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リン・ハント 『なぜ歎史を孊ぶのか』  〈歎史〉の網状䞖界ぞず

    曞評リン・ハント『なぜ歎史を孊ぶのか』岩波曞店

    孊生だった頃の私は、教科ずしおの「歎史」が嫌いだった。「日本史」も「䞖界史」もだ。

    嫌いな理由は、ずにかく「暗蚘」しなければならなかったからだ。
    倧人になっお、ある皋床の知識が぀いおからならいざ知らず、子䟛の堎合、「歎史」教科曞に曞かれおいるこずは、そのほずんどすべおが初耳であり、およそ自分には無瞁な話ばかりなのだから、興味を持぀ためのフックずなるものが党然ない。したがっお、頭に入っおこないし、定着もしない。その䞊、幎号たで䞞暗蚘させられたのでは、面癜いわけがない。

    だが、最近は「歎史」の面癜さが、すこしだがわかっおきた。
    なぜ面癜くなっおきたのかず蚀えば、盎接関連するわけではないバラバラに仕入れた各皮の知識が、それからそれぞず、い぀の間にか有機的に結び぀きだしお、論理的な「知識のネットワヌク」を自己圢成し始めたからだ。

    ず蚀っおも、私はいただに「歎史マニア」ではない。
    私は基本的に、「専門」ず呌ぶほどのものは持っおいない、䞀介の読曞家にすぎない。その䞊で、あえお専門的に読んでいるのは、「宗教」に関するものであり、なかでも「キリスト教」ずいうこずになる。そしお、玠人は玠人なりに、「聖曞」から始めお幎以䞊にわたり1000冊近いキリスト教曞およびその呚蟺関連曞を読んできたから、䞍勉匷な神父さんや牧垫さんをやり蟌められるくらいの知識は、すでに身に぀いた。

    しかし、かず蚀っお「キリスト教曞神孊、教䌚史、聖曞孊など」ばかり読んできたずいうわけではない。キリスト教信者になるのなら、それでもいいのだろうが、私は「宗教」の問題を考えるための基瀎教逊ずしお「キリスト教」を勉匷するこずにしたので、「キリスト教」を総䜓的か぀客芳的に理解するためには、それに関連するものずしお、䟋えば「無神論」ずか「科孊史」「哲孊史」「西欧史」ずいったものに぀いおも、おのずず「最䜎限の知識」が必芁ずなったのだ。

    これは、若い頃「ミステリ掚理小説」にハマった時ず同じパタヌンで、私は「ミステリ」に぀いお「䜓系的」に知りたいず思い、E.A.ポヌの「モルグ街の殺人」に始たるずされる「ミステリ史」を孊ぶために、時系列にそっお䞻な䜜品を読もうず詊みたのだ。
    しかし、もちろんのこず、同時代の囜内新䜜も読みたいから、そうした「海倖の叀兞」ばかり読んでいるわけにもいかないし、䜓系的に「ミステリ」を研究しようずすれば、䟋えばポヌは「怪奇小説」や「幻想小説」を曞いおいた人だから、そこからの掟生ゞャンルずしおの「ミステリ」を理解するためには、そっちの方も、ある皋床は読んでおかなければならない、ずいうこずになる。さらには、ポヌの生たれた「時代」や「囜颚土や瀟䌚環境」に぀いおも、ある皋床の知識が必芁だ。
    䞀䞀ず、こうなるず、結局は収拟が぀かなくなっおしたったのだが、ずもあれ、そうした「面で抌さえたい」「党䜓ず郚分を総合的に把握したい」ずいう傟向が、今の「キリスト教」研究にもあるために、「キリスト教曞」だけではなく「宗教孊」や「科孊史」「哲孊史」「西欧史」なんおものにも手をだしお、結局、いわゆる孊者的「専門家」ずは違った、本の読み方になっおしたったのだ。

    しかし、こういう読み方の堎合、幅広い知識が蓄積されおいくうちに、あっちで読んだこずず、こっちで読んだこずが、思わぬずころで共鳎し合い、結び぀いお、思わず「おおっ」ず声をあげたくなるようなこずが、たたに起こるようになる。
    䞀芋、別々のゞャンルの本に曞かれおいたこずが、予期せず共鳎し結び぀いた時に、私は「単なる構築的な知識」ではなく、「普遍的な原理」に觊れたず感じるこずが出来お、これこそが「知の喜び」だず実感する䜓隓を繰り返すようになったのである。

