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【短編小説】眼に蝶の住む男

    ※コンテスト応募作品です。

    あらすじ:駆け出しの若い画家である百々目丈太郎は、自分の眼に取り憑いた蝶を祓ってほしいと伊達に依頼した。
    しかし、伊達は蝶は取り憑いているのではなく、百々目の眼の中に閉じ込められているという。
    その蝶が何者であるのかを調べるため、伊達は紘一狼と共に百々目が見たという長屋を訪れたが、そこで聞けた話は工場の事故で職を失った若い夫妻の悲劇だった。
    夫から暴力を受けていた妻が蝶となり、偶然夫婦の争いの現場に居合わせた百々目の眼の中に逃げ込んだらしいと知った伊達たちは、彼女を解放すべく百々目の下宿を訪れた。
    しかし、百々目は蝶の翅越しに見える世界に魅了され、蝶を解放する気はないという。そのため、伊達は蝶の望む通り力づくで百々目の眼から彼女を解放したのだった。


    「私の眼の中に蝶がいるのです」
     憂鬱で染め上げたような暗い鼠色の着物に、冴えない紺色の羽織を引っかけた青年は、血の気の欠いた顔に硬い表情を浮かべながらそう言った。
     彼の右手は無造作に目元に伸び、檻のような五指が目を覆う。しかし、その隙間から覗く眼球はまるでそれが一つの生物であるかのように、ギョロギョロと神経質そうに動いていた。
     彼の指の爪には絵具の名残が見える。そしてまとう空気からは、かすかなテレピン油の匂いがした。その出で立ちからして画家の類だろう。
     カフェーの女給に連れられて席にやってきたその青年を見上げ、伊達は興味を引かれた様子で「ほう」と呟く。
     本来なら食事や酒の席を邪魔する無粋者は相手にしない彼だが、あいさつもそこそこに奇妙な訴えを口にしたその画家らしき青年の様子から、何やらのっぴきならぬ事情があるようだと察したのだった。
    「先ほどお話した、伊達だてさんに会いたがってらしたお客様ですわ」
     伊達と同じ長椅子に腰掛けていた女給の一人が彼に耳打ちするように顔を寄せ、猫なで声で言う。
     その言葉に納得したように伊達は一つ頷き、くわえていた煙管を持ち上げると、「まあ、掛けたまえ」と言って画家の青年に自分の向かいの空席を指して見せた。
     それに合わせて同席していた女給たちが訳知り顔でさっと立ち上がり、伊達と彼の連れである明るい髪色をした若い男に一礼をする。
    「またね、紘一狼こういちろうさん。伊達さんがいらっしゃらない日も、お一人で来てくださって構いませんのよ」
    「はは……ありがとうございます」
     女給の一人からかけられた言葉に、紘一狼と呼ばれた若者が困惑混じりの乾いた笑い声をあげて、伊達の隣で落ち着かなげに身じろぎした。
     そんな様子を見て女たちはくすくすと鳥のさえずりのように笑い、空になった酒器や料理の皿を持って去っていく。
     残されたのは伊達と連れの紘一狼、そして画家らしき青年という男三人のみである。
     たった今やってきたばかりの画家の彼は、卓を挟んで伊達たちに向き合う形で腰を下ろした。
     日が沈んで間もない時間帯のカフェーはまだ混んでおらず、客の数はまばらだ。優美な細工の施された木製の衝立越しからは女給たちの甘い囁きと、早いうちから店を訪れた他の男たちの低いしゃべり声がぼそぼそと聞こえるばかり。誰も伊達たちのいる席に注意を払っている者はいなかった。
     しかし、それでも画家の青年はいくらか声をひそめ、女物と見まがう華やかな柄の着物をまとった男――伊達を見ながら口を切る。
    「あなたは人や物に憑いた魔を祓うことができると聞きました。私の眼に棲みついた蝶を追い払ってはいただけませんか」
    「人の眼に棲む蝶の話など、聞いたことがないがな」
     青年の言葉に伊達は器用に片眉を上げ、独り言のようにそう呟いた。
     それを聞いて画家の青年は間髪入れずに「嘘じゃありません」と応じる。
    「私の気が触れたわけでも……ないと思います。友人に話したら大笑いをされたあと、真剣な顔で医者に行くよう言われましたけれど」
     そう言って男は力を失ったように視線を落とし、眉間にしわを寄せた。目の下には隈も浮かんでいる。彼の話が事実にせよ何にせよ、憔悴しているのは誰の目にも疑いようがなかった。
     伊達はくわえた煙管からぷかりと煙を吐き出し、「眼を見せてくれ」と静かに言う。
     画家の青年は無言でその言葉に従い、顔を上げて伊達の方を見やった。
     黒に近い茶色の双眸から向けられる視線が伊達のものと交わる。
     数秒のあいだ二人はそうしていたが、やがて伊達がふと首を回し、隣に座る紘一狼に尋ねた。
    「お前には見えるか?」
    「いえ……僕には何も」
     ためらいがちに紘一狼は言ってかぶりを振る。そして「伊達さんには見えるんですか?」と問い返したが、それに伊達は「いや」と短く答えた。
    「今もあんたには蝶の姿が見えているのか?」
     顔を画家の方へ戻し、伊達がそう確認すると、彼は視線をおそるおそる宙へさまよわせたあとに「ああ」と声を上げる。
    「今は隠れているようです。この右目の隅の方にいますよ」
     指で右の頬骨あたりを指し示し、画家は小さく息をつく。そして「こいつは私の両眼のあいだを自在に行き来できるようなのです」と説明した。
    「激しく動くと羽音のようなものも聞こえますよ。バサバサと頭の中に響くのです。生きた心地がしやしません」
     それを聞いて紘一狼は気の毒そうに画家の男を見やり、継いで傍らの伊達に「何とかなりませんか」と縋るような視線を向ける。
     伊達は白い手を卓の上に伸ばし、画家にも手を出すよう身振りで示した。
     彼は怪訝そうな表情を一瞬浮かべたが、やはり先ほど同様おとなしくそれに従う。
     すると伊達は画家の青年の両手に自分の左手を重ね、強く押さえ込むように握った。
    「あの、これは……?」
     いささかドギマギした様子で画家が問うが、伊達はそれに何も答えない。そのかわりに空いている方の手で煙管を口から離し、おもむろに彼の顔にふうっと煙を吹きかけた。
     その瞬間、画家は悲鳴じみた声を上げて反射的に眼を庇おうとするが、伊達に手を掴まれてかなわない。
     彼が何とか振り払うようにしてその拘束から逃れ、眼を覆うと同時に、紘一狼が興奮のにじむ語調で言った。
    「蝶だ」
     紘一狼の金の眼には確かに、画家の瞳の中でまたたく一頭の青い揚羽蝶の姿が映っていたのである。
     そしてそれは伊達の眼にも同様だった。
     「これは驚いた」と言葉をもらし、煙管をくわえ直す。
    「な、何なんですか、一体」
     突然煙を吹きつけられた画家だけが状況を飲み込めず、両手で眼を覆ったまま呻いた。決して痛みがあったわけでも、煙たかったわけでもない。ただ右眼の端に潜んでいた蝶が突如として彼の眼の中で暴れたため、驚きと混乱により取り乱したのである。
