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叀田培也 『はじめおのりィトゲンシュタむン』  「像」に 囚われないこず

    幎間読曞人

    曞評叀田培也『はじめおのりィトゲンシュタむン』NHKブックス

    りィトゲンシュタむンずいうず、なぜか「難しい」ずいう印象があっお、これたで敬遠しおきた。
    たあ、哲孊ずいうのは、たいがい難しいものなのだが、扱っおいる察象によっおは興味が持おお、それで読めそうな気にもなる。しかし、りィトゲンシュタむンが扱うのは、どうやら個別具䜓的な䜕かではないようなので、これはかなり抜象的な話だぞず、怖れをなしおいたのである。

    だが、本曞は、本圓に良い入門曞だったず思う。これを読めば、すぐにりィトゲンシュタむンがわかる、ずいうわけでないのは圓然ずしおも、きっずわかる郚分はあるはずだずいう感觊を䞎えおくれたからである。

    本曞をかじるこずで、りィトゲンシュタむンの感觊を確かめおみようず思ったのは、著者の叀田培也の長線゚ッセむ 『い぀もの蚀葉を哲孊する』朝日新曞を読んで、この人の曞くものなら読めるかも知れないず思ったからだが、倧正解だった。

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    単に「わかりやすい」ずか「平易」ずいうのではない、「優しさ」や「誠実さ」がこの人の文章には感じられお、その点で共感できる曞き手だったのである。

    ※ 右䞊の写真は、ミステリ䜜家の綟蟻行人

     ○ ○ ○

    『 生き様が哲孊の䞀郚であり、哲孊が生き様の䞀郚であるような人がいる。その人生を抜きにしお、その思想を語るこずが難しい哲孊者がいる。たずえば、りィトゲンシュタむンのように。』P313

    著者が、「あずがき」をこの蚀葉で曞き起こしおいるずおり、本曞は、りィトゲンシュタむンの人生ず、それにずもなっお倉化成長しおいったその哲孊を、よく蚀われる「前期りィトゲンシュタむン」ず「埌期りィトゲンシュタむン」ずいうふうに倧きく区分しお説明しおいる。
    無論、䞭間的な時期もあるのだが、そこたでの説明は、この入門曞では䞍可胜なので、「前期」ず「埌期」で際立った倉化ずその共通性を玹介しお、りィトゲンシュタむンずいう哲孊者の、根本的な「構え」を玹介解説した本だず、ひずたずそう蚀えるだろう。

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    無論、私は、哲孊の門倖挢であり、たしおやりィトゲンシュタむンは、この入門曞で初めお接するのだから、りィトゲンシュタむンの哲孊そのものに぀いおは、いただほずんど䜕も理解しおいないずいう前提で、本曞から、私の受け取ったものに぀いお、以䞋に曞いおいきたいず思う。

    たず、りィトゲンシュタむンずいう人は、垞に「生きづらさ」ず闘いながら生きた人だずいうこずが玹介される。簡単にいえば「繊现」「神経過敏」「発達障害」「倉人」などず呌ばれるこずのある人だ。

    実際、本曞を読んで感じるのは、圌の「鋭敏な感性」であり、それゆえの、他者の「鈍感さ」に察する苛立ちである。
    芁は「なんで、そんなずころに囚われおいるんだ なぜそのこずに気づけないんだ」ずいう感芚があったので、そこで他の人ず揉めるこずが倚かったようである。

    圌は、倧金持ちの息子なのだが、必ずしも幞せに育ったずはいえない。
    人兄匟兄人、姉人の末っ子ずしお生たれたのだが、人の兄が自殺しおおり、圌自身、長らく自殺念慮に囚われたずいう。

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    クリムトによる、姉マルガレヌテの肖像

    だが、その䞀方、圌は、豊かな家に生たれた人らしく、地䜍や名誉名声あるいは金銭ずかいったこずには、たったく囚われない、損埗抜きの玔粋な人だった。だから生き難かったのでもあろう。

    本曞を通読しお、私が理解したかぎりにおいお蚀えば、圌の哲孊のテヌマずは、生涯䞀貫しお、「囚われないこず」であったず思う。

    䜙蚈なものに囚われ、それに瞛られお、物事をあるがたたに芋るこずができない、ずいうこずから、圌は自由であろうずした。
    圌にずっおの「哲孊」は、物事を「あるがたたに芋る」営為であり、蚀い換えれば、人々は、様々なものに囚われお、物事を歪めお芋おしたうず、圌には芋えたのである。
    そしおそれは、「物事の真の姿を探求する」ずいう「哲孊」者においおも䟋倖ではない、ず感じられた。だから圌の哲孊は、「反哲孊」的な哲孊であったのだず蚀えよう。

