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かつて公園であんぱんを食べていたニセ王貞治へ。

    世の中の悩みの大体9割は人間関係によるものと何かで読んだ。

    学生の時、次の春には社会人になる私たちに対して先生が、キャッキャできるのも今のうちと言わんばかりに、「社会に出て何が大変てそりゃ」のあとに、人との付き合いだよ、とぽつりと言った。

    友人たちは聞き流していた。
    私は卒業して30年以上経った今でも覚えている。
    社会だけの話じゃないよと思ってたから。


    我が家は両親と私、妹、弟の5人家族。
    とある地方の大きな駅から車で約40分くらいの、周辺の住民の足はバスの、昔からの家と新しい家が混在しているところに住んでいる。

    父は男ばかりの三人兄弟の長男で、昭和を絵に描いたような男だ。ちょっと王貞治に似ていて、目力のある人だ。

    父が現役の頃の日本といえば、コンプラやパワハラなんてほぼ無関係な時代だった。男子たるもの、崖を這い上がってきてなんぼと教え込まれていた時代。男子厨房に入らず。のび太くんのような男子はさぞかし生きづらかったろうに。

    そんな世代を生きた父から私は褒められた記憶はない。テストは100点以外はどんだけニアピンをとっても0点と同じ扱いだった。

    10歳年下の母は4人兄弟の末っ子で、エレベーターガールをしていたそうだ。何する仕事よ。また、料理<<<<<掃除の母が持たせるお弁当は、基本茶色く、いつかの運動会の日は私はお金を握り、お惣菜屋さんへと走った。美味しかったけれど、寂しかった。

    そんな家庭で育ったせいか、中学生から40代ちょっとの頃までの私ときたら、それはもう、人に対して異常なほどのセンサーが働いていた。ワクワクとかじゃなく、ビクビクの方だ。

    中学、高校の思春期真っ盛りの時なんかほんと大変で、地味に、目立たないように、息を殺すように存在を消していた。



    あれは確か小学校高学年か、中学生のころ。
    家の2階で、妹と寝ていたとき。

    ドーン!!!!!!ガララララーン!!!!!


    家に、雷が、落ちた。

    あの、読んでいる人の中で、自宅に雷が落ちた人はいますか?

    アンケートをとってもおそらく手を挙げる人はほぼいないだろう。それくらい馴染みがない音を言葉で表現するのは難しい。つか、自分の表現力の限界を感じて悔しいのだが、ビルなどを解体するときに使う、クレーン車にでっかい球がぶら下がってる、その球が落ちた時のような音だと思う。
    実際私はその時、どでかい鉄球のようなものが落ちた!!!!!なんで夜中に!?!?!?!?!?とパニクった。

    ゴロゴロゴロの時は怖いなぁやだなぁと、かみなり様におへそを持っていかれないよう布団に潜りこんでいたが、今まで聞いたことがないような音がした時、私は呆然としていた。固まるってああいう状態のことなんだろう。

    部屋で妹と二人で石になっていた時、

    「大丈夫か・・・!!!」

    父だった。

    当時私は戦隊モノやウルトラマンなどのヒーロー番組を観ては、胸を熱くしていた。

    ヒーローは真っ白いU首の肌着と、何回も洗濯しまくっていい感じに肌触りが良くなってそうな短パンで登場した。

    父は血相を変え、地蔵状態の私と妹の無事を確認すると、今日は一階でみんなで寝ようと言ってくれた。めちゃくちゃ嬉しかった。私と妹は地蔵から人間に戻れた。

    後日わかったことらしいけれど、当時実家は家庭用ボイラーを設置していて、そこに落ちたらしい。

    雷は本当に怖いので、みなさんお気をつけください。



    またある日。私がずっと小さかった頃。
    風邪かなんかで寝込んだ私は、熱のせいか、変な夢を見ていた。
    体調が悪い時に見る夢は決まってタイダイのような柄がぐるぐる渦のように回るもので、病気で体調が悪いことに加え、このサイケデリックな精神的に追い詰める系の映像がさらに具合を悪くしていた。

