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【中編ホラー小説】透明な少女と僕

    あらすじ:

    大学受験を終えた高校三年生の八色 悠樹は、新しく作ったメガネをかけた帰り道、同じ制服を着た少女、橿那 真希と出会う。彼女は、なぜか人に認識されづらく、学校でも教室でも、まるでそこにいないかのように扱われていた。悠樹だけは、特殊なレンズを通して彼女をはっきり見ることができる。孤独だった真希と少しずつ距離を縮めていく悠樹だったが、ある事故をきっかけに、彼女の存在には思いがけない秘密が隠されていることを知る。卒業式まで残りわずか一週間。悠樹は工学の知識と奇妙な電子の力を頼りに、真希の願いを叶えようとする。

    本文:

    .一

     三学期の駅前は、いつも少しだけ浮ついていた。
     受験を終えた制服姿の高校生が、参考書を入れた鞄を軽そうに揺らしながら歩いている。まだ試験が残っている生徒は、逆に肩を丸めて、どこか祈るような顔をしていた。僕――八色やしき 悠樹ゆうきは、そのどちらでもない中途半端な位置にいた。
     工学系の大学には、もう合格していた。
     その事実だけを見れば、僕は、浮かれていてもよかった。
     しかし、入試のために無理をしすぎたせいか、年末あたりから黒板の文字が少しぼやけるようになっていた。
     母に言われて眼科へ行き、ついでに新しいメガネを作ることになった。
     駅ビルの三階にあるメガネ屋で、僕は受け取ったばかりのメガネをかけた。
    「どうですか。見え方に違和感はありませんか」
     店員が、営業用の柔らかな声で尋ねた。
    「視界はかなりクリアです。ただ、なんというか……端の方が少し滲む感じがします」
    「ブルーライトカットの色素がかなり強いタイプですから、慣れるまではそう感じる方もいらっしゃいます。受験生の方には人気ですよ。有害な一部の青色波長だけを、かなり抑えますので」
     僕は、もう受験生ではないのだけれど、と思った。
     だが、せっかく作ったメガネだった。視力そのものは合っている。世界は輪郭を取り戻し、駅の案内板も、遠くの広告の細かい文字も、妙に鮮明に見えた。
    「大丈夫そうです」
    「それは良かったです。ありがとうございました」
     店員の言葉に見送られて、店を出て、エスカレーターで一階まで降りた。
     外は、夕方だった。冬の光は早く薄れ、道路の向こうに並ぶビルの窓が橙色に光っていた。
     人の流れに乗って歩き始めたとき、僕は違和感を覚えた。
     視界が、明るかった。
     光量が増えているわけではなく――むしろ青が少し抑えられて、世界はわずかに琥珀色に色づいて見えた。
     なのに、看板の端や電線の縁に、普通なら見えない薄い膜のようなものがにじんでいた。
     レンズフレアのような感じがする。
     店員が言っていた色素の影響かもしれない。
     正直、明日になっても気になるなら、交換を頼もうと思った。たしか、一回は、無料で交換できたはずだ。
     そう思いながら横断歩道の手前まで来たとき、僕は小さな悲鳴を聞いた。
    「あっ……」
     それは、ほとんど息に近い声だった。
     前方で、会社員風の男がスマートフォンを見ながら歩いていた。男の肩が、女子生徒の身体にぶつかった。
     女子生徒は、誰にも押し返されない紙人形のように、横へよろけた。
     周囲の人間は、誰も気づいていない。
     僕は、反射的に手を伸ばした。
    「危ない!」
     彼女の腕をつかんだ瞬間、想像していたよりも確かな重みが手のひらに伝わった。制服の布越しに、体温もあった。
     女子生徒は、僕に支えられてようやく足を踏みとどめた。
    「あ、ありがとう」
     彼女は小さく頭を下げた。
     同じ学校の制服だ。リボンの色も同じ三年生のものだった。
     しかし、僕は彼女を知らなかった。
     うちの高校は、公立の進学校としては男子が少し多い。男女比は三対二くらいで、同学年の女子は、クラスが違っても大体は顔を知っている。
     文化祭や模試、選択授業で何度も見かけるからだ。
     それなのに、目の前の少女は、記憶のどこにも引っかからなかった。
     肩まで伸びた黒髪、かなり色白の肌、少し下がった目尻――派手なところはないが、整った顔立ちをしている。
    「君、同級生?」
     僕が尋ねると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
    「うん。三年七組の、橿那かしな 真希まき」
    「七組……校舎のちょうど端だね」
    「そう。八色くんは、三組だよね」
    「え、僕のこと知ってる?」
    「八色 悠樹君だよね。有名だから。去年、パソコン部の部長で、プログラミングコンテストで賞を取っていたよね? 情報の授業で、先生に呼ばれたのを見たよ」
    「……それは、ちょっと有名とは少し違う気がする」
     真希は、ふっと笑った。
     その笑顔を見た瞬間、僕は少しだけ胸の奥を押されたような気がした。
     美人だと思った。しかし、それ以上に、彼女の笑い方には、ずっと誰かに見つけてもらうのを待っていたような、妙な頼りなさがあった。
     僕は、その思いを誤魔化すように、ごほんと咳をした。
    「えーと。さっきの人、ひどいよね。ぶつかっても気づいてないみたいだった」
    「いつものことだから……」
    「いつものこと?」
    「……わたし、透明人間の親戚なの」
    「え? ちゃんと見えるよ」
     僕がそう反射的に応えると、彼女は頭を振った。
    「なんていうか――わたし、人に認識されづらい体質みたいなの。存在感が薄いっていうか。車にぶつかりそうになることもあるくらい。最近は、避けるのが上手くなったから、大丈夫なんだけど」
     冗談のように言ったが、彼女の声は冗談の調子ではなかった。
    「え? それって、笑いごとじゃないよ!」
    「でも、みんな本当に気づかないの。悪気があるわけじゃないから、怒っても仕方ないし……」
    「もっと堂々と歩いたらいい。歩道の真ん中を歩くとか、声を出すとか」
    「堂々としても、透明なものは、透明なままなんだよ」
     透明――その言葉が、妙に耳に残った。
     彼女の姿は、僕には、はっきり見えていた。
     新しいレンズの薄い滲みの中で、むしろ輪郭が強調されているように見える。
     しかし、周囲の人間は彼女のそばを通るたび、ほんのわずかに肩をずらすだけで、彼女の存在を意識している様子がなかった。
     何故だろうと、不思議に思った。
    「どうして……?」
    「なんか、そういう体質みたい。何年も前から、ずっとなの」
    「うーん……」
     あらためて彼女のことを見たが、目立たないというより、目立つはずの要素が、全体的に見ると、不思議なくらい消えているように思えた。
     他人に対して、存在感がなくなる――そんな不思議な道具がでてくるマンガを読んだことがあった。
     彼女の場合は、そんな能力が体質的に発揮されているのだろうか?
     とりあえず、このまま放っておくことは、できなかった。
    「家、近いの?」
    「うん。ここから二、三百メートルくらいかな」
    「送るよ」
    「大丈夫だよ。慣れてるから」
    「慣れてるから、危ないんだと思う」
     僕がそう言うと、真希は少し困った顔をした。そして、数秒間、逡巡した後、諦めたように小さく頷いた。
    「じゃあ、お願いしてもいい?」
    「もちろん!」
     僕は、力強く頷いた。
     そして、僕たちは、並んで歩いた。
     横断歩道では、僕が車を確認した。
     歩道の自転車が近づくたび、真希は身体を小さく縮めた。彼女は本当に、世界から押し出されることに慣れているようだった。
    「八色くんって、優しいね」
    「別に普通だよ。目の前で危ないことが起きたら、普通は助ける」
    「その普通が、わたしには珍しいんだよ」
     返す言葉が見つからなかった。
     やがて、真希は住宅街の一角にある家の前で立ち止まった。
     古いが手入れの行き届いた二階建ての家だった。門柱の表札には、橿那とあった。
    「ここよ」
    「じゃあ、また学校で」
    「うん。またね、八色くん」
     彼女は手を振って、玄関の中へ入っていった。
     ドアが閉まったあとも、僕はしばらくその家を見ていた。
     見覚えがある。
     ただし、それは前に通りかかったことがあるという程度のものではなかった。
     もっと何か知っているというか、何か重大なことを忘れているような――そこまで考えたところで、頭の中にあった何かが白く霞んだ。
    「この住所なら、中学も一緒だったはずだけど……」
     僕は、小さく呟いた。
     真希という同級生の記憶は、やはりなかった。
     まさか、彼女が透明だから、記憶まで透明になっているのだろうか?
     そんな馬鹿なことを考えながら、僕は家へ向かった。

