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【中編ホラー小説】ソウル・ガール・フレンド(3)

    これまでのストーリー:

     昔の恋人、芳野 美伶から連絡を受けた集は、レモを連れて喫茶店へ向かった。しかし、そこにいたのは美伶ではなく、霊能アドバイザーの夜見 依子だった。夜見は、レモが集の孤独や理想像から生まれた人工幽霊であり、その中に美伶の魂の一部が混ざっていると告げる。やがてレモの内側から半透明の美伶が現れ、集の記憶は揺らぎ始める。そこへ、駅で金属プレートを渡した男、栗原 達也が現れ、集の中へ入り込もうとする。夜見は、栗原を退けるが、彼は消えず、集の家にある暗号資産ノードを足場にしている可能性が浮かんだ。集たちは、異変の中心となった家へ向かう。

    本文:

    .九

     玄関の向こうに、洋館のホールが広がっていた。
     僕は、最初、それを理解できなかった。目の前にあるものを見ているのに、脳が受け取りを拒んでいる。
     思わず外に目を向けると、そこは、僕の古い一軒家――小さくて古い木造家屋だった。
     玄関を開ければ、すぐに狭い廊下があり、右手に台所、左手に六畳の部屋、奥に仕事部屋があるはずだった。
     しかし、玄関の先には高い天井があり、古びたシャンデリアが、暗い空間の上の方で揺れていた。
     赤黒い絨毯が、玄関から奥へと伸びている。左右には幅の広い階段があり、その手すりには、蔦のような装飾が絡みついていた。
     壁には、見覚えのない肖像画がいくつも掛けられている。そこに描かれた人々の顔は、どれも暗く、目だけが妙に湿っているように見えた。
     僕は、一歩も動けなかった。
    「これは、僕の家じゃありません。これって、ホラーゲームの画面ですか、ね?」
     自分の声が、ホールの高い天井に吸い込まれていく。似たような洋館を探索するゲームは、いくつか手がけたことがある。
     僕は、足がすくんで、前に進めなかった。
     夜見さんは、僕の隣に立ち、銀色の端末を片手に持っていた。画面には、細かな文字列が絶えず流れている。白石 世渚さんとの通話はつながったままだったが、画面の映像は時々乱れ、彼女の顔は、低解像度のブロックノイズ越しに歪んでいた。
    「外側は、完全に安形さんの家ですわね」
     夜見さんは言った。
    「でも、内側は、揺らいでいますわ」
    「それって、どういう……?」
    「ユズPiのノードが世界中の機器と接続し続けているんですの。普通なら、ただの通信ですわ。でも、栗原がそこに観測の意味を貼りつけたんですの。あなたの人工幽霊と記憶が、その網へ接続されてしまっていますわ」
     僕は、奥から聞こえる音を、確かに聞いた。
     ぶうん。
     それは、パソコンのファンノイズに似ていた。仕事部屋の棚に置いたユズPiは、小さなファンを付けているが、ほぼ無音だ。耳をすぐ近くまで寄せると、回転していることがなんとか分かるくらいの音だ。
     でも、そのファンの音が、大きく拡大されているように思った。まるで、大きなサーバーの空冷音のように、低音が洋館全体の奥から響いていた。
     床下、壁の中、天井裏、そのすべてに巨大な機械が潜んでいるような音だった。
    「存在確率が、家ごとぶれているのですわ」
     夜見さんの声は、静かだった。
    「この家は、あなたが家だと思っていた場所です。けれど、いまは世界中の観測に晒され、あなたの記憶と願望の形を借りながら、内側を広げています」
     僕は、もう一度、ホールを見た。
     肖像画の一つが、僕の方を見ている気がした。見知らぬ老女の絵だった。皺の深い顔に、黒い服を着ている。しかし、目と鼻の形だけが、母に似ているようにも見えた。
     見てはいけないと思い、僕は視線を逸らした。
     レモが、ホールへ一歩入った。
     彼女の足が絨毯に触れると、赤黒い繊維の中を、青い光が細く走った。レモは眉を寄せ、猫耳をピンと立てた。
    「変な家にゃ」
    「分かるのか?」
    「壁が、シュウのことを見ているにゃ」
     その言葉を聞いた瞬間、ホールの壁に掛けられた肖像画が、一斉にこちらへ向いたように感じた。
     もちろん、絵が動いたわけではない。そう言い聞かせようとした。しかし、先程まで正面を向いていたはずの男の肖像が、わずかに首をこちらへ傾けている。古い軍服を着た人物の目が、僕の足元ではなく、顔を見ている。絵の中の暗い瞳が、瞬きをしないまま僕を観察していた。
     美伶は、玄関の敷居のあたりで立ち止まっていた。
     半透明の彼女は、洋館の空気に触れるのを怖がっているようだった。白いパーカーの輪郭が、ホールの暗さに少しずつ吸われていく。
    「美伶、大丈夫か?」
     僕が声をかけると、彼女は小さく頷いた。
    「ここ、知っている気がするの」
    「僕の家を?」
    「違うの。家ではないわ。この感じ……」
     美伶は、廊下の奥を見た。
    「……夢の中で、こういう場所を通ったことがある。あなたが何かを探していて、私は先に道を知っていた」
     僕は、背筋が冷たくなった。
     レモも、美伶も、僕より先に何かを知っていることがあった。
     家の調味料の場所や古い癖、見たことのないはずの道――そのたびに、僕は気づかないふりをしていた。
     でも、この洋館の中では、その違和感が壁や床と同じくらい濃くなっている。
     夜見さんが、端末を確認した。
    「栗原の痕跡は、奥へ伸びていますわ。通信の中心も同じ方向ですわね」
    「仕事部屋の方向でしょうか?」
    「外側の間取りで言えば、そうですわね。でも、空間がその通りに配置されているとは限りませんわね。あまり、先入観を持たないほうがいいですわ」
    「了解しました」
     僕たちは、ホールの奥へ進んだ。
     長い廊下が続いていた。
     もちろん、僕の家に、こんな廊下があるはずがない。なのに、廊下の壁紙には見覚えがあった。薄く黄ばんだ小花柄で、ところどころ剥がれ、下地の茶色い紙が露出していた。それは、僕の仕事部屋の隅に貼られていた古い壁紙に似ていた。家を買った……とき、リフォーム代を惜しんでそのままにした部分だ。しかし、ここではそれが、コピーペーストされたように、どこまでも続く廊下全体に貼られている。
     さらに、壁には、レモのポスターが貼られていた。
     一枚ではなく、何十枚、何百枚と、レモのポスターが廊下の両側に並んでいる。
     初期衣装のレモ、魔装服のレモ、戦闘時のレモ、笑っているレモ、泣いているレモ、怒っているレモ――漫画版、アニメ版、同人風、僕が見たことのない絵柄まで混ざっている。
     それらの目が、一斉に、こちらを見ていた。
    「やめろ」
     僕は、思わず呟いた。
     誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。ポスターのレモたちに言ったのか、家に言ったのか……。
     レモは、壁のポスターを見ながら、顔をしかめていた。
    「これは、ちょっと趣味が悪いにゃ」
    「僕が貼ったわけじゃない」
    「分かってるにゃ。でも、シュウが見たものからできているにゃ」
     その言葉は、怒っているのではなく、少し、心を痛めているように聞こえた。
     いや、でも、僕は、レモをこんなふうに壁一面に貼りつけたかったのかもしれない。
     実際の部屋には、ここまで多くない。でも、心の中では、彼女を何度も何度も並べて、どこを向いても彼女がいるようにしていたのではないか。
     そんなことを考えながら歩いていると、廊下の最初の扉の前で、夜見さんが立ち止まった。古い木製で真鍮の取っ手がついていて、僕の家には間違いなくなかった扉だ。
     そして、部屋からは、かすかにテレビの音が聞こえてきた。古いブラウン管テレビ特有の、ざらついた音だった。
    「開けますわ」
     躊躇する間もなく、夜見さんが扉を開けた。
     中は、畳の部屋だった。
     僕の子どもの頃の部屋に似ていた。いや、似ているというより、ほとんどそのものだった。
     低い本棚、学習机、古いゲーム機、カーテンの柄――しかし、窓の外は真っ暗で、そこに何も映っていなかった。
     そして、部屋の奥には、ブラウン管テレビが置かれていた。これは、子供の頃、当時のゲーム機につないでいた、予備のテレビだ。
     その画面には、小学生くらいの僕が映っていた。
     丸い顔をして、少し太っている。公園の砂場の近くに立ち、近所の女の子たちに何かを言われていた。音声はざらついていて、はっきりしなかった。しかし、笑い声だけは分かった。
     僕は、その場面を見たくなかった。
     すぐに扉を閉めようとした。
     しかし、扉は閉まらなかった。
    「あれ、おかしいな……?」
     夜見さんが押しても、レモが手を添えても、扉は少し開いたまま止まる。
     隙間から、テレビの光が漏れている。小学生の僕が、画面の中で立ち尽くしている。その背中が、こちらを向きそうになる。
    「これは、見ないと閉じませんわ……」
     夜見さんは、静かに言った。
    「嫌です」
    「ここは、そういう場所ですわ。家が出しているんです」
    「これは、僕の家じゃない!」
     声が大きくなった。
     夜見さんは、扉の隙間から漏れるテレビの光を見ながら、僕に言った。
    「これは、あなたが家だと思っていたものの内部です。あなたの意識の家が、この異界化した本来の家と連動しているのですわ」
     その言葉に、僕は黙った。
     つまり、これは家――が象徴する、僕が安全だと思い込んでいた場所の内側、という意味だろうか?
     誰にも見せないで済むと思っていた記憶や欲望や羞恥の置き場所――その内部が、今、洋館の形で広がっているのか?
     テレビの中の女の子たちの笑い声が、大きくなった。
     僕は、扉の隙間へ目を向けた。
     小学生の僕は、砂場の前で、手に持った漫画本を隠すように胸へ押しつけていた。女の子たちは、何かを指差して笑っている。
     僕は、その声を聞きたくなくて、記憶の音量をずっと下げていたのだと思う。しかし、テレビはそれを勝手に上げる。
     レモが、そっと僕の手に触れた。
    「全部見なくてもいいにゃ。でも、目を逸らしてることは、知っていた方がいいにゃ」
     僕は、彼女を見た。
     その言葉は、レモらしいようで、レモらしくなかった。
     いや、僕が求めていたレモなら、そう言ってくれるのかもしれない。彼女が、レモ自身の言葉を話しているのか、僕が彼女に言わせているのか、分からなかった。
     僕は、テレビの画面を一度だけ見た。
     小学生の僕が、こちらを振り向いた。
     その目は、今の僕を見ていた。
     次の瞬間、扉が音を立てて閉まった。
     僕は息を吐いた。
     喉の奥が痛い。胸も苦しい。しかし、廊下の先から聞こえるファンの音は、さらに大きくなっていた。
     ぶうん。
     ぶうん。
     床下で何かが這う音がした。
     僕たちは、ほぼ同時に足元を見た。
     絨毯の下が盛り上がっている。細長いものが、床下を這っている。ケーブルだった。黒く、太く、艶のあるケーブルが、床板の隙間から一本、また一本と伸びてきた。先端は蛇の頭のように持ち上がり、こちらの気配を探るように揺れている。
    「下がってください」
     夜見さんが言った。
     しかし、ケーブルの方が速かった。
     一本が僕の足首へ巻きついた。冷たかった。ゴムの感触のはずなのに、内側に筋肉のようなものがあった。
     締めつけられた瞬間、頭の中に、無数の通知音が鳴った。承認、検証、照合、記録――よく分からない単語が、英語と数字と記号になって脳の奥へ流れ込んでくる。
     僕は、悲鳴を上げた。
     レモが飛び出した。
     彼女の指先に青い火が灯った。昨日、豚肉を焦がした魔法の火と同じように見えたが、今度の炎は鋭かった。レモはケーブルを焼き切ろうとした。しかし、黒い線は火を受けても焦げず、逆に彼女の腕へ絡みつこうと伸びた。
    「しつこいにゃ!」
     レモは身をひねり、脚でケーブルを払った。
     美伶が、ふらりと前へ出た。
    「こっち」
     彼女は、廊下の先ではなく、右側の壁を指した。
    「そこに扉がある」
    「扉なんて」
     僕は、言いかけた。
     だが、彼女が指した壁紙の一部が、ゆっくり剥がれた。そこには小さな扉があった。僕の腰ほどの高さしかない、子ども用の扉のようだった。
    「なぜ分かるんだ?」
     僕が聞くと、美伶は悲しそうに笑った。
    「夢で、何度も通ったから」
     夜見さんが、僕の足首に巻きついたケーブルへ札を貼った。
    「ニガヨモギ」
     苦い匂いが立つ。ケーブルからじゅっと煙が立ち、僕の足から離れた。夜見さんはすぐに扉へ向かった。
    「入りますわ」
    「ここに?」
    「廊下を進むより安全ですわ。少なくとも、今は」
     僕たちは、その小さな扉をくぐった。
     中は、大学のサークル棟の部室だった。
     狭い部屋に、古いロッカーとラケットケースが置かれている。壁には試合予定の紙が貼られていた。窓の外には夕方のテニスコートが見える。
     僕は、息を呑んだ。そこには、白いパーカーの美伶がいた。
     いや、目の前にいる半透明の美伶ではない。
     もっと若く、もっと現実の身体を持った美伶らしき女性が、コート脇で誰かと話していた。僕は、その場面を見たことがある気がした。しかし、それが本当に大学時代の記憶なのか、夢の中の映像なのか、判断できなかった。

