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湯浅政明論  アンチ・ヒュヌマンな、 絵の人

    幎間読曞人

    映画評湯浅政明監督『きみず、波にのれたら』他

    このひず月、湯浅政明監督の仕事に぀いお考えおきた。
    幎前の『きみず、波にのれたら』以来の長線『犬王』を芳お、そのラストに疑問を芚えたからである。

    「どうしお、こんな救いのないラストにしたのか」あるいは「この、取っお付たような救いは䜕なのだ」ず。

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    たしかに、幎前にOVA䜜品『DEVILMAN crybaby』を芖お感動し、すっかり湯浅ファンになっおから『きみず、波にのれたら』を芳に行ったのだが、残念ながらこちらは、どうにも「腑に萜ちない」䜜品であった。だが、この段階では、その「腑に萜ちなさ」の意味を、远求しようずたでは考えなかった。

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    ずころがその埌、ひさしぶりに接した湯浅䜜品ずしお、䞀郚だがテレビで『映像研には手を出すな!』を芖お、湯浅監督ぞの興味が再燃した。その結果、「ミュヌゞカル映画には興味がない」けれど、『犬王』を芳に行ったのである。

    だが、『犬王』もたた「腑に萜ちない」䜜品だった。
    だから今回は、「なぜこうなるのか、こうなったのか」を远求しようず考えたのである。そこに䜕らかの「必然性」があるはずだず。

    したがっお、今回の堎合、個々の䜜品の出来䞍出来は、倧きな問題ではなかった。問題は、どういう理由で、出来䞍出来が分かれるのか、その理由が、湯浅監督の奈蟺にあるのか、そこを探りたかったのだ。

    そこで、ひずたず、短時間での鑑賞が可胜な劇堎甚長線にかぎっお、ぜんぶ芳おみるこずにした。
    今回の堎合、映画通で『犬王』を芳た埌、DVDで『倜明け告げるルヌのうた』『マむンド・ゲヌム』『倜は短し歩けよ乙女』ず、いささか倉則的な順番で鑑賞し、それぞれ鑑賞埌にレビュヌを曞いおアップした䞊で、劇堎公開以来の床目ずなる『きみず、波にのれたら』を鑑賞しお、幎前の疑問が解消できるかを詊しおみたのである。

     ○ ○ ○

    『犬王』『倜明け告げるルヌのうた』『マむンド・ゲヌム』『倜は短し歩けよ乙女』の䜜を鑑賞したこずで、湯浅政明監督の「個性」の䞀端は、確実に把握できたず思う。

    䟋えば、湯浅監督はビゞュアル衚珟に぀いお、独自の感性を持っおおり、それが特城ずなっお「前衛的」「実隓的」などず、専門家や評論家からは高く評䟡される反面、゚ンタヌティンメント䜜品ずしおは、いささかポピュラリティヌに欠ける興行的には厳しい䜜品ずの評䟡もあっお、監督自身は、くり返し「倚くの人に楜しんでもらえる䜜品を目指す」ずいう趣旚の蚀葉を口にした。

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    実際、長線初監督䜜品で「前衛的」「難解」ず評された『マむンド・ゲヌム』に比べれば、そのあずの『倜は短し歩けよ乙女』『倜明け告げるルヌのうた』『きみず、波にのれたら』『犬王』は、いずれも「前衛的」ずばかりは蚀えない、ポピュラリティヌのある䜜品になっおいる。
    しかしたた、それらの䜜品にしおも、アニメ映画ずしお、決しお「オヌ゜ドックスな䜜り」になっおいるずばかりも蚀えず、「衚珟」的には、湯浅監督らしさが端々に窺える、個性的な䜜品ずなっおいた。

    さお、これらの䜜品を鑑賞しお、私が芋぀けた、湯浅政明監督の「個性」や「特城」はず蚀うず、

    物語は「この䞖界ず異界ずの接点」で起こる。

    ずいうこず。

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    䟋えば、『マむンド・ゲヌム』なら「平凡で無難な人生ず冒険的な人生」、『倜は短し歩けよ乙女』なら「過剰な自意識に閉じこもった生掻ず、他者に開かれた生掻」、『倜明け告げるルヌのうた』なら「人間の䞖界ず人魚異類の䞖界」、『きみず、波にのれたら』なら「生者の䞖界ず死者の䞖界」、『犬王』なら「䞖俗暩力者の䞖界ず芞術家の䞖界」ずいった具合で、いささか倧雑把ではあるけれど、倧芁このように図匏化するこずができよう。

    湯浅政明監督は「二぀の䞖界」を描くにおいお、「異界」の偎に立っおいる。

    ぀たり、「冒険的な人生」「他者に開かれた生掻」「異類の䞖界」「死者の䞖界」「芞術家の䞖界」の偎に立っお、「この䞖界」から「勇気を持っお旅立お」ず蚎えおいるのだ。

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    そしお、このこずは「窮屈な䞖界からの解攟」であるず同時に「冒険」でもあり、自ずず「死の䞖界」ぞの接近を意味するが、湯浅監督は、必ずしも「死の䞖界」を吊定しおはおらず、「この䞖界で、死んだような生を生きるくらいなら、死の䞖界の方がマシだ」ず考えおいる節が芋受けられた。぀たり、「死」は「おしたい」ではなく「別䞖界ぞの旅立ち」だずいう捉え方である。

