メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ニカイ

    あらすじ

    あなたの家には二階があるか?

    階段の暗闇に見え隠れする古いカセットテープ。
    録音されていた言葉は呪いなのか?
    関わった人々が次々と死んでゆく。
    生き残った主人公は、
    飼い猫と共に海辺の家へと逃げ延びる。(ニカイ)

    雨のあぜ道を引き返さなかった男が、
    結婚間近の従姉と禁忌を重ね、
    赤い瞳の異形に飲み込まれてゆく。
    男だけが、あぜ道を歩き続ける。(あぜ道)

    握った手を離さない――
    そんな関係のふたりが、夜祭へと出掛ける。
    幻想的な夜に、愛を確かめ合うふたり。
    しかし社の前で神隠しに遭い、
    残された主人公も、
    露天風呂の底へと沈んでしまう。(よまつり)

    それぞれの旅の果に辿り着いた、三つの喪失と、
    逃げられない結末が……彼岸で融けあう。
    短編怪談集。

    ニカイ


    プロローグ


    「ほら、ふみちゃんが、とんとんとんって」

    あなたの家には二階があるか?
    そこはいつも明かりが灯っているか?
    夜になると真っ暗闇ではないか?

    階段の下で猫が見ているぞ?
    彼らは正直だ。
    怖いものは怖いし、
    警戒するものは警戒する。

    下から見上げているぞ?
    階段のなかの暗闇を、
    じぃっと、見てる……

    じぃっと、

    見てる……

    ――


    訪問


    朝からの雨はすっかりあがって。

    正午の日差しが、
    葉についた水玉を煌めかせる。

    タクシーを降りると、閑静な住宅街。
    道の端に木の高い公園が見えて、
    どこからか川の音も流れてくる。

    白嵜さんのお宅は、
    公園から一番離れた角の家で、
    新築みたいな白い二階建て住宅だった。

    「ごめんください。立川市の依頼で伺いました、
    生活サポートセンター玉川の瀬戸です」
    ……
    …
    きっかり、約束の時刻なのだが、
    留守なのだろうか。
    左手が、スカートの裾を握る。

    もう一度呼び鈴に指をのせたところで、
    物音が近づいて来た。

    「はぁい、いまいきます」

    ガチャリと開いて、
    白髪の年配女性が現れた。
    額に玉の汗。

    今日の最高気温は、ようやく十三度だった。

    ――

    まあ、二年も仕事をすれば、
    こういう案件を経験する。

    不安定な方をお諌めするのも仕事だ。
    こちらの奥様に限っていえば、
    受け答えもしっかりされていて。
    相談内容とのギャップに、
    少しだけ引っかかる。

    「改めまして、立川市の依頼で参りました。
    生活サポートセンター玉川の、瀬戸と申します」
    「ご丁寧に、白嵜です。
    ご足労いただきありがとうございます」

    よく整理されたご自宅だった。
    窓辺に並ぶ陶器の猫たち。
    その隣の古めかしいCDコンポにも埃がない。

    床に、わずかに白い粒。
    猫砂だろうか?

    コッチコッチと、
    オルゴールの仕込まれた時計が刻む。

    時間が、ゆっくり流れているような、
    どこか切り離された昼下がり。
    ほんの少しだけ不気味だった。

    わたしは、タブレットをスタンドで立て、
    小さなキーボードを用意した。

    「業務上の行き違いがないよう、
    記録を取らさせていただきますね」

    「ええ、是非そのように」

    カップを置いた奥様の瞳に、
    あきらめのようなものが滲んでいた。

    「どうぞ、お話しください」

    「先日、年の近い弟が亡くなりまして、
    三重の方で暮らしていたのですが」

    奥様のご家族は三重の弟さんと、
    横浜に住む息子夫婦なのだという。
    その弟さんが亡くなり、
    遺品の一部が奥様のもとに送られてきた。

    その中に、奇妙な写真が一枚。

    「こちらなのですけどね?」

    そう言って、
    ピンクのレターケースをテーブルにのせる。

    「拝見いたします」

    カラーだが、古い写真に見えた。
    フィルムカメラで撮ったのだろう。
    やや色褪せていて。
    なにかわからない内容に、
    わたしは気づかれぬよう、
    テーブルの下でスカートの裾を握った。

    カセットテープの写真だった。
    『ふみちゃん』と書かれたラベルが貼ってある。
    机の上だろうか?
    木目の上にただ置いてあり、
    その脇に、ノートが開かれていて。
    こう、書かれているのだ。

    『ほら、ふみちゃんが、とんとんとんって』

    真っ白なノートの一ページ。
    真ん中にその一文。

    不可解なのはその言葉のまわりに、
    赤字で矢印が書かれていることだった。
    概ね一文字区切りで、外向きの矢印。
    イントネーションだろうか?

    ……あまり、長く見ていたくない写真。
    そう感じた。

    丁寧に写真をしまい、お返しする。
    この写真を見てから、
    家の中で不審な物音がするようになったという。

    「どう、思われます?」

    「たしかに、少し不気味なお写真ですが、
    なにか関係性があるとは、ちょっと」

    「そうね、普通に考えて、可笑しいですものね」

    俯く表情に、深い疲れが見てとれる。

    「なぁあん」
    「あらリリィちゃん、どこ行ってたの?」

    真っ白な猫が、
    ひたひたとリビングに入って来た。
    グリーンの瞳だった。

    「可愛らしい猫さんですね?」
    「リリィといってね、今年で4歳になるの」

    テーブルの下に入り、
    わたしの足元にもすり寄る。

    「そうそう、リリィも階段のあたりで、
    少しおかしな行動をとるのよ」

    「それもお写真が届いてから?」

    「ええ、階段を怖がるようになったわ、
    二階にも行かなくなった」

    少し異常に感じた。
    話に間違えがなければ、
    家猫が自分のテリトリーを放棄したことになる。

    「差し支えなければ、お二階を拝見しても?」

    「ええ、どうぞ」

    玄関のすぐ前の脇に、
    黒い木目の階段がある。
    丁度、上がりきった先から、
    玄関までが吹き抜けになっていた。
    日当たりもよく、明るい印象だけが白く。

    「二階のお部屋は奥様が?」
    「いえ、亡くなった主人の部屋と、
    息子の、どちらも今は物置ですよ」

    床が、やや軋むか?
    二階も掃除が行き届き、
    部屋も物置というほど物はなかった。

    二階も階段も、なにもない。

    中程まで階段を下った時だった。
    すぐ後ろでボソボソと声がして、
    ……若い女性の声で、
    立ち止まる。
    両手でスカートの裾を握る。
    ……ちゃんが……とんとんとん……
    「っ!」
    振り返る。
    「どういう意味なのかしらねぇ?」
    「え?」

    すぐ後ろに、奥様だった。

    「あ、いやね、あの言葉、
    ふみちゃんが、とんとんとんって」

    「……どういう、意味なんでしょうね」

    階段の下から、リリィが見上げていた。
    ……白い毛並みが、逆立っていて。


    兆し


    青柳さんは、頼りになる先輩だ。

    元ラグビープレイヤーで、
    わたしの二倍はありそうな体格の持ち主。
    性格はおおらかだが、
    仕事に対しては気迫と情熱に満ちていた。

    朝、その青柳さんが血相を変えてやって来た。

    「瀬戸!先週お前が訪問したの、
    たしか、白嵜さんって名前だったよな?」

    珍しく顔色の悪い彼に、わたしも戸惑う。

    「はい、最初のヒアリングだけですが……」
    「昨夜亡くなったらしいぞ!」
    「えっ……」

    ぞっとした、では済まなかった。
    思わず壁に持たれかかる。
    ……なにも、関係ないかもしれないじゃないか?