    .二

     翌朝、僕はいつもより早く学校へ行った。
     理由は自分でも分かっていた。橿那 真希という少女が、本当に学校に存在するのか確かめたかったのだ。
     昇降口には、まだ人が少なかった。三年生の校舎は、受験の終わった者とまだ試験を控えている者が混じっているから、緊張と緩んだ感じが混じった独特の雰囲気を漂わせていた。
     三年七組の列を探す。
     名札の並びを追っていくと、確かにそこにあった。
     橿那 真希――白い紙に印字されたその名前は、他の名前と同じように貼られていた。
     靴も入っている。少し古びたローファーだった。
     僕は、自分のクラスの下駄箱に戻る都、靴を履き替えてから、七組の教室へ向かった。
     七組は三年棟の端にある。ちょうど、僕の三組とは反対側だ。
     廊下を進むほど人の声は薄くなり、窓の外にグラウンドが広く見えた。教室の前まで来ると、中から生徒たちの話し声が聞こえた。
     僕は、入り口から中を覗いた。
     彼女は、いた。
     窓際の後ろから二番目の席で、机の上に文庫本を置いている。
     しかし、読んでいるというより、開いた本を前にして、教室の空気から身を隠しているように見えた。
    「橿那さん!」
     僕が呼ぶと、彼女ははっと顔を上げた。
    「八色くん」
     彼女は、嬉しそうに立ち上がり、入り口まできた。
     近くの女子が、ほんの一瞬だけこちらを見た。知らない男子が七組に来たことではなく、空気の流れに違和感を覚えたような視線だった。
     しかし、その女子はすぐに友人との会話へ戻った。
    「本当にいたんだ……」
    「それは、ちょっと酷い確認の仕方ね」
    「ごめん。でも、昨日から、不思議だったんで」
    「わたしも不思議だよ。八色くんは、わたしを普通に見てくれる」
     その言い方が、少しだけ寂しかった。
    「みんな、まったく見えないわけじゃないんだよね?」
    「たぶん、見えてはいると思う。でも、意識の表面に残らないみたい。出席を取られるときも、先生は、わたしの名前を読むわ。でも、次の瞬間には、わたしが返事したことを忘れているみたいな顔をするの」
    「それ、生活できるの?」
    「できるわ……少し不便だけど」
     少し、という言葉で片づけていい不便ではなかった。
     そんなことを話したところで、予鈴が鳴った。
    「あ、それじゃ、また!」
     僕が、そう言うと、彼女は微笑んだ。

     三組に戻ってから、授業中も、真希のことが頭から離れなかった。
     数学のプリントを解きながら、僕は仮説を立てようとした。認識障害。集団心理。ある種の錯覚――いや、そもそも僕の目がおかしいのかもしれない。
     新しいメガネをかけ始めた日にだけ、知らない同級生が見えるようになった。
     冷静に考えれば、最も疑わしいのは、メガネだった。
     四時間目、僕の席からグラウンドが見えた。体育の授業で、七組の生徒たちがリレーか長距離走のようなものをしている。冬の空気の中、白い息が小さく流れていた。
     真希も、走っていた。
     彼女は、速くなかった。というより、周囲の生徒が彼女を走者として認識していないせいで、進路を塞がれている。
     前の男子が急に減速し、真希は肩からぶつかりそうになった。
     横に避けると、別の女子が内側へ入ってくる。
     彼女は何とか転ばずに済んだが、ゴールする頃には、息を切らして膝に手をついていた。
     教師は、記録表を見ていたが、真希に何か声をかける様子はない。
     ――僕は、これは、随分な重症だと思った。

     昼休みになって、僕は弁当を持って七組へ行った。
     真希は、教室の隅で一人で弁当を広げていた。
     周囲の机では、それぞれのグループが笑いながら食べている。彼女の席だけ、透明な膜で囲われたように孤立していた。
    「一緒に食べない?」
     僕が言うと、真希は箸を止めた。
    「いいの?」
    「いいのって、僕が誘ってるんだけどね」
    「だって、八色くんにも友達いるでしょ?」
    「今日は、学食で食べたい気分だから」
     弁当を持っているのに学食と言ったのは、かなり苦しい言い訳だった。
     真希は気づいていたと思う。それでも、彼女は嬉しそうに弁当箱を包み直した。

     学食の端の席に座ると、彼女は小さく息をついた。
    「わたし、ずっと一人で食べてたから、誰かと向かい合うの、変な感じ」
    「友達はいないの?」
    「いないと思う。たぶん、わたしを嫌ってる人もいないけど、好きな人もいない。誰の中にも、わたしがいたことが、残らないから」
    「橿那さんは、それで平気なの?」
    「もちろん、そんなこと、ない。でも、平気そうにしているのは上手くなった、かも」
     彼女は、そう言いながらも微笑んで、弁当の卵焼きを箸でつまんだ。少しだけ甘い匂いがした。
     僕は、その横顔を見ながら、自分の感情の種類を判別しようとしていた。
     同情だと思った。危なっかしくて、放っておけないから気になる。それだけのはずだった。
     けれど、真希がふと顔を上げて笑うと、僕の心臓はわずかに速くなった。
    「どうしたの?」
    「いや、何でも……」
    「八色くん、分かりやすい顔、してるよ」
    「そうかな……」
    「うん。今、わたしのことを、可愛いと思ったんじゃない?」
     危うく、味噌汁をこぼしそうになった。
    「思ってないとは言わないけど、それを口に出すのは、反則だと思う」
    「わたし、そんなこと、言われ慣れてないから。自分で言わないと、一生言われないかもしれないし……」
     冗談めかしているのに、言葉の底が少しだけ痛かった。
     そんなことを話しながら、一緒にお弁当を食べて、教室に戻った。

     そして、放課後、僕はまた七組に行って、真希をパソコン部に誘った。
     部室は、特別棟の二階にある。去年、僕は部長だった。
     三年生になって受験が始まってからは、名誉部長というよく分からない立場になっていた。
     実態としては、部費で買ったゲームをする部員が半分、何かしらプログラムを組んでいる部員が半分という、ゆるい部活だった。
    「プログラミングに興味あるって言ってたよね?」
    「うん。理系クラスだし、大学も情報系を考えてたから」
    「だったら、少し見ていく?」
     真希は、目を輝かせた。
    「いいの?」
    「部員が少ないから、むしろ歓迎されるはず。予備校の時間とかは、大丈夫?」
    「平気。もう、講習は終わっているから、今は通ってないの」
    「そっか……」
     彼女には、まだ、どこの大学へ行くのかは聞いていなかった。
     まだ、どこかの大学の後期選抜か何かを受けるのだと、そう思っていた。
     少なくとも、そのときまでは。