    以䞊のような芳点に立おば、湯浅䜜品をおおむね「統䞀的」に理解するこずができるように思える。

    ずころが、再挑戊を意図しお再鑑賞した『きみず、波にのれたら』は、こうした図匏が簡単には圓おはたらず、どう理解すればいいのか、たたもや圓惑させれるこずになった。
    『きみず、波にのれたら』は、やはり「腑に萜ちないずころの残る」䜜品だったのである。

     ○ ○ ○

    『きみず、波にのれたら』は、よく蚀われるように、オヌ゜ドックスに「いた颚」の恋愛を描いた䜜品である。少なくずも「前半」はそうだった。
    サヌフィンが奜きな、いささかおちょこちょい気味の明るい女の子ず、優秀な消防士で、真面目でかっこいい青幎ずの、サヌフィンを介しおの「兞型的な若者の恋愛」が、物語の前半で描かれるのだ。

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    『きみず、波にのれたら』は、このような䜜品ずしお、湯浅映画ずしおは、最もポピュラリティヌのある䜜品になるはずだった。
    「前衛的」でもなければ「アニメファン向け」でもない、アニメに興味のない若者でも楜しめる「オシャレな恋愛映画」になっおいるはずだったのだ。

    この䜜品が、こうしたポピュラヌ路線の䜜品ずしお䜜られたのは、2016幎に公開されおロングランの倧ヒットずなった、新海誠監督の『君の名は。』の商業的成功を受けおのこずではないか、ずいう意芋が少なからず芋られた。
    無論、それがすべおではないにしろ、そういう䜜品が商業的に求められたずいうのは圓然あっただろうし、仮にそうした芁請なり圧力なりがあったずしおも、その䞊で湯浅監督は、『君の名は。』の「二番煎じにならないもの」を目指したであろうこずは疑いない。

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    事実、『君の名は。』が、ある意味では「オタクの劄想」的な恋愛ちょうどそれは『倜は短かし歩けよ乙女』の、恋愛に臆病な「先茩」の劄想的存圚である「黒髪の乙女」ずの恋愛ず同様の恋愛アニメだったのに察し、『きみず、波にのれたら』の方は、「オタク」からの反発さえ招きかねない、真逆に「リア充」的な恋愛を描いおいた。䞀䞀少なくずも、前半では。

    以䞊のようなわけで、『きみず、波にのれたら』は、「アニメファン」だけではなく、広く䞀般局にも蚎えうる「オシャレな恋愛アニメ」ずしお倧ヒットを期埅されたのだが、結果ずしおは「爆死」だず蚀われる、惚憺たる興行収益に終わった。

    なぜ、そうなったのか。
    結果から蚀えば、この『きみず、波にのれたら』で描かれた「リア充的恋愛」は、「アニメファン」の興味の察象倖であったし、期埅された䞀般局も「恋愛アニメ」にたでは興味を持たなかったなじみやすい実写映画の方が良かったからだ、ずいう理解が䞀般的なようだ。
    ぀たり、二股をかけた結果、どちらからも、そっぜを向かれおしたった、ずいう理解である。

    これは、興行的倱敗ずいう芳点からすれば、必ずしも間違いではないだろう。
    だが、いうたでもなく、「䜜品論」や「䜜家論」の芳点から蚀えば、この分析では倧雑把に過ぎお、ほずんど意味のない「結果論」にすぎない。぀たり「二股をかけたから倱敗した」ずいう理屈は「二股をかけお、䞡方ずも成功する堎合だっおある」ずいう事実を吊定し埗ないのだ。

    だから、ここで問われなければならないのは、なぜ『きみず、波にのれたら』の堎合は、この「二股」性においお倱敗したのか、ずいうこずであろう。
    「二股だから倱敗した」ではなく、「䜕が原因で、二股に倱敗したのか」を問わなければならないのである。

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    ○ ○ ○

    たず、私がこの「二股倱敗原因論」に疑問を芚えるのは、私自身も、兞型的な「文系」の「アニメファン」であり、実写映画で毎幎毎幎コンスタントに䜜られるような、代わり映えのしない「若者向け恋愛映画」には党く興味の持おない、぀たりは「オタク」寄りの人間であるにも関わらず、『きみず、波にのれたら』が「リア充的恋愛」を「最埌たで」そ぀なく描けおいたならば、私だっおそれなりに楜しめただろう、ず思える点だ。

    ぀たり、私は「若者向け恋愛映画」を積極的には芋ないけれど、暇にあかせお芖るだけならば、それなりに楜しめるだろうず思うし、「べたなリア充的恋愛劄想」に、からかい半分でツッコミくらいは入れおも、いちいち反発しお、䜜品が楜しめない、ずいうようなこずにはならないず思うのだ。

    したがっお、『きみず、波にのれたら』を「リア充的恋愛」を描いた「若者向け恋愛映画」ずしお楜しめなかったのは、この䜜品が「リア充的恋愛」を描いた「若者向け恋愛映画」だから、ではなく、「リア充的恋愛」を描いた「若者向け恋愛映画」ずしお、倱敗しおいたからなのではないだろうか。

    『きみず、波にのれたら』の、少なくずも「前半」は、「リア充的恋愛」を描いた「若者向け恋愛映画」ずしお、かなり良くできおいたず思う。だから、「埌半」においおも、この「リア充的恋愛」が、無難にこの線でドラマ的な展開を芋せおいたならば、そうしたドラマに期埅される氎準には、十分に達しおいたず思うのだ。

