
小説 『そんな夜を百回乗り越えて』
<あらすじ>
「まあ、こんなもんか」が口癖のコピーライター・真嶋。職場は、はみ出し者が流れ着く広告会社の地下部署。
ある日、部署の廃止を通告される。阻止の条件は、3ヶ月で受注額を4倍にすること。その夜、地下に雷が落ち、はみ出し者たちは超能力を手にいれる。
人の本音が聞こえる、コピーが無限に湧く、手が勝手に完璧な絵を描く。仕事は面白いように取れはじめる。でも、力で楽に勝つたび、それぞれが一番見たくなかった心の空洞まで照らし出していく。
立ちはだかるエリート集団R&Cクリエイティブを前に、目標を達成できるのか。そして、はみ出しものたちは力とどう向き合っていくのか。
第1章 四倍の夜
自分のコピーが没になっても、僕の心臓はもうキュッとしなくなっていた。
その日、地上7階の会議室で、クライアントの宣伝部長が僕の書いた一行を指でつまむような手つきで押しやったとき、僕の中で動くべきものは何も動かなかった。悔しさも、恥も、何も。ただ、ああ、と思った。まあ、こんなもんか、と。それがいつからの癖なのか、もう思い出せない。思い出せないということ自体に、たぶん本当は動揺したほうがいいのだろうけれど、その動揺すら来なかった。
「真嶋さん、次いきましょう次」
隣で若い営業がノートパソコンの画面を送る。僕はもう一枚の当たり障りのない案を読み上げる。宣伝部長がうなずく。通る。通ってしまう。通したかったわけでもない案が通ると、体の芯のあたりに薄い膜が一枚張られるような感じがして、その膜の内側で、僕は静かにあくびをする。
打ち合わせが終わって、エレベーターで地下1階まで降りた。
7階のフロアは大理石で、受付の脇には季節の花が生けてあって、空調はいつも24度ちょうどだった。エレベーターの数字が2、1と落ちて、B1でドアが開くと、空気がぬるくなる。冷房が届かない。蛍光灯が四本のうち一本、切れかけていて、廊下の突き当たりの「第三クリエイティブ室」というプレートだけが、なぜか妙にくっきりしている。誰かが定期的に拭いているのだ。たぶん、ことねさんが。
ドアを開ける。
まず匂いがくる。古い紙とインクと、権藤さんの淹れる濃すぎるコーヒーの匂い。次に音。ジーッという蛍光灯の音と、部屋の奥から響く手回しの鉛筆削りの、ゴリ、ゴリ、という音。
「おかえり、真嶋くん。通った?」
声をかけてきたのはことねさんだ。進行管理。30代の半ばくらい——いや、そういう詮索はよそう。とにかく彼女は、部屋の五人ぶんの締切と、五人ぶんの昼飯の好みと、コピー機のトナーの残量を、頭の中の一枚の表で握っている人だった。デスクの隅には、小さな息子が描いたらしい、ぐちゃぐちゃのクレヨンの絵が貼ってある。壁の大きなホワイトボードには、案件名と日付が、色違いのマグネットで並んでいる。彼女の字はいつも角が丸い。
「通りました。B案が」
「B案かあ」ことねさんはマグネットを一つ、右にずらした。「A案、わたしは好きだったけどな」
「まあ、こんなもんです」
部屋の中央、四つの島をくっつけた大きな机の、一番奥の席で、権藤さんが手回しの鉛筆削りを回している。58歳。この会社でコピーを30年書いてきた人だ。目の前にはFAX。今どきFAX。若い外注のデザイナーに「FAXで送ってください」と言って絶句させたことが何度もあると、本人が武勇伝みたいに語る。
「B案ってのは、A案を見た人間が安心するための案だ」権藤さんは削った鉛筆の先を、電灯にかざして確かめる。「A案が怖くて、B案に逃げる。おまえもそのクチか、真嶋」
「権藤さん、A案なんて出してませんよ」
「出してねえのか」
「出してません」
「じゃあ、C案から数えて何案目だ、それは」
僕は答えなかった。権藤さんはふん、と鼻を鳴らして、また鉛筆を削りはじめた。ゴリ、ゴリ。この人の削る鉛筆は、いつまでたっても短くならない。削るために削っているのだ。
窓際、といっても窓はないので、一番壁に寄った席で、小暮あかねが液晶タブレットにペンを走らせている。24歳。中途で入って半年。前の会社のことは、あまり話さない。ただ、口を開けば「コスパ最悪」と言う。今も言った。
「このバナー、修正3回目。コスパ最悪」
「3回で済んでるならいいほうよ」ことねさんが笑う。
「済んでないです。4回目が来るのが見えてる」あかねはペンを止めずに言う。彼女の描く線は、速くて、迷いがなくて、そして——なんというか、うまい。うますぎるくらいうまい。半年前に入ってきたときからそうだった。うますぎて、逆に、この地下に流れ着いた理由がわからない、と最初は思った。今も、少しわからない。
そして、部屋の一番奥、パーティションで半分仕切られた一角に、袋田室長がいる。
寝ている。
いつものことだ。デスクに肘をついて、手のひらに顎をのせて、目を閉じている。その手のそばに、A4のコピー用紙が一枚あって、犬の絵が描いてある。下手な犬だ。耳の大きさが左右で違う。毎日、一枚。誰に見せるでもなく、袋田さんは犬を描く。描いて、机の引き出しにしまう。引き出しの中には、何百枚もの下手な犬が溜まっているらしい。
これが、第三クリエイティブ室だ。通称、三クリ。
カミナリ広告という中堅の広告会社の、地下1階の、窓のない部屋。はみ出し者の吹き溜まり。誰も何も期待していない部署。僕を含めた五人が、ここにいる。
三クリの案件に、営業はつかない。大きな案件で地上の営業に駆り出されることはあっても、この部屋の仕事は、地上が拾わない小口の直請けばかりだ。自分たちで受けて、自分たちで納める。だから数字も、この部屋が自分で持たされている。
***
その日、僕らが期待されていないことは知っていた。知ってはいたけれど、それがこういう形で通告されるとは、思っていなかった。
夕方、内線が鳴った。ことねさんが取って、「はい、第三クリエイティブ室です」と言って、それから少し、表情が固くなった。受話器を置いて、彼女は言った。
「室長。経営企画の沼田さんが、降りてくるって」
袋田室長が、目を開けた。
沼田という人が地下に降りてきたのは、それから10分後だった。カミナリ・ホールディングス経営企画室長。地上の、それも本社機能の中枢にいる人間が、この地下に来ることは、まずない。彼はエレベーターを降りてから、廊下の切れかけた蛍光灯を一度見上げ、それから「第三クリエイティブ室」のプレートを見て、少しだけ眉を動かした。汚いものを見た、というより、忘れていたものを見つけた、という顔だった。
彼は書類を一枚、机に置いた。
「単刀直入に言います」沼田さんは座らなかった。「第三クリエイティブ室は、来期の組織再編に伴い、廃止の方向で検討が進んでいます。半年後を目処に」
部屋の空気が、動かなくなった。
あかねのペンが止まった。権藤さんの鉛筆削りが止まった。ことねさんは、ホワイトボードのほうを見ていた。
僕は、自分でも意外なことに、何も感じなかった。まあ、こんなもんか、とすら思わなかった。ただ、沼田さんの口が動くのを、他人事のように見ていた。
「ただし」と沼田さんは続けた。「ひとつだけ、条件付きで、再編を見送る可能性があります」
「条件」ことねさんが繰り返した。
「今期中に、残り3ヶ月で、この部署の受注額を4倍にすること」
4倍。
その数字が、部屋の中で、少し滑稽な感じで宙に浮いた。あまりに現実離れしていて、冗談のように聞こえた。実際、半分は冗談なのだと、僕にはわかった。彼らは僕らに達成しろと言っているのではない。達成できないことを、僕ら自身の口から言わせたいのだ。「無理でした」と。そうすれば、廃止は僕らが選んだことになる。
「3ヶ月で4倍」権藤さんが、ふん、と鼻を鳴らした。「経営企画ってのは、算数を習わなかったのか」
「習いました」沼田さんは表情を変えなかった。「だからこそ、フェアな条件だと考えています。達成できれば、残る。できなければ、去っていただく。それだけです」
それだけです、と彼は言った。フェアだ、と。
このとき僕は、まだ何も感じていなかった。感じるべきものが、僕の中にはもう残っていない気がした。
沼田さんが帰り際に、一言つけ加えた。それが、あとから思えば、一番効いた。
「この部署の担当案件は、廃止後、R&Cブランディングが引き継ぐ予定です。円滑な移行にご協力ください」
R&C。
その名前を聞いたとき、僕の中で、久しぶりに、何かが小さく軋んだ。
R&Cブランディング。親会社カミナリ・ホールディングスの直轄。この会社で一番光の当たる部署。広告賞の常連。仕立てのいいスーツを着た人間が、綺麗なオフィスで、綺麗な仕事をする場所。地下から数えて、一番遠いところ。
そして、そこのリーダーが、鷹野怜だということを、僕は知っていた。
僕の、同期だから。
***
その夜、誰も、帰らなかった。
僕は「先に帰ってください」と言った。4倍という数字を前に、五人で顔を突き合わせていても、誰も口を開けなかったからだ。沈黙が重かった。
でも、誰も動かなかった。ことねさんは帰り支度を半分だけして、それからホワイトボードの前に戻り、マグネットを意味もなく並べ替えはじめた。その夜は、息子のお迎えを旦那さんに頼める日だったらしい。あかねは「終電までに終わらせたいのがある」と言って、やりかけのバナーを開き直した。権藤さんは何も言わず、鉛筆を削っていた。ゴリ、ゴリ。たぶん、みんな、同じだったのだと思う。こんな夜に一人で電車に乗って、家の天井の下で、4倍という数字と二人きりになりたくなかったのだ。
僕はデスクで、4倍という数字を、ノートの隅に書いてみた。今の受注額に4を掛けた数字も、その隣に書いた。桁が一つ増えた。それを、しばらく眺めた。
鷹野の顔が浮かんだ。
入社した年、僕らは新人研修でペアを組まされた。四月の、まだ何者でもなかった頃だ。課題は「ありふれた消しゴムのコピーを書け」。二人で、鷹野のアパートの四畳半に転がり込んで、朝まで消しゴムのことばかり考えた。安い酒を飲みながら、何百と書いては消した。消しゴムのコピーを書くのに、消しゴムを使った。窓の外が白んでくる頃、鷹野が言った一行を、僕は今でも覚えている。
『間違えても、いい。』
消しゴムなんだから、間違えても、いい。だから、思い切って書け。そういう一行だった。僕はそれを聞いて、鳥肌が立った。あの頃の鷹野は、こう言っていた。「人がちょっと生きるのが楽になる言葉を、書きたいんだ」と。目を輝かせて、そう言っていた。
あれから9年経って、鷹野は地上の一番高いところにいて、僕は地下にいる。
鷹野が今も「間違えても、いい」なんて言葉を書くのか、僕は知らない。噂で聞くのは、隙のない仕事ぶりと、獲った賞の数ばかりだ。
僕はノートを閉じた。まあ、こんなもんか。
そのとき、外で、雷が鳴った。
遠い音だった。それが、だんだん近づいてきた。地下にいると、雨の音は聞こえない。ただ、蛍光灯が、ジジッ、と一度、大きく瞬いた。切れかけの一本ではなく、全部が。
空気の匂いが変わった。焦げたような、金属を舐めたような匂い。あとで知ったが、それは、雷が近くに落ちる直前の匂いなのだそうだ。
僕は顔を上げた。
部屋の奥のパーティションの向こうで、袋田室長が例の犬を描いていた。権藤さんの鉛筆削りが、ゴリ、と一度鳴って、止まった。ことねさんの手が、マグネットの上で止まった。あかねが、タブレットから顔を上げた。みんな、同じ匂いに気づいていた。
その瞬間だった。
世界が、白くなった。
音は、なかった。音より先に、光が来た。目の奥を、真っ白な棒で貫かれたような感覚。体じゅうの毛が逆立って、歯の根が、カチッと鳴った。手も足も、自分のものではなくなった。誰かが、遠くで、あるいはすぐ隣で、悲鳴をあげた。それが自分の声かどうか、わからなかった。
最後に見えたのは、宙に舞う、一枚のコピー用紙だった。
下手な犬が、描いてあった。耳の大きさが、左右で違う犬が、ゆっくりと、床に落ちていくのが見えた。
そこで、僕の意識は途切れた。
第2章 感電した朝
目が覚めたとき、天井が白かった。
地下の切れかけた蛍光灯の天井ではなかった。清潔な、染み一つない白。消毒液の匂い。腕に管が刺さっていて、その先の点滴がぽたり、ぽたりと落ちていた。病院だ。
カーテンの向こうで、看護師が誰かに説明しているのが聞こえた。落雷。ビルの避雷針に落ちた電流が、地下の配線を伝って、たまたま室内にいた五人に流れた。全員、意識を失って搬送されたが、火傷は軽度。命に別状はない。奇跡的、という言葉を看護師は二回使った。
僕は右手を持ち上げてみた。動いた。指も動く。痛みはあちこちにあったけれど、鈍い、遠い痛みだった。