     もっとも、一番仰天したのは蝶の方であったらしい。まるで出口を探すかのごとく、眼の中を激しく飛び回っているのが画家にはわかった。
     彼は目を閉じて蝶の存在を消そうとするが、頭蓋の隅々にまでバサバサという蝶の翅の音が響いている。
     画家の青年は卓の上に突っ伏し、頭を抱えながら苦悶の唸り声を上げた。
     伊達はそっと腕を伸ばし、なだめるように青年の頭をなでる。
     それから静かな声音で「その蝶が取り憑いているものの類なら、今のでたまらず眼から飛び出してきたはずだ」と言った。
    「それは……蝶が取り憑いているわけではない、ということですか? でも確かにこの人の眼の中には蝶がいましたよ」
     紘一狼がそう言って困惑した様子で伊達と画家の男を交互に見やる。
     それに伊達はやけに淡々と聞こえる音吐で言葉を返した。
    「ああ。だがそれは取り憑いているんじゃない。彼の眼の中に閉じ込められたんだ」
     伊達の手の下で、画家の肩がびくりと小さく跳ねる。
    「光景を目に焼き付ける、なんて言うだろう? それと同じさ。はなから取り憑くつもりもなければ、眼の中に入り込むつもりもなかっただろう。何の因果か知らないが、囚われたのは蝶の方だ」
     そんな伊達の言葉に紘一狼は小さく息を飲み、画家の青年の方へと目を向ける。当の画家の呻き声は徐々におさまったが、そのかわりとばかりに呼気が荒く、大きくなっていた。今や顔からは冷や汗をたらし、肩で息をするようなありさまである。
     そんな画家の頭上からゆっくりと手を引き、伊達が温度のない声で尋ねる。
    「あんた、一体何を見たんだ?」

     百々目どどめ丈太郎じょうたろうは燈境とうきょう市内の画学校で西洋画を学び、団体展の公募では幾度かの入選経験もある洋画家である。とはいえまだ若く駆け出しであり、風景画や肖像画を依頼されて描くかたわら、雑誌の表紙、挿絵などを描いて何とか生計を立てているのが現状だった。
     しかも近頃はめっきり筆が鈍り、馴染みの商人から頼まれた絵の納期も先延ばしにしてもらっているような状態である。
     百々目は焦っていた――依頼された絵を仕上げねば、そして団体展で入賞できるような立派な絵を描かねばと。
     しかし、必死になればなるほど筆に宿るのは迷いと焦燥の入り混じった、泥のような絵具の亡骸ばかり。日が暮れて下宿の床に就いても睡魔は訪れず、仕方なしに正気を奪う強い酒か、失って久しい絵画の託宣を求めて自らが夜の街へと繰り出すほかなかった。
     そんなある夜のこと。
     百々目が普段持ち歩いている画帳の頁のようにからっぽの心を抱え、まだガス灯の残る古い住宅街の路地をとぼとぼと歩いていると、どこかで女の悲鳴のようなものがした。夜の帳を引き裂くような長いものではなく、短く細い叫びだ。
     それにもかかわらず、やけに百々目の耳についたのである。
     彼はまるで何かに誘われるように声のした方へふらふらと歩いていった。
    「静かにしろ、迷惑だろうが!」
     女の声よりもはるかに大きく、荒々しい男の怒声が百々目の鼓膜を打つ。それは彼の頭上から降ってきた。
     百々目がふと天を仰ぐと、長屋の二階にある開け放たれた窓のそばで密着しあった若い男女が見える。しかしそれは寄り添っているというより、揉み合いになっていると言う方が正しいように百々目には思えた。
     目を丸くして二人を見上げる彼に気付いたのか、女の視線が眼下の路地にいる冴えない画家の姿をとらえる。百々目も彼女を見上げ、ハッとした顔でとっさに腕を伸ばした。女の体が窓から落ちそうに思えたからだ。
    「助けて」
     そんな小さな呟きが聞こえたと思った瞬間、女は百々目の方へ手を伸ばした――窓の外へと。

    「それから……」
    「それから、どうした?」
     カフェーの長椅子に腰掛け、煙管をくゆらせている伊達の冷静な声が百々目に話の続きを促す。
     百々目は何度か「それから」と口の中で繰り返し、やがて頭を抱えて呻くように言った。
    「思い出せない……」
    「何も?」
    「ええ、何も」
     そう答えて顔を上げた百々目の顔面は蒼白であり、全身がぶるぶると震えていた。それは春の終わりの夜気による寒さのせいではない。カフェーの中は充分に温かく、むしろ百々目の額や頬には汗が浮かんでいるほどだ。もっとも、それは暑さのせいではないようであったが。
    「ただ何か……蝶なんて可愛らしいものじゃない、何かとても恐ろしいものが、彼女の背後に見えた気がしたのです」
     百々目は荒い息をつきながらそう言って両手で顔を覆い、泣き出しそうな声音で話を続けた。
    「それで私は怖くなって……その場から逃げ出したかったのに、足がすくんで動けず……気が付いたら町はずれにある橋の上で倒れていました。警邏中の警官に声をかけられ、酔っ払いはさっさと家に帰れと追い払われて下宿へ戻ると、その夜はそのまま気を失うように眠ってしまったのです。そして朝起きたら……」
    「眼の中に蝶がいた」
     先の言葉を引き継いだ伊達に百々目は頷いてみせる。
     それから彼は深呼吸し、息を整えると、わずかに落ち着きを取り戻した様子で話を再開した。
    「誓って言いますが、私はその日、酒を飲んではいませんでした。眠れないならば素描でもしようと、夜の街を歩いていただけなんです。友人はどうせ酔っていたんだろう、蝶が見えるなどというのも悪酔いのせいだと言い、そうでなければ精神がやられたに違いないと思ったようでした。しかし、私はその友人の勧めに従って医者に行く気にはとてもなれなかったのです。本当に気が触れたと思われ、精神病院に入れられでもしたら、私の人生はおしまいですから」
     この町にある精神病院と名のつく場所は、病院とは名ばかりの狂人専用隔離施設のようなものだ。医学的な根拠のある治療などされないどころか、心の病に関する理解すらないに等しい。そんな病院へ送られるということは、すなわち社会的な死を意味するのである。
     そんな百々目の切実な言葉に、これまで黙って聞いていた紘一狼がわずかに身を乗り出し、彼の震える肩に手を置いて「大丈夫ですよ」と口を切った。
    「僕らにもあなたの眼の中の蝶は見えました。それはお酒のせいでも、気が触れたわけでもないという何よりの証拠です」
     真っ直ぐに百々目の眼を見て断言するように言う紘一狼の語調には、ただの気休めの言葉にはない誠実さがにじんでいる。
     きっちりとネクタイを締め、明るい色のスーツをまとった彼の真剣で力強い眼差しは、狂気と幻想に捕らわれかけている百々目を現実に引き戻し、彼を元気づけた。
    「……ありがとうございます」
     百々目はそう言って頭を下げ、目元を拭う。
