
【中編小説】透明な境界の残滓
あらすじ:
水野葵は、人々の注意から自然に外れてしまう『透明な女』として、誰にも気づかれない日常を静かに受け入れていた。大学を中退し、事務のアルバイトを続ける彼女にとって、無視されることは傷つかずに生きるための方法でもあった。ある日、忘れ去られたものを撮り続ける写真家・瀬戸湊だけが、葵の存在をまっすぐに見つめた。初めて『誰かに認識される』感覚に触れた葵は、湊との関係に救いを見出していく。しかし、その温もりは同時に、彼女が抱えてきた孤独と恐怖を鮮明に浮かび上がらせていく。
本文:
.一
朝の駅は、いつもノイジーな音で満ちていた。
改札機の電子音、靴底が床を叩く音、誰かの鞄にぶら下がった金属がぶつかる音、ホームの向こうから流れてくるアナウンス――。
それらはひとつひとつを聞き分けられるはずなのに、私の耳には、薄い膜を何枚も重ねた向こう側の音として届いた。
世界は濁った水槽の外側にあり、私はその内側で息をしている……。
私、水野 葵は、二十歳だった。
そういう情報を履歴書に書くとき、私はいつも少しだけ戸惑う。
名前の欄に「水野 葵」と書き、年齢の欄に「二十」と書き、学歴の欄に大学中退と書く。
しかし、その紙に書かれた文字が本当に私の輪郭を表しているのか、よく分からなかった。
紙の上の名前は濃いものの、現実の私は薄かった。
大学を辞めてから、私は、駅前の小さな会計事務所でアルバイトをしている。
業務内容は、書類整理と入力補助で、誰かに深く関わらなくていい仕事だった。
所長は、温厚な人だったが、私の顔を見て名前を呼ぶことはほとんどなかった。呼ぶときも少し間が空く。
「ええと――君。これ、コピーをお願いできるかな?」
君――その言葉は便利だった。私に触れず、私を傷つけず、私を確定しない。
私は、頷いて、コピー用紙を受け取った。受け取った指先が冷たいのは、空調のせいでは、なかった。
私は、昔から、人の注意の焦点から外れやすかった。
小学校の集合写真では、私の顔だけが誰かの肩に半分隠れていた。
中学校の修学旅行では、班分けの人数に数え忘れられた。
高校の文化祭では、受付係だったのに、客は私の前を素通りして、隣の空いた椅子に向かって質問した。
私は、声を出した「ここです。受付はここです」、と。
しかし、声は空気に混じって、誰かの咳払いと同じものになった。
透明という言葉は、最初は比喩だった。
私は、目に見えないわけではない――鏡を見れば、青みのある黒髪も、薄い唇も、寝不足で少し影の落ちた目も映っている。
白いブラウスの袖口にコーヒーのしみをつければ、それもちゃんと見える。
物理的には、私はここにいる。
でも、人の意識は、私を通り抜けるのだ。
朝、コンビニに寄った。
棚からミルクティーとサンドイッチを取って、レジに置いた。
店員の若い男の子は、私の前を見ていなかった。彼は、棚の補充表を眺めながら、背後の先輩に何かを言われて笑っていた。
「あの」
私の声は、冷蔵ケースのモーター音に吸われた。
「あの、お願いします!」
男の子は、ふと手元の商品に気づいたように眉を上げた。私を見たのではなく、レジ台の上に商品が出現したことに気づいた顔だった。
彼は、バーコードを読み取り、金額を告げた。
私は、小銭を置いた。
彼は、小銭を拾い、レシートを出し、商品を袋に入れた。
その間、目線は、一度も私の目に合わなかった。
外に出ると、六月の光は水を含んだように白かった。
梅雨前の湿気がビルの壁に張りつき、歩道の植え込みは排気ガスで灰色にくすんでいた。
人々はそれぞれの目的地へ流れていく。
黒、紺、白、ベージュ――色のない川のようだった。
私は、その川の中に立っていた。
立っていた、はずだった。
肩がぶつかった。誰かの鞄が腕に当たる。
スマートフォンを見ながら歩く会社員が、私の靴先を踏みそうになって、ぎりぎりで避けた。避けたというより、障害物として処理しただけだった。電柱や標識と同じものとして、私は、そこにあった。
腹は、立たなかった。
怒りには、相手が必要だ。私の存在を相手に投げつけるための熱さが必要だった。私には、その熱を保つ習慣がなかった。
無視されることは、傷つかないための柔らかい殻だった。
――誰も私を見ないなら、誰も私を評価しない。誰も私を呼ばないなら、誰も私を拒絶しない。輪郭を持たなければ、輪郭を削られることもない。
だから、私は透明でいることを選んだのだと思う。
いや、本当に選んだ覚えはない。それでも、身体は、覚えていた――人の邪魔にならない位置に立つこと、声を小さくすること、目を合わせる前に逸らすこと、自分の希望を口にする前に、口の中で溶かすこと――。
事務所では、午前中ずっと伝票を入力した。
キーボードを叩く音は小さく、規則的で、安心できた。数字は、私を無視しない。五は五で、七は七だった。間違えれば赤く表示される。訂正すれば消える。その単純な反応が、私には、ひどく優しく思えた。
昼休みに入って、休憩室のテーブルで弁当を広げた。二人の女性社員が向かい側で話していた。
「昨日のドラマ見た?」
「見た。あれ、絶対、元彼に戻るって」
二人の声は、明るかった。
私は卵焼きを箸で割りながら、会話の輪郭だけを聞いた。笑うタイミングを少しだけ真似して、口元を動かした。
誰もこちらを見なかった。
その日も、私はうまく透明だった。
夕方、入力したデータを保存し、机の上を拭いて、事務所を出た。
空は薄い灰色だった。建物の窓には街の明かりがぼんやり映り、ガラスの向こう側には別の街が重なっているように見えた。
* * * 帰り道、私はいつも少し遠回りをする。
駅の反対側に古い市立図書館がある。誰にも見られない場所に行くために、誰にも見られていない私は、歩いた。ちょっと、その考えが滑稽だと思った。
図書館に入ると、夕日が差し込む館内の蛍光灯の白さが目についた。本棚の間は静かで、紙と埃を含んだ、独特な空気の匂いがした。
私は、写真集の棚の前で立ち止まった。
何かの写真を眺めたい訳ではなかった。誰かが切り取った世界の断片が、規則正しく並べられていることに安心したかったのだ。
見ると、棚の下段に、古い街角の写真集があった。雨に濡れた路地、閉じた商店街、取り壊し前の団地――写っているものは、どれも人の視線から外れた場所ばかりだった。
私は、その背表紙に指を伸ばした。
その時、視線を感じた。
私は、顔を上げた。
すると、棚の向こう側に、一人の男が立っていた。年上に見えた。