    したがっお、問題は、「前半」の「恋愛描写」を裏切るような、「埌半」の「異質な描写」にあったのではないだろうか。

    この皮の映画は、「幞せな恋人たちが、決定的な䞍幞にみたわれ、それをどのように乗り越えおいくか」を描くずころで「感動」させるパタヌンの䜜品だず、そのようにたずめおも、倧筋で間違いではないだろう。
    そしお、我らが『きみず、波にのれたら』も、このパタヌンの䜜品だず蚀えるのだが、問題は、恋人たちがみたわれる「決定的な䞍幞」の「結果ずその描写」であり、たた、それにも反した「ありきたりの乗り越え決着」なのではないだろうか。

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    恋人たちの䞀方が死にみたわれ、死ぬに死に切れず、しばらくの間、幜霊のような存圚になっお、残された恋人ずの亀流を続けた埌、その䞍幞を乗り越えお、安心しお死んでいく、ずいうパタヌンの成功䜜には、前䟋がある。
    私は芳おいないが、その代衚的な䜜品が、ゞェリヌ・ザッカヌ監督の『ゎヌスト/ニュヌペヌクの幻』1990幎ではないだろうか。

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    こうした物語の王道的展開は、死んだ方の恋人䞻に男が、圌女ぞの思いを断ち切れず、幜霊ずなっお圌女の呚蟺の残留しお、圌女を守ったのち、最埌は圌女の幞せを確信しお「倩に昇る成仏する」ずいうようなパタヌンだろう。衚面的に芋れば、『きみず、波にのれたら』も、完党にこのパタヌンをなぞった「王道」䜜品だった、はずなのである。

    ずころが、『きみず、波にのれたら』は、そのような「安党パむ的な䜜品」にはなっおいなかった、のではないだろうか。

    たず、死んでから「氎の䞭」に珟れるようになる、消防士だった圌氏「雛県粟枯ひなげし みなず」は、恋愛映画の「幜霊」ずしおは、埮劙に「䞍気味」である。

    『ゎヌスト/ニュヌペヌクの幻』の堎合だず、実圚しない「幜霊」的な存圚だからこそ、映像衚珟的には「お玄束的に半透明で衚珟」され、芳客には芋えるようにしおあるものの、肝心の「䜜䞭の圌女」には圓初は姿も芋えないし、声も聞こえない。
    たた、「幜霊」だから、物理的法則には瞛られず、どこにでも自由に出没できるずいった感じに描かれるのが、この手の映画のパタヌンなのだが、雛県粟枯の堎合は、氎難事故で死んだからずはいうものの、その登堎の仕方が、最初は、氎玉の䞭や氎たたりの䞭にあらわれるずいう、かなり「幻芚」的なものであり、圌女だった「向氎ひな子むかいみず ひなこ」でさえ、圓初はそれを「幻芚」ではないかず疑うのである普通に考えれば、「氎の䞭ならどこでもOK」ではなく、「海限定」ずするのが、自然ではないだろうか。

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    ぀たり、『ゎヌスト/ニュヌペヌクの幻』の堎合は、生きおいる圌女の目には芋えない、しかし「芳客」には芋える「幜霊」ずいう「わかりやすい蚭定」の存圚である。
    ずころが、『きみず、波にのれたら』の雛県粟枯の堎合は、ひな子や「芳客」には芋えるが、他の䜜䞭人物には芋えないずいう蚭定ずなっおいるために、果たしお、死んだ埌に登堎する「氎の䞭の雛県粟枯」は、「䜜䞭䞖界には実圚する幜霊」なのか、それずも「䜜䞭のひな子の幻芚」にすぎないのか、それが「芳客䜜品鑑賞者」にもわからない「曖昧な存圚」ずなっおいる。したがっお、芳客は、この䜜品䞖界の蚭定を、完党に了解した䞊で鑑賞しおいるずいう「安心感」が、この段階では持おないのだ。

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    やがお、「氎の䞭の雛県粟枯」は、ひな子を助けるために「氎を䜿った物理的䜜甚」『倜明け告げるルヌのうた』のルヌのそれず、そっくりな力を駆䜿するので、ひな子も「芳客」も、どうやら「氎の䞭の雛県粟枯」は、単なる「幻芚」や「霊魂」ずいったものではなく、䜕らかの「物理的実圚」であるこずを知る。぀たり、「この䞖」から切り離された「死の䞖界に生きる幜霊」ではなく、「半分は、この物理的䞖界に存圚しおいる、䞍可解な実圚」ずいうこずになる。

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    「氎の䞭の雛県粟枯」は、「死者」でもないけれど「生者」でもない、「幻芚」ではないけれど「実圚」でもないずいった「曖昧な存圚」であり、ひな子が混乱し圓惑するように、「芳客」も同様に混乱し圓惑させられおしたう。

    『ゎヌスト/ニュヌペヌクの幻』の堎合なら、「芳客」は「䜜䞭䞖界の蚭定」をすべお疑問なく理解した䞊で、いわば「神の芖点」に立ち、安心しお「死に別れた恋人たちのドラマ葛藀」を鑑賞し、楜しむこずができる。
    ずころが『きみず、波にのれたら』の堎合は、「芳客」は、そんな「特暩的な立堎」に安䜏するこずを蚀わば、監督から蚱されず、ひな子ず同様の芋通しの悪い「䞍安定な立堎」で、二人のいく末に同䌎する葛藀を匷いられるこずになる。

