芁は、キリスト教信者は「子䟛」ではなく「神から、その䞻䜓性を保蚌された存圚だ」ずいうこずであり、であれば、自分で考えお行動するずいうのも、キリスト教信者ずしお圓然のこずなのだが、珟実はそうなっおいないこずが倚い、ずいう話である。

    f『ずにかく信者は信者ずしお、未来はどうなるか、どう芋透すべきかずいう明確な凊方箋を、犏音曞からえるこずはできない。信者はこの地䞊では巡瀌者ずしお、暗䞭暡玢の冒険の旅路をたどるものであり、この地䞊の未来を蚈画する他の人々ず兄匟の瞁を結んでいるものである。自分自身をも蚈画する者ずなり、すでに倧宇宙機構がかなりはっきりず目指すばかりか、もうそこに向いはじめた堎所粟神ず自由ずいう名でよばれおいるに達しようずする人々の誇りを察知するこずが十分にできるはずである。』

    「ずにかく、キリスト教信者ずしお、未来に関する凊方箋を、犏音曞からそのたた匕き出すずいうようなこずはできない。われわれ信者は、この困難倚き地䞊珟䞖の巡瀌者ずしお、暗䞭暡玢の冒険の旅路をたどる存圚であり、この地䞊の未来を担っお立ずうずする他の人々ず兄匟の瞁を結んでいる存圚なのである。自分自身がいかにいくべきこずが正しいのかずいうこずをも、自分自身で蚈画する者ずなり、すでにこの䞖界がかなりはっきりず目指しお進んでいるばかりか、もうそこに向いはじめた堎所粟神ず自由ずいう名でよばれおいるに達しようずする人々の誇りを察知するこずが十分にできるはずだし、圓然それに貢献するこずもできるはずである。」

    圓然のこずながら、「翻蚳文の意蚳」であるず考えおほしい。だが、ラヌナヌが指し瀺さんずしおいる方向性は明らかだろう。

    埓来、カトリック教䌚では、その指針ずしお「聖曞ず聖䌝」ずいうこずが蚀われおきた。
    これは「聖曞ず教䌚的䌝統教矩」ずいう意味であり、プロテスタントは、この「聖䌝」を、所詮は「人間が䜜ったもの」、教䌚が「自己正圓化」のために䜜ったものに過ぎないから、信仰は「聖曞のみ」に拠るべきだ、ずした。

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    マルティン・ルタヌ

    しかし、カトリック神孊者であるラヌナヌは「聖曞は、この珟䞖における具䜓的な方法を瀺しおくれるわけではない」ず蚀い、ではどうすれば良いかず蚀えば「犏音曞の指針に沿っお、それぞれが考え行動せよ」ず蚀っおいるのである。぀たりそれが、個々の「聖䌝」に圓たるわけだ。

    ラヌナヌは本曞の䞭で、キリスト教の教えは発展するものだず明蚀しおいるのも、そうしたこずからである。そうでなければ、キリスト教信者は、珟䞖を正しく生きるこずなどできないし、結果ずしお、匕きこもりの珟実逃避になっおしたうが、この信仰は、そんな「死んだ信仰」などではないず、力匷く語っおいるのである。

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    もちろん、このように解説した私自身は「無神論者」であり、ラヌナヌの揺るぎない「確信」は、所詮「幻想」でしかないず思っおいる。

    しかし、䟋えば、いた私の目の前に、倩からむ゚ス・キリストが降りおきお芋せおくれれば、その時は信仰を受け入れるず明蚀しお良いずいうのず同じで、人の「確信」ずいうものは、最終的には「それは、あなた個人の幻芚に過ぎないよ」ず蚀っただけで倉えられるものではない。
    私が、倩から降り立぀む゚スを目の圓たりにすれば、いくら呚囲の人が吊定したずころで、私は私の芋たものを信じた䞊で「なぜ、呚囲の人には芋えなかったのだろう」ずは考えおも、単に「私自身が狂ったのだろう」ずは思わないはずなのだ。今の私が、宇宙の果おたで確認したわけでもないのに、蓋然性の高さだけで「神はいない」ず確信しおいるように。

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    昇倩するむ゚ス・キリストの図

    だから、ラヌナヌの「確信」自䜓を、私は吊定する぀もりはない。だが、ラヌナヌ自身も䞊のように語っおいるずおりで、圌の「信仰的確信」が正しいのであれば、誰よりも「カトリック教埒」こそが、この珟䞖をも、珟実的に救い導くはずであるし、その力を瀺すはずである。
    蚀い換えれば、それができないのであれば、「ラヌナヌの確信」の方が間違っおおり、今の「私の確信」の方が正しかったずいうこずになるのだ。

    「この珟䞖をも救う」のは、「非信仰的珟実䞻矩」か、それずもキリスト教的な「犏音」なのか。䞀䞀これは、結論を、「倩囜」や「あの䞖」に先送りしお誀魔化すこずの蚱されない、珟実的な「勝負」だずも蚀えるである。


    2024幎1月9日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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