    熱と悪夢でじっとりと不快な汗をかきながら薄暗い子供部屋で一人布団に入っていた私。

    「画用紙とペンを買ってきたよ」

    薄暗がりの部屋に、そっと開いたドアから光が差し込んだ。父だった。
    廊下の蛍光灯の光を背中に背負って登場する形になった父は、顔が全く見えず、正体不明のヒーローのようだ。またもやヒーローの登場!もしくは黒縁メガネの王貞治。

    会社帰り、どこかに寄って買って帰ってきてくれたんだろう。
    仕事をしながら私のことも考えてくれていたんだろう。

    買ってくれた画用紙とペンはどこかに行ってしまったけれど、あの夜の心細さと、それを上回るあたたかい記憶は残っている。


    そんな父がバリバリの現役からもうすぐ卒業しようとしていたころ。
    結婚して近くに住んでいた私に、母からの電話があった。

    「お父さんが倒れた、今、〇〇病院にいる」

    父が脳梗塞で倒れた。60歳だった。

    幸い一命は取り留めたものの、麻痺が残ってしまった。

    ベッドで目が覚めた父は、きっと思うように動かない手と足に愕然とするだろう。
    重苦しい気持ちのまま、私は薬のせいでなのか、ずっと寝ている父の横の簡易ベッドで横になっていた。

    うとうとしていると、ふと、何かの気配を感じた。
    ベッドからむくりと父が起き上がっていた。驚いて飛び起きた私は、覚えていないのだが、回らない頭をフル回転させ、何かモゴモゴと訳のわからん言葉を父にかけていた。

    「大丈夫か?」


    言っておくが、父は、脳梗塞で運ばれた側だ。

    心配されるのはあなたの方だよ。

    その父が、私の取り乱した様子を見て、そう声をかけた。


    退院した父は、半身を麻痺したため思うように歩けず、それでも杖をつきながらなんとか歩けるようになっていた。ただ脳梗塞による脳細胞のダメージは麻痺だけではなかった。父は昔のように記憶をすぐにひっぱり出すことができなくなり、どこか自信なさげな感じになっていた。

    そりゃそうだろう。

    程なく父は会社を辞めた。


    昔ながらの価値観の中で長男として育ってきた父は、台所に立ったことがないため、食事に関することはさっぱりだった。多分買い物にも行ったことがないのではと思う。というのもその時の実家には弟含め3人いたのだが、母がこれくらいはできるだろうと踏み、納豆を買ってきてと、父におつかいをお願いした。

    持たせたお金全部、納豆に変えた。


    面白すぎるよ、父。狙ってできる行動じゃないよ。

    しかし母はそんな父に対し怒ったそうだ。

    まさかあの父が母に怒られる!?
    我が家では下克上が起きていた。実家の舵取りは母に移っていた。
    でもすでに実家から出ていた私は、お世話をしている母には何も言えない。

    おつかいに行けただけでも大きな一歩なはずなのに。毎日納豆、上等やん。

    まぁ母もいっぱいいっぱいだったのかもね。

    こうして60歳のはじめてのおつかいは、ハグし涙されることなく、怒られて終わった。



    病気になる前の父は、それはもう早飯で大喰らいだった。
    ラーメンや餃子など男の子が大好きな食べ物はもれなく好物で、ラーメンの汁は飲み干すタイプだった。ラーメン屋さんにしてみれば嬉しい客だ。

    倒れてからは食事制限が始まった。もちろんまた梗塞が起きないように、父のためだ。食事の担当はもちろん母。今までのように父の好物を言われるがまま出すわけには行かない。

    思い出してほしい。

    母は料理が嫌いだ。

    父の介護に加え、しっかりバランスを考えないといけない料理。
    ストレスが父と母に、確実にたまっていっていた。


    ある日、私が実家になんかの用事で帰っていた頃。

    「あんだけ甘いものを禁止していたのに!!お父さん、公園であんぱんを食べてたのよ!!!!」

    え?