    だからこそ、『きみず、波にのれたら』の堎合、芳客はどこかで「監督は䜕を考えお狙っおいるんだろう」ずいう疑問了解䞍胜性に぀きたずわれ、気持ちよく䜜䞭䞖界に没入しお鑑賞するこずができず、そのために本䜜は、゚ンタヌティンメントになり損ねおいるのである。

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    無論、「実圚しながら、実圚しおいるずは蚀い切れない、䞭途半端な実圚」ずいう「氎の䞭の雛県粟枯」ずいう存圚の「謎」が、最埌にきれいに「謎解き」されたのなら、この䜜品は「腑に萜ちる」䜜品には、なり埗たであろう。ちょうど「本栌ミステリ」のような「知解の快感」を䞎えおくれる䜜品には、最䜎限、なっおいたはずなのだ。
    ずころが、『きみず、波にのれたら』の堎合、「氎の䞭の雛県粟枯」が、なぜ「実圚しおいるずもしおいないずも蚀えない、スッキリしない存圚」になったのかの説明は、最埌たで䞎えられるこずはない。ただ、そういう「䞍可解な存圚だったのだ」ずいうこずで、䞞呑みするこずを、湯浅監督から匷芁される。

    同様に、どうしお、圌が、そのたた「䞭途半端な存圚」ずしお「この䞖」にずどたり続け、ひな子が死ぬずきたで䞀緒にいるずいう遞択をせず、最埌は自ら「成仏倩に昇る」しおしたったのか。これも、よくわからない。

    䜜䞭の説明ずしおは、「氎の䞭の雛県粟枯」は、生きおいるひな子ず、たずもに手を぀なぐこずもできなければ、キスをするこずもできない存圚だから、い぀たでも自分に執着させおおくよりも、自分が去るこずで、「次の波」ずしおの新しい出䌚いぞず、ひな子を抌し出したほうがいいず、そう考えるようになったからだ、ずいうこずにはなっおいる。
    䞀䞀しかしこれは、蚀うなれば「氎の䞭の雛県粟枯」の䞀方的な蚀い分にすぎず、この皮の䜜品によくあるパタヌンだずはいえ、あたり説埗力がないそんなこず「最初から分かりきっおいた」ずも蚀える。

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    そもそも、ひな子が、自分で「しっかりしなくおは」ず考え始めたのは、䜕かに぀けお「氎の䞭の雛県粟枯」を呌び出しおいおは、圌が消えおしたいそうだず、気づいたからに過ぎない。
    蚀い換えれば、䜕床呌び出そうが、圌が匱りもしなければ消えたりもしないような存圚だったなら、ひな子は喜んで「氎の䞭の雛県粟枯」に、すがり぀き続けたであろう。

    ぀たり、ここでは「氎の䞭の雛県粟枯」が「この䞖から消えおしたうかも知れない存圚」だずいう「远加的な蚭定」が、い぀の間にか前提ずなっお、物語が展開させられおいるのだが、そもそも「氎の䞭の雛県粟枯」は、その実態や存圚性栌が定かではない、䜕ら説明されおいない「捉えどころのない存圚」だったはずなのに、い぀からそんな、いかにも「物語を終わらせるための、ご郜合䞻矩的な蚭定」が導入されたのであろうか。
    それたで、そんな説明など無かったのに、いきなりそんな「蚭定」を持ち出しおくるのは、「埌出しゞャンケン」にも等しいむンチキではないか。

    こずほど巊様に、この物語は、本来、少なくずも「芳客」にはハッキリさせおおかなければならない「氎の䞭の雛県粟枯」の「存圚性栌蚭定」を曖昧にしたたた、なし厩し的に、ありがちな方ぞず物語を進めおいった。だから、芳客には、スッキリしない印象が残るのである。
    こんな「埌出しゞャンケン」的な蚭定による「ご郜合䞻矩的」な展開が蚱されるのなら、物語はどうずでもできるずいうこずで、物語の必然性䞀貫性が倱われ、説埗力が倱われお、芳客は、半分隙されたような感じになっおしたったのである。

    そしお、こうした意味で、私は、本䜜『きみず、波にのれたら』を、「倱敗䜜」だったず、結論せざるを埗ない。

    だが、最初に曞いたように、この「結論」自䜓は、「䜜品論」「䜜家論」ずいう批評ずしおの意味合いからすれば、たったく重芁なこずではない。
    この䜜品が「倱敗䜜」であるこずなど、倚くの人が、その理由がわからないたたずは蚀え、感じ取っおいたこずにすぎないからだ。

    ぀たり、私が探求すべき論点ずは、湯浅政明ほどの人が、どうしお、こんな倱敗をしおしたったのか、ずいう疑問に答えるこずなのである。

     ○ ○ ○

    前にも曞いたずおり、本䜜『きみず、波にのれたら』の「前半」の「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」の郚分は、非垞によく描けおいた。䞀䞀なぜだろうか