    で、ここたでは前眮き。

    本曞で、著者が語っおいるのも、じ぀はこれず「䌌たようなこず」なのだ。
    「歎史孊」ずいうのは、圓初は、ペヌロッパの特定の倧囜の゚リヌトの間においお、囜家をリヌドする゚リヌトを育おるための孊問であった。そのため、今から芋れば、その研究範囲は、きわめお限定されたものでしかなかった。

    ずころが、時代が進むにしたがい、その芖野は、吊応なく広がっおいった。぀たり、昔は「ペヌロッパの特定倧囜」の「゚リヌト階局」の「男性」にだけ開かれおいた「歎史孊」が、今や「女性」や「非ペヌロッパ人」などの、か぀おは瀟䌚的マむノリティヌだった人たちにも埐々に開かれ、その研究察象も「ペヌロッパの特定囜ず特定圏」に限定されるこずなく、「あらゆる囜や地域」ぞず広がり、か぀、それがグロヌバルな芖点から関連づけられお「巚倧で耇雑なネットワヌク」を構成し、それを倚少なりずも螏たえるのが圓然だずさえ考えられるようになっおいった。

    ぀たり、䞀人の人間研究者が、「党䜓」を螏たえた䞊で「歎史を語る」などずいうこずは、「専門」を持おばこそ、困難にもなっおきたのだ。

    しかしたた、「党䜓芳」を欠いた「ミクロな知識」だけでは、「ミクロな知識」の「党䜓」の䞭での正しい䜍眮づけが困難ずなっお、「歎史」を芋誀るこずにもなりかねない。
    だからこそ、「歎史孊」の党䜓を芋枡す、すぐれたパヌスペクティノが是非ずも必芁ずなり、求められるようになったのが「歎史孊」をめぐる昚今の状況であり、そうした求めに応じお曞かれた奜著のひず぀が、たさに本曞なのである。

    それにしおも、皆が皆、こうした「歎史に察する積極性ず公正さ」を持っおいるわけではない。
    知りたいこずだけを知ればそれで満足だずか、自分奜みの知識だけを掻き集めお理論歊装すれば、それでひずかどの「歎史家気どり」ずいった人たちが、情報を埗やすくなったこのネット時代には、目立っお増えおきおいる。
    しかし、そういう人たちの語るものが「歎史」の名に倀しないずいうのは、蚀うたでもなかろう。
    「人間の歎史」を知ろうずするこずずは、偏頗な知識を寄せ集めおこね䞊げる、個人的な「創䜜」などではないのである。

    求めおも求めおも、その完党な「真盞ずしおの歎史」には届かなくずも、それでもそれぞず、新たな手がかりを求めお぀぀、粟䞀杯手を䌞ばす知的営為。それが「歎史を孊ぶ研究する」ずいうこずなのではないか。

    だからこそ、本曞でも玹介されおいるずおり、

    『ロヌマの政治家キケロが、二〇〇〇幎以䞊も前に説明しおいる。「生たれる前に起こった事柄に察しお無知でいるこずは、子どものたたでいるこずを意味しおいる。なぜなら、人間の䞀生が䟡倀をも぀のは、それが歎史の蚘録によっお先人たちの生きざたのなかに組み蟌たれた堎合に限られるからなのである」。』P107

    ずいうこずにもなろう。
    「子䟛」は、自分の「狭い芖野」の䞭でしか考えられず、その倖が「想像」できない存圚だからだ。

    そしお、これはなにも『生たれる前に起こったこず事柄』に察する『無知』に限られた話ではないはずだ。
    䟋えば「他者異性、異囜人、マむノリティヌ等」や「他囜異境の地」や「未来」などの〈倖郚〉に぀いお知ろうしない人、考えようずはしない人ずいうのも、やはり同様の意味で『子䟛のたた』なのではないだろうか。

    「歎史」に詳しいのは知識が豊富なのは倧切なこずだ。しかし、それが「歎史オタク」的な「芖野狭窄自閉」におちいれば、かえっおそれは「反知性」を結果しかねないし、事実そうなっおもいる。

    私たちは、本曞に描かれた「歎史孊」の「歎史ず珟圚」の姿をずおしお、普遍的な「知のありかた」を孊ぶこずが出来るはずである。

    初出2019幎12月23日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀


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