
夢の中の夫は、推しに似ている 【第二十話〜第二十一話】
第二十話 止まった時計とふたりの名前
あの熱狂の夜から、数日が過ぎた。
地響きのような歓声も、肌を焼くようなレーザーの光も、今はもう遠い幻のようだ。ネットに渦巻いていた誹謗中傷の嵐は、嘘のように鳴りを潜めている。けれど、それは彼が完全に許されたからではない。
ただ、人々が次の獲物を見つけ、彼という存在に飽きただけ。そんな残酷な静寂が、今のSNSには広がっている。
私は仕事帰りの足で、あの場所へと向かった。夕暮れ時の月読神社。あの日と同じように、湿った風が紫陽花の葉を揺らしている。
石段を登りきると、拝殿の横に、見覚えのある背中があった。今日はマスクも帽子もしていない。夕陽を浴びて、彼の髪が淡い金色の縁取りを作っている。
「陽葵くん」
呼びかけると、彼はゆっくりと振り返った。 その表情を見た瞬間、私は息を呑んだ。コンサートのステージで見せた月のような輝きとも、あの日雨に濡れていた憂いとも違う。深く、澄み渡った湖のような、静かな瞳をしていた。
「……つむぎさん。来てくれてありがとう」
彼は柔らかく微笑み、私の隣に立った。 拝殿の向こう側に沈んでいく夕陽を見つめながら、彼は静かに口を開く。
「中傷、すっかり止んだんだ……。あんなに騒いでいたのに、今はもう、誰も僕を見ていない。……でも、不思議と、心が軽いんだ。他人の評価を気にするの、もうやめたから」
自嘲気味な言葉。けれど、彼の声に悲しみはなかった。他人の悪意に怯えていた自分を、彼は自らの意志で乗り越えたのだ。
「……あの日話せたのは、つむぎさんのおかげです。君の言葉に、僕は救われたんです」
彼は確信に満ちた瞳で、私を見つめる。前世のことなんて、彼はまだ何も知らないはずなのに。それでも、今の彼は、今の私を「自分を救ってくれた人」として認めてくれている。
「……私の方こそ」
喉の奥が熱くなり、声が微かに震える。
「ずっと……陽葵くんに救われてきたんです。あなたの歌を聴いて、どれだけ生きる力をもらったか分かりません。……あなたが、私に光をくれていたんです」
震える声を絞り出す。かつての病室で、何もできずにただ泣いていた千鶴。その絶望さえも、陽葵くんが現代で放つ光が、優しく塗り替えてくれていた。
「つむぎさん」
陽葵くんが、一歩近づく。 夕闇が迫る境内で、彼は少しだけ視線を泳がせ、それから意を決したように、少し照れたような、少年のような表情を浮かべた。
「……あの。よかったら、僕とつきあってくれませんか?」
差し出された手は、微かに震えているようにも見えた。 それは、何万もの観客を魅了するスターの顔ではなく、ただ一人の女性の前で緊張している、一人の青年の顔だった。
差し出された右手が、目の前で静かに止まる。 その瞬間、私の視界の中で彼の指先が、あの日の誠一郎様の白く細い手と重なった。
(あ、誠一郎様……)
驚きと、胸を突き上げるような喜びが同時に押し寄せる。この手を取れば、またあの温もりに触れられる。百年前のあの日、冷たくなっていく手を握りしめることしかできなかった私への、これは神様からの贈り物なのだろうか。
けれど、同時に鋭い痛みが胸を走る。 私の目の前にいるのは、あの病室で命を落とした誠一郎様ではない。今、この過酷な現代を生き抜き、勇気を出して私に手を差し出してくれている、雨宮陽葵という一人の青年だ。
私は、彼を見ているのか。それとも、彼の中にいる誰かを追いかけているだけなのか。
(……それでも)
今、この温もりを離したくない。 罪悪感に似た葛藤が心を締め付けるけれど、それ以上に、彼がくれたこの今という光に応えたいと思ってしまった。
私は震える手をゆっくりと伸ばし、彼の指先に触れる。 誠一郎様よりも少し大きく、けれど同じように優しいその熱。
「……はい」
私は、自分の内側にある棘を抱えたまま、けれど精一杯の微笑みを浮かべて、彼の暖かい手を取り返した。
数日後の夜。
閉館間際の水族館は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 深い海の色をした照明が通路を青く染め、巨大な水槽の中を銀色の魚たちが音もなく横切っていく。
約束の場所であるクラゲの展示エリアで待っていると、背後から急ぎ足の気配が近づいてきた。
「ごめん、つむぎさん。待たせたかな」
振り返ると、そこには深く被ったキャップの隙間から、まだ仕事の熱を帯びた瞳が覗いていた。 今日の彼は、雑誌の撮影を終えてそのまま駆けつけてくれたのだという。少し掠れた目元のラインや、整えられた髪が、彼が雨宮陽葵として生きてきた直後の証拠だった。
「ううん、私も今来たところ。お仕事、お疲れ様」
「ありがとう。……こういう場所で会うの、なんだか不思議だね」
