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「ずいずいずっころばし」の底を覗く

    ――わらべうたの二重底と、手遊びに仕込まれた逆転劇


    はじめに:まず一度、声に出して歌ってみてほしい

    ずいずいずっころばし ごまみそずい
    茶壷に追われて とっぴんしゃん
    抜けたら どんどこしょ
    俵のねずみが 米食ってちゅう ちゅうちゅうちゅう
    おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも 行きっこなしよ
    井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれ

    どうだろう。メロディは脳にこびりついているくせに、歌詞の意味は考えたことがないという人がほとんどではないか。「ごまみそずい」って何だ。「とっぴんしゃん」って何の音だ。そして誰が、なぜ、お茶碗を欠いたのか。

    手遊びの方はもっと露骨だ。全員が手を丸めて「壺」を作り、その穴へ隣の人の指を突っ込み、最後の「だぁれ?」で指を捕まえた者(あるいは捕まえられた者)が次の「鬼」になる。

    これが、日本の市中の幼稚園や保育所で普通に行われている光景である。


    一、「通説」としての御茶壷道中――よく知られた説と、その意外な弱点

    このわらべうたを解説する記事や本の多くは、まず「御茶壷道中説」を紹介する。江戸幕府が毎年行った、宇治茶を江戸城へ運ぶ大行列の話だ。

    歴史的事実としての御茶壷道中は、なかなかにすさまじいものだった。1633年(寛永10年)に制度化されたこの行列は、茶道頭・茶坊主・警備役人を含む総勢およそ1,000人規模で東海道を練り歩いた。御三家クラスの大名でさえ馬や籠から降りて道を譲り、庶民は問答無用で土下座を強いられた。沿道の住人には道の掃除まで命じられたという。実質的に「権力の塊が道路を封鎖して通過する」イベントである。

    この解釈に従えば、歌詞の意味はこうなる。

    「ずいずいずっころばし」は行列がずんずん転がるように進む様子。「茶壷に追われてとっぴんしゃん」は、茶壷行列が来たら慌てて戸をぴしゃんと閉める音。「抜けたらどんどこしょ」は、行列が通り過ぎた後の安堵のどんちゃん騒ぎ。「行きっこなしよ」は、怖くて外に出られないという戒め——。

    なるほど、筋が通っているように見える。見えるのだが。

    ここで少し立ち止まってほしい。御茶壷道中説が「通説」として広まっているわりに、実は致命的な弱点が一つある。この童謡は、江戸時代の文献にいっさい記録されていないのだ。御茶壷道中が存在した時代に、この歌が歌われていたという直接的な証拠が見当たらない。さらに言えば、歌詞全体の中で御茶壷道中と結びつく言葉は「茶壷」の一語だけである。「ごまみそずい」「俵のねずみが米食ってちゅう」「井戸のまわりでお茶碗欠いたのだぁれ」——これらの句が茶壷行列とどう繋がるのか、実はよくわからない。

    研究者の間では「子供の遊び歌は、大人の歌から調子のいいところだけを取り出して、意味よりも言葉のつながりとリズム感を楽しむものがほとんど」(O-CHA NET)という見方もある。要するに、「茶壷」というフレーズが引っかかりになって、よくわからないまま歌い継がれてきた可能性も否定できないのだ。

    通説とはいえ、この歌の「正解」はまだ宙に浮いている。


    二、もう一つの解釈——こちらも「通説」と呼ぶ人がいる

    俗謡研究家・西沢爽は、この歌に対して全く異なる方向から詳細な論証を行っている。その内容は「性的な隠語の体系として読み解く」というものだ。Wikipediaのずいずいずっころばしの項でも言及されているが、「半信半疑か、触れられることが好まれないからか、一般には普及していない」(国文学者・若井勲夫)というのが現状である。

    ただ、この説には御茶壷道中説にはない強みがある。隠語の実在が記録で裏付けられている点だ。

    まず「茶壷」について。近世の隠語において「つび(壷)」が女性器を意味する語として使われていたことは、複数の俗語・隠語研究に記録されている。永井義男『江戸の性語辞典』(朝日新書)の目次にも「壷」は女性器カテゴリに収録されており、「茶」の字がやがて短縮されて女性器そのものを指す秘語になったという指摘もある。

    次に「烏坊(からすぼう)」について。これがポイントだ。実はこの歌の古いバージョンには、「茶壷」の部分が「烏坊」として伝えられているものがある。そして「烏坊」もまた、遊女を意味する隠語として記録されている。つまり、歌の最も古い形に遡ると、「茶壷行列」ではなく「遊女」が登場していた可能性がある。

    御茶壷道中が「茶壷」の一語で強引に結びついているのに対し、こちらの説は語源的な痕跡が複数の方向から積み重なっている。「どちらの説が確実か」と問われれば誰も断言できないが、「どちらの説が民俗学的に面白いか」という点では、すでに勝負がついているかもしれない。


    三、歌詞を「裏から」読む

    前提として「この歌には大人の戯れ歌としての解釈レイヤーが存在する」と置いた上で、歌詞を読み直してみよう。

    「ずいずいずっころばし ごまみそずい」

    「ずい」は「ずんずん進む」「ぐいぐい突く」という動作を表す音。「ずっころばし」はすっ転ばし。「ごまみそ」は当時の庶民にとってのご馳走であり、上等なもてなしの象徴——転じて、女性そのものを指す隠語として機能したという読み方がある。つまり冒頭から「女性をぐいぐい押し倒した」という動作の描写として読める、という。