     それから彼は伊達の方へと目を向け、「あとはご存知のことと思いますが」と前置きして言葉を継いだ。
    「どうしようかと途方に暮れていたところ、魔祓いじみたことをしている伊達という人がこのカフェーに出入りしていると人づてに聞きまして、二日ほど前に訪れたのです」
     そのとき伊達は不在だったが、店の女給たちが「二、三日ほど通ってくださいな。そうしたらきっと伊達さんに会えますから。こういう機会は決して逃さない人ですのよ」と口をそろえて言ったのだという。
     ただの客引きの文句にしか思えないものではあったが、百々目には他に頼るあてもなく、言われるがままに連日このカフェーを訪問した。そして、彼女たちの言葉通りのことが起こったというわけである。
    「これでこの件について私がお話しできることはすべてです」
     そう言って百々目は一つ大きな息をつき、両眼を閉じた。
     彼の瞼の裏では未だに蝶が落ち着かない様子でカサコソとかすかな物音を立てているが、何とか意識しないよう努める。
     伊達はそんな百々目に「話を聞く限り、あんたの見たものとその蝶が関係している可能性が高いな」と、淡白な語調で告げた。
     それに紘一狼が険しい面持ちで応じる。
    「この方が見たという、恐ろしいもの、ですか?」
    「さて? それは調べてみないとわからんが……逆に言えば、調べれば自ずと答えは見えるだろう」
     そう答えた伊達は煙管から灰を落とし、長い息とともに煙を吐き出したあと、百々目に向かって警告でもするかのような口ぶりで言った。
    「とにかく、その蝶が普通の人間の眼には見えない代物であるのは確かだ。あんたが友人にその蝶の話をしたとき、そいつがさっきのように眼の隅に隠れていたのか、はたまた見える場所にいたのかは俺にはわからん。だが、たとえ見える場所にいたとしても、あんたの友人には蝶の姿など見えなかっただろう。そいつはそういうものだ」
    「そういうもの?」
    「そうだ」
     怪訝そうな面持ちで首をかしげる百々目に、伊達は短くそう答えて頷く。
     これまでの彼の説明によれば、百々目の眼の中にいる蝶は取り憑く類のものではない。かといって、普通の人には見えないものとなると一体何であるというのか、百々目には見当もつかなかった。
    「あんたが見たという、男女がもめていた長屋の場所はわかるか?」
     不意にそう伊達に問われ、百々目は「えっ」と声を上げたあと、あわてて記憶の糸をたぐり始める。
     しかし、まもなく彼は首を振って「残念ながら正確な位置までは覚えていません」と白状した。
    「悲鳴のような声が気になって、入ったことのない路地を当てずっぽうに進んだのです。せいぜい、そこに入る手前までしかわからないかと……」
    「それでいい。その近くで話を聞けば見つかるだろう――紘一狼」
    「はい」
     伊達は同じ長椅子に掛けている紘一狼の方を振り向き、淡々と指示を出した。
    「彼におおよその場所を聞いて、その付近で最近行方不明になったか、意識がなく寝込んでいる者がいないか尋ねてきてくれないか」
    「それは構いませんが……伊達さんはどうされるんです?」
    「俺は帰って調べたいことがある。悪いがお前だけで行ってきてほしい。まずはその長屋を見つけるのが先決だ」
    「わかりました」
    「そ、それは私を助けて下さるということですか?」
     伊達と紘一狼のやりとりを聞き、喜びよりも驚きの色を浮かべて百々目が声を上げる。
     それに伊達は「何を当たり前のことを言っているんだ」という表情を浮かべ、紘一狼は満面の笑みで「もちろんです」と答えた。
     しかし、百々目がほっとした様子で礼を口にしようとすると、伊達がやや棘のある声音で「言っておくが」とそれをさえぎる。
    「あんたが面倒な話を持ってきたことには違いない。俺の仕事のようだから何とかするが、俺が善意や篤志で動いていると思うなよ」
     眼の中の蝶さえ竦み上がりそうな鋭い視線を伊達に投げかけられ、百々目は射貫かれたようにその場に固まった。細身の伊達からは考えられない、巨大な鬼にでも睨まれているかのような圧に百々目は息を飲む。伊達と目を合わせているのが恐ろしいのに、それをそらすことにさえ恐怖を覚えた。
     紘一狼はそんな二人のあいだに身を乗り出して強引に割って入り、「わかるところまでで結構ですので、道を教えていただけませんか」と百々目に問いかける。
     その言葉で緊迫の糸は切られ、百々目は安堵の息をこぼしながら取り繕うように言った。
    「そ、そういうことでしたら、私が途中までご案内しましょうか?」
    「申し訳ないが、あんたはおとなしくしていてくれ。余計なことはされたくない」
     紘一狼の返答よりも早く、伊達がきっぱりと拒否の言葉を差し込む。
    「伊達さん!」
     思わず紘一狼が声を上げるが、伊達はそれを気にすることもなく「あんたのためだ」と百々目に言った。そこにもはや険はなく、あるのは揺るぎのない真剣な眼差しだけである。
    「……わかりました」
     やがて百々目はそう言って頷くと、わかる限りの長屋までの地図を画帳の一頁に描き、紘一狼に渡した。
     それをしっかりと確認してスーツのポケットにしまった紘一狼は「では、いってきます」と伊達に告げて立ち上がる。
    「夜が深くなる前には戻れよ。どうせ遅い時間になれば、話を聞ける者もいなくなるだろうしな」
    「はい」
     伊達の言葉に素直に首肯し、紘一狼は店を出て行った。
     それを黙然と見送り、伊達とともにカフェーの一席に取り残された百々目は、居心地悪そうに身じろぎをする。
    「あの、それで私はどうしたら……?」
     おずおずと彼が尋ねると、伊達はあまり関心のなさそうな様子で長椅子に背を預け、「家で絵でも描いたらどうだ?」と呟く。
     それが出来ていたら苦労はないと百々目は苦々しく思うが、伊達に対してそれを口にする勇気はなかった。そもそも、蝶の件を抜きにしても絵が描けないというのは彼自身の問題であって、伊達が気にすることではないからだ。
    「それはつまり、むやみに出歩くなということですね」
    「まあ、そういうことだ」
     言外の意思を汲み取った百々目の言葉に、小さく肩をすくめて伊達は同意してみせる。それから、わずかに身を起こして彼は穏やかに言った。
    「近いうちにあんたの家にお邪魔させてもらう。そのときには蝶をその眼から解放できるだろうから、下宿の住所を――」
     そこまで言いかけたとき、不意に百々目の眼の中で蝶が大きく羽ばたいた。そして気でも狂ったように彼の視界の中を飛び回る。
     百々目の頭蓋に、天が音を立てて剥がれ落ちるような激しい音が鳴り響いた。それはもはや痛みを伴うほどの大きさとなり、彼の頭の内側から脳や眼球、骨や歯まで揺るがせる。