濃い灰色のシャツに、古いカメラのストラップを肩から斜めにかけている。髪は少し伸び、前髪が片方の目にかかっていた。
彼は本ではなく、私を見ていた――鋭い視線ではなく、好奇心、欲望、軽蔑、いずれでもなかった。水面に沈んだものを、ゆっくり覗き込むような感じだった。
いや。本当に、見ていた。
その単純な事実が、胸の奥で硬い音を立てた。
私は、反射的に目を逸らそうとした。いつもの癖だった。
しかし、彼の視線は逸らした先にも残った。透明な糸のように、私の輪郭に触れていた。
「その本、取りますか?」
彼が言った。
声は低く、かすかに掠れていた。しかし、その音だけが、図書館の空気の中で明瞭だった。
蛍光灯の唸りも、ページをめくる音も、遠くの足音も、その瞬間だけ背景へ退いた。
私は、応えられなかった。
喉の奥に、長い間使っていなかった扉があった。その扉の蝶番が錆びていて、開けようとすると痛んだ。
「……は、はい」
ようやく出た声は、自分のものではないように細かった。
彼は、棚の下段に手を伸ばし、写真集を抜き取って私に差し出した。
私の指が表紙に触れるより早く、彼の目が私の目を捉えた。
「あなた、さっきからずっと、ここにいましたよね?」
その言葉は、確認ではなかった。宣言だった。
私は、ここにいた。
誰かが、それを言った。
膝の裏から力が抜けそうになった。
写真集の角が指に食い込む。痛みがあった。痛みは、私がここにいる証拠だ。
私は、彼を見返した。
彼の瞳は黒に近い茶色で、図書館の白い光を小さく映していた。
そこに、私は映っていないはずなのに、なぜか自分の輪郭を見つけた気がした。
「……見えて。いるんですか?」
馬鹿な質問だと思った。けれど、他に言葉がなかった。
彼は、少しだけ首を傾げた。
「見えているというより、聞こえました」
「聞こえた?」
「あなたのいる場所だけ、音が違ったから」
私は、写真集を抱えたまま、言葉を失った。
世界は、相変わらず白い音で満ちていた。
しかし、その白い音の中に、初めて一本の線が引かれたように思った。
私と彼を隔てる境界線ではなく、私が世界から切り抜かれるための線だった。
.二
「すいません、唐突だったですよね……」
図書館の閲覧席で向かい合ったとき、彼は財布から小さな名刺を出した。
彼は、自分の名前が瀬戸 湊だと告げた。
仕方なく、自分も、名前を小さく告げた。
そして、渡された名刺を眺めた。白い紙に黒い文字で、瀬戸 湊、写真家、とだけ書かれていた。
住所も肩書きもなかった――メールアドレスの下に、小さく「忘れられたものを撮っています」と印刷されていた。
「忘れられたもの?」
私が尋ねると、彼は名刺の端を指で押さえながら頷いた。
「取り壊される建物とか、誰も座らないベンチとか、閉店した店の看板とか、そんなものです。人が見ないふりをして通り過ぎるもの、です」
「なぜ、そんなものを撮るんですか?」
「撮らないと、本当に消えたことにも気づかれないから」
彼は、静かに言った。
声には押しつけがなかった。何かを救っているという自負もなかった。ただ、世界の隅に落ちたものを拾うように、そう言った。
私は、名刺の文字を見つめた。
忘れられたもの、人が見ないふりをして通り過ぎるもの――そこに自分を重ねるのは簡単だった。簡単すぎて、恥ずかしいくらいだ。
「私は、建物では、ないです」
自分でも驚くほど尖った声が出た。
湊は、瞬きをした。それから、ほんの少しだけ笑った。
嘲るような笑いではなかった。傷に触れた手が、慌てて力を抜くような笑みだった。
「そうですね。失礼しました」
素直に謝られると、こちらが困った。
私は、膝の上で指を絡めた。爪の縁が白くなる。
「でも、似ていると思ったんです」
「何が、ですか?」
「周囲の音に埋もれているのに、そこだけ濃い。見ようとしないと見えないけれど、見ようとすると、目が離せない」
私は、息を止めた。
そんなことを言われたことは、なかった。
きれいだとも、変だとも、可哀想だとも違う――彼の言葉は評価ではなく観測だ、と思った。
そう、望遠鏡で遠い星を捉えるように、彼は、私を捉えていた。
「私のこと、いつから見ていたんですか?」
「最初は、図書館の入口です」
「入口?」
「自動ドアが開いたのに、誰も入ってこないように見えた。でも床の水滴だけが増えていました。雨も降っていないのに、靴底の跡があった。変だと思って見ていたら、あなたがいた」
私は、自分の靴を見た。ここに来るまでに、日中に降った雨で濡れたタイルを踏んだせいだろう。そんな些細な痕跡を、彼は見ていた。
胸の奥に、温かいものが滲んだ。それは喜びに似ていたが、同時に恐怖でもあった。
そう、隠れるために塗りつぶしてきた壁に、小さな穴が開いたのに気づいたような気分だった。
その穴から差し込む光は優しいのに、眩しすぎて、目を閉じたくなった。
「気持ち悪いですよね……」
湊が頷いた。
「よく言われます。そんなところを見るなって」
「いえ……気持ち悪くは、ないです」
私は、小さく首を振った。
本当は、少し怖かった。
しかし、怖いと言ってしまえば、この視線が消える気がした。
消えないでほしかった。
まだ、自分の名前も知らない人の視線に、私は、もうすがっていた。
すると、その時、唐突に、図書館の閉館アナウンスが流れた。白い天井のスピーカーから、柔らかく加工された女性の声が落ちてきた。
私は、席を立とうとした。椅子の脚が床を擦る音が、思ったより大きかった。
「また、会えますか?」
湊が、そう言った。
私は、動きを止めた。
また――その言葉の中には、次があった。
今日で終わらない時間が、細い橋のように伸びていた。
「どうして……?」
「あなたを撮りたいから」
湊は、まっすぐに言った。
私は、一歩下がった。写真に撮られるということは、残るということだった。
残るということは、逃げられないということだった。
「嫌です」
すぐ返事がでた。
湊は、頷いた。
「分かりました」
「え。それで、終わりなんですか?」
「嫌なものを無理に撮っても、写るのは拒絶だけです」
「拒絶も、撮るんじゃないの?」
「撮りたいときもあります。でも、あなたの場合は違う気がする」
彼は、カメラのストラップを指でなぞった。
「あなたがここにいることを、あなたが許してから撮りたい」
その言葉は、私の胸の中で長く響いた。
「え……?」
私は、ここにいることを、自分で許していないのだろうか?