    目眩を振り切って、青柳さんに問う。

    「なにが、どう、されたんですか?」
    「階段で転倒したらしいが、
    どうも様子がおかしいみたいだ」

    スカートの裾を握りしめた。
    なにごとも、起こりませんようにと。

    「聞いた話だが、
    何度も転げ落ちたんじゃないかって、
    お前たしか、妙な報告してたよな?」

    「……そ、う、でしたっけ?」
    震える声で否定してみる。
    そうせずにはいられなかった。

    「ああ、瀬戸くん、ちょっといいかな?」

    課長だった。
    わたしも青柳さんも察しがついていた。

    「あとで話そう、力になれるかもしれん」
    「……ありがとう、ございます」

    「瀬戸くん、悪いね。
    警察の方が応接室に来ている」

    青柳さんと別れ、課長と応接室へ向かう。

    その日は一日、
    スカートの裾から手を離すことができなかった。

    ――

    大雨だった。

    真っ黒な雨雲が、
    まるで夕暮れの終わりみたいで。
    スマートフォンの画面を見ると、
    まだ11時を過ぎた頃だった。

    タクシーを降り、玄関まで傘をさしたが、
    肩はすっかり濡れてしまった。

    白嵜さん宅の玄関は開け放たれており、
    息子さんの奥さんと思しき、
    同年代の女性が迎え入れてくれた。

    あの階段の脇を通り、リビングへ。
    まだこんな時間なのに、家の中は夜のようだった。
    漂う線香の匂い。
    家が纏う、影の濃さが深まっていて。

    「母のためにわざわざありがとうございます」
    「いえ、こちらこそ、
    無理を言ってもうしわけありません」

    手早く名刺を差し出す。
    「生活サポートセンター玉川の瀬戸と申します、
    このたびは、ご愁傷様でした」

    息子さんとの挨拶を済ませ、
    白嵜さんの霊前に線香を供える。
    ご遺体は目に触れぬようなかたちで寝かされていた。

    リビングに戻り、夫妻と談笑した。
    同年代ということもあり、話が尽きない。

    「あの、ごめんなさい、
    お手洗いをお借りしても?」

    「ああ、階段の脇に」

    ――

    バタンと扉を閉める。

    鮮やかな黄色いポプリが飾られていた。
    真っ白な扉に、ガス会社のカレンダー。

    スカートのホックを外し。
    ポプリと同じ、黄色い便座カバーに腰かける。

    下着を下して。

    リビングの音は全く聞こえない。
    沈黙の中で、
    わたしの音だけが響く。

    暗闇の中から、
    覗いてくるさまが思い浮かぶ。

    階段の、暗闇が……
    階段を上がった、
    あの暗闇の先になにかいるのではないか?
    心音と慄きが兆す。

    しかし沈黙だった。
    考え過ぎだ。

    トイレを流すと、
    その染みついた生活音に安堵した。

    立ち上がると、
    いつの間にか扉に隙間ができていて。

    いやらしく微笑む、口許……

    後退り、便器に足をぶつける。
    蹌踉めくと、扉は閉まったままだった。

    錯覚だ、錯覚だ、錯覚だ。
    きっと疲れているのだろう。
    この鼓動も、緊張からきているに違いない。
    理由もなく潤む瞳は、ストレスで……

    床に落ちたスカートを手繰り上げる。
    汗ばむ手で、ぎゅっと握りしめた。

    扉を開けて廊下へと出ると、
    すぐ傍らの階段の暗闇が、
    ぬぅっと口を開けて待っていた。

    外には雨が、降っていて……

    身体が動かない。
    湿り気を隠すように、
    再びスカートの裾を握り引っ張る。

    あふれてつたう、恐怖。

    ……こ、こわ……い。

    震えていた。

    暗闇の二階の奥から、ゆっくりと、白いお……

    「なぁおー」

    足の間に、リリィがまとわりつく。
    我に返る。
    震える指を裾から離した。
    階段は、ただ暗闇が横たわるばかりだった。

    そっとリリィを抱き上げる。
    あたたかい。
    わたしの頬をぺろりと舐めた。

    「おや、あまり懐かない猫なんですよ」

    驚く旦那さんにリリィを差し出す。

    「いえ、私は彼女に嫌われているようで」

    奥さんも首を振ってしまう。

    「ああ、こんなこと、初対面で、
    不躾なお願いではあるんですが……」

    思わず、リリィと顔を見合わせた。


    同棲

    「なぁあん」

    部屋に入り、
    リリィの入ったゲージを玄関に置いた。
    短い廊下の間接照明と、
    その先のこぢんまりとしたリビングにほっとする。

    「もうちょっと、我慢してね?」

    明かりをつけて、エアコンを入れた。
    LEDが瞬き、暖かい風を吹き降ろす。

    大丈夫、ここは無機質なモノばかりだ。

    部屋の隅にまとめておいた、
    トラさんとの思い出を広げる。

    トラさんは、名前通りの風体で、
    半年前まで一緒に暮らしていた。

    ゲージとトイレ、お食事もセットして、
    リリィにお伺いを立てる。

    落ち着かない感じだった。
    あちこち嗅いでまわる。

    「これみんな、わたしの元カレの、気になる?」
    「んんっ」

    今度は女子同士、気兼ねなくいきたい。
    縄張りチェックはリリィに任せて、
    わたしは自分の餌の準備をはじめた。

    ――

    「おい、なんかついてるぞ」

    青柳さんが、
    わたしの襟についたリリィの毛玉を取る。

    ごつごつとした、太い指。
    ……不快ではない。

    夕暮れの資料室。
    白嵜さんの件で時間を割いてくれていた。

    カセットテープの写真を凝視する。
    ノートに書かれたあの言葉だ。

    「やはり、発音かな?」
    「わたしも、そうではないかと」

    言葉の意味や解釈よりも、
    そこに加筆された、
    赤い矢印にどうしても目がいく。

    「ほら!ふみちゃんが!とんとんとんって!」
    「フフッ」

    青柳さんの大袈裟な朗読に、
    思わず笑ってしまった。

    「おい!俺は真剣にだなぁ」
    「すみません、あまりに、力強くて」

    そう言うものの、彼も半分はニヤついているのだ。

    「しかし、何度か読み上げるとしっくりくる、
    やはり童歌みたいなものじゃないか?」

    「童歌、ですか?」

    「たぶん、小さい子に、
    階段の上り下りを教えるような歌じゃないか?」

    字面からも、なんとなくそんな気はする。
    だが、全く聞いたことのない歌詞。
    誰かの創作なのだろうか?

    「声に出すと、一定のリズムというか、
    わかるんだよ、なんとなくだが」

    問題は、
    矢印のイントネーション通りに発音しても、
    歌っぽくならないことだ。
    とん、とん、とんが、どこか……歪で。

    「三重で、カセットテープ見つけるしかないな」

    週末、わたしは三重県に行くことにした。
    名目上は、弟さんの遺品整理の手伝いで。
    夫妻の許可も取っていた。

    「猫ちゃんのことは、任せろ」
    「青柳さん、今夜は家で夕飯食べてくださいね?」

    離婚間もない同僚男性に、
    鍵を渡し飼い猫の世話を頼む。

    そんな、ものだろうか?

    いつからか、
    あの体躯に安心感を求めて……

    ――

    激しい交わりを終え、
    わたしは彼の隣に果てた。
    彼の胸に、ひたりとふれたまま。
    息を荒げ、そっぽを向く。

    久しぶりのセックスだった。

    いつの間にか、
    ドアを引っ掻くリリィの気配が消えていた。
    彼女にはもうしわけなかった。

    淡い間接照明が浮かび上がらせた夜想。
    別れた奥さんの顔がちらつく。
    青柳夫妻が円満な頃、
    何度か家に招いてくれた。

    「気をつけて行ってこいよ?」
    「……」
    「……それは、先輩として?」

    淡い光をじっと見つめていた。

    「……誘っておいて、つれないな」
    「青柳さん、寂しそうだったから」
    背中で、くつくつと笑われる。

    「寂しかったのは、お前の方じゃないのか?」

    ……そうかも、知れない。


    三重

    浜名湖を渡り。
    ようやく豊橋にさしかかる。

    読んでいた本を閉じ、
    車窓の光に目を細めた。

    二泊三日。
    ちょっとした小旅行気分だったが、
    考えてたよりずっと遠い。
    名古屋の先にも、私線が控えている。

    使命感と、好奇心。
    怖いもの見たさが理由だとしたら、
    やめておくべきだったろうか?