     百々目は頭を抱えて叫びながら、激痛と轟音から逃げるように駆け出した。
     店の他の客席からどよめきと悲鳴が上がる。
     それを聞きつけ、女給の一人が伊達の元へと足早に駆け寄った。
    「何事ですか?」
    「騒がせてすまん。今いる客に酒でも振舞ってやってくれ。俺が持つ」
    「それは助かりますけど……あの方、どうなさったの?」
     扉を壊すのではないかという勢いで店を飛び出していった百々目の後ろ姿を見送りながら、女給が呆然と尋ねる。
     その問いに伊達は「俺が訊きたいね」と言って小さく舌打ちをした。

    「二階の若夫婦ねえ……ある日を境に、ふうっと煙みたいに消えてしまったんですよ。夜逃げなんじゃないかって言う人たちもいますけど、どうだか」
    「夜逃げ? それでは、生活に困っていたと?」
     伊達が聞き返すと、二階建ての重層長屋に住む人々――昼下がりにいるのはそれぞれの家庭を守る女たちだ――の一人が頷きながら話を続けた。
    「ええ、何でも旦那さんの勤めていた工場の親方が、機械の事故で急死してしまったとか。まだまだ働き盛りの元気なお人だったもんだから、後継人も決まっていなかったみたいでね」
    「しかも間の悪いことに、思い切って新しい機械を導入したばかりだったそうですよ。そのためにこしらえた借金と親方不在の工場……誰にもどうしようもなかったみたいで。全員失職されたと聞きましたわ」
     先の話を引き継ぐようにして別の者がそう付け加える。
     百々目が見たという件の男女について調べるべく、ここまでやってきた伊達と紘一狼は、近所の噂話に熱心な女たちに取り囲まれるようにして彼らの話を聞いていた。
     しかし、女たちの口から次々と出てくるのは、同情を禁じ得ない情報ばかりである。
     そこから見えてきた長屋の二階に住む夫婦の境遇に、紘一狼は自然と表情を曇らせた。
     伊達もかすかに眉根を寄せ、「それはまた、ずいぶんと悲惨な話だな」と呟く。
     その言葉に女たちは一様に頷いてみせた。
    「本当に悲惨な話ですよ。旦那さんはすっかりお酒に吞まれるようになってしまって。何しろ恨む相手もいないことですからね。怒りや悲しみのやり場がないなら、お酒で洗い流すしかないのかもしれません」
    「でも、旦那さんのお酒は良くないお酒ですよ。酔っぱらっては奥さんに怒鳴ったり、ときには打ぶったりしている音が聞こえましたから」
    「翌日には泣き声もね」
     ぽつりと別の女がこぼしたそんな言葉に、紘一狼は不思議そうな顔で首をかしげた。
    「泣き声?」
    「ええ。その旦那さん、普段は人当たりが良くて穏やかな人なんです。でも、酒癖の悪さだけは治らないみたいで。朝起きたら、奥さんが怪我をしているのに気付くんでしょうね。泣きながら謝っているんですよ。うちは真下の階ですから、どうしても聞こえてしまって……あまりにお気の毒で、いたたまれませんでした」
     すると他の者も何人か同意の声を上げる。
    「うちにも聞こえてきますから、何度か注意をしに行ったんです。そのたびに旦那さんは私たちにも平謝りで……事情が事情ですから、強くは責められませんでしたけども」
    「奥さんには少しのあいだだけでも実家に帰ることを勧めたんですが、早くにご両親を亡くされて、ご家族はいらっしゃらないとか」
    「私が奥さんだったら、とても耐えられないわ。もういっそ鳥か蝶にでもなって、飛んでいってしまいたいと思うでしょうね」
     そう言って女たちは一様にため息をついた。そしてそのあとも噂話はとどまることを知らず、川のように流れていく。
     その横で伊達と紘一狼は顔を見合わせ、百々目の黒い瞳の中で舞う青い揚羽蝶の姿を思い出していた。

     伊達と紘一狼が長屋をあとにした頃にはもう日が傾き始めており、薄い雲をまといながらも青空の中に浮かんでいた太陽は、いつの間にか分厚い黒雲の後ろに隠れてしまっている。
     そのためか気温が少し下がり、この季節にしては冷たい風が、下町を足早に歩く二人の着物や服をそっとなでていった。
    「先ほど聞いた噂が本当だとしたら、長屋にお住まいだったあのご夫婦はお気の毒ですね」
     紘一狼が隣を行く伊達の方へ顔を向け、同意を求めるように言う。
     それに対し、伊達は「そうだな」と短い言葉だけを返した。その面に表情はない。
    「何を考えてらっしゃるんですか?」
     そう紘一狼が尋ねると、伊達は前を見据えたまま独り言のように応じた。
    「お前と同じことだろう」
    「では……やはり百々目さんの眼の中にいる蝶は、長屋のご夫婦の奥さんだと?」
    「たぶんな」
     百々目は長屋の二階の窓から落ちそうな女の姿を見て、反射的に助けようと手を伸ばしたという。そしてその女は、そこから逃げ出したいような状況にあった。
    「お互いの望みが一致し、同調したのかもしれない」
     そう言って伊達は煙管をくわえ、かすかな息をつく。
     普通なら有り得ないが、この町なら何が起きてもおかしくないと彼は胸中で呟いた。
     そして、その思いは紘一狼にも等しく存在している。
     彼はこれが自分の手に負えることではないのだと、無力感に近い思いを抱きながら伊達に尋ねた。
    「そんな状態で、百々目さんから蝶を解放することはできるんでしょうか」
    「やるしかないだろう。行くぞ」
     きっぱりと伊達はそう言うと、紘一狼が「どこへ?」と質問を投げかける前に、着物の袖口に入れていたものを紘一狼に手渡した。
    「これって……」
    「この前、大騒ぎをしてカフェーを飛び出した百々目が店に忘れていった画帳だ。お前の鼻でわかるだろう? 頼むぞ」
     伊達のその言葉に、紘一狼は真剣な面持ちでしっかりと頷いた。
     物憂げな様相の空にはかすかな遠雷が響き、油絵の具で塗り固めたような暗い雲からは音もなく、霧のような雨が降り始める。それは伊達と紘一狼の髪や肩を静かに濡らしていった。

    「これはこれは……思いがけず、美しい鬼が来たものだ」
     そう言って諸手を広げ、伊達と紘一狼を出迎えたのは、絵具のついた指に紙巻煙草をはさんで機嫌良さそうに笑う百々目だった。
     今日は洋装だが、上はくたびれた白いシャツをだらしなく着ているだけで、乱れた髪からしても身なりに気を遣っているようには見えない。
     細めた目尻にはしわが寄り、数日見ないうちに何年も年をとったような印象がある。目の下にはカフェーにやって来たときよりも目立つ隈がくっきりと浮かんでいた。
     しかし、百々目には困憊したりふさぎ込んでいるような様子はなく、むしろ高揚すらにじむ声音で、下宿を訪ねてきた伊達と紘一狼の二人を賞賛する言葉を紡いだ。
    「よくここがわかりましたね。この場所をお教えする機会は逸してしまったはずなのに」
