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フランク・キャプラ監督 『或る倜の出来事』  映画も色々、その楜しみ方も色々。

    幎間読曞人

    映画評フランク・キャプラ監督『或る倜の出来事』1934幎・アメリカ映画

    第回アカデミヌ賞䜜品賞受賞のロマンチック・コメディ䜜品である。
    「戊前」のモノクロ映画だが、いた芋おも楜しく芋られるであろうこずは、「映画.com」などでのカスタマヌ評䟡での埗点の高さなどからも窺えよう。

    今の日本人から芋れば、䞻挔のふたりは立掟な倧人に芋えるので、兞型的な「ボヌむ・ミヌツ・ガヌル」の䜜品だずいえば、「どっちもすこし薹が立っおいる歳をくっおいるんじゃない」ず蚀いたくなる人もいるかもしれないが、そこはそれ。今の日本の映画だっお、30歳近い俳優が高校生を挔じたりするのだから、この映画だっお、䞻挔のふたりが特に歳の食い過ぎだずいうこずにはならない。あくたでも、「銎れ」の問題である。

    たあ、それはずもかく、「ボヌむ・ミヌツ・ガヌル」ずは『「䞻人公の少幎が、少女に出䌚っお恋に萜ち、そこから関係が育っおいく」ような物語のこず』wikiであり、本䜜の堎合、「少幎」ずは蚀い難いが、たあ「青幎」ず「少女」を䞻人公にした、そのパタヌンの䜜品だずいうこずになる。
    「Wikipedia」にもある通りで、「ボヌむ・ミヌツ・ガヌル」ずいう蚀葉は、『「ベタな話」「王切り型の恋愛物語」』だずいう吊定的なニュアンスで䜿われるこずもあるのだけれど、裏を返せば、「無難」か぀「今でも通甚する、ドラマの基本構造を堅実にふたえた䜜品」だずいうこずでもあるわけだ。

    ちなみに、本䜜のヒロむンの方だが、たぶん、蚭定的には「十代」なのではないかず思われる。
    「倧金持ちの什嬢で、男たさりなじゃじゃ銬嚘」ずいう蚭定なのだが、これも、少なくずも幎配者には、「いかにもありがちな」な蚭定ず感じられるのではないだろうか。

    さお、本䜜『或る倜の出来事』の「あらすじ」は次のずおりである。

    『父芪に結婚を反察されお家を飛び出した倧富豪の嚘゚リヌは、ニュヌペヌク行きのバスで倱業䞭の新聞蚘者ピヌタヌず出䌚う。最初は反発しあっおいた2人だったが、旅を続けるうちにい぀しか惹かれ合うようになり  。』

    「映画.com」・「或る倜の出来事」

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    芋おのずおりで、決しお耇雑な話ではない。だから、この䜜品を名䜜にしおいるのは、この「構造」だけではなく、そこに「スクリュヌボヌル・コメディ」ずいう蚀葉を生んだほどの、特城的な「楜しさ」があるからだ。

    『スクリュヌボヌル・コメディScrewball comedyは1930幎代初頭から1940幎代にかけおハリりッドでさかんに䜜られたコメディ映画のサブゞャンル。垞識にずらわれない登堎人物、テンポのよい排萜た䌚話、぀ぎ぀ぎに事件が起きる波乱にずんだ物語などを䞻な特城ずする。「スクリュヌボヌル」は圓時のクリケットや野球の甚語で「スピンがかかりどこでオチるか予枬が぀かないボヌル」を指し、転じお突飛な行動をずる登堎人物が出おくる映画をこう呌ぶようになった。』

    Wikipedia 「スクリュヌボヌル・コメディ」

    簡単に蚀えば、「テンポが良くお捻りもある、ノリの良い䜜品」ずいうこずである。映画が、サむレントから「トヌキヌ」に倉わっお、「登堎人物の䌚話の面癜さ」を芋出し、その魅力を最高に匕き出そうずした頃の䜜品だず蚀えるだろう。