二人で並んで、円柱形の水槽の中を漂うミズクラゲを眺めた。青い光に照らされた陽葵くんの横顔は、いつも以上に立体的で、それでいてどこか透明感がある。 ふと、私はずっと胸にしまっていた記憶を口にした。
「……実はね。初めて陽葵くんに会った時のこと、思い出してたの」
「初めて……? 神社のこと?」
「ううん、本当の最初。……ルナステラの握手会」
陽葵くんが「ああ」と小さく声を漏らす。 私は、当時の自分の、震える指先や張り裂けそうな鼓動を思い出しながら言葉を継いだ。
「あの時、私、人生で一番ってくらい緊張してて。けど……陽葵くんが、すごく優しく笑ってくれたの。それが本当に嬉しくて、安心したんだよ」
当時の私にとって、彼は手の届かない天上の星だった。けれど、その優しさは驚くほどに温かかった。
「……同じだね」
陽葵くんが、水槽を見つめたまま静かに笑った。
「僕も、あの時は緊張してたんだ。……。だから、つむぎさんが僕の前で一生懸命言葉を探してくれたとき、泣きそうだったんだよ」
「陽葵くんも……緊張してたの?」
驚いて隣を見ると、水槽の青い反射が彼の瞳に揺れていた。 その瞬間、心臓が痛いほど締め付けられた。
少し俯き加減になった彼の鼻筋、唇の端の柔らかな曲線。 水底のような暗がりの中で、そのシルエットが、かつて病床で静かに微笑んでいた誠一郎様の姿と、残酷なほど鮮明に重なった。
(あ、誠一郎さん……)
けれど、すぐに脳内を別の感覚が支配する。 隣にいる彼は、誠一郎様のように死を待つ人ではない。仕事のメイクを落とす暇もないほど忙しく現代を駆け抜け、誰にも言えない孤独を抱えながら生きる私と同じ等身大の二十代の青年なのだ。
アイドルという鎧も、前世という幻影も。 青い光に透ける彼の横顔は、そのどちらでもない、ただの雨宮陽葵という一人の男性のそれだった。
「……陽葵くんは、優しいね」
私は、誠一郎様への思慕と、目の前にいる彼への愛おしさが混ざり合い、ぐちゃぐちゃになった感情を隠すように、また水槽へと視線を戻した。
彼を知れば知るほど、誠一郎様と似ている部分に歓喜し、同時に、彼が誠一郎様ではないという事実に絶望する。 この青い海のような静寂の中で、私は、自分が抱える棘の鋭さを改めて思い知らされていた。
「あ……」
不意に、陽葵くんの足が止まった。 視線の先には、大きな水槽の隅にひっそりと置かれた、古びた木製の手桶の展示があった。かつての海辺の暮らしを再現するための何気ない小道具。
けれど、それを見た瞬間に彼の表情が凍りついた。
「これ……知ってる……」
陽葵くんが呟く。 彼の手が宙を彷徨い、こめかみを押さえた。その指先が、目に見えて激しく震え始める。
「冷たい水……、手拭いの匂い。誰かが、僕の額を拭いてくれてる……。……千、鶴?」
その名前が彼の唇から零れ落ちた瞬間、心臓が止まるかと思った。 青い光の中で、陽葵くんの瞳が急速に熱を帯び、焦点が定まらなくなる。まるで今この場所ではない、別の時代の景色を脳裏に映し出しているかのように。
「……陽葵くん?」
「つむぎさん、僕……。夢じゃなかったんだ。あの暗い部屋で、僕の最後を見届けてくれたのは……」
彼は苦しげに息を吐き、すがるような目で私を見た。その瞳は、もうアイドル・雨宮陽葵のものではなかった。
「前の人生で……僕たちは、夫婦だったの?」
隠し通すことは、もう不可能だった。 私は込み上げる涙を抑え、覚悟を決めて深く頷いた。
「はい。そうです、夫婦でした。大正時代……私は桜庭千鶴で、あなたは桜庭誠一郎さんでした」
陽葵くんの目が、大きく見開かれた。 ヒュッ、と喉の奥で息を呑む音が聞こえ、彼は力なく水槽のガラスに手を突いた。
「大正時代……桜庭……誠一郎……」
彼は自分の中に溢れ出した濁流のような記憶を、必死に整理しようとしている。 私は何も言わず、ただ待った。 数万人の歓声を浴びる今の彼と、孤独な病床で果てたかつての彼。その二つの魂が、今、この青い水底のような空間でひとつに重なっていくのを。
「そうか……」
やがて、陽葵くんが絞り出すような声で呟いた。
「だから、ずっと誰かを探してたんだ。……どこに行っても、何をしていても、何かが足りない気がして。……ずっと、誰なのか知りたかった。死ぬ間際まで、僕を愛してくれた、あの声の主を」
彼はゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……それが、君だったんだね。千鶴」
百年前、静寂の中に消えたはずの名前。
それが今、現代の光を浴びる彼の口から、確かな愛着を込めて放たれた。
その瞬間、私の視界は一気に涙で溢れ、耐えきれずに彼の胸へと飛び込んでいた。
「……っ、誠一郎さん……!」
