メインコンテンツへスキップ
見出し画像

小説 『あの人の顔をした、その男』

    <あらすじ>
    バルセロナ暮らし6年、通訳兼なんでも屋のシオリは、人の顔が憶えられない。代わりに足音や声、匂いで人を見分けて生きてきた。

    ある日、日本から来た美術鑑定士・相馬から「明日の朝まで」と小さな包みを預かる。しかし、翌朝 待ち合わせに現れたのは、相馬の顔をした別人だった。声も、匂いも、利き手も違う

    その後、本物の相馬は海で遺体となって見つかる。事故として処理される中、嘘に気づけたのは顔を見ない彼女ただ一人。誰にも信じてもらえない真実を証明するため、シオリは贋作の闇と火祭りの夜を駆け抜ける。

    第1章 人を憶える

    バルセロナに来て6年、わたしはこの街の誰の顔も憶えていない。

    それでも、そんなに困らずに生きてきた。顔が分からなくても、その人をその人だと見分ける目印は、ほかにいくらでもあるからだ。歩き方、声の湿り気、指先の癖、そしてまとっている匂い。

    むしろ、そっちのほうが正直だとさえ思う。顔は着替えられる。笑顔をつくり、神妙な表情をつくり、人は毎日、顔を服みたいに着替えて生きている。

    でも、歩き方や匂いは着替えられない。本人も知らないうちに、体に染みついてしまったものだから。

    だからその夕方、ボルン地区の細い路地で、こちらに手を振ってくる男をわたしは見事に取り違えた。相馬さんだと思い込んだのだ。夜に会う約束があったし、この街の雑踏の中でわたしに手を振ってくる男の人など、ほかに思い当たらなかったから。

    わたしは手を振り返して、二、三歩、歩み寄った。そこで足が止まった。

    靴が違う。明るい黄色のスニーカー。相馬さんはいつも革靴だ。近づいたぶんだけ、ライムみたいな香りもした。相馬さんは古い本のような乾いた紙の匂いの人だ。——別人だ。

    「ごめんなさい、人違い」

    わたしが日本語のまま言うと、男は怪訝そうに肩をすくめ、わたしの脇をすり抜けて、後ろにいた女を抱きしめた。手を振っていた相手は、最初からわたしではなかった。振り返してしまった右手が行き場をなくして、髪を触るふりをした。

    顔が見えないというのは、そういうことだ。世界が半分、名札を外して歩いている。

    サンタ・マリア・ダル・マル教会の鐘が、夕方の6時を打った。石畳に西日が斜めに差して、路地の片側だけが蜂蜜色に染まる。

    画像

    9月のバルセロナは、昼はまだ夏の名残で肩を焼くのに、日が傾くと海からの風がふっと涼しくなる。パン屋の前を通ると、まだオーブンの熱が残っていて、焦げたクラストの匂いが喉の奥に届いた。

    わたしは心の中で人にあだ名をつける。顔で憶えられないぶん、そうしないと誰が誰だか分からなくなるからだ。

    角のバルの主人は「潰れた左耳」、いつも花を売っている女は「ラベンダー」、郵便局の窓口の男は「引きずる右足」。失礼だとは思う。でも、そのおかげでわたしはこの街の人たちを、たぶん誰よりも細かく見ている。

    わたしの朝は、いつも同じだ。

    下宿の急な階段を降りると、一階の踊り場で、大家のモンセが水を撒いている。80歳。この建物より、たぶん少しだけ若い。彼女は毎朝、玄関前の石畳をホースで水浸しにする。

    「石が乾くと、街が乾く」というのが彼女の理屈だ。わたしを見ると、必ず同じことを言う。「シオリ、髪。鳥の巣みたいだよ」。わたしは必ず同じことを返す。「バルセロナの鳥は、おしゃれなの」。それで二人で笑う。6年間、ほとんど同じ台詞で。

    モンセは、わたしが顔を憶えられないことを知っている。この街でそれを知っている数少ない一人だ。知っていて、気にしない。「あたしなんか、名前も憶えられないよ」と彼女は言う。

    「あんたは顔、あたしは名前。足して二で割れば、ちょうどいい人間が一人できる」。彼女はわたしにとって、この物語のどこにも関係のない、ただの朝のあたたかい石畳の匂いだ。それでいい。

    この街には、事件と関係のない人がちゃんといてくれないと、息ができない。

    角のバル、「潰れた左耳」の店で、わたしはコルタードと砂糖をまぶした揚げパンを立ったまま食べる。カウンターには、いつもの常連が三人。「咳の男」、「新聞をめくる音」、「安いコロンの若いの」。

    誰一人、顔は憶えていない。でも、咳の音も、新聞のめくり方も、コロンの安っぽい甘さも、全部わたしの中に名札つきで並んでいる。彼らがおはようと言えば、わたしは声で誰かを当てる。たいてい外さない。

    これが、わたしのバルセロナだ。顔のない街。けれど、匂いと音と足音で、隅々まで名札のついた街。日本にいた頃、わたしはこの見え方を隠して、恥じて、いつか誰かに見つかることに怯えて生きていた。

    この街に来て、やっと息ができるようになった。外国人が人の顔を憶えられないのは、この街ではただの「外国人」だ。誰も責めない。

    相馬さんに会ったのは、その3日前だった。

    日本から来た美術鑑定士だという。年は55くらい。声が低くて、鼻が詰まって、革靴で、乾いた紙の匂い。わたしにとって彼は「紙の匂いのする低い声」だった。

    バルセロナで通訳とちょっとした案内をしてほしい、というのが依頼だった。この街には、わたしみたいな日本人の「なんでも屋」を必要とする人がときどきいる。

    観光では行けない場所へ行きたい人、言葉の裏側まで訳してほしい人。

    そして、路地で人違いをしたその夜、わたしたちはボルンの奥にある小さなボデガで向かい合っていた。3日間の案内の締めくくりのつもりだった。

    天井から生ハムの原木がぶら下がり、樽から注がれた赤いベルモットの表面で、オレンジの薄切りとオリーブがゆっくり回っていた。壁の漆喰は煙草の時代の色に灼けている。

    テーブルは4つしかなくて、そのうち3つが埋まっていた。

    「明日の午前、ある人と会います」相馬さんは右手でグラスを回しながら言った。氷が硬い音を立てた。「締めくくりの鑑定でね。100年前のこの街の職人が焼いたものだと、先方は言っている。——鑑定用にと、先方が本体から割り取った欠片を一枚、先に預かっているんです。手元で調べられることは、もう調べ終えました」

    「本物かどうかを、確かめに?」

    「本物かどうかなんて、簡単なことなんですよ」彼はそこで初めて、少しだけ笑った。笑うと、鼻の詰まりがほどけて、声が若返った。「完璧な複製は、必ず正体を現す。たった一つの傷で」

    「傷?」

    「本物には、作った人間が意図しなかった歪みがある。指のわずかな迷い、窯の気まぐれ。偽物を作る人間はそれを消そうとする。あるいは——」彼はグラスをテーブルに置いた。

    「わざと、たった一つだけ、自分にしか分からない傷を入れる。署名の代わりに。神様のふりをするのが嫌いな職人ほど、そうする」

    わたしはよく分からないまま、うなずいた。ベルモットが舌の上で、苦さと甘さのあいだをぐらぐらと揺れた。

    「シオリさんは」相馬さんはふと声の調子を変えた。仕事の顔から、少しだけ素の顔に。「なぜ、この街に?」

    「顔が、憶えられないんです」わたしは正直に言った。なぜだか、この人には言ってもいい気がした。「日本では、それがずっと恥ずかしかった。でも、ここではただの外国人で済む。誰も責めない」

    相馬さんはしばらく黙っていた。それから、グラスの中で回るオレンジを見ながらぽつりと言った。

    「うらやましいな。わたしなんか、この歳まで贋物と本物を見分ける目だけで生きてきた。おかげで、人の顔色ばかりうかがうようになってしまった。——本当は、あなたみたいに顔なんか見ないで生きられたら、どんなに楽か」

    わたしは、その言葉の底にあるものをうまく掴めなかった。ただ、彼の声から鼻の詰まりがふっとほどけていた。疲れた人の、素の声だった。

    もっと何か訊いておけばよかった、とあとになって何度も思った。けれど、そのときのわたしはただ、ベルモットの苦さを舌の上で転がしていただけだった。

    会計のカードを右手で差し出したあと、相馬さんは上着の内側から、掌に載るくらいの小さな包みを取り出した。薄い麻布に包まれて、細い麻紐で結んである。彼はそれをテーブルの上を滑らせて、わたしのほうへ押した。

    「これを、明日の朝まで預かってもらえませんか」

    「なんですか、これ」

    「開けないでください」彼の声が、急に紙みたいに乾いた。

    「明日、無事に取引が終わったら、返してもらう。——ここ数日、妙な男に見られていましてね。わたしの歩き方や手の癖を、写し取るような目で。もし——」そこで彼は言葉を切って、店の入り口のほうへほんの一瞬だけ目をやった。

    「もし明日、わたしが少しでも『いつもと違う』と感じたら、それは相馬じゃない。そう思ってください」

    冗談にしては、笑いがなかった。わたしは包みを鞄の底へ入れた。硬くて、ずしりと重い。陶器のかけらのような感触だった。

    店を出ると、路地はもう藍色に沈んでいた。相馬さんは片手を上げて、パセイジ・ダル・ボルンの雑踏のほうへ歩いていった。革靴が石畳を打つ、規則正しい音。乾いた紙の匂いが、夜風にほどけていく。

    そのとき、わたしは気づいた。

    教会の壁の影から、もう一人ぶんの足音が相馬さんの後ろに重なった。革靴ではない。ゴム底のスニーカーが、地面を撫でるように歩く音。歩幅がわずかに不揃いで、左足に力がこもると、右足がほんの少しだけ遅れる。