    そんなわけで本䜜は、䞀般的に蚀っお「名䜜」であり、映画の初心者である私が、この䜜品を知ったのも、映画解説者・淀川長治の著曞で、肯定的に玹介されおいたからである。「ぜひご芧なさい」ず。

    だがたた、圓然のごずく本䜜には「ベタな通俗映画」ずいうような、吊定的な評䟡もある。
    おフランス映画や「ヌヌノェル・ノァヌグ」やらが奜きずか蚀っおる、゚リヌト気取りの「映画マニア」にずっおは、本䜜のような䜜品は、映画ずしおの「矎的䟡倀」が䜎いずいうこずになるようであり、たた、そうした評䟡を䞻導しおいるのは、他の評論家ずはひず味違う、「教逊ある映画通」ですずいう顔をしおいる、蓮寊重圊である。ちなみに、その自称も「停䌯爵」だそうだ。

    この「停䌯爵」によるず、本䜜の監督であるフランク・キャプラは「ボヌむスカりト的な感性」の持ち䞻だそうで、いかにも芋䞋した評䟡を䞎えおいる。芁は、無教逊な「単现胞」だず蚀いたいのだろう。
    そう思うなら、そう蚀えば良いのにず、私などはそう思うのだが、わざわざわかりにくい比喩で皮肉るずころが、蓮寊重圊の蓮寊重圊たる所以ではあり、「停䌯爵」らしくもあるのであろう。

    さお、そのフランク・キャプラだが、この人は、「戊前」のハリりッドの人気監督であり、圓然のごずく日本でも人気のあった人である。
    䜎予算で撮った本䜜が倧ヒットし、賞レヌスでも歎史的な新蚘録もうち立おたのだ。

    『第7回アカデミヌ賞では䞻芁5郚門でノミネヌトされ、5郚門ずも受賞した䜜品賞、監督賞、䞻挔男優賞、䞻挔女優賞、脚色賞。ちなみにこの5郚門を党お制するこずは、1975幎の『カッコヌの巣の䞊で』が成し遂げるたで出ないほどの倧蚘録であった。』

    Wikipedia「或る倜の出来事」

    圓然、それに続く䜜品の倚くもヒットしたし評刀も良かったのだが、その評刀が「戊争」を前にしお、急速に䞋り坂になっおゆき、戊争䞭は「囜嚁発揚映画」も撮ったのだが、戊埌には、戊前ほどの掻躍を芋せるこずはなかったようである。

    本䜜『或る倜の出来事』は、「経枈倧恐慌」ずいう暗い時代背景の䞭で、それを忘れさせおくれる楜しい䜜品ずしおヒットしたようだが、「戊争」は、映画においおも、逃避を蚱しおくれるようなものではなかったずいうこずなのかもしれない。
    ずもあれ、本䜜に続く、

    『其の倜の真心』 (1934)
    『オペラハット』(1936)
    『倱はれた地平線』(1937)
    『我が家の楜園』 (1938)
    『スミス郜ぞ行く』(1939)

    あたりたでは評刀が良かった暡様で、映画には詳しくない私でも、『スミス郜ぞ行く』ずいうタむトルには聞き芚えがあった。
    䞻挔が、戊埌も掻躍した俳優ゞェヌムズ・ステュアヌトだったからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

    ずもあれ、キャプラの䜜颚ずは、業界甚語にもなった「キャプラ・タッチ」の、次の解説にわかりやすい。

    『1934幎の䜜品『或る倜の出来事』である。この䜜品は“スクリュヌボヌルコメディ”ず呌ばれる恋愛コメディの先駆けずなり、倧恐慌埌の倧衆の求める新たな嚯楜䜜品ずしお倧ヒットしたばかりでなく、りィットに富んで小粋で、そしおハヌトりォヌミングな䜜颚、いわゆる“キャプラ・タッチ”を確立した䜜品ずしおも名を残しおいる。』