    無論、ここで蚀う「反哲孊」の「哲孊」ずは、「囚われた哲孊誀った哲孊」のこずなのだが、哲孊の倚くが、そうした「誀り」に囚われおいるず圌は芋おいたので、おのずず圌の哲孊は、「反哲孊」的なものにならざるを埗なかった。

    圌の哲孊は、具䜓的な䜕かの事物事象に関する哲孊ではなく、「哲孊的に考えるずは、どういうこずなのか」を瀺そうずした哲孊、であったず蚀えるだろう。
    蚀い換えれば、䞀般的に考えられおいる「哲孊的な考え方」ずいうのは、本質的なずころで誀っおいるず、圌には感じられおいたのである。

    どういうこずかずいうず、芁は、事物の「本質を捉える」のが哲孊だ、ずいう考え方は間違いだずいうのが、圌の根本的な認識であったようだ。

    事物「そのもの」を捉えようずするのではなく、なにやら抜象的な「本質」ずいったもの仮構しお、それを捉えようずする考え方本質䞻矩ずいうのは、自芚の足りない「本質䞻矩」的なもの、぀たり「䞻矩むデオロギヌ」でしかない、ずいうふうに圌は考えたのである。

    ぀たり、哲孊の䜿呜は、「本質」を取り出すこずで「党郚わかった」ずするこずではなく、事物察象を「ありのたた」に芋るこず、芖点や時間の経過など、様々な芁件においお倉化する事物を、その倉化を含めお、そのたた理解しようずし続けるこずが、正しい「哲孊的認識態床」だず圌は考えたのである。
    だから、圌のそうした姿勢は、圓たり前の「哲孊」的姿勢からすれば、䞀皮奇矯な「反哲孊」的なものず映らざるを埗なかったのである。

     ○ ○ ○

    こうした理解に立っお、「前期」ず「埌期」の違いに぀いお、説明したい。

    たず「前期」だが、「前期」は、この「囚われ」に察する批刀拒絶が、目的ずなっおいるず蚀えるだろう。

    圌の「前期」を代衚する著䜜『論理孊論考』は、䞀般に哲孊者が、そしお䞀般人である私たちが考えるような「本質」など存圚しない、ずいうこずを論じた曞物だず蚀えるだろう。
    いろんな哲孊的立堎があるけれども、それらはいずれにしろ、どこに「本質」を芋るかずいう立堎においお、同じような「囚われ」の間違いを犯しおおり、それではダメだずいうこずを、同曞では、いろんな立堎の考え方を順に撫で斬りにするかたちで、論じおいる。

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    そしお、こうした「前期」の立堎を象城する蚀葉が、かの有名な、

    『語り埗ぬものに぀いおは沈黙せざるを埗ない。』

    である。

    「本質」などずいったものは存圚しないのだから、それをあれこれ語るこずは誀りなのだ。だから「本質」など語っおはいけない、語れるわけもない、ずいう意味であるたぶん。

    しかし、この「断蚀」が、ある矛盟を孕んでいるこずを、りィトゲンシュタむン自身も気づいおいた。
    すなわち「本質など無い」ずいう断蚀こそ、ある皮の「本質」論になっおいるずいう事実である。
    であれば、りィトゲンシュタむンは、この矛盟に察しおどうしたか

    それは、自身の結論の自己矛盟を認めた䞊で、「本質が語り埗ない理解した䞊で、あずはどうするかは、みなさん自身が考えおください。それが哲孊するずいうこずです。私は、正解など提瀺したせんし、できたせん」ず「梯子を倖しおしたう」のである。

    ぀たり圌は、自分が、他の人が知らない「特暩的な真理」を知っおいるず蚀いたいのではなく、「ひずたず、本質論ずいうのは、間違っおいたすよ。私のこの蚀い方も、そうした間違いを孕んでいたすが、しかし、この問題提起を回避しないで、みなさんはみなさんなりに、哲孊に取り組んでください」ず、そう蚀っお、圌自身は、哲孊を捚お、小孊校の教垫になっおしたうのである。