そんなことを考えたことは、なかった。
私は、ただ、いるしかなかった。消えない程度に薄くなり、邪魔にならない程度に呼吸し、誰かの視界に入らないように生きてきた。
それは、許すという行為とは違っていた。
なんとなく一緒に図書館を出ると、空はもう暗かった。
街灯の下で、湿ったアスファルトが光っていた。
湊は、私の少し横を歩いた。近すぎず、遠すぎなかった。人がすれ違うたび、私はいつものように端へ寄ろうとした。
湊は、何も言わなかった。ただ、私が端へ寄ると、彼も少しだけ速度を落とした。
駅へ向かう途中、横断歩道で信号待ちをした。車のヘッドライトがガラスのように白く伸びる。歩行者の列の中で、私は、誰かの肩と肩の隙間に入り込んだ。
「水野さん」
湊が、呼んだ。
名前が、空気を割った。
私は、振り返った。
その瞬間、周囲の何人かが、つられて私を見た。
ほんの一秒にも満たなかった。彼らの視線はすぐに信号へ戻り、スマートフォンへ戻り、会話へ戻った。けれど、その短い時間、私は通行人の群れの中で形を持った。
怖かった。
喉が縮み、手のひらに汗が滲んだ。
見られることは、温かいだけではなかった。無数の針で薄い皮膚を突かれるようだった。これまで避けてきたものが、一斉にこちらを向いた。
信号が青になった。
人々が動き出す。私は足を出せなかった。湊が戻ってきて、私の隣に立った。
「大丈夫ですか?」
彼の声だけが、はっきり聞こえた。
私は、頷こうとして、失敗した。唇が震えた。
「名前、呼ばれると……怖いです」
「すみません」
「でも……」
私は、横断歩道の白線を見た。白線は雨で滲み、境界であることを少し諦めていた。
「……もう一回、呼んでください」
湊は、何も応えなかった。少しの沈黙のあと、彼は、静かに私の名前を呼んだ。
「水野さん」
胸が痛んだ。
その痛みの奥で、心臓が鼓動しているのを感じた。
私は、その鼓動を聞きながら、信号が点滅し始めた横断歩道を渡った。
街の音は白く濁っていた。
しかし、私の名前だけが、その白さの中で細く燃えているように、耳に残った。
.三
私たちは、何度も会うようになった。
最初は、図書館だった。
私は、次の日から、毎日、仕事帰りに図書館に寄った。すると、彼は、大体、写真集の棚の前にいた。
「近所に住んでいるんです。資料を探したりするときに、よく来ます」
彼は、そう言って微笑んだ。本当に、用事があってきたのではなく、私を待っていたのだろうとは思う。でも、それを確かめることは、躊躇われた。
湊は、いつも古いカメラを持っていたが、私に向けることはなかった。
代わりに、図書館の窓際に置かれた枯れかけの観葉植物や、返却台の下に落ちたままの栞や、誰も開かない郷土資料の棚を撮った。
「どうして、そんなものを撮るんですか?」
「誰も撮らないからです」
「それは、撮られない理由があるからではないですか?」
「理由はあります。でも、それが価値がないことの証明には、ならない」
湊は、そう言って、栞にピントを合わせた。
「図書館内で撮影して大丈夫なんですか?」
「ええ。ここの司書の方に、許可は頂いています」
シャッター音が小さく鳴った。その音は、世界の片隅に印をつけるようだった。
会う回数が増えるにつれて、私は自分の一日の中に、湊に会う前と会った後という区切りを作るようになった。
朝、事務所へ向かう電車の中では、彼に話すことを探した。
昼休み、女性社員たちの会話が遠くで弾んでいる間、私はスマートフォンの画面に映る自分の顔を見ながら、髪が乱れていないか確認した。
夕方、退勤時間が近づくと、胸の奥に小さな灯りがともった。
それは、危険な明るさだった。
湊といる時だけ、世界は色を取り戻した。
図書館の蛍光灯はただの白ではなく、古い紙の黄色を含んだ白になった。
図書館の裏手にある公園のベンチの剥げた緑は、雨を吸って深く沈んだ色になった。
湊の指先は、カメラの金属に触れるたびに少し冷たそうで、その指が紙コップのコーヒーを包むと、湯気の温度まで見える気がした。
彼の声は、旋律だった。
世界は相変わらずホワイトノイズで、私はその中に埋もれていた。
しかし、湊が話すと、その音だけが真水のように耳へ届いた。私は、その声を飲み込んで生きていた。
ある夜、湊が私を古い商店街の奥へ連れていった。
駅前の賑わいから十分ほど歩くと、シャッターの下りた店が並ぶ通りに出る。
電器屋の看板は色褪せ、喫茶店の窓には古いメニューの写真が貼られたままだった。
通りの突き当たりに、半分だけ取り壊された映画館があった。入口はベニヤ板で塞がれていたが、横の細い通路から裏へ回ると、錆びた非常口が少しだけ開いていた。
「入っていいんですか?」
「まあ、本当は、ダメでしょう」
「なら、ダメなんじゃないですか?」
「ダメですね」
湊は、悪びれずに言った。私は、呆れたが、足は戻らなかった。
非常口の向こうは、湿った埃の匂いがした。懐中電灯の光が、壁の剥がれたポスターを照らしていた。
昔の恋愛映画の女優が、色の抜けた唇で笑っていた。床には割れたガラスが散り、天井の一部から雨水が落ちている跡があった。
湊は、客席だった場所へ私を案内した。スクリーンは破れ、中央に大きな穴が開いていた。その穴の向こうには、外の夜が見えた。
星は少なく、街の明かりが低い雲を白く染めていた。
「ここ、好きなんです」
湊は、最前列の椅子に腰を下ろした。
「映画館なのに、もう何も上映されない。だけどスクリーンの穴から外が見える。壊れてから、別のものを映すようになった」
私は、隣に座った。椅子の布は湿っていて、少し冷たかった。けれど、湊の体温が近くにあるだけで、寒さが溶けた気がした。
「……水野さんは、どうして透明になったんですか?」
突然の問いに、私は息を詰めた。
「……透明になった訳では、ありません」
「そうですね。すみません。言い方が悪かったです」
「昔から、こうでした」
「本当に?」
湊の声は、責めていなかった。ただ、表面の埃を指先で払うように、静かに尋ねていた。
私は、スクリーンの穴を見つめた。外の夜は、破れ目の形に切り取られていた。
「……分かりません」
それが正直な答えだった。
昔からだった気もする。でも、大昔からではなかった気もする。
記憶のどこかに、もっと普通に笑っていた自分がいた。
名前を呼ばれ、手を振り、怒り、泣き、何かを欲しがっていた自分がいる。
しかし、その姿は古い写真のように記憶の中で色褪せていて、顔の部分だけが白く抜けているような感じだった。
「いや。無理に話さなくて、いいんです」
湊は、そう告げた。
その言葉で、余計に話したくなった。
「私、たぶん、見られるのが怖いんです」
「怖い?」
「見られると、何かを返さなきゃ、って気がするんです。笑うとか、答えるとか、姿勢を正しくするとか――失敗したら、もう、そこにいられなくなる気が、するの」
言葉にすると、ひどく幼稚だった。
しかし、湊は、頷いた。
「見られることは、要求されることでもありますから」
「湊さんも、私に何かを要求するんですか?」
「します」
即答だった。
私は、彼を見た。胸が冷えた。
「何を?」
「……消えないで、ほしい」
声が、埃の匂いを含んだ暗闇に落ちた。
私は、笑おうとしたが、うまく笑えなかった。そんなことを言われたら、どうしたらいいのか分からない。
消えることしか上手にできなかった私に、消えないでほしいという――それは、立てない人に歩けと言うのと同じだった。
「無理です」
「今すぐ、でなくていい」
「そう言われても……」
「まあ、気長に待ちます」
湊は、少しだけ肩をすくめた。
その夜から、映画館は私たちのシェルターになった。