    「フランク・キャプラ、その才胜の発掘」

    ぀たり、特に「芞術的」でもなければ、重厚なテヌマ性があるわけでもないが、気持ちよく芋お気持ちよく映画通から垰るこずのできる「嚯楜映画」だったのだ。

    だが、「戊争」が、キャプラのそうした䜜颚を歪めおしたったし、戊埌の日本人にずっおは、キャプラがアメリカで「囜嚁発揚映画」を撮ったこずに、裏切られた感じがあったのではないだろうか。
    もずもず、勇たしい映画を撮る人や、ヒッチコックのような芋るからにノンポリな䜜家なら気にもならなかったのだろうが、むしろ、戊争には反察しそうな䜜颚ずも思えるキャプラが、あっさりずそちらぞ乗っおしたったずころに、圌のヒュヌマニズムの「軜さ」を感じお、倱望させられた、ずいうこずなのかもしれない。
    たただからこそ、そうした䞖間の颚向きに乗っお「もずもず、あんな通俗映画なんお」ずいう評䟡も出おきたのであろう。「機を芋るに敏」ずいうや぀である。

    しかしながら、本圓の問題は、「通俗で䜕が悪い」ずいうこずなのだ。
    だが、「通俗映画の良し悪し」がわからない「映画マニア」もたた、決しお少なくはないのである。

    前述の「停䌯爵」蓮寊重圊も、決しお「通俗映画」を吊定しおいるわけではない。
    ずいうか、蓮寊重圊ずいう人の映画に察する評䟡の基準は、䞖間䞀般が考えるような「通俗性嚯楜性」の有無ずいったずころには無くお、いかにも「フランス珟代思想」の圱響を受けた「構造䞻矩」者らしく、映画䜜品を、その「映像」に衚れたずころから構造分析しお、それがいかに「ありきたりなもの制床的なものではないか制床的な思考に捉われおいないか」ずいう点で評䟡する。
    だから、所詮は「亀換可胜な衚看板」にすぎない「物語」や「テヌマ」など、重芖しない。぀たり、「物語」的に「通俗的か吊か」などずいうこずは、問題にはならないのである䟋えば、小接安二郎の䜜品を、「嚘の結婚」ずか「昭和」ずいった制床化された芳点から評䟡するのではなく、「䞍可芖の階段」「女たちの宙に浮いた二階郚屋」ずかいった独自な着県点から、その䜜品構造を取り出しおみせる。

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    で、キャプラの堎合、この「映像」面では特に芋るべきものがなく、「スクリュヌボヌル・コメディ」ずいう評蚀からも分かるずおりで、圌の売りは「セリフのやりずりの面癜さ」であり「ストヌリヌ展開の面癜さ」なのだ。
    だから、蓮寊重圊に蚀わせれば、圌の䜜颚は、どっぷりず制床的な思考物語ずいう制床に浞りきった、映画本来の魅力を知らない、通俗制床的な映画だずいうこずになるのである。

    蓮寊重圊に蚀われるたでもなく、「制床」的であるのは、たしかに「぀たらない」こずだ。だから、「制床」的思考にベッタリず安䜏したような䜜品は、パタヌンで映画を芋るこずしかできない者以倖には、退屈極たりない䜜品だずは蚀えるだろう。
    䞀䞀けれども、そもそも人間は、「制床」から完党に逃れるこずはできないのだずいう事実も、決しお忘れおはならない。
    䟋えば、「制床に捉われおはいけない」ずいう発想もたた、ある皮の「制床」なのだ。「反制床」ずしおの「制床化された物語」であるからこそ、その䞻匵は、人を惹き぀けもするのであるたた、人間の思考ずは、そもそも、人間䞭心䞻矩の制床に他ならない。

    だから、私たちに必芁なのは、拒絶し切れない「制床」を自芚し぀぀、それに完党に絡め取られるこずなく、適床に「制床」を楜しむ泳ぐ、ずいう「芋極めの聡明さ」なのである。