    「うちには鼻が利く者がいてな。隠れ鬼は得意なんだ」
     真顔で伊達はそう応えると、先日カフェーに置き去りにされていた画帳を差し出す。
     百々目は自分の忘れ物を受け取りながら愉快そうに笑って言った。
    「これはご親切にどうも。でも伊達さん、鬼はあなたの方でしょう」
     ピクリと伊達の柳眉が跳ね上がる。
     そのわずかな表情の変化に気付いているのか、はたまた気付いていないのか――百々目は一向に気にする素振りも見せず言葉を続けた。
    「紘一狼さんは……狼ですか? それとも山犬かな? 何にせよ、あなたの忠犬には違いなさそうですが」
    「お前……何が見えているんだ?」
     煙草をくわえ、首をかしげながら謎解きでもするかのような口調で言う百々目に、どこか冷気を感じさせる声音で伊達が問う。
     紘一狼も驚いたように目を見開き、玄関の上がり框かまちから自分たちを見下ろしている百々目を凝視した。
     筆洗に絵具を一滴落としたように百々目が薄く笑う。
    「すべてですよ。これまで見えていなかった、この世界の本当の姿です」
     紫煙を吐き出し、当然の事実を口にでもするように彼は悠然と続けた。
    「表面的な法則と原理に一辺倒な現実に埋もれ、誰もが覗き込もうともせず見落としている真実だ」
    「薄紙が一枚めくれたくらいで、すべてを知った気になれるとはめでたいな」
     伊達が鼻を鳴らし、退屈そうに呟く。それは気が触れた者を適当にあしらう態度というよりは、世間知らずの子供に淡々と事実を告げるさまに似ていた。
     だが、そんなことも百々目にはどうでも良いことらしい。
     彼は素直に頷き、穏やかに言葉を返した。
    「あなたの仰る通りかもしれません。ですが、私には充分ですし満足ですよ。どうぞお上がりください。せっかくですし、お見せしたいものがあります」
     百々目はそう言うと踵を返し、ついてくるようにと身振りで示す。
     ここまでの成り行きを黙って見ていた紘一狼は不安げに伊達を見やるが、彼が履物を脱いで下宿に上がるのに倣い、覚悟を決めたように唇を引き結ぶと自分も靴を脱いだ。
     二人は数歩先を行く百々目のあとについて、冷たく乾いた空気の満ちる廊下を抜ける。階段を上がると、どこかの部屋からかすかに漏れるラジオの音声がした。他の部屋からはペンで書き物をする音や、物を動かす音といった生活音も聞こえる。
     しかし、それらはそれぞれ板戸に仕切られた小さな空間にだけ存在するもので、ひやりとした廊下を歩く彼らのあいだにあるのは、板張りの床が軋む音と三つの異なる足音だけだった。
    「ここが私のアトリエです」
     そう言って百々目が開けた戸の先には、足の踏み場もないほどに絵が散らばっていた。
     壁に無造作に立てかけられたカンヴァスに描かれている油絵をはじめ、座卓の上に積み上げられた画用紙やクロッキー紙に、木炭か鉛筆で描かれた素描も多い。畳まれ、隅に押しやられている布団の上にまで何枚もの絵が置かれており、どうやって寝起きしているのか、そもそも寝ているのかどうかすら怪しいような状態である。行李の上には絵具の材料が入っていると思しき瓶や器、溶剤に、吸い殻だらけの灰皿が並んでいた。
     一般的な生活感の欠片はなく、とにかく目につくのは無数の絵。その異様さは、もはやこの部屋だけ世界から隔絶された異界のようにすら見えるほどだ。
     百々目は畳の上に落ちている絵を適当に足で払いのけ、部屋に入っていく。
     伊達と紘一狼がそれに続くと、絵具と煙草の匂いが二人の鼻腔の奥を刺激した。
    「散らかっていてすみません。絵を描くのに夢中でしたので」
    「先日までは絵が描けないことに悩んでいらっしゃったようですが……描けるようになったのですね」
     圧倒された様子で部屋の中を呆然と見ながら紘一狼が言うと、百々目は「おかげさまで」とにこやかに応じた。
    「あの日――紘一狼さんが店を出て行かれたあと、蝶がひどく取り乱したようで、私の眼の中でたいそう暴れましてね。そのときの激しい音と痛みに私も軽く錯乱し、あのカフェーを飛び出してしまったのですが、そこで見たのです。この町の――いえ、この世界の本当の姿を」
     百々目はそう言うと、部屋の角に置かれたイーゼルの上の絵を指さしてみせた。
    「どうです? こんな絵を描けるのは、おそらく世界中で私をおいて他にいないでしょう。恐ろしいほど歪でおぞましいのに、惹かれずにはおれぬ光景だとは思いませんか」
     落ち着いた語調の中に興奮の混じる声で百々目は言い、イーゼルの方へと歩み寄る。
     伊達と紘一狼も同じように近付き、大きなカンヴァスに描かれたその絵に目を向けた。
     それを一言で言い表すとするならば、さながら「青い闇に侵食された世界」である。
     この町の住人なら見慣れているはずの平凡な町並みに、地上から染み出る青みがかった闇と、異様に大きく、際限なしに繫茂した無数の草花がまとわりついていた。そして影には異形の者たちが潜み、分厚いカンヴァスの生地に描かれたこの絵を眺める者をじっと見返している。
     彼らは様々な人ならざる形をしているが、眼や口、腕や足だけしかない者もおり、一つとして同じ形はなく千差万別だ。それでいて、人が寄り集まった光景を見て「人の群れ」と見分けられるように、彼らもまた人がまだ知らない、同じ「何か」の群れであることが見て取れるのである。その「何か」に呼び名があるとすれば、それはおそらく「魔」とだけ呼ばれるものだろうと思われた。
     紘一狼には絵というものの良し悪しがまったくわからなかったが、そんな彼でさえ畏れと詠嘆を覚える何かがそこにある。
     言葉を失い、あとずさるように歩を下げた紘一狼は、踵に触れた紙の感触に気付いて足下に目を向けた。すると、自然と視界に入ったのは畳一面に散らばった素描である。よく見るとそれらにもすべて「魔」が侵食していた。部屋中を見渡してみると、風景画も、肖像画も、静物画も素描も、何もかもに「魔」の面影や痕跡が見える。
     わずか数日でこれだけの量の絵を描いたというのも壮絶だ。
    「これは……」
     紘一狼はそれだけ呟いて絶句した。
     そんな彼に百々目は柔らかに微笑む。
    「素晴らしいでしょう? 伏せられた光景、文明の光によって隠された、偽りのない真の景色です。それが見えるのは、おそらくごく一部の限られた者だけ。そして私はそれを観察するための眼を手に入れたのです」
     百々目のそんな言葉に、伊達が温度のない硬い声で「おい」と口を切った。
    「お前、蝶のことはどうした。追い払いたかったのじゃないのか」
    「ああ、その件でしたらお忘れください。私はこの蝶を飼うことにしましたから」
    「何だと?」
     伊達の形の良い眉が釣り上がり、怪訝、苛立ち、困惑、怒りなどが入り混じった表情を作る。