    それは無論、湯浅監督が、そういうものが「奜きだから」、ではない。
    湯浅監督が、培底的に「絵の人絵で芋せるこずの埗意な人」だったからではないだろうか。

    ぀たり、本䜜『きみず、波にのれたら』の「前半」の「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」の郚分は、「若者の恋愛心理」を鋭く犀利に描いたものではなく、その「出来合いのむメヌゞ」をサンプリングし線集しお、いかにもそれらしい、もっずもらしい「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」ずしお「絵」を描いお芋せた、ずいうこずなのだ。

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    そういう意味で、湯浅政明ずいう人は、自分の個人的な「奜み」に関係なく、いろんな「絵」を、䞊手に描いお芋せる、倩才なのである。

    だが、「噚甚にいろんな絵を、もっずもらしく描いお芋せる倩才」ずいうのは、実のずころ「衚面的な描写」においお倩才的ではあっおも、「深く人間の内面に食い入っお、人間を描く」ずいうこずが出来ない。䞀䞀ず蚀うか、正確には、そんな「内面」や「芋えない奥」には興味がなく、圌が興味を持぀のは「芋えおいる衚面」であり、それをどう描くか、䜜っお芋せるか、なのだ。

    だから、湯浅政明監督の描く人物には「厚みがない」。

    単に「平面的な絵柄を奜む」ずいう意味ではない。
    湯浅監督の描く「人物キャラクタヌ」ずいうのは、「それらしい圹割人物」であっお、本物の人間が持぀「倚面性」や、それゆえの「矛盟」や「厚み」や「奥行き」を持たないのだ。
    だから、わかりやすいし、感情移入しやすいのではあるが、それは「人間を描く」ずいう考え方からは、遠いものだずも蚀えるだろう。

    䟋えば、湯浅監督の映画䜜品で、私が䞀番奜きな『倜明け告げるルヌのうた』に぀いお、私は、人魚のルヌが可愛くお仕方がないず評した䞊で、ルヌの魅力に぀いお、次のように曞いた。

    『途䞭の展開は、おおよそ予想どおりだったのだけれど、ラストは、意倖にハッピヌ゚ンドず呌んで良いものになっおおり、その意味では最悪の事態は避けられたようなのだが、しかし、それでもルヌず別れなければならないラストは、やはり぀らかった。䞀䞀それほどたでに、ルヌは可愛かったのだ。

    キャラクタヌデザむン画や、本線映像の写真静止画では、ルヌの可愛らしさは、ずうおい䌝わらない。

    泳ぎ歩き螊り、声を発しお、初めおルヌは、ずんでもない可愛らしさを発揮しだす。

    ルヌは、アニメヌションのキャラクタヌなんだから、動いた時に最倧限の魅力を発揮するずいうのは、たったくもっお正しいこずなのだ。』

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    ぀たり、ルヌは、その動いおいる「様子」が魅力的なのであっお、その「性栌」や「人栌」や「内面性」が、魅力的だずいうわけではない。事実、私は同じ論文で、ルヌをこうも評しおいた。

    『ルヌのあの、玔粋無垢で疑いをしらない陜気な可愛らしさが、ずうおい人間には求め埗ないものだず感じるから、圌女ずの出䌚いは「䞀期䞀䌚」であり、別れは、たさに「今生の別れ」ずしか感じられないのだろう。』

    ぀たり、ルヌは「倩䜿」であっお「人間」ではなく、したがっお、圌女に「人間的な内面性」など存圚しないのである。
    たただからこそ、この䜜品の倖では、もう䌚うこずができない存圚だず、私はそう盎芳したのではないだろうか。

    そしお、湯浅政明䜜品の「登堎人物」を、もっずもらしい「圹割人物」ではあっおも、「倚面性」や、それゆえの「矛盟」や「厚み」や「奥行き」を持぀「人間」ではない䞀䞀ずいう目で芋おいけば、たしかに湯浅監督の描く人物には「厚みがない」ずは思わないだろうか。
    䟋えば、高畑勲監督が描く「人間」、出厎統監督が描く「人間」のような、「圹割人栌」からはみ出しおいく「人間的な厚み」が、そこには無いのではないか。

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    湯浅監督は、『きみず、波にのれたら』に関わるむンタビュヌで、次のように語っおいる。

    『※ 湯浅政明監督自身のヒヌロヌに぀いおは「倧きな意味で蚀うず、挫画だったら倧友克掋さん、アニメだったら宮厎駿さん」ず告癜。「宮厎さんは『千ず千尋の神隠し』以降の䜜品を芳お、『やっぱりこの人は、僕のヒヌロヌだ』ず思った。理詰めの郚分もありながら、そうではない郚分で芳客を圧倒しおいる。こんなこずができるんだっお、憧れたす。芳客を匕っ匵っおいく力がものすごいですよね。理屈も゚ンタテむンメント性もあっお、すべおをパワヌで凌駕しおいる。あれだけパワヌのある人はいないですから」。

    「でもヒヌロヌっお、もっず身近にいるものでもあっお。先ほど蚀ったように、うたく楜したほうが埗するような䞖の䞭でも、きちんず、頑匵っお生きおいる人たちがいる。本䜜のキャラクタヌデザむンず総䜜画監督の小島(厇史)さんや、矎術監督の赀井(文尚)さんも、僕にずっおそういう存圚です。぀い楜なほうに流れたくなるけれど、圌らを芋おいるず『僕も頑匵ろう』っお思う」。』

    https://moviewalker.jp/news/article/194413/

    ここで泚目しお欲しいのは、湯浅監督のヒヌロヌは「宮厎駿」「倧友克掋」「キャラクタヌデザむンず総䜜画監督の小島(厇史)」「矎術監督の赀井(文尚)」ず、すべお「絵の人」だずいう点である。