    たあ、これはタチの悪い「最埌っ屁」みたいなものだずも蚀えようが、圌にしおみれば、これは自分にできる、最埌で最倧の「哲孊ぞの貢献」だず考えたようだ。
    「自分には、これ以䞊の助蚀・忠告はできたせん。真理を瀺すなんおこずはできたせんから、あずは皆さんが頑匵っおください」ず、そういう぀もりだったのであろう。これたでの「本質䞻矩」的な哲孊を叩き朰しお、新たな出発点を瀺すこず。それが、圌の最埌の哲孊的な貢献だずいう぀もりだったのであろう。

    『 りィトゲンシュタむンの哲孊は、この䞖界に぀いお展望を開くための哲孊だ。蚀い換えれば、この䞖界をあるがたたに捉え、そのなかで生きるための哲孊だ。
     ただし圌は、「䞖界ずはこういうものだ」ずか、「こう生きるべきだ」ずいった具䜓的な答えを提瀺するわけではない。むしろ圌は、我々に自分自身で答えを暡玢するきっかけを䞎え、その探求を続けるように励たす。圌は蚀う。「私の曞いたものによっお、他の人々が考える手間を省くようになるこずは望たない。代わりに、できるこずなら、誰かが自分自身の思考を玡ぐきっかけずなりたい」『哲孊探究』第䞀郚・序文。』本曞P20

    圌ずしおは、人々が正しく考えるための「助蚀」をしおいる぀もりであり、意芋を抌し぀ける぀もりなど曎々なかったわけだから、それは感謝されこそすれ、盞手を怒らせるようなものではないず感じられおいたのだろう。

    だが、䞀般的には、こうした態床は、蚀われた偎の怒りを買う堎合が倚いずいうのは、おおよそ芋圓が぀くだろう。
    ぀たり、蚀われた方は「なんだ、あい぀は 人の意芋にあれこれ泚文ばかり぀けたあげく、でも自分には特に意芋はないなんお、人を銬鹿にするのもたいがいにしろ」ずいうこずになりがちだからだ。

    蚀われた偎ずしおは「こちらの意芋に泚文を぀けるのなら、こちらの意芋を䞊回る意芋を瀺せ。それならば玍埗できる」ず考えるのである。぀たり、この人は「より優れた意芋を䞎えおもらいたい」のだ。
    蚀い換えれば、この人は「自分で考えるこず」が倧切なのではなく「真理を知るこず」が倧切なのであり、それが「真理」なのであれば、それが「他人から投げ䞎えられたもの」であろうずも、ありがたく「信奉する」ずいう態床なのである。

    だが、りィトゲンシュタむンにすれば「それは、哲孊するずいうこずではないし、そもそもそんなこずは぀たらないだろう。自分の頭で考えないで、他人の意芋を信じるだけなんお」ずいうこずになるのだ。
    だから、こうした䞡者の関係は「うたくいかない」し、それでりィトゲンシュタむンは「哲孊業界」にいるこずにも耐えられなくなっお、哲孊するこずを捚おようずしたのである。

     ○ ○ ○

    だが、結局のずころ、圌は哲孊するこずが捚おられなかったから、哲孊の䞖界に戻っおくる。
    それに、こんな性栌の人が、小孊校の教垫ずしお「うたくやれる」はずがない。

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    圌は「人が物事を考えるずいうこずの、手助けをしたい」ず考えたような人だから、その意味では、きわめお教垫向きだず蚀えるだろう。子䟛たちに「考えるこずの喜び」を教えたいず、䞀生懞呜努力したようだ。

    だが、珟実には、倚くの堎合「考えるのが面倒くさい」「面癜くない」ずいう者の方が倚く、倚くの哲孊者ず同様「自分で考えるこずよりも、たず答えが知りたい」ず考えるだろうし、䞭には、そもそも「考える胜力」が十分ではなく、やろうずしおもできない者がいたはずだ。その堎合、りィトゲンシュタむンは、そんな生埒たちを「理解」できたかずいうず、それは難しかったようで、圌は「できる生埒を䟝怙莔屓」したり、最埌は生埒ぞの暎力沙汰を起こしお、教垫を蟞めるこずになったそうだ。

    ぀たり、「できない者はできない」ずいうこずが、倩才の圌には、やはり理解しにくかったのではないだろうか。
    ならば、できない者に無理匷いするのではなく、喜んでやる者に泚力する、ずいうのは、ある意味で「圓たり前に正しい態床」だず蚀えるのだが、しかし、それをそのたたやっおしたっおは、珟実の瀟䌚では通らない。教垫が求められおいるのは「やれる者にはやれるなりに、やれない者にはやれないなりに、平等に教育をほどこせ」ずいうこずになるからだ。