閉館した図書館のあと、仕事のない休日、雨の降る夕方――私たちは非常口から中へ入り、壊れたスクリーンの前で話した。
湊はカメラを置き、私は缶コーヒーを二本買っていった。
湊は甘いものが苦手で、私はブラックが苦手だった。
自動販売機の前でそのことに気づいたとき、私はひどく嬉しかった――違いを知ることは、相手の輪郭に触れることだった。
湊は自分のことを、少しずつ話した。
写真の専門学校を出たこと。人の笑顔を撮る仕事がどうしても続かなかったこと。広告写真の現場で、誰も商品の背景にある壊れた壁や、撤去される古い看板を見ていないことが苦しくなったこと。気づくと、中心ではなく周縁ばかり撮るようになったこと。
「それでも、普段は、企業と契約して、製品写真などを撮っています。周縁のものを撮るのは、ほとんど趣味のようなものです……」
彼は、そう言って、自嘲的に微笑んだ。
「人間を撮るのは、ずっと、苦手なんです」
「私を撮りたいって言ったのに?」
「あなたは、人間です。でも、僕が苦手な人間とは違う」
「どう違うんですか?」
「普通、人は撮られると、撮られるための顔をします。あなたは、撮られないための顔をしている」
「それを撮りたいんですか?」
「そうですね。でも、いつか、撮られないための顔ではない、あなたを見たい、です」
私は、缶コーヒーを両手で包んだ。指先が温かかった。温かいものを持っていると、自分の身体の境界が少し分かりやすくなる。
湊といる時、私はよく喋った。
自分でも驚くほどだった。職場では一日十語も話さない日があるのに、彼の前では言葉が喉の奥からこぼれた。
好きな飲み物、嫌いな電車の混み方、子供の頃に透明なビニール傘を水族館のクラゲみたいだと思っていたこと、雨の日のガラスに指で線を引くと、その線だけ世界がはっきり見えること――。
湊は、ただ聞いてくれた。
本当に、聞いた。
頷くタイミングが、私の言葉の呼吸と合っていた。遮らず、急かさず、結論を奪わなかった。私は、その沈黙に支えられ、何度も深い場所まで降りていった。
けれど、深く降りるほど、上へ戻るのが難しくなった。
湊と別れた後の世界は、以前より冷たく感じた。
誰にも見られず、無視される――それらは以前から同じだったはずなのに、痛みだけが増していた。
透明であることは、平気なふりをしていれば平気だった。
しかし、湊に見られる喜びを知ってしまったあとでは、見られないことが欠落として意識された。
何もなかった場所に、穴が開いた。
彼だけが見てくれるなら、世界から消えてもいい。
そう思う夜があった。
けれど、湊が見ていない時、私は死んでいるのと同じだった。
哲学で「森の中で木が倒れたとき、それを聞く者がいなければ、音はするのか?」という問いがあったのを思いだす。
それは、彼が見ていない私のことを言っているのではないか、と思った。
スマートフォンの画面を何度も見た。彼からのメッセージが来ていないか確認した。
来ていない時、胸の奥が空洞になった。
送ればいいのに、送れなかった――送って返事がなければ、私の存在はそこで試される。そう試されることが怖かった。
ある雨の日、私は映画館で湊を待った。
約束の時間を十分過ぎ、二十分過ぎた。雨水が天井から落ちる音だけが響いていた。スマートフォンには何の通知もなかった。
彼が、来ない。
その事実は、すぐに別の言葉へ変わった。
私は、いない。
客席の暗がりで、手のひらを見つめた。ちゃんと見える。爪も、関節の皺も、血管の青さも見える。
しかし、それは自分で見ているからだった。他者の視線に触れない身体は、どこまで本物なのだろう。
非常口の扉が軋んだ。
「ごめん、遅れました」
湊が駆け込んできた。髪と肩が雨で濡れていた。息が上がっている。
私は、立ち上がれなかった。安堵より先に、怒りが来た。
怒りというより、溺れていたところへ急に空気を押し込まれたような痛みだった。
「連絡、できなかったんですか?」
「スマホの充電が切れて……」
「そうですか」
声が冷たくなった。
湊は私の前で足を止めた。暗闇の中でも、彼の顔に困惑が浮かぶのが分かった。
「心配させました」
「心配じゃないです」
嘘だった。
「私、ここで、ずっと、いないことになっていました」
湊は、何も言わなかった。
私は、自分の言葉に驚いていた。
責めたいわけではなかった。彼が悪いわけでもない――ただ、私の存在が彼の視線にぶら下がっていることが、急に恐ろしくなった。
湊は、濡れた手でカメラのストラップを握った。
「水野さんは、僕がいなくてもいます」
「そんなの、湊さんには分からない!」
彼は、首を振った。
「いえ、分かりたい」
「分かりたいだけじゃ、見えないんです!」
声が震えた。雨の音が強くなった。スクリーンの穴の向こうで、街の明かりが滲んでいた。
湊は、ゆっくり近づき、私の隣に座った。
触れはしなかった。触れられたら、私は、泣いていたと思う。
しばらく、二人で雨の音を聞いた。
「僕は、あなたの酸素にはなれません」
湊が言った。
その言葉は優しかったが、残酷だった。
「酸素じゃなかったら、何なんですか?」
「窓、くらいなら」
「窓?」
「外を見るためのものです。外と内側を分けるけれど、完全には閉じないもの、とても言えばいいかな」
私は、濡れたスクリーンを見た。
穴の開いたスクリーンは、窓にも傷にも見えた。
そこから見える外の夜は、冷たく、広かった。
私は、湊に寄りかかりたい衝動を押し殺した。彼の肩に触れたら、きっと戻れなくなる。私は、窓を酸素ボンベに変えてしまう。
それでも――その夜、彼が帰るまで、私は、彼の声を一語も聞き逃すまいとした。
.四
透明になった原因を考えるようになったのは、湊に出会ってからだった。
それ以前の私は、原因など必要としていなかった。
透明であることは天気のようなもので、晴れる日もあれば雨の日もあるのと同じだった。抵抗しても仕方がない。
傘を差すように、私は、薄いままの自分で生きていた。
しかし、湊はいつも、見過ごされた痕跡から過去へ遡ろうとした。
剥がれたポスターの下に、さらに古いポスターの端を見つける、閉店した店の看板のネジ穴から前の店の名前を推測する、誰も座らないベンチの擦り減り方を見て、かつてそこに座っていた人の重さを想像する――。
その視線に触れているうちに、私は自分にも、剥がれた層があるのではないかと思うようになった。
思い出したくない記憶は、水底に沈んだビニール袋に似ている。
普段は泥に埋もれて形を失っているけれど、何かの拍子に水流が変わると、ふわりと浮き上がるのだ。
白く、濁り、絡みつく。
思いだすと、それは、高校一年の秋だった。
私は、まだ、今ほど透明ではなかった。友達と呼べる人が一人だけいた。真帆という名前で、髪をいつも高い位置で結んでいた。
明るく、少し強引で、私の腕を引いて教室の輪の中へ連れていく子だった。
「葵は、声が小さいんだよ」
真帆は、よくそう言った。
「聞こえないと、いないのと同じになるよ!」
その言葉に、当時の私は笑っていた。
今思えば、真帆は予言のようなことを言っていた。
秋の文化祭の日、私たちのクラスは、小さな喫茶店をやった。私は裏方で、真帆は接客だった。
午後、体育館でバンド演奏が始まり、校舎の中はいつもより騒がしかった。
紙コップ、段ボール、甘い飲み物の匂い、廊下を走る足音、誰かの笑い声――喧噪に満ちた一日だった。
その日の夕方、校舎裏の物置で小さな火事が起きた。
原因は、誰かが捨てた煙草の火だったと後で聞いた。文化祭に来ていた外部の人間か、隠れて吸っていた生徒かは分からない。
物置には古い垂れ幕や段ボールが積まれていて、火はすぐに煙を出した。
私は、たまたま物置の近くにいた。