    古い怪我のある人の歩き方だ。そして風下に立ったわたしの鼻に、その男の匂いが届いた。安い黒煙草の、焦げたような匂い。

    相馬さんは煙草を吸わない。乾いた紙の匂いに、煙草は混じっていなかった。

    わたしは影の男の顔を見た。でも、それはいつものように、わたしの中で像を結ばずにほどけていった。憶えられたのは、匂いと、足音と、遅れる右足だけだった。

    二つの足音は、藍色の路地の奥で一つになり、やがて雑踏に溶けて聞こえなくなった。

    わたしは鞄の底の、重い包みに手を当てた。理由もなく、心臓が石畳を打つ革靴のように、規則正しく速くなっていた。


    第2章 同じ顔、違う男

    翌朝、9時2分。相馬さんから短いメッセージが届いた。

    『プラサ・ダル・ボルンのカフェにいます。テラス席。すみませんが、少し早めに来てもらえますか』

    わたしは寝癖のついた髪をゴムでまとめ、昨日と同じ黒いスニーカーを履いて部屋を出た。鞄の底には、まだ包みが入っていた。夜のあいだ、何度も手を伸ばしては、開けるのをやめた。

    開けないでください、という彼の声が、乾いた紙みたいに耳に残っていたからだ。

    朝のボルンは、夜とは別の街になる。清掃車が石畳を濡らしていって、その湿った石の匂いに、パン屋のバターと、誰かの淹れたてのコーヒーが重なる。

    八百屋がオレンジの木箱を歩道に積み上げ、その山のてっぺんで、朝日が果実の一つひとつを小さなランプみたいに光らせていた。カタルーニャ語の「ボン・ディア」が、あちこちで挨拶の玉突きみたいに転がっていく。

    広場のカフェのテラスに、その人はいた。

    わたしのために片手を上げた。革のジャケット。テーブルの上には、飲みかけのカフェ・アメリカーノ。周りの誰から見ても、それはきっと、昨日わたしが会った日本人の鑑定士だった。

    ウェイターは彼に向かって親しげに「もう一杯?」と訊いた。彼はうなずいた。世界じゅうが、その顔を相馬だと認めていた。

    わたしだけが、椅子に座る前に足を止めていた。

    理由は、頭より先に皮膚が知っていた。うなじの産毛がすっと逆立った。喉の奥が、飲み込む前の水みたいにきゅっと締まった。何かがおかしい、と胃のあたりが言っていて、頭はまだその理由を言葉にできずにいた。

    匂いだ、と気づいたのは、風がわたしのほうへ向いた瞬間だった。

    甘ったるい整髪料の匂い。つけ慣れていない、油みたいな甘さ。相馬さんの、あの乾いた紙の匂いは、どこにもなかった。

    「座って」男は言った。声。相馬さんの声は低くて、鼻の奥が詰まっていた。目の前の声は、低さを真似てはいたけれど、鼻が通っていた。風邪の治った翌朝みたいに、すっきりと通っていた。

    わたしは座った。座るしかなかった。心臓が、また昨日の路地の革靴になっていた。

    「昨日は、ありがとう」男はカップを持ち上げた。左手で。相馬さんは、ベルモットのグラスを右手で回していた。会計のカードも、右手で出していた。

    わたしは、この人を知らなかった。

    声が違う。匂いが違う。カップを持つ手が違う。顔だけが、相馬さんだった。顔だけが。見ず知らずの誰かが、相馬さんの顔を面のように着けて、わたしの前に座っている。中身は、まったくの別人だった。

    心臓がひとつ、大きく跳ねた。それから、妙に静かになった。恐怖がある一線を越えると、体はかえって冷たく落ち着く。血が、指先からすうっと引いていくのが分かった。

    テーブルの下で、わたしは両手を膝の上で握りしめた。爪が掌に食い込んだ。その痛みだけが、いま、ここが現実だと教えてくれた。

    昨日の夜、相馬さんは店の入り口を一瞬だけ見た。あのとき、彼はもう知っていたのだ。自分が追われていることを。そして、自分の顔が盗まれることを。

    そして目の前のこの男は、あの夜の影とも別人だった。影は安い黒煙草の匂いをさせていた。目の前の男から漂うのは、甘い整髪料だけ。敵は一人ではない。顔を盗む男と、影を踏む男。少なくとも、二人。

    「もし明日、いつもと違うと感じたら、それは相馬じゃない」——彼の言葉が、氷みたいに耳の奥でよみがえった。

    「体調、悪いんですか」わたしは自分の声が震えないよう、腹に力を入れて訊いた。「声が、昨日と違う」

    男の動きが、コンマ一秒止まった。カップの縁が、下唇に触れる寸前で。

    「乾燥かな」彼は笑った。「この街は、夜になると喉に来る」

    嘘だ、とわたしの皮膚が言った。でも、頭はまだそれを認めたがっていなかった。だって、そんなことがあるはずがない。顔が同じで、名前が同じで、待ち合わせの場所を知っていて、昨日のことを憶えていて。

    それでも別人だなんて、そんな判断を、顔の見えないわたしがしていいはずがない。

    「あの、預かったもの」男は声を落とした。テラスの喧騒に紛れさせるように、ごく自然に。「あれを、返してもらえますか。今日、必要なんだ」

    そこで、わたしの中の何かが完全に決まった。

    相馬さんは、こうなることを知っていた。自分の顔をした誰かが、この包みを取りに来ることを。だから、顔を見ない人間に預けたのだ。顔が同じでも、中身の別人を見抜ける人間に。

    そして、それを見抜けるのは、この街でたぶんわたしだけだった。

    「家に置いてきちゃって」わたしは、できるだけ間の抜けた声を出した。相貌失認のなんでも屋は、ちょっと抜けているくらいがちょうどいい。みんな、そう思っている。

    「昨日、大事なものだって言うから、鍵のかかる引き出しに入れたんです。取ってきますね。1時間くれます?」

    男の目が——たぶん、目が——わたしを測っていた。わたしには彼の表情が読めない。それが今だけは、ありがたかった。相手の顔色をうかがえない人間は、顔色で怯まない。

    「一緒に行こう」彼は言った。それは提案ではなかった。左手が、もうテーブルに小銭を置いていた。

    「だめ」わたしは笑った。「うち、散らかってて。男の人を上げると、大家のモンセに一週間説教されるの。この街のアビア(おばあちゃん)、怖いんだから」

    嘘の中に、本当の名前を混ぜた。モンセは実在する。本物の、うちの大家だ。嘘は、本当のかけらを一つ入れておくと、途端に本物らしくなる。相馬さんの言った、贋作の職人みたいに。

    わたしは立ち上がった。膝が、笑いそうになるのをこらえた。

    「1時間後、サンタ・カテリーナ市場の前で」わたしは言って、鞄を肩にかけた。中の包みが、脇腹に硬く当たった。「じゃあ」

    背を向けて歩き出す。テラスを抜けて、広場を横切って、路地へ。振り返らない。振り返れば、走り出したくなる。走り出せば、追われる。

    路地に入って、角を二つ曲がって、市場の裏の搬入口に飛び込んでから、わたしはやっと壁に背中をつけた。魚の氷の匂いと、潰れたトマトの酸っぱい匂いが、いっぺんに鼻に押し寄せた。手が震えていた。

    相馬さんは、どこにいるんだろう。

    自分の顔を誰かに貸したまま、本物の相馬さんは、いったいどこへ消えたんだろう。


    第3章 誰かの遺体

    その答えは、翌日の昼に海から返ってきた。

    わたしはその朝、部屋のカーテンを閉め切って、相馬さんのメッセージが来ないか、来てほしくないのか、自分でも分からないまま携帯を握っていた。市場での待ち合わせに、わたしは行かなかった。

    あの男も、たぶん来なかった。あるいは1時間、市場の前で「相馬の顔」をして立っていたのかもしれない。想像すると、背中が寒くなった。

    わたしは相馬さんの番号にメッセージを打った。『無事ですか。今朝の人は、あなたじゃなかった。連絡ください』。送信の矢印を、何度も押しそうになって、やめた。

    もし、あの番号を持っているのが、もう相馬さんではなくあの男だったら。わたしの居場所を教えることになる。結局、下書きのまま消した。

    昼前に一度だけ、階段を降りた。パンを買うためだった。踊り場で、モンセがいつものように水を撒いていた。「シオリ」彼女はホースを止めて、わたしを見た。

    「あんた、幽霊みたいな顔してるよ。何か食べな」。わたしは笑おうとして、うまく笑えなかった。「大丈夫」と言った声が、自分でも噓くさかった。モンセは、それ以上訊かなかった。

    ただ、わたしの手に庭のトマトを二つ、握らせた。「トマトは、悩みに効く」。そういう根拠のない優しさが、いまは喉の奥につかえた。

    昼過ぎ、地元のニュースサイトに小さな記事が出た。

    『バルセロネータ沖で男性の遺体 観光客が発見 事故の可能性』

    港の防波堤の近くで、男性の遺体が上がった。日本人。50代。所持品から、身元は美術関係の来訪者と見られる。争った跡はなく、遊歩道から足を滑らせて転落した事故の可能性が高い——モッソス・ダスクアドラ(カタルーニャ州警察)は、そう発表していた。

    記事に写真はなかった。それでも、わたしには分かった。

    50代。日本人。美術。海。

    紙の匂いのする、低い声の人。

    わたしはしばらく、携帯を持ったまま床に座り込んでいた。涙は出なかった。3日しか知らなかった人だ。泣くのは、たぶん、ずるい。ただ、胸の底に、飲み込みそこねた氷みたいなものがずっと溶けずに残っていた。

    夕方、うちのインターホンが鳴った。

    女が二人。片方は制服のモッソスで、もう片方は私服だった。私服の女はくたびれたリネンのジャケットを着ていて、指先にニコチンの黄ばみがあった。ヘビースモーカーの匂い。