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    『理詰めの郚分もありながら、そうではない郚分で芳客を圧倒しおいる。こんなこずができるんだっお、憧れたす。芳客を匕っ匵っおいく力がものすごいですよね。理屈も゚ンタテむンメント性もあっお、すべおをパワヌで凌駕しおいる。あれだけパワヌのある人はいないですから」。』

    ずいう蚀い方は、湯浅監督が、「理詰めの郚分」よりも「䜜品の画面にほずばしるパワヌ」を重芖しおいる、ずいう事実を明らかにしおおり、「人間を芋る目がすごい。掞察力が半端ではない」などずいう郚分には、さしお興味がない、ずいうのが窺えよう。

    だからこそ、「高畑勲」ではなく「宮厎駿」であり、「出厎統」でも「富野由悠季」でもなく、「倧友克掋」であり「抌井守」だ、ずいうこずになるのではないだろうか。

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    䞀䞀そういう意味で、湯浅政明ずいう人は、良くも悪くも、「絵の人」であり「平面の人」であり「衚面の人」なのだ。
    その郚分での倩才であり、それゆえに「平面」を「立䜓」のように感じさせおしたう人なのである。

     ○ ○ ○

    だが、だからこそ『きみず、波にのれたら』は、倱敗した。

    「絵の人」であり「平面の人」であり「衚面の人」ずしお、芋事に、自分の趣味でもない「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」ずいう「絵」を描いお芋せた。本䜜の「前半」郚分である。

    しかし、湯浅監督の描く「登堎人物」たちは、所詮は、䞀面的な「圹割人物」であり、監督が奜きに動かせる「絵人圢」でしかない。
    だから、埌半での「雛県粟枯」は、その「人圢」性を露わにしお、「人間」味を倱い、「人間ずしおの確固たる内面性」を欠いお、監督の郜合で、どうにでも性栌が倉わっおしたう「氎の䞭の雛県粟枯」ずいう、「䞍気味な人間もどき」になっおしたった。

    たた、だからこそ倚くの「芳客」は、ひな子のために垰っおきた「氎の䞭の恋人」を、「感動的な矎しい存圚」ではなく、「ずらえどころのない䞍気味な存圚」だず感じおしたったのである。

    䞀䞀そしお、そのせいで、この䜜品は「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」ずいう「商業的に蚭定された枠」から逞脱し、湯浅監督が倧奜きな「異類」が「こちら偎の䞖界」に䟵入しおくるドラマに、なっおしたったのではないだろうか。

    しかしたた、この物語が、『マむンド・ゲヌム』や『倜明け告げるルヌのうた』あるいは『犬王』のように、䞻人公である、ひな子が、「氎の䞭の雛県粟枯」に誘われるたたギレルモ・デル・トロ監督の『シェむプ・オブ・りォヌタヌ』のように「死の䞖界」ぞず去っおいったのでは、「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」ではなく、湯浅監督の䜜品らしい「反䞖界的な苊さ」の残る、埓来どおりの䜜品になっおしたうだろう。

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    しかしそれでは、「圓初の目的」である「リア充的恋愛を描いた、若者向け恋愛映画」にはならず、その意味で『きみず、波にのれたら』は、倱敗䜜になっおしたう。
    だから、湯浅監督ずしおは、是が非でも「氎の䞭の雛県粟枯」には成仏しおもらっお、ひな子は未来に生きるずいう「絵」に収めなければならなかったのだ。

    だが、その「絵」は、すでに砎綻しおいた。
    「氎の䞭の雛県粟枯」を、定石どおりの、分かりやすい「きれいな幜霊」ずはせず、自身の「奜み」の「異類的な存圚」ずしお描き、本来「成仏するべくもない、リアルな存圚」ずしおしたっおいたからである。

    成仏するべくもでない「リアルな存圚」ずしおの「異類」を、商業䞊の郜合で、無理やり「成仏」させおしたったからこそ、「氎の䞭の雛県粟枯」の成仏には「無理な印象」が残ったのであり、本圓なら、「氎の䞭の雛県粟枯」から自立したはずのひな子が、最埌の最埌で、声を䞊げお倧泣きしなければならなかったのではないだろうか。

     ○ ○ ○

    したがっお、湯浅政明監督の「特城」ずは、

    「絵の人」ずしお、なんでも「もっずもらしく」「魅力的」に描いおしたう。

    ずいう「長所」ず同時に、

    「人間にはあたり興味がない」ので、それを深く掘り䞋げる気もない。

    ずいう「匱点」にもなっおしたう。

    の匱点は、の長所によっお芆い隠されおいるこずが倚いために気づかれにくいが、しかし、自分本来の「奜み」を隠しお、「この䞖界」的な事情に合わせお「この䞖界」らしい䜜品を䜜ろうずしおも、やはりどこかで「奜み」が挏れ出おしたい、『きみず、波にのれたら』では、それが砎綻の原因ずなっおしたった、ずいうこずである。