真帆に頼まれて、追加の紙皿を取りに行ったのだ。物置の扉を開けた瞬間、灰色の煙が顔にかかった。喉が焼けるように痛み、目に涙が滲んだ。奥の方で、火が赤く揺れていた。
私は扉を閉め、廊下へ走った。
「火事です!」
叫んだ。
叫んだ、はずだった。
廊下には、人がたくさんいた。文化祭の片付けをする生徒、見回りの教師、帰ろうとする来場者がいた。
私は、その人たちに向かって叫んだ。
「火事です。物置が燃えています!」
誰も振り返らなかった。
いや、何人かは振り返ったのかもしれない。しかし、その視線は、私を通り過ぎた。
バンド演奏の音が遠くから響き、校内放送が何かを告げ、廊下の笑い声が重なっていた。
私の声は、そのすべての中でノイズになった。
私は、教師の袖を掴もうとした。指が布に触れた。
教師は、何かが引っかかったように腕を振り、隣の生徒に話しかけ続けた。
「先生、火事です!」
口の中が煙で苦かった。
先生。
先生。
その言葉が、どこにも届かなかった。
私は、走った。
職員室へ向かった。
廊下の途中で、真帆とぶつかりそうになった。
「葵、どこ行ってたの?」
真帆は、私を見た。きちんとと、見た。
その瞬間、私は泣きそうになった。
「火事。物置が……」
真帆の顔色が変わった。彼女はすぐに大声を出した。
「火事です! 物置が燃えています!」
廊下が止まった。
人々が一斉に振り返った。
教師が走り出し、誰かが消火器を持ってきた。
校内放送が流れ、避難誘導が始まった。
真帆の声は、私の声と同じ言葉を運んだのに、世界を動かした。
結局、火は大きくならずに消し止められた。
怪我人は、いなかった。
だから、誰も悪くなかった。
けれど、その夜から、私の中で何かが変わった。
後日、先生は真帆を褒めた。早く知らせてくれて助かった、と。
クラスメイトも真帆に言った。すごいね、よく気づいたね、と。
真帆は困ったように笑い、葵が先に見つけたんだよ、と何度か言った。
でも、その言葉は、うまく残らなかった。
「そうだったんだ」
「水野さんもいたんだ」
「へえ」
それだけだった。
私は、その場で笑った。笑うべきだと思った。
真帆が悪いわけではない。先生が悪いわけでもない。誰も、私を消そうとして消したわけではない。
そのことが、いちばん苦しかった。
悪意があれば、怒れた。意地悪なら、泣けた。しかし、そこにあったのは無関心だった。
人の意識に引っかからないという、静かで巨大な壁だった。
……それから、私は、声を出す前に諦めるようになった。
助けを求めても届かないなら、最初から求めない方がいい。
名前を呼ばれないなら、名前を置いていけばいい。
必要とされないなら、必要とされない場所で生きればいい。
透明になることは、敗北ではなく、適応だった。
そう思わなければ、十六歳の私は、立っていられなかった。
* * * その記憶のフラッシュバックから戻ったとき、私は映画館の客席にいた。
湊は少し離れた場所で、破れたスクリーンを撮っていた。
シャッター音がして、暗闇の中で小さく反響した。
「思い出しました……」
私が言うと、湊はカメラを下ろした。
「何を?」
私は、高校の文化祭のことを話した。
言葉は途切れ途切れだった。
煙の匂いを思い出すと喉が痛み、教師の袖の感触を思い出すと指先が冷えた。
真帆の声が世界を動かした瞬間を話すと、胸の奥で何かが縮んだ。
湊は、最後まで黙って聞いた。
話し終えると、長い沈黙が落ちた。水滴の音が数えられるほどだった。
「その時、あなたは、しっかりと助けを求めたんですね」
湊が言った。
私は、首を横に振った。
「届かなかったんです」
「でも、求めていた」
「……意味が、なかった」
「いや。意味は、あります」
湊の声が少し強くなった。
「水野さんが声を出した。それが、大事だったんです」
「誰も覚えていないのに?」
「あなたが覚えている」
「覚えて……いたくなかった」
涙が出た。
泣くつもりは、なかった。
泣く資格があるのかも分からなかった。
大きな事故になった訳ではないし、誰かが死んだわけでもない。
私だけが、あの日から少しずつ薄くなった――それだけだった。
湊は近づかなかった。
慰めのために肩を抱くこともしなかった。
ただ、私が泣いている事実から目を逸らさなかった。
それは、辛かった。
見られることは、隠してきたものまで照らされることだった。
映画館の廃墟の中は薄暗かったけど、涙の形も、鼻をすする音も、歪んだ顔も、すべて見られていた。
でも、湊の視線は、私を裁かなかった。
私は、泣きながら、少しだけ理解した。
透明さは呪いではなく、私が選んだ避難場所だった。
しかし、長く避難しているうちに、そこが家になってしまった。
外へ出る道を塞いだのは、世界だけではなく、私自身でもあったのだ。
「湊さん」
「はい」
「私を、撮ってください」
彼の目がわずかに揺れた。
「今ですか?」
「今でないと、また逃げます」
湊は、迷っていたようだ。
迷ってくれたことが、ちょっと嬉しかった。
彼は、撮りたいから撮る人では、なかった。私が残ることの痛みを、少なくとも想像しようとしていた。
やがて、彼は頷くと、カメラを構えた。
私は、泣き腫らした顔で、壊れた客席に座っていた。髪は乱れ、指先は膝の上で固まっていた。
何も整っていない。撮られるための顔ではないことは、よく自分でも分かっていた。
シャッター音が鳴った。
その音は、まるで祈りのように聞こえた。
私は、そのとき、目を閉じた。
写真に閉じ込められたのではなく、多分、逃げずに残ったのだと思った。
.五
写真を撮られてから、湊との関係は少し変わった。
近づいたのではなく、近づきすぎたものの輪郭が見えるようになったのだと思う。
手のひらをガラスに押しつけると、向こう側の温度が分かる。同時に、ガラスがあることも分かる。
湊は、写真をすぐには見せなかった。
「現像してから見せます」
彼は、昔ながらのフィルムカメラを使っていた。デジタルのように、その場で結果を確認できない。待つ時間がある。
待つ間に、私は何度も後悔した――あんな顔を残してよかったのか、泣いている私に価値があるのか――そもそも、湊は、あの写真を見て、やっぱり撮らなければよかったと思うのではないか。
不安は、透明な虫のように胸の内側を這った。
ある土曜日、湊に誘われて小さなギャラリーへ行った。
古いビルの二階にある白い部屋で、若い写真家たちの合同展示が開かれていた。湊の写真も数点展示されているという。
私は、人の多い場所が苦手だった。
ギャラリーの白い壁に写真が飾られている。スポットライトの下、人々が静かに歩いていた。人々は写真の前で足を止め、少し首を傾け、感想を囁き合った。
見る側でいるはずなのに、私は、自分も壁に貼られているような気がした。
湊は、入口で知り合いに声をかけられた。
「瀬戸、久しぶり!」
短い髪の女性だった。年齢は、湊と同じくらいに見えた。黒いワンピースを着て、首からスタッフ証を下げている。彼女は、自然に湊の肩を叩いた。
「今回の、良かったよ。相変わらず廃墟ばっかりだけど」
「ありがとうございます」
「褒めてるんだよ。あ、あとでオーナーが話したいって」
湊は、頷いた。二人の会話は滑らかだった。私が知らない時間を共有している人たちの言葉だった。
女性は、一瞬、私の方を見た。視線は私の顔の表面を滑り、すぐに湊へ戻った。
「連れ?」
「ああ、水野さんです」
湊が言った。
名前を出された瞬間、私は身構えた。女性はもう一度こちらを見た。
「こんにちは」
私は、返事をしようとした。
「……こんにちは」
声は出た。けれど、女性はほとんど聞き取れなかったのか、曖昧に微笑んで湊へ向き直った。
