メインコンテンツへスキップ
見出し画像

吃音者は、時の流れが違う世界を生きている

     私は吃音だ。

     吃音とは、うまく話せないことだと思われている。

     詰まって声が出ない。「パパパ、パン」のように同じ音を何度も繰り返す。身体が石のように固くなる、力む。そういう身体症状が出てうまく話せないのが一般的な吃音のイメージだろう。

     だが私の吃音はそれだけではなかった。

     会話の流れから遅れていく。みんなの時間は前へ進んでいるのに、私の時間は止まったままだった。

     みんなの輪の中で話題は流れ、冗談は笑われ、次々に言葉が積み重ねられていく。その間の私は、頭の中に完璧に浮かんでいる一言を、まだ口に出せずにいる。やっと声を出せたと思ったら、その言葉はもう古くなっている。

     吃音の苦い記憶を思い出そうとすると、どもったことよりもこうした「頭に浮かんだことを言えずに時間が流れた」ことばかり思い出す。

     たとえ周りから気にされなくても己の感覚は正直だ。本当に語りたかった言葉を諦めてまったく違う言葉で話したあの時。言いたいことは頭に完璧に浮かんでいるのに吃音がこわくて無知なふりをしてやり過ごしたあの日。

     話せなかった。みんな気にしてないと分かっているのに勇気が出なかった。そういう苦い記憶だけがずっと残っている。

     たとえばそれは友達との会話で起きる。「○○って知らない?」「知らないー」。そんな言葉が交わされたとき、私だけがその○○を知っている。詳しく説明もできる。だって好きだから。

     でも、知っていると言えなかった。説明しようとしたときにどもるイメージが頭から浮かんで消えないからだ。だからみんなに合わせて私も知らないことにした。そのときのみじめな気持ちは今も覚えている。

     仮に説明ができたとしても、私は「本当に言いたかった言葉」を言っていない。こういう言い回しの方が相手に伝わる。そう思っていても、私は「どもらなさそうな言葉」を最優先に選んで発する。

     もっと分かりやすく説明できるのに。吃音を理由に話すことをやめたのは自分なのに、そうやって言い訳がましい思いだけが心に残ってしまう。

     言葉が頭に完璧に浮かんでいるときはとても辛い。紙に一言一句書き出せるぐらい鮮明に浮かぶときもある。でも言えない。あるいは詰まっている間にタイミングを逃してしまう。そういう思いを私は20年近く続けていた。

     この吃音によって「話せない」ことの状態や心理を見事なまでに言語化したのが三島由紀夫『金閣寺』だ。

     実際にあった金閣寺放火事件をモチーフにしたこの作品は、主人公が幼いころから吃音をかかえている。どちらかといえば「美」などをテーマに語られることが多い本だが、私は吃音の描写があまりにも素晴らしくて、その表現だけ何度も読んでいる。

     吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待ってくれているように思われる場合もある。しかし待ってくれている現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。

    三島由紀夫『金閣寺』p7

     何人かで話しているとき、私がその場に適した言葉を思いついたとする。その言葉を発しようとしても吃音で出てこない。そうしている間に周りで話は進み、話題は二転三転していく。やっとリラックスして思いついた言葉を発せたとしても、それはひどく場違いなものになる。

     三島はそれを「鮮度」で例えた。会話の中で私が思いついた言葉は、その場で話すからこそ新鮮でぴったりの言葉になる。吃音でじたばたしている間に時は過ぎ、やっと発せたときにはどうもちぐはぐな言葉になる。

     私だけ時が止まっている。動いていたとしても、ゆっくりスローモーションで流れている。周りの人たちと時間の流れがまったく違うのだ。

     私の頭の中は、そうした腐臭を放った言葉で埋め尽くされている。どもって言えなかった言葉。吃音がこわくて言えなかった言葉。「もし自分が吃音じゃなかったらこうしゃべる」と妄想した言葉。

     だが今になってみると、そうした言葉たちが決して使い物にならない腐り方をしていたわけじゃないことが分かる。

     今の私から飛び出る言葉は、今思いついた言葉だけではない。あの頃の私が「もし吃音じゃなかったら……」と妄想を積み重ねた言葉だ。

     ここ数年は調子がよい日が多い。周りに吃音だとカミングアウトしても信じられないという顔をされるだろう。話すことはもうこわくないはずだ。

     それなのに私はどうしてそんなに焦るように話しているのだろう。流ちょうに話せているはずなのに、ときどきそう感じることがある。

     相手が言い終わるかどうかぐらいで、咄嗟に話してしまう。もう自分の言葉が言いたくて言いたくてうずうずしているかのように。話を聞いていないわけではない。聞きながら、頭をフル回転させて相手に返す的確な言葉をずっと探している。

     話すことは、私にとって幸せなことだ。自分の頭に思い浮かんだ言葉をそっくりそのまま伝えることができる。こんな人生が自分にあると思わなかった。だからなのか、ついつい自分の独演会のように言葉が止まらなくなる。

     私はただ、話すことが楽しいだけではない。周りの時間に置いていかれることに、まだ怯えているのか。思いついた言葉がまた鮮度を失ってしまうことを恐れているのか。

     吃音がある程度改善された今でも、私は吃音から完全には逃れられていない。

     けれど、かつて腐ってしまったと思っていた言葉は、ただ朽ちていたわけではなかった。言えなかった言葉。言い換えた言葉。無知なふりをして飲み込んだ言葉。もし吃音じゃなかったら、と頭の中で何度も妄想した言葉たち。

     私が思いついては心の奥にしまっていた言葉が発酵して、今こうして言葉になっている。だから私はあの頃のように言葉がまた腐る前に、誰かに届けたいと思ってしまう。

     吃音者は、時の流れが違う世界を生きている。私は今も、時に遅れまいと、少し遅れた世界から言葉を引っ張り出そうとしている。


     質問箱やってます!!!


     
     
    ライター|つじーです|サッカー・読書・エンタメを語る人|ジャンルの垣根をこえて考えたり発信します|特に一見関係なさそうな話をサッカーと結びつけて語るのが得意です|書評の連載してます|コンサドーレ、timelesz、歴史に夢中|Xに年間120冊の読書感想|33歳やってます

    あなたへのおすすめ