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居場所を探して海を越えた


    第一章 居場所のない留学生


    初めての海外留学。
    大学の寮に入る予定だった。
    それだけが、唯一の安心材料だった。
    でも、
    到着してすぐ、言われた。
    「もう満室です」
    一瞬、何を言われたのか
    分からなかった。
    頭が真っ白になった。
    ここに住めるはずじゃなかったの?
    そう思いながらもうまく
    言葉が出てこない。
    英語もまだ片言で、
    聞き返すことすら、うまく
    できなかった。
    どうしたらいいのか分からず、
    その場に立ち尽くしていた。
    すると、続けて言われた。
    「ホームステイは?」
    正直、選ぶ余裕なんてなく、
    「はい」と答えるしかなかった。
    どんな家なのかも、どんな人がいるのかも分からない。
    不安の方が大きかった。
    それでも、
    あの時の私は、
    進むしかなかった。
    あの一言が、
    すべての始まりだった。

    一夜明けて、
    迎えに来てくれたのは、
    私より少し年上の女性だった。
    落ち着いた雰囲気で、
    どこか安心できる人だった。
    家に着くと、
    5匹の猫が迎えてくれた。
    一気に緊張がほどけた。
    それからの毎日は、
    想像していたものとは違っていた。
    食事付きではないのに、
    彼女はよく料理を作ってくれた。
    マーケットやスーパーにも
    連れて行ってくれた。
    言葉はうまく通じなかった。
    それでも、
    辞書や身振りで、
    少しずつ伝え合った。
    気づけば、
    毎日のように一緒に食事をしていた。
    まるで家族のような時間だった。
    もし、あの出会いがなければ——
    きっと私は、
    すぐに日本へ帰っていたと思う。
    あの場所が、
    私の最初の居場所だった。

    最初は、警戒していた猫たちも、
    毎日同じ空間で過ごすうちに、
    少しずつ心を開いてくれた。
    気がつけば私のベッドで寝る猫もいて、
    その時間が大きな支えになった。
    ホームステイでの生活は、
    想像していたよりも穏やかで、
    あたたかいものだった。
    それでも、
    外に出ると現実は違った。
    英語学校では、
    クラスは下から2番目。
    ほとんど話せないレベルだった。
    何をするにも苦労した。
    スーパーはまだよかった。
    でもマーケットでは、
    自分で選んで、注文しなければ 
    いけない。
    何を言っていいのか分からない。
    尋ねることもできない。
    相手が何と言っているか
    聞き取れない。
    たまに、
    並んでいるのに無視されることも
    あった。
    理由は分からない。
    でも、
    ここは自分の場所じゃないと、感じる瞬間だった。
    ホームステイは恵まれて
    いたと思う。
    でも外に出ると、
    やっぱり知らない国だった。
    楽しいはずなのに、
    どこかでずっと、孤独だった。

    英語も思うように伸びないまま、
    帰国の期限の6か月が近づいていたが、
    私はまだ帰りたくなかった。
    何か方法はないかと思っていたとき、
    知り合いからツアーガイドの 
    仕事があることを聞いた。
    とにかく、トライしてみようと思って
    ある日本の大手旅行会社の 
    事務所を訪ねた。

    しかし、「募集していません」
    そう言われて、
    ここでダメなら、
    帰るしかないのかもしれないなと
    立ち尽くしていた。
    その時、 
    その女性が、
    もう一度、私の方を見て言った。
    「ちょっと待って」
    その女性は履歴書を見ながら
    「あなた、旅行業の経験あるのね?
    ちょっとだけ待ってください」と
    彼女はそのまま奥に消えた。
    しばらくして今度はまた違う
    女性が出てきた。
    今度は元気な、いかにもキャリアウーマン的な女性が出てきて、
    「ガイドの仕事は
    ないけどオフィスで人探して
    いるから中で働きませんか?」
    そう言われて、
    すべてが変わった。
    あの時、あの場所で、
    あの出会いがなければ——
    今の私は、いないと思う。