「じゃ、またあとで」
彼女は去っていった。
たった、それだけのことだった。
湊には、私以外の世界がある。
そんな当たり前の事実が、喉に刺さった。
湊は、普通に人と話せる。名前を呼ばれ、肩を叩かれ、展示の感想をもらい、オーナーに紹介される。
彼は、私の観測者である前に、彼自身の人生を生きている。
私は、それを分かっていたはずだった。でも、分かることと耐えられることは違った。
つとめて平静な表情を保とうとしながら、湊と一緒に写真を眺めていく。
ギャラリーの奥に、彼の写真が並んでいた。
閉店した銭湯の浴槽、剥がれた壁紙、雨ざらしのベンチ、非常階段に積もった落ち葉――どれも静かで、寂しく、美しかった。
人のいない写真なのに、そこにかつていた人の気配が濃く残っている。
「すごいですね」
私は、言った。
本心だった。
同時に、胸の奥で黒いものが動いた。
湊は、私を見つけた特別な人だと思っていた。
でも、彼は私だけを見つけた訳では、なかった――彼は、世界の隅々に視線を向ける人だったのだ。
私の透明さは、彼にとって唯一ではなく、彼の感受性が捉える多くの残滓の一つなのかもしれない。
そう考えた瞬間、足元がぐらついた気がした。
「水野さん?」
湊が呼んだ。
「大丈夫です」
私は、笑った。うまく笑えたかどうか分からなかった。
展示の途中で、湊はオーナーに呼ばれた。少し話してきます、と言って、部屋の奥へ行った。
私は、壁際に立った。人々の会話が、水の中のように歪んで聞こえた。
「瀬戸くんの写真、いいよね」
「寂しいけど、きれい」
「人を撮らないのが、逆に人間っぽい」
誰かの声がした。
私は、その言葉を聞きながら、壁の白さに溶けそうになった。
人を撮らないのが人間っぽい――では、撮られた私は何なのだろう? 人間として撮られたのか、それとも廃墟やベンチと同じ、忘れられたものとして撮られたのか。
湊の現像した写真が、もしここに展示されたら。
私の泣き腫らした顔が、白い壁に掛けられ、人々が首を傾けて感想を言う。
寂しいね、きれいだね、透明な子だね――そう言われる想像をした瞬間、吐き気がした。
ギャラリーを飛び出した。
階段を下り、ビルの外へ出る。
街は夕方の光で鈍く輝いていた。車の音、人の声、信号機の電子音。すべてが白く混ざり、耳の奥を満たした。
スマートフォンが震えた。湊からだった。
出なかった。
震え続ける画面を見つめながら、私は、駅とは反対方向へ歩いた。
誰も私に気づかなかった。
すれ違う人々は、私の頬が濡れていることも、呼吸が乱れていることも知らなかった。以前なら、それでよかった。
今は、その無関心が皮膚を剥ぐように痛かった。
夜になって、映画館へ行った。
非常口を開けると、暗闇が待っていた。
湊はいなかった。私は、客席に座り、スマートフォンの電源を切った。
彼を困らせたいのではない。
けれど、彼が私を探すかどうか知りたかった。探してほしかった。見つけてほしかった。私が消えたことに、彼だけは、気づいてほしかった。
なんて醜い願いだろう。
私は、彼を自由にしたいと思っていた。酸素にしないと決めたはずだった。
なのに、彼が自分の世界へ戻ろうとするたび、私はその足首に透明な糸を巻きつけたくなる。
非常口が開いたのは、二時間ほど経ってからだった。
懐中電灯の光が客席を横切る。
「水野さん」
湊の声がした。
その声を聞いた瞬間、安堵が全身を満たした。遅れて、自己嫌悪が来た。
「探したんですか?」
私は、暗闇の中で尋ねた。
「探しました」
「どうして……」
「心配だったから」
「私がいなくなったら、困りますか?」
彼は、しばらく何も言わなかった。
湊は客席の通路に立っていて、懐中電灯の光を床に向けている。だから、表情が見えなかった。
「……困ります」
「どれくらい?」
「水野さん」
「お願いです。答えてください!」
声が尖った。自分が嫌だった。けれど、止まらなかった。
「私がいなくなったら、湊さんの写真に穴が開くから困るんですか? それとも、珍しい被写体が消えるから?」
「それは、違います」
「では、いったい何ですか?」
湊は、深く息を吸った。
「あなたを、僕の写真の中に閉じ込めたくない」
私は、言葉を失った。
「今日、展示を見て、あなたが、そう感じたかもしれないと思いました。僕は、忘れられたものを撮る。でも、あなた自身を、その忘れられたものとして扱いたくは、ない」
「同じでしょ?」
「……同じに見える、かもしれません」
「では、湊さんにとって、私は、何なんですか?」
その問いは、暗闇に投げた刃だった。
相手を傷つけるためではなく、自分の胸から抜くための刃だった。
湊は、すぐには答えなかった。
「……分かりません」
やがて彼は言った。
その答えに、胸が冷たくなった。
「何が分からないんですか?」
「……簡単な言葉にしたら、嘘になる気がします」
「では、私は、湊さんにとって特別ですか?」
言ってしまってから、後悔した。
正直、あまりにも幼い問いだと思った。でも、私はその幼い部分を抱えたまま、ずっと大人のふりをしてきたのかもしれない。
湊は、私の前の席に座った。背中越しに、彼の呼吸が聞こえた。
「特別です」
その言葉に、私は救われそうになった。
「でも、僕だけが、あなたを特別にするのは、違う。そう思うんです」
救いは、すぐに痛みに変わった。
「どういう意味ですか?」
「あなたを、僕だけが追えるという状態が、よくないと思います。そう……僕が見なければ消える、と周りに思わせてしまう」
「思わせているんじゃありません。実際に、消えるんです」
「いや、消えていない」
「湊さんには分からない!」
叫んだ。
声は、映画館の壁にぶつかり、反響した。
自分の声の大きさに驚いた。喉が痛かった。
「誰も見ないんです! 誰も聞かないんです! 私が助けてって言っても、世界は動かなかった。湊さんだけなんです……湊さんだけが、私の声を音として聞いた。それなのに、その湊さんまで、外の世界に戻れって、そう言うんですか……」
湊は、黙っていた。
私は、立ち上がった。涙で視界が滲んでいた。
「私を見つけたなら、最後まで見ていてください!」
それは告白ではなく、呪いだった。
湊の顔が苦しそうに歪んだ。暗闇でも、分かった。
「それは、できません」
静かな拒絶だった。
世界が止まった。
「そうですか……」
私は笑った。笑ったつもりだった。
「やっぱり、私が重すぎたんですね」
「違う!」
「違わないです」
非常口へ向かって歩いた。湊が立ち上がる気配がしたが、追ってはこなかった。
追ってほしかった。いや、追ってほしくなかった。
外へ出ると、夜の空気が肌を冷やした。
私は、透明だった。
それは慣れたはずの状態なのに、今は剥き出しの傷のようだった。
その夜、私は家に帰らず、駅前の歩道橋の上で長い時間を過ごした。
下を車が流れていく。ヘッドライトは白い線になり、テールランプは赤い線になった。
人々は階段を上がり、私の横を通り過ぎ、階段を下りていった。
誰も立ち止まらない。
私は、欄干に手を置いた。金属は冷たく、掌の熱を奪った。
飛び降りたい訳ではなかった。
ただ、世界に何かを起こしたかった。
私がここにいることで、誰かの足が止まるようなことをしたかった。
悲鳴でも、迷惑でも、非難でもいい。反応がほしかった。
けれど、私は欄干を握るだけだった。
湊の言葉が耳に残っていた。
僕だけがあなたを特別にするのは、違う――それは、酷い言葉だと思った。
いや、正しい言葉かもしれない。でも、正しさは、時々、刃物より深く心に刺さるのだ。
私は、ゆっくり息を吐いた。
白い息は出なかった。六月の夜は湿っていて、生温かかった。