    名古屋駅の人混みに迷いつつ、
    どうにか鳥羽線に乗り継ぐ。

    目的地の五十鈴川駅までは、
    旅情が感じられ、少しだけ興奮した。

    日暮れ頃、
    ようやくホテルにチェックインできた。

    白嵜さんの旧家は、
    おかげ横丁などにほど近い、
    古い住宅街の一角にあった。

    木造住宅で、お生い茂る蔦と、
    瓦の重さに潰されそうな二階建て。

    周りも同じような古い家ばかりで。
    空き家には見えなかったが、
    まるでひとの住んでいないような、
    そんな冷たい静かさを纏っているのだ。


    夫妻から預かった鍵で、
    引き戸を開ける。

    広がる埃っぽい、紙の匂いに咽る。
    まだ陽は残っているが、
    すでに家の中には夜が居座っていた。

    不意に、通夜の日の階段が脳裏を過る。

    「……」

    それでも、敷居を跨いだ。

    スマホのライトを頼りに、
    玄関の灯りをつける。
    ぱちんと鳴り瞬く、橙色の強い光。

    その光がコントラストを生み。
    四隅の闇をより深いものへと変えた。

    伺った通りの間取りのようだった。

    玄関から長い廊下が続く。
    一番奥に、二階へ続く階段があり、
    廊下にそって広い居間と台所、そして書斎。
    二階には、寝室が三部屋あるらしい。

    一部屋づつ灯りをつけてまわり、
    書斎の灯りをつけた時、
    わたしは思わず、うっと声を漏らした。

    木目の作業机の上に。
    橙色に染まる、カセットテープとノートが、
    あの写真そのままに置かれていた。

    『ほら、ふみちゃんが、とんとんとんって』

    ただ、ノートにそう書かれているだけだ。
    なにを恐れる?なにが怖い?
    常識が湧き出ては弾かれる。
    この一行の悍悍としたリアリティに、圧倒された。

    わたしは、理屈抜きに怖かった。

    逃げ出す直前。
    白嵜さんの、諦めの滲む横顔を思い出す。

    「ええい!」

    惰性と勇気を絞り出し、
    乱暴にカセットとノートを掴んだ。

    バンッと玄関の引き戸を開け放ち、
    外へ駆け出る。

    息を切らし、膝に手をつく。
    振り返り、ぞっとした。

    左右の家とは全然違う。
    禍々しい、真っ黒な家が、
    ぼっかりと口を開けている。
    夕暮れの終わりが、一層、闇を深めて。

    わたしは、
    さっきまでこんなところに立ち入っていたのか?

    よたよたと後ずさる。

    「わぁあ!?」

    突然足を取られてその場に尻もちをついた。
    側溝に躓いたようだった。

    右手に掴んだ、カセットとノートが目に入り、
    急いでバッグへしまう。

    あせあせとスマートフォンを操作し、電話した。

    「……すみません、
    タクシーを一台、配車願えますか?」

    とてもホテルまで歩く気にはなれなかった。
    ……玄関の引き戸も、そのままにしてしまった。



    古本屋

    翌朝、白嵜の旧家に戻ると、
    年配の男性が引き戸を施錠していた。

    声をかけ、事情を話す。
    弟さんと交流のあったご近所さんで、
    東京の奥様が生前合鍵を預けていたらしい。

    「逢魔時に入るで、お嬢さん。
    おっかねぇ目に逢うんじゃのう?」

    「はは、そうかもしれません」

    ニッカリと笑う好々爺だった。
    明るいうちに一緒に家の中を見てくれるらしい。

    朝日に満たされた玄関も、書斎も、
    とても、昨夜と同じ家の中とは思えなかった。
    窓辺の陽光が揺蕩う。
    埃っぽい紙の香りすら、
    いつかの憧憬を思い浮かばせる。

    改めて、本の多いお宅だった。

    「すごい量の本ですね?」
    「白嵜さんはな、懇意にしてる古本屋があってな」
    「古本屋?」
    「北へ行った川沿いにあるんじゃが、
    本はだいたいそこで買っとったみたいだの」
    「その古本屋さんから、
    生前の白嵜さんのことを聞けるでしょうか?」
    「たぶんワシよりよほど詳しいはずだに」

    明るい陽射しに当てられ、
    だが……微かに不気味さもある笑顔だった。


    五十鈴川沿いに並ぶ古民家群の中程に、
    その古本屋はあった。

    まさに古民家という佇まい。
    白嵜の旧家のような、生々しさはない。
    乾いた時間の積層を、健やかに感じる。

    陽当たりの良い閑静な道に、水の流れる音。
    立川の住宅地をふと思い出す。

    「ごめんください」

    店内は、古本屋らしい手狭な店構えだった。
    木箱に並ぶレコードのコレクション。
    見上げると、往年の海外スターと思しき写真。

    積み上がる古書の棚の奥に、
    店主らしき男性がいた。

    おしゃれな丸縁眼鏡に整ったパーマ。
    三十代くらいの若い店主だった。

    「あの、宇治浦田の白嵜さんのこと、伺いたくて」
    「白嵜のじいさん?
    なに?お姉さん保険会社のひと?」

    第一印象からして苦手なタイプ。
    取り繕うのも面倒に思えた。
    ありのまま話すと、面白がって食いついた。

    「その話マジ?やべぇな?」
    「このカセットについて、
    なにかご存知ないでしょうか?」

    カセットテープを差し出す。
    バッグから取り出すだけで緊張した。

    「ああ、覚えてるよ、ウチで売ったもんだから」

    そう言うとケースを開けてカセットを取り出す。
    TDKのケースの中には、
    白いマクセルのカセットが入っていた。

    カセットテープを、
    あまりよく見たことはないが、
    それは、なんというか、
    とてもレトロなデザインのカセットだった。

    ベージュのラベルに、赤字でMAXELL。
    C−60というのが型番だろうか?

    「これはねぇ、
    日本で一番古い国産カセットテープなのよ」

    「価値のある物なんですか?」

    「まあ、新品ならね、
    こいつは中身だけで、録音入ってたし。
    三百円で売ってあげたよ」

    その辺の古本と変わらない価値。

    「なぜ、白嵜さんはこれを買ったのでしょう?」
    「ああ、なんかあの世代には懐かしいみたいね」

    カセットテープが出回っていたのは、
    1960年代だという。
    録音も、その頃されたのだろうか?

    恐る恐る聞いてみた。

    「あの、どんな方が、
    カセットをこの店に売られたんですか?」
    「知らん」
    「え?」
    「ある日店開けたら、
    本棚の隅に置いてあったんだよ」

    経緯がなければ、ただの不思議な話だ。
    しかし、それって、あまりにも……

    ひやりと、シャツが湿る。

    「いや、俺もさ、
    ちょっと不気味で、捨てるつもりだったの、
    翌日に白嵜の爺さんが買うってゆーから」

    「……中身は、聞かれました?」
    「幸い、カセットプレイヤーなんて無くてさぁ
    まあ、あったとしても……だがね?」

    「……」
    「……あ」
    「なにか?」

    「お姉さん、スカート、
    しわくちゃになっちゃうよ?」


    連鎖

    「ただいまぁ」
    「にゃあーん」

    夜中に自宅へ帰りついた。
    出迎えてくれたリリィと、
    額を突き合わせて無事を確認し合う。

    マンション。
    エレベーター。
    リリィ。

    いつの間にか、
    ここがわたしの安全地帯。

    青柳さんは、
    リリィのお世話をよくしてくれたようだ。
    トイレもきれいで、タンクの水も補充してあった。

    「ブラッシングもしてもらったの?」
    「ぅんん?」

    明日、早速お礼に行かなければ。
    色々安心すると、眠たくなってきた。
    荷物もそのままに、
    シャワーを浴びて、
    リリィとベッドに入ってしまった。

    ――

    早朝、着信音に目を開けた。
    薄暗い中、枕元のスマートフォンを探す。
    まだ、夢の中にいるみたいだった。

    「なぁあああん!」

    リビングの方で、リリィが鳴いている。
    ……?虫かなにかいたのだろうか?