     しかし、相変わらず百々目は落ち着いた様子で弁明を口にした。
    「蝶のおかげなんです、私がこの世界を知れたのは。今さら手放すことなんてできませんよ。私はこの世界の真の姿を描かなければいけませんから。これは私にしかできないこと、私にだけ描ける光景なんです」
     その言葉が終わるや否や、伊達は百々目のシャツの襟首を掴み、眼を覗き込んだ。
     彼の黒い瞳の中に、鮮やかな青をまとった揚羽蝶の姿が見える。それは大きな翅を広げ、百々目の眼球の中でじっとしていた――まるで虫ピンで留められた標本のように。
     翅や触覚がかすかに動いているが、そのさまはやけに弱々しく、伊達の眼にはあまりにも儚く見えた。
    「お前、その蝶の翅越しに見ているんだな」
    「ええ。おかげで知らなかった世界が見えました。私の見たかった――いや、私の描きたかった世界がね」
    「そのために蝶を殺す気か?」
     唐突な伊達の問いに百々目は「まさか!」と叫んでかぶりを振り、伊達の手を乱暴に払う。
     それから動揺と一緒に煙草を潰すように灰皿に押し付けて火を消し、真剣な面持ちで伊達の方へ向き直って言った。
    「私の眼の中に住まわせているだけですよ。言わば共生です。私といれば外敵に襲われることはありません。酒に酔って打ったり、ひどい言葉を吐きかける怪物に怯えることもないのです」
     それを聞いて伊達と紘一狼は一様にハッとしたような表情を浮かべた。
     「それって……」と紘一狼が言いかけ、続く言葉を飲み込む。
     対する伊達は苦々しげに煙管を噛み、「その蝶が何者なのか、お前は知っているんだな」と唸るように言った。
     しかし、百々目は小さく肩をすくめて「何者なのかは知りません」と応じる。
    「私にわかるのは、あの夜、長屋の二階の窓から身を乗り出した若い女だろう、ということだけです。名前も知りませんよ」
    「な、なぜその人だとわかったんです? 蝶と話をしたのですか?」
     紘一狼がその顔に驚きの色を乗せて尋ねると、百々目は蝶が磔になっている眼を瞼の上からなでるようにそっと触れ、「いいえ」と首を振った。
    「ただ、この新しい景色が目に映るようになってから、私自身の見た光景ではないものも見えたからです。驚いた顔で手を伸ばす私、怒鳴り、殴りつけてくる『よく見知った』と感じる男……なのに、その人ではない怪物のような何か……」
     それは確かに百々目が件の長屋の下で見た光景と一致している。違うのは視点だけ――それは下の路地にいる百々目に気付き、「助けて」と小さくこぼして手を伸ばした若い女の視点だった。
     百々目はおもむろに部屋の中央へ歩いていくと、畳の上に落ちていた一枚の画用紙を拾い上げ、二人の方へと差し出す。
     近くにいた紘一狼が手を伸ばして受け取ったそれは黒一色で描かれた、全身の毛が総毛立つほどの恐怖と醜悪さをまとった生き物の姿だった。
     いや、それを生き物と呼んでいいかどうかさえ紘一狼にはわからない。
     ギョロリとした大きく血走った眼、傷口のように無残に裂けた口腔から覗く無数の棘のような歯、振り乱した毛には黒い炎がまとわりつき、そこから紙が焼けていくのではないかと思われた。
     紘一狼は「うわ!」と声を上げ、画用紙から手を放す。するとそれは一度ひらりと宙を舞い、百々目の足元に音もなく着地すると、そこから部屋にいる三人をじろりと睨みつけた――ように彼らには見えた。
     「ひえっ」と情けない音を発し、紘一狼は身をすくませる。
     しかし百々目は躊躇いもなくそれを踏みつけると、紘一狼の後ろからその絵をじっと見ていた伊達の方へ体ごと向き直り、挑戦的な口調で口を切った。
    「伊達さん、あなたは私と最初に会ったとき、『蝶は閉じ込められている』と言いましたよね。心外ですよ、私は閉じ込めるつもりなんてありませんでした。ただ、あの長屋の二階にある開かれた窓から怒り狂った男――怪物のようなものに詰め寄られ、身を乗り出していた女が見えたのです。私は彼女がそこから落ちるのではないかと思い、反射的に手を伸ばしただけ。そして彼女はこちらに気が付き、目が合った――それだけです」
    「確かにそのときはそれだけだったろう。お前の眼の中に彼女が蝶となって逃げ込んだのは、この世界の気まぐれによって起きた偶然のようなものに違いない。だが、結果的に今お前はその眼の中に蝶を閉じ込めているじゃないか」
     淡々と聞こえる伊達の言葉から逃れるように百々目が顔をそらし、弱々しく反論した。
    「さっきも言ったでしょう、これは共生です。彼女はあの怪物から逃げるために私の眼に飛び込んだ。そして私はこの世界の真の姿を描くために、彼女の翅を必要としている。私たちの利害は一致しているのですよ。私の眼は檻ではなく、怪物から彼女を守る砦です」
    「その怪物はもう、いないのじゃないか」
     伊達の静かな言葉に、百々目の眼の中でびくりと蝶の体が跳ねる。そしてそれは眼の持ち主である百々目にも伝わった。
     「何ですって?」と上ずる声で問い返す。
     それに伊達は淡々とした声音で言葉を紡いだ。
    「長屋の住人たちから聞いた。二階に住んでいた夫妻は、二人とも行方不明になっているとな。最初にお前に会ったとき、俺には蝶が人の魂の類に見えた。ならば、蝶になったことで行方知れずになった者か、魂だけ抜けて意識を失ったままの者がどこかにいるだろう。そう考えて紘一狼に探させたが、その結果出てきたのは夫妻の失踪だ。蝶が妻本人であるなら、夫はどこへ行った?」
    「そんなこと、私が知るわけないじゃありませんか」
    「本当に?」
     苛立たしそうに応じる百々目に訊いた伊達のその声は誰よりも静かなのに、どんな怒声よりも恐ろしい追及のように響いた。
     それに怯んだのか、それとも答える必要がないと思ったのか、何も言葉を返さない百々目に伊達は「まあいい」と呟いて小さく息をつく。
    「俺はこの件の事の成り行きを解明しに来たわけではないからな」
    「なら、あなたの仕事はもう終わりましたよ。私はもうこの蝶を追い払うつもりはありません。よって、あなたがここですべきこともなくなりました」
    「いや、まだある」
     ほっとしたように再び話し始めた百々目にぴしゃりとそう言うと、伊達は彼の眼を見据えながら尋ねた。
    「お前はこの数日でどれだけのものを見た? 何を彼女に見せた?」
    「……何を言っているんですか? なぜそんなことを訊くんです?」
    「お前はさっき、共生と言ったな。確かにそうとも言えるだろう。魂の融合などほとんど前例がないが、俺が調べた限りでは感覚を共有しているという話はあった。それならば、同じものを見ている可能性が高い。つまり、お前がここで描いたものを彼女も見たということだろう」