    「茶壷に追われて とっぴんしゃん」

    「茶壷(つび)」が女性器の隠語であるなら、「茶壷に追われて」は受け身どころか能動的な情景だ。一説には「遊女が激しく男を求める」様子、つまり性戯の主導権が女性側にある場面の描写と読める。「とっぴんしゃん」は密会のために戸をぴしゃんと閉め、鍵をかける音。

    「抜けたら どんどこしょ」

    これは行列が通り過ぎた後の安堵、という御茶壷道中解釈もあるが、こちらのレイヤーで読めば「事が済んだら、どんちゃん騒ぎ」あるいは「すっぽ抜けたら、がっかりどんどこしょ」という情事のオチになる。

    「俵のねずみが 米食ってちゅう ちゅうちゅうちゅう」

    ふかふかの俵(布団)の中で、ねずみ(男女)が米(快楽)を貪り、吐息(ちゅ、ちゅ)を漏らす——という描写は、そのまま読んでもかなりきわどい。

    「おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも 行きっこなしよ」

    これは遊郭の見張りや、周囲の目を意識した「行為の途中でやめるな」というルールの描写か。「呼ばれても応じるな」という、花街特有の禁則事項。

    「井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれ」

    さてここだ。「お茶碗を欠く」という表現については、江戸時代にそれが処女喪失の比喩として慣用的に使われたという直接の文献証拠は、現時点では筆者には確認できていない。ただし、江戸語において陶器・器物が性的な意味の比喩として機能する例は多い。「あらばち(新鉢)」が処女を意味する語として複数の資料に記録されていることを考えると、「欠けたお茶碗」が「元に戻らない何か」の比喩として機能していた可能性は十分ある——とは言えても、断言はできない。

    ここは正直に「蓋然性の高い推測」として留めておく。


    四、手遊びの勝敗構造に隠れた、もう一枚の底

    さてここからが、本稿でもっとも「私見」色の強い考察になる。民俗学的根拠というよりも、ゲーム構造の分析として読んでほしい。

    この手遊びの基本構造を確認しておこう。全員が手を丸めて「壺(穴)」を作る。歌のリズムに合わせて、順番に隣の人の壺へ指を差し込んでいく。そして「だぁれ?」の瞬間——指が壺の中に入っていた人間が捕まれば「鬼(負け)」になる。

    現代の子供遊びとして見れば、捕まえられた指の持ち主が「負け」で、次の鬼を引き受ける。これは単純なルールだ。

    だが、前述した「裏の通説」のレイヤーを前提にして、このゲームを花街の文脈に置き換えてみると、奇妙な逆転が起きる。

    壺(女性)の側に複数の指(男性)が入れ代わり立ち代わりやってくる。歌のリズム、つまり場の空気とルールの中で、「どの指を最後に捕まえるか」の決定権は100パーセント、壺を作っている者——つまり「茶壷」の側にある。

    指を差し込んでくる側は、捕まえてもらうことを望んで参加している。そして最後の「だぁれ?」の瞬間、どの指をホールドするかを決めるのは、壺の側だ。するりと逃がすことも、ぎゅっと捕まえることも、壺の意思次第である。

    「負け」だったはずの「捕まった」という事象は、花街的文脈においては「選ばれた」に変換される。

    「お茶碗欠いたのだぁれ?」という問いの答えを、誰の指にするかを決める権限は、ゲームの構造上、壺の側に一貫して委ねられている。表向きは「捕まえられた者が負け」という体裁を取りながら、実質的に選択者は壺の方なのだ。

    これは江戸時代の遊郭において、自由を著しく制限された環境に置かれた女性たちが、このゲームの内部だけで手に入れることのできた「選ぶ側」としての立場の表現だったのではないか——というのが、筆者の考察である。民俗学的に実証するのは難しいが、ゲームのルール構造としての論理は成立している、と思う。

    さすがに「だからこの歌は花街の女性たちが意思表示のために使った暗号だ」とまでは言えない。しかし「このゲームの勝敗構造は、外見上の主従関係を逆転させる仕掛けを内包している」と言うことはできる。


    おわりに:二重底の豊かさについて

    御茶壷道中説と性的解釈説、どちらが「正しい」かは現在もわからない。前者には歴史的事実の重みがあり、後者には語源的痕跡の積み重ねがある。文献的な確証という点では、実はどちらも決め手に欠ける。

    ただ一つ確かなことがある。この歌が長く生き延びてきたのは、「意味がよくわからないのに耳から離れない」という構造的な中毒性と、「知る人だけが笑える」という共犯関係の面白さを持っていたからではないか、ということだ。

    わらべうたとは、子供のものであると同時に大人のものでもある。表向きは無邪気な手遊びを装いながら、その底に別の意味を仕込む——それは江戸の庶民が日常的に楽しんだ「言葉遊び」の最も洗練された形式のひとつだったのかもしれない。

    そして今日も、全国の幼稚園で子供たちは何も知らないまま、あの手遊びを繰り返している。

    手を丸めて、指を入れて、「だぁれ?」


    【主要参考】西沢爽による俗謡研究(若井勲夫『ずいずいずっころばし』論評より言及)/Wikipediaずいずいずっころばし項(若井勲夫評含む)/O-CHA NET「ずいずいずっころばしの謎」/永井義男『江戸の性語辞典』(朝日新書)/西沢 爽 「ずいずいずっころばし私考」 | NDLサーチ | 国立国会図書館


     
     
    気になったことを、文脈と構造を拾いながら、緩く雑に考えます。 コンテキストなきSNSの即時性に疲れたので、語りの余白へ

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