    ただし、あの男の安い黒煙草とは違う、もっと乾いた、上等な煙草の匂い。歩き方は、疲れているのに背筋だけは意地で伸ばしている、そういう歩き方だった。

    「カミヤ・シオリさん?」私服の女がカタルーニャ語で言い、それからスペイン語に切り替えた。「モッソス・ダスクアドラの、ラウラ・ビダルです。亡くなった男性の携帯に、あなたの番号があった。少し、話を」

    わたしは彼女を、心の中で「意地で伸びた背筋」と名づけた。

    キッチンの小さなテーブルで、わたしはビダルに全部話した。3日前に通訳として雇われたこと。昨日の朝、カフェに来た男が、相馬さんの顔をしていたけれど相馬さんではなかったこと。声が違い、匂いが違い、利き手が違ったこと。

    ビダルは、手帳に何も書かなかった。ペンを持った手が、途中で止まったままだった。

    「顔は」彼女は静かに言った。「同じだったんですね」

    「はい。でも——」

    「あなたは、亡くなったソウマの顔を憶えていますか」

    わたしは黙った。

    「正直に言ってください」ビダルの声に意地悪はなかった。むしろ、疲れがあった。

    「私が調べたところ、あなたには相貌失認がある。日本のホテルでの、あの件も。——顔が憶えられない人が、『顔は同じだけど別人だった』と言う。それを、私はどう調書に書けばいい?」

    日本のホテルでの、あの件も。その一言が、6年前の宴会場のまぶしいシャンデリアの光をいっぺんに連れて戻ってきた。取り違えたVIPの、凍りついた顔。支配人の、ため息。

    わたしはあのとき、自分の見ている世界が誰にも信じてもらえないことを知った。顔を見ないわたしの真実は、顔を見るみんなの真実の前では、ただの言い訳にしかならない。

    「歩き方は、憶えています」わたしは言った。声が少しだけ掠れた。「匂いも、声も、利き手も。わたしは、顔以外の全部を憶える。それが、わたしの見ている世界です」

    ビダルは、しばらくわたしを見ていた。それから、初めて手帳に何か短く書いた。

    「ソウマの死は、いまのところ事故として扱われています」彼女は立ち上がりながら言った。「遊歩道は夜になると人けがない。手すりの低いところもある。——でも」

    彼女は、ドアの手前で振り返った。

    「私も、この街で『気のせいだ』と言われ続けてきた側の人間です。女で、しかも独立派の家の生まれで。誰も私の言うことを最初は信じなかった」彼女は名刺をテーブルに置いた。

    「もし、あなたの言う『違う男』がまた現れたら。歩き方でも匂いでも、あなたにしか分からない何かで、また見つけたら。そのときは、電話をください。調書には書けなくても、話は聞きます」

    彼女たちが帰ったあと、わたしは名刺をしばらく指で撫でていた。

    そして、鞄の底から包みを取り出した。

    もう、返す相手はいない。相馬さんは海の底だ。開けないでください、という約束は、彼が生きているあいだの約束だった。わたしは麻紐をほどいた。

    麻布の中から出てきたのは、掌に載るくらいの青い陶片だった。

    画像

    割れた大皿の、ほんの一部のような形。表面は、細かなガラスと陶器のかけらを寄せ集めて焼き付けたモザイクだった。この街の建物の壁や、公園のベンチを飾っている、あの手法だ。

    青と、白と、金の欠片が、光の角度を変えるたびに海の底みたいに色を変えた。美しかった。

    そして、そのモザイクの、真ん中より少し下。

    一枚だけ、明らかに間違った色のかけらがはめ込まれていた。

    まわりが全部、青と白と金でできた海の色なのに、そこだけ、燃えるようなオレンジ色の小さな三角形。まるで、完璧な海の絵に、誰かがわざとたった一つだけ、間違った星を落としたみたいに。

    相馬さんの声が、耳の奥でよみがえった。わざと、たった一つだけ、自分にしか分からない傷を入れる。署名の代わりに。

    麻布の内側には、鉛筆で走り書きがあった。カタルーニャ語で、一行。

    『Roig — Gràcia. El que posa la ferida.(ロッチ、グラシア。傷を入れる者)』

    わたしは、その一行を何度も読んだ。

    顔の見えないわたしにできることは、たぶん一つしかなかった。誰も信じてくれない真実を、自分の足で、自分の鼻で証明することだ。相馬さんが最後に預けたこの傷を、たどっていくことだ。

    わたしは陶片を布にくるみ直し、名刺と一緒に鞄の一番深いところにしまった。

    グラシアへ行こう。傷を入れる者に、会いに。


    第4章 グラシアの窯

    『Roig』という名前の主を探すために、わたしはまず市場へ向かった。

    ランブラス通りの真ん中に、ボケリア市場の鉄とガラスの大屋根が口を開けている。正式には、サン・ジュゼップ市場という。けれど、この街の誰もそんな名では呼ばない。一歩足を踏み入れると、世界がいっぺんに色と匂いに変わる。

    画像

    天井から吊るされた生ハムの原木の、脂の匂い。氷の上に並んだ地中海の魚の、潮の匂い。切り口を光らせた、真っ赤なイチゴと、割れたザクロと、皮を剥いたココナッツ。

    その一つひとつが、店先のランプの下で宝石みたいに濡れて光っていた。串に刺した色とりどりのフルーツ。搾りたてのジュースの、酸っぱい霧。

    奥の魚屋では、店主が太った銀色の魚をまな板に叩きつけ、その音が、ドン、と市場じゅうに響いた。観光客の歓声と店主たちのしゃがれた呼び込みが、天井の下でぐるぐると渦を巻いていた。

    わたしはこの洪水の中を、目ではなく鼻で歩き抜ける。

    市場を出て、ランブラス通りの並木の下。花のキオスクが並ぶ一角に、「ラベンダー」はいる。名前は知らない。ただ、彼女の周りだけ、いつも乾いたラベンダーの束の匂いがして、その匂いが彼女の名札だ。この街の花屋は、噂の集積所だ。

    冠婚葬祭のすべてに、花がいる。誰が死に、誰が結婚し、誰が誰にこっそり花を贈ったか。花屋は、街の秘密を束にして知っている。

    「陶器の工房で、グラシアの、ロッチっていう名前」わたしはラベンダーの束を一つ買いながら、小声で訊いた。「古いモデルニスモの陶器を、扱ってるところ」

    ラベンダーは、しばらくわたしを見た。それから、花を新聞紙にくるみながら、同じくらいの小声で言った。

    「あんた、そういうのに首を突っ込まないほうがいいよ」彼女の指は、答えを知っている人間の確信した動きで花を包んでいた。

    「ビレイナ広場の裏に、看板のない工房がある。扉に、青いタイルが一枚。——でも、そこの窯で焼かれるのは壺だけじゃない、って話だ。分かるだろ」

    「分からないから、訊いてるの」

    「だから、危ないんだよ、あんたは」彼女は包んだラベンダーをわたしの手に押しつけた。花代は受け取らなかった。「これは、餞別。生きてたら、また買いに来な」

    わたしはそのラベンダーを鞄に挿して、キオスクを離れた。ランブラス通りの雑踏が、またわたしを飲み込んだ。人混みの中を歩きながら、わたしは背後に尾行がいないか、耳を澄ませた。

    革靴でも、ゴム底でもない、たくさんの名もない足音。この時ばかりは、顔の見えない世界の、無数の足音の海がわたしをかえって安心させた。誰も、わたしを追ってはいなかった。まだ。

    地下鉄で、グラシアへ向かった。

    グラシアは、バルセロナの中にある、もう一つの小さな村だ。

    碁盤の目の新市街とちがって、道が気まぐれに折れ曲がり、その先に突然、広場が開ける。石畳の広場には必ず、鈴掛の木が数本と、傾いだ椅子を並べたバルと、噴水と、老人と子どもがいる。

    9月の午後、木漏れ日が石畳にレースみたいな影を落として、その影の上を、犬と、ボールと、鳩が横切っていく。

    ラ・メルセの祭りが近くて、街灯の柱には、赤と黄のカタルーニャ旗と祭りの旗が結わえられ始めていた。

    ビレイナ広場から一本入った、日の当たらない路地の奥に、その工房はあった。ラベンダーの言った通り、看板はなく、木の扉の脇に青い陶片が一枚だけ埋め込まれていた。

    わたしは息を止めた。相馬さんの陶片と、同じ手だ。青と白と金の海。ただし、こちらには間違った色の欠片はなかった。傷のない、完璧な海。

    扉は薄く開いていて、中から、しっとりと湿った土の匂いと窯の乾いた熱が、まざりあって流れ出していた。そして、その奥にもう一つ、かすかな匂いがあった。オレンジの花。

    花屋の切り花ではない、もっと甘くて、粉っぽい、香水のような、あるいは古いお菓子のような、オレンジの花の匂い。誰かが今しがたまでここにいた、その残り香のように。

    「閉まってる」

    声がした。工房の奥、ろくろの前に、女が一人座っていた。前掛けと、腕まで、乾いた白い土で汚れていた。髪を無造作に頭の上でまとめ、その手が、回転する粘土の中心をぶれずに押さえていた。

    わたしはこの人を「濡れた土と、まっすぐな指」と名づけた。

    「ロッチさんですか」わたしはカタルーニャ語で訊いた。

    「ロッチはたくさんいる。この街の電話帳の半分がロッチよ」女は顔を上げずに言った。ろくろが止まった。「何の用? 観光の壺なら、グラシア通りの土産物屋で売ってる。安いのがね」

    わたしは鞄から布包みを出し、陶片をろくろ台の隅に置いた。

    女の手が、止まった。

    濡れた指が、ゆっくりとその青い海に伸びた。そして、真ん中より少し下の、燃えるようなオレンジの三角形に、触れる寸前で止まった。

    「これを、どこで」彼女の声から、さっきまでのぞんざいさがすっと抜けた。

    「預かったんです。日本から来た、鑑定士の人に。相馬さんという人に」わたしは彼女の顔ではなく、指を見ていた。指先が、ほんの少し震えていた。「その人は、海で死にました」