     伊達のその言葉を聞き、紘一狼は改めて部屋中に散乱した不気味な絵にぐるりと視線を向ける。魔に侵食された世界の光景は、まるでその薄い紙の中から這い出てくるのではないかと思えるほどの存在感を放っていた。
     紘一狼の金色の眼にも似たような景色は見えるが、駆け出しとはいえ画家の手にかかり、いっそう魔が際立つように描かれたものたちは、紙面の上で息を殺し、そこから飛び出す好機を虎視眈々とうかがっている獣のように思えてくる。
     こんなものを四六時中見ていたら、芸術家ではない普通の人間なら恐怖で気が狂うかもしれない、と紘一狼は思った。
     せっかく怪物のようになってしまった夫から逃れたというのに、百々目の眼を通して捉える世界は人ならざる者たちに囲まれているのである。もはやどこにも逃げ場などないような情景だった。
    「それにお前、ろくに寝食もしていないんじゃないか?」
     紘一狼の考え事をよそに、伊達はそう言って絵に埋もれた座卓や布団を煙管で示してみせる。
     それを横目で追い、何でもないことのように百々目は鼻を鳴らして答えた。
    「言われてみればそうですね。ですが私は平気ですよ。今ならいくらでも絵を描き続けられる気がします」
    「鏡を見てから言え。よしんばお前はまだ大丈夫だとしても、彼女の方はそうはいかない。お前のかわりに弱っているのか、お前の見る世界が彼女にとって毒なのかわからないが、確実に先に消えるのは蝶の姿となってお前の眼の中にいる彼女だ」
     冷静にそう告げる伊達の眼には、今なお百々目の眼球の中で標本のように翅を広げている青い揚羽蝶の姿が映っている。それが本物の標本のように身動き一つしない、魂の消滅した亡骸になるのは時間の問題のように伊達には思えた。
    「もう一度言うが、その蝶は人の魂に非常に近しい」
    「……だったら何だというのです?」
     百々目は苛立たしそうに小さく舌打ちし、都合の悪いものから目をそらすように、ふいと伊達から顔を背ける。
     その横顔を見据えながら伊達は静かに言った。
    「それが死ぬということは――お前のせいで死ぬということは、お前が人を殺すのと同じことだぞ」
    「……そうだとしても、あなたには関係のないことでしょう」
    「何?」
     ぽつり、とこぼすように言った百々目の言葉に伊達は目をすがめる。
     そんな彼の方へゆっくりと視線を戻し、百々目は自分の眼の中にいる蝶を指さしながら続けた。
    「だって、そうでしょう? この蝶が人の魂であるという証拠もなければ、長屋に住む夫妻の妻だという証拠もありません。この蝶が消えたところで誰も私を裁けない。それはあなたも同じです。あなたは人を裁く権利を持った立場ではないし、夫妻や私の生き方について口を出せる関係者でもない。そして誰かに蝶を助けろと言われたわけでもないのですから、人殺しだと言って私の邪魔をするのはあなたの独善であり、私のためだと言うならただのお節介ですよ」
     そこで一度口を閉ざした百々目は、嘆息のような大きな息を一つついたあと、「それに」と独り言のように言葉を継いだ。
    「私だって、みすみすこの蝶を失うつもりはありません。彼女が弱っているというなら、休ませて回復するのを待ちましょう」
    「それをお前が死ぬか、彼女が消えるまで続けると?」
    「そんなにもつでしょうか……」
     不意にそう口をはさんだのは紘一狼だった。
     伊達と百々目が同時に彼の方へと目を向ける。
     紘一狼は足下に落ちている素描を一枚手に取り、それを真剣な面持ちで見つめながら呟くように言った。
    「僕には絵や芸術のことはわかりません。でも、ここにある絵がどれも凄まじいものであることはわかります。この色のない、線だけの絵ですらも畏敬の念を覚えずにはいられません。あなたにはこんな風に世界が見えているのだとしたら、僕だったらひと月と待たずに狂ってしまうと思います」
     それを聞いた百々目は最初唖然としていたが、やがて愉快そうにくすくすと声を上げて笑い出した。
    「あなたからそんな言葉をいただけるとは思ってもみませんでした。画家にとってはほめ言葉の一つですよ。ですが、心配にはおよびません。画家は狂わないために描くのですから」
     そう言って彼は安心させるように紘一狼の肩に手を置き、微笑んでみせる。
     しかし、見つめていた絵から顔を上げた紘一狼の眼差しは強く、表情は硬いものだった。
    「描くのはあなたでしょう? ただ見ているだけの人にどれだけ効果があるのか……それにそもそも、その蝶の方は画家ではありませんし、あなたのようにはいかないと思います。これは、芸術がわからない僕だからこそ持てる実感です」
     そこまで言った紘一狼は伊達の方へと視線を移し、真顔のまま尋ねた。
    「伊達さん。百々目さんの眼の中にいて、蝶が回復することはあるんでしょうか?」
    「絶対とは言い切れないが、まあ、ないだろうな」
     肩をすくめて言う伊達に、紘一狼は「やはり」呟いて表情を曇らせた。
     それに対し、百々目は怪訝そうな顔で伊達に「なぜ」と問うように視線を向ける。
     伊達はその無言の問いを真正面から受け止め、淡々と答えを返した。
    「俺は魂の専門家ではないから詳しい説明を求められても説明はできないし、面倒なので詳細は省くが、簡単に言うとお前と彼女が同化することは止められないからだ。魂と肉体のつながりは強固だと聞く。現状、その両方を持っているお前が彼女に侵食されることはほぼない。お前に取り込まれるのは彼女の方だろう。そしてそれは同化による個としての魂の消滅であり、死と同義でもある。お前が無理をしたことは彼女の死期を早めただけのことで、休もうが見ることをやめようが遅かれ早かれ起きることで、結果は同じだ」
     よどみなく返ってきた言葉に、百々目は呆然としたような表情を浮かべる。
     しかし、それはやがて一瞬にして喜色へと塗り替えられた。
    「同じ? いいえ、違います。全然違いますよ!」
     そう声を上げて百々目は手を打ち、期待を込めて伊達に問いを投げる。
    「この翅が失われるなら問題だが、同化なら――翅越しに見ずとも、私自身の眼でこの世界が見え続けるようになるのではないですか?」
    「まあ、その可能性は高いだろうな」
     首肯する伊達の返答に、百々目は「ならば願ったり叶ったりというものです」と満足したように頷いた。
     それはつまり、百々目は蝶を解放するつもりはないということである。
     自分の眼に蝶が同化し、そのまま一人の人間の魂が消えても構わない――いや、むしろそれが叶うことこそ彼の望みでさえあった。
    「……ということらしいが、あんたはどうしたい?」
     唐突に伊達がそう呟き、百々目に歩み寄ってその眼の奥を覗き込む。そこに映っているのは伊達自身の顔と、青い翅を広げた揚羽蝶だけ。
    「こいつの眼に棲みついたあんただよ、奥さん」