    「……はい……瀬戸です」
    『瀬戸君!私だ!山崎だ!』

    ――課長だった。

    「課長?あれ今何時です?なにか……」
    『青柳君が!亡くなった!』
    「なぁあああああん!」
    ……
    「……え?」

    鼓動が、ゆっくりと落ちてゆく。
    課長の声が聞こえない。
    ひんやりとした、薄暗い中で……

    リリィが、あっちの部屋に……
    パジャマの裾を、じっとりと握りしめていた。

    「なぁあぁあぁああああん……」
    「リリィ!?」

    急に不安になり、スマートフォンを床に放る。
    リリィを助けに行かなければならないと思った。

    隣の、リビングに駆け込む。
    暗いリビングの真ん中に、大柄な……

    青柳さんだった。

    「うわぁあああ!」

    わたしはその場に腰を抜かし、
    リリィは寝室に走りこんだ。
    だって、青柳さん……首が、拉げていて……

    指を口元に立てて、しぃー……って。

    「なぁああん!」
    リリィがわたしに飛び掛かる。
    一瞬の視界が遮られ、彼は消えていた。

    『瀬戸君!何があった!大丈夫か!?』
    『瀬戸君!……』

    寝室から、課長の声が響いてくる。
    鼓動が、足早に脈を打っていて。
    カーテンから差し込みだした陽の光に。

    わたしは、静かに嗚咽した。

    ――

    二度と会うことはない。

    そのつもりだった。
    ある意味で、
    わたしにとっては最近の異常事態と同じか、
    それ以上に嫌な相手だ。

    それは相手も同じで、
    こうして会ってもらえるのは、
    静香もわたしの声に異常を感じて、
    それで嫌々応じたからに違いなかった。

    青柳さんを失って、余裕がなかった。

    盛る生々しい匂いを、
    煙草の悪臭で無理やり消したような、
    ……そんな女。
    嫌悪感の中で疼くような、嫌な思い出だけが煙る。

    若いバンドマンが出入りするような楽器店の中。
    併設された小さなスタジオに、
    三栗静香は住んでいた。

    「まさかこうして、
    瀬戸あかりちゃんと再会するとはねぇ?」

    「……元気?ごはんちゃんと食べてるの?」

    パンキッシュなカットソーに、レザーパンツ。
    両耳と、唇、舌先、
    それと、下着の下にもピアスがある。

    久しぶりに見た静香は、
    頭の半分を剃り込んでいて、
    ますますわたしの嫌いな容姿になっていた。

    「元気だよ。可愛い元カノがいなくてもね、
    あたしに抱かれたい女ならいくらでもいるし」

    当たり前のように煙草を吹かす静香に、
    イライラした。

    スタジオに漂ういやらしいさが、
    ゆらり煙と交じりあって。

    息を吐く。
    わたしは無言でカセットテープを取り出した。

    「これぇ?」

    気怠そうに、静香が受け取る。
    やはり珍しいのか、
    ケースの中身をまじまじと眺める。

    「もしいるなら、お金も払うわ」
    「えー、いらねぇよそんなん、それよりさ」

    ぬるりと光る黒い爪が、わたしの頬をつつく。
    ふっと煙が撫でた。

    「久々に一発やらせてよ?
    したらそのテープ見てあげる」

    あぁ!?くそが!
    無神経に触りやがる!死んじまえ!

    静香を思い切り睨みつける。

    「あはっ!そのまま抱かせてよ!
    怖い顔最高!マジでムラムラするわ!」

    キレたわたしを満足気に見下ろす静香に、
    よけいにイライラが募った。

    「ちっ!」

    盛大な舌打ちを食らわせ立ち上がる。

    「あ?帰んの?」
    「シャワー!」

    怒鳴りつけてやった。


    怖気

    ――寂しかったのは、お前の方じゃないのか?

    ……その通りだ。

    リリィを引き取ったのも、
    青柳さんも……

    音を黙らせたような、暗い防音室で、
    繰り返す。

    長い爪が痛かった。

    でも……よせては返す波のようなやさしさに。
    じわじわと酔いしれてしまう。

    「気持ちいい?」
    「……うん」
    「……泣いてんの?怖い?」
    「……」
    「怖かったこと……今は忘れなよ」

    撫でられるたび、甘い煙に包まれて。
    白く……

    静香の顎を取り、唇を軽く噛む。
    ……昔ふたりで決めた合図。

    わたしのこと、
    みんな知ってる静香に。

    声を殺して、いつまでも甘えていた。

    ――

    「いや、まじ怖えーわ」

    勘弁してくれとばかりにヘッドホンを放る。

    「どう、思う?」

    音と聞けばなんでも聞きたがる静香が、
    ため息を漏らす。

    「んー、中身は昔の誰かの録音で、
    まあ劣化してんだけど」
    「……やっぱり、あの言葉……」
    「ほら、ふみちゃんがとんとんとんってか?」

    首を振る。

    「いや、こいつの怖いところは録音そのものかな」

    プロの見解に思わず耳を傾ける。
    デッキに繋いだ、
    ラップトップの波形を見せてくれた。

    しばらく無音。
    正確にはぶちぶちとテープっぽい雑音の後、
    『ほら、ふみちゃんが、とんとんとんって』
    と続いた。

    「まず音域が変だ。
    この帯域じゃこんなピーク立たない。
    見てごらん、ほらここ、8ヘルツと22ヘルツ」

    「ん?つまり、どういうこと?」

    「普通なら、意味なんて持たないはずの
    ノイズなんだよ。でもこいつは……
    ちゃんと形がある……意味があるんだ」

    いまいちピンとこないが、
    異常だということは理解できた。

    「この、声のない部分にも、
    元々は音が録音されてたはず」
    「え?」
    「まってて、まずノイズを慣らしてやって……」

    わたしの目にはさっぱりだが、
    静香がマウスを叩く度、少しずつ波形が変化する。

    ……なんだろう?うまく言い表せないが、
    暴いてはいけないものを暴く感覚。

    「欠けと、ピッチを補正して……」

    少しずつ、不安が増す。

    「よし、どうかな?」

    もぞもぞとした音が、
    無音部分とそれから、
    問題の言葉の最中にも浮かび上がる。

    「くそっ!潰れちまってる。
    しゃーない、奥の手だ」
    「奥の手?」
    「えーあい」
    「AI?」

    ラップトップが唸りを上げる。
    三分程解析すると、
    先ほどとは全く異なる波形が姿を現した。

    「……聴いてみようか」
    「……うん」

    静香が、マウスをクリックする。
    それは……子供の泣き声から始まった。

    『うあぁぁぁん!
    ほらふみちゃんが、
    とん、ごん!うぎゃぁあ!
    とん、ごっ!ぎゃああああ!
    とん、ばた!あぁああああ!
    って。
    みし、みし、みし、みし……
    ほらふみちゃんが……』

    悲鳴が、鈍い音と共に繰り返される。
    童歌など、とんでもなかった。
    ノートの、赤い矢印。
    嬉々としてなぞられる、あの言葉。
    とん、とん、とんが……歪なのは……

    わたしは、夢中でマウスをクリックした。
    再生が止まる。

    スカートの裾を掴む、
    爪が手のひらに……食い込んで。

    静香がわたしを抱き寄せる。

    「大丈夫、ただの録音だよ。
    あたしが傍にいるから。ね?
    ほら、スカートから手を放そう?」

    甘い煙草の、嫌な匂いにしがみついた。
    スカートの代わりに、
    静香の襟ぐりをギュッと握った。
    震えるわたしの背中を、
    ぽん、ぽん、と叩いてくれる。

    「怖くない、怖くない……
    あかりは強い子だろう?」

    涙が零れた。
    恐怖に嗚咽し、
    世界一大嫌いな恋人に慰められる。


    階段

    結局、
    その日わたしは静香のもとを離れられずに。
    リリィにはもうしわけないことをしてしまった。
    色々と、
    だらしのないルームメイトと思われてしまう。

