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恋愛小説『硝子のキッチンの、その先で』:エピローグ(全15話+エピローグ)

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    エピローグ

     三ヶ月後の朝、帆奈美は傘を忘れた。

     気づいたのは、一階のロビーで自動ドアが開いた瞬間だった。外は霧雨で、アスファルトが黒く濡れている。かつての自分なら、その場に立ち尽くしただろう。けれど今日は、白衣の袖をまくりながら、そのまま外へ出た。

     霧雨は、思ったより冷たくなかった。

     駅までの五分間、帆奈美は傘を持った人たちの間を縫うように歩いた。肩が濡れる。髪の毛が頰に貼りつく。誰かの傘の骨が、頭上すれすれを通った。

     立ち止まらなかった。

     改札を抜けてホームに降りると、自動販売機が目に入った。列の中段に、見慣れた琥珀色のパッケージ。『自分を愛するためのポタージュ』。発売から三ヶ月、まだそこにある。

     帆奈美は財布を出さなかった。ただ少し足を止めて、そのパッケージを見た。

     自分が作ったものとは思えない、と毎回思う。あの深夜のキッチンで、震える手で鍋を掻き回していた自分が、あの味に辿り着いたとは。

     電車が来た。

     夕方、帆奈美は屋上にいた。

     隣には浅野がいる。二人とも、手に紙コップを持っていた。今日の試作——次の商品になるかもしれない、まだ名前のないスープ。

     浅野は飲んだ後、しばらく何も言わなかった。

    「……少し、酸っぱいですね」

    「分かりました?」

    「どこかで嗅いだ気がする、と思って」

     帆奈美は少し考えた。

    「柚子です。絞った後の皮を、出汁に一時間だけ入れました」

    「一時間だけ」

    「それ以上入れると、えぐみが出る」

     浅野がまた一口飲んだ。今度は黙って、遠くを見ていた。都心の夕暮れは煤けていて、空の色というより、光の匂いと呼びたいような時間だった。

    「帆奈美さん」

     浅野が、彼女の名前を呼んだ。まだ慣れない。呼ばれるたびに、胸の奥で何かが小さく音を立てる。怖いのではない。その感覚が何なのか、帆奈美にはまだ正確な言葉がない。

    「来月、取引先との会食があります。……同行してもらえますか。仕事として」

    「仕事として」

     帆奈美は繰り返した。

    「最初は」

     浅野が付け加えた。その横顔は、真剣で、少しだけ不格好だった。

     帆奈美は答える代わりに、紙コップに視線を落とした。スープの表面に、風が波紋を作っては消える。

     怖くない、とは言えない。まだ、どこかで足がすくむ夜はある。朝、玄関ドアの鍵を三回確認することもある。それはきっと、これからも続く。

     ただ。

     今ここで吸い込んでいる空気が、以前より少しだけ広く肺に入ってくる気がした。

    「……次の試作に、何か食べたいものはありますか」

     帆奈美が聞くと、浅野はわずかに目を丸くした。それからゆっくりと、困ったような、嬉しいような顔になった。

    「そんなこと、聞かれたのは初めてだ」

    「答えてください」

    「……温かければ、なんでも」

     帆奈美は小さく息を吐いた。笑みと呼ぶには短すぎる、けれど確かに唇の端が動いた。

    「それは、いちばん難しいリクエストですよ」

     浅野が何か言いかけて、やめた。

     二人は並んで、暮れていく街を見ていた。

     帆奈美の右手は、コップを持っている。左手は、何も持っていない。

     風が吹いて、髪が揺れた。


    本作は、構成整理・アイデア補助・推敲支援の一部に生成AIを活用しています。
    作品の世界観構築、物語構成、設定調整、加筆修正および最終的な創作判断は、作者自身が行っています。

     
     
    結婚生活30年-定年退職後、更に3年仕事をして現在フリーに。その後に創作を本格的に開始。文芸・ファンタジー・心理ドラマ・ロマンス・サスペンス・ミステリーなど幅広く物語を制作しています。小説・漫画原作・ウェブトゥーン脚本を、hypercat/猫足/ねこあし名義で投稿中です。

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