    䟋えば、私たちは普通、「生物ずいう制床」の䞭にあっお「皮の保存」ずいう「制床ずしおの本胜」に捉われおいる。
    ぀たり、奜むず奜たざるずにかかわりなく「性欲」を持っおいるし、そのために発情恋愛もすれば結婚もし、ほずんど勢いだけで子䟛を䜜っおしたう者も、決しお少なくはない。
    無論、「停䌯爵」だっお、そんな「ご身分」には関わりなく、圓たり前の人ずしお発情し、子䟛をなしおいるのだが、しかし私は、それを「制床の奎隷」だなどず、非難したりはしない。
    なぜなら、それは、生物ずしお必芁な制床に、必芁なだけ埓っおいるにすぎないからだ。
    道行く男女を、盞手かたわずに匷姊しおたわるのずは、わけが違うのである。

    だから、「通俗嚯楜映画」も、それがそれだずわかった䞊で、節床をもっお楜しむ分には䜕も問題はないし、それこそが正しい嚯楜䜜品の鑑賞法なのである。
    むしろ「映画は、通俗嚯楜ではない」ずいう「芞術至䞊䞻矩」に捉われるこずこそ、「芞術至䞊䞻矩」ずいう「制床」、぀たり「゚リヌト指向」ずいう「猿山の芪分になりたがる」ずいう「生物孊的な制床」に、無自芚に捉われおいるにすぎない、ずも蚀えるのだ。

    だから、キャプラのヒュヌマニズムの限界を理解し぀぀、しかし圌のヒュヌマニズムの「肯定的」偎面を肯定しお、それを楜しみ、そこから孊ぶのは、決しお悪いこずではない。
    すべおの人に察し「挫画なんか読たずに、ドスト゚フスキヌを読め」ず蚀うような人は、端的に蚀っお銬鹿である。
    ある時は挫画を楜しみ、別のある時はドスト゚フスキヌも楜しめるず蚀うのが、真に知的なのだ。知性に盞応の「幅ず䜙裕がある」ずいうこずだからである。

    だから、「通俗嚯楜」ずいう、ごく圓たり前の「制床」に察する受け入れを、自意識過剰なたでに拒吊しお、それで自分が「非凡人」にでもなった぀もりの「勘違い制床」に捉われるず、蓮寊重圊のような、賢いけれども、人間ずしお歪んだ、偏頗な人間になっおしたう。「䌯爵」ず呌ぶには、あたりに䞋卑おいるから、「停䌯爵」ず名乗らざるを埗ないのだ。
    したがっお、この自称は、謙遜などではなく、さすがは蓮寊重圊、自分の「いかがわしさ」くらいは自芚しお、それに倪々しく開き盎っおみせおいる、ずいうこずになるのである。

    そしお、そうした「倪々しい開き盎り」からくる行動の、象城的か぀代衚的な事䟋が、圌の小説『䌯爵倫人』が「䞉島由玀倫賞」を受賞した際の、授賞匏での「こんな賞など迷惑だ」ずいう、いちぶに物議を醞した、あのスピヌチである。

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    この「迷惑」スピヌチの問題点は「迷惑なら、賞を受けなければよかっただけなのに、なぜ、わざわざ受けたのか」ずいう「事実の䞍敎合自己矛盟」性にある。

    ず蚀うのも、この手の文孊賞ずいうのは、吊応なく䞀方的に䞎えられる抌し぀けられるものではなく、事前に「候補者」に察しお「受賞者に遞ばれたら、賞を受けおいただけたすか」ずいう打蚺があり、それにOKした者だけが、受賞するものなのである。
    なにしろ、賞を䞎えるず公衚しおから、その盞手を断られたのでは、賞の沜刞にかかわるし、それたでの受賞者のメンツにも関わるからだ。
    したがっお、公匏の受賞者ずいうのは、実は「二番手䞉番手の候補だった」ずいう可胜性だっお、ないわけではない。たあ、今は、賞コゞキ・勲章コゞキばかりだから、そうした事態は想定しにくいが、か぀おは、珟に賞を拒吊固蟞した人も、少数ではあれ、いるにはいたのだ。だからこそ、「事前の打蚺」が必ずなされるようにもなったのである。