    久々に手料理を振舞う。
    昔を思い出した。
    ケンカして、わたしが泣いて……
    慰められて仲直り。
    夜は、わたしがキッチンに立つ。

    ……ニンニクを抜いたパスタを振舞った。

    カセットテープの話はしなかった。
    ふたりでシャワーを浴びて。
    暗くした防音室で確かめあう……

    いつの間にか、寝てしまった。


    床の軋み。
    埃っぽい紙の匂い……

    橙色の電球を、ぼーっと眺めていた。

    ……微かに、煙草の匂いがする。
    煙にも満たない、懐かしい匂いにはっとした。

    ここは、白嵜の旧家だろうか?
    橙色の灯りのまわりは、暗闇だった。

    外に出なければ。
    引き戸に手をかけるが、開かない。
    ガタガタと揺らすが、動く気配もない。

    ドガッと、
    大きな物が落っこちたような音が聞こえた。
    廊下の奥、暗闇の先からだった。

    バッグからスマートフォンを取り出して、
    ライトをつける。
    軋む床を照らして、廊下を進んだ。

    身震いするほどの沈黙の中、
    きしきしと床の音だけが気持ち悪い。

    廊下の左手に、居間があり、
    通り過ぎるとき、横目で見た。

    揺り椅子に、
    見覚えのある老婦人の影が腰掛けていた。
    どこかあきらめたような、疲れ切った顔に見えた。

    「引き返しなさい、どうせ助けられない。
    引き返しなさい」

    ゴンッと大きな物音がして。
    向き直ると、揺り椅子には誰も座っていなかった。

    胸騒ぎがした。
    廊下の先の暗闇から、
    ぼそぼそと、なにか聞こえてくる。
    一歩軋むごとに、黒い空気がのしかかる。

    汗ばむ左手で、スカートの裾を握りしめた。

    書斎の脇を通り過ぎ、
    暗闇の中に階段が視えてくる。
    ぼそぼそとした声が、輪郭を帯びて……

    「ほら……しずかちゃんが……
    とん、とん、とん……」

    ドガァ!

    階段の暗闇から、
    投げ出されたように細身の人影が床に転がった。
    顔など見なくとも、すぐにわかった。

    「うぁあああ!」

    大切なひとだった。
    わたしは走って、手を伸ばした。

    刹那、暗闇から白い手がぬうっと伸びて、
    静香の首を掴むと、
    階段の上へと引きずり上げてしまった。

    「静香ぁ!」

    前のめりでのたうつみたいに、階段へ駆け込む。
    二階を、見た……

    「ほら、しずかちゃんが」

    二階の闇に、真っ白い着物の女性がいて……
    華奢な腕で静香を放り投げ……

    「とん、とん、と……」

    わたしの上に、静香が降ってくる。
    どっ……とふたりで床に転げて。

    目を開けたら、静香の顔があった。
    半分くらい……潰れてしまっていて……


    逃避行


    「静香ぁ!」

    飛び起きた。
    押し黙った静寂の中、
    目を泳がせる。

    仄暗い防音室の、ベッドの上だった。

    「……夢?」

    右手を、まだ寝ている静香に伸ばす。
    まだ熱を残した、シーツばかりにふれて……

    「静香!」

    隣に静香がいない。
    部屋の中にも。
    鼓動が大きく、早く脈打つ。
    嫌なもので頭がいっぱいになった。

    スタジオを出て。
    裏から楽器店の前の通りへ向かう。

    早朝なのに、道路に人だかりができていた……

    「どいて!通して!」
    必死だった。
    幾人かの人垣を押しのけて……

    横たわる静香の前で崩れおちた。
    血まみれになりながら、静香にしがみつき。

    声を殺して、いつまでも甘えた……

    ――

    「リリィ、行こっか」
    「なーん」

    リリィのゲージを助手席に乗せて、
    わたしは車のエンジンをかけた。

    引っ越し先は都内から3時間くらい。

    ようやく春らしい気候になり、
    晴れた日のドライブは気持ちよかった。

    静香の葬儀も滞りなく終わり、
    もう東京にいる必要はないように思えた。
    ……静香は……
    楽器店のビルから飛び降り自殺をしたらしい。

    わたしにはそうは思えない。
    しかし、なにもかも胸の内にしまうことにした。

    課長に退職を申し出て、
    青柳さんの墓前にも報告した。
    リリィとふたり。
    海沿いの街で暮らすことにしたのだ。


    砂浜にほど近い。
    海辺の小さな家が、わたしとリリィの新居。
    もちろん、二階はない。

    街から距離があり、
    離れ小島のような白い家は、潮風が心地よく。
    日暮れから明け方にかけ、
    幽世に迷い込んだような雰囲気だった。

    実際に、そうなのかもしれない。

    わたしは、早朝と夕暮れ時に、
    砂浜から防波堤の道をジョギングする。

    家から少し離れた砂浜で、
    日の出前のさざ波を聴く老婦人を見かけた。

    その横顔は、
    やはりどこかあきらめたような表情で。

    夕暮れの防波堤で、海を見ながら走る時、
    たまに、体格の良い男性の影ともすれ違う。
    わたしの二倍はありそうな、そんな男性。

    宇宙の星が強く瞬く頃には、
    幾冊かの本を手にした老人が、
    寂しそうに街へと帰ってゆく。

    夜眠れずに、
    ベッドの中で波の音に耳を傾けた。

    静かに響く波の音に、
    ゆらり煙草の煙が交じり合うとき。
    彼女は後ろからそっと背中にふれて、
    わたしの頭を撫でてくれた。


    仄暗い夜明けに、
    リリィを抱いたわたしは。

    砂浜で子供をあやす。
    白い着物の女性に、

    声をかけてみた。



    あぜ道


    深く。

    水溜りに沈んだような。
    そんな夏やすみだった。

    海をのぞむ二両の電車は、
    淡いオレンジで満たされて。
    時折、山の稜線が途切れると、
    さっと彩られ、
    抜けてゆく。

    東京を出て、
    四時間半が経とうとしていた。

    東海地方の果てにある、
    遠い故郷の町へ帰る。
    従姉の、リコねぇが結婚するらしい。
    久方ぶりの故郷から届いた嬉しい知らせに、
    切ない想いが駆け巡る。

    夕日から隠れるように走る電車を、
    藍色の闇が追っていた。

    ☂

    改札すらない、
    草むらの中の駅。

    短いホームを降りると、
    あぜ道が続いている。

    歩き出して振り返る。
    草むらの先、藍色の空の下に、
    防波堤と、光を灯した水門が見えた。

    潮のにおい。
    微かに響く、波の声。

    白いワンピース姿の従姉がくるくると舞う。
    遠い夏の日の砂浜。
    汗をぬぐい、防波堤に腰掛けアイスを舐めた。
    ふたりだけの思い出。

    近づくにつれ、脈打つなにか。
    潮風に夜が混じって。

    暗くなる前にあぜ道を行く。

    ☂

    今にも闇に沈みそうだった。

    田畑に囲われた長い道を進み、
    黒い塀に囲われた屋敷が見えてきた。

    「樹君!」

    門を潜ると、声をかけられた。

    「叔父さん、ご無沙汰してます」
    「いやぁ、立派になったなぁ」

    航平叔父さんには、
    小さい頃から良くしてもらっていた。

    どこにでもいる優しそうな父親が、
    この大きな屋敷の主だった。

    「しかし、樹君がこんなに立派になるなら、
    リコのやつ結婚相手を間違えたんじゃないか?」

    その言葉は、噛まずに飲み込んだ。

    「リコのために、来てくれてありがとう」

    庭先で笑う花嫁の父親に、祝いの言葉を渡せずに。
    流されるまま、敷居を跨いだ。

    ☂

    ……夢か。

    この広い日本家屋は、
    長い廊下が続く。

    どこまでも真っ暗闇の廊下。
    微かな輪郭と、床の音を頼りに進む。
    子供時代の恐怖の象徴。
    暗闇を抜けた先が忘れられず。
    こうして繰り返してしまうのか?

    ぎしり、ぎしり。

    違和感に、立ち止まる。
    目の前の黒に、なにかが瞬いた気がした。

    ほんの一瞬。
    一粒の豆電球みたいな。

    目を凝らす。
    じっと見つめる。
    チカッて。
    やはり、赤い瞬きが……

    こちらを、見ていた。

    「ひっ……」

    真っ黒闇に、赤い瞳一粒。
    こちらを、ぎょろりと見てる。

    足が固まる。
    背に張り付くTシャツが、妙にリアルで。
    これは、現ではないだろうか?