    女は、長いこと黙っていた。工房の奥で、窯が内側の熱を吐く低い音を立てていた。

    「あんた、名前は」

    「シオリ。カミヤ・シオリ」

    「ジェマ」彼女は言った。「ジェマ・ロッチ」名字は、さっき『たくさんいる』と言ったばかりのものだった。

    「この傷を入れたのは、あなた?」

    「まさか」ジェマは乾いた笑いをこぼした。「私にこれは焼けない。これを焼ける人間は、この街にたぶん一人しかいない」彼女は立ち上がって、蛇口で手を洗った。白い土が水に溶けて、渦を巻いて流れていった。

    「みんな、名前じゃなくて二つ名で呼ぶ。エル・レトカドール。——修復師、って意味だけど、その人は修復なんかしない。逆のことをする」

    「逆?」

    「本物より本物らしい、偽物を作る」ジェマはタオルで手を拭いた。

    「古いモデルニスモの陶器。100年前、この街が世界でいちばん美しかった頃の、ガウディや、その弟子たちの工房の欠片。戦争や解体で、たくさん失われた。市場には、その『失われたはずの一枚』を欲しがる金持ちが世界じゅうにいる。エル・レトカドールは、その渇きに応える」

    「贋作を、作って売る」

    「ただの贋作なら、いくらでもいる」ジェマは陶片のオレンジの三角形を指さした。

    「でも、この人は違う。完璧に焼ける。窯の癖も、土の古び方も、100年前の職人の指の迷いまで再現できる。誰にも見破れない。——だから、自分でここに傷を入れる。わざと、たった一つ、間違った色を。これは私が作った偽物だ、という、自分だけへの署名として。神様のふりをするのが我慢ならないみたいに」

    相馬さんの、あの夜の言葉と寸分たがわなかった。相馬さんはこの署名を知っていた。だから殺されたのだ。

    「相馬さんは」わたしは乾いた喉で訊いた。「この署名を見つけて、取引を止めようとした。だから——」

    「だから、消された」ジェマの声が低くなった。「そして、あんたの言う通りなら、ソウマの顔をした誰かが取引を続けている。買い手は、鑑定士が本物だと言った、と信じたまま大金を払う。偽物に。——傷の入った、偽物に」

    わたしは、鞄の底の相馬さんの陶片を思った。買い手を守れる、たった一つの証拠。傷。だから、あの男はこれを取り返しに来たのだ。

    「あなたは」わたしはジェマの指を見た。まだ、震えていた。「どうして、そんなに詳しいの」

    ジェマは答えなかった。彼女は、工房の壁に埋め込まれた、傷のない完璧な青い海をしばらく見ていた。それから、ぽつりと言った。

    「あの人の窯で、私は土をこねてた。子どもの頃から」

    窯の熱が、彼女の横顔をオレンジ色に照らしていた。わたしには、その顔が像を結ばない。けれど、声の湿り気と、震える指と、うつむいた肩の角度が、そこにある感情を顔よりも正直に語っていた。

    それは、罪悪感と、それに拮抗するもっと古い何かだった。愛情の、燃え残りみたいな。

    「帰って、シオリ」ジェマは急に背を向けた。「その陶片は、あんたを守らない。あんたを殺す理由になるだけ。海に捨てて、日本に帰りなさい」

    「あなたも、そうやって目をつぶってきたの?」

    言ってしまってから、後悔した。ジェマの背中が、ぴくりと動いた。

    そのとき、路地の入り口のほうで足音がした。

    わたしは、その音を皮膚で聞いた。ゴム底のスニーカーが、石畳を撫でるように歩く。左足に力がこもると、右足がほんの少し遅れる。そして、安い黒煙草の焦げた匂いが、路地の風に乗って工房の入り口まで届いた。

    わたしの体じゅうの毛が、逆立った。

    「来た」わたしは囁いた。「黒煙草の男。相馬さんを尾けていた、あの影。あいつが、来た」


    第5章 路地の追跡

    ジェマの反応は、速かった。

    彼女はわたしの腕をつかんで、工房の奥へ引っ張った。窯の裏に、人一人がやっと通れる木の扉があった。押すと、隣の建物の暗い階段室に出た。土と、猫と、洗剤の匂い。

    「ソウマなんて、私は知らない」ジェマは早口で囁いた。土で汚れた手が、わたしの手首を強く握っていた。「でも、あの人の使いは知ってる。ガブリ。足を引きずる、煙草くさい男。昔、窯で薪を運んでた。——あんた、あいつの匂いが分かるって言った?」

    「歩き方も。黒い煙草も」

    「なら、聞いて」ジェマは、暗がりでわたしの目を——たぶん、目を——のぞき込んだ。

    「この階段を上って、屋上に出る。グラシアの古い建物は、屋上どうしが低い壁でつながってる。三軒先まで行けば、別の路地に降りられる。私が下でガブリの気を引く。あんたは、屋上を、音を立てずに」

    「あなたは」

    「私はここの人間よ。あいつは私を殺さない。まだね」ジェマは一瞬だけ、笑ったようだった。「行って。傷を、失くさないで」

    わたしは階段を上った。踏み板が、一段ごとに古い船みたいに軋んだ。下のほうで、工房の扉が乱暴に開く音がした。ジェマの、わざと大きくした声。「ガブリ! あんた、こんなとこで何して——」男の低い声。安い煙草の匂いが、階段の下から立ちのぼってきた。

    屋上に出ると、バルセロナの夕方がいっぺんに広がった。

    画像

    無数の平らな屋根が、洗濯物と、給水タンクと、パラボラアンテナを載せて、うろこみたいに連なっていた。

    その屋根の海の向こうに、サグラダ・ファミリアの、まだ工事の途中の尖塔が、クレーンを何本も生やしたまま、夕日を浴びて蜂蜜色に立っていた。街じゅうの窓に、明かりが一つ、また一つと灯り始めていた。

    美しい、なんて思っている場合ではなかった。

    わたしは身をかがめて、屋根から屋根へと渡った。低い仕切り壁を乗り越えるたびに、膝が笑った。足の下で、乾いた漆喰がぱらぱらと崩れた。物干し綱にかかったシーツが、風にふくらんでわたしの顔を撫でた。石鹸の匂い。

    グラシアの古い屋根は、平らなようで微妙に傾いている。100年、雨と日差しになぶられてきた背中だ。タイルの一枚一枚が、足を置くたびにかすかにぐらついた。

    一つ足を滑らせれば、四階下の暗い路地までまっすぐだ。わたしは四つん這いに近い姿勢で、給水タンクの影から影へ、伝っていった。

    どこかの部屋の窓が開いていて、テレビのサッカー中継の実況の声と、フライパンで何かを炒める、じゅうという音が流れ出していた。誰かの、なんでもない夜の夕飯。

    その匂いが、こんなときなのに鼻の奥をつんとさせた。わたしは、そのなんでもない生活の屋根の上を、追われて這っていた。

    物干しの下をくぐると、子ども服の小さなシャツがずらりと並んで、風に揺れていた。その先に、隣の建物との50センチほどの隙間があった。下を見た。暗い。底が見えない。

    わたしは息を止めて、その隙間をまたいだ。片足が、向こうの屋根の縁を捉えた。漆喰が崩れた。心臓が喉から飛び出しそうになった。けれど、落ちなかった。わたしは向こうの屋根に転がり込んだ。

    三軒先の屋上に、下へ降りる錆びた鉄の外階段があった。

    そこまで、あと少し、というところで。

    わたしは、足音を聞いた。

    背後。屋根の海の、二軒ほど後ろ。ゴム底が漆喰を撫でる音。左足に力がこもると、右足がわずかに遅れる、あの歩き方。ガブリだ。ジェマの足止めをすり抜けて、屋上に上がってきたのだ。

    わたしは外階段に飛びついた。錆びが掌に刺さった。一段、二段。鉄が悲鳴みたいな音を立てた。

    「止まれ」男の声が、屋根の上から降ってきた。しゃがれた、煙草やけの低い声。相馬さんの顔をした、あの整髪料の男とは別人の声だ。手下のほうだ。「その陶片を置いていけば、あんたには手を出さない。ソウマみたいに、海に落ちたくないだろう」

    わたしは答えなかった。答えれば、声で居場所を教えることになる。

    わたしは階段の途中で、二階のバルコニーによじ登った。洗濯物の陰に身を隠した。物干しに、赤と黄のカタルーニャ旗と子ども服がいっぱいに干してあった。その布の壁の向こうで、わたしは息を殺した。

    ガブリが、外階段を降りてくる音がした。ゆっくりと。一段ごとに、こちらの気配を探るように。左足、遅れる右足。安い煙草の匂いが、風に乗って近づいた。

    わたしは、目を閉じた。

    顔を見ないわたしにとって、闇はハンデにならない。むしろ、逆だ。目を閉じたほうが、耳と鼻がよく働く。わたしは、彼の足音が階段のどのあたりにいるかを、音の反響で測った。

    そして、彼の匂いが風のどちらから来るかで、彼の背中がどちらを向いているかを読んだ。

    彼が、わたしのいるバルコニーの真横を通り過ぎた。布一枚、隔てた向こう。手を伸ばせば届く距離。彼の煙草の匂いがむっと濃くなって、それから遠ざかった。彼の背中は、下の路地を向いていた。彼は、わたしがもう路地に降りたと思っている。