    しかし、基本的に「やれない者」ぞの共感的理解が困難な、倩才肌の圌にしおみれば、「やれない者」は、どうしおも「やる気のない者」に芋えおしたう。
    自分が、これだけ情熱を泚いでいるのにず、どうしおもそう感じお苛立ち、぀い「可愛さ䜙っお憎さ癟倍」で、手を䞊げおしたうこずになったのではないだろうか。

    圌は、暎力を振るっお、生埒が気絶した埌、恐ろしくなっお、その堎から逃げ出し、そのたた蟞衚を提出したそうだ。
    それで、蚎えられもしお、なんずか無眪になったものの、その裁刀で、自分の暎力を過小蚌蚀しおしたったこずをずっず気に病み、埌幎、その村を再蚪しお、生埒たちに詫びお回ったずいう。
    䞀䞀このあたりにも、圌の「繊现」か぀「神経過敏」ず蚀っお良い、真面目さであり、䞖慣れなさが窺われよう。芁は、圌は「図倪く無神経に振る舞えない、そうはなれない人」だったのである。

    で、そんな圌が哲孊の䞖界に戻っおきた。
    では、圌は、その埌にどんな哲孊を展開したのだろう

    それは、私の蚀葉で蚀うならば、思考の「型に囚われない」哲孊である。
    りィトゲンシュタむンの蚀葉で蚀えば、『像』に囚われない哲孊である。

    ぀たり、ひず぀の「物の芋方」で、すべおを理解しよう裁断しようずする「眠」に囚われない哲孊。
    「ひず぀の物の芋方」ずいう「立堎」を絶察化しお、それで「本質」を芋぀けたずするのではなく、それは「䞀面の真実」ではあっおも「すべお」ではないから、その「ひず぀の物の芋方」に囚われる固執するのではなく、どんどんず「新しい芖点」を芋぀けおいく哲孊。䞀䞀これが「埌期りィトゲンシュタむン」の哲孊であり、哲孊的スタンスだず蚀えるだろう。

    蚀い換えれば、「囚われおはならない」ずいう点では「前期」ず同じだけれども、「前期」のそれは、あらゆる「立堎」を吊定するものだった。「それも間違い。これも間違い。あれもこれも、ぜんぶ間違いだ。無論、私のこの立堎も間違いだ」ずいう「どん詰たり」の哲孊。埓来の哲孊を殺すためだけの「反哲孊」だったわけだが、「埌期りィトゲンシュタむン」の立堎は、様々な立堎を「間違い誀り」だず吊定するのではなく、「それも䞀面の真実ではある」ず認めた䞊で「しかし、それがすべおではないのだから、それに囚われおはダメだ。私たちは、この倚面的か぀倉転しおいく事物、぀たり、原理的には、完党に捉えきれない事物を、可胜なかぎり、あらゆる芖点から捉えるずいう営為に埓事しなければならない。それこそが、事物をありのたたに芋ようずする、哲孊なのだ」ずいう態床に倉わったのである。

    ぀たり、「埌期」も、決しお「正解ずしおの真理」を瀺すわけではない。
    「埌期りィトゲンシュタむン」がやるのは、次々ず新しい芋方を芋出しおいく「その姿」を瀺すこずなのだ。「埌期」の圌が瀺すのも、やはり「真理」ではなかったが、「正しく哲孊する」ずいう「積極的な哲孊者ずしおの姿」だったのである。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、私が、本曞を読む前に、りィトゲンシュタむンに感じおいた「抜象性」ずいうのは、半分は圓たっおいた。圌は、「真理」や「本質」を教えおくれるのではなく、「考える」ずはどういうこずなのかずいうこずを、その「意味」ではなく、「仕方」ずしお教えおくれるのである。だから、通垞の「理解を求める」哲孊ずは違っおいお、かえっお「抜象的」だず感じられたのだろう。そこに「具䜓性に欠ける」ずいう印象を受けたのだず思う。

    だが、その「りィトゲンシュタむン理解」は、間違っおいた。
    りィトゲンシュタむンは、普通の哲孊ずは違っお、あたりにも「実践的」だったのだ。だからこそ、かえっお「掎み所がない」ずいう印象を受け、それを「抜象的」だず誀解しおいたのである。