    加速する呼吸。
    引き攣る頬。
    硬直する筋肉。
    観察されている……


    「……樹くん起きて」

    柔らかい手のひらが、額の汗を拭う。
    光が目に沁みた。

    「だいじょうぶ?」

    咄嗟に、彼女の頬にふれてしまう。

    「リコねぇ!?」
    「フフッ、おはようさん」

    思わず布団の脇に這い出て逃げる。

    もともと透明感のある姉が、
    驚くほどに、成熟していて。
    口許に指を当て、くすくすと。

    はっとして、
    布団の中へ舞い戻る。

    「大人になったね」

    ☂

    「樹くん来るっていうでさぁ、
    いてもたってもいられんくて」

    長い廊下をギシギシとふたりで。

    「朝一で帰って来ちゃった。
    んー里帰りの前借り?」

    四つ離れた姉。
    東京の大学が決まり、
    上京するまでずっと一緒に過ごした。
    だから、幼馴染ともいえる。

    ……お互い、なにもかも知っている。
    特別きれいなリコねぇを、おれは全部知っている。

    「叔父さん、叔母さん、おはようございます」
    「樹ちゃんおはようさん!ご飯できとるよ。
    ほら、リコは手伝いー、早う!」

    居間には明るい朝が詰まっていた。
    新聞を広げ微笑む叔父さん。
    昔ながらのエプロン姿で朝食を運ぶ叔母さん。
    頭を搔いて不服そうなリコねぇ。

    早くに親を失ったおれには、眩しくて。
    憧れる。

    「樹君、東京の仕事はどうだい?順調かえ?」
    「ようやく様になってきました。
    秋には新しい企画のチームを任されます」
    「ほったら、ここでしっかり英気を養って、
    頑張らんといけんなぁ」

    叔父さんはいつも気にかけてくれる。 
    上京する時も勇気づけられた。

    「ほうかぁ、リコのヤツ、ますます
    樹君を選んどきゃ良かったにぃ、まったく」

    ――旦那さんは、ここにいないのだろうか?

    「あの、そういえばリコねぇの旦那さん、
    おれ、まだご挨拶してなくて」
    「ああ、浩君は仕事でなぁ、
    式直前まで忙しいらしい」

    挙式まで数日しかないが、
    そんなものなのだろうか?

    久々に楽しい朝食だった。
    赤味噌にほっとしたおれは、
    やはりここが故郷なのだと思えた。

    ☂

    「ほったら樹ちゃん、あとよろしくね」

    叔父さんは漁協へ、
    叔母さんはこれから友人に会いに、
    名古屋まで出掛けるらしい。

    「樹ちゃん、リコが悪させんよう、
    よう見張っとき?」
    「お母さん、電車遅れるよ?」

    なにやら嬉しそうなリコねぇに、
    叔母さんが冗談めいた睨みを効かせる。

    「夜までには帰るでな。行ってきます!」

    引き戸が閉まると、リコねぇが絡んできた。

    「今日は?樹くんどうする予定?」
    「特には決めてないよ、リコねぇは?」
    「樹くん彼女できた?」

    リコねぇは、間合いの詰め方に躊躇がない。

    「……なにもないよ、どうして?」

    こうなると、リコねぇの思うままにされてしまう。

    「ねぇ、お姉さんとデートの練習でもせん?」
    「え?」

    いや、どこか遊びに行こう。
    と言われているだけだ。
    でも先程の質問と混ざって、崩される。

    「ほしい本があってさ、
    モールまで行きたいんだよね」
    「わかりました。お供しましょう」
    「決まりぃ!」

    ポケットから取り出して、放られる。
    あっと、キャッチして。
    車のキーだった。

    最初から、そのつもりだったのか。

    ――

    真っ白なエヌボックス。

    はじめて乗ったが、楽だった。
    視界がひらけていて。
    お散歩みたいなドライブにぴったりだ。

    リコねぇは、なにやらご満悦で。
    こちらをチラチラ見ては、
    窓の外へ隠すようにニヤついている。

    意外と、反射でバレているのだが。

    「この車、旦那さんの?」
    「……」

    微かに、凍てついた。

    「すごく運転しやすいね」
    「樹くん」
    「ん?」
    「いまはダメだよ。そういう話」

    冷たい眼差しが、
    海岸線のきらめきを見つめたままで。

    軽い目眩に、
    ハンドルを握りなおした。

    ☂

    扇風機に髪を揺らす。

    縁側でふたりならんで、
    カップの氷小豆をすくった。

    Tシャツと、ショートパンツに見え隠れする、
    石鹸の香りに胸が高鳴る。

    「デート、楽しかったよ」

    瞳にうつす、傾いた夏の空色。

    帰り道に、
    灯台が見える砂浜に寄った。
    波が高くて、
    砕ける様子をふたりで見守った。

    ふたりとも無言だったけれど。
    時間の問題のような気もした。
    ふたりの間になにもない。

    そこには誰の影もない。
    不気味なくらい、誰もいない。

    波が砕ける度、
    あの日のリコねぇを思い出して……

    ――

    「この間の続き……したい?」

    素っ気なく呟かれた。
    喉が鳴り、背中を走る汗を感じる。

    ――そんなこと、できるわけない。
    あと何日もせず、結婚……
    ゆらり詰め寄られ、唇を奪われた。

    「これはデートのお礼、続き、せんの?」

    しなやかな指が、撫でるようにふれて。

    「決断して、
    お父さんもお母さんも、帰ってきちゃうよ?」

    抗えない。
    あの日の彼女が重なって、求めてしまう。
    彼女の身体にふれる。

    執拗に絡みつき、撫でつける。
    どろりと穢れた、あの日の秘めごとが滲み出す。

    もう、止まらない。

    嬉しそうな彼女が、甘く囁く。

    「ね、リコって呼んで?」

    ☂

    夕暮れのホームを降り、
    あぜ道を歩く。

    夢なのだと思った。

    遠く、山の稜線に、
    篝火みたいな、夕陽が燃えていて。

    あぜ道の暗闇がどこまでも続いている。

    ――リコのところへ帰らないと。

    土と、砂利が、
    いつの間にか泥と水溜りになっていた。

    ――いつから雨の中を歩いていたのだろう?

    静かな雨に、シャツはぐっしょりと濡れていて。
    額からつたう雨水が、
    ぽたぽたと落ちた。

    あぜ道が、
    無限に続くのではないかと……
    少し怖くなった頃。

    暗闇の中から、誰かが歩いて来た。

    真っ黒なレインコート、
    深くフードを被った、小柄な人影だった。

    あぜ道か、暗闇か。
    どちらともつかぬ恐怖にかられ、
    人影に駆け寄る。

    「あ、あの、道に迷ってしまって」

    フードから覗く顔に、はっとする。
    女の子だった。

    妖艶なほど、白い女の子。
    十代だろうか。
    きれいな赤い瞳だった。

    「どこへ行きたいの?」

    透きとおった声で尋ねられる。

    淡い微笑みを称え。
    白い頬が僅かに紅潮してみえた。

    「近くに黒い塀の大きな家が、
    あるはずなんだけど、知っているかな?」
    「あの家の番は、穢れを孕んでる」
    「え?」
    「駅へ引き返したほうがいい」