    仕事が決まり、
    生活は大きく変わろうとしていた。
    嬉しかった。
    でも同時に、
    ひとつの現実があった。
    この家を出なければいけない。
    街までは遠く、
    通うことはできなかった。
    あの家での時間は、
    短かったけれど、
    私にとっては大きな支えだった。
    ホストとの別れ。
    猫たちとの別れ。
    あの空間を離れると思うと、
    胸が少し苦しくなった。
    気がつけば、
    猫たちはいつものように
    そばにいた。
    何も知らないまま、
    ただ隣にいる。
    その時間が、
    余計に切なかった。
    「ありがとう」
    ちゃんと伝えられたかは
    分からない。
    でも、
    あの場所があったから、
    私はここまで来ることができた。
    新しい場所へ。
    新しい生活へ。
    学校も変わり、
    アルバイトも始まる。
    少しの不安と、
    少しの期待を抱えて、
    私はまた、
    前に進んだ。

    第二章 オーストラリアで見つけた居場所

     
    しばらくして、新しい仕事が始まった。
    語学学校との両立で、
    週3日からのスタートだった。
    時間も調整してもらえて、
    本当にありがたかった。
    でも——
    仕事は現実だった。
    英語は、まだ片言レベル。
    半年学校に通ったとはいえ、
    全く足りなかった。
    日系企業だったけれど、
    相手はオーストラリア人。
    電話に出るのが、
    一番怖かった。
    何を言っているのか分からない。
    自分の英語も通じない。
    「何を言っているの?」
    そう言われて、
    電話を切られたこともあった。
    「英語わかる人に代わって」
    何度言われたか分からない。
    悔しかった。
    情けなかった。
    それでも、
    やるしかなかった。
    歯を食いしばって、
    ひたすら耐えた。
    英語は、
    習うより慣れろ。
    本当にそう思った。
    苦労しながら、
    時間だけが過ぎていった。

    数か月して、仕事に慣れて、英語もだんだん上達して、楽しい時間が永遠のように続いていたけれど、現実は少しずつ近づいてきていた。
    ビザの滞在期限が、
    迫っていた。
    ビザがなければ、
    ここにいることはできない。
    働くにも多くの制限があった。
    将来は見えなかった。

    そんなある日、
    突然上司に呼ばれた。
    「ビザは、いつまでですか?」
    その言葉を聞いた瞬間、ここで終わりだと思った。
    でも、「実は、ビザを申請していた 
    スタッフが、急に帰国することに
    なってね」
    一瞬、意味が分からなかった。
    「空きが出たんだけど、
    残る意思はありますか?」
    えっ!
    全く予想していなかった
    展開だった。
    ここに残れるかもしれない。
    でも——
    両親への説明。
    仕事の責任。
    これから先の生活。
    すべてが一気に現実になった。
    それでも、
    頭に浮かんだのは
    ひとつだけだった。
    まだ、「ここにいたい」
    あの時、そう思った。
    不安はあった。
    でも、
    それ以上に
    ここで終わりたくなかった。
    私は、
    残ることを選んだ。
    あの選択が、
    その後の人生を
    大きく変えていくことになるとは、
    まだ知るはずもない。

    残ると決めてから、
    生活は大きく変わった。
    両親を説得し、
    フルタイムで働く日々が始まった。
    仕事も、私生活も、
    充実していた。
    友人と出かけ、
    旅行にも行けるようになった。
    両親がメルボルンに来て、
    一緒に旅をした。
    ニュージーランドや、オーストラリアの色々なところに行った。
    両親のために日本からのフライトでビジネスクラスを用意できたとき、
    少しだけ、
    自分を誇らしく思った。
    楽しい日々だった。
    でも——
    ふとした瞬間に、
    感じることがあった。
    仕事のプレッシャー。
    売り上げの数字。
    英語も、
    仕事では困らなくなっていた。
    それでも、
    どこかで思っていた。
    まだ足りない。
    満たされているはずなのに、
    満たされていない感覚。
    このままでいいのか。
    そう考え始めていた。