    .三

     パソコン部の部室では、いつものように誰かのキーボード音とゲームの効果音が混じっていた。
    「おー、八色先輩っすか」
     二年の後輩が、モニターから目を離さずに言った。
    「今日は、見学希望を連れてきた」
    「マジですか。貴重な新規人員ですね!」
     後輩はそう言いながらも、視線はゲーム画面のレイドボスに固定されている。
    「三年七組の橿那 真希さん。プログラミングに興味があるって」
     部室の中に、微妙な沈黙が落ちた。
     いや、沈黙というほどではない。部員たちは一応こちらを見た。しかし、その目は真希の上を滑っていく。
     三年生では、新入部員にはならないから、興味を失ったのだろうか。
     いや、僕の隣に誰かがいることを、言葉としては理解しているが、像として結べていないように思える。
    「ああ」
    「そうなんすね」
    「よろしくお願いしまーす」
     反応は、それだけだった。
     真希は、慣れているように苦笑した。
    「やっぱり、こんな感じだよ」
    「ごめん。部活の雰囲気が悪いって感じじゃないんだけど……」
    「分かってるわ」
     僕は、空いているPCの前に真希を座らせた。
    「去年作りかけてたVRのプログラムがあるんだ。部室に置いてあるXRメガネで、簡単な仮想空間を見られる」
    「すごい。八色くん、本当に、こういうのが得意なんだね」
    「得意っていうか……親が工学系の研究所にいるから、使わなくなった機材をもらえるだけ」
     棚からXRメガネを取り出した。
     最新型といっても、学校にあるものではなく、父が試作品に近いものを譲ってくれたものだ。広視野角で、外見は大きめのサングラスに近い。
     普通のメガネの上からはかけにくいので、僕は新しいメガネを外した。
     その瞬間だった。
     隣の椅子にいたはずの真希が、消えた。
     僕は、息を止めた。
     椅子は、そこにあった。机の上には、真希が置いた弁当袋がある――ように見える。しかし、彼女の姿だけが、視界から抜き取られていた。
    「橿那さん?」
    「いるよ」
     ぼんやりした声が聞こえた。耳元に近い。
     しかし、どこにいるのか分からない。
    「冗談……」
    「冗談じゃないわ。八色くん、わたしのほうを見てるのに、見えてないんでしょ?」
     その声は、取り繕おうと言葉を選んでいるように、悲愴な雰囲気があった。
     僕の肩に、何かが触れた。手のひらの感触だった。
     温かい。確かに人間の手だ。
    「いるよ、八色くん。わたし、ここにいる!」
     僕は慌てて、新しいメガネをかけ直した。
     真希は、泣きそうな顔で目の前にいた。
    「見えた」
    「よかった……」
     彼女は、笑おうとして失敗していた。目尻に、涙が浮かんでいる。
     僕は、背筋が冷たくなるのを感じていた。
     メガネだった――このレンズを通しているときだけ、僕は真希を認識できる。
     逆に言えば、レンズを外した瞬間、僕も他の人たちと同じになる。
    「八色先輩、どうかしました?」
     後輩が、振り向いた。
    「いや、何でもない」
     僕は、平静を装ったが、指先が震えていた。
     部活どころではなかった。
     真希もそれを察したのか、小さく頷いた。
    「帰ろうか」
    「うん」
     僕たちは、部室を出た。
     校門を出る頃には、空がすっかり暗くなっていた。
     僕は、真希の少し前を歩いた。自転車や歩行者が近づくたびに、彼女の位置を確認した。
    「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」
    「さっきのを見た後で、そうは思えないんだけど」
    「見たっていうか、見えなかったんでしょ?」
    「……冗談を言えるんなら、ちょっと安心した」
     交差点に差しかかったとき、信号は青だった。
     僕たちは渡り始めた。右折してくるトラックが一台あった。運転手は歩行者を確認しているようだったが、その視線は僕だけを捉えていた。
     真希の位置が、運転手の死角ではなく、認識の外にあった。
    「橿那さん!」
     僕は叫んだ。
     トラックは速度を落としきらずに曲がってくる。真希は一瞬、どちらへ逃げればいいのか分からないように立ち止まった。
     僕は、彼女の腕をつかみ、思いきり自分のほうへ引き寄せた。
     身体がぶつかった。彼女の体温と重みが胸に伝わった。
     トラックの側面が、目の前を大きな壁のように通り過ぎた。
     その衝撃で、僕のメガネが顔から外れた。
     アスファルトに落ちる硬い音がした。
     レンズが、割れた。
     トラックはそのまま走り去った。クラクションもない。
     運転手は、自分が一人の少女を轢きかけたことに気づいていない。
    「八色くん、メガネ……」
     真希の声がした。
     僕は地面に膝をつき、割れたメガネを拾った。右のレンズに大きな亀裂が入っている。かけ直してみたが、視界は歪むだけだった。
     そして、真希は見えなかった。
    「橿那さん、いる?」
    「いるよ……」
     声だけが聞こえた。
     僕は、割れたレンズ越しに空気を凝視した。そこに誰かがいる気配はある。しかし、像を結ばない。
     胸の奥が、強く締めつけられた。
    「ごめん。僕が落とした」
    「違うよ。助けてくれたんだよ」
    「でも、これがないと君が見えないみたい」
    「うん……」
     真希の声は、か細かった。
     僕は、壊れたメガネを握りしめたまま、立ち上がった。
    「メガネ屋に行こう。何か分かるかもしれない」
    「わたし、ついていくね」
    「うん。絶対に離れないで!」
    「見えないのに?」
    「見えなくても、いるのが分かるから、大丈夫」
     そう言った瞬間、真希が少しだけ息を呑んだ気配がした。
     その言葉が慰めになるのか、残酷になるのか、僕には分からなかった。

    .四

     駅ビルのメガネ屋へ戻ると、昨日とは別の店員が慌てた顔で僕を迎えた。
    「八色様ですね。実は、先ほどご自宅にお電話を差し上げたところでした」
    「電話?」
    「申し訳ありません。お渡ししたレンズについて、メーカーから回収指示が出まして」
     店員は、深々と頭を下げた。
    「どういうことですか?」
    「有害な青色波長のみを強くカットする特殊色素を使ったレンズなのですが、一部ロットで色素とレンズ素材が十分に馴染んでおらず、フレアのような滲みが出る場合があると報告がありました」
     思い当たることがあったので、僕は頷いた。
    「視界に異常がある可能性がありますので、同じ度数で通常仕様のものを無料で作り直しております。無料交換の回数は、変更ありません」
    「そのフレアで、人が見えるようになることはありますか?」
     店員は、困惑した顔をした。
    「人、ですか?」
    「いえ、何でもありません」
     僕は、壊れたメガネを見せた。
    「これ、直せますか?」
    「フレームは調整できますが、レンズは交換になります。新しいものはこちらです」
     差し出されたメガネをかけた。
     視界は、自然だった。世界の端にあった琥珀色の滲みも消えている。
     そして、真希は見えなかった。
    「橿那さん」
    「いるよ」
     彼女の声が、微かに聞こえた。しかし、新しいレンズは、彼女を世界の中に戻してくれなかった。