カーテンが開いて、丸顔の医師が入ってきた。彼は僕のカルテを見て、それから僕の顔を見て、何かを言おうとした。
その瞬間だった。
彼の声より、先に別の声が聞こえた。
《この患者は運がいいなぁ。地下の湿気で電流が分散したんだろう。それにしても五人同時とは。学会で報告できるかな。いや、症例としては地味か》
医師の口は、動いていなかった。
彼はそのあとで、口を開けて、「経過は良好です。もう少し様子を見ましょう」とまったく違うことを言った。穏やかな、患者を安心させる声だった。
僕は彼の顔を見つめた。心臓が、ひさしぶりにはっきりと鳴った。
空耳だ、と思った。疲れているのだ、と。
***
でも、その日の午後、四人と再会したとき、僕は空耳ではないことを知った。
病室は男女で分かれていたが、ことねさんが「同じ職場で、同じ事故なので」と看護師に頼み込んで、検査の合間にフロアの端のデイルームに集まる許しを取りつけていた。全員、青い病衣を着せられて、それぞれの椅子の上でそれぞれに少し変な顔をしていた。
「みんな、聞いて」
最初に口を開いたのは、ことねさんだった。彼女は自分の膝のあたりを見ていた。そこには、誰もいなかった。でも、彼女はそこに誰かがいるかのように一度そっちを見て、それから僕らを見た。
「変なこと言うけど、怒らないでね。……わたし、さっきから、この先のことが、線で見えるの」
「線?」あかねが眉を寄せた。
「うん。線。たとえば」ことねさんは廊下のほうを指さした。「あと、10秒くらいで、あそこのワゴンが引っかかって、お盆が落ちる。金属の大きい音がする」
僕らは廊下を見た。
配膳のワゴンを押した看護師が、角を曲がろうとして、車輪がドアの敷居に引っかかった。ワゴンが傾いて、上に載っていたステンレスのお盆が、床に落ちた。
ガシャーン、という、大きな金属の音がした。
デイルームが、静まりかえった。
「……嘘でしょ」あかねが小さく言った。
「ずっとなの」ことねさんは自分の手のひらを見た。「起きてから、ずっと。詰まりそうなところが、渋滞みたいに赤い線で見える。何日か先まで。……それだけじゃなくて」
彼女はまた、膝のあたりを見た。
「もう一人、わたしがいるの。……たぶん、子どもを産まなかった、わたし。仕事だけしてる、わたし。そこに座って、ずっと、わたしに話しかけてくる」
誰も、笑わなかった。笑えなかった。
権藤さんが椅子の上で、身を乗り出した。彼は手元のメモ用紙に猛烈な勢いで、鉛筆を走らせていた。鉛筆は、病院の備品の短い赤鉛筆だった。
「権藤さん、何を」
「止まらねえんだ」権藤さんは書く手を止めずに言った。その声は、少し掠れていた。「言葉が、湧いて出る。蛇口が、壊れたみたいに。今この瞬間だけで、この点滴のコピーが47、いや50湧いた。全部、そこそこ、いい」
彼は書き終えたメモを僕に見せた。
そこには、点滴のコピーが、びっしりと並んでいた。『一滴ずつ、治っていく。』『焦るな。体は、待ってくれてる。』『ぽたり、ぽたりで、ちょうどいい。』どれも、うまい。プロの仕事だ。目の前にぶら下がっているだけの点滴で、これだ。でも、50も並んでいると、それはうまさの見本市のようで、どこか空恐ろしかった。
「これ、ぜんぶ権藤さんが……」
「俺が考えたんじゃねえ」権藤さんはメモをくしゃりと握った。「湧いたんだ。俺は、蛇口をひねってもいねえのに」
そして、あかね。
彼女は一番静かだった。手元の看護師が置いていったらしいメモ帳に備品のボールペンで、何かを描いていた。
僕は覗き込んで、息を呑んだ。
デイルームの窓から見える、街並みだった。ビルの輪郭、電線、雲の形、一番手前の点滴のスタンドの金属の光沢まで。ボールペン一本で、写真のように正確に。それがほんの数分で、描き上げられていた。
「これも、コスパ最悪」あかねは描き上がった絵を見て、ぼそりと言った。「勝手に手が動くの。わたし、上手く描こうなんて、これっぽっちも思ってないのに。なんか、手が、勝手に動いちゃう」
彼女の口調は、爽快とは少し違った。むしろ、うっすらと、怖がっているように僕には聞こえた。でも、その意味が、そのときの僕にはまだわからなかった。
そして、僕だった。
三人の視線が、僕に集まった。
僕は正直に言うしかなかった。
「……僕は、人の心の声が、聞こえる」
言った瞬間、三人の《声》が、いっせいに僕の中に流れ込んできた。
《嘘でしょ》——あかね。
《心の声? そりゃ、一番キツいやつだな。真嶋には》——権藤さん。
《この子、大丈夫かな。一番繊細だから、この中で》——ことねさん。
僕は思わず、耳を塞いだ。塞いでも、聞こえた。声は、耳から入ってくるのではなかった。もっと直接、頭の内側に置かれるみたいに来た。
「やめて……ください」僕は言った。「今、全部、聞こえてます。三人とも」
デイルームが、また、静かになった。今度の静けさは、さっきとは違った。三人が、いっせいに自分の心の中に蓋をしようとする気配。その蓋をする、ぎこちない努力の音までが、僕には聞こえた。
それは想像していたような、面白い力ではなかった。
人の本音が聞こえる。それは自分に自信のない人間にとって、この世で一番、聞きたくない情報だった。あの会議室で、僕のコピーを指でつまんだ宣伝部長が、本当は何を思っていたか。通してくれた案を本当はどう思っていたか。今まで想像しないですんでいたことが、これからは全部、勝手に耳に入ってくる。
このとき、僕はこの力を呪いだと思った。
あとで、それが間違いだったと知る。呪いでも、祝福でもない。力は、ただの力だった。呪いにするか祝福にするかは、使う人間が毎晩選び続けるしかないのだと、僕はまだ知らなかった。
一番奥の窓際の椅子に、袋田室長がいた。
みんながそれぞれの力を打ち明けているあいだ、室長は黙って天井を見ていた。そして、みんなの話が一段落したとき、静かに言った。
「わしは、何もない」
全員が、室長を見た。
「起きてから、何度も試した。線も見えん。言葉も湧かん。手も、いつもどおり下手だ。心の声も、聞こえん。おまえたちの声は、一つも」室長は、少しだけ笑ったように見えた。「わしだけ、外れたらしい」
なぜ、室長だけが。
その理由は、そのときは、誰にもわからなかった。ただ、室長は、それを少しも残念そうにはしていなかった。彼は病衣の胸ポケットから、しわくちゃになった一枚のコピー用紙を取り出した。あの夜、宙を舞った、犬の絵だった。誰かが、床から拾って、彼の枕元に置いておいてくれたらしい。
室長はその下手な犬をじっと見て、それから備品の鉛筆で、耳のところに少しだけ線を足した。
右の耳が、また、少し大きくなった。
「まあ、そういうこともある」
室長は、そう言って、目を閉じた。
窓の外は、雨あがりのやけに晴れた空だった。ゆうべの雷が嘘みたいに。
***
僕らはその日のうちに全員、退院した。奇跡的、と看護師はまた言った。
地下に戻る前の夜だった。まだ、何も始まっていなかった。4倍という数字も、R&Cも、鷹野も、その先に待っているものも、僕らはまだ何も知らなかった。
ただ、僕らの手にはそれぞれ、便利すぎる力が握らされていた。
第3章 地下の無双
便利すぎる力は、最初の1週間、僕らを笑わせた。
月曜の朝、僕らは地下に戻って、いつもの大きな机を囲んだ。四倍という数字は、ホワイトボードの隅にことねさんの丸い字で書いてあった。誰も、それを消さなかった。消せなかった。でも、その日から、その数字が少しずつ笑えるものに変わっていった。
最初に力を試したのは、ことねさんだった。
三クリには、細かい案件がいくつも溜まっていた。地方のスーパーのチラシ、町工場の会社案内、商店街のイベントの告知。どれも、金額は小さくて、手間ばかりかかる仕事だ。「四倍」には、ほど遠い。でも、ことねさんはホワイトボードの前に立ち、少し目を細めて、それからマグネットをものすごい速さで並べ替えはじめた。
「このチラシは、木曜に校了。でも、印刷所が金曜に別の大口を抱えてるのが、線で見える。だから、水曜の夕方までに入れれば、割り込める。会社案内は、先方の社長が来週出張だから、明日の午前に一発で決める。イベント告知は……」
彼女の指が、盤上の駒を動かすように動いた。
「これで、三つとも、今週中に片づく。渋滞、なし」
そして、実際に片づいた。
ことねさんの「線」は、詰まりを事前に避けさせた。今まであちこちでつっかえて何週間もかかっていた仕事が、水の流れるように通っていった。彼女は全員の仕事の数日先の「詰まり」を見て、そこを先回りして、ほどいた。三クリの進行は、その週、渋滞を一度も起こさなかった。
次に権藤さんだった。
スーパーのチラシに目玉商品のキャッチコピーが20本必要だった。ふだんなら、権藤さんが半日うなって、五本ひねり出す仕事だ。権藤さんはFAXの前に座って、赤鉛筆を持って、目を閉じた。
3分で書き終えた。
20本どころか、60本あった。どれも、うまい。「本日限り」を「今日、逃したら、また来年」と書き、「特売」を「財布にやさしい嘘みたいな値段」と書いた。スーパーの担当者は、FAXで送られてきた60本を見て電話をかけてきて、「権藤さん、どうしちゃったんですか」と言った。褒めているのか、心配しているのか、わからない声だった。
あかねはもっとすごかった。
町工場の会社案内は、ふだんなら外注のカメラマンとデザイナーを入れて1ヶ月かかる仕事だった。あかねは工場に一度だけ行き、スマホで写真を何枚か撮って帰ってきて、それを見ながらタブレットにペンを走らせた。
2日で、全ページ描き上げた。写真よりうつくしかった。旋盤を回す職人の手の皺の一本まで、絵になっていた。町工場の社長はそれを見て絶句して、それから少し泣いた。「うちの工場が、こんなにかっこよく見えるとは」と。
そして、僕だった。
僕は自分の力をどう使えばいいのか、まだわからずにいた。人の本音が聞こえる。それがコピーを書くのにどう役立つのか。むしろ、邪魔だった。打ち合わせに行くと、クライアントの本音が全部聞こえてしまう。《この広告屋、高いだけだな》《どうせ、当たり障りのない案を出してくるんだろう》そういう声が耳に流れ込んできて、僕は萎縮した。
最初の数日、僕は一番、力を持て余していた。
***
転機は、花菱堂だった。
花菱堂は、駅前の商店街にある老舗の和菓子屋だった。創業80年。だが、店主が代替わりして若い女将が継いでから、客足が落ちていた。「店の新しいポスターを作りたい」という、小さな依頼だった。予算は、ほとんどなかった。ことねさんが「うちみたいな部署にしか、頼めないのよ、こういうの」と言って、受けた仕事だった。
僕はあかねと二人で、花菱堂に行った。
女将は、30代の後半くらいの物静かな人だった。彼女は店の奥の座敷で、お茶と、季節の上生菓子を出してくれた。菓子は、淡い紫の桔梗を象ったものだった。
「新しいポスター、というと、どういう?」僕は聞いた。
「それが……」女将は、言葉を探していた。「うまく、言えないんです。派手にしたいわけでは、なくて。かといって、古臭いのも、違って。……すみません、こんな、あいまいな言い方で」
彼女の口は、そこで止まった。
そのとき、僕の中に彼女の《声》が、流れ込んできた。
でも、それは僕がそれまで聞いてきたクライアントの本音とは、違った。《高いな》とか《どうせ》とか、そういう、とがった声ではなかった。
彼女の本音は、こうだった。
《この店は、母の店だった。母が、あの奥で、餡を炊いていた。わたしは、母のようには、炊けない。だから、母の店を母のまま残すのも、違う気がして。でも、わたしの店にしてしまうのも、怖くて。……わたしは、この店に、まだいていいんだろうか》
それは言葉になっていない本音だった。彼女自身がまだ言葉にできていない、心の一番柔らかいところ。
僕はそれを聞いて、胸の奥が、あたたかくなった。ひさしぶりの感覚だった。この力をはじめて呪いだと思わなかった瞬間だった。
僕は彼女に聞いた。
「女将さん。この桔梗の菓子、お母さまの代からの意匠ですか」
女将は、少し、驚いた顔をした。
「……いえ。これは、わたしが、去年、作ったものです。母の型は、もっと、大ぶりで。わたしは、こんな、小さいのしか、作れなくて」
「僕は、これ、すごくきれいだと思います」僕は言った。「お母さまの菓子と、どっちがいいか、じゃなくて。これは、女将さんの菓子ですよね」
女将の目が、揺れた。