呼吸の証拠すら、空気に残らなかった。
.六
湊からの連絡には、三日間返事をしなかった。
スマートフォンの画面に彼の名前が表示されるたび、胸が縮んだ。
読みたい、読みたくない、呼ばれたい、呼ばれるのが怖い――矛盾する感情が、喉の奥で絡まった。
事務所では、いつもより更に透明になった。
所長が書類を私の机に置き、名前を呼ばずに去った。
女性社員たちは新しいアルバイトが入るらしいと話していた。私の契約が来月で切れることを、私はその会話で知った。
「水野さんには、あとで所長から話があるんじゃない?」
一人がそう言った気がした。もう一人は首を傾げた。
「水野さんって、どの子だっけ?」
私は、キーボードの上で指を止めた。
怒るべき場面だった。悲しむべき場面だった。
でも、その瞬間、胸に湧いたのは奇妙な静けさだった。
どの子だっけ。
その言葉は、私を完全に消すものではなかった――むしろ、消えかけているものを指差していた。
分からないということは、そこに何かがある可能性を含んでいる。
私は、立ち上がった。
「水野は、私です」
声は大きくなかった。けれど、自分で思ったよりはっきり出た。
二人の女性社員がこちらを見た。
所長も奥の席から顔を上げた。
数秒の沈黙が落ちる。
私は、逃げなかった。
「あ、そうだった。ごめんね」
女性社員が言った。
それだけだった。
世界は劇的には変わらなかった。誰も拍手しなかった。誰も私の存在に感動しなかった。
けれど、私は、座り直したあと、指先が少し震えていることに気づいた。
怖かった――同時に、少し息がしやすかった。
昼休み、私は湊からのメッセージを開いた。
『会って話したいです。展示の最終日に、あなたに見せたいものがあります。無理なら返事はいりません。でも、あなたが来なくても、僕は、あなたがいることをなかったことには、しません』
最後の一文を、何度も読んだ。
あなたが来なくても、僕はあなたがいることをなかったことにはしません。
それは、私が求めていた言葉とは少し違った。
探しに来る、ずっと見ている、消えないようにつかまえる――そういう言葉ではなかった。
彼は、私を縛らずに、私の存在を認めようとしていた。
私は、返信した。
『行きます』
それだけ打つのに、十分かかった。
* * * 展示の最終日は、雨だった。
ギャラリーの白い壁は前より眩しく見えた。入口のガラスに、濡れた街と私の姿が重なっていた。
ガラスの向こうの私は薄く、通行人の影に何度も隠れた。でも、完全には消えなかった。
階段を上がる途中、心臓が速くなった。手すりを握る指が冷たい。喉が詰まる。
帰りたいと思った。帰って、布団をかぶり、スマートフォンの電源を切り、誰にも見つからない場所で、眠りたいと思った。
それでも、足を止めなかった。
ギャラリーには、人が多かった。
最終日だからか、オーナーらしき年配の男性や、写真家らしい若者たちが集まっていた。
湊は、奥の壁の前に立っていた。私を見つけると、目を細めた。
安堵の表情だった。
「来てくれて、ありがとうございます」
彼は、そう言った。
私は、頷いた。
「見せたいものって、何ですか?」
湊は、壁の一角へ案内した。
そこには、前回来た時にはなかった写真が一枚掛けられていた。
壊れた映画館の客席、破れたスクリーン、穴の向こうの夜――その手前に、一人の女の子が座っている。
私だった。
泣き腫らした顔は、暗がりに半分隠れていた。
表情は美しくない。目は赤く、唇は強く結ばれ、指先は、膝の上でこわばっている。
しかし、その写真の中の私は、透明ではなかった。
弱く、怖がりで、みっともなく、そこにいた。
写真の下には、小さなタイトルが添えられていた。
『境界に座る人』
私の名前はなかった。
ほっとした。でも、少しだけ傷ついた。その両方だった。
「展示するなら、先に言ってほしかったです」
私は、そう言った。
声が震えた。
「すみません」
「謝ればいいと思っているんですか?」
「思っていません」
湊は、まっすぐ私を見た。
「これは、今日だけ掛けました。あなたが来たら、外します。あなたが嫌だと言えば、二度と誰にも見せません」
「なら、どうして掛けたんですか?」
「あなたに、選んでほしかったから」
「選ぶ?」
「隠すのか、残すのか。僕の写真としてではなく、あなたの存在の痕跡として」
私は、写真を見た。
白い壁に掛けられた私は、見知らぬ人々の視線を受けていた。何人かが足を止め、写真を眺めている。
感想は聞こえなかった。聞きたくなかった。
怖い――全身がそう言っていた。
視線が肌に刺さった。
写真の中の私だけでなく、現実の私まで剥がされるようだった。
逃げたい。外してほしい。なかったことにしてほしい、そう思った。
でも、写真の中の私は、逃げていなかった。
泣きながら、そこに座っていた。
その時、前に会ったスタッフの女性が近づいてきた。
「瀬戸、この写真の子、知り合い?」
湊は、私を見た。答えを私に預けているのが分かった。
女性の視線が私に向いた。今度は、前より長く留まった。
私は、口を開いた。
――喉の奥に、あの高校の廊下が蘇った。煙の匂い、届かなかった声、教師の袖、そして真帆の大きな声――世界が私を素通りした瞬間が。
ここで黙れば、また同じ場所に戻る。
声を出しても、届かないかもしれない。笑われるかもしれない。迷惑がられるかもしれない。
でも、届かないことと、声を出さないこととは、違う。
私は、息を吸った。
「私です」
声は、ギャラリーの白い空気に落ちた。
女性が瞬きをした。
「え?」
私は、もう一度言った。
「その写真に写っているのは、私です」
今度は、近くにいた数人がこちらを見た。湊も見ていた。
視線が集まる。怖い。足が震える。
でも、私は写真の横に立った。
「名前は、水野 葵です」
名前を言うと、身体の内側で何かが割れた気がした。割れたのは殻だったのか、呪いだったのか分からない。
はっきりと、心に痛みがあった。鋭く、熱い痛み。
沈黙の後、女性が小さく言った。
「この写真、あなたなんですね……」
「はい」
「すごく、目が離せませんでした」
褒め言葉なのか分からなかった。けれど、その言葉は私に届いた。
私は、頷いた。
「ありがとうございます」
声が震えたが、消えなかった。
それから、私は、湊の方を見た。
「湊さん」
「はい」
「この写真、外さないでください」
湊の表情が変わった。驚きと安堵と、少しの痛みが混じっていた。
「いいんですか?」
「いいかどうか、まだ分かりません」
私は、写真の中の自分を見た。
「でも、私がここにいたことを、私が消したくないです」
その言葉を言い終えた瞬間、涙が出そうになった。いや、泣かなかった。泣いてもよかったのだと思う。
でも、その時の私は、泣く代わりに立っていたかった。
展示の最後に、湊は短い挨拶を求められた。
彼は、人前で話すのが苦手そうだったが、白い壁の前に立った。
「忘れられたものを撮っていると言ってきました」
湊の声がギャラリーに響いた。
「でも、最近、少し違うと思うようになりました。僕が撮りたいのは、忘れられたものではなく、忘れられたことにされても残っているものです。誰かが見なかったからといって、そこになかったことにはならない。写真は、その事実に遅れて触れるためのものだと思います」
彼は一瞬、私を見た。
私は、逃げなかった。
その視線を受け止めた上で、彼だけに支えられないように、自分の足に力を入れた。
ギャラリーを出る頃、雨は弱くなっていた。
湊と並んで階段を下りる。入口のガラスに、二人の影が映った。
私の影はまだ薄いような気がした。
湊の隣にいても、街の光に何度も溶けそうになった。