    メルボルンに残り、仕事も順調に続けていた。
    ビザも取得でき、気がつけば、
    数年が過ぎていた。
    生活は安定していた。
    何もかも揃っていた。
    満足しているはずだった。
    でも——
    どこかで感じていた。
    何かが足りない。
    もっと英語を話せるように
    なりたい。
    ネイティブと、
    政治や経済の話ができるくらいに。
    そう思ったとき、
    ひとつの考えが浮かんだ。
    もう一度、学ぶこと。
    社会人でも、
    やる気があれば大学に戻れる。
    でも、
    英語が完璧じゃない自分に、
    できるのだろうか。
    不安はあった。
    それでも、
    まずはやってみようと思った。
    その時、
    私は33歳だった。

    その翌年、
    大手企業を辞めて、
    私は、ただの大学生に戻った。
    入ることはできた。
    でも——
    現実は、甘くなかった。
    英語力は足りず、授業についていけなかった。
    ディスカッションでは何も話せず、何度も後悔した。
    講師から、「英語学校からやり直した方がいい」と言われたこともあった。
    毎日、何時間も椅子に座り論文を書き続けた。
    英語のチェックはネイティブに頼んで
    入念に校正して完成させた。
    ほんとに苦しい4年間だったが、
    クラスメートや教授に支えられ
    私は無事に卒業した。

    大学卒業後、私はまた旅行業界に
    戻った。
    旅行業界と日本経済は大きく変わって
    おり、仕事は以前より厳しくなっていた。

    第三章 父との別れ

     
    将来を案じたわたしは、他の仕事も
    模索した。
    掛け持ちで、介護の仕事も始めた。
    ただ体力的にも、精神的にも、
    負担は大きかった。
    同じ収入を得るために、
    体が追いつかない。
    収入は減り、
    生活も楽ではなかった。

    そんな時、父が突然倒れた。
    癌だった。
    手術は成功し、数か月の入院ののち
    退院し、父は普通の生活を送っていた。
    医師からは再発するかもしれませんと
    言われていたが、
    なんとなく大丈夫だと思っていた。
    手術から、約1年が経っていた。
    そんなある日——
    突然、
    現実に引き戻された。
    「お父さんが再発した」
    恐れていたことが、
    現実になった。
    再発した——
    その知らせを受けて、
    私は日本に戻った。
    今度の帰国は、
    希望のない帰国だった。

    久しぶりに会った父は、
    見た目は何も変わっていなかった。
    父は、
    延命措置を選ばず、
    ホスピスを選んだそうだ。
    その決断に、
    私は何も言えなかった。
    帰国後、家族でホスピスに行った。
    ホスピスの医師や看護師は、
    とても穏やかで優しかった。
    「しばらくは自宅で
    過ごしてください」
    そう言われた。
    父は、
    すでに覚悟を決めているように見えた。
    それから、
    家族で過ごす時間が増えた。
    近場に出かけたり、
    父の行きたい場所へ行った。
    食べたいものを選んだ。
    静かな時間だった。
    そして、
    数週間が過ぎた。
    ある日突然、
    父の体調が悪化した。
    急遽、
    入院することになった。
    そこから、
    長い入院生活が始まった。
    そこで、私は一度
    メルボルンに戻ることにした。
    片付け、支払い、仕事の手続き、
    やらなければいけないことが 
    沢山あった。
    そして、
    3週間後——
    再び日本に戻った。 

    父は、痩せ細り、
    まるで別人のようだった。
    その姿に、
    一瞬言葉を失った。
    でも、気づかれてはいけないと思った。
    私は、笑顔で言った。
    「戻ってきたよ」
    父は、全く食べられなくなっていた。
    残された時間は、
    確実に少なくなっていた。
    普段はあまり弱音を見せない父も、
    最後のひと月は、
    本当に苦しそうだった。
    命が尽きるまで、
    毎日そばにいた。
    医師から、
    「いよいよですね」と言われて
    から、
    最後の数日は、
    病室に泊まり込んだ。
    眠れなかった。
    心も体も、
    限界だった。
    ある日、
    母と二人で一度家に戻り、
    休むことにした。
    その夜——
    病院から電話が鳴った。
    「息が止まりました」
    急いで戻った。
    でも、
    間に合わなかった。
    父は、
    その日、
    86年の人生を終えた。  