僕は彼女の本音をそのまま口にはしなかった。「あなたは、この店にいていいのか、と悩んでますね」なんて言わなかった。それを言ったら、それは見透かしになる。彼女を裸にしてしまう。そうではなくて、僕は彼女が言えずにいることを彼女が言える形に翻訳して、返した。
ポスターのコピーは、その帰り道に決まった。
『二代目の初めての桔梗。』
あかねがその桔梗を描いた。彼女の力で、精密に。だが、僕は一つだけ頼んだ。「完璧に描かないでほしい。女将さんの少し、いびつな型のまま、描いてほしい」と。あかねは少し不思議そうな顔をして、それからうなずいた。彼女の手は勝手に完璧を描こうとしたが、彼女はそれを意識して、ほんの少しだけいびつに留めた。
コピーは、先に文字だけで女将に確かめてもらっていた。絵と揃った刷り上がりを見せるのは、この日が初めてだった。完成したポスターを花菱堂に届けたとき、女将はそれをしばらく黙って見ていた。それから、小さく「ありがとうございます」と言った。泣いてはいなかった。ただ、彼女の《声》が、僕に聞こえた。
《ああ。わたしは、この店にいていいんだ》
舌の奥にあたたかい菓子の甘さが残っているようだった。
これが僕の力の一つの使い方だった。相手がまだ言葉にできない本音を言える形に翻訳して、返す。そうすると、相手の胸があたたかくなる。そして、不思議なことに僕の胸もあたたかくなった。
***
その週、僕らは力が噛み合う瞬間を初めて味わった。
商店街の夏祭りの告知一式を作る仕事だった。ポスター、チラシ、SNS用の画像、屋台のメニュー。ふつうなら2週間かかる量を、印刷所の都合で3日で仕上げなければならなくなった。ふつうなら、無理だった。
でも、その夜、僕らは無理をしなかった。
ことねさんが線を見て、作業の順番を組んだ。「真嶋くんが、コピーの方向を決める。それを見て、権藤さんが、候補を湧かせる。真嶋くんが、選ぶ。あかねが、レイアウトに流し込む。わたしが、印刷所の窓を見て、割り込ませる」。渋滞のない一本の線が、五人の手を貫いた。
地下の大きな机で、僕らはほとんどしゃべらずに動いた。権藤さんの赤鉛筆が、走る。僕がその中から、一行を指さす。あかねのペンが、それを絵にする。ことねさんが次の詰まりを先回りして、ほどく。袋田室長は寝ていた。でも、時々目を開けて、「その屋台の絵、もう少しゆがんでるほうが祭りっぽい」と一言だけ言って、また寝た。その一言が、なぜかいつも当たっていた。
明け方には、全部できていた。3日分の仕事が、一晩で。
できあがったものを机に並べたとき、あかねがぽつりと、言った。「……なんか、すごくない? わたしたち」。権藤さんがふん、と鼻を鳴らして、でもその鼻は笑っていた。ことねさんがコーヒーを淹れた。窓のない地下に、朝は来なかったけれど、僕らの中には朝が来ていた。
便利すぎる力は、たしかに僕らを無敵にしていた。この爽快感は、本物だった。僕はそれを否定する気はない。あの数日、僕らは生まれて初めて、自分たちが何者かになれた気がしていた。
***
花菱堂のポスターは、商店街で評判になった。「うちも作ってほしい」という店が、何軒も続いた。小さな仕事だったが、それが束になった。数字が、動きはじめた。
その週の金曜、ことねさんがホワイトボードの受注のグラフを更新した。
棒が、ぐんと伸びていた。まだ、四倍には、ほど遠かった。でも、伸びていた。はっきりと。
権藤さんがふん、と鼻を鳴らして、でもその鼻の鳴らし方は、いつもより少し機嫌が良かった。あかねが「ま、コスパは悪くないかも」と言って、自分で言ってから少し驚いた顔をした。ことねさんが笑った。
袋田室長は相変わらず、寝ていた。そして、犬を一枚、描いた。その日の犬は、なぜか、しっぽがぴんと立っていた。
地下の切れかけた蛍光灯の下で、僕らは少し、笑っていた。
あの数日を僕は今でも、一番いい時間だったと思う。何の影も、まだ差していなかった。力は、ただ僕らを助けてくれた。四倍という数字が、はじめて手の届くところにあるように思えた夜だった。
もし、あそこで止まれていたら。
でも、便利すぎる力は僕らをそこで止めてはくれなかった。
第4章 大理石の反撃
地下の躍進が、地上に気づかれるのにそう時間はかからなかった。
2週間目の水曜、内線が鳴った。今度は、ことねさんではなく、僕が取った。相手は、営業推進部の顔見知りだった。声をひそめていた。
「真嶋さん、なんか、三クリ、上で話題になってますよ。急に数字上げてるって。……R&Cが、動いてるらしいです」
R&Cが、動く。
その日の午後、それがどういうことか、僕らは知ることになった。
三クリに大きな話が、舞い込んでいた。
私鉄沿線の古い商業ビルのリニューアルの仕事だった。花菱堂の商店街での評判が、その沿線の開発担当の耳に入ったらしい。「小さな店を生き返らせるのが、うまい部署がいる」と。金額は、これまでの三クリの仕事のどれよりも、大きかった。ことねさんが線を見て、「この案件は大事ね。大きい」と言った。
僕らは色めき立った。無双の勢いのままだった。僕の翻訳、あかねの絵、権藤さんの言葉。この三つがあれば、獲れる。そう思い込んでいた。
でも、その案件には続きがあった。
クライアントは、コンペにしていた。もう一社、声をかけていた。R&Cだった。同じグループの二社が、同じ指名に呼ばれる。発注側がふつうは嫌がる組み合わせだった。あとから思えば、あの人選にも、地上の誰かの口利きがあったのだろう。
「上等じゃねえか」権藤さんが鼻を鳴らした。「あいつらの鼻を明かしてやる」
プレゼンの前の打ち合わせで、僕は先方の開発担当の《声》を聞いた。30代の熱心な担当者だった。彼は僕らの花菱堂の仕事を気に入っていた。《この人たちのあたたかさが、いい。うちのビルにも、この体温が、ほしい》。僕は確信した。この人の本音は、こっちにある。獲れる。
***
プレゼン、当日。
順番は、R&Cが、先だった。
鷹野が立った。そして、僕らは初めて、R&Cの本当の仕事を見た。
それは「うまい一発」ではなかった。市場データ。沿線の人口動態。競合施設の分析。ブランドの体系。ロゴから内装の色、スタッフの制服、SNSの運用計画まで、何十枚もの資料が隙間なく積み上げられていた。5年後の収益予測まで、あった。白石の生成AIが、何百通りも、試した末の一番外さない設計。黒岩のデータ。それが鷹野のよく通る声で、一つの大きな、揺るがない物語になっていた。
僕らの番だった。
僕は翻訳した。開発担当の言えない本音を言える形にして、返した。あかねがあたたかい絵を描いた。権藤さんの一行が、あった。それは良かった。手応えも、あった。開発担当は、身を乗り出して、うなずいていた。
でも。
プレゼンが終わって質疑の段になったとき、それまで黙って座っていた先方の役員が口を開いた。開発担当の上司だった。
「いいお話でした。ただ」役員は、言った。「うちは、これから、5年、10年、このビルと、付き合う。一発のうまさより、5年外さない仕組みが、ほしいんです。……失礼ですが、この提案で実現できますか?」
僕は答えに詰まった。
僕は開発担当、一人の本音は、読めた。でも、その隣に座る役員の決裁の力は読めなかった。いや——読めても、動かせなかった。組織の意思決定は、一人の本音の足し算じゃなかった。R&Cは、その「組織を安心させる仕組み」を丸ごと、差し出していた。僕らは一人の心をあたためる、一発を差し出した。
負けた。
完敗だった。開発担当は、最後まで、僕らの案を推してくれた。でも、決めたのは役員で、役員は「安心」を買った。R&Cが、獲った。
その日、鷹野はすれ違いざま、静かに言った。「あれじゃあ、俺たちには勝てないよ」。彼の《声》は、それを心から、信じていた。《それっぽい提案だったけど、見てる世界が狭すぎる。少しは期待してたのに、それほどでもなかったな》。
地下に帰った。誰も、口を開かなかった。無双の熱が、一気に冷めた。力は、確かにあった。でも、力があっても負けるのだと、僕らは初めて知った。
その夜も、地下に明かりが、灯っていた。負けた夜だった。
***
そして、その翌週。
全社に一斉メールが回った。件名は、「錆浜市シティプロモーション事業 公開コンペティションのご案内」。
錆浜市。
太平洋に面した、人口8万のかつての港町。造船で栄えて、造船が傾いて、若い人が出ていって、いまは「消滅可能性都市」のリストに名前が載っている。その市が、5年計画で、街のブランドを作り直す。移住を呼び込む。そのための大型のプロモーション事業。予算は、三クリが1年かけて稼ぐ額の何倍もあった。
これを獲れば。
ことねさんがすぐに電卓を叩いた。それから、顔を上げて、言った。
「これ、獲れたら目標に届く。ぎりぎり、届くかも」
部屋の空気が、張りつめた。四倍という数字がはじめて一つの案件で現実になるかもしれない、と思えた瞬間だった。
だが、メールには、続きがあった。参加を表明している社内チームのリスト。そこに二つの名前が、あった。
第三クリエイティブ室。
そして、R&Cブランディング。
「……仕組まれてる」権藤さんがぼそりと言った。「わざと、同じ土俵に上げやがった。俺たちと、あいつらを」
僕には、それがわかった。沼田さんたちは、僕らが急に数字を上げているのを見て、面白くなかったのだ。廃止が、既定路線のはずだった。それが揺らぎかけている。だから、彼らは一番確実な形で、それを潰しにきた。R&Cと、正面から、ぶつけて。地下の落ちこぼれが、本社のエースに公開の場で、叩き潰される。それを見せつけるために。
本来なら、同じグループから二つの案が出るのを、発注側は受けつけない。でも、カミナリ広告とR&Cブランディングは、書類の上では別の法人だった。応募資格はそれぞれにある。沼田さんたちはその理屈で、市に二枚の参加表明書を通したらしい。
***
そして、その週の金曜、僕らは鷹野と再会した。
コンペの事前説明会だった。錆浜市の担当者が、東京に来て、参加チームに事業の概要を説明する。地上の大理石のフロアの一番大きな会議室。
僕らが入っていくと、部屋の反対側にR&Cの一団が、すでに座っていた。
三人だった。
真ん中に鷹野がいた。
こうして面と向かって同じ部屋に座るのは、あの新人研修以来だった。鷹野は仕立てのいい、濃紺のスーツを着ていた。皺一つ、なかった。髪も、姿勢も、まなざしも、隙がなかった。四畳半で安酒を飲みながら目を輝かせていた男は、そこにはいなかった。
鷹野は僕を見て、少しだけ、口の端を上げた。
「おう、真嶋」
「……ああ」
「地下は、どうだ。涼しいか」
軽い、皮肉だった。冷房が効かない地下のことを彼が知っているとは、思わなかった。
そのとき、僕の中に鷹野の《声》が、流れ込んできた。
僕は身構えた。彼の本音を聞くのが、怖かった。地下をどれだけ、見下しているだろう。僕をどれだけ、憐れんでいるだろう。
でも、聞こえてきたのはそういう声ではなかった。
《絶対に間違えるな。この案件は、外せない。城戸本部長が、見ている。ここで外したら、終わりだ。絶対に絶対に間違えるな》
それは皮肉でも、余裕でも、なかった。
鷹野の心の中では、《絶対に間違えるな》という言葉がまるで呪文のように繰り返されていた。彼は余裕の顔のそのすぐ裏側で、恐ろしいほど、張りつめていた。間違えることを恐れていた。
そして、その張りつめた声のさらに奥に、もう一つ細い声があった。あんまり細くて、彼自身にも聞こえていないような声だった。
《……本当に間違えてないんだろうか。俺は》
僕はその声にはっとした。
あの消しゴムの夜。「間違えても、いい」と書いた男が、9年経って、一番間違えることを恐れる男になっていた。そして、その男の一番奥にはまだ、あの夜の細い声が残っていた。
僕が何も言えずにいると、鷹野の隣の若い男が、口を開いた。
「地下って、まだ、手で描いてるんですよね」
三十歳くらいだろうか。人懐こい笑顔の切れ者の顔をした男だった。白石、と、名札にあった。
「うちは、もう、そういうのやめたんです」白石はあかねの持っているスケッチブックをちらりと見て、言った。「まず生成AIで、百案。そこから、いいのを選ぶ。人間が一案ずつこねるより、はるかに速い。はるかに外さない。……思いとか、込めるとか、あるじゃないですか。作る側の自己満足だと思うんですよ、あれ」
あかねのスケッチブックを持つ手が、少し、固くなった。
彼らのやっていることは最先端た。でも、その中身に、僕は聞き覚えがあった。「数をたくさん出した者が、偉い」。あかねが前の会社で潰された、あの言葉と同じだった。一番新しい道具を使いながら、一番、古い秩序を白石は信じていた。
