メインコンテンツへスキップ
見出し画像

修復するための「体力」がなかった――離婚と介護離職から、「歩いて」戻ってくるまで


    画像
    修復するための「体力」がなかった

    この音声はGoogle NotebookLMの音声生成を利用したポッドキャスト風音声です。読んでいる暇がない、耳からの方が入りやすい、という方は、こちらをどうそ。※一部漢字や固有名詞の読み方が違う箇所がありますが、AI自動生成の限界ということで、ご容赦ください。

    過酷な労働環境から家族やキャリアを失いどん底に陥った著者が、筋トレや日々の歩行といった身体活動を通じて心身を再生させていく実体験の記録。絶望の中で他者と交流し、身体を動かすことで脳を鎮静させ、自己効力感を取り戻していくプロセスから、現代社会における心と身体の深い連動性と重要性を紐解きます。

    修復するための「体力」がなかった

    記事の概要を約2分40秒で確認できます。字幕にも対応しています(ご自身でONにしてください)。


    修復するための「体力」がなかった

    離婚をした。もうおよそ10年前になる。

    いつしか妻の気持ちが離れていった。そしてそれなりにきついことが起きた。やり直すことはできなかった。

    修復するための「体力」がなかった。それは何かの例えではない。文字通りの意味だ。

    ひどい働き方をしていた。まだ元号は平成だった。働き方改革で、タイムカード上の残業時間はきっちり月45時間ぴったりに収まった。

    社内の入室記録と業務用PCのシステムが少し変更された。執務室に入室する際と、PCを起動するために必要だったセキュリティカードが、タイムカードと連動しなくなった。タイムカードの打刻は「手動」になった。

    つまり、そういうことだった。

    毎日終電で帰って、次の日は6時半には家を出た。ほぼ週6日勤務だった。派遣社員がすぐに辞めてしまうからだった。それでも早出も含めて、残業はしっかり月45時間と記録されていた。

    もう40歳が見えていた。妻と子供たちと、離れて暮らす母の生活費が必要だった。おいそれと転職など、できようもなかった。「体力」を金に変える必要があった。

    そして離婚に至った。弁護士から親権は取れないが、慰謝料ならいくらでも取れる。そう言われた。

    欲しかったのは自分のための金ではなかった。

    一人暮らしを始めると気が狂うかもしれない、と思った僕は、シェアハウスに住み始めた。誰でもいいから人の気配が必要だった。

    大きなマンションタイプのシェアハウスだった。共用リビングにはいつも10人以上、いろいろな年代・性別、そして国籍すらも違う人がいた。

    一応「清掃員」として雇われていたが、みんなのお母さん代わりのおばちゃんが、僕に言った。

    「あんた、くたびれているのに、腹だけは出てるね。面白いねぇ。でも再婚相手探すためにも、そのメタボ体型なんとしなよ」

    そう言ってケラケラ笑った。

    僕もケラケラ笑いたかった。

    そうか、この腹か、と思った。

    クミンには勝てない

    シェアハウスから歩いて5分のところに、市営の体育館があった。

    インドから留学に来ていた男の子が

    「あそこはマシンがたくさんあっていいよ。本格的な筋トレとランニングができるよ」

    と教えてくれた。

    ただ彼は、めたくそ美味いカレーを共用キッチンで作っては、みんなに振る舞うのが趣味になっているような奴だったので、体型をなんとかしたい僕にとっては、警戒すべき相手でもあった。

    しかしその警戒は、共用室中に香るクミンの前では無意味でもあった。

    マシントレーニングなどしたことがなかったが、とりあえず室内履きのスニーカーだけGUで買って、恐る恐る受付を通った。

    「健康のために貯筋をしましょう!」という、高齢者を意識した大きな張り紙と、マシンの使い方が丁寧に書かれていた説明書きのおかげで、使い方に困ることはなかった。

    しかし、僕よりも干支が一回りも二回りも多く巡っているであろう、じいちゃん・ばあちゃんたちが、僕の体重くらいはありそうなバーベルのベンチプレスをやっていた。そちらのほうが、僕のメンタルをよっぽどざわつかせた。