    わたしは、彼が完全に階段を降りきるのを、匂いが遠ざかるのを待った。それから、反対側の別の階段を猫みたいに降りた。

    路地に降り立ったとき、膝が本当に笑って、崩れそうになった。壁に手をついてこらえた。夕方の路地はもう暗くて、街灯が一つ、じいじいと音を立てて灯っていた。

    バルの厨房から、にんにくをオリーブオイルで焦がす匂いが流れてきた。世界は、何事もなかったみたいに夕飯の匂いをさせていた。

    携帯が震えた。ジェマからだった。番号は、いつ交換したのだったか。彼女が階段室で、わたしの携帯から自分の携帯へ短く発信して、互いの番号を残していたのを思い出した。

    『無事? ガブリはさっき、悪態ついて出てった。出しなに路地で電話してるのが、窓から聞こえた。あいつら、あんたが陶片を持ってることを、もう完全に知ってる。買い手への引き渡しは、ラ・メルセの夜。祭りの人混みが、いちばんの隠れ蓑だから。——シオリ、聞いて。あんた、もう降りられない。あの傷は、あんたと、私と、死んだ鑑定士しか、意味を知らない』

    わたしは路地の暗がりで、その文字を何度も読んだ。

    ラ・メルセ。祭りの夜。

    顔が、火と、仮面と、煙で、消える夜。

    それは、相馬の顔をした男にとって最高の舞台だった。そして——顔を必要としないわたしにとっても、たぶん、たった一度の勝機だった。


    第6章 偽物の作り方

    翌日の朝、わたしはラウラ・ビダルに電話をかけた。

    彼女は、ゴシック地区の外れの、観光客の来ない小さなカフェを指定した。カウンターだけの店で、コーヒーマシンの蒸気の音と、常連の老人たちのドミノの牌を打つ音が、朝の光の中に混じっていた。

    ビダルは昨日と同じリネンのジャケットで、指を上等な煙草で黄ばませたまま、コルタード(濃いミルクコーヒー)を飲んでいた。

    わたしは陶片を見せた。オレンジの三角形の傷を。そして、ジェマから聞いた全部を話した。エル・レトカドール。傷の署名。ラ・メルセの夜の引き渡し。

    ビダルは長いこと、陶片を見ていた。それから携帯を出して、一枚の粗い画像をカウンターに置いた。

    「港の遊歩道の、防犯カメラ。ソウマが亡くなった夜のもの」

    夜の、白黒の映像。手すりのそばを歩く男の後ろ姿。

    「これがソウマだと、私たちは判断した。ホテルの防犯カメラの服装と一致したから」ビダルは指で、その後ろ姿をなぞった。「でも、私はずっと何かが引っかかってた。うまく言葉にできない、何かが。あなたの話を聞いて、やっと分かった」

    彼女は二枚目の画像を置いた。ホテルのロビーを歩く、相馬さんの後ろ姿。

    「見て」ビダルは二枚を並べた。「歩き方が、違う」

    わたしは息を止めた。ホテルの相馬さんは、まっすぐ規則正しく歩いていた。革靴が地面を等間隔で打つ、あの歩き方。けれど、港の男は——左足に力がこもると、右足がほんの少し遅れていた。

    「あなたには、最初から見えていたものが」ビダルは静かに言った。

    「私には、証拠を並べてやっと見えた。——ソウマは、あの夜、もうソウマじゃなかった。ソウマの服を着た別の男が、遊歩道を歩いていた。たぶん、本物のソウマを海に落としたあとで」

    カフェの隅で、老人がドミノを打つ乾いた音がした。

    「あの陶片は」ビダルは続けた。

    「あなたが思っている以上に、重い証拠です。ソウマが先方から預かった、という欠片——売られようとしている『失われた名品』の本体から、鑑定用に割り取られた一部分だ。そこに、傷の署名が入っている。つまり、あの名品そのものが偽物だという、動かぬ証拠。あれ一枚で、何百万ユーロの取引が崩れる。人が一人、殺されるだけの値打ちがある」

    「名品って、なんなんですか」

    「モデルニスモ——100年前、この街が世界でいちばん装飾に酔っていた時代の、陶板です」ビダルは声を落とした。

    「ガウディや、その周りの建築家が、屋敷や集合住宅をこういう青いモザイクで飾らせた。その多くが、内戦や無秩序な取り壊しで、瓦礫になって消えた。記録の中にだけ残って、現物は失われた一枚——それが、闇の市場に突然現れる。『取り壊された屋敷の壁から、奇跡的に救い出された』という物語つきで。世界じゅうの収集家が、その物語に涙を流して小切手を切る」ビダルは乾いた笑いをこぼした。

    「涙の出る物語ほど、よく売れる。そして、涙の出る物語ほど、たいてい噓なんです」

    失われた名品。救い出された、という物語。そのすべてを、エル・レトカドールが窯の中で一から焼き上げていた。100年の時間ごと、偽造して。相馬さんは、その物語の噓を、たった一つの間違った色の欠片から見抜いてしまった。

    「わたしは、どうすればいい」

    「引き渡しを、押さえます」ビダルは初めて、少しだけ身を乗り出した。

    「でも、私一人では動けない。上は、ソウマの件を事故で閉じたがってる。祭りの夜に大がかりな警備なんて、認めない。——だから、証拠がいる。買い手と、偽のソウマと、あの名品が同じ場所にそろう、決定的な瞬間が。そして、その偽のソウマを群衆の中から見分けられる、たった一人の目撃者が」

    わたしを、見ていた。

    「顔を見ないあなたなら」ビダルは言った。「顔を隠す祭りの中でこそ、あいつを見つけられる」

    わたしはうなずいた。手が、コルタードのカップの熱を握りしめていた。

    その帰り道で、わたしは罠にかかった。

    ランブラス通りを、グラシアのジェマの工房へ向かって歩いていたときだ。人混みの中に、ふっとあの匂いがした。安い黒煙草の、焦げた匂い。そして、すぐ後ろで、ゴム底が地面を撫でるあの足音。左足に力がこもると、右足が遅れる。

    ガブリだ。

    わたしはとっさに脇の路地に飛び込んだ。走った。心臓が喉までせり上がった。匂いと足音は、ついてきた。わたしは、ラバル地区の細く入り組んだ路地へと逃げ込んだ。

    この街でいちばん、道が迷路になっている場所。洗濯物が、路地の上に万国旗みたいに渡してある。昼でも薄暗い。移民の食堂からクミンと揚げ油の匂いが流れ、子どもたちがサッカーボールを蹴っていた。

    わたしは教会の陰に隠れて、息を整えた。足音が、路地の入り口で止まった。匂いが、そこで止まった。

    そして——動かなくなった。

    おかしい。ガブリなら、わたしを探して路地の奥まで来るはずだ。でも、その足音は路地の入り口で、ただうろついていた。同じ場所を、行ったり来たり。まるで、そこに留まるように言われているみたいに。

    わたしは恐る恐る、教会の陰からその姿を見た。顔は、いつものように像を結ばない。けれど、体つきが——違った。ガブリより背が低い。肩幅が狭い。

    足を引きずってはいるけれど、その引きずり方がわざとらしく、大げさだった。本物のガブリの、あの体に染みついた古い怪我の歩き方とは違う。真似だ。下手な、真似。

    わたしは、悟った。

    あいつらは、わたしが匂いと足音で人を追うことを知ったのだ。ガブリが屋上で、わたしの追い方をあいつらに報告したのだ。だから別の男に安い黒煙草を吸わせ、足を引きずらせて、わたしの前に放った。

    わたしをラバルの迷路へ追い込むために。本物のガブリと相馬の顔をした男は、たぶん今ごろ別の場所で、悠々と次の準備をしている。

    わたしがいちばん信じていたもの。顔よりも正直だと信じていた、匂いと足音。それを、あいつらは偽物に仕立てた。

    わたしは路地の壁に背中をつけた。漆喰がひんやりと背中を冷やした。膝が、また笑っていた。今度は恐怖ではなく、もっと深い場所からの寒気だった。

    顔は着替えられる、とわたしは思っていた。でも、匂いも歩き方も着替えられる。この街には、傷の署名を入れて本物より本物らしい偽物を作る男がいる。人の顔を偽物にできる男が。ならば匂い一つ、足音一つ、偽物にするくらい、わけもないことだったのだ。

    わたしは、自分の見ている世界さえ、もう信じられなくなっていた。

    携帯を握りしめて、わたしはジェマに一行だけ打った。

    『わたしの追い方が、あいつらに知られてる。匂いも足音も、偽物を作られた。——祭りの夜、わたしは、何を信じればいいの』


    第7章 顔のない人々

    ジェマが指定したのは、カルメルの丘の上、古い対空砲台の跡だった。

    内戦のとき、この街を空襲から守るために作られた砲座が、いまはただのコンクリートの土台になって、丘のてっぺんに残っている。地元の人間は、そこを「バンカーズ」と呼ぶ。

    日が暮れる頃、若者たちがビール瓶を提げて上ってきて、街を見下ろしながらギターを鳴らす。観光地図には、あまり載っていない。

    わたしが着いたとき、空は燃える炭みたいなオレンジ色から深い青へと、ゆっくり移り変わっていくところだった。眼下に、バルセロナのすべてが広がっていた。

    画像

    碁盤の目の街に無数の明かりが灯り始め、その光の海の真ん中に、サグラダ・ファミリアがライトアップされて、金色の松ぼっくりみたいに立っていた。その向こうに、地中海が夜の色に沈んでいた。

    風が、乾いた草と、遠くの誰かの煙草の匂いを運んできた。

    ジェマは砲台のコンクリートに腰かけて、膝を抱えていた。土のついていない素の彼女は、思ったより小さく見えた。

    「来ないかと思った」わたしが隣に座ると、ジェマは街の明かりを見たまま言った。

    「わたしも、来ないほうがいいと思ってた」

    しばらく、二人とも黙って街を見ていた。丘の下から、誰かのギターと笑い声が、風に乗って切れ切れに届いた。

    「あの人は」ジェマが口を開いた。

    「私を、ゴミ捨て場で拾ったんだって。生まれてすぐ。ラバルの、教会の裏の。——だから私に、ロッチって名字をくれた。この街でいちばんありふれた、どこにでもある名字を。お前は特別じゃない、この街の一部だ、って意味だって、あとで言ってた」