鷹野の隣のもう一人。黒岩という寡黙な男は、何も言わなかった。ただ、手元の資料に市場データらしき数字を書き込んでいた。彼の《声》は、静かだった。《外さなければ通る。奇をてらう必要はない。堅く、確実に》。彼は勝つということより、負けないということを考えている男のようだった。
説明会が、始まった。
錆浜市の担当者は、50がらみの実直そうな男だった。彼は街の窮状を資料で、淡々と、説明した。人口減少。空き家。シャッター商店街。そして、最後に彼はこう言った。
「この街をなんとか、生まれ変わらせたいんです。若い人が来たくなるような、新しい、明るい街に」
その「生まれ変わらせたい」という言葉を聞いたとき。
僕の隣で、袋田室長が——珍しくこの説明会についてきていた室長が——ぴくりと目を開けた。そして、手元のコピー用紙に犬を一枚、描きはじめた。
説明会のあいだじゅう、室長は、犬を描いていた。R&Cの白石がそれを見て、鼻で笑った。
説明会が終わって僕らが会議室を出るとき、鷹野がすれ違いざまに僕に言った。
「真嶋、悪いことは言わない。無理するな」
その声は、皮肉には聞こえなかった。むしろ、どこか、本気の忠告のように聞こえた。
でも、そのすぐ裏で彼の《声》がこう言っていた。
《頼むから、無理をしないでくれ。今回は失敗できないんだ、俺は……》
その先は、聞こえなかった。鷹野が心の蓋を閉めたからだ。彼は自分のその声から、逃げるように大理石の廊下を去っていった。
地下に帰るエレベーターの中で、誰も、口を開かなかった。
B1でドアが開いて、ぬるい空気が迎えた。切れかけの蛍光灯が、ジジッ、と鳴った。
「勝てるかな」あかねがぽつりと、言った。
誰も、答えなかった。
その夜、僕らは初めて、コンペのために地下に泊まった。長い、夜だった。徹夜の一夜目だった。この先こういう夜をいくつ越えることになるのか、そのときの僕はまだ知らなかった。
ホワイトボードの隅の四倍という数字が、蛍光灯の下で青白く光っていた。
第5章 金属の味
錆浜のコンペまでには、まだ、1ヶ月あった。
その1ヶ月で、四倍の土台を少しでも、積んでおかなければならなかった。錆浜だけに賭けるのは、危険だった。もし、落ちたら、ゼロだ。だから、僕らはその間も、取れる仕事は全部取った。
その中に一つ、大きな案件があった。
中堅の住宅設備メーカーだった。新しいシステムキッチンの広告キャンペーン。金額は大きかった。この一件で、四倍への距離はぐっと縮まる。ことねさんが線を見て、「これは獲れる。獲るべき」と言った。
プレゼンの相手は、そのメーカーの宣伝担当役員だった。五十代の恰幅のいい男で、名を栗原といった。
最初の打ち合わせで、僕は栗原役員の《声》を聞いた。
それは花菱堂の女将の声とは、正反対だった。
《この新製品は、俺が企画から通した、俺の子どもだ。役員会で、散々、反対された。それを俺が押し切った。だから、これは絶対に当てなきゃならん。当てて、あいつらを見返してやる。俺の目に狂いはなかったと。……この広告屋、俺の企画のすごさをちゃんとわかってるのか?》
彼の本音は、せこくて、凡庸だった。見返したい。認められたい。すごいと言われたい。
でも、それを責める気にはなれなかった。誰の心の中にも、そういうせこくて凡庸な声はあるからだ。僕の中にも、ある。
問題は、僕がその声をどう使うか、だった。
その夜、僕はオフィスに残って一人で考えた。
栗原役員が、言われたい言葉はわかっていた。彼は自分の企画が、革命的だと言われたかった。時代を変える、と。あなたは正しかった、と。それをコピーとキャンペーンに盛り込めば、彼は必ず通す。彼の本音にぴったり、合わせれば、勝てる。
でも、そのキッチンは——僕が実物を見た限り——別に革命的ではなかった。よくできた、いい製品だった。でも、時代を変えるようなものではなかった。「革命」は嘘だった。
僕は二つの案を書いた。
一つは、正直な案だった。このキッチンの本当の良さ、毎日のささやかな家事が、少しだけ楽になる。その地味だが確かな価値を掬い上げた案。花菱堂で僕がやったのと同じ、翻訳の仕事だった。
もう一つは、迎合の案だった。栗原役員の本音にぴったり、合わせた案。『キッチンの革命。』『あなたの選択は、時代を先取りしていた。』彼が言われたい言葉をそのまま、広告にした案。
***
プレゼンの日、僕は両方を鞄に入れていった。
どちらを出すか、僕はまだ決めていなかった。
会議室で、栗原役員は腕を組んで座っていた。その組んだ腕の奥から、《声》が、聞こえた。《さあ、俺を唸らせてみろ。唸らせられなかったら、他社に切り替える》。
僕は鞄に手を入れた。
正直な案の一番上に指が、触れた。
でも、僕の頭の中に四倍という数字が浮かんだ。ホワイトボードの隅の青白い数字。それを達成できなかったときの地下の五人の顔。廃止。R&C。鷹野の「無理はするな」という声。
僕は迎合の案を出した。
『キッチンの革命。』
栗原役員の顔が、ぱっと明るくなった。彼の《声》が、はじけた。《そう! これだ! こいつは、わかってる! 俺の企画のすごさをちゃんと、わかってるじゃないか!》
プレゼンは、大成功だった。栗原役員は、その場で発注を決めた。金額は、想定より上乗せされた。「君は、わかってる人だ」と彼は僕の手を両手で、握った。
僕は勝った。
でも、その手を握り返しているとき、僕の舌の奥に変な味がした。
金属を舐めたような味だった。
あの落雷の直前の空気の匂いに似ていた。焦げた、金属の味。
地下に帰った。ことねさんが受注のグラフを更新した。棒が、大きく伸びた。四倍まで、あと少し。あと、錆浜を獲れば。
「真嶋くん、すごいじゃない!」ことねさんが言った。
権藤さんがふん、と鼻を鳴らして、「よくやった」と言った。
でも、僕は笑えなかった。
舌の奥の金属の味が、消えなかった。
僕は栗原役員の本音を聞いた。そして、その本音にただ合わせた。彼が言われたい言葉を彼に返した。それは花菱堂で僕がやったことと、形は似ていた。同じ力だった。同じ、本音を聞く力。
でも、まるで違った。
花菱堂で、僕は女将が「言えずにいること」を「言える形」に翻訳して、返した。彼女の胸が、あたたかくなった。僕の胸も。
栗原役員に僕は彼が「言われたいこと」をただ、餌みたいに投げた。彼のキッチンは、革命なんかじゃなかった。それを革命だと言った。彼の虚栄心に合わせて、勝ちを取った。
同じ力から、こんなにも違う二つの使い方が出てくる。
胸があたたかくなる使い方と、舌に金属の味が残る使い方。
僕はその夜、地下のトイレの鏡の前で、自分の顔を見た。まあ、こんなもんか、といういつもの声が聞こえた。四倍のためだ。仕方ない。みんなを守るためだ。そう、自分に言い聞かせた。金属の味は、それでも消えなかった。
***
違和感は、僕だけではなかった。
その頃から、三クリの他の三人にも少しずつ影が差しはじめていた。
あかねは次から次へと、絵を量産していた。彼女の手は、何を描いても、完璧に仕上げた。会社案内、バナー、ポスター、パッケージ。どれもうまかった。うますぎた。ある夜、僕は彼女がタブレットの前でペンを持ったまま動かずにいるのを見た。
「どうした」
「……わかんなくなった」あかねは画面を見つめたまま、言った。「わたし、何を描きたいんだっけ」
「え?」
「手は、勝手に動くの。何を描いても、正解を出す。桔梗でも、キッチンでも、工場でも。……でも、じゃあ、わたしが描きたいものって、なんだっけ。ずっと、考えてるんだけど。……ないの。空っぽなの。手は、こんなに動くのに。中身が、ない」
彼女の《声》は、聞こえなかった。彼女はそれをそのまま、口に出していた。だから、なおさら、こたえた。
「コスパ、最悪だよね」あかねは力なく、笑った。「これだけ描けて、描きたいものが、ないなんて」
権藤さんも変わっていた。
彼の書くコピーは、相変わらず、うまかった。湧いて、湧いて、湧きつづけた。でも、ある日、僕は彼が湧いてきた大量のコピーを印刷して、赤鉛筆で一つずつ消していくのを見た。
「権藤さん、それ、いい案たくさんあるじゃないですか。なんで消すんですか」
権藤さんは手を止めた。しばらく黙って、それから掠れた声で言った。
「……俺のコピーじゃねえんだ」
「え?」
「湧くんだよ。いくらでも。うまいのが。でもな、真嶋。30年、俺は一行をうんうん唸って絞り出してきた。絞り出した一行には、俺の腹の底が、入ってた。血が通ってた。……これには、入ってねえ。うまいだけだ。空っぽだ。俺が、書いたんじゃねえ。蛇口が、勝手に出しただけだ」
彼は赤鉛筆で、また一本消した。
「スーパーの担当が電話で言ったろ。どうしちゃったんですか、って。……ありゃあな、褒めてたんだ。30年の一行より、蛇口の一行のほうがうまいってことだ。読むほうには、区別なんかつかねえ。……いや、それどころかな、真嶋。俺にもつかねえんだ。並べて置いたら、どれが俺の腹の底を通った一行か、俺にも、もう」
彼は手回しの鉛筆削りを回した。ゴリ、ゴリ。削るために削る。もう、鉛筆なんて、要らないのに。湧いてくる言葉には、鉛筆なんて、要らないのに。
そして、ことねさんだった。
彼女は、一番うまく力を使いこなしているように見えた。線を見て、渋滞を避ける。進行は、完璧だった。でも、ある日の夕方、僕は彼女が電話で保育園に「すみません、お迎え、また遅れます」と謝っているのを聞いた。電話を切ったあと、彼女は誰もいない自分の隣の椅子をじっと見ていた。
「ことねさん?」
「……ここにいるの」ことねさんは椅子を見たまま、言った。「産まなかった、わたし。仕事だけしてる、わたし。……その子が言うの。『ほら、やっぱり両方は無理だったでしょ?あなたは、どっちかを選ばなきゃいけなかったのよ』って」
「……」
「わたし、ずっとそう思って生きてきたの」ことねさんは笑おうとして、失敗した。「仕事か、子育てか。どっちかは、犠牲にするしかないって。そう、覚悟して来たの。……でも、この力で渋滞が見えるようになって。両方、回せるかも、って一瞬思っちゃった。そしたら、その子が怒るの。『調子に乗らないで』って」
ことねさんは、誰もいない椅子から目を離さなかった。
「無理だって思ってた頃のほうが、楽だったの。無理なんだから、できなくてもわたしのせいじゃなかった。……今は、線が見えるの。やれるはずのことが、毎日増えるの。できなかった分は、全部わたしのせいになるの。……ねえ、これ、どこまでやったら足りるのかな」
僕は何も、言えなかった。
四人が、それぞれの力にそれぞれの形で、揺さぶられていた。
便利すぎる力は、僕らにできなかったことをできるようにしてくれた。でも、その代わりに、僕らが一番見たくなかった心の空洞を照らし出した。
あかねの、描きたいものがないという空洞。権藤さんの、30年の唸りは何だったのかという空洞。ことねさんの、どこまでやっても足りないという空洞。そして、僕の舌に残る、金属の味。
***
その夜も、僕らは地下に泊まった。徹夜の何度目かの夜だった。
僕は袋田室長がまた、犬を描いているのを見た。相変わらず、下手な犬だった。耳の大きさが、左右で違った。何十日描き続けても、少しもうまくならない犬だった。
なぜうまくならないんだろう、と僕はそのとき初めて思った。
室長には、能力がない。でも、コピーを30年見てきた人だ。犬の一枚くらい、練習すればうまく描けるはずだ。なのにこの人は、なぜ毎日下手なままの犬を描き続けるんだろう。
その答えを僕が知るのは、もう少しあとのことだった。
その前に僕らは一番、暗い夜を越えなければ、ならなかった。
第6章 見透かす広告
破裂は、一番うまくいっていた仕事から来た。
キッチンの案件のあと、もう一つ大きな仕事が舞い込んだ。転職サービスの大型キャンペーンだった。20代後半から30代の「今の仕事になんとなく、満たされていない人」に転職をうながす。ターゲットは、まさにかつての僕みたいな人間だった。
この案件は、僕の力が一番活きる仕事に思えた。
クライアントは、実際の利用者に話を聞く場をセッティングしてくれた。何人もの転職を考えている人が来て、自分のモヤモヤを語ってくれた。僕はその一人ひとりの《声》を聞いた。
彼らが口で言うことと心で思っていることは、少しずれていた。
口では、「キャリアアップしたい」「年収を上げたい」と言う。でも、心の奥ではみんな、もっとたよりない声を抱えていた。《このまま、この会社で年を取っていくのかな》《夜中にふと、天井を見て怖くなる》《誰にも言えないけど、毎朝、電車に乗るのがつらい》。