    父が公園であんぱん???

    よくよく話を聞くと、納豆事件以来も何回か父におつかいを頼んでいたらしい。
    そのお釣りで父はあんぱんを買い、家の近くの公園のベンチで、あんぱんを楽しんでいたらしいのだ。

    それも1回や2回ではないらしい。

    ・・・・・・

    めちゃくちゃ可愛いやん・・・・!

    めちゃくちゃ人間しとるやん・・・!!


    母はご近所に見つかったら恥ずかしいだのなんだの言っていたが、正直知ったこっちゃない。父がちゃんとおつかいができて、あんぱんが買えるくらいのお釣りの計算ができて、そんでもって、どうしようもない日常の中で、自分で楽しみを見つけていたのだ。

    変な話だが、父が病気をしてからの方が、父との距離が縮まった気がしていた。


    その後関東に引っ越した私は、以前のように頻繁に父の顔を見ることはできなくなった。

    久しぶりに帰省した時、父はすごく痩せていた。支えなしでは歩けず、ベッドで過ごす時間が多くなった。私はショックをなるべく悟られないようにしていた。

    夕食が終わり、父が座った車椅子を押して父の部屋に入った。二人きりになった時に、父は急に、「ごめんね」と言った。

    厳しくしすぎてごめんね、という意味だった。

    もうすぐ話せなくなる日が来るだろうと感じ取っていた父は、やっと伝えられると思ったのか、まってましたと唐突にそう言った。

    まさかこんな言葉がかけられるなんて思っていなかった私は驚き、その言葉に対して何の準備もなく、首を横に振ることが精一杯だった。

    私は過去の父から受けた叱責や早すぎる門限を恨み、何度も何度もお父さんお母さんが他の人だったらいいのにと思っていた。

    父も悩んでいたのだ。

    だけれど子供のことを想っていたことは行動で、伝わっていたよ。
    それは、確実に。


    そういえばもっと前、私が30代の頃、私が精神的に参って家事もままならなくなり寝込んでいた時があった。どう言葉をかけて良いかわからなくなった父は、ある時私の肩を叩き、振り向いた私に、差し歯が抜けた口を大きく開け、どうだ面白いだろうと言わんばかりに私にニカニカ笑ったことがあった。

    私は笑ったよ。面白いってより、父の気遣いが嬉しくて、笑いながら自室に帰って泣いたけどね。


    父よ。

    申し訳ないけれど、なんでこんな家に生まれてしまったんだと、今の言葉で言うと親ガチャハズレやん!!とめちゃくちゃ思ってた。

    けれどあなたもきっと苦しんでたんだね。テレビで子供や動物の気の毒な映像が流れるとチャンネルを変えるような柔らかいハートを、父は、父親という責任感と長男という立場と比べた。そして封印した。封印したまま不器用なあなたは、出し方がわからなくなってしまったんだね。


    私が、人として、不器用ながらもなんとか社会でやっていけるのは、分かりにくかったけれど、あなたのまごうことなき愛情のおかげです。あと、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん、私を私として形作ってくれたずっとずっと昔のご先祖の方々も。


    病気は本当に不幸なことだったけれど、それ以降あなたは心の奥に隠していた感情を、徐々に見せてくれるようになった。それとリンクするように、私の中におそらく自信というものが育ち、人の中でうまく泳げるようになったと思う。そしてマンションの総会で発言できるほどになりました。

    私は健康診断に引っかかりつつも、温泉旅行や海外旅行に行けるほど元気にやらせてもらってます。そしてまだ働いてて貯金も頑張っとるから安心して。

    今度のお盆か命日には、アップルパイを持っていくよ。


    あんぱんも好きだろうけど、本当はアップルパイがいっちゃん好きなの知っとるんよ。



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    心地よい居場所を少しずつ見つけている途中です。 知らないことを知ることが好き。静かなものが好き。 目立ちたいけれど本当に目立ったらどうしようなど、 余計な妄想をしています。

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