でも、ガラスの中の私は、自分の目で自分を見返していた。
.七
世界は、魔法のようには変わらなかった。
翌週、コンビニの店員は、やはり私の目を見なかった。
レジ台に置いた商品だけを処理し、機械のように金額を告げた。
電車では、スマートフォンを見ていた会社員が私の肩にぶつかり、謝らずに降りていった。
事務所では、新しいアルバイトの人が入り、私は引き継ぎを頼まれた。
所長は、最後まで、私の名前を呼ぶ前に少し間を置いた。
――透明さは完全には消えなかった。
それでいいのだと思えるまでには、もう少し時間がかかった。
最初の数日は、期待していたのだと思う。展示会で名前を言えたのだから、何かが劇的に変わるのではないか。誰もが私に気づき、声がまっすぐ届き、世界のホワイトノイズが晴れるのではないか。
そんな都合のいい解呪を、心のどこかで待っていた。
けれど、呪いは外から掛けられただけのものではなかった。
透明さは、私が長い時間をかけて身につけた呼吸だった。すぐには変わらない。人の視線を避ける癖も、声を飲み込む癖も、邪魔にならない位置を探す癖も、身体の奥に残っていた。
ただ、一つだけ変わったことがある。
私は、透明になる瞬間を、自分で感じ取れるようになった。
視線から外れた時、以前はそのまま水底へ沈んでいた。今は、沈む途中で気づく。
ああ、私は今、消えようとしている……そう気づくと、足を少し動かせる。声を出すか、出さないかを選べるのだ。
見てほしい相手に近づくか、見なくていい相手から離れるかを選べる。
選べることは、救いに似ていた。
湊とは、以前ほど頻繁には会わなくなった。
それは関係が薄くなったからではなく、近づき方を変えたからだった。
毎日メッセージを待つのをやめた。返事が遅れても、私は、いなくならないと自分に言い聞かせた。
うまくいかない日もあった。画面を見つめて胸が冷える夜もあった。
でも、そのたびに私は、自分の手を見た。爪、関節、血管の青さ、自分で自分を見る練習をした。
湊は、展示の写真を私にくれた。小さくプリントされた写真を、白い封筒に入れて渡された。
私は、しばらくそれを開けられなかった。
意を決して開けると、あの夜の私がいた。泣き腫らした顔で、壊れた映画館に座っている。
何度見ても、綺麗な顔ではなかった。でも、嫌いにもなれなかった。
私は、その写真を、部屋の机の引き出しにしまった。
飾る勇気は、まだなかった。隠すのとも違った。必要な時に、自分で取り出せる場所に置いたのだ。
アルバイトの最終日、所長が封筒を渡してくれた。
「短い間だったけれど、助かりました」
私は、封筒を受け取った。
「ありがとうございました」
それだけ言って帰るつもりだった。けれど、ドアの前で足を止めた。
「所長」
「はい?」
「私は、水野 葵です」
所長は、驚いた顔をした。
私は、続けた。
「名前を覚えてもらえなかったこと、少し寂しかったです。でも、仕事をさせてもらえたことは助かりました」
所長は、何も言えないようだった。
気まずい沈黙が落ちた。以前なら、その沈黙に耐えられず、すぐに謝って逃げただろう。今も逃げたかった。
けれど、私は逃げなかった。
「すみませんでした」
所長が言った。
謝罪は小さかった。世界を変えるほどのものではなかった。でも、私の中の何かが、少しだけ整った。
「失礼します」
私は、頭を下げ、事務所を出た。
外は夕方だった。ビルの窓に、街の光が薄く映っている。
ガラスの向こう側には、相変わらず別の街が重なっていた。
境界は消えない。こちらとあちら、見る人と見られる人、声を出す人と聞く人――その間には、いつも透明な膜がある。
でも、膜は壁ではない。
触れれば冷たい。押せばたわむ。時には割れる。時には窓になる。
私は、駅へ向かわず、図書館の裏の公園へ歩いた。
ベンチの塗装はさらに剥げていた。梅雨の湿気を吸った木々が、濃い緑の匂いを放っている。子供たちはもう帰った後で、ブランコだけが風に揺れていた。
湊は、ベンチに座っていた。カメラを膝に置き、空を見ていた。
私に気づくと、彼は立ち上がらずに手を上げた。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
私は、隣に座った。
しばらく、二人で公園を見た。
沈黙は以前より軽かった。何かで埋めなければならない穴ではなく、二人の間に置ける余白だった。
「次の仕事、探すんですか?」
湊が、尋ねた。
「はい。今度は、少し人と話す仕事でもいいかもしれません」
「無理しないでください」
「無理は、します」
私が言うと、湊は驚いたようにこちらを見た。
「少しは無理しないと、変わらないので。でも、壊れるほどはしません」
「それなら、いいと思います」
湊は、笑った。
私は、その笑顔を見て、胸が温かくなるのを感じた。
以前なら、その温かさに全体重を預けてしまっただろう。今も預けたくなる。
でも、私は自分の足が地面に触れていることを確かめたのだ。だから、いい。
「湊さん」
「はい」
「私を、また撮ってください」
彼は、少し目を見開いた。
「いいんですか?」
「はい。でも、撮りたい時は、先に言ってください。嫌な時は、嫌と言います」
「分かりました」
「あと、私も撮ります」
「何を?」
「湊さんを」
湊は、本当に困った顔をした。
「僕は、撮られるのが苦手です」
「知っています」
「意地悪ですね」
「共犯者なので」
その言葉は、自然に出た。
湊は少しの間、私を見つめた。それから、諦めたように笑った。
「一枚だけなら」
私は、スマートフォンを取り出した。
カメラを起動すると、画面の中に湊が映った。
ベンチに座り、少し困った顔で、けれど逃げずにこちらを見ている。
私は、シャッターを押した。
小さな電子音が鳴った。
湊は、その音に肩をすくめた。
私は笑った。声を出して笑った。
公園の空気が少し揺れた。誰もこちらを見なかった。近くを通った人は、私たちに気づかず通り過ぎた。
それでも、よかった。
私は、ここにいた。湊もここにいた。誰かに証明されなくても、その事実は消えなかった。
帰り道、私は一人で街を歩いた。
夜の駅前は、以前と同じように白い音で満ちていた。
改札機の電子音、靴音、車の走行音、遠くの笑い声――世界はまだホワイトノイズだらけだった。
何人かは私に気づかず、肩が触れそうになった。何人かは私を避けた。店のガラスに映る私は、街の光に重なって薄かった。でも、消えてはいなかった。
私は、ガラスの前で立ち止まった。
映った自分に向かって、小さく名前を呼んだ。
「水野 葵」
通行人の一人が、ほんの一瞬こちらを見た。そして、すぐに目を逸らして歩いていった。
私は、微笑んだ。
見られても、見られなくても、私は、私だった。
そう思った瞬間、世界の白い音の中に、小さな旋律が混じった気がした。
それは、湊の声ではなかった。
私自身の、まだ頼りないけれど確かに続いている呼吸の音だった。
(了)
あとがき:
こちら、一昨日の日記:
……の、(2)Gemma4 12B Qat自体にプロットを作ってもらった版です。なんか、男がじれじれな感じなのが、ちょっと純文学寄りの話でしょうか? 実際に、ちょっとこんなヤツはいるかも……という気がしないでもないですが(笑)。
こちらは、本編は、↑の日記の出力からGemma4 12B Qatで改めてプロットを作成してもらって、ChatGPTさんで下書きした後、そのままではなく、全文&全面的に変更(特にセリフ周り等)しております。
長いですが、是非、どっちが良かったか、感想お聞かせ頂けると嬉しいです! 明日は、これら2編の分析を載せる予定です!
それでは、また!
#創作大賞2026