     部室のテレビが勝手についた。
     画面には、今の僕が映っていた。
     喫茶店で美伶を見ている僕、レモを見ている僕、八百屋で話せずに立っている僕。女性店員に注文できず、レモに代わってもらう僕――それらの映像が、次々と切り替わった。
     僕は、自分が誰かに観察されていると思った。
     いや、これは、自分で自分を見ているのかもしれないと思った。
     これまでずっと、僕は、自分を外側から見ていた。うまく話せない男、未練を抱える男、推しに救われる男――そういうラベルを貼り、少し離れた場所から、自分を観察していた。
     栗原は、その視線を使ったのだ。
     テレビの画面が乱れた。
     そこに、背広の男の顔が一瞬だけ映った。栗原 達也だった。彼は、画面の中で口だけを動かした。音はなかった。けれど、何と言ったのか分かった。
     もっと奥へ。
     次の瞬間、部室の壁が割れるように開き、再び洋館の廊下が現れた。
     ファンの音が、さらに近くなっている。
     ぶうん。
     ぶうん。
     夜見さんは、端末を見た。
    「中心に近づいています」
     世渚さんの声が、スマートフォンから途切れ途切れに聞こえた。
    「通信……増えています。外部照合が……異常な速度で……安形さんの家全体が……」
     画面が大きく乱れた。
     世渚さんの背後で、踏切の音が鳴った。