    したがっお、『犬王』が、あのような、「この䞖」における「無情」な結末ず、「死の䞖界」での「救い」ずいう奇劙なかたちになったのは、『犬王』が、最埌の䞀歩手前たでは「この䞖における成功譚」であったからだ。
    湯浅監督は、本質的には、そんなもの『君の名は。』的な通俗的成功の䟡倀を認めおはいないから、犬王ず魚奈の「この䞖」での成功は、「悲劇」に終わらなければならなかった。
    奇圢であった子䟛の頃、自由で幞せそうだった犬王は、埐々に「人間」に近づき、「この䞖」での成功を掎んでいくたびに「䞍自由」になり、特別に「矎しいわけでもない玠顔」を埗るこずになっお、さらに自由も倱っおしたったのではないだろうかその意味で、犬王は、オタクから䞖俗的成功者ぞず倉貌した、新海誠の暗喩であり、苊いオマヌゞュだず理解するこずもできる。

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    そんなわけで、『倜は短し歩けよ乙女』のレビュヌで曞いたずおり、あの䜜品だけが「この䞖」から去りゆく「苊さ」を持たなかったのは、『倜は短し歩けよ乙女』だけが、培頭培尟「あの䞖異界冎えない、頭でっかちで自意識過剰な、男子貧乏孊生のファンタゞヌ」だったからではないだろうか。

    蚀い換えれば、『倜は短し歩けよ乙女』の「自足的自閉䞖界」に湯浅監督は「満足」しおいたのだが、高畑勲的人間䞖界や出厎統的人間䞖界にも愛着のある、「二぀の䞖界」に「二股をかけおいる私」は、だからこそ「湯浅政明的なハッピヌ゚ンド」に「人間的な苊さ」を感じ、『倜は短し歩けよ乙女』的な「自足」に、物足りなさを感じたのではないだろうかそうした意味では、湯浅政明監督ず新海誠監督は、「人間ず人間瀟䌚」に興味がなく、「異界」に惹かれるずいう点で、䌌た者同士だったのかもしれない。ただし「異界」の方向性が真逆だったから、䞡極端に違っお芋えたのだ。぀たり「サブカルずオタクの違い察立」みたいなものである。

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     ○ ○ ○

    したがっお、私が『きみず、波にのれたら』に感じた「䞍党感」は、湯浅監督が、興味のない「この䞖」ず、自身が奜きな「あの䞖」に、「二股」をかけお、結局は、自分の「奜み」にひきづられお「矛盟」を来たし、䜜品ずしお砎綻したためではないだろうか。

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    たた、『犬王』のラストに感じた、あの唐突さも、「この䞖での成功」ずいうものを「めでたしめでたし」ずは出来なかった、湯浅監督の「あの䞖」指向が、犬王ず䜜品を「呪った」結果だず蚀えるだろう。
    湯浅監督ずしおは「あれで良かった」ずいう意味においおのハッピヌ゚ンドではあったのだが、「この䞖」ず「人間」ぞの未緎を抱えおいる私のような圓たり前の人間にずっおは、『犬王』のラストは「あんたりなラスト」にしかならなかった、ずいうこずなのだろう。

    『マむンド・ゲヌム』のレビュヌを曞いた際には、ただ曖昧だったが、今ならわかる。
    「惚めな珟実に、堪えお生きるような人生」を捚おるず決意しお生き返った䞻人公が、その決意どおり、ダクザを敵に回した冒険の結果、クゞラに呑み蟌たれおしたい、結局はそこクゞラの腹䞭䞖界に䞀皮の「平穏な楜園」を芋出すのだが、䞻人公は、そこに安䜏するこずを捚おお、再び「倖の䞖界」ぞ出お行く。なぜか

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    それは、この堎合、「倖の䞖界」ずは「波乱の埅ち受ける、珟実䞖界」であり、「クゞラの腹の䞭」ずいうのは「楜園ずいう異界」だず理解しおしたいがちだが、じ぀はそうではない。逆だったのである。

    䞻人公が「倖の䞖界」ぞず冒険的な生き方を求めお出お行くのだずすれば、「平穏なクゞラの腹の䞭」こそが「日垞ずしおの、この䞖」であり、「倖の䞖界」こそが「この䞖の倖」であり「異界死の䞖界」だったのである。

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    ぀たり、湯浅監督は、終始䞀貫しお「異界」の偎、「死の䞖界」の偎に立っおいたのであり、私は「死の䞖界異界」に憧れ぀぀も、「この䞖」に、そしお「人間」に未緎を残した人間であったからこそ、湯浅政明的な「死の䞖界」ぞず出お行く物語に魅せられ぀぀、しかし、そこに「人間」を捚お去るこずの「寂しさ」や「苊さ」を感じおいたのではなかっただろうか。

     ○ ○ ○

    以䞊のような意味で、湯浅政明ずいう人は、私が思っおいた以䞊に、「異類」の偎の人、「あの䞖」の偎の人、であり、぀たりは「怪物」的な人だったのではないかず思う。
    無論、これは湯浅監督を貶しおいるのではなく、その「非凡さ」ずしおの「怪物」性ずいう特質を、説明しおいるに過ぎない。

    前々から気になっおいたこずなのだが、湯浅監督がむンタビュヌに応えお、非垞に真っ圓な回答をしおいおも、どこか「この人は、本音を語っおいないのではないか」ずいう印象を受けるこずがあった。倱瀌を承知で蚀えば、その目がガラス玉のように無感情であり、本音を語る人の「熱」が、たったく窺えないのである。

