
湯は、少しぬるめにしてある。
肩まで浸かると、天井の白がぼんやりと揺れた。
娘が東京の大学に受かったと聞いたのは、そんな夜だった。
一人暮らしが決まった、と電話で言われ、おめでとう、と返した。
上条靖之はそれ以上、何も言えなかった。
湯気の向こうに、別の夜が浮かぶ。
五十嵐三丁目の砂浜。
湿った空気と、肌にまとわりつく熱。
軽自動車のミラターボを止めて、友人たちと海を見ていた。
街の明かりは少なく、海の向こうに、佐渡の灯りだけが浮かんでいた。
誰かが泳ごうと言い出した。理由は覚えていない。
海パン一枚になり、足元も見えない夜の海に入る。
水は思ったより温かく、どこまで行っているのかも、わからなかった。
佐渡の灯りだけが、目印だった。
大学に入って、一人暮らしを始めた頃のことも思い出す。
部屋に一人でいると、理由もなく、胸が苦しくなった。
そんな夜は、連絡もせずに弓道部のタケちゃんの部屋に行った。
ドアを開けると、「よく来たな」と、それだけ言ってくれた。
夜の海でも、タケちゃんは隣にいた。
暗くて顔はよく見えなかった。
近づくと、いつものように少しおどけた表情をしていた。
天然パーマで、特別目立つわけじゃなかった。
けど、後輩に慕われる人だった。
湯船の中で、上条は息を吐いた。
今は、思い立って夜中に会える友人はいない。
タケちゃんも、もういない。
娘も、遠くで暮らすことになる。
風呂は一人で入る。泣きたい夜も、一人だ。
それでも、あの夜の佐渡の灯りを思い出すと、暗い湯気の中で、胸の奥が少しだけ温かくなる。
佐渡は、近くはない。けれど、消えもしない。
上条は、湯から上がる準備をした。
床に落ちた水滴が、静かに広がっていった。