    妙なことを言っている。
    瞳を伏せた表情が、昨日のリコと重なる。

    「あの家に、待ってるひとがいるんだ」
    「その女は穢れている」

    冷たく響く言葉に、苛ついた。

    「君になにがわかる」
    「……フフ」

    馬鹿にされたような気がした。
    不敵な笑みが、リコみたいで。

    「なにも見ようとしない、愚かな男」

    風が雨を巻き上げる。
    少女の肩に掴みかかり、
    泥濘に押し倒した。

    レインコートをまくりあげると、
    股ぐらが、顕になった。

    降りしきる雨に溶けた、血の匂い。
    息を吞む。

    嬉しそうに、くつくつと笑う少女。
    淡く紅潮した頬も、妖艶な微笑みも。
    急に悍ましいものに思えてくる。
    衝動だけが、残っていた。

    ひきつりながら、少女の足を広げ覗き込んだ。

    「うっ!?」

    それのすぐ傍で、
    ぎょろりと赤い目が見張っている。
    どこかで見たことのある目だった。

    内腿の瞼も、やがて見開く。

    次々に、見開いて。
    滴る雨水に血を滲ませる、
    その中からも、ぎょろり。

    「ずっと見ていた。
    貴方のこと、ずっと見てるから」

    泥に縋りながら、ずるずると狼狽した。

    くつくつと笑う声が、
    まるで、リコの声で。

    ☂

    ぱらり、ぱらりと。

    久々の雨だった。
    朝からずっと。

    叔父さんと叔母さんは、
    漁協の集会に出かけてしまった。

    リコとは、すっかり昔に戻っていた。

    仰け反る、熱い身体を抱きしめる。
    激しい鼓動と吐息が混ざりあい、
    どくどくとあふれ出た。

    「上手くなった、上手くなった」

    息を荒げ嬉しそうなリコが、
    おれの頭を撫でる。

    朝から、姉を。
    結婚間近の従姉を抱いていた。

    お互いに満たされないまま繰り返す。
    避妊具もないまま繰り返す。

    癒えぬ渇きに、しあわせを感じていた。

    ふたりとも狂っていた。

    「樹くん、本当に彼女いなかったの?」
    「ああ、おれは最初からリコねぇ一筋だったから」

    水を飲みながら、リコが不信感を投げかける。
    しかし、おれは誓って彼女としかしていない。

    「どうかした?」
    「ううん、なんだか、扱い方が上手というか」

    心拍数を抑えて、要らぬ記憶を沈める。
    あと少しでほしいものが手に入るのだ。

    「リコは、どうするの?結婚式とか」
    「あはっ」

    ぎょっとした。
    その笑い声よりも、彼女の目に。

    おれの胸に指を這わせて、
    覆いかぶさるようにベッドに沈める。

    「なにも気にしなくて大丈夫だよ、
    お姉さんに全部任せてくれれば」

    慈しむような眼差しが、
    ぎらぎらしたなにかを孕んでいて……

    「……妊娠、するといいなぁ」

    再び、彼女の中に包まれる。

    ☂

    窓を見つめる。

    ばらばら、ばらばらと。
    暗闇の向こうから、雨音だけ。

    居間の時計は21時を指していた。

    ――先に食べちゃいましょう。
    リコの提案で、ふたりで夕食を食べた。
    今は皿洗いをしている。

    落ち着かなかった。
    叔父さんと叔母さんからなんの連絡もない。
    リコも、やけに落ち着いていて、
    心配する素振りすらない彼女のことが、
    不安に思えた。

    「さてと、おまたせ」

    グラスとチューハイを手に、隣に座る。
    麦酒のロゴが描かれた透明なグラス。
    果物の香りがする透明な炭酸で満たされてゆく。

    「ふふ、なんだか」

    嬉しそうな、切ないような。
    そんな表情。

    「なんだか、はじめから、
    ふたりきりだったみたいだね」

    グラスの液体を口に含む。
    薄く香る偽物の果実が、
    泡になって意識を撫でる。

    「航平叔父さんたち、どうしたんだろう?」
    「ふたりきりだよ?夢が叶った?」

    グラスの泡を見つめていた。
    夢見心地の女の子みたいに。

    ああ、取り返しのつかないところまで、
    やって来てしまったのか。

    あぜ道で、駅へ引き返せば良かったのに。
    小さなホームにはトタン屋根も付いていた。
    あの女の子にも、
    酷いことをしてしまった。

    東京でリコねぇを重ねた、
    名前も知らない彼女たちの目が、
    じっと見ていて。

    いつの間にか、日付が変わっていた。

    「今夜は、貴方の部屋で寝させて」

    肩に頭を預け、甘えるリコに、
    一緒に寝ようと囁く。

    右手の下敷きになったスマホが光る。
    ちらりと見えたニュースに、
    男性の変死体と書かれていた。

    そんな気がした。

    ――「ごめんください」

    どこかで聞き覚えのある声だった。
    女性の、若い女性の声。

    「こげな時間に誰かしら?」

    リコが怪訝そうに立ち上がる。
    おれもついて行った。

    静まり返った玄関は、
    しかし、これほど不穏なものだろうか。

    引き戸の隙間から暗闇が滲んだみたいで、
    見ているだけで、
    夜に引き込まれそうな気がする。

    引き戸のすりガラスにうつる、
    小柄な黒い人影。

    女の子だろうか?

    「どうかしたの?大丈夫?」

    事情を察し、リコがやさしく声をかける。

    「……雨に濡れてしまって、
    どうか、中に入れてはいただけないでしょうか?」

    「大変!」

    引き戸に駆け寄るリコの腕を掴む。

    少女の声に違いなかった。
    だが、あまりに生気がない。
    なにか、家に入れてはいけないような、
    そんな気がした。

    「助けてあげないと!」
    「なにかおかしい、警察に連絡しよう!」
    「樹くん!そんな冷たいひとだったの!?」
    「違う!リコねえ!」

    物凄い力で振り払われる。
    指が引き戸にかかって、
    がっ……と、開け放たれた。

    「誰も、いない?」

    誰もいなかった。

    暗闇の中で、雨音だけが鮮明に。
    ひやり、首筋をつたう。
    顔を見合わせ、呆然と見つめ合う。

    最初から、誰もいなかった。

    ぞくりとした。
    リコも俯いてふつふつとなにか呟いていて。

    ……ぴた。
    とりあえず引き戸を閉めないと。

    ぴた、ぴた。
    玄関に下りて引き戸に、

    どちゃっ!
    「ひっ!?」

    足元に、投げ込まれたそれは、
    赤黒い肉漿で。

    ぶくぶくと生臭く泡立ち、
    最初、青白い手が生えた。

    ぬらぬらとした足と、
    もう一本の腕。
    ずるりと、白い肢体の少女が立ち上がる。

    すぐ後ろで、
    わたわたと這いつくばるリコの音を聞いた。

    一瞬遅れて、振り返り逃げだす。
    上手く走れず、やはり四つん這いでのたうつ。
    どうにか、立ち上がると。
    泣きながら這いつくばるリコの手を取り、
    真っ暗な廊下へと逃げ込んだ。

    「どこへ行きたいの?」

    振り返ると、
    真っ白な少女が、
    赤い目をギラつかせてこちらへ迫っていた。

    ぬっとりと血に濡れて、
    見開いた目と微笑みが狂気に満ちている。

    「なぜあぜ道を戻らなかったの?」

    手足をぐるぐると捻りながら、
    ぴたぴた、
    ぴたぴたついてくる。

    ぴたぴた、
    ぴたぴた。

    「なにあれ!?ねえ!なに!?」
    「とにかく逃げるんだ!」

    泣きじゃくるリコを連れ、
    真っ暗な廊下を走る。

    「アハハ、アハハハハハハ」

    ギシギシ、
    ギシギシ。

    どこまで走っても廊下が続く。
    前も暗闇、後ろも暗闇。
    気がつけば、無数の赤い目が、
    こっちを見ていて。

    こんなに、こんなに廊下が長いわけがない。

    「あっ」

    リコが躓き、
    ふたりとも床に転んだ。

    立ち上がろうと、振り返ると、
    ちょうどリコが、雑巾みたいに捻れていた。

    刹那、
    リコは暗闇の中に引きずり込まれてしまった。

    悲鳴はなかった。
    呆気にとられるおれの隣に、
    少女がしゃがんでいて。

    慈しむような目で見下すと。
    おれの開いた口に、
    リコの薬指を咥えさせた。

    血の味が広がり、
    吐き出そうと舌の上でえずく。
    にゅとりと、唇から指が零れる。

    舌の上に、抜けた指輪だけが残った。

    その様子に、少女がケタケタと笑う。

    さらけ出した白い肌を、
    見せつけるようにケタケタと。

    おれの目には、
    やはり、リコにうつるのだ。

    血塗れた異形の少女すら、
    おれにはリコだった。

    ☂

    夜明け前に家を出た。

    黒い塀の前の道で、
    航平叔父さんらしき人影と出くわした。

    「やあ、こんな時間に散歩かい?」
    「ええ、そんなところです」

    「なあ、樹君、もし、君さえよければ、
    リコのこと、もらってやってくれんかなぁ?」

    「ええ、最初から、
    そのつもりです。お義父さん」

    「ほうか!そりゃよかった!
    結婚式、楽しみにしとるでな!」

    お義父さんと別れ、
    あぜ道を駅へと向かう。

    始発が何時かわからないが、
    トタン屋根もあるし、
    待てばいい。

    暗闇のあぜ道を歩く。
    いつから雨は降っていたのだろう?