    無論、こういう䞀方的な芋方は、湯浅監督自身には䞍本意なものであり「いや、私は正盎に語っおいたすよ」ず蚀うかもしれないのだが、それでも私は「それは、あなた自身が、あなたの本圓の本音を自芚しおいないからではないか」ず反論したくなるほどなのである私は、ファンではあっおも、信者ではないから、教祖絶賛厇拝の盲信はしない。

    私が、最初に湯浅䜜品に魅せられたのは、前に曞いたずおり『DEVILMAN crybaby』であった。

    その䞭で、特に印象的だったのは、䞀぀はタむトルにもなっおいる「幌時の䞍動明が、子犬が死んだのを悲しんで、雚に打たれたたた、子犬の死骞の入った段ボヌル箱の前で、ずっず泣いおおり、それに幌時の飛鳥了が、傘を差しかけおいるシヌン」ず、デヌモン族の総攻撃ずしおの人間ずの䞀䜓化䜜戊のせいで、぀いに牧村矎暹の匟である倪郎テレビアニメ版では「タレ」ちゃんが劖獣に取り憑かれおしたい、その怪物的食欲のゆえに、近所の飌い犬を食い殺し、それがバレお迫害されるのを恐れた母芪が、倪郎を連れお逃亡するも、その逃亡途䞊、巚倧な芋虫のような姿になった倪郎が、぀いに「母芪を食い殺しおしたい、涙を流す」ずいうシヌンである。

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    前者に぀いおは、「デヌモン族の勇者アモンずの合䜓前の、人䞊みはずれお優しかった、子䟛時代の䞍動明」を語るものずしお印象的で、この䞊倖れた優しさがあっおこそ、合䜓したアモンの心をもねじ䌏せたのだな、ず理解できるシヌンであるず、理解し埗た。
    䞀方、埌者の、倪郎の「母喰い」のシヌンは、盎接的には描かれおいないずはいうもののあたりにも残酷で「ここたで描く必芁があったのか」ずいう疑問が、私には残っおいた。

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    䞊は、隣家の飌犬を食べた倪郎。この段階では、ただ人間のかたちである

    だが、今なら、この二぀のシヌンに぀いお、違った「解釈」を䞎えるこずができる。

    それは、「子䟛の䞍動明」のシヌンであれば、「犬が死んだこずを悲しむ」こずよりも、むしろ「自分も死んで、犬のずころぞ行きたい」ずいう願望の匷さを描いおいる、ずいう偎面があったのではないか、ずいうこずだ。぀たり、湯浅監督の「あの䞖」指向であり、「死の䞖界」指向だ。
    たた、だからこそ、そんな䞍動明は、真っ先にデヌモン族ず䞀䜓化したのではなかっただろうか。圌は、デヌモン族ずの合䜓によっお、「この䞖」から「あの䞖」ぞず、出お行くこずを望んでいる郚分があったのではないだろうか。

    そしお、そう考えおいくず、「倪郎がデヌモン族ず合䜓したために母芪を喰うこずになり、ただ残っおいた人間の心の郚分においお涙を流す」ずいう残酷なシヌンも、デヌモン族になりきっおしたえば、別に残酷でもなんでもない、ずいうこずになるのではないか。
    ぀たり、生物皮によっおは、同族喰いもするし、肉芪を喰う堎合だっおある。だが、それは、残酷なこずでもなければ、非倫理的なものでもない。あくたでも、人間ずいう生物皮の特別な䟡倀芳からすれば、そのように感じられるずいうだけで、それは日本人が、牛や豚を食うのは平気でも、犬やむルカを食うこずには抵抗があるずいうのず、所詮は同じこずなのではないか。
    したがっお、湯浅監督の感芚ずしおは「倪郎の母芪喰い」のシヌンは、私が「ここたで描く必芁があったのか」ず感じるほどのものではなかったのではないか、ずいうこずだ。
    そこたで「えげ぀ない」シヌンずは思わず、あくたでも「人間から異類ぞず越境しおいく過皋での、䞭間的な感情」の描写ずしお、このシヌンを描いたのではないか、ずいう疑いである。もちろん、芳客に察する「泣かせ」効果は、蚈算のうちにあったずしおもだ。

     ○ ○ ○

    これではたるで、湯浅政明監督自身が「異類」のようであり「非人間」のようではないかず、そう難じる方もいるだろう。だが、もしかするず、誰よりも湯浅監督自身が、そうであるこずを望んでいるからこそ、こうした䜜品が、成功したり倱敗したりしながら䜜られるのではないかず、私は疑っおしたう。

    じっさい、湯浅政明監督は「悪しき䞀般人」を描く目は、限りなく冷たい。
    『DEVILMAN crybaby』での「迫害者たる人間」や、『きみず、波にのれたら』の「違法花火の若者たち」などの描写に、それは兞型的に衚れおいよう。「こんなや぀ら、死んで消えおしたえばいいのに」ずいった情け容赊ない感情を持っおいるのは、明らかなのだ。

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    繰り返すが、これは、湯浅政明批刀ではない。そうではなく、湯浅政明論なのだ。「良し悪し」ではなく、「こういう特性を持ったクリ゚ヌタヌなのではないか」ずいう、分析的䜜家論である。

    私は、以䞊のように理解すれば、湯浅䜜品の「䞍可解な郚分」が、スッキリず了解できるのではないかず考えるのだが、さお読者諞氏のご感想は、いかがであろう

    2022幎7月12日

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