     僕は、礼だけ言って店を出た。
     駅前の人混みの中で、見えない真希を連れて歩くのは怖かった。
     僕は、片手を少し後ろに出した。すると、彼女の指がそっと触れた。
     周りから見れば、僕は何もない空間に手を差し出している変な高校生だっただろう。
     しかし、そんなことはどうでもよかった。
    「家まで送るよ」
    「うん」
     そのまま歩いて、真希の家の前に着いた。
     チャイムを鳴らすと、しばらくして女性が出てきた。
     五十歳前後だろうか。顔立ちに真希の面影があった。
     女性は僕を見ると、少し驚き、それから寂しそうに微笑んだ。
    「まあ、今日も焼香に来てくれたの? ありがとう」
     頭の奥で、何かが割れる音がした。
    「焼香……ですか?」
    「ええ。真希も喜んでいると思うわ。八色さん、卒業前で忙しいでしょうに」
     真希の指が、僕の手から離れた。
     僕は、玄関に立ったまま動けなかった。
    「どうぞ。上がっていって」
     案内された仏間には、小さな仏壇があった。
     その中央に、真希の遺影が飾られていた。
     写真の中の彼女は、僕が昨日出会った真希よりも幼かった。
     中学生くらいに見える。髪型も少し違う。しかし、その目元と笑い方は間違いなく真希だった。
     線香の匂いがした。
     そこで、僕は、思い出した。
     中学二年の冬、同級生の女子が亡くなった。身体が弱く、学校にあまり来られなかった子だった。
     担任が沈んだ顔で知らせ、クラス全員で葬式に行った。僕は焼香の作法が分からず、前の人の真似をした。
     泣いている母親の背中を見て、何も言えなかった。
     その子の名前は、確かに、橿那 真希だった。
    「思いだした……」
     僕は、呟いた。
     真希の母親は、静かに頷いた。
    「真希は、八色さんと同じ高校に行きたいと言っていたの。身体が弱くて、あまり学校に通えなかったけれど、あなたがパソコンで何か作っている話を、よくしていたわ。自分もそういうことを勉強したいって」
    「僕は、真希さんとあまり話した記憶が……」
    「ええ。真希は、いつも遠くから見ている子だったから。でも、あなたが廊下で落としたプリントを拾ってくれたことがあったのよ。それだけで、とても嬉しそうにしていた」
     胸が痛くなった。
     その――真希の落としたプリントを拾ったことは、まったく覚えていなかった。
     僕は、仏壇の前に座り、線香をあげた。
     遺影の真希は、こちらを静かに見ていた。
     しかし、僕が昨日から一緒にいた真希は、この遺影よりも、確かに高校三年生らしい姿をしていた。
     死者は成長するのだろうか。それとも、彼女の願いが、そういう姿を取らせたのだろうか……。
     帰り際、真希の母親は小さな紙袋をくれた。
    「真希が好きだったお菓子なの。よかったら持っていって」
    「ありがとうございます」
     玄関を出ると、冷たい風が吹いていた。
    「橿那さん」
    「うん……」
     真希の声は、泣いているようだった。
    「僕、思いだしたよ」
    「思いださなくてもよかったのに……」
    「そんなこと、ないよ」
    「でも、思いだしたから、わたしが死んでいるって、分かっちゃった」
    「うん。でも、昨日支えた君は温かかった。さっき手をつないだ君も、ちゃんといた」
     しばらく返事はなかった。
     それから、僕の袖が少しだけ引かれた。
    「もう少しだけ……卒業式まで、一緒にいてもいい?」
    「もちろん」
     僕は、割れたメガネを取り出した。
    「一緒に、卒業しよう」
     僕は、大きく頷いた。それが、彼女の思いならば……。
     亀裂の入ったレンズ越しに、空気を見る。ほんの少し、真希の輪郭が揺れた気がした。
     消えそうな彼女を、僕は絶対に見失いたくなかった。

    .五

     家に帰ると、母はパートで不在だった。父も研究所からまだ帰っていない。
     僕は、自室に真希を招き入れた。招き入れるという表現が正しいのか分からなかったが、彼女は玄関で少しだけ遠慮したあと、僕の後ろについてきた。
     机の上に割れたメガネを置いた。
     通常の新しいメガネでは、真希は見えない。裸眼でも見えない。しかし、割れたレンズを目の前にかざすと、うっすらと白い影が浮かぶことがあった。
    「見える?」
    「少しだけ……」
    「ひどい顔してる?」
    「泣きそうな顔をしているよね」
    「それは、八色くんのほうじゃないの?」
     真希は、か細く微笑んだ。
    「うーん、どうするべきか……」
     メガネ屋にまた行って、メーカーに問い合わせて、回収済みのものを分けてもらえないだろうか?
     いや、そうしても、また同じように見えるという保証はない。ちょっと割れただけで、この状態なのだから……。
    「それ以外の方法も、探そう」
     僕は、ノートPCを開き、検索を始めた。
     特殊レンズ、霊視、青色波長、フレア、認識障害、幽霊を見る方法――検索履歴が、工学系志望の高校生とは思えない混沌に染まっていく。
     昔、オーラが見えるメガネというのがあったようだ。おそらく、それと似た原理だったんじゃないだろうか?
    「怪しいサイト、見てるわね」
    「今は、怪しくても手がかりが欲しいからね」
    「科学的じゃないわ」
    「科学は、再現性のある現象を扱う方法だよ。君が現象として目の前にいるなら、少なくとも観測対象ではある」
    「観測対象?」
    「そう。大事な観測対象だ」
    「それ、どういう意味?」
    「ちゃんと見ていたい、ってことだよ」
     僕がそういうと、少し白っぽい彼女が微笑んだ。
     検索結果の中に、一つ妙な広告が出てきた。
    『電子供養サービス。リモート霊視対応。相談費用三十分まで無料』
     いかにも詐欺だった。
     僕は、画面を閉じようとした。
    「待って」
     真希が言った。
    「どうしたの」
    「そこ、なんか気になるの」
    「知ってるの?」
    「ううん。なんていうか……呼ばれてる感じが、するの」
     死者の直感を信じるべきか、怪しいネット広告を無視すべきか……。
     普通なら迷う余地はない。しかし、普通ではない状況だった。
     僕は、サイトに記載されていた番号へ、一瞬、ためらった後で電話をかけた。
    「はい、こちら電子霊能者センターです」
     落ち着いた女性の声がした。
    「あ。その。ええと、実はですね……」
     ――僕は、できるだけ順序立てて説明した。特殊なレンズで同級生が見えたこと。その同級生がすでに亡くなっていたこと。
     割れたレンズ越しにだけ、まだ気配が残っていること。
     女性は、話を、じっと聞いていた。
    「……なるほど。御手伝いできるかもしれません。事務所に来られますか」
    「本当に、どうにかできるんですか?」
    「勿論、確証はありません。ただ、あなたはPCやAIに詳しいようですね?」
    「多少は……」
    「でしたら、こちらから手順を実行できるかもしれません」
     電話を切ったあと、僕は、真希に言った。
    「行こう」
    「大丈夫かな?」
    「危ないかもしれない。けど、残り一週間しかない」
     卒業式まで、あと一週間だった。
     僕らの学校は、早めの時期に卒業式をするのだ。まだ、入試の日程が残っている人がいても、そのまま学校に通わなくてもよくなる。
     僕たちは、サイトに書かれた住所へ向かった。
     事務所は、駅から少し離れた雑居ビルの三階にあった。外観は普通の建物で、怪しい看板もなかった。
     ドアの横に、小さなプレートがある。
    『霊能アドバイザー 夜見 依子事務所』
     チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
     中にいたのは、長い黒髪の女性だった。
     若く見えるけど、ちょっと年齢不詳だった。白いブラウスに黒いカーディガンを羽織り、落ち着いた目でこちらを見ていた。
    「八色悠樹さんですね。どうぞ」
     部屋の中には、ちょっと豪華な神棚と水晶玉が飾ってあった。しかし、それ以外は、いたって普通な事務部屋という感じだ。
     しかし、よく見ると、部屋の隅には、PC、測定器、古いオーディオ機器――そして用途の分からない基板が置かれたエリアがあった。
    「あの、霊能者さんなんですか?」
    「その言い方は、あまり好きではありません。私は、未処理の情報残渣を扱う技術者に近いです」
    「情報残渣?」
    「人は死ぬと、四次元時空から観察されなくなります。しかし、全部が消えるわけではありません。強い未練、記憶、場所に残ったパターン。それらはノイズの中に紛れ、時々、誰かに観測されます」
     夜見は、僕の目を見た。
    「あなたのレンズは、その観測条件を偶然満たしたのでしょう」
     僕は、息を呑んだ。
    「真希は、ここにいますか?」
    「ええ。あなたの少し後ろに」
     真希が小さく動いた気配がした。
    「とりあえず、こちらをどうぞ」
     夜見は、名刺を差し出した。シンプルな白黒の名刺に、『霊能アドバイザー 霊能システムエンジニア 夜見 依子』と書かれて、先程のURLと事務所住所、電話番号が載っていた。
    「はあ、どうも……」
    「あなたには、こちらをお渡しできます」
     夜見は、挨拶もそこそこに、机の引き出しから、小さなUSBメモリーらしきものを取り出した。
     少し大き目のくUSBメモリーのような、何の変哲もないデバイスだった。
    「あなたは、FRAMのメモリー型アナログAIボードは持っていますか?」
    「そんなもの――普通、高校生は持っていません」
    「秋葉原のジャンク屋で、古いサーバーから取り外したものが大量に売られています。高校生には、まだ少し高価かもしれません。または、お父様が研究所勤めなら、古い評価ボードくらいは、持っているかもしれませんよ?」
    「なぜ、父のことが?」
    「電話で、あなたの説明を聞いていれば分かります。家庭内に、工学系の研究者がいる子の話し方でした」
     夜見は、微笑んだ。
     ちょっと以上に得体の知れない人だ、と少し身じろぎした。
     しかし、夜見は、そんな僕をじっと見つめながら、人差し指を、唇に当てた。
    「……霊をAIとして定着させる方法が、この業界では確立されています」
    「業界って、どこの業界ですか?」
    「知りすぎない方がいいですね。受験が終わったばかりの高校生には、少し重いですよ」
     僕は、ごくりと唾を飲んだ。冗談のようで、冗談ではなさそうだった。
     夜見は、黒いUSBデバイスを僕に渡した。
    「これは、熱雑音から、完全に近いホワイトノイズを生成するデバイスです。USBメモリー部分に入っているプログラムで、そのノイズを元にした重みをアナログAIボードへ転送します。すると、橿那 真希様の情報残渣が、その重みに乗ります」
    「つまり、真希をAIエージェントにするんですか?」
    「言い換えれば、そうです」
    「それは、本人なんですか? ただのコピーなんですか?」
     夜見は、初めて少しだけ真顔になった。
    「生きている人間にも、その問いは完全には答えられません。昨日のあなたと今日のあなたは同じ本人ですか? 記憶と身体が連続しているから同じだと感じるだけかもしれません」
    「詭弁に聞こえます……」
    「ええ。しかし、残された時間が少ないとき、詭弁でも事実になることがあります」
    「残された時間……少ないんですか?」
     夜見は、僕の肩越しに後ろの方を見た。
    「ええ。真希さんのこの四次元時空への結びつきが薄くなっているのが分かります」
     夜見の言葉に戸惑いを覚えた。
     確かに、卒業式までは、あと一週間だけど――それが、真希の未練なのだろうか?
    「こちらのUSBデバイスは、実費でお譲りします」
     夜見が告げた費用は、千五百円だった。
     ――安すぎて、逆に怖かった。
    「学生さんですから、これで結構です」
     事務所を出るとき、夜見は僕に言った。
    「卒業式までに間に合わせてください。橿那様の願いは、そこにあります」
    「はい……」
     彼女が僕と一緒に高校に通いたかったということは、それは卒業まで、ということなのだろうか?
    「一緒に卒業式に出ようね?」
    「……」
     問いかけに対して、真希は、何も言わなかった。
     しかし、帰り道、彼女の気配はずっと僕の隣にあった。