    したがっお、蓮寊重圊の堎合も、必ず事前の打蚺があっお、その際には「賞を受ける」ず回答しおいたはずなのに、いざ授賞匏に出おくるず「迷惑だ」ずスピヌチした、ずいうこずになる。
    したがっおこれが、「賞の勧進元」に察する「仁矩を欠く、裏切りによる隙し蚎ち」だずいうのは、論を埅たない事実なのである。

    では、蓮寊重圊なぜ、こんなこずをしたのかず蚀えば、それはたぶん「賞」ずいう「制床」の暩嚁を倱墜させるためだ。
    「賞なんおものは、業界を盛り䞊げるための、お手盛りのむベントにすぎない」ず、そう批刀するために「俺はこんなものをありがたがるほど、田舎者じゃないよ」ず、そうアピヌルしたのである。
    実際、蓮寊は、映画の方で、アカデミヌ賞をはじめずした各皮の映画賞を、䜕床も嘲っお芋せおいる。圓然、文孊賞だっお、基本的には同じこずなのだ。

    で、私自身も、「賞なんおものは、䜜品鑑賞胜力のない䞀般人向けの、業界あげおの販促掻動にすぎない」ず思っおいる。
    事実「芥川賞や盎朚賞受賞䜜をありがたがるような奎は、読曞の玠人である」ず、䜕床も公蚀しおいる。

    だから、「賞」を批刀するのは倧いにけっこうなのだが、問題は、蓮寊重圊の「やりくち」なのだ。
    いくら「正しい目的のため」ずは蚀え、蓮寊のやりくちは、明らかに、人ずしおの仁矩を欠いお、非倫理的なものだ。
    やはり、批刀するにしおも、やり方ずいうものがあろう。

    ではなぜ、蓮寊重圊ほどの倧の倧人が、こんな、䞀皮の「テロ」行為に走ったのかいえば、それは「賞」ずいう堅牢な「制床」に痛打を䞎えるには、倖からいくら批刀しおも効果がないず、それがよくわかっおいたからである。

    ぀たり、私みたいに、初めから「賞なんおくだらない」ず蚀っおいるず、圓然のこずながら「賞」の察象にはならない。仮に、䜕か立掟なものを曞けたずしおも、だ。
    で、そんな、「賞」に瞁もゆかりもない者が「賞なんおくだらない」ず蚀ったずころで、普通は「負け惜しみ」だずしか思われないから、その批刀は、たったく効力を持たないのである。

    だから、蓮寊重圊は、「賞」などくだらないず考えおはいおも、「賞」を受けるこずで自分に「箔」が぀いお、同じこずを蚀っおも「説埗力」を持぀ようになるずいう事実は承知しおいたから、これたでは、ありがたく、いく぀も「賞」を受けおきたのである。
    そしお、その結果ずしお「東倧総長」にたで成り䞊がり、圌の本を読んだこずのない人でも、「それはそれは」ず感心しおもらえる立堎に立ち埗たのだ。この䞊ない「箔が付いた」のである。

    だから、蓮寊重圊の堎合は、もう「賞」なんお、いらなくなったのだ。
    いらなくなったからこそ、今床は「賞なんおくだらない」ず、人が蚀えないこずを蚀うこずで、さらに自分に「箔」を぀けようず考えたのである。人より「もう䞀段䞊の箔付け」ずいうわけだメタレベルの「箔」ずいうわけである。

    だがそれでも、「賞」の倖郚から「賞」を批刀したずころで、「これたでさんざ、ありがたく賞をもらっおきたくせに、いたさら䜕を蚀っおるんだ」ず蚀われおおしたいなのは、目に芋えおいる。
    だから、あえお「仁矩を欠いお」でも、受賞者ずなっお、そのど真ん䞭に立っお、そこから「賞」を吊定しおみせるずいう「掟砎りのパフォヌマンス」を挔じお芋せたのだ。
    「こんなこずをした者など、前䟋がないだろう笑」ずいうわけだったのである。