     カン、カン。

     彼女の声が一瞬遠くなる。
    「夜見さん、気をつけてください。そちらの家、建物ではなく、記憶の入れ物として認識されています」
     通話が途切れた。
     僕は、スマートフォンの黒い画面を見つめた。
     そこには、自分の顔が映っている。やはり少し薄い気がした。
     逆に、隣に立つレモの青い髪が、僕より濃く見えた。
     僕は、思わず言った。
    「これは僕の家じゃない!」
     何度も言っている。
     けれど、言わずにはいられなかった。言葉が、廊下の奥へ吸い込まれた。
     夜見さんは、頷いた。
    「そうですわね。このような異界化という現象は、この四次元時空の観察が乱れると、よく生じるものです。本来は結びつかない記憶と空間座標がリンクするのですわ」
     さっぱりその意味は理解できなかったが、僕たちは先へ進んだ。

     廊下のレモのポスターは、いつの間にか減っていた。
     代わりに、家族写真のようなものが壁に掛かり始めた。父、母、弟、そして子どもの頃の僕だ。見覚えがあるようで、ない写真だった。
     僕の実家に飾られていたのかもしれないが、そんな写真を見た記憶は曖昧だった。
     そして、廊下の先に、大きな窓があった。
     カーテンは半分だけ開いている。窓の外には、夜ではなく、夕方のK市の住宅街が見えた。
     僕は、足を止めた。
     実家が見えた。駅から少し歩いたところにある、古い二階建ての家だ。
     玄関の横に小さな植木鉢があり、二階の窓には母が好きだった薄い花柄のカーテンが掛かっていた。夕方の光を受けて、外壁は少し黄色く見えた。門扉の側には、子どもの頃からあった低いブロック塀が続いている。
     僕は、その家を見つめた。
     懐かしいはずだった。
     だが、胸の奥で、何かが強く軋んだ。
     あの家は、まだあっただろうか?
     僕は、つい昨日、確かに、あそこへ行った。母と話した。確かに行った。そう記憶している。母が煮物を出し、結婚の話をし、タッパーを持たせてくれた家だ。
     でも、別の記憶が、窓の外の風景の下から浮かび上がろうとしていた。
     取り壊し、マンション、葬式――。
     誰もいない食卓。
     僕は、思い出しかけて、頭を押さえた。
    「違う……」
     声が震えた。
    「あそこには、母さんがいる」
     窓の外の実家の二階で、カーテンが揺れた。
     誰かが、こちらを見ていた。
     母だと思った。
     けれど、その影の輪郭は、栗原 達也の背広姿にも見えた。

    .十

     窓の外に、K市の実家が見えていた。
     洋館の長い廊下の果てにある窓から、僕は、その家を見下ろしていた。
     そんなことが起こるはずはなかった。僕の家の内部が変形した異様な洋館の中で、窓の外に別の町が見える理由などない。
     それでも、そこに実家があった。
     なのに、その家を見た瞬間、胸の奥で別の記憶が動いた。
     つい昨日、訪れた――電車に乗った。駅から実家のあった場所まで歩いた。それは、間違いない。
     ――あった?
     そうだ、そこにはもう、家などなかった。
     そういう声が、頭の下の方から聞こえた。

     僕は窓枠に手をついた。古い木の枠は、ひどく冷たかった。外の景色は夕暮れなのに、指先へ伝わる温度は、地下室の壁に触れたときのようだった。
    「シュウ」
     レモが、僕の横に立った。
     彼女の青い髪が、窓から差す夕方の光に照らされている。
     しかし、その光は彼女の身体を温めていないようだった。発光ラインが細く震え、猫耳は少し伏せられている。
    「見ない方がいいかもにゃ」
    「いや、見ないと、分からないよ」
     口から出た