    第四章 母を失う


    父のお通夜、葬儀、
    初七日が終わり、
    ようやく、
    ひと区切りがついた。
    ぽっかりと、
    心に穴が空いたようだった。
    それでも、
    私は少しずつ落ち着いていった。
    でも——
    母は違った。
    食欲がなく、
    ほとんど何も食べなかった。
    目も虚ろだった。
    気分転換になればと思い、
    食事に誘ったり、
    温泉に行こうと声をかけた。
    でも、
    母は頑なに拒んだ。
    何もしたがらなかった。
    まるで、
    父の後を追うように、
    生きることをやめて
    しまったようだった。
    私はすでに数ヶ月間
    仕事を休み、
    母のそばにいた。
    でも、
    そこにいる母は、
    もう以前の母ではなくなった。
    優しかった母は、
    心を閉ざしていた。
    何も受け入れようとしなかった。
    私は心配だった。
    でも同時に、
    限界だった。
    母のそばにいることが、
    辛かった。
    父の死後、
    母はまるで別人のように
    なっていた。
    もともと母は、
    優しくて、
    いつも笑顔の人だった。
    私は、
    そんな母が大好きだった。
    私にとって、
    一番は母だった。
    でも——
    母にとって、
    一番は父だった。
    その事実が、
    少しだけ、
    胸に残った。
    両親はいつも一緒で、
    とても仲が良かった。
    父の死で、
    母は一番大切なものを失った。
    壊れてしまったのだと思った。
    長い間離れて暮らしていた
    私は、その重さを、
    本当の意味では分かって
    いなかったのかもしれない。
    変わってしまった母を見るのは、
    辛かった。
    本当なら、
    そばにいるべきだったの
    かもしれない。
    でも私は、
    限界だった。
    私はメルボルンに戻ることを選んだ。

    メルボルンに戻ってから、度々電話を
    かけた。
    一人で父のいない広い家にいる
    母のことが、気がかりだった。
    後ろめたさもあった。
    でも——
    電話越しに聞こえる声は、
    少しずつ、
    元の母に戻っていった。
    落ち着いてきたのか、
    それとも、
    何かを受け入れたのか。
    母は穏やかさを取り戻していた。
    しばらくは、
    静かな時間が続いた。
    その中で、
    ひとつの決意が生まれた。
    日本に戻り、
    母と暮らそう、そう思った。
    日本で生きていくために、
    準備が必要だった。
    引っ越しだけではなく、
    生活の基盤を作らなければならない。
    仕事や収入の道を探した。
    会社に頼らず、
    自分で生きていく方法を。
    私は、
    再び動き始めた。

    それから約1年。
    母とは毎週電話で話していた。
    「落ち着いたら帰るから、
    元気でいてね」
    そういつも伝えていた。
    母は私が帰る事を心待ちにしていた
    でも——
    運命はまた、
    私に試練を用意していたのだ。

    父の三回忌の法要を終えたと、
    母から電話があった。
    私は、
    どうしてもオーストラリアを
    離れられず、
    参加することができなかった。
    「無事に終わったよ」
    母は、
    どこかほっとしたような声だった。
    そして、
    ふとこう言った。
    「お父さんが夢に出てきてね、
    味噌汁を作ってくれって言ってたわ」
    その言葉を聞いた瞬間、
    胸騒ぎがした。
    まるで——
    父が呼びに来たような気がした。