    彼女の声は乾いていた。泣くための湿り気を、とうに使い果たした人の声だった。

    「窯の前で、土のこね方を教えてくれた。窯の癖の読み方も。古い釉薬の、100年前の配合も。——世界でいちばん美しい嘘のつき方を、あの人は私に全部くれた」ジェマは膝を強く抱えた。

    「あの人は、人を殺す人じゃない。傷を入れるのは、罪悪感の裏返しなの。これは偽物だ、騙されるな、って、自分だけへの言い訳みたいな署名。——でも、あの人の作った偽物が、いつのまにか人を殺すようになってた。ソウマっていう、まじめな鑑定士を。あの人は、たぶん、それを知らない」

    「知らない?」

    「引き渡しを仕切ってるのは、あの人じゃない。買い手と話をつけた、別の連中。焼くのがあの人で、売り捌くのが連中。ガブリは昔あの人の窯にいて、いまは連中に足を貸してる。ソウマの顔をした男は、連中がよそから借りてきた飛び道具。あの人は、ただ焼く。焼いて、傷を入れて、渡す。そのあと、それがどこで、誰に、どう使われるかは、あの人の手を離れてる」ジェマは初めて、わたしのほうを見た——たぶん、見た。

    「それでも、共犯よ。分かってる。私も、共犯。ずっと目をつぶってきたから」

    わたしは、昨日彼女に投げつけた言葉を思い出した。あなたも、そうやって目をつぶってきたの。

    「ごめん」わたしは言った。「昨日の、あれ」

    「ううん。正しかった」ジェマはまた街を見た。「だから、私は決めた。引き渡しを止める。あの名品が偽物だって、買い手に証拠を突きつける。あんたの持ってる、傷の陶片で。——でも、シオリ」

    彼女の声が硬くなった。

    「あの人の名前は言わない。顔も、教えない。あの人を、警察に渡さない。それだけは。——ずるい? そうよ。ずるい。でも、私にできるのはここまで」

    わたしはうなずいた。責める気にはなれなかった。誰かを完全に救うことも、完全に裁くことも、たぶんこの街ではできない。傷は、傷のまま残る。

    「引き渡しは、ラ・メルセの夜」ジェマが計画を話した。ガブリの電話の切れ端と、昔の窯仲間への借りをつなぎ合わせたのだと言った。

    「旧市街の、ある中庭。コレフォクの火の行列が、その前を通る時間に合わせてある。悪魔の仮装と、花火と、煙で、あたり一帯が地獄絵図になる。誰の顔も見えない。買い手が偽のソウマから名品を受け取って、金を渡す。その一瞬を、あんたとあの女刑事で押さえる」

    「問題は」わたしは、昨日のラバルの罠を思い出した。

    「わたしが、もう匂いも足音も信じられないってこと。あいつらは、偽の相馬を何人も仕立てられる。同じ煙草を吸わせて、同じように足を引きずらせて。火と煙の中で、わたしは、どれが本物か見分けられない」

    ジェマは答えを持っていなかった。彼女は困ったように、街の明かりを見ていた。

    わたしは、目を閉じた。

    考えろ。あいつらが知らないこと。ガブリが屋上であいつらに報告できなかったこと。わたしが見た中でわたしだけが知っていて、あいつらが「わたしが気づいた」と気づいていない、何か。

    カフェの、テラス席。飲みかけのカフェ・アメリカーノ。相馬の顔をした男が、カップを持ち上げた。あのとき——。

    わたしは、目を開けた。

    「左手」わたしは言った。

    「え?」

    「あの男は、左利き。カフェで、カップを左手で持った。会計の小銭も、左手で置いた」わたしの声が震えた。今度は恐怖ではなく、何かを掴んだ、その手応えに。

    「本物の相馬さんは、右利きだった。ベルモットのグラスを右手で回してた。カードも、右手で出してた。——ガブリは、それを知らない。あいつは屋上で、わたしの『匂いと足音』の追い方しか見てない。カフェの、あの朝のことは知らない」

    ジェマの目が——たぶん、目が——見開かれた。

    「煙草は、吸わせられる。足は、引きずらせられる」わたしは言った。

    「でも、利き手はとっさには変えられない。火の中で、名品を受け取るとき、金を数えるとき、人は無意識に利き手を使う。悪魔の仮面をかぶってても、体に染みついた利き手だけは隠せない」

    丘の下で、また笑い声が上がった。街の明かりが、風に瞬いていた。

    「火の中の、何百人の悪魔の中から」わたしは、自分に言い聞かせるように言った。「左手で名品を受け取る、相馬の顔をした男を探す。——それが、わたしのたった一つの勝ち筋」

    その夜のうちに、わたしはビダルに電話で計画を伝えた。彼女はしばらく黙って、それから低い声で言った。

    「危険すぎる。祭りの人混みで、火薬が乱れ飛ぶ中で、あなたが犯人を名指しする。もし、間違えたら」「間違えない」わたしは言った。「わたしは、顔で間違えるの。顔以外では、間違えたことがない」。

    電話の向こうで、ビダルがふっと息を吐く音がした。あきれたような、けれどどこか笑ったような息だった。

    段取りは単純にした。複雑にすればするほど、火の中で崩れる。わたしが群衆の中から左手の男を見つけたら、頭の上に両手を大きく上げる。それが合図だ。

    ビダルと、彼女が個人的に信頼する非番の同僚二人が、その方向へ動く。ジェマは中庭の反対側で、買い手の顔を憶える役。彼女はその世界の人間の顔を知っている。わたしが顔を憶えられないぶんを、彼女が埋める。

    「変な組だね」ジェマが、バンカーズの闇の中でつぶやいた。「顔を憶えない女と、顔を憶えすぎた女。どっちも、まともに眠れない夜をいくつも越えてきた」

    「足して、二で割れば」わたしは、モンセの口癖を思い出しながら言った。「ちょうどいい人間が、一人できる」

    ジェマが闇の中で小さく笑った。眼下で、街の明かりが風に瞬いた。

    「火の中の、何百人の悪魔の中から、左手の男を探す」ジェマはわたしの言葉を繰り返した。「あんた、正気じゃない。——でも、正気じゃない人にしかできないことも、あるんだろうね」

    ジェマは、しばらくわたしを見ていた。それから、ふっと初めて素の笑い方をした。

    「あんた、変な人ね」彼女は言った。「顔が見えないのに、この街の誰より人を見てる」

    風が、二人のあいだを吹き抜けた。乾いた草と、遠い火薬の匂い。ラ・メルセは、もう明後日だった。


    第8章 火の中の相馬

    ラ・メルセの夜、旧市街は火に飲まれた。

    コレフォク——「火の駆け足」。悪魔に扮した男や女たちが、先端で花火を回す鉄の熊手を掲げ、太鼓の地響きに合わせて通りを練り歩く。頭上で花火が回り、火の粉が滝のように群衆の上に降り注ぐ。

    人々は綿の長袖とつばの広い帽子で身を固め、わざと、その火の粉の下に飛び込んでいく。焦げた火薬の匂いが、街じゅうに満ちる。ドン、ドン、と腹の底を打つ太鼓。

    画像

    悪魔の一団の真ん中には、火を噴く木組みの竜が、口から炎の尾を引きずって進んでいた。

    その火の行列が、旧市街の細い通りをゆっくりとこちらへ近づいていた。

    わたしは綿のパーカーのフードを目深にかぶり、指定された中庭を見下ろす石造りの回廊の陰に立っていた。中庭は古い貴族の館の中にあった。四方を囲む石の壁。真ん中に、枯れた噴水。

    表の通りのコレフォクの火の光が、壁の上を赤くちらちらと舐めていた。太鼓の地響きが、石の床から足の裏に伝わってきた。

    心臓が、その太鼓と同じ速さで打っていた。手のひらが汗で湿っていた。わたしは鞄の底の、相馬さんの陶片にそっと手を当てた。硬くて、重い。この重さが、いま、わたしをここに立たせている。

    3日しか知らなかった人。紙の匂いのする、低い声。彼は自分の顔が盗まれることを知っていて、それを見抜けるたった一人に、この傷を託した。逃げるわけにはいかなかった。

    火の行列が近づくにつれ、太鼓の間隔が狭まっていった。壁の上を舐める赤い光が、だんだん明るく、速く瞬いた。火薬の匂いが館の中まで流れ込んできた。喉の奥が焦げた。

    表の通りで、群衆の悲鳴とも歓声ともつかない声が、うねりのように盛り上がっては引いた。世界が火に向かって傾いていくようだった。

    中庭には、すでに人影があった。

    黒いスーツの男が二人。買い手の側だ。片方が、細長い木箱を抱えていた。その箱の中に、たぶん金がある。そして、彼らの向かいに——悪魔の仮装をした一団が、三人。赤い角。黒い外套。

    手には、まだ火のついていない鉄の熊手。祭りの群衆に紛れて、この中庭に滑り込んできた、あいつらだ。

    三人の悪魔。どれかが、相馬の顔をした男だ。

    わたしは目を凝らした。けれど、火明かりと、仮面と、外套が、三人の区別を奪っていた。歩き方——一人が、わずかに足を引きずった。けれど、隣の一人も同じように引きずった。

    同じ煙草の匂いが、中庭の風に三人ぶん混じっていた。あいつらは、わたしの追い方を完璧に殺しにきていた。

    わたしは、回廊の反対の陰にいるラウラ・ビダルの黒い影に目をやった。彼女は、非番の同僚を二人連れてきていた。公式の応援は、最後まで下りなかった。

    祭りの夜に、事故で片づけたはずの事件のために人を割く上司は、いなかった。ビダルは自分の首を賭けて、ここにいた。

    わたしは、待った。

    太鼓が近づいた。表の通りを、火の竜が通りかかった。その炎の光が、館の門の隙間から中庭に、赤い舌みたいに差し込んだ。花火の破裂音が、石の壁に反響して耳をつんざいた。