僕はその口に出せない声を集めた。そして、コピーにした。
一本じゃない。聞こえた不安の数だけ、作った。権藤さんの湧く言葉がそれを可能にした。
できあがったコピーは、我ながら鋭かった。
『午前3時に天井を見て、思う。このままで、いいんだっけ。』
この一本をキャンペーンの顔にした。残りは、SNSの広告で流した。『同期の昇進を、心から喜べなかった夜へ。』『その我慢、あと何年続けますか。』『気づいてますか。愚痴が、増えてること。』どの一本も、誰かの言えない声から作ってあった。配信は出し分けた。見る人ごとに、一番効く不安が届くように。あかねが深夜の暗い部屋の天井を見上げる人の後ろ姿を描いた。彼女の力で、精密に。絵は一枚、コピーは何十本。
完璧な、広告だった。
***
公開したその日から、それは爆発的に広がった。
SNSで、何万人もがシェアした。「刺さりすぎる」「わたしのことだ」「なんでこの広告、わたしの考えてることわかるの」「深夜に見て泣いた」。バズった。三クリの名は、社内で一躍知られた。ことねさんの受注グラフは、跳ね上がった。四倍がもうすぐそこにあった。
僕は有頂天になりかけた。
***
でも、3日目の夜だった。
風向きが、変わった。
最初の一件は、小さなつぶやきだった。《この転職サービスの広告、なんか、気持ち悪くない?》。それがリツイートされた。《わかる。人の不安なところを使って煽ってる感じ》。《なんかゾッとする。気持ち悪い》。《弱ってる人に転職をあおって、儲けようとしてるよね、これ》。《このシリーズ、まとめ見つけた。何十種類もあるよ。人の弱みのカタログじゃん》。
火が、ついた。
バズが、そのまま炎上に反転した。「深夜に不安な人の弱みにつけこむ広告」。「マッチポンプで、人を追い詰めてる」。「気持ち悪い」。何万というシェアが、今度は何万という批判に変わった。
僕はオフィスで、スマホの画面をスクロールし続けた。指が、止められなかった。
彼らの言うことは、正しかった。
僕は利用者の口に出せない、一番柔らかい、一番不安な声を聞いた。そして、それをそのまま広告にした。彼らの一番見られたくない、心の裸を勝手にみんなの前にさらした。それは翻訳じゃなかった。花菱堂で、僕がやったことと、正反対だった。女将の本音を僕は彼女が「言える形」に翻訳して、返した。でも、この広告で僕は、何万人もの本音を「言えない形」のままはぎ取って、悪用した。はぎ取っただけじゃない。不安になればなるほど登録が増えることを、僕は知っていた。知っていて、一番不安な声ばかり選んだ。
それは力の一番、醜い使い方だった。
炎上の何日目かに一つの長い投稿が流れてきた。あの広告を見た人が書いたものだった。『この広告を見た夜、自分でも忘れたふりをしていた気持ちに勝手に名前をつけられて、朝まで眠れなかった。転職サイトには、結局、登録した。でも、あの晩の眠れなさを僕は広告に感謝する気にはなれない』。何度も読んだ。その人は、僕がヒアリングで会った誰かじゃない。顔も名前も知らない。でも、その眠れない一晩は、僕が作った。
クライアントから、電話が来た。キャンペーンを取り下げる、と。三クリの評判は急落した。「炎上した広告を作る部署」。せっかく数字が上がったのに、この炎上で次の仕事がいくつか飛んだ。四倍は、また遠のいた。
そして、もう一つまずいことがあった。
炎上の渦の中に、たまたま上階に行ったことねさんが三クリの噂を耳にした。
「それにしても、三クリ、急に量も質も上がりすぎでは? 」「半年前まで、なんの実績もなかったのにね」「何か、外部の特殊なリソースでも使ってるのかな。ちょっと気になる」
その噂の発生源が、実はR&Cの白石だと、僕はあとで知ることになる。白石は僕らの速さと、うまさに気づいていた。異常さに。人間が手でやっているには、速すぎ、うますぎる。彼はそこに何かからくりがある、と嗅ぎつけていた。
もちろん、彼に僕らの力のことがわかるはずはなかった。人の本音が聞こえるとか、手が勝手に動くとか、そんなこと想像もつかないだろう。でも、彼は疑っていた。そして、白石という男は疑ったことを放っておく男ではなかった。彼は「数字の裏」を暴くのが、好きな男だった。
地下の空気が、重かった。
「わたしの絵が」あかねがぽつりと言った。「凶器になった」
彼女の描いた、天井を見上げる後ろ姿。あんなにうまく描けたのは、彼女の力のせいだった。絵がうまいほど、不安は本物になった。広告は、その不安の出口に置いてあった。
「俺の言葉もだ」権藤さんが赤鉛筆を置いた。「湧いた言葉に責任の取りようが、ねえ。腹の底から、絞り出してねえから。誰かを傷つけても、俺はただ蛇口をひねっただけです、って顔ができちまう。……一番、たちが悪い」
ことねさんは線を見ていた。
「炎上の渋滞……ほどけない」彼女は額に手を当てた。「わたしの線は、仕事の詰まりは見える。でも、人の気持ちの詰まりは、見えないの。こんなに燃えるって、線で見えなかった。……力があっても、防げなかった」
僕は一番、責任を感じていた。
この広告の一番の罪は、僕のコピーだった。僕が人の本音をはぎ取った。四倍のために。みんなを守るために。そう、言い訳しながら。
でも、ほんとうは、僕は知っていた。花菱堂と栗原役員のときから、僕は知っていた。翻訳と、悪用の境目を。胸があたたかくなる使い方と、舌に金属の味が残る使い方の違いを。知っていて、僕は金属の味のする方を選び続けた。四倍という数字に押されて。
***
その夜、袋田室長がめずらしく、口を開いた。
室長は、炎上の間じゅう、ただ犬を描いていた。そして、みんながうつむいている真ん中で、言った。
「真嶋。おまえは、なんで、あの広告を作った」
「……四倍のためです」僕は答えた。「みんなを守るために」
「そうか」室長は、うなずいた。それから、少し間を置いて言った。「わしも、昔、そう言ってた」
僕は顔を上げた。
室長は、それ以上何も言わなかった。ただ、描きかけの犬の耳のところに線を一本、足した。
その夜のことを僕はずっと後まで、覚えている。地下の切れかけた蛍光灯が、ジジッと鳴っていた。四倍という数字は、ホワイトボードの隅でまた遠くなっていた。僕らの力は、確かに便利だった。でも、その便利さは、僕らを一番、行きたくない場所に連れていこうとしていた。
そして、一番暗い夜はまだこれからだった。
第7章 離反
炎上のあと、三クリは、ばらばらになりかけた。
R&Cは、その隙を見逃さなかった。
最初に動いたのは、白石だった。彼は炎上の3日後、あかねに直接連絡を取ってきた。彼女はそれを僕らに隠していた。でも、僕には彼女の《声》の揺れが聞こえていた。
その夜、僕はあかねに聞いた。
「白石に会ったみたいだね」
あかねはびくりとして、それから観念したようにうなずいた。
「……スカウト、された」彼女は言った。「R&Cに来ないかって。うちの部署なら、あなたの絵を正当に評価する、って。あなたはこれだけ描けるのに、こんな地下で腐らせるのはもったいない、って」
「あかね」
「わたしね」あかねは僕を見なかった。「前の会社で、『数だけ考えてろ』って言われて、潰れたの。それが嫌で、辞めたの。……なのに白石さんの言うこと聞いてて、ちょっとほっとしちゃった。『あなたは、たくさん描ける。だから、価値がある』って。……その言葉にほっとした自分が嫌で、でも、ほっとしたのも本当なの」
彼女の空洞に白石の言葉は、ぴったりはまった。たくさん描けるようになった今、描きたいものがないもどかしさ。だったら、たくさん描いてたくさん評価される場所のほうがいい。描いても描いても意味を問われるより、楽だ。
「わたし、行くかもしれない」あかねは言った。「ごめん」
彼女はその夜、めずらしく定時ぴったりに帰った。
***
権藤さんも動けなくなっていた。
彼はFAXの前に座ったまま、コピーを一行も書かなくなった。湧いてくる言葉を全部消して、それきり蛇口を閉めてしまったみたいだった。「俺のコピーじゃねえ」。その言葉が、彼を金縛りにしていた。彼は手回しの鉛筆削りだけをゴリ、ゴリと回していた。もう、削るものもないのに。
ことねさんは家庭のほうで、限界が来ていた。息子が熱を出して、保育園からの呼び出しが続いた。線は見えていても、体は一つしかなかった。彼女の隣の椅子の「もう一人のわたし」は、勝ち誇っていた。《ほら、言ったでしょ。両方は無理なのよ》。
***
そして、僕のところにも来た。
鷹野からだった。
個人の携帯に直接、電話が来た。9年間、一度もかかってこなかった番号だった。
「真嶋。今から、少しいいか」
僕は地上の深夜のバーで、鷹野と会った。大理石のビルの近くにある、静かな店だった。鷹野はあの日と同じ、隙のないスーツで来た。でも、少し疲れて見えた。
「炎上、見たぞ」鷹野はグラスを傾けた。「大変だったな」
「……ああ」
「あの広告、コピーはお前だろう?」鷹野は言った。「わかったよ。9年経っても。お前の書く言葉は、わかる。……鋭かった。鋭すぎて燃えた。でも、あれは腕がなきゃ書けない」
僕は答えなかった。彼の《声》を聞いた。《なんでこいつは、こんな才能をあんな地下で腐らせてるんだ。もったいない。……いや、》。声はそこで揺れて、蓋の音がした。その先を、彼は自分にも聞かせなかった。
鷹野はグラスを置いて、僕をまっすぐ見た。
「真嶋。R&Cに来いよ」
「……」
「三クリは、もうすぐなくなる。あの予算目標は届かないぞ。お前もわかってるだろう。潰れる部署と心中する必要はない。うちに来い。お前の言葉を正しい場所で使え。……俺と、またやろう。あの頃みたいに」
あの頃みたいに。
その言葉が、僕の胸を突いた。四畳半の消しゴムの夜。「間違えても、いい」と書いた夜。「人がちょっと生きるのが楽になる言葉を書きたい」と目を輝かせていた、あの夜。
僕は鷹野の《声》の一番奥の細い声を聞こうとした。
でも、そのとき僕は鷹野の本音に勝手に前後を書き足していたのだと、あとで気づく。
「鷹野」僕は言った。「お前、まだあの時みたいなコピー、書けるか」
鷹野の顔が、こわばった。
彼の《声》が、乱れた。《何言ってんだ。もう俺たちはあの時とは違うんだ。……もう、何年も書いてない。もう間違えられない。立場もあるし、賞のこともあるし、数字のことも。……いつからだ》。
「……それが、どうした」鷹野は口では、そう言った。「青臭いこと言ってる場合か。現実を見ろよ、真嶋」
僕はその夜、鷹野の誘いに返事をしなかった。保留にした。
オフィスへ戻る電車の中で、僕は妹の既読無視のLINEを見ていた。
妹の美緒からの最後のメッセージは、半年前だった。《お兄ちゃん、久しぶり。今度、会えない?》。それを僕は既読をつけたまま、返さずにいた。半年間。
なぜ、返さなかったのか。
答えは簡単だった。会うのが、怖かったからだ。
美緒は、僕が3年目に作った、あの介護施設の広告を覚えている。『ここで、もう一度、自分の名前で呼ばれる』。認知症のお年寄りが、施設でまた自分の名前を取り戻す。そういう、施設だった。その広告が反響を呼び、施設は入居者を増やした。小さいものだったけど、初めて賞も獲った。美緒は「お兄ちゃんすごい」と、目を輝かしていた。
でも、翌年、その施設は経営難で潰れた。入居者は行き場を失った。僕の広告を見て、入った人たちが。僕が「もう一度、名前で呼ばれる」と約束した場所が、消えた。
それから、書くことへの勇気を失くした。本気で書いた言葉が人を動かして、その先で人を傷つけるのが怖かった。だから、「まあ、こんなもんか」と逃げるようになった。
妹が——美緒が怖かったのは、たぶん、美緒が僕の一番本気だった頃を覚えているからだった。美緒に会うと、あの頃の僕を思い出してしまう。逃げてきた僕が、照らされてしまう。
僕は人の本音が、聞こえる。何万人もの本音が。そして、一番聞かなきゃいけない妹の本音から、半年も逃げてきた。
その皮肉が、一番暗い夜に僕を刺した。
***
そして、その夜、決定的なことが起きた。
ことねさんは夜遅いのに、まだオフィスにいた。彼女は青い顔をしていた。手に一枚の紙を持って。
「真嶋くん。これ、見て」
それは社内の共有サーバーにうっかり上がっていた、経営企画の内部資料だった。ことねさんは錆浜の進行の線を引き直していて、妙なことに気づいたのだという。管理部門のどこかで、三クリの案件だけ流れが堰き止められている。詰まりの元を辿って、権限のゆるいフォルダを掘っていったら、これに行き着いた。偶然じゃなかった。彼女の線が見つけさせた資料だった。