    たしかにそれで、目立぀こずはできただろう。
    だが、「賞」ずいうものが、どのように運営されおいるのかを知らない「ど玠人」ならば、それで「すごい」ず玠盎に感心させるこずは出来おも、文孊界であれ映画界であれ、どんな業界であれ、「賞」ずいうものの「本質」を知っおいる「業界人」にずっおは、蓮寊の行動は、所詮、単なる「掟砎りのスタンドプレヌ」であり「自分さえ良ければいいずいう、無責任なパフォヌマンス」でしかない。

    しかしたた、業界人がそう思うであろうこずくらいはわかっおいるはずの蓮寊重圊が、なのになぜ、あえおその「芋え透いたこず」をやったのだろうか
    䞀䞀それは、蓮寊の業界内における暩嚁が、すでに揺るぎないものになっおおり、誰も真正面から批刀しないのがわかっおいたからである。
    自分にメリットはあっおも、ほずんどデメリットがないず、呚到な芋極めた䞊での、あれは「無難なテロ」だったのだ。

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    無論、東浩玀のように「あれは、あの人の芞颚ですよ」ず、皮肉を蚀う皋床のこずはできよう。
    だが、蓮寊の行動を本栌的に批刀するには、自分も受けおいる「賞」ずいうものの本質的な虚さに觊れなくおはならないから、そこたでやるこずは、䜕より自分のためにもならないので、だからやらない。
    たた、蓮寊は、そこたで事前に読み切った䞊で「掟砎りをしおも倧䞈倫。そのリスクよりもメリットのほうが倧きい」ず刀断しお、抜け抜けず「掟砎りのパフォヌマンス」を挔じお芋せた、ずいうこずなのだ。

    以䞊で、蓮寊重圊の「授賞は迷惑」コメントに関する「欲埗打算の合理性」に぀いおは、説明が぀いたず思う。
    だがそれでも、より本質的な「倫理的には、どうなるのかどうしお、そのようなこずが出来たのか」ずいう問題が残る。

    この点こそが、垞識人には理解しにくいずころで、私も長らく、その点で刀断に迷ったのだが、最近、蓮寊の本を䜕冊かたずめお読んだので、蓮寊の「思考様匏」がおおよそ理解できるようになった。

    その、私の「蓮寊重圊理解」からするならば、蓮寊の「掟砎りのパフォヌマンス」ずは、次のようなものだ。

    すなわち、「業界の掟」ずは「凡庞な人たちを瞛る制床」だず、批刀的に捉える。だから、それは、「非凡な私」蓮寊重圊によっお、批刀されねばならないし、それができるのは自分だけだ、ず考える。
    しかし、「いくら正しい目的でも、やり方ずいうものがある」ずいう批刀が出おくるこずは圓然想定されるのだが、それに察しおは、「垞識的な倫理芳もたた、䜓制に郜合の良い、反䜓制を骚抜きにするための、倫理的な欺瞞」でしかなく、それもたた「悪しき制床」だ、ず考える。
    そしお蓮寊は、自身を「制床から培底的に自由な人間䟋倖的に優秀な人間」であり、そうした「俗流倫理から自由な人間」なのだず自己芏定するこずで、自身の行動を「芳念的に、正圓化した」のである。
    ぀たりこれは、ニヌチェの「畜矀に察する、超人の論理」ず同型のものなのだ。自分は「畜矀の倫理」になど瞛られず、それを嘲っおやられるず、そう考えたから、喜んで「畜矀の仁矩を欠いた行動」も採れたのである。

    そしおここお、本皿の䞻題である、フランク・キャプラ監督の『或る倜の出来事』に話を戻すず、蓮寊重圊はなぜ、本䜜に代衚されるような、「通俗的にわかりやすい䜜品を、わかりやすいかたちで評䟡するこずをしない」のかず蚀えば、それは「そんなこずをしたら、自分の非凡さが、アピヌルできないから」であるだから蓮寊重圊は、私みたいな平易な文章は、わざず曞かない。それをやったら、底が割れるからだ。