     言いながら伊達が薄っすらと笑みを浮かべる。それは端正な笑みにも見えるが、それと同時に体のすべてが凍り付くような恐ろしい微笑にも見えた。
     そのためか、百々目は心臓でも掴まれたかのように一度びくりと体を震わせ、その場に立ちすくむ。急に全身から冷や汗が噴出し、体温が下がるのを彼は自覚した。
     だが伊達はそんな百々目のことなど眼中にないようで、視界の中にいる磔の蝶に言葉を続ける。
    「双方に意思があるなら、片方だけの言い分を聞くのは不公平だろう? あんたにも選ぶ権利はあるからな」
     そう言って伊達は優美な指を二本立て、百々目の眼の中にいる蝶に見えるよう持ち上げてみせる。
    「選択肢は二つ。人のまま罪人として去るか、人の理から外れ、人ならざる者となってこいつに取り込まれるかだ。一つ目を選びたいなら……俺が何とかしてやろう」
    「何……を……」
    「お前はしばらく黙っていてくれ」
     恐ろしさのためか硬直して言うことをきかない体を必死の思いで動かし、何とか伊達の腕を掴んだ百々目に、伊達は冷たい視線と言葉を投げる。
     それと同時に紘一狼が彼の背後へ周り、百々目を羽交い絞めにした。
     その次の瞬間、百々目の眼の中で蝶がひらりと羽ばたく。
     伊達はそれが合図であったかのように素早く手を伸ばすと、彼の顔を掴んだ。
    「食って片付くような大雑把な仕事ならともかく、こういうことは専門外なんだ。多少しくじっても恨んでくれるなよ」
     そんな伊達の言葉とともに、百々目の目元が青みがかった光を帯びる。
     すると百々目の口から絶叫がほとばしり、まるでそれが突風となったかのように部屋中に吹き荒れた。散らばった絵が巻き上がり、大きな渦を描く。その激しさは部屋の板戸や窓をガタガタと音を立てて震わせるほどだったが、やがてそれは潮が引くようにゆっくりと静まり、雪のように音もなく絵の描かれた紙が舞い散るばかりとなった。
     ガラリと音を立てて伊達が板戸を開く。廊下は相変わらずひんやりとしており、静寂の中に別の部屋のラジオの音がかすかに流れてくるだけだった。
     伊達は煙管を唇から離し、ふうっと煙を吐き出す。するとその流れに乗るようにして、一頭の青い蝶が音もなく飛び去っていった。

    「おや、もうお帰りですか?」
     伊達と紘一狼が下宿を訪ねたときに玄関で最初に応対してくれた老女が、台所の方からひょっこりと顔を出し、廊下を歩いてくる二人にそう声をかける。
     伊達はそれに微笑を浮かべ、「画家先生はお疲れらしい。寝てしまったようなので、失礼しますよ」と答えた。その後ろについていた紘一狼も軽く頭を下げ、「お邪魔しました」とあいさつをする。
    「何のお構いもしませんで。あの絵描きさん、とにかく邪魔をしないでくれと言って、私がお部屋に近付くのを嫌うものですから」
    「お気遣いなく。彼が目を覚ましたら、栄養のあるものでも食わせてやってください」
     そう言い残し、伊達と紘一狼は百々目の下宿をあとにした。
     日はすっかり地平線の向こうに沈んでいたが、いつの間にか雨はやんでいる。しかし雲は未だ厚く、白々とした月の輪郭を曖昧なものにしていた。
     町はずれの丘に建つ屋敷に帰るため、伊達と紘一狼は下町の舗装されていない道を肩を並べて歩く。
     その道中、おもむろに紘一狼が呟くように言った。
    「僕、人の心が見えればもっと物事は上手くいくものだと思っていました」
     伊達はそれに何も言葉を返さず、煙管を口にくわえたまま視線だけを紘一狼に向ける。紘一狼はそんな伊達を見返して小さく肩をすくめ、「伊達さんは特に、何を考えているのかわからない人ですし」と言って苦笑した。
    「訊けば教えてくださることもありますけど、些細なことや、伊達さんが教える必要がないと思うことは教えてくれませんからね」
    「当たり前だろう。なぜ全部知りたがる?」
     退屈そうに伊達がそう尋ねると紘一狼は視線を足下に落とし、頭に浮かんだことをそのまま口にするように、どこかぼんやりと言葉を紡いだ。
    「その方がやりとりが上手くいくと思ったからです。何をして欲しいかとか、何をして欲しくないとか。どういうことを考えてらっしゃるのかがわかれば、それに合わせた行動を選ぶことができますから。これは僕や伊達さんに限った話ではなく、みんなが他の人の感情や心を理解できれば、もっと物事は上手くいくんじゃないかと思っていたんです」
     そこで紘一狼は一度口をつぐみ、「でも……」とためらいがちに続けた。
    「百々目さんの描かれた絵を見たら、世界がこんな風に僕にも見えていたらと思うと、いつまでも正気でいられる気がしませんでした。あの『怪物』の絵だってそうです。あれは本当に恐ろしかった。あれが奥さんに見えていた旦那さんの姿なのだとしたら……僕だって蝶になって逃げだしたいと思ったに違いありません」
    「あれは極端な例だとは思うがな」
     伊達がそう言って紘一狼に目を向けると、彼は「そうであって欲しいです」と呟くように言った。
    「顔も名前も知らない人があんな恐ろしい姿で誰かを責めているところなんて、絶対に見たくありませんよ。ましてや責められているのが自分だったらなんて、考えたくもありません」
    「確かに顔も名前もわからない幽霊のような連中が、四方八方で自分の感情をぶつけ合うような世界があるとしたら地獄だろうな」
     紘一狼の言葉に伊達もそう返したが、すぐに「もっとも」と小さく笑って付け足した。
    「世界中の人間がお前のようにお人好しのバカなら、感情をぶつけ合ったところで平和だろうが」
    「ひどいなあ」
     ぼやくように言いながらも紘一狼は笑って前を向き、平凡で穏やかな帰途についた。

     川から死体が上がった、という記事が新聞に載ったのは、それから数日後のことである。
     死後一週間前後経っており、死因は溺死だという。
     死んだのはかつて町工場で働いていた工員で、現在は工場が潰れて仕事がなく、酒を飲んで荒れていたという近所の住人の話から、世を儚んでの自殺だろうということで片づけられた。その妻も同じ頃から行方が知れず、未だに消息はつかめていない。
     どちらかと言えば写実主義的だった西洋画家が宗旨替えをし、幻想文学や怪奇小説の世界を彷彿とさせる象徴主義的な絵画で一躍名を馳せるのは、それから数か月後のことである。

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門 #小説 #短編小説

     
     
    主に書くジャンルは純文学寄りのファンタジー小説、幻想文学、観念小説など。 文章による芸術と、活字を読むのが苦手な人でも小説を楽しめる道を模索中。

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