    それから、
    約1週間後。
    いつものように電話をした。
    でも、
    母の様子が違った。
    言葉がはっきりしない。
    呂律が回っていなかった。
    眠れないからと、
    睡眠導入剤を飲んでいることは
    知っていた。
    以前にも同じ事があった。
    だから私は、
    「早く寝てね」と言った。
    そのとき母は、
    ぽつりとこう言った。
    「私も、いつまで元気か
    わからないわよ」
    その言葉が、
    妙に引っかかった。
    電話を切ったあと、
    嫌な予感が消えなかった。
    普段は週に一度の電話だった。
    でも、
    翌日もう一度かけた。
    ——出ない。
    胸騒ぎがした。
    それでも私は、
    その日、
    絶対に休めない
    通っていたクラスに向かった。
    授業中も、
    ずっと気になっていた。
    何度かけても出ない。
    やっぱりおかしい。
    私は、
    近くに住む父の友人に連絡した。
    「家を見に行ってもらえませんか」
    すると——
    「ポストに新聞が溜まっている」
    そう言われた。
    おかしい。
    すぐに叔父に連絡した。
    万が一のために、
    鍵を預けていたからだ。
    胸騒ぎは、
    的中した。
    叔父から電話が来た。
    その時、
    メルボルンは深夜だった。
    「家に入ったら、
    母が倒れていた。
    まだ息はあったから、
    救急車で運んだ」
    医師によると、
    脳梗塞だった。
    しかも、
    かなり深刻な状態だという。
    「すぐ帰ってこい」
    私は、
    すぐに日本行きの航空券を探した。
    でも、
    当日の便はなかなか取れない。
    しかも東京ではなく、
    地方都市。
    さらに難しかった。
    ようやく取れたのは、
    その日の午後の便だった。
    どんなに急いでも、
    到着は翌日の夕方。
    間に合わないかもしれない。
    そんな言葉が、
    頭から離れなかった。
    郵便物、
    冷蔵庫の中の物の処理
    銀行、
    支払い——
    やることは山ほどあった。
    でも、
    ほとんど記憶に残っていない。
    気づけば、
    空港へ向かっていた。
    出国手続きを終え、
    搭乗を待っていたその時——
    電話が鳴った。
    叔父からだった。
    「亡くなったよ」
    その瞬間、
    涙が止まらなかった。

    帰国後、お通夜、葬儀、初七日
    雪崩のように日々がすぎていったが、
    私は何の記憶もない。
    母を亡くしてから、
    私は毎日、
    呆然と過ごしていた。
    もちろん、
    人が亡くなると、
    やらなければならない事は
    山ほどある。
    役所、
    手続き、
    事務的な事柄——
    そういう事だけは、
    機械のようにこなしていた。
    でも、
    それ以外は何も出来なかった。
    食欲もない。
    眠れない。
    気力も湧かない。
    まるで、
    生きた屍のようだった。
    一人でいるのが不安で、
    テレビをずっとつけていた。
    長い間、
    日本を離れていた私は、
    地元に友人もほとんどいなかった。
    孤独だった。
    寂しかった。
    時々襲う、死にたい、
    母の元に行きたいという気持ち。
    でも今思えば、
    鬱状態だったのだと思う。
    でも病院には行かなかった。
    私は心身とも限界だった。

    第5章 熊本地震


    母の死後、メルボルンに戻り
    介護の仕事を続けた。
    しばらくは何事もなく過ぎて行った。
    でも、おそらく長い悲しみの中で、
    私の体は、悲鳴を上げていたのだろう。
    帯状疱疹や肺炎を患い、高熱で救急搬送されることもあった。
    ようやく回復し、少し落ち着いたと思った矢先、
    友人から、「熊本で大きな地震が起こった」と連絡が来た。

    今までそんなに大きな地震はなかった。
    だから最初は、
    「まさか、大丈夫だよね?」
    って思っていたが、
    震度7が、2回。
    実家は、益城町からそれほど離れていなかった。
    しかも、何度も増築を繰り返した、
    築50年以上の古い家だった。
    嫌な予感しかしなかった。
    大変な時に申し訳なかったが、
    叔父にお願いして、
    家の写真を送ってもらった。
    写真を見た瞬間、
    言葉を失った。

    家は、
    ひどい状態だった。
    今も建っているのが不思議なくらい 
    だった。
    叔父は言った。
    「壁がはがれて、傾いている。
    いつ崩れるか分からない。
    すぐ帰ってこい」
    いつ戻れるかわからないので、会社には休職届を出した。
    ホテルも取れず、交通手段もなく
    ようやく熊本へ辿り着いたのは、
    地震から約3週間後だったと思う。
    街を見回すと、
    あちこちの家が壊れていて、
    屋根には青いブルーシートが掛けられていた。
    いつもの景色ではなかった。
    そして、
    ようやく実家へ辿り着いた。