    火の粉がいくつか、門の隙間から舞い込んで、枯れた噴水の縁で小さく爆ぜた。

    その、光と、音と、煙が、いちばん激しくなった、その瞬間。

    黒いスーツの男が、細長い木箱を——金を——差し出した。

    そして、三人の悪魔のうちの一人が、木箱を受け取るために、それを見て、腕を伸ばした。

    左手で。

    わたしの体じゅうの毛が逆立った。頭で考えるより先に、体が叫んでいた。あいつだ。左手で金を受け取る、その悪魔が、相馬の顔をした男だ。煙草も、足も、真似られた。でも、火の中で金に伸ばした、その利き手だけは真似られなかった。

    両手を上げる、という段取りは、頭から吹き飛んでいた。

    「ラウラ!」わたしは、太鼓の地響きに向かって叫んだ。「左! 左手のやつ!」

    その一瞬、すべてがはじけた。

    ビダルと同僚たちが、陰から中庭に飛び出した。「モッソス! 動くな!」黒いスーツの男たちが、木箱を取り落とした。中庭に、金貨のような何かが、火明かりの中できらきらと散らばった。悪魔たちが、いっせいに身をひるがえした。

    左手の悪魔が——相馬の顔をした男が——受け取りかけた木箱を投げ捨て、代わりに別の平たい包みを小脇に抱え込んだ。名品だ。偽の陶板だ。彼はそれを抱えて、表の通りへ——火の行列の真っ只中へ、飛び込んだ。

    わたしは追った。

    回廊の階段を駆け降り、中庭を横切り、館の門を抜けて、通りへ。そこは、地獄だった。頭上で、無数の花火が火の粉の滝を降らせていた。太鼓が、鼓膜を殴っていた。

    悪魔たちが火の熊手を回しながら渦を巻いていた。綿の帽子をかぶった群衆が、歓声を上げて、その火の下を走り抜けていく。焦げた火薬の匂いが、鼻を喉を焼いた。誰の顔も、見えなかった。

    火と煙と仮面が、この世から顔という顔を消し去っていた。

    顔のない、何百人もの人々。

    そして、その中でわたしだけが、顔を必要としていなかった。

    わたしは目を半分閉じた。火の粉が頬をかすめ、髪の先を焦がした。熱い。けれど、目を閉じたほうがよく見えた。わたしは走る足音の海の中から、たった一つのリズムを探した。

    左足に力がこもると、右足が遅れる——いや、それは真似られる。わたしが探したのは、もっと別の、体に染みついた隠せないもの。

    金を、名品を、左手で抱え込んだ男が、その重い包みを体の左側でかばうようにして走る、その全身の傾き。

    いた。

    火の竜の、炎の尾のすぐ向こう。悪魔の外套をひるがえし、平たい包みを左脇にかばうように抱えて、群衆をかき分ける一つの背中。左に傾いでいた。

    わたしは火の粉の滝の中を突っ切った。綿のパーカーの肩に火の粉が落ちて、じっ、と焦げた。熱が皮膚を刺した。かまわず走った。太鼓の地響きが、心臓と同じ拍子になった。

    そのとき、横合いから腕が伸びた。

    がっしりと、わたしの二の腕を掴んだ。振り向かなくても分かった。安い黒煙草の、本物の匂い。左足に力がこもると右足が遅れる、本物のあの歩き方。ガブリだ。今度は偽物ではなかった。掴む力に、屋上のときとは違う殺気があった。

    「離して」わたしは身をよじった。指が腕に食い込んだ。痛みで、目の前が白く瞬いた。

    わたしは考えるより先に、体を彼のほうへぶつけた。逃げるのではなく、飛び込んだ。相手は、わたしが後ろへ引くと思っていた。だから、前へ出た瞬間、力の行き場を失ってたたらを踏んだ。

    その隙に、わたしは頭上を指さして、ありったけの声で叫んだ。「火! 上!」

    ちょうど頭上の悪魔が鉄の熊手を大きく回した。火の粉の滝が、ざあっとわたしたちの上に降ってきた。ガブリがとっさに、顔を腕でかばった。

    煙草を吸う男の、乾いた綿のシャツに火の粉がいくつも取りついて、焦げた匂いを上げた。彼がそれを払う、その一瞬。

    わたしは彼の手を振りほどいた。

    そして、また走った。二の腕がじんじんと痺れていた。けれど、止まれなかった。左に傾いだ背中は、まだ火の竜のすぐ向こうにあった。群衆の悲鳴と歓声が、区別できなくなっていた。太鼓は、もう街の心臓そのものだった。

    追いつくというところで、男が振り返った。

    悪魔の仮面の奥から、こちらを見ていた。相馬さんの顔をした、顔。わたしには、その顔が見えない。けれど、その体がこわばるのが分かった。恐怖ではなかった。もっと追い詰められた、獣のこわばりだった。

    「お前——」男が、火薬の轟音の中で叫んだ。低さを真似た、鼻の通った声。「なんで分かる。顔も見えないくせに。なんで、いつも、俺を——」

    「顔なんて」わたしは、火の中で叫び返した。「見てない。最初から、一度も」

    その瞬間、火の竜が大きく、口から炎を噴いた。

    視界が白い火に飲まれた。熱風が二人のあいだをなぎ払った。わたしはとっさに、腕で顔をかばった。そして、その白い火が収まったとき——男は、いなかった。

    いや、いた。地面に。

    火の粉に足を取られたのか、群衆に押されたのか、男は石畳の上に倒れていた。抱えていた平たい包みがその手から離れて、少し先の石畳の上に滑っていた。悪魔の仮面が外れて、転がっていた。

    わたしは包みに飛びついた。破れた包み紙の中から、青い陶板が火明かりに覗いた。青と白と金の、海。そして、その縁の一角に——掌の形に、欠けた場所があった。

    わたしの鞄の底の、あの陶片と同じ、海。あの傷の署名が、ぴたりと帰るための欠け。これが、割り取られたその本体。

    「動くな!」ビダルの声が、群衆の轟音を切り裂いた。彼女が、倒れた男に飛びかかっていた。同僚が、手錠を火明かりの中で光らせた。

    わたしは陶板を胸に抱えて、その場にへたり込んだ。

    そのときだった。

    わたしのすぐ横を、一人の人影が、火の粉の中を悠然と通り過ぎていった。悪魔の仮装ではない。祭りの群衆に紛れた、ただの黒い外套の人影。急ぐでもなく、逃げるでもなく、まるで火事場の見物人のように、ゆっくりと。

    その人影が、わたしの真横を過ぎた、その一瞬。

    火薬と汗と焦げた匂いの、この地獄の中で、ふっと、場違いな匂いがした。

    オレンジの花。

    甘くて、粉っぽくて、古いお菓子のような。グラシアの、あの工房の奥で嗅いだのと同じ匂い。

    わたしは顔を上げた。けれど、その人影の顔は、いつものように火明かりの中で像を結ばずにほどけていった。憶えられたのは、匂いと、ゆったりとした足取りと、外套の裾の揺れだけ。

    人影は、火の竜の煙の向こうへ、溶けるように消えていった。

    太鼓はまだ鳴っていた。花火はまだ降っていた。わたしはその場から動けなかった。何かとてつもなく大事なものが、たった今、わたしのすぐ横を通り過ぎていった。その感覚だけが、火傷みたいに皮膚に残っていた。

    群衆のどこかで、悪魔の仮面をつけたままの小柄な人影が、こちらを一瞬だけ振り返った気がした。ジェマ。けれど次に瞬きした時には、その姿ももう、火と煙の中になかった。


    第9章 見えない署名

    祭りが終わって、街がいつもの顔を取り戻すのに3日かかった。

    清掃車がコレフォクの焼け跡を洗い流し、街灯から祭りの旗が外され、広場から悪魔たちが消えて、また犬とボールと鳩が戻ってきた。バルセロナは何百回も繰り返してきたように火に飲まれ、そして平気な顔で目を覚ました。

    相馬の顔をした男は、留置場にいた。

    名前は郷田薫といった。日本を出てもう10年になる、旅回りの役者くずれ。似顔絵ではなく、人そのものを演じる仕事を裏の世界で請け負ってきた男。相馬さんとは赤の他人だった。ただ、骨格が少しだけ似ていた。それを、あいつらは見つけ出した。

    「顔なんて、みんな、そんなに見てないんですよ」郷田は取り調べでそう言ったと、ビダルが教えてくれた。「服と場所と名前が合ってれば、人は勝手に、そいつを『その人だ』と思い込む。俺はただ、その思い込みの隙間に座るだけだ」

    顔を、みんな、そんなに見ていない。

    その言葉は、6年間自分の見ている世界を恥じてきたわたしの、胸のいちばん柔らかいところに刺さった。わたしが顔を憶えられないことは欠陥だと、ずっと思ってきた。

    でも、顔を見る人たちだって、本当はそんなに見ていない。ただ、見ているつもりでいるだけだった。だから郷田の芝居に街じゅうが騙された。顔を見ないわたし一人を、除いて。

    ビダルは、もう一つ教えてくれた。相馬さんは、海に落とされる前に吐かされていた。包みの在り処と、預けた相手のこと。その相手が、顔を憶えられない女だということまで。——あの人が最後にどんな夜を過ごしたのか、わたしは想像するのをやめた。

    「あの男は」わたしはビダルに訊いた。「どうして、こんなことを」

    「金でしょうね。借金があった」ビダルはコルタードのカップを置いた。

    「でも、取り調べで一度だけ、妙なことを言った。——『生まれてこのかた、俺は、誰にもなれなかった。誰の記憶にも、残らなかった。だから、他人になる仕事だけが、俺を必要としてくれた』と」

    わたしは、黙った。

    顔を憶えてもらえない男。それが、他人の顔を着る仕事にたどりついた。わたしとは正反対のようで、どこか裏返しの、同じ場所にいる人間だった。彼は誰かになることでしか、この世界に席を持てなかった。