    やっぱりここでも、人々はみな笑っていた。

    まずは走ることから

    まずはランニングから流してみた。これは得意なことだった。

    小学校低学年の頃だ。僕はぜんそくがきつくて、しょっちゅう寝込んでいた。当時の担任の先生が、市民ランナーだった。瀬古選手に顔も体型も似ていた。

    朝一緒に走ろうと誘ってくれた。

    7時頃、学校のグランドに行った。すると、僕以外の子も何人かいた。なかなか友達ができない僕に、初めての友達ができた。そして、毎朝小一時間ジョギングをしているうちに、ぜんそくで寝込むこともなくなった。

    それからずっと、悩みがあると走る習慣ができあがった。特に大学受験に失敗し、浪人生だった頃は、みっちりと走った。

    当時は埼玉の所沢に住んでいて、3駅か4駅ほど走ると、西武ライオンズの本拠地であるドーム球場まで行けた。松坂君がバリバリ投げていた頃だ。

    ぱっと見ると普通の高校生だったが、尻が僕の3倍くらい大きかったのはよく覚えている。

    やはり下半身なのだ。人間はまず下半身の強度からだ。

    久しぶりに走ると、たった2キロくらいで嫌になった。僕は少し上等なワイヤレスイヤホンを買って、若い頃に聴いていた「ネバギバセットリスト」を再編集した。ネバギバとはネバーギブアップの略だ。

    耳に、甲本ヒロトや渡瀬マキが戻ってくると、5キロくらいは走れるようになった。

    あれもしたいし、これもしたい。小さな翼はびくともしない。

    時々、走りながらこっそり涙ぐんでいた。

    筋トレと家系ラーメン

    走って体を温め終わると、次は筋トレだった。おっかなびっくり、説明書きの通りやっていると、つやつやしたじいちゃんが話しかけてきた。

    「いいか、ガチャンガチャン言わせないで、ゆっくり深く呼吸しながら動かすんだ」

    「まんべんなく鍛えろ。筋肉のバランスが崩れると怪我のもとだ」

    「あとな、ここの向かい側にある家系ラーメン屋は最高だ」

    マシンの使い方と共に、家系ラーメンの味も覚えた。もちろん、小ライスも嗜んだ。

    体重と一緒に減っていったもの

    ランニングとマシントレーニングの効果は絶大だった。

    家系ラーメンと小ライスなど、ものともせずに腹がへっこんでいった。体重もみるみる減った。

    シェアハウスを出ていくと挨拶したときに、お母さん代わりのおばちゃんが、しみじみしていた。

    「あんた偉いよ。まだ腹は出てるけど、顔は引き締まった。またいい人に出会えるよ」

    と、エンディングにでもこのまま入っていきそうな感じになってしまったが、ある意味でここからだ。すまない、基本、僕のnoteは書き始めると長いのだ。

    体を鍛えなおして、だいぶ持ち直したが、心の風邪が本格的に悪化してしまった。

    ランニングを取り戻し、新しくマシントレーニングも手に入れたが、母が末期がんの宣告を受けて、なし崩し的に介護離職をすることになって、体重と一緒に口座の残高が減少の一途をたどった。

    肉体の物理的な強度を持ってしても、僕の心は支えきれなかったのだ。

    走れないなら、歩く

    せっかく習慣化したランニングもマシントレーニングも、すっかり遠のいてしまった。母を自分一人で介護して、シフトの自由が利く仕事に乗り換えて、しかし心の風邪の治療までは手が回らなかった。

    いつしか甲本ヒロトと渡瀬マキも耳からいなくなった。

    そんな生活を1年余り。母を看取った頃には、僕は生活保護受給者となっていた。

    しかし、だからこそ、おかげさまで自分の治療に専念できる環境だけは整った。

    僕はまた、「歩く」ことから始めた。やはり比喩ではない。ウォーキング生活の始まりである。走ることは無理でも、歩くことはできたのだ。いつだって、できることから始め直すしかないのが人生であり運動だ。

    実は歩くことは、母を看取る前から始まってはいた。

    生活保護受給者にとって、毎回母の病院に付き添うたび、電車やバスに乗る贅沢は許されなかった。

    家族の付き添い名目では、保護費の追加申請は通らない。これについては、開いてはいけない怨念の蓋が開いてしまいそうなので閉じたまましておくが、ともかく僕は歩くしかなかった。