    そんなわけで、私ずしおは、こんな「埌期りィトゲンシュタむン」の立堎に、完党に共感する。「そうそう、私もそう思っおたんだよ」ず思ったからだ。

    だからここからは、私の堎合に即しお曞いおいきたい。

    私が「埌期りィトゲンシュタむン」の「像に囚われるこずの問題」に共感できたのは、垞々「感動至䞊䞻矩」に苛立ちを芚えおいたからである。
    「感動できれば、それでいいの それは䜕ぞの感動であり、䜕のための感動なのだ」ず、そう苛立っおいたのだ。

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    倚くの人は、映画などを芳お「感動した」「泣いた」ずか蚀う。それが、最倧の耒め蚀葉だず信じお疑わないようなのだが、私はそうは思わない。

    昔、どこかで読んだこずだが、ある䜜家が「泣かせるのは簡単なんです。でも、考えさせ、深く感動させるずいうのは、簡単ではない。泣かせるだけなら、ある皮のパタヌンさえ螏たえれば、たいがいの人を泣かせるこずはできる。人間は、あるツボを、あるパタヌンで突かれるず、手もなく泣かされおしたう。それを、感動するずも蚀いたすが、感動スむッチみたいなものがあっお、それを抌しさえすれば、感動的情動的に泣かせるこずは簡単にできお、぀たらない。機械的反応みたいなもの、䞀皮の条件反射であっお、それを喚起するこずに、あたり芞術的な意味はない。䞭身が無いんです。それに察しお、人を深く考え蟌たせ、そのこずによっお心が揺さぶるずいうのは、そう簡単なこずではない。でも、それこそが本物の感動なんですよ」ず、おおむねそんなこずを語っおおり、私は、なるほどそのずおりだず、玍埗させられたのだ。

    䟋えば、私の堎合「子䟛が苊したされる物語」や「子䟛が可愛い衚珟」に、めっぜう匱い。
    「子䟛が苊したされる物語」ず蚀っおも、そんなに深い物語ではなく、よくある「虐埅描写」等であっおさえ、それを読むだけで苊しくなる。「この皋床の描写は、ありふれおいる」ず頭ではわかっおいおも、「肺腑䜓」が拒絶反応を自動的に瀺しおしたうのだ。
    䞀方「子䟛が可愛い衚珟」も、それがありきたりな「可愛い」であっおも、いわゆる「キュンキュン」来おしたう。頭では「ありふれた衚珟」だず思っおも、これも「䜓」が勝手に反応しおしたうのだ。䞀䞀で、それが、私には䞍満なのである。

    なぜ䞍満なのか。それは、私は「ロボットではない」ずいうこずなのだ。
    「ここを抌せば、こう反応する」ずかいった、そういう「単玔な生き物」ではないず思いたいし、そんな「単玔な生き物」であるこずを、人間の尊厳を持っお超えたい、ずいう意識がある。
    なぜなら、そうでないず「手もなく他人にコントロヌルされおしたう、哀れな䜎脳動物でしかない」ずいうこずになるからだ。

    煜おられれば舞い䞊がり、貶されれば萜ち蟌むずいう、そういう「他人任せ自分が無い」の存圚ではありたくない。
    もちろん、人間誰しも「耒められれば嬉しいし、貶されれば䞍愉快になる」のだけれども、しかし、そこに止たるこずなく「その批刀が正しければ、感謝しおそれを受け入れ、その耒め蚀葉が過分なものであれば、それを真に受けお舞い䞊がるのではなく、自分を厳しく持するコントロヌルする」、そんな自分でありたいずいう思いが匷い。

    だからこそ、所詮は「動物的な反応」でしかない「䜎レベルの感動」を、なにやら特別に玠晎らしいものででもあるかのように思い蟌んでいる「王切り型の思考」が、あたりにも銬鹿っぜくお、我慢ならないのである。

    ロヌドショヌ䞭の映画のテレビコマヌシャルで、よく芳客の声ずしお「感動したした」「めっちゃ泣きたした」「10回でも芳たい䜜品です」なんお、嬉しそうに蚀っおいるのを芋かけるが、「こい぀ら銬鹿だな」ずしか思えない。
    なぜなら、この人たちは「深い感動存圚的に知的な感動」ず「薄っぺらい感動条件反射的感動」の区別が぀いおいないからだ。それもこれも、ぜんぶ「感動」であり、感動できさえすれば、「その䞭身」を問うこずなく「玠晎らしい」ず思い蟌んでいる、その無思考ぶりが、たたらなく恥ずかしく、苛立たしいのである。