    わたしは誰の顔も憶えないまま、この街に席を見つけた。その違いが、わたしと彼を分けた。憐れむ気にはなれなかった。相馬さんを海に落とした連中の、一人だ。

    けれど心の底のいちばん冷たいところで、わたしはほんの少しだけ、彼が分かる気がしてしまった。それが、嫌だった。

    それから、ふと思った。わたしだって、この街の人たちに勝手な名札を貼って生きてきた。「潰れた左耳」。「引きずる右足」。あの名札と、郷田の言う「思い込みの隙間」は、どこが違うんだろう。答えは、まだ出せずにいる。

    「あなたの証言が」ビダルは、あのカウンターだけのカフェでコルタードを飲みながら言った。

    「決め手になりました。防犯カメラの歩き方の違い。左利き。匂い。——最初は私も、調書に書けないと思った。でも、書きました。『相貌失認のある証人は、顔以外の身体的特徴の識別において、健常者を上回る精度を示すことがある』。学術論文を3本、引用してね」

    彼女は少しだけ笑った。指のニコチンの黄ばみが、朝の光にちらりと光った。

    「あなたは、事故のはずだった事件を殺人にした。偽物のはずだった名品を、証拠にした。——この街で『気のせいだ』と言われ続けた人間が、二人。よくやったと思います」

    わたしはうなずいた。目の奥が少しだけ熱くなった。けれど、泣かなかった。

    事件は、けれど、きれいには片づかなかった。

    買い手の二人の身元は、ジェマが中庭の反対側で憶えた顔から割れた。彼女は姿を消す前に、それだけをビダルに残していった。ある国の、外交特権を持つ代理人だった。

    金は押収されたが、本人たちは2日後には国外に出ていた。偽の陶板は証拠品になった。わたしの陶片は、本体の欠けに、割れ口までぴたりと嵌まった。傷のなかった完璧な海に、たった一つのオレンジの傷が戻った。

    けれど——それを焼いたエル・レトカドールが誰なのか。それは最後まで分からなかった。

    郷田は、知らなかった。雇い主の顔さえ知らなかった。仕事はいつも知らない番号の電話で降ってきて、金は間に人を挟んで渡されたという。顔のない男を演じる男が、顔のない連中に雇われていた。ガブリは祭りの夜の混乱に紛れて姿を消した。そして、ジェマ・ロッチの工房は——わたしが事件の3日後に訪ねたときには、もう、もぬけの殻だった。

    ろくろも窯も、そのままだった。ただ、人だけがいなかった。壁に埋め込まれた傷のない完璧な青い海だけが、薄暗い工房の中で、じっとこちらを見ていた。

    作業台の上に、一枚のメモが残されていた。ジェマの字だった。

    『あの人を渡せなかった。ごめん。でも、ソウマの件は止められた。それだけは、本当。——あんたは、この街の誰より人を見てる。だから、たぶん、いつか、あの人にも会う。そのとき、あんたなら、顔を見なくても分かるはず。私は、それが怖い』

    わたしは、そのメモをしばらく握っていた。

    ジェマは共犯のまま消えた。誰も救わず、誰にも裁かれず、傷を傷のまま抱えて。わたしは彼女を責められなかった。ゴミ捨て場で拾われた子どもが、たった一人の家族を警察に渡せなかった。それを責める資格が、わたしにあるだろうか。

    相馬さんの遺体は、事件が殺人に切り替わったことで、いったん日本へ帰れなくなった。司法解剖がやり直された。海に落とされる前に、後頭部を一度強く打たれていたことが分かった。事故ではなかった。

    ビダルの読み通りだった。それでも、その事実が彼を生き返らせるわけではなかった。数週間後、彼はようやく日本の家族のもとへ帰っていった。わたしは彼の家族を知らない。

    彼が日本にどんな暮らしを残してきたのかも知らない。

    ただ、空港へ向かうその日の朝、わたしは、彼が最後にわたしを雇ってくれたこと、そしてこの街で唯一、顔に騙されない人間を正しく選んでくれたことに、心の中で礼を言った。

    その夜、わたしはボルンの、あのボデガに一人で行った。

    天井から生ハムの原木がぶら下がっていた。樽から注がれた赤いベルモット。表面でオレンジの薄切りとオリーブがゆっくり回った。わたしはグラスを右手で回した。相馬さんが、そうしていたように。

    紙の匂いのする、低い声の人。3日しか知らなかった。彼が最後にわたしに何を託したのか。開けないでください、という約束の意味を、わたしはやっと全部分かった気がした。彼は自分が消されることを知っていた。

    そして、この街で唯一、顔に騙されない人間に、その傷を託したのだ。

    「相馬さん」わたしは小さく、日本語でつぶやいた。「わたし、あなたの顔、憶えてないんです。ごめんなさい。——でも、あなたの歩き方と声と紙の匂いは、たぶん、一生、忘れません」

    ベルモットが舌の上で、苦さと甘さのあいだを揺れた。

    窓の外を、誰かが通り過ぎた。革靴の音でもゴム底の音でもない、聞いたことのない足音。わたしは反射的にその匂いを探した。けれどそれは、ただの通りすがりの誰かだった。

    わたしは、またこの街の、顔のない人々の中に帰っていく。

    ただ、前と一つだけ違うことがあった。わたしはもう、自分の見ている世界を恥じていなかった。


    エピローグ オレンジの花

    10月の、よく晴れた朝だった。

    バルセロナの秋は、光が少しだけやわらかくなる。夏の、肩を焼くような白い光が、蜂蜜みたいに色を深める。窓を開けると、海のほうから来た涼しい風に、どこかの家の朝食のコーヒーの匂いが乗っていた。

    うちの郵便受けに、小さな箱が入っていた。

    差出人の名前はなかった。切手も消印もなかった。誰かが直接ここまで来て、入れていったのだ。わたしの部屋を知っている誰かが。

    わたしはキッチンのテーブルで箱を開けた。

    中には、緩衝材にくるまれて、一枚の陶片が入っていた。

    掌に載るくらいの、青い海。細かなガラスと陶器の欠片を寄せ集めて焼き付けたモザイク。青と白と金が、光の角度を変えるたびに海の底みたいに色を変えた。美しかった。息を飲むほどに。

    画像

    そして、その真ん中より少し下に。

    一枚だけ、燃えるようなオレンジ色の小さな三角形が、はめ込まれていた。

    わたしの手が、止まった。

    その陶片を鼻に近づけた。土と窯の熱の匂いの奥に、ふっと、かすかな、けれど間違えようのない匂いがあった。

    オレンジの花。

    甘くて、粉っぽくて、古いお菓子のような。グラシアの工房の奥で嗅いだ、あの匂い。ラ・メルセの火の中で、わたしのすぐ横を通り過ぎていった、あの人影の匂い。

    箱の底に、一枚のカードがあった。カタルーニャ語の、細い迷いのない字で、こう書いてあった。

    『あの夜、私は君のすぐ横にいた。手を伸ばせば、届くところに。

    君は、火の中の何百人もの顔の中から、たった一人の男を、見つけ出した。顔を、見ずに。

    私は、長いこと、誰にも見破られない偽物を作ってきた。顔を持つ者は、誰も、私を見つけられなかった。傷を入れても、誰も気づかなかった。

    けれど、君は違うのだろう。顔を見ない君だけが、いつか私を見つけるのだろう。

    だから、これを贈る。傷を一つ入れておいた。探してみるといい。

    ——傷を入れる者より』

    わたしは長いこと、その陶片を光にかざしていた。

    あの夜、わたしは彼とすれ違った。手を伸ばせば届くところにいた。オレンジの花の匂いと、ゆったりとした足取りと、外套の裾の揺れ。わたしはそれを憶えている。顔は憶えていない。けれど、顔以外の全部を憶えている。

    彼はそれを知っていた。この街でたった一人、顔に騙されない人間がいることを。そして、その人間だけが、いつか自分を見つけ出すことを。彼はそれを恐れているのではなかった。

    待っているのだ。

    見つけてくれる、たった一人を。傷を、見つけてくれる、たった一人を。

    奇妙なことに、わたしの胸に真っ先に立ったのは、恐怖ではなかった。もっと名づけにくいもの。この世界でたった一人、わたしのことを正しく見ている人間がいる。

    顔を憶えないわたしを、欠けた人間としてではなく、顔に騙されない、ただ一人の目撃者として見ている人間が。相馬さんがそうだったように。ジェマがそうだったように。

    そして今、傷を入れる者が、闇の側から同じ目でわたしを見ていた。恐ろしいのに、少しだけ放っておけない。それはたぶん、いちばん性質の悪い誘いだった。

    わたしは陶片を掌に握った。ずしりと重かった。相馬さんが最後にわたしに託した、あの重さと同じだった。

    窓の外で、サンタ・マリア・ダル・マル教会の鐘が朝の9時を打った。石畳に、やわらかい秋の光が斜めに差していた。街はまた、いつものように半分、名札を外して歩き始めていた。

    バルセロナに来て6年、わたしはこの街の誰の顔も憶えていない。

    けれど、たった今、この街に一人だけ、わたしが必ず見つけ出すと決めた人間ができた。

    顔のない、その男を。オレンジの花の匂いのする、傷を入れる者を。

    わたしは陶片を鞄の一番深いところにしまった。相馬さんの名刺と、ラウラ・ビダルの名刺の隣に。

    そして、黒いスニーカーを履いて部屋を出た。

    街の匂いが鼻の奥に届いた。今日もわたしは、靴で、足音で、匂いで、この街の人たちを見ていく。誰よりも細かく。誰よりも正直に。

    いつか、オレンジの花の匂いに、もう一度出会う、その日まで。

     
     
     
    小説を書いています。1日のすきま時間で読めるくらいの短編小説を定期的に発信しています。ジャンルは幅広く、特に人間のつながりをモチーフにした話をよく書きます。感想いただけると励みになります!

    あなたへのおすすめ