資料のタイトルは、「クリエイティブ部門 再編スケジュール(確定)」。
そこには、こう書いてあった。
第三クリエイティブ室は、今期末をもって廃止。所属人員のうち、真嶋、小暮の二名は、R&Cブランディングへ異動。その他は、配置転換または退職勧奨。例外は、なし。錆浜コンペの結果にかかわらず。
僕はその日付を二度、見た。
「……確定、って」
「うん」ことねさんの声が震えていた。「四倍を達成しても、しなくても。……もう、決まってたの。最初から。三クリを潰すことも。真嶋くんとあかねを、R&Cが引き抜くことも」
四倍という条件は、建前だった。
沼田さんたちは、僕らに達成させる気なんて最初からなかった。いや、達成してもしなくても、結果は同じだった。彼らが欲しかったのは、僕らが必死に数字を上げる中で、一番使える人材——僕とあかね——をあぶり出すことだった。そして、それをR&Cが、刈り取る。地下を人材の選別装置として、使ったのだ。四倍という、達成不可能な数字を餌にして。
僕らがこの2ヶ月、越えてきたいくつもの夜はなんだったんだ。徹夜も、炎上も、金属の味も。全部、最初から決まっていた結末に向かって走らされていただけだった。
地下の切れかけた蛍光灯が、ジジッと鳴った。
それが一番暗い夜だった。あかねはいない。権藤さんは動けない。ことねさんは限界。四倍は、建前。鷹野は僕を待っている。妹は既読無視のまま。
僕はホワイトボードの四倍という数字を見た。
消してしまおう、と思った。もう、意味のない数字だ。
手を伸ばしかけたとき、奥のパーティションの向こうで、袋田室長が目を開けた。
「消すな」
室長は言った。静かな、でもはっきりした声だった。
「その数字は、まだ、消すな」
「……室長。もう、意味ないんです。四倍なんて。達成しても、部署は、潰れる。全部決まってた。僕らは、はめられてたんです」
袋田室長は、ゆっくりと立ち上がった。
この人が立ち上がるところを見たのは、なんだか珍しい気がした。いつも、寝ていた人が。地下に流れ着いた、抜け殻みたいな人が。
「わしの話を聞くか」室長は、言った。「一度だけしよう。わしがなんで毎日、下手な犬を描いてるかって話を」
第8章 へたな犬
袋田室長は引き出しを開けた。
中には、何百枚ものコピー用紙が重なっていた。全部、犬だった。下手な犬。耳の大きさが、左右で違う犬。日付が隅に小さく入っていた。一番下の一枚には、5年以上前の日付があった。
「わしは、昔、地上の一番高いところにいた」室長は、犬の束をめくりながら言った。「局長候補と言われてた。作る広告は、全部当たった。賞も獲った。天才だと、言われた。……自分でも、そう思ってた」
僕は黙って、聞いていた。
「才能ってのはな、真嶋。一番怖い力なんだ」室長は言った。「便利すぎる。おまえたちのその力と同じだ。振れば、正解が出る。ひねれば、いい言葉が湧く。手が勝手に、うまく描く。……そうなると、人間は見なくなる」
「見なく……」
「現場を見なくなる。データを見なくなる。目の前の生身の人間が、本当に何に困ってるかを見なくなる。だって、見なくても正解のようなものが出るんだから。わしはそうやって、10年勝ち続けた。見ないで、当て続けた。……そして、最後に、大きく外した」
室長は、犬をめくる手を止めた。
「ある地方の商店街の再生の仕事だった。わしは、現場に一度も行かなかった。データもろくに見なかった。才能で、『こういう街には、こういう広告が当たる』と、決めつけた。そして、『生まれ変わる街』っていう、きれいで完璧なキャンペーンを作った」
僕の背筋が冷たくなった。
錆浜市の担当者が、言った言葉だ。「生まれ変わらせたい」。
「その商店街の人たちは、生まれ変わりたいなんて思ってなかった」室長は、言った。「ただ、いまのままの自分たちの街を誰かにいいねって、言ってほしかっただけだ。なのにわしの広告は、『あなたたちの街はダメだ。だから、生まれ変わりましょう』って言ってた。……誰にも、刺さらなかった。金だけ使って、街はしらけた。わしは初めて、大きく外した」
室長は、一番上の新しい犬を手に取った。
「それから崩れたよ。一度、外すと怖くなる。次も外すんじゃないかって。手が、震える。決められなくなる。……才能ってのは、一度裏切られると、その分深く人を突き落とす。妻も娘も、そんなわしに愛想を尽かして出ていった。わしは、地下に流れ着いた」
地下の切れかけた蛍光灯が、ジジッと鳴った。
「なんで、犬なんですか」僕は聞いた。「なんで、毎日、下手な犬を」
室長は、少し、笑った。
「地下に来て、しばらく何もできなかった。ある日、ふと犬を一枚描いた。昔飼ってた犬だ。うまく描こうとした。でも、下手でな。耳の大きさが、揃わない。何度、描いても」
彼はその犬の大きいほうの耳を指で、なぞった。
「腹が立った。昔は、こんなもの完璧に描けたのにって。……でも、そのとき気づいたんだ。ああ、この揃わない耳がいまのわしなんだ、って。揺れてる。迷ってる。うまくいかない。でも、生きてる。……完璧な絵ってのはな、真嶋。迷ってもないし、揺れてもない。でもそれは、自分らしさがないことでもある。完璧からはみ出る揺らぎこそが、自分らしさかもしれない」
僕はあかねの顔を思い出した。
手が勝手に完璧を描く。何を描いても、正解を出す。でも、描きたいものがない。空っぽ。
「だから、わしは毎日、下手な犬を描く」室長は、言った。「うまく、ならないように。完璧にならないように。毎日、少しずつ違う下手さで。これは、わしがまだ迷ってるっていう記録だ。まだ、揺れてる。まだ、生きてる。まだ、間違える。……その記録だ」
まだ、間違える。
その言葉が、僕の中で鷹野の細い声と重なった。《本当に間違えてないんだろうか、俺は》。そして、9年前の四畳半の一行と。『間違えても、いい。』
僕はわかった気がした。
あかねの空洞。権藤さんの「俺のコピーじゃねえ」。僕の金属の味。全部、同じ場所から来ていた。僕らの力は、迷わずに正解を出す。そして——花菱堂で胸があたたかくなったとき、僕は迷っていた。栗原役員のとき、僕は迷っていなかった。それだけの違いだった。
「室長」僕は言った。「僕は、この力を捨てられません」
「捨てなくていい」室長は、言った。「捨てたら、また、丸腰の根性論だ。そうじゃない。……力は、持ってていい。ただ、毎晩、選べ。その力を迷うために使うのか、迷わないために使うのか。相手を見るために使うのか、見ないですませるために使うのか。……それだけだ。答えは、一晩ごとに変わる。だから、毎晩、選ぶんだ」
毎晩、選ぶ。
***
僕はその夜、あかねに連絡をした。返事はこなかった。既読は、ついた。
次の日、僕はあかねの家の前まで行った。彼女は部屋着で出てきて、「なに」と不機嫌そうに言った。でも、その《声》は、揺れていた。《来てくれた。……でも、なんで》。
「あかね」僕は言った。「一枚だけ、見てほしいものが、ある」
僕は袋田室長から借りてきた犬の絵を一枚、差し出した。あの下手な犬を。
あかねはそれを見た。
しばらく、黙っていた。それから彼女は笑った。今度は、力なく、ではなかった。
「……なにこれ。下手すぎ」
「うん」
「でも」あかねはその犬をじっと、見た。「……なんか、いいね。この耳。揃ってないの。……わたし、こういうの描けないんだ。手が、勝手に揃えちゃうから」
彼女の目に何かが、灯った。
「わたし、わかんなかったの。描きたいものが」あかねは言った。「でも、いま、わかったかも。わたしが描きたいのは、たぶん、正解じゃない。この犬みたいな。……揃ってないけど、なんか、いいみたいな。うまいじゃなくて、いいみたいな。そういうの」
「R&Cは……」僕は聞いた。
「行かない」あかねは言った。「数を評価される場所に行ったら、わたし、また、正解しか描けなくなる。……わたし、下手な犬を描きたい。手が、勝手にうまく描こうとするのを必死で、こらえて。それって、たぶん、一番コスパ悪い。……でも、いい。それが、いい」
***
あかねは地下に戻ってきた。
権藤さんも動いた。
あかねが戻ってきた日、権藤さんは久しぶりに湧いてきた言葉を印刷した。何百もあった。彼はそれを全部、机に広げた。そして、赤鉛筆を持って一つずつ読んでいった。
「湧いた言葉は、俺のコピーじゃねえ」権藤さんは言った。「それは、変わらねえ。でもな、真嶋。この何百の中から、どれを選ぶか。それは、俺だ。俺が、選ぶ。……30年絞り出してきた、俺の腹の底が選ぶんだ。湧かせるのは蛇口でも、選ぶのは俺だ。選んで、その一行に責任を持つ。それなら、俺のコピーだ」
彼は何百の中から、一行を選んで、丸をつけた。それから、他の全部をくしゃくしゃに丸めて、捨てた。捨てるという、その行為に彼の腹の底が、あった。
ことねさんは線の使い方を変えた。
「わたし、ずっと、線を仕事の渋滞を避けるために使ってた」彼女は言った。「でも、それだと、隣の『もう一人のわたし』に勝てないの。だって、その子は『効率よく片方を捨てろ』って言うから。効率の話だと、その子が、正しくなっちゃう」
彼女は隣の椅子を見た。今は、誰もいないみたいだ。
「だから、決めたの。線を、両方通すために使う。仕事も、子どもも。どっちも詰まらせないために。……もちろん、無理な日はある。息子が、熱を出す日も。でも、『どっちかを犠牲にする』んじゃなくて、『今日はどっちを優先するか』を毎日選ぶ。……その子は、たぶん、消えない。ずっと、隣で囁く。でも、囁かせておく。わたしは、わたしで毎日選ぶ」
毎晩、選ぶ。毎日、選ぶ。
地下の五人が——袋田室長を入れて、五人が——また、揃った。
ホワイトボードの四倍という数字は、まだそこにあった。消されずに。
「達成しても、部署は潰れる」ことねさんが言った。「それは変わらない。真嶋くんとあかねは、R&Cに異動になる。わたしと権藤さんは、配置転換か退職勧奨。……それは、もう決まってる」
「わかってる」僕は言った。
「じゃあ、なんでやるの?」あかねが聞いた。「勝っても報われないのに。錆浜を獲っても、部署はなくなるのに」
僕は少し考えた。それから、答えた。
「四倍のためじゃない」僕は言った。「部署を守るためでもない。……僕は、錆浜の街の人たちに一度、本気で翻訳した言葉を届けたい。見透かしじゃなくて。迎合でもなくて。あの街の人が、言えずにいることを言える形にして、返したい。金属の味のしない、仕事を一つ。……最後に一つ」
「報われないのに」
「うん」僕は言った。「報われない。でも、やりたい」
あかねがふっと、笑った。
「コスパ最悪」彼女は言った。「……いいね。やろう」
***
その夜、僕らは錆浜に向かう、準備を始めた。
コンペまで、あと2週間。徹夜の夜が、また始まる。でも、今度の夜は少し違った。
僕はオフィスを出る前にスマホを開いた。妹の美緒へのLINE。半年、放っておいたメッセージ。
僕はまだ、返信はしなかった。でも、いつか返そうと思った。錆浜が、終わったら。あの頃の本気だった僕をもう一度、思い出せたら、そのときに。
まず、目の前の夜を越えることだった。
第9章 錆びた町
僕らは錆浜に行った。
東京から、電車を乗り継いで4時間。海沿いの小さな駅に降りると、潮の匂いと鉄の匂いがした。錆の匂いだった。町の名前の由来だった。かつて、造船で、栄えた町。港には、使われなくなった大きなクレーンが赤茶けて立っていた。錆びていた。
袋田室長の言葉を僕は思い出していた。「わしは、現場に一度も行かなかった」。だから、僕らは行った。
R&Cは、来ていなかった。あとで聞いた話では、白石は「現地調査は、非効率です。データで十分」と言ったらしい。彼らは東京の大理石のオフィスで、市場データと生成AIで錆浜のプロモーションを組み立てていた。
僕らは2日、町を歩いた。
最初は、うまくいかなかった。
商店街の金物屋の老主人には追い返された。「東京の広告屋が何しに来た」と。「どうせ、うちの町をダシにして、賞でも獲るんだろう。前にもいたよ、そういうのが。きれいごと並べて、金だけ持って帰った奴が」。彼はシャッターを半分下ろしかけた。
僕はその《声》を聞いた。とがった、拒絶の声の奥に別の声があった。《……本当は、誰かに話したいんだ。この町の昔を。でも、話したってどうせ笑われる。だから、先に追い返すんだ》。
僕はシャッターの下でしゃがんで、言った。「昔、この商店街、どんなだったんですか」