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    「スカヌトの裟をチラッずめくっお車を止める」ずいう手法の「神話」は、本䜜から生たれた。今ではセクハラ問題になる描写だが、ひず昔前の映画では、この手法が定番的に描かれた

    䟋えば、淀川長治のように、本䜜を「感動䜜」だず耒めおも、そんなこずなら誰でも芋ればわかるこずでしかない。
    だから、知的「䌯爵」気取りで「特別な人間でありたい」この「停䌯爵」は、そんなこずでは満足できず、自分の「非凡さ」をアピヌルするために、これ芋よがしな「奇矯な文䜓」や「奇矯なスタンドプレヌ」を遞ばないではいられないのだ。

    だから、「通俗的にわかりやすい䜜品を、わかりやすいかたちで評䟡するこずをしない絶察にしない」で、「難解な䜜品」も「通俗的な䜜品」も、自分の「構造䞻矩批評」に乗るもの郜合の良いものに関しおは、倧げさに耒めおみせ、そうした䜜品こそが「本物の映画だ」ずアピヌルしお、自分こそが、特別に「映画を芋る目のある人間だ」ず、そうアピヌルしお芋せるのである。
    蓮寊重圊の本質ずは、こういう「俺は、特別な人間だ」ずいう、自意識過剰性病的に肥倧した自意識なのである。

    だから、こういう䞀皮の「キチガむ」の自家宣䌝に぀きあっお、わざわざ映画を「難しく考える」必芁はない。

    たしかに「難しい䜜品」はあっお、それを理解するには、知性も教逊も必芁だろうが、すべおの映画がそういうものだずいうわけではないのだから、わかりやすい䜜品たで、無理に難しく考えお、分析する必芁などないし、難しい䜜品をわかったフリする必芁もないのである。

    蓮寊重圊や、そしお倚少は私のように、わざわざ「難しい謎解き」をするのが奜きな人間は、勝手にそれをすればいいだけだし、それをやっおはいけないず蚀われる筋合いもない。だから、勝手にやる、ずいうのが、正しい考え方なのだ。

    ずころが、蓮寊重圊のような、粟神の「貧乏人」出は、「俺が俺が」のアピヌルがひどい。
    別の楜しみ方を容認するこずができず、「俺の楜しみ方が最も正しく、そうした正しい鑑賞姿勢においおは、俺がいちばん優秀だ」ず、そう自己アピヌルしないではいられないのだ。

    しかも、そんな「病的偏狭さ」を「制床に抗う」ずいう「停の矎名」のものに自己正圓化するのだから、本圓に手に負えない、自意識の病人だず、そう評するべきなのであろう。

    ずもあれ、私たちは、圓たり前に「通俗嚯楜䜜品」を「通俗嚯楜䜜品」ず楜しめば良い。
    そしお、できれば、それ以䞊の䜜品には、それなりのスタンスで向き合うこずができるず、なお良い。

    ぀たり、ひずたずキャプラの良䜜に぀いおは、ニコニコず楜しめれば、それで良いのである。

    無理にわかろうずする人しか読たない、蓮寊重圊の小説たで読む必芁などないし、たしおそれを著者の望むかたちで評䟡・理解する必芁もない。蓮寊自身も、そう蚀っおいる。

    事は、映画に぀いおも同じで、人間がいろいろであるように、映画もいろいろなのだ。だから、楜しみ方も、いろいろあるのが圓然。

    キャプラ䜜品も楜しめるし、蓮寊重圊みたいなのでも、それはそれなりに楜しめた方が、勝ちなのである。
    実際、私にずっおは、キャプラよりも、蓮寊重圊の方が、ずいぶん面癜い。こんな『ドグラ・マグラ』な人など、めったに出るものではないのだ。

    䞀䞀島田荘叞の蚀い草ではないけれども。

    画像
    ミステリ䜜家・綟蟻行人のデビュヌ䜜『十角通の殺人』の、1987幎刊行初版の垯



    2024幎8月24日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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