喉の奥から、嗚咽とともにその名が漏れる。 ずっと一人で抱えてきた、途方もない孤独。彼がいない世界で、彼だけを想って生きてきた何十年分もの重みが、すべて熱い涙となって流れ出していく。
飛び込んだ胸は、想像していたよりもずっと逞しく、けれど記憶の中にあるあの人と同じように、優しく清らかな香りがした。
「千鶴……、ごめんね。寂しい思いをさせたね」
陽葵くんの声も、涙に濡れて震えていた。 彼は私を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという強い意志を込めて、その腕で力強く抱きしめた。
あの日、病室で冷たくなっていく彼を抱きしめることしかできなかった私。 でも今は、彼の温かな鼓動が、私の胸に力強く伝わってくる。
「ううん……。やっと、やっと会えた……」
水槽の青い光に包まれながら、私たちは互いの涙で肩を濡らし、ただひたすらに抱き合った。
数万人の愛を背負うスターとファンでも、大正を駆け抜けた夫婦でもない。 ただ、時を超えて巡り会えた、たった一組の魂として。
閉館間際の水族館、深い水の底のような静寂の中で。 私たちの止まっていた時計の針が、今、再び重なり合い、確かな音を立てて動き始めた。
私たちの止まっていた時計の針が、今、再び重なり合い、確かな音を立てて動き始めた。
——それでも私は、この手を取った理由が彼自身なのか、それとも過去の彼なのか、まだ答えを出せずにいた。
第二十一話 光の檻
水族館でのあの夜から、私の世界は一変してしまった。
記憶を取り戻した陽葵くんは、私に会うたび、かつての誠一郎さんがそうであったように、惜しみない愛を言葉にしてくれるようになった。
けれど、彼が私を愛おしそうに見つめれば見つめるほど、私の胸の奥には鋭い棘が深く刺さっていく。
夜、私は彼に呼び出されて、都心の夜景が一望できる運河沿いの橋の上にいた。 眼下には絶え間なく流れる車のヘッドライトが光の川を作り、遠くでそびえ立つビル群が、現代という時代の象徴のように冷たく、けれど美しく輝いている。
「つむぎさん」
潮風に髪をなびかせながら、陽葵くんが私の方を向いた。 仕事帰りなのだろう、完璧に整えられたその姿は、夜の闇の中でも異様なほど発光しているように見える。
「……好きだよ、つむぎさん。アイドルとしてじゃなく、一人の男として、君の隣にいたい」
真っ直ぐな、あまりにも純粋な告白。 ずっと、夢にまで見た言葉だった。画面越しに憧れていた雨宮陽葵が、そして前世から愛し続けてきた誠一郎さんが、今、私の目を見て「好きだ」と言ってくれている。
心臓が、歓喜で張り裂けそうになる。 けれど、その熱が上がれば上がるほど、私の頭の中は冷徹な現実で満たされていった。
(……この人を、私だけのものにしてはいけない)
私は、溢れそうになる涙を堪え、震える唇を開いた。彼に対して、嘘をつくことだけはしたくなかった。偽りの拒絶ではなく、真実の絶望を伝えなければならない。
「陽葵くん。……私も、あなたのことが大好き。ファンとしてずっと憧れていて、でもそれ以上に、一人の男性として、あなたのことが……好きです」
陽葵くんの瞳に、ぱっと光が灯る。けれど、私はその光を遮るように言葉を続けた。
「でも、だからこそ、私はあなたの隣にはいられない。……今のあなたは、私一人が抱えていい人じゃないの。何万もの人の夢を背負って、これからもっと広い世界へ羽鳥っていく人。私があなたの隣にいたら、私の存在があなたの翼を折ってしまう」
「……そんなことないよ。キャリアなんて、君がいなきゃ意味がないんだ!」
「いいえ、意味はあります。私は、大好きなあなたを……自分の手で壊したくない」
私は、差し出された彼の美しい手を、指先が触れる直前で静かに押し戻した。
「私たちがまた出会えたのは、神様がくれた奇跡かもしれない。でも、この時代での私たちの道は、きっと交わってはいけないの。……私は、遠くからあなたを見守る一人のファンに戻ります」
「つむぎさん……待って、行かないで……!」
「……さようなら、陽葵くん」
私は、彼が追いかけてこれないほどの速さで、橋を駆け下りた。 背後で、悲痛な叫びのような私の名が響く。心臓が握りつぶされるような痛みにのた打ち回りそうになりながらも、私は一度も振り返らなかった。
(大好きだよ。大好きだから……さよなら)
街灯の光が涙で激しく滲み、歪んでいく。 私はポケットの中で、スマートフォンを強く握りしめ、彼の連絡先を消去した。
暗い夜の底へと沈んでいくような感覚。
それは、百年前のあの死別を、自分の意志でもう一度繰り返すような、果てしない絶望に満ちていた。
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