金物屋の老主人は、手を止めた。
それから彼は2時間話した。造船所が動いていた頃の商店街のにぎわいを。給料日には、工員たちがこの通りにあふれたこと。彼の店で、みんなが包丁を研ぎに来たこと。「あの頃はな」と、彼は何度も言った。追い返そうとした男が、追い返せなくなっていた。あかねがその皺だらけの手をスケッチした。うますぎないようにこらえながら。
僕らはそれから、たくさんの人に会った。
海辺の古い定食屋の店主。造船所の跡地で、犬を散歩させていた女性。彼女は一度、東京に出て、戻ってきた人だった。「なんで戻ったか、うまく言えないんですけど」と彼女は言った。その《声》は、こう言っていた。《都会もいいけど、わたしは、この町の時間の流れが好きだったのかもな》。
そして、袋田室長は、僕らとは別に一人で港に立っていた。あの赤茶けた、大きなクレーンの下に。ずっと、見上げていた。何時間も。僕が声をかけると、室長は言った。
「昔、わしが外したあの商店街にそっくりだ」室長は、クレーンを見上げたまま言った。「あのとき、わしは行かなかった。データだけ見て、『生まれ変わる街』と決めた。……いま、初めて、わかる。この錆の匂いを嗅がなきゃ、わからないことが、あったんだ。30年、遅かったがな」
彼はその日、宿で初めて犬ではない絵を描いた。このクレーンの絵を。
2日目の夕方には、町の人たちが僕らを覚えていた。「東京のへんな広告屋が来てる」と。金物屋の老主人が、他の店に僕らのことを話して回っていた。
町の人の口で言うことは、判で押したように同じだった。「この町は、もう、だめだ」「若い人がいない」「早く、なんとか生まれ変わらないと」。
でも、その《声》の奥は、違った。
海辺の定食屋の店主は、70を過ぎた老人だった。彼は口では、「こんな、寂れた町、見るとこないよ」と言った。でも、その《声》はこう言っていた。
《この店のカウンターは、造船所の廃材で作った。息子と二人で。息子は、東京に行っちまったが。……この錆びたクレーンを見ると、昔を思い出す。あのクレーンで、俺たちは船を造った。日本中に船を送り出した。……あの錆は、俺たちが働いた証なんだ。誰もそう思っちゃくれんが》
僕の胸があたたかくなった。花菱堂の女将のときと、同じ感覚だった。
この人たちは、「生まれ変わりたい」なんて思っていなかった。ただ、いまの錆びた自分たちの町を誰かに「これで、いい」と言ってほしかったのだ。錆は、恥ではなかった。錆は、この町が必死に働いてきた証だった。袋田室長の犬の揃わない耳と同じだった。うまくない。完璧じゃない。でも、そこに生きてきた証がある。
僕は翻訳を始めた。
彼らが言えずにいること。「この錆びた町のままで、いいんだ」。それを言える形にする。見透かしではなく。迎合でもなく。
権藤さんが湧いてくる言葉の中から選んだ。何百の候補を読んで、読んで、読んで、たった一行に丸をつけた。あかねが描いた。あの赤茶けた、クレーンを。彼女の手は、勝手にそれを美しく、完璧に描こうとした。でも、彼女はこらえた。錆のむらをいびつなまま残した。ぴかぴかにしなかった。袋田室長の犬の耳のように。
そして、袋田室長は——室長は現場を2日間まるまる歩いていたらしい——東京に帰ってから一枚の絵を描いた。犬ではなかった。錆びた、クレーンの絵だった。相変わらず、下手だった。でも、その下手さの中に何かあった。
***
コンペの前夜。
僕らは地下に泊まった。何度目の徹夜か、もう数えていなかった。2ヶ月半で、いくつの夜を越えてきたか。三十回か、五十回か。百回、と言っても大げさじゃない気がした。
あの完敗した、私鉄の仕事のことを僕は思い出していた。あのとき、僕は開発担当一人の本音を読んで勝った気になって、その隣の役員の壁に跳ね返された。一人の心をあたためるだけでは、組織は動かない。R&Cは、それを知っていた。
でも、錆浜は違うと思った。錆浜の審査には、市民代表がいる。この町の当事者が、決める側に座っている。僕がその人たちの言えない本音を本当に翻訳できたら——動かすのは、僕じゃない。その人たち自身が、自分の言葉として、この案を運んでくれる。一人の本音を翻訳することが、初めて組織を動かす力に変わるかもしれない。そこに賭けるしかなかった。
プレゼンの資料ができあがったのは、明け方だった。
あかねが最後の一枚を仕上げて、ペンを置いた。「コスパ、最悪」と言った。でも、その顔は笑っていた。権藤さんは選んだ一行を声に出して、読んだ。ことねさんは当日の段取りの線を確認して、「滞りなし、OK!」と言った。袋田室長は寝ていた。でも、その手のそばにクレーンの絵があった。
僕はその一行を見た。
金属の味はしなかった。舌の奥にあの潮と、鉄の匂いがあった。
***
コンペ、当日。
会場は、錆浜市の市役所の大会議室だった。ふつう、この手のプレゼンは一社ずつの非公開でやる。でも、錆浜市は「市民に開かれた選定」を掲げて、二社同席、市民傍聴ありの公開プレゼン形式にしていた。市長と市の幹部、市議、そして公募で選ばれた市民の代表が、審査員として並んでいた。プレゼンは、二社。R&Cが先、三クリが後だった。
R&Cのプレゼンは完璧だった。
鷹野が立った。仕立てのいいスーツ。よく通る声。彼がスクリーンに映し出したのは、洗練された都会的な錆浜の未来像だった。おしゃれなカフェ。リノベーションされた、造船所跡。移住してくる、若い家族。BGMまで、ついていた。
コンセプトはこうだった。
『生まれ変わる、街。SABIHAMA、リボーン。』
錆を消していた。赤茶けたクレーンは、CGでぴかぴかに塗り直されていた。あるいは撤去されて、モダンなモニュメントになっていた。データが、次々と、示された。移住者の増加予測。経済効果の試算。白石の生成AIがはじき出した何百案の中から選ばれた、一番外さない、一番当たる案だった。
完璧だった。
審査員の市の幹部たちはうなずいていた。数字が彼らを安心させた。「生まれ変わる」という言葉が、彼らの一番、聞きたい言葉だった。
でも、僕は市民代表の席を見ていた。
その中にあの定食屋の老人がいた。市民代表として選ばれていたのだ。彼はうなずいていなかった。彼の《声》が聞こえた。《ぴかぴかのクレーン。……あれはもう、俺たちのクレーンじゃない》。
鷹野のプレゼンが、終わった。拍手が起きた。大きな拍手だった。
鷹野が席に戻るとき、僕は彼の《声》を聞いた。
《完璧だ。外してない。……なのになんで、この胸のざらつきはなんだ》
彼は自分の細い声に気づきかけていた。でも、蓋をした。《いや。これで、いい。間違えてない。城戸本部長も満足だ。これで、いい》。
僕らの番だった。
僕が立った。あかねがスクリーンの操作を。権藤さんとことねさんが脇に。袋田室長は、来ていた。一番後ろの席で寝ているように見えた。でも、起きていたかもしれない。
僕はスクリーンにあかねの描いた絵を映した。
赤茶けた、クレーンだった。錆びたまま、むらのある、いびつな錆のまま。ぴかぴかにはしていなかった。
会場が、少しざわついた。R&Cのあの完璧なCGを見たあとだ。僕らの絵は、地味で古くさく見えたかもしれない。白石が口の端で、笑ったのが見えた。《なんだ、これ。錆をそのまま? センスないな。……いや、待て。この絵のうまさ。手描き?》。
僕は話し始めた。原稿は見なかった。2日間歩いた、錆浜の町の人の言葉だけがあった。
「僕らは、2日間、この町を歩きました」僕は言った。「そして、町のたくさんの人に話を聞きました。皆さん、口では『早く生まれ変わりたい』とおっしゃいました」
僕は定食屋の老人を見た。
「でも、皆さんの言葉の奥に、僕は別の声を聞いた気がしました。うまく、言葉にできない、声を。……それは、たぶん、こういう声でした。『この錆びた町のままで、誇りを持ちたい』」
老人の目が、動いた。
「このクレーンの錆は」僕はスクリーンを指した。「恥じゃないと思うんです。これは、この町が日本中に船を送り出してきた証です。必死に働いてきた、手のまめやたこと同じです。それをぴかぴかに塗り直すのは、この町の一番大事な時間をなかったことにするのと同じだと、僕は思いました」
会場が、静かになった。
僕は権藤さんが選んだ、一行をスクリーンに映した。
『錆びるほど、働いてきた。この町をまだ、続けたい。』
それは「生まれ変わる」の対極だった。生まれ変わらなくて、いい。いまのままで、いい。ただ、続けたい。錆びたまま、続けたい。
僕は続けた。
「僕らの部署に犬の絵を毎日、描く人がいます」僕は袋田室長を見なかった。でも、彼のことを話した。「その犬は、いつも下手で、耳の大きさが左右で違います。何年描いても、うまくなりません。うまくならないように描いてるからです。うまい絵は、迷ってない、揺れてない絵で、それは生きてない絵だからだそうです」
僕はあかねの描いた、いびつな錆のクレーンを指した。
「僕らは、この町をうまく描きませんでした。ぴかぴかにしませんでした。錆を揺れをいびつさを残しました。それが、生きてるってことだと思うからです。……この町は、生まれ変わらなくて、いい。錆びたまま、続いていい。僕らは、そういう、キャンペーンを作りたい」
僕が話し終えたとき。
その老人が、泣いていた。声を立てずに。市民代表の席で。
彼の《声》が、聞こえた。《ああ。……そうだ。俺は、これが、言いたかったんだ。ずっと。言えなかったんだ。この人は、俺の言えなかったことを言ってくれた》。
舌の奥に金属の味は、しなかった。あたたかい、潮の味がした。
ただ、そのあたたかさの一番底に、冷たいものが一滴あった。この人は、僕が覗いたことを知らない。知らないまま言ってくれた、と泣いている。翻訳は、覗きの上に成り立っている。その一滴は、飲み込むしかなかった。これから先も、たぶん甘くはならない。
でも、勝負はそこで終わらなかった。
R&Cの黒岩が手を挙げた。寡黙な、市場分析屋。彼は静かに言った。
「感動的なお話ですが」黒岩は、資料を示した。「情緒に訴えるだけでは、移住者は増えません。『錆びたまま』では、若い世代は来ないのでは?」
彼の言うことは正しかった。冷たく、正しかった。会場の市の幹部たちが、またうなずいた。数字の話に戻ると、彼らは安心するのだ。
僕は黒岩の《声》を聞いた。
《いい絵だ》
一瞬だけ、そう聞こえた。次の瞬間には、《でも、提案として、根拠がないな》という事務的な声が、それを上書きした。上書きの速さに、長年の癖を感じた。
彼が何を抱えて「外さない」の一点に立てこもっているのか、そこから先は聞こえなかった。ただ、あとで会場を出るとき、廊下で黒岩が手帳を開いていた。表紙の裏に、小さな家族写真が挟んであるのが見えた。
僕は黒岩に反論しようとした。
でも、そのとき。
立ち上がったのは、僕ではなかった。
白石だった。
鷹野が隣で、白石の袖を掴むのが見えた。よせ、という形に口が動いた。白石はその手を振りほどいた。
白石が立ち上がって、僕を指さして言った。
「その前に一つ、確認したいことが、あります」白石の声は、鋭かった。「第三クリエイティブ室。あなたたちのこの2ヶ月の仕事の速さと質は、異常です。半年前までなんの実績もなかった。それが突然、これだけの量と質を出している。……何か、不正をしているのではないですか?盗用や無断利用とか。この絵も」
会場がざわついた。司会の市の職員が慌ててマイクを取り、「ご発言は、審査員の方からのみで」と制した。白石は引かなかった。彼は僕らの「からくり」を公の場で暴こうとしていた。もちろん、彼に真実はわからない。でも、疑いを投げるだけで僕らの信用は崩れる。狡猾な一手だった。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
人の本音が聞こえる。手が勝手に動く。言葉が湧く。線が見える。それをどう説明する。説明できない。説明したら、狂人だ。
あかねが僕の袖を引いた。彼女は小声で、言った。
「真嶋さん。実演、しよう」
「え?」
「わたし、今ここで描く」あかねは言った。「この会場を。この審査員の皆さんを、手描きで。……速さが疑わしいなら、見せればいい。コスパは、最悪だけど」
あかねは前に出た。イーゼルと紙を借りて、ペンを持った。そして、その場で描き始めた。会場の風景を。並んだ審査員を。窓から見える、あの赤茶けた、クレーンを。
彼女の手が、動いた。速く。迷いなく。