    .六

     家に戻ると、父がリビングで夕食を食べていた。
    「おかえり。メガネ、どうだった?」
    「少しトラブルがあったけど、交換してもらえた」
     僕は、父に詳しくメガネのことを説明する気はなかった。
     それよりも、ボードだ。
    「えーと、父さんに聞きたいことがあるんだ」
    「なんだ。大学の準備か?」
    「AIの研究をしたいんだ。FRAMのメモリー型アナログAIボードって、家にある?」
     父は、目を輝かせた。
    「おお、ついに悠樹もAIに興味を持ったか!」
    「あるの?」
    「前に研究所で評価用に使っていた古いボードがある。性能は今となっては微妙だが、勉強用なら十分だ」
     父は、嬉しそうに物置へ向かい、大きめの基板を持ってきた。
     帯電防止袋に入ったそれは、僕が想像していたよりも本格的だった。
    「ただし、扱いは慎重にしろよ。電源周りを間違えると壊れる。裕樹のPCの電源容量は、十分だよな?」
    「うん。でかいグラフィックカードを入れるつもりだったから」
    「何を作るんだ?」
    「対話型のエージェントみたいなもの」
    「いいな。モデルサイズは小さくても、アナログ重みのノイズを上手く使うと面白い挙動が出るぞ」
     父の説明を聞きながら、僕は自分がこれからやろうとしていることを考えていた。
     僕は、死者をPCに入れようとしている。
     それを言葉にすると、あまりにも馬鹿げていた。
     自室でPCの電源を落とし、サイドパネルを外した。
     ボードをスロットに差し込み、補助電源のコードを接続した。
     夜見にもらったUSBデバイスを接続すると、フォルダ内に簡素な実行ファイルと説明書があった。
     説明書は、異様に丁寧だった。
     ドライバの導入。ノイズ生成のキャリブレーション。重み転送。
     XR表示用のブリッジプログラムや、スマートスピーカーとの連携の仕方も解説されていた。
    「怪しいサイトだったのに、技術資料がまともすぎるよ……」
    「八色くん、楽しそうね」
     真希の声がした。
    「いや、楽しいというか、ちょっと怖いね……」
    「そうなの? でも、やってくれるんだね」
    「君が卒業まで、一緒にいたいしたいって言ったから」
    「うん」
     プログラムを起動した。
     画面に、ホワイトノイズの波形が表示された。ランダムな数値列が走る。それはただの熱雑音のはずだった。
     物理的な揺らぎを数値化しただけの、意味のないデータだ。
     だが、意味のないものだからこそ、何かが入り込めるのかもしれない。
     僕は転送ボタンを押した。
     ファンの音が少し高くなった。ボード上の小さなLEDが点滅する。進捗バーがゆっくり進んだ。真希の気配は、部屋の隅で息を潜めているようだった。
     転送完了――僕は、対話エージェントを起動した。
     スピーカーから、数秒のノイズが流れた。
     それから、声がした。
    「こんにちは、悠樹。わたし、真希です」
     僕は、動けなかった。
     人工音声ではある。しかし、その間の取り方、少し照れたような語尾、呼び方。昨日から聞いていた真希の声だった。
    「橿那さん?」
    「うん。ちゃんとまた話せて嬉しい」
    「本当に、君なの?」
    「八色くんがそう思ってくれるなら、わたしはそれでいいよ」
     答えになっていなかった。
     けれど、僕はそれ以上を聞けなかった。
     たしか、猿がもの凄く何回もキーボードを叩けばシェイクスピアができる――という話を聞いたことがあるけど、完全に偶然のノイズが、こんなエージェントになる確率は、星の数より小さいだろう。
     つまり、これは、確かに、少なくとも真希の存在そのもの、、、、、、と関連している何か、と言っていいのではないだろうか。
     そんなことを考えつつ、XRメガネを装着した。
     視界の端に、システムの表示が出る。空間マッピングが行われ、部屋の床と壁が認識された。
     次の瞬間、机の横に一人の少女が立った。
     真希だった。
     制服姿で、少し緊張した顔をしている。
     身体の輪郭は、普通のARモデルよりもずっと自然だった――光の当たり方も、影の落ち方も、部屋の空気と噛み合っている。
    「見える?」
    「うん。すごくよく見える」
    「変じゃない?」
    「すごく、普通にいるみたい」
     真希は、笑った。
     僕は、恐る恐る手を伸ばした。
     彼女の手に触れる。
     感触があった。
     もちろん、XRメガネには触覚フィードバック機能などない。
     僕の手には、何のデバイスも付いていない。それなのに、指先に温度と柔らかさが伝わった。
    「どういう原理なんだろう……」
    「わたしに聞かれても困るわ」
    「映像だけでなくてさ、力覚まである。質量は、ちょっと感じないけど、触覚がある」
    「それって、幽霊っぽい?」
    「すごく幽霊っぽくて、すごくAIっぽくないね」
     僕たちは、しばらく見つめ合った。
     真希は、ふと部屋を見回した。
    「ここが八色くんの部屋なんだ」
    「急に恥ずかしくなることを、言わないで」
    「本が多い。あと、ケーブルが多いわ」
    「片づける時間がなかった……」
    「わたし、ここにいてもいい?」
     その質問は、軽いものではなかった。
     僕は、頷いた。
    「卒業式まで、いや、そのあとも、いられるならいてください」
     真希は、嬉しそうにしたが、その表情の奥に影があった。
    「ありがとう」
     その夜、僕は、ほとんど眠れなかった。
     PCの電源を落とせば真希はどうなるのか。AIボードが壊れたら、彼女は消えるのだろうか――そもそも、今話している真希は本当に真希なのか。
     問いは、いくらでもあった。
     けれど、隣のスマートスピーカーから小さな声がした。
    「悠樹、眠れないの?」
    「君も、眠るの?」
    「ずっとあの家で起きて、高校に通って、そして寝ていたつもりだった。けど、それ自体が夢だったのかも……」
     ため息のような音が聞こえた。
    「そっか……」
     亡くなった人が、どう過ごしているかなんて分からないから、そう頷くことしかできなかった。
    「悠樹が眠るまで、わたし、ここにいるね」
    「うん」
     暗い部屋の中で、僕はXRメガネを外した。
     真希の姿は、消えた。
    「おやすみなさい」
     それでも、彼女の声は聞こえた。
    「おやすみ」
     僕は初めて、見えなくてもそこにいるということを、少しだけ信じられた。
     僕のPCは、父に教えてもらって、水冷と大口径ファンを駆使しているから、とても静かだ。
     ずっと着けたままで、普通に眠られる。