    しかし結果として、これは自分自身の再起の役には立った。一日に10キロ以上歩く筋肉だけは失っていなかったからだ。

    歩くことは、心の旅だ。僕は、何度も何度も考えた。物理的に歩きながら、心も過去現在未来を自由に歩き回った。

    たった今、noteに書いている様々なことは、この時期に歩きながら行った基礎工事の賜物でもある。

    どうすればよかったか。

    どうしていくべきなのか。

    いや、どうしたいのか。

    思う存分思索して、部屋に帰ってくるとnoteに書いた。

    当時のnoteは何だったのか。今ほど整っておらず(今も整っているかは自信はないけど)、パッケージ前の生身の言葉だった。あまりに生のマイナスな言葉は、そっと非公開にはしているけど、消すことはできずにもいる。

    叫びでもあり、記録でもあり、メモでもあった。今はもう少し、パッケージとして整っている。良くも悪くも、僕はそこを一歩ずつ「歩いて」きた。

    だが当時、危うく病院送りになりそうにもなったことは、鮮明に覚えている。真夏の炎天下に、めまいがして公園のベンチでぐったりしていた。まだ心の風邪が治りきっていないのに無理をした、と反省していた。

    すると小学生の集団に囲まれた。

    「おじちゃん、大丈夫?」

    「水飲みなよ」

    そんなもの持っていないと言うと、大爆笑された。

    「水分補給は基本でしょ~!」

    なんだ、ただの脱水だった。ひとまず水飲み場まで案内されて、ごくごくと飲んだ。そして、キッズたちからは塩飴をもらった。

    わりとあっさり立ち直った。水分や塩分よりも、子供たちの笑い声が染みた気がする。

    シェアハウスのおばちゃんに笑われたとき、僕は一緒に笑いたかった。

    公園のベンチで小学生たちに笑われたとき、少しだけ、その続きを笑えた気がした。

    塩飴を渡したのが親御さんなのか、先生なのか。

    まさか行き倒れ寸前のおじさんを救うことになるとは、思わなかったことだろう。

    また体を動かす生活に戻ってきた

    物理的な歩行距離と、抽象的なロマンチックな意味での歩行距離が重なって、生活保護を卒業して、また体育館(あの頃とは違う場所)に戻ってきた。

    そこにもランニング用とウエイトトレーニング用のマシンがあって、元気なおじいちゃん・おばあちゃんがいる。「自立歩行が元気の源」というポスターもなんだか微笑ましくもあり、勇気づけにも一役買っている。そんな場所が、1日数百円で使えるというのは、かなりありがたいことだと思う。

    最近はSwitchの「FitBoxing3」にどハマリしていて、連続100日も達成して、これまたnoteに書いたばかりだ。

    離婚直後から体重は10kg減った。腹もだいぶマシになった。下半身の強度はなかなかのものだ。階段の昇り降りで呼吸が乱れることもない。

    体の声も、自分の声だ

    いつもは社会だ、仕事だ、金だと、脂っこい話が多いnoteだ。

    たまには、汗と一緒にデトックスができるnoteを書いてみた。

    運動を啓発したいわけではない。ただ、時に体と向き合うことも、悪いことではないと伝えたかった。

    特に、何かを失ってしまった時。それでも「歩く」必要がある時。

    「歩きたい」気持ちだけは残っている時。

    実は心ではなくて、体が求めていることもある。

    それも自分の声だ。

    だから僕は、今も歩く。

    時々走る。

    最近は毎日、拳も振るう。

    何かを取り戻すためというより、まだ自分の体がこちら側に残っていることを、確かめるために。

    あの頃の僕には、関係を修復する「体力」がなかった。

    けれど今は、自分の体の声を聞き直すくらいの体力なら、少し戻ってきたのだと思う。

    とはいえ、自分の声と喧嘩することもあるだろう。

    それもまた、善き哉、善き哉。

    ふと気が向いた時、GUの安いスニーカーでいいから、それを履いて体を動かしにいくのも悪くないと思うんよ。

    水分と塩分補給も忘れずに。





     
     
    元:うつ病、現:自閉症スペクトラム(ASD)/元:生活保護受給、現:営業(オンライン在宅勤務)/「いのちの電話」の相談員(現在は活動休止中)/40代男性/就職氷河期世代/世界のどこかにいるはずの、もう一人の「私」にエールを送るつもりで書いているアカウントです。

    あなたへのおすすめ