    家は、
    半分壊れかけていた。
    ドアもまともに開かない。
    家の前には、
    見知らぬ家具やゴミが
    山のように積まれていた。
    空き家になっているのをいい事に、
    近所の人達が捨てていったらしい。
    家の中は、
    さらに酷かった。
    ガラスが散乱し、
    柱は歪み、
    備え付けの棚は倒れていた。
    寝室だった部屋には、
    大きな本棚やタンスが倒れ、
    ベッドを直撃していた。
    もしあの時、
    家にいたら——
    死んでいたかもしれない。
    そう思った。
    何から手をつければいいのか、
    全く分からなかった。
    外には、
    「危険」
    そう書かれた赤い紙が
    貼られていた。
    行政が貼ったのだろう。
    私は、
    ただ立ち尽くしていた。

    なんで、
    こんな事になるのだろう。
    信じられなかった。
    崩壊した実家を前にして、
    私は目の前が真っ暗になった。
    でも——
    立ち止まってる場合じゃなかった。
    とにかく、役所へ行かなければ、
    何も始まらない。
    重い気持ちを引きずりながら、
    区役所へ向かった。

    そこは、
    まるで難民キャンプのようだった。
    被災した人達が、
    床に座り込み、
    寝泊まりしていた。
    何をすればいいのか分からず、
    途方に暮れている人達。
    大声で叫んでいる人もいた。

    みんな、
    限界だった。
    何時間も待って、
    ようやく私の番が来た。
    「罹災証明はいつ発行されるかわかりません。
    被災した家を順次回り査定しますので」
    事務的な説明だった。
    でも、
    職員達も含めて、
    同じ被災者だったのだ。
    とにかく、
    今できる事をやるしかない。
    いつ崩れるか分からない家から、
    大切な物を探し出さ
    なければならない。
    そして、
    泊まる場所も探さなければ
    ならなかった。
    ホテルは高い。
    どこか頼れる場所はないか
    叔父の言葉は冷たかった。
    「避難所に行け」
    ショックだったが、何とかしなければ
    ならない。
    私は、必死に宿泊先を探した。

    ホテル以外にゲストハウスという選択肢があることに
    気づき、こんな田舎では無理かなと思っていたが、
    運よく見つかり、
    一泊1000円の格安だった。
    正直、避難所よりマシなら
    ぐらいの気持ちであったが
    通された部屋は、
    古いワンルームながら、
    必要な物は揃っていた。
    オーナーは若い男性だった。
    海外留学経験もあり、
    話も合った。
    絶望の中で見つけた、
    小さな光のようだった。

    私は毎日、
    実家へ通い、壊れた家を片付け続けた。
    持っておきたい物もあったし、思い出もあった。
    でも、住む家のない私は、わずかなものしか持ち出せなかった。
    家の中は危険だった。
    割れたガラスが散乱し、
    入れない場所もあった。
    さらに、
    隣の家の瓦が崩れ、
    庭を覆い尽くしていた。
    当然のように、
    隣は何もしない。
    もう、
    自力ではどうにも
    ならないレベルだった。

    そんな時、
    ボランティアの存在を知った。
    半信半疑だったが、
    連絡してみた。
    そしてある日——
    10人近いボランティアの人達が、
    来てくれた。
    みんな、
    黙々と作業をしてくれた。
    どれほど助かったか、
    分からない。
    私は帰り際、
    せめてものお礼に、
    飲み物と軽食を渡した。
    あの時の私には、
    本当に救いだった。
    闇の中に差し込んだ、
    小さな光のようだった。

    そうしているうちに——
    1ヶ月以上待って、
    ようやく罹災証明が発行された。
    私は、これでようやく、
    メルボルンへ帰れる。
    そう思っていた。

    役所の窓口で、
    書類を受け取った瞬間、
    私は言葉を失った。
    結果は、「一部損壊」だったのだ。
    家には、「立ち入り危険」の赤紙が 
    貼られ
    中はぐちゃぐちゃで、
    今にも崩れそうだった。
    それなのに、
    一部損壊?
    もしこれが一部損壊なら、
    ほとんどの家はそうなる。
    私は窓口で訴えた。
    「本当に見たんですか?
    中はめちゃくちゃですよ」
    でも返ってきたのは、
    冷たい言葉だった。
    「専門の担当者が調査しています。
    不服なら再審査できます。
    ただし、再検査の時期、
    結果はいつになるかは分かりません」
    一部損壊では、
    家を解体する事もできない。
    私は、目の前が真っ暗になった。
    また待たされるのか——
    何度訴えても、返事は同じだった。
    絶望しかけたが、その反面、
    怒りが込み上げてきた。