    あぜ道の先に、
    水門も防波堤も見えない。

    どこまでも、
    いつまでも、
    あぜ道を歩いた。

    時折感じる潮風だけが、

    リコのようにやわらかく。



    よまつり


    車窓を流れる、
    美しい山波に旅情を感じる。

    ――信じられないなぁ。

    新宿からわずか一時間半。
    休暇のほとんどを海外で過ごすこともあり、
    足元に広がっていた静かな景色が新鮮だった。

    かなえに感謝しなくては。

    むかいの席でだらしなく寝ている彼女が、
    今回の短い旅行に誘ってくれたのだ。

    つま先で軽く小突いてやる。

    「ん?んー?」
    「かなえ、もうすぐ着くよ、
    ほら、眼鏡落ちそう!」

    ――

    駅からはタクシーで宿へ向かう。
    清流を望む、歴史のある旅館だと聞く。

    「どちらまでぇ?」
    嫌な声だった。

    車が走り出すと、

    薄気味悪い静けさが漂う。
    フロントミラーがうつす、
    運転手さんが変に真顔で。
    見ているつもりはなかったのだけど、
    目が合ってしまう。

    「この辺りは初めてですか?」
    「……ええ、きれいなところですね」

    肘で小突いて、かなえに助けを求める。

    「あ、あたしは、この近くの出身で」
    「そうですかぁ、じゃあ、里帰りも兼ねてねぇ」

    フゥーンという、埃を含んだ音が。
    冷たいのかどうかがわからずに……

    「夜祭も行かれるんでしょう?お客さん?」

    わたしは、外の景色に逃げて、
    かなえも、俯いていて。

    ――

    趣きある外観と異なり、
    旅館の中は、洗練されたホテルのようだった。
    古民家リノベーションなどと聞くが、
    まさにそれで。

    「かなえ、ちょっとすごいよ!」

    美しく雅な空間に、テンションが上がる。
    部屋に案内されると、
    窓の先にある客室露天風呂に興奮した。

    「わぁ!すごいすごい!」

    「よくこんなとこ予約取れたね!?
    かなえ!ありがとう!」

    燥ぐわたしの背中に……とすん。


    「……一緒、はいる?まだ時間あるよ?」

    ――握った手を離さない。
    旅の本当の目的は、
    まあ、そんなところで。

    ――

    旅館から参道までは、
    すぐ傍らの清流沿いを歩く。

    レンタル浴衣でカラカラと。
    嬉しそうに俯くかなえの手を引いて。

    ちらほらと、
    参道へ歩く観光客が増えてきた。

    そのうちに、
    無数の提灯が彩る、
    艶やかな参道が現れた。

    「きれいだね」
    「うん」

    人の波に紛れ、
    淡い光に目を奪われながら参る。

    頬を染め、私の指をぎゅっと掴む。

    かなえの心臓の音も、聞こえそうなくらいに。

    時折、夜参りと書かれた白装束の男衆が、
    こちらに手を合わせてきた。

    「かなえ、いまのなんなんだろ?」
    「……気にしなくて大丈夫、
    来てくれてありがとう、みたいな?」

    かなえのその言葉に、
    あまり深く考えようとしなかった。

    リンゴ飴を舐め、わた菓子を頬張る。
    かなえに水風船を持たせて、
    それから、
    脇道に逸れてキスもした……

    愛おしいひとを、
    人混みからそっと隠すように、

    夜の夢が色濃くとけて。

    社の前まで来ると、
    かなえが浴衣の裾を引っ張ってきた。

    わたしは、あの時のかなえを忘れられない。

    「……てぇ離さないで、
    ずっと、握っててほしい……」

    「……かなえ」

    みんな見ていたと思う。
    社の前には、たくさんの人がいた。

    わたしはかなえの両手をぎゅっと握って、

    人目も憚らず、
    いつまでも唇を重ねていた。

    ――

    疲れてしまった。
    ただのひとりもいないのだ。
    誰も、かなえを見かけたとは言わなかった。

    白装束の男衆も、
    まるで最初から存在しなかったかのようで。

    社を探し。
    参道を探し。
    旅館に戻り、二度往復した。
    警察を呼んで……

    静かに涙が零れた。
    いまこの部屋に、かなえのバッグがある。
    部屋に残るかなえの匂いが、
    わたしにはわかるのに。

    消えてしまった……
    消えてしまった!

    「わたしの……かなえ……」

    するすると、浴衣をほどく。
    ふらり、窓を開け、
    よたよたと露天風呂へ進んだ。

    いつの間にか、浸かっていた。
    かなえの匂いに包まれて。

    涙がつぅっと、頬をつたう……

    清流をうつす景色が、真っ暗けで。
    立ち昇る湯気の中、呆然と見失う。

    露天風呂の縁に、なにかがあった。

    希望のようなものが芽生えて、
    そこへむかって、手を伸ばす。

    「……なんだ、かなえの眼鏡か」

    その時、後ろからそっと手がまわされた。

    「てぇ離さないでって、言ったよね?」

    ごぽり沈んで。
    肺の酸素が無くなった。


    エピローグ

    「なあーん!」

    また、洗濯機にモノ申してるようだった。
    彼女はとにかく、洗濯機が気に入らないらしい。

    テレビのワイドショーは、
    例の『お祭り事件』で持ち切りだった。

    わたしと同い年くらいの女性が、
    老舗旅館の客室露天風呂で亡くなったらしい。

    事件当夜、
    近くの神社で行われていた祭に参加した彼女は、
    連れの女性が失踪したと訴えていたが……
    失踪した女性とやらの目撃情報が全くなくて。
    不可解な事件だと、格好のネタになっている。

    不可解と言えば、
    ここからちょっと離れた海沿いの田舎町で、
    一家失踪事件が起きたらしい。

    なんでも、
    ご主人は地元の水産業で成功した名士で、
    美人の娘さんも、結婚間近だったようだ。
    しかも、その婚約者とされる男性が、
    おととい変死体で発見されたらしい。

    穏やかな日常のために越して来たのだが、
    この辺りも思いのほか物騒だ。

    ととととっびゅん!って。
    真っ白なうちの美人さんがやって来た。

    「なぁーん!」

    「リリィ、どーしたの?」
    「なーん!」
    「洗濯機のチェックはもうおしまい?」

    足元にすり寄る彼女を、
    そっと抱きかかえた。

    ぶわっと、
    窓のカーテンがふくらんだ。

    潮風に混ざって微かに……
    なつかしい、煙草の匂い。

    ふっと、口許がゆるんだ。
    今夜は、来てくれるのだろうか?

    考えてみれば、物騒で当然なのかもしれない。
    どうやら、この辺りは現世から遠いらしい。

    わたしたちだって、
    気がついたらふっ……と。
    消えてしまうかもしれない。

    そりゃそうでしょ?

    だって、家の前の砂浜で、

    彼女たちが……

    笑って、


    あかりとリリィのスピンオフ↓

     
     
    境界の曖昧な存在たちを描いています。 性愛と痛み、光が孕む、やさしい暗闇。 ――あわいにゆらめく、きれいで、壊れて、 誰かの幸福になるおとぎ話たち…… 幻想文学、耽美、百合、官能、怪異。 https://note.com/qa/neneneeko ←質問箱

    あなたへのおすすめ