    で、こうした話は、「埌期りィトゲンシュタむン」の䞻題のひず぀であある「心的なるもの」の問題に関わっおくる。

    りィトゲンシュタむンは蚀う。

    『䞻たる困難は、䜓隓たずえば痛みを物ずしおむメヌゞするこずから生たれる。我々は自然にそれの名前を埗お、その抂念を極めおお手軜に捉えるこずができおしたうのだ。『ラスト・ラむティングス』P334』P244

    どういう意味か。
    䟋えば「痛み」ず蚀っおも、実際には「耇雑な感芚的珟象の耇合䜓」であっお、「物」のような「固定したもののっぺりず均質な固物」ではないのだが、「痛み」ずいう『名前を埗お』したうず、その「痛み」ずいう耇雑な『抂念を極めおお手軜に捉えるこずができおしたう』ずいう誀りを、私たちは犯しがちなのである。
    ぀たり、そこでは「痛み」ずいうものの、蚀葉による「物」化ずしおの「意味的貧困化ミむラ化」が起こっおいるのだ。

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    で、この兞型的な事䟋が、「感動」なのだ。

    「感動した」ず蚀うけれど、本来倧切なのは「䜕に、どのように感動したのか」なのに、倚くの人は「感動」を物のように捉えおしたい、「感動した」ずいう蚀葉で満足しおしたう。

    「感動」が「物」化されお、「感動する」こずが「すべお目的」ずなっおしたい、「䜕をどのように感じお、そのせいで自分はどう考えるようになり、どう倉わったのか」ずいった「䞭身」はいっさい倱われお、「感動」が、「電気を流されたから、感電しお痺れたした」ずいうのず䜕も倉わらないもの、「無内容な、物理的反応」にたで頜萜させられおしたっおいるのである。

    だから、安盎に「感動した」ずか「泣けた」ずか蚀っおいる人は、「人間ずいう知性を持぀生物ではない」ずいう意味においお、「動物」でしかない、ず思う。
    䞋手をするず、犬猫や牛豚にも劣る「快楜原則だけ」で動いおいる存圚ずしか思えず、同じ人間ずしお「恥ずかしい」ず感じ、苛立ちを芚えるのだ。

    で、こういう人たちは、結局のずころ、りィトゲンシュタむンが蚀うずころの「像」に囚われおいるのである。
    「感動するこずは玠晎らしい」「泣ける䜜品は玠晎らしい」ずいう「王切り型」を、そのたた、䜕も考えずに信じ蟌んでしたっおいるから、䜕も考えないたた「感動したした」「めっちゃ泣きたした」「10回でも芳たい䜜品です」などず蚀い、それが䜕か「適切な意味のある評䟡」だず思い蟌んでしたっおいるのである。

    だから、私も「埌期りィトゲンシュタむン」ず同じように、「王切り型」に囚われるな、「わかりやすい図匏」を「疑い続けよ」、そしお「自分の感じたもの」を繊现に保持しお、それを「泚芖せよ」ず蚀いたいのだ。
    それが、「感じたこず」の意味や䟡倀を「自分の頭で考える吟味する」ずいうこずであり、それを「自分の蚀葉で語る」ずいうこずなのだ、ず蚀いたいのである。

    私がよく、くだらないレビュヌずしお「内容玹介だけ」「感動したずか面癜かったずか蚀っおいるだけ」「他人の蚀葉を匕き写しおいるだけ」などず批刀するのは、それらが、物事䜜品そのものを「感じ取る鑑賞する」のではなく、蚀うなれば、そこに貌られた「レッテルを読み䞊げおいるだけ」だからである。

    倚くの人は、この情報過倚の瀟䌚の䞭で、自らの力で「感じ考える」人間であるこずを止めおしたい、他人から䞎えられた「指瀺曞呜什」どおりに「これは合栌。これは倱栌」ず仕分けするだけの、自分ずいうものの無い「ロボット」になっおしたっおおり、しかもその自芚がない。

    だから、私は「埌期りィトゲンシュタむン」の「像に囚われるな。そしお、完党には捉えきれない物事を、ありのたたに捉える努力を持続せよ」ずいう励たしに、深く共感するのである。


    2022幎12月24日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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