    結果は、
    どう考えてもおかしかった。
    私は、壊れた家の写真を撮りまくった。
    そして、その写真を持って、
    近くの区役所へ向かった。
    「これはおかしいです。
    写真を見てください」
    私は必死に訴えた。
    でも——
    最初は、誰もまともに取り合わ 
    なかった。
    冷たい反応だったが、
    私は引かなかった。
    延々と続くやり取り。
    何度も同じ説明をした。
    すると——
    役所側も疲れたのか、
    一人の男性職員が出てきた。
    その男性に写真を見せると、
    彼は静かに言った。
    「じゃあ、
    私が直接、見に行きますよ」
    私は、急いで電話番号を書いて渡した。
    今はもう、
    それしか方法がなかった。

    彼からの連絡を待つ時間は、
    とても長く感じた。
    でも——
    私は、
    やれる事は全部やったのだ。
    その職員さんから、
    数時間後に電話があった。
    そして、
    その人は一言だけ言った。
    「全壊です」
    私は驚いた。
    今までの審査結果は、
    一体何だったんだろう。
    でも同時に、
    やっぱり——
    そう思った。
    自分の感覚は、
    間違っていなかったのだ。

    私はすぐに、
    再申請の手続きをした。
    そこから、
    止まっていた人生が、
    一気に動き始めた。
    全壊判定が出たことで、
    色々な支援を受けられる
    ようになった。
    でも世の中には、
    心ない人もいた。
    まるで、
    被災者がお金を騙し取っている
    かのように、
    言う人達もいたが、
    公費解体も、
    結局100万円近く足が出た。
    ゴミ撤去費用、引っ越し代、 
    貸倉庫代などお金が湯水のように 
    出ていった。

    最初、私は、解体が終わったら、
    すぐメルボルンへ戻る
    つもりだった。
    でも、
    「みなし仮設住宅」に、
    2年間住める事を知った。

    日本を20年以上離れていた私は、
    まるで浦島太郎のようだった。
    仕事もない。
    日本でやっていけるかも
    分からない。
    でも——
    2年間だけ、
    日本で暮らしてみるのも、
    悪くないかもしれない。
    その時、
    私の心が少しだけ動いた。

    第六章 日本での再出発


    罹災証明が発行され、
    私の2年間の日本生活が始まった。
    まずやらなければ
    ならなかったのは、
    メルボルンからの引っ越しだった。

    アパートを解約し、
    荷物を片付ける。
    ほとんどは処分した。
    でも、
    「2年後には戻る」
    そう思っていた私は、
    必要な物だけを、
    貸倉庫へ預けた。
    銀行。
    支払い。
    仕事関係。
    やる事は山ほどあった。
    それらを全部片付けるのに、
    3週間かかった。

    そして、
    再び熊本へ戻った。
    帰国して、
    まず最初にやった事。
    それは、
    仕事探しだった。
    私の年齢では、
    掃除か介護くらいしかない。
    そう思っていた。
    私はハローワークへ行った。
    そこで、
    少し変わった求人を見つけた。
    結婚相談所の、アポイントを取る
    仕事だった。

    20年以上日本を離れていた私は、
    日本の事がよく分からなかった。
    でも、「面白そう」そう思った。
    翌日、私は面接へ行った。
    そして、即採用された。
    帰国して、
    わずか2日後の事だった。
    気がつけば私は、また新しい場所で
    暮らしていた。

    オーストラリアで見つけた居場所。
    両親と過ごした家を、
    地震で失った。

    私は何度も居場所を失った。
    でも今なら思う。

    居場所は、誰かに与えられる
    ものではない。
    どんな場所でも、人との出会いと、
    自分の選択があれば、
    新しい居場所がつくれる。
    海を越えたあの日から続く旅は、
    今も終わっていない。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    ゆっくり立て直す人生 海外での出会いと孤独 そこから少しずつ崩れていった日々 うまくいかないことが続いた15年 それでも今は、少しずつ立て直しています このnoteでは その過程と気づきを記録しています

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