でも、あかねは途中で手を止めた。そして、あの定食屋の老人の顔を描くときは、わざとゆっくり描いた。老人の目尻の皺を。少し、いびつに。うまく、揃えずに。彼女は勝手にうまく描こうとする自分の手を必死でこらえながら、老人の顔を「うまく」ではなく「その人らしく」描いた。
10分後、絵ができあがった。
会場から、ため息が漏れた。それは写真より、生きた絵だった。誰の目にも、それが人間の手でその場で描かれたものだとわかった。生成AIには出せない、あのためらいの線があった。
白石は黙った。
彼の《声》が、聞こえた。《……手描きだ。本物だ。くそ……こんな、速さで、こんな絵を?そんなの認められるか……》。
でも、その白石の蓋の隙間から、もう一つ細い声が漏れた。《……画板》。たった一語だった。何のことか、僕にはわからなかった。ただ、その一語は、彼のどの言葉よりもなつかしそうに響いた。
白石にも、何かあったのだ。数だけを信じる男の底に、彼自身が蓋をしてきた何かが。
会場が、揺れていた。数字の安心と、あの老人の涙と、あかねの実演の生々しさのあいだで。
そして、僕は鷹野を見た。
鷹野は青い顔をしていた。彼の《声》が乱れていた。《これは……まずい。負けるかもしれない。城戸本部長が。……いや。俺の案は、外してないはず。完璧だ。……なのになんで、あの錆びたクレーンの絵が——》
声が、ふつりと切れた。蓋の閉まる気配がした。それから、閉めそこねた隙間から、一語だけ漏れた。
《……消しゴム》
僕にしか、わからない一語だった。
鷹野の目が、僕を見た。
9年前の四畳半の夜が、二人のあいだにあった。
審査は、その日決まらなかった。市長は、「持ち帰って、検討する」と言った。数字を信じる幹部と、あの絵に心を動かされた市民代表のあいだで意見が割れていた。決着は、翌週に持ち越された。
***
僕らは地下に帰った。
勝ったのか、負けたのか、わからなかった。でも、僕は一つだけ、知っていた。舌の奥に金属の味はしなかった。2日間歩いたあの町の、潮と鉄の匂いがしていた。
その夜、鷹野からメッセージが来た。一行だけだった。
《あの一行、まだ、覚えてたのか》
僕は返した。
《お前が、書いたんだ。忘れられるかよ》
既読はついた。返事は、こなかった。
第10章 消しゴムの一行
結果が出たのは、1週間後だった。
錆浜市は、三クリの案を選んだ。
市民代表のあの老人が審査で粘ったのだと、あとで聞いた。「数字は、R&Cかもしれない。でも、俺たちの町を俺たちのまま続けさせてくれるのは、こっちだ」と。市長が、最後はその声を取った。
勝った。R&Cに、鷹野に。
その報せを地下で聞いたとき、あかねが「勝った……」とつぶやいて、それからなぜか泣いた。権藤さんがふん、と鼻を鳴らして、目元を拭った。ことねさんが両手で、口を押さえた。袋田室長は寝ていた。でも、その日の犬は、しっぽがぴんと立っていた。
錆浜の大型案件を獲ったことで、三クリの数字は、四倍に届いた。ぎりぎり届いた。
でも。
廃止は、覆らなかった。
沼田さんが、地下に降りてきて、事務的に告げた。「4倍の達成は、認めます。ですが、組織再編は予定どおり実行します」と。
僕はあの内部資料のことを言わなかった。言っても、無駄だと、知っていた。四倍は、最初から建前だった。達成してもしなくても、結末は同じ。彼らはそれを隠しもしなかった。
「フェアじゃないですね」ことねさんが言った。
「フェアだと、言った覚えはありません」沼田さんは、答えた。「達成できれば、残る可能性がある、と言っただけです。可能性は、検討した結果、なくなりました。それだけです」
言った。あの日、この部屋で、「フェアな条件だと考えています」と確かに言った。僕はそれを口にしなかった。この人は、自分の言葉を覚えていないんじゃない。覚えておく必要がないのだ。強い側は、いつでも言い直せる。
それだけです。彼はまたそう言った。
僕は不思議と、腹が立たなかった。
四倍のために、やったんじゃなかったからだ。部署を守るためでも、なかった。僕は錆浜のあの老人の言えなかった言葉を言える形にして、返したかった。それはできた。それでよかった。
***
三クリは、なくなった。
五人は、散った。
あかねは会社を辞めた。フリーランスになった。「もう、数を評価される場所には行かない」と。彼女は描きたいものを見つけていた。うまい絵じゃない。いびつで、揺れてて、でも生きてる絵。「コスパ、最悪の道を選ぶ」と彼女は笑った。時々、袋田室長の犬の絵を真似して、下手な犬を描いているらしい。手が、勝手にうまく描こうとするのを、必死でこらえながら。
権藤さんは退職した。定年を待たずに。彼は湧いてくる言葉を、まだ抱えていた。でも、その中から一つを選んで責任を持つということを覚えていた。彼が最後に僕に言った言葉を覚えている。「真嶋。俺は、これから孫に会いに行く。3歳の。会ったこともねえ。……娘に何を言えばいいか、まだわからねえ。言葉はいくらでも湧くのに。でも、湧いた言葉を渡すんじゃねえ。俺が絞り出した、言葉を渡すんだ。下手でもいい。それが、俺の言葉だ」
ことねさんは配置転換で、別の部署に移った。彼女は線を見る力をまだ持っていた。隣の椅子の「もう一人のわたし」も、まだいた。でも、彼女は毎日、選んでいた。「今日は、どっちを優先するか」を。両立できるかどうか、なんて答えは出なかった。ただ、毎日選び続けることで、彼女はその問いと一緒に生きていく道を見つけていた。
袋田室長は——どうなったのか、はっきりとはわからない。早期退職したという話も、どこかの地方の小さな代理店に移ったという話も聞いた。ただ、彼は去り際に僕に引き出しいっぱいの犬の絵をくれた。「お前が持っとけ」と。「うまくなるなよ」と。
そして、僕だった。
僕には、R&Cへの異動辞令が出た。あの内部資料のとおりに。
鷹野のいる部署。地上の一番、光の当たる場所。
***
異動の初日の前夜。僕は、誰もいなくなった地下に一人でいた。切れかけた蛍光灯が、ジジッと鳴っていた。ホワイトボードには、まだ四倍という数字が残っていた。僕はそれを指でなぞって、それから消した。ゆっくりと。
R&Cに行くべきか、僕はまだ迷っていた。
鷹野の望むように。「楽な場所で、その才能を使え」と。地下で消耗するな、と。
でも、それはたぶん、「迷わなくていい場所」に行くことだった。正解が、出る場所。外さない場所。ぴかぴかの場所。袋田室長の言う、「もう揺れていない」場所。
僕は迷っていた。迷っている、ということ自体がたぶん答えの一部だった。
***
異動の初日。
僕は地上の大理石のフロアに上がった。R&Cのオフィスは、広くて、明るくて、静かだった。誰もが、隙のない仕事をしていた。
鷹野のデスクに僕は行った。
鷹野はいなかった。会議中だった。
僕は鞄から、一枚の紙を出した。錆浜のあのいびつな錆のクレーンの絵。あかねが描いた、うますぎないようにこらえて描いた、あの絵だった。その裏に僕は一行だけ書いた。9年前のあの一行を。
『間違えても、いい。』
僕はそれを鷹野のデスクの上に置いた。
拾うかどうかは、鷹野の問題だった。彼がそれをゴミだと思って、捨てるかもしれない。あるいは、引き出しにしまうかもしれない。あるいは、それを見て、何かを思い出すかもしれない。それは僕には、どうにもできないことだった。僕にできるのは、それをそこに置くことだけだった。
彼の心の声を聞いて、その本音に合わせて何かを言うこともできた。彼が一番、言われたい言葉を選んで渡すことも。でも、それはしなかった。それは迎合だ。金属の味のする使い方だ。僕はただ、9年前の彼自身の言葉を彼に返した。あとは、彼が選ぶことだった。
僕はその足で、R&Cのフロアを出た。
異動を断ろうと思った。
R&Cで、コピーを書くこともできた。うまく、書けるだろう。外さずに。でも、僕は迷う場所にいたかった。金属の味を毎回、確かめられる場所に。花菱堂の女将や、錆浜の老人みたいな人の言えない言葉を翻訳できる場所に。それがどこなのか、まだわからなかった。でも、R&Cではない気がした。
どこに行くのか決めていなかった。無職になるかもしれなかった。それでも、よかった。
***
その夜、僕はスマホを開いた。
妹の美緒へのLINE。半年放っておいたメッセージ。《お兄ちゃん、久しぶり。今度、会えない?》。
僕は返信を打った。長い時間かけて。何度も消して、書き直した。人の本音が聞こえる力を持っているのに、一番聞かなきゃいけない妹の本音から、僕は半年も逃げてきた。
打ったのは、短い一行だった。
《遅くなって、ごめん。会おう。話したいことが、たくさんある》
送信した。
既読がついた。すぐに返事が来た。
《やっと返事きた。心配したんだからね。……お兄ちゃん、なんかあった?》
僕は少し、笑った。あった。いろいろ、あった。話せば長い。3ヶ月分の長い夜の話がある。
力は消えなかった。人の本音は、今も聞こえる。それはこれからも、消えないだろう。呪いにも、祝福にもなる力。翻訳にも、見透かしにもなる力。胸をあたたかくもし、舌に金属の味も残す力。
どっちに使うか。
それは一度決めたら終わりじゃない。毎晩、決めるんだ。毎晩、選ぶ。今日は、翻訳する。今日は、迷う。今日は、間違えることを選ぶ。明日は、また、わからない。また、金属の味のする方へ行きかけるかもしれない。そのたびに選び直す。
そういう夜が、これからいくつも来る。数えきれないほど。
でも、もう僕は「まあ、こんなもんか」とは言わなかった。
エピローグ
1年が過ぎた。
僕は、小さな事務所を開いた。コピーライターの一人事務所。看板もない。仕事は大きくない。町のパン屋。畳屋。潰れかけた銭湯。花菱堂の女将が紹介してくれる、そういう仕事ばかりだ。数字は、三クリにいた頃よりずっと小さい。四倍どころか、四分の一かもしれない。コスパは、最悪だ。
でも、僕は毎日、迷いながら書いている。
人の本音は、今も聞こえる。打ち合わせに行くと、相手の言えない言葉が、流れ込んでくる。僕はそれを迎合の餌にはしないようにしている。できない日もある。金属の味が舌に戻る日も。そういう日は、その夜、自分を少し叱る。そして、次の日、また選び直す。
錆浜のキャンペーンは始まっている。案件は、あの内部資料のとおり、R&Cが引き継いだ。部署は消えても、市と契約したのは会社だからだ。皮肉なことに、彼らは自分たちが負けた案を——「生まれ変わる」の正反対の案を—— 勝った形のまま実施している。あのいびつな錆のクレーンが、ポスターになって駅に貼られている。あかねのところには、いまも錆浜から絵の注文が届くらしい。移住者が劇的に増えたわけじゃない。でも、あの定食屋の老人が手紙をくれた。「この町に住んでていいんだと、初めて思えた」と。それで、いいと思う。
あかねとは、時々、仕事をする。彼女は相変わらず「コスパ最悪」と言いながら、いびつで生きてる絵を描いている。権藤さんは、孫と会えたらしい。年賀状に下手な字で、「一行、渡してきた」とあった。ことねさんとは、たまに飲む。彼女の隣には、まだ「もう一人のわたし」がいるらしい。でも、「共存できてる」と笑っていた。
袋田室長からは、一度だけ絵葉書が来た。消印は、遠い地方の町だった。犬の絵が描いてあった。相変わらず、下手だった。耳の大きさが、左右で違った。でも、前より少しだけ、しっぽがうれしそうに見えた。文面は、なかった。ただ、その犬だけ。それで十分だった。
鷹野とは、あれから会っていない。
彼があの消しゴムの一行を拾ったのか、捨てたのか、僕は知らない。噂では、R&Cを辞めたとも、まだいるとも聞く。ある日、賞のニュースで、彼の名前を見なくなった。それが何を意味するのか、僕にはわからない。ただ、いつかどこかで、彼がまた「間違えても、いい」と書ける日が来ればいい、と思う。それは彼の問題だ。僕が決めることじゃない。
***
昨日の夜も、僕は事務所で一行をうんうんうなって書いていた。銭湯のコピーだった。湧いてくる、便利な言葉じゃない。絞り出す、下手な一行だ。窓の外が白んでくる頃、やっと一行書けた。うまくはなかった。でも、僕の腹の底が入っていた。
こういう夜をこれまで、いくつ越えてきただろう。地下の夜。雷の夜。徹夜の夜。負けた夜。燃えた夜。一番、暗かった、あの夜。そして、これからいくつ越えるんだろう。
数えても、仕方がない。
ただ、また朝が来る。
僕は机の上の袋田室長の下手な犬を一枚手に取って、その大きいほうの耳を指でなぞった。
そして、新しい紙を一枚出した。
まだ、迷っている。まだ、揺れている。まだ、間違える。
まだ、生きている。
(了)