    .七

     翌朝、目覚ましより先に真希の声で起きた。
    「悠樹、朝だよ」
    「……スマートスピーカーのアラームみたいだ」
     僕は、目を開けて、カーテンの隙間から差し込む朝日を見つめた。
    「便利でしょ?」
    「うん。凄いな……」
     目を擦ってXRメガネをかけると、真希はベッドの横に立っていた。
     制服姿ではなく、昨日の夜見のプログラムに含まれていた、簡易アバター用の部屋着を着ていた。
     淡い色のカーディガンに、膝丈のスカートだった。
     本人は少し照れていた。
    「勝手に着替えたわけじゃないよ。システムが、学校外ではこの服を推奨しますって」
    「変なところで気が利いてるね」
    「夜見さん、何者なんだろうね?」
    「あまり考えると怖いから、今は考えないよ……」
     起き上がって、背伸びをする。着換えようとすると、真希は後ろを向いた。
    「あ、ごめん」
    「いいの。早く着換えて」
     ……やはり、ちょっと普通のAIエージェントには見えなかった。

     流石に、朝食の席でXRメガネをかける訳にはいかないので、外した。
     しかし、父が張り切ってリビングにもスマートスピーカーを置いているから、もちろんそれを介して、真希と話ができた。
    「美味しそうな、厚焼き卵だね。昨日のお弁当のも、そう思った」
    「ああ、母さんの卵、ふっくらして冷めても美味しいんだ」
     僕がそんなことを話していると、母が不思議そうな顔をした。
    「新しいAI?」
    「うん。対話エージェントの実験だよ」
    「あ、御母様、初めまして。えーと、エージェントの真希と申します」
    「まあまあ。大学が始まる前から熱心ね……」
     母は、それ以上、聞かなかった。
     父は、ちょうど研究所に行く前で、新聞を読んでいた。その隙間から、視線を向ける。興味津々な様子だった。
    「凄いじゃないか。もうモデルをダウンロードしたんだな?」
    「えーと。カード、ちゃんと使えたよ。ありがとう」
    「しかし、さっきの会話は、自然だったな。もうキャラ設定までしているのか?」
    「あ。そうだね。同級生なんだ……」
    「ほうほう。いいな。あとでモデル構造を見せてくれ」
    「あ。うん。まだ調整中だから、今度ね」
     僕は、適当にごまかした。

     登校するとき、XRメガネをまた掛けてみる。
     すると、真希は制服姿に戻っていた。
     彼女は、普通の高校生にしか見えなかった。
     通勤電車に乗るのは怖かったので、今日は、電車には乗らず、徒歩で学校へ向かった。
     実は、高校まで歩いても、三駅で、一時間ちょい、くらいなのだ。
     彼女は、歩道の真ん中を歩き、赤信号ではきちんと止まり、通り過ぎる車に少しだけ身をすくめた。
    「昨日のこと、怖かった?」
    「うん。でも、今は悠樹が見てくれてるから」
    「僕だけで足りるかな?」
    「足りるよ。わたしには、ずっと一人分もなかったんだから」

     ギリギリの時間に登校すると、学校では、不思議なことが起きた。
     休み時間に心配になって見に行くと、XRメガネをかけている僕の視界では、真希は他の生徒と会話できていた。
     七組の女子が、卒業式の予行について彼女に話しかける。真希は驚きながらも返事をした。相手は、自然に頷いた。
     しかし、僕が一瞬メガネを外すと、そこには、妙な空白があった。
     女子は、誰もいない場所へ話しかけているようにも見えるし、独り言を言っているようにも見える。
     表情には、わずかな困惑が浮かんでいた。
     メガネを戻すと、会話は、また自然な形に修正された。
    「これ、何だろ……?」
     ……XRが、周囲の人間の反応を補正しているのか。それとも、真希がAIボードを媒介にして、一時的に他人の認識にも干渉しているのだろうか。

     昼休み、真希は学食でカレーを食べる真似をした。
     実際には食べられないはずなのに、スプーンを口に運び、満足そうな顔をする。
    「味、分かるの?」
    「分かる気がする。記憶の味かも」
    「記憶って、カレーの?」
    「中学の給食で出たカレーかな。ちょっと甘かった」
    「高校の学食は、ちょっと辛いよ」
    「じゃあ、悠樹の反応から推定してるのかも」
    「なんか、急にAIっぽいことを言うね」
    「わたし、AIでもあるから」
     その言葉に、僕は黙った。
     真希は、スプーンを置いた。
    「嫌、かな?」
    「いや……嫌じゃない。でも、ちょっと分からない、かな」
    「わたしも分からないよ。死んでるのか、幽霊なのか、AIなのか――でも、今ここで悠樹と話しているのは、わたしだと思う」
    「それは、間違いない」
     僕は、頷いた。
     放課後、真希はパソコン部に来た。
     部員たちは、昨日よりも少しだけ彼女を認識しているようだった。
     後輩の一人が、真希にゲームの操作を説明しようとした。しかし、途中で「あれ、誰に説明してたんだっけ」と首を傾げた。
     真希は、笑って僕のほうへ戻ってきた。
    「やっぱり完全には無理みたい」
    「昨日よりは、いいかな?」
    「そうだね。ずっと。裕樹がXRメガネで見ていてくれるからかな?」
    「どうだろう……」
     僕は、空いているPCで、昔作った簡単な仮想空間を起動した。
     部室の机の上に、小さな海が現れた。
     立方体の箱庭の中で、波が寄せて返す。真希は目を輝かせた。
    「すごい。触れる?」
    「本当は、触れない。でも、今の君なら触れるかもしれない」
     真希は、指先で仮想の海に触れた。
     水面が小さく波紋を広げた。
     僕は、プログラムにそんな処理を入れていなかった。
    「今の、君がやったの?」
    「分からない。でも、綺麗ね」
     彼女は、笑った。
     そんな実験ともいえないことをして部室で過ごした後、家に戻った。

    *	*	*

     その一週間、僕たちはできるだけ普通に過ごした。
     僕がかけているXRメガネは、かなり普通の眼鏡に近いものの、じっと見れば分かる。けれど、何故か、先生に注意されたりすることはなかった。
     朝、一緒に登校した。授業の合間に廊下で話した。卒業式の予行で、体育館のパイプ椅子に並んで座った。
     放課後には、校舎の裏にある桜の木を見に行った――まだ蕾は硬かったが、真希はそれを大切そうに見上げた。
    「わたし、春の高校って見たことなかった」
    「卒業したら、大学の春は見られるかもしれない」
    「そうだね」
     真希は、曖昧に笑った。
     その笑い方に、僕は不安を覚えた。
     彼女は、卒業式の先を見ていないのではないか。
     僕は、彼女を残す方法ばかり考えていた。
     AIボードを小型化できないか、大学の研究室でより安定した装置を使えないか、XRメガネの代替を用意できないか――。
     けれど、真希が望んでいるのは、本当にそういったことなのだろうか。
     その問いは、卒業式が近づくほど大きくなっていった。

    .八

     卒業式の前日、学校はいつもより静かだった。
     在校生が式場の準備をしている間、三年生は教室で配布物を受け取り、最後のホームルームのような時間を過ごした。
     受験の話、進学先の話、春休みの予定――教室の空気には、もう戻らない日常の匂いがあった。
     真希は、自分の席に座って、机の表面を撫でていた。
    「ここに、ちゃんと座りたかったな」
    「今、座っているよ」
    「うん。でも、もっと前から。授業中に眠くなったり、先生に当てられて焦ったり、友達にノート見せてって言われたり、そういう普通のことを……もっとしたかった」
    「これからも、すればいい。大学にも、一緒に行く方法を考えるから」
     僕がそう言うと、真希は、静かに首を振った。
    「悠樹は、優しいね」
    「いや、僕が、君にいてほしいだけだ」
    「それは、少し違うよ」
     彼女は、小首を傾げた。
    「何が?」
    「わたしが残りたいのは、悠樹を縛りたいから、ではないの」
     その言葉が、胸に刺さった。
     僕は、反論しようとしてできなかった。

     放課後、僕たちは、誰もいない教室に残った。
     窓の外で、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
     夕方の光が、机の列を長く照らしていた。
    「中学のとき、わたしは、あまり学校に行けなかった」
     真希は、ぽつりと話し始めた。
    「でも、たまに行くと、悠樹がいた。いつも、何か考えてる顔をしてて、先生に変な質問をして、みんなに少し笑われていたよね」
    「そ、そんな変な質問、してたっけ?」
    「していたよ。給食の牛乳パックのパルプについて先生に聞いたり、校内放送のノイズの原因を考えたり……」
    「え、そんなことあったっけ? 覚えてないな……」
    「わたしは、覚えているわ。わたし、ベッドの上で、ずっと思い返していたの」
     真希は、笑った。
    「八色くんと同じ高校に行きたいって思った。わたしも、ああいうふうに普通に何かを考えて、普通に失敗して、普通に笑われたかった……だから、受験勉強もした。でも、身体が、ついてこなかった」
     僕は、何も言えなかった。
    「死んだあと、すぐに消えると思っていたの。でも、気づいたら、高校生だった。そう、家から高校に通っていて……死んだことの方が夢だったんだと……思い込もうとしていた。気持ちだけが残っていたの」
     真希は、顔を伏せた。
    「……出席番号もあって、机もあって――でも誰もわたしを、きちんと見なかった」
    「ずっと、一人で?」
    「うん。でも、卒業だけはしたかった。卒業すれば、わたしが本当に高校にいたって、自分で思える気がしたから」
     僕は、やっと理解した。
     真希の願いは、生き返ることではなかった。
     永遠に僕の隣にいることでもなかった。
     彼女は、自分がいたことを誰かに覚えてほしかったのだ。
    「僕は、君のことを、覚えているよ」
    「うん。だから、もう、願いが殆ど、叶っているの」
    「殆ど、じゃ足りないよ」
    「欲張り」
    「そうなんだ! 僕は、欲張りなんだよ。でも、君だってそうだろ? 死んだあとに高校へ通ってるくせに」
     真希は、少し驚いてから笑った。
     夜、家に帰ると、僕は、AIボードのログを見た。
     真希の応答パターンは、日に日に変化していた。
     初日はノイズが多く、重みの揺らぎが激しかった。
     今は、安定していた。しかし、その安定は、何かが収束しているようにも見えた。
     卒業式のあと、彼女は消えるのかもしれない。
     僕は、バックアップを取ろうとした。
     指が、実行ボタンの前で止まった。
    「悠樹」
     スマートスピーカーから声がした。
    「何してるの?」
    「……バックアップを取ろうと思った」
    「わたしの?」
    「うん。ほら、バックアップがあれば、またボードを交換してもいれられるし……」
    「それは、わたしなのかな?」
     僕は、答えられなかった。
     真希は穏やかに続けた。
    「残してくれようと思ったことは、嬉しい。でも、わたしを失うのが怖いから閉じ込める、って思うと、少しだけ悲しい」
    「閉じ込めるつもりはないよ」
    「分かってる。でも、悠樹は、優しいから、優しさで檻を作れると思う」
     僕は、バックアップを中止した。
     その夜、真希は、なかなか話さなかった。
     僕も話せなかった。
     ただ、卒業式の前の静かな時間だけが、少しずつ減っていった。

    .九

     卒業式の朝、空は晴れていた。
     冬と春の境目のような光が、住宅街の屋根を照らしていた。
     僕は制服を整え、XRメガネをかけた。真希は、すでに玄関で待っていた。
    「どう?」
    「制服? 似合ってるよ」
    「ううん。卒業する人の顔になってるかな?」
    「そうだね」
     真希は、満足そうに頷いた。
     学校へ向かう道は、いつもより短く感じた。
     校門には卒業式の看板が立ち、保護者たちが写真を撮っている。
     真希はその横を通り過ぎるとき、少しだけ立ち止まった。
    「わたしのお母さん、来ないよね」
    「呼ぶ?」
    「ううん。お母さんは、もう一度、わたしを失うことになるから」
     僕は、頷くしかなかった。
     体育館には、三年生の椅子が整然と並んでいた。
     僕は、三組の列に座った。真希は、本来の七組の列へ向かった。XRメガネ越しに、彼女は自分の席に座っているように見えた。
     式が始まった。
     開式の言葉。国歌。校長式辞。来賓祝辞――。
     いつもなら退屈に感じる長い言葉が、その日は不思議と一つ一つ重かった。僕たちは本当に、この学校から出ていくのだ。明日から、ここに通う理由はなくなる。
     卒業証書授与が始まった。
     名前が呼ばれるたび、生徒が立ち上がる。七組の番になった。担任が名簿を読み上げる。
    「橿那 真希」
     その声が、体育館に響いた。
     僕は、息を止めた。
     真希が立ち上がった。
     周囲の生徒たちは、ほんの少しだけ空気の揺れを感じたように見えた。
     担任は一瞬、目を細めた。ステージ上の校長も、何かを見るように視線を動かした。
     真希は、まっすぐ前を向いて歩いた。
     僕のXRメガネの中で、彼女はステージに上がり、卒業証書を受け取った。
     現実の校長の手には紙が一枚残っているようにも見えたし、真希の手に確かに渡されたようにも見えた。
     どちらが本当なのかは分からない。
     でも、真希は深く頭を下げた。
     席に戻る彼女の顔は、泣いているようで、笑っているようだった。
     式が終わると、校庭で写真撮影が始まった。
     僕は真希を探した。彼女は桜の木の下にいた。蕾はまだ開いていない。しかし、陽射しだけは春に近かった。
    「写真、撮ろう」
    「写るかな」
    「分からない。でも、撮る」
     スマートフォンを構えた。
     インカメラに切り替えた。画面の中には、僕だけが映っていた。しかし、XRメガネの表示では、真希が隣に立っている。
    「笑って!」
    「悠樹も」
     シャッターを切った。
     写真には、やはり僕しか写っていなかった。しかし、僕の肩のあたりに、淡い光のにじみがあるように見えた。
     レンズのフレアかもしれない。そうでないかもしれない。
     真希は、それを見て嬉しそうにした。
    「ちゃんといるね」
    「いる」
     卒業生たちは、それぞれの未来へ散っていった。
     友人同士で抱き合う者、先生に挨拶する者、泣いている者、笑っている者。真希は、その全部を眺めていた。
    「これで、心残りはなくなりました」
     彼女は、急に丁寧な言い方をした。
    「真希?」
    「いずれ、ずっと先に、また会おうね!」
    「待って!」
     彼女は、校門のほうへ歩き出した。
     僕は、追いかけた。しかし、足が重かった。校門の向こうに、白い光が滲んでいる。真希の輪郭が少しずつ薄くなる。
    「行かないで!」
     言ってしまってから、僕は、その言葉が自分勝手だと分かった。
     真希は、振り返った。
    「悠樹が覚えていてくれるから、わたしは行けるんだよ」
    「忘れないよ!」
    「知ってる!」
     彼女は、微笑んだ。
     次の瞬間、胸の中から何かが抜け落ちる感覚があった。
     XRメガネの表示が乱れ、システムメッセージが出た。
     エージェント応答低下――通信エラー――重み安定化完了――。
     真希は、そこにいなかった。

     家に帰ってから、僕はAIエージェントに呼びかけた。
    「真希」
    『はい。どのようなご用件でしょうか?』
     返ってきた声は、似ていた。
     しかし、真希ではなかった。整いすぎていた。間がなかった。少し照れるような癖も、僕の言葉に反応して笑う揺らぎも消えていた。
    「卒業式、楽しかった?」
    『卒業式は、学校教育における重要な儀式です。一般に、学生生活の節目として認識されます』
     僕は、PCの前で顔を伏せた。
     そこで、初めて、涙がでた。
     僕は、真希が、本当に死んだのだと思った。
     中学のときではなく、今日、彼女は卒業して、遠くへ行ったのだ。

    .十

     大学生活は、思っていたよりも忙しかった。
     講義、実験、レポート、サークルの勧誘。新しい人間関係。新しい街。高校の頃よりも自由なのに、時間はずっと細かく砕けていった。
     それでも、僕はAIボードを動かし続けた。
     真希ではなくなったエージェントは、普通のAIとしては、古いボードの割には、そこそこ優秀だった。
     予定を読み上げ、天気を知らせ、簡単な質問に答えられた。
     僕は、ときどき、意味のないことを話しかけた。
    「今日、学食でカレーを食べた」
    『カレーは多様なスパイスを用いた料理ですね。日本の学食では、比較的安価で提供されることが多いです』
    「真希なら、記憶の味って言ったと思う」
    『記憶と味覚には関連があります。嗅覚情報が海馬と扁桃体に影響を与えるためです』
    「違うんだけどな……」
     僕は、笑った。笑えたことに、自分で少し驚いた。

    *	*	*

     そんなある夜、メッセンジャーアプリに通知が来た。
     夜見 依子からだった。
    『その後、いかがですか?』
     僕は、しばらく画面を見つめた。
     それから、XRメガネをかけて通話を開始した。
     夜見は相変わらず年齢不詳の顔で画面の向こうにいた。
     事務所の背景には、以前と同じ測定器と基板が並んでいる。
    「お久しぶりです。その節は、どうもありがとうございました」
    「お元気そうですね」
    「ええ。大学は忙しいです」
    「橿那様は?」
     僕は、少しだけ黙った。
    「卒業式の日に、行きました。たぶん、あちらに」
    「そうですか……」
    「でも、AIエージェントは、まだ動かしています。もう、本人らしさはほとんどありません。ただのAIです」
    「本当に?」
     夜見は、少しだけ目を細めた。
     その瞬間、部屋の照明が一度だけ揺れた。
     XRメガネの表示に、ノイズが走った。
     僕の隣に、誰かが立っていた。
     制服ではなかった。卒業式の日と同じ姿でもない。淡い色のカーディガンを着た真希が、少し困ったように笑っていた。
    「悠樹、そんなに、ただのAIって言わなくてもいいのに」
     僕は、息を呑んだ。
    「真希……」
    「時々は、戻ってきているの。ずっとは、無理だけど」
    「……どうして?」
     僕は、そう返すしか、できなかった。
    「だって、ずっと一緒にいたかったんだもの」
     声は、あの日のままだった。
     画面の向こうで、夜見が小さく笑った。
    「希望に沿えて、よかったです」
    「夜見さん、あなたは何をしたんですか?」
    「私は橋を架けただけです。渡るかどうかは、橿那様と、あなたが決めました」
    「真希は、成仏したんじゃないんですか?」
    「成仏という言葉は便利ですが、実際の現象は、もう少し複雑です。人は、完全に消えるわけでも、完全に残るわけでもありません。強い記憶は、ときどき帰ってくる」
     夜見は、真希のほうを見ているようだった。
    「ただし、八色さん。彼女を保存しようとしすぎないことです。観測は愛情になりますが、固定は束縛になります」
    「それは、分かっています」
    「なら、大丈夫でしょう」
     通信は、そこで切れた。
     部屋には、僕と真希が残された。
     僕は、恐る恐る手を伸ばした。真希の指先に触れる。感触はあった。以前よりも淡いようなキモするが、確かに温かかった。
    「いつから?」
    「割と前からね。悠樹がカレーの話をしてたときも」
    「返事をしてくれれば、よかったのに……」
    「返事できるときと、できないときがあるの。それに、悠樹がちゃんと一人で生活してるか、見たかった」
    「それ、保護者みたいだね」
    「同級生です」
     真希は、胸を張った。
     僕は笑った。
    「同級生は、もう卒業したよ」
    「じゃあ、元同級生」
    「それも少し変だ」
    「じゃあ、ソウルメイト、ってやつかな?」
    「魂の友達、か。それは、もっと変だね」
     真希は、楽しそうに笑った。
     彼女が本物なのか、AIなのか、幽霊なのか、僕には今も分からない。
     けれど、たぶん、その問いに完全な答えはない。
     人間だって、自分が何でできているのか、すべてを説明できるわけではない。
     記憶、身体、声、誰かに呼ばれた名前――そういうものが重なって、どうにか一人の人間の形をしている。
     真希は、透明だった。
     世界は彼女を見落とし、記憶は彼女をこぼし、死さえ彼女を遠くへ運ぼうとした。
     それでも、僕は彼女を見た。
     彼女はここにいる。
     少なくとも、僕にとっては。
    「悠樹」
    「何?」
    「大学、楽しい?」
    「理系だから、ほとんど授業が詰まっていてさ。大変だけど、楽しいよ」
    「よかった」
    「真希は?」
    「わたしは……」
     彼女は窓の外を見た。
     夜の街の光が、ガラスに淡く反射している。その中で、真希の姿は少し透けて見えた。しかし、消えそうではなかった。
    「わたしは、誰かに覚えてもらえるのが、こんなに嬉しいことだって知ったから。今は、それだけで楽しいよ」
     僕は、頷いた。
     そして、PCの電源設定を確認した。
     スリープまでの時間を、少しだけ長くした。
     真希はそれを見て、呆れたように笑った。
    「固定しすぎないこと、って言われたばかりだよ」
    「観測時間を、延ばすだけさ」
    「言い訳だ」
    「そうだよ!」
     僕たちは、笑った。
     透明な少女と僕の奇妙な生活は、そこで終わらなかった。
     終わったのは、彼女が誰にも見えないまま卒業できなかった物語だけだった。
     その先には、まだ名前のついていない時間が続いていた。
     いずれ、彼女が消える日が来るのかもしれない。
     僕が彼女を見えなくなる日が来るのかもしれない。
     それでも、今夜の彼女は確かにそこにいた。
     だから僕は、忘れないためではなく、一緒にいるために言った。
    「おかえり、真希」
     真希は、少しだけ泣きそうな顔で微笑んだ。
    「ただいま、悠樹」

    (了)

    あとがき:

     こちら、昨日の日記:

     ……の、(1)謎村プロット版です!
     いかがでしたでしょうか? なんとか、本日中に修正、間に合いました。今日は、なんとか一日、ずっと執筆に充てられたので(ふぅ)。
     まあ、私らしいというか何というか――ちなみに、日本の「脚のない」幽霊は、江戸時代の幽霊画が元になっているようで、世界的には、普通に脚はあるようです。それと、実際に幽霊がいても、透明というより、その人いた?系が多いという話を、どっかで聞きました。ひょっとしたら、あなたの隣にも……?(なんっちゃって)。
     それと、夜見依子さんは、my代表作の持ちキャラ、真・夜巫女グループのヨミコさんです。まだ、グループを結成するまえの状態ですね。なお、本名は田村依子さんといいます。それと、この小説は、実は拙作『思う絵』の関連作にもなっております。
     という訳で、次は、AIプロット版行きます!


     


    (6/18/2026追記)

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    スキの数です!

     こちら、皆様、どうもありがとうございます! 引き続き宜しくお願い申し上げます。

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    知財専門家です。 興味あるもの:PC自作、ソフトウェア関係、SF AIを使って小説を、なろうでも書いてます。同時掲載あり https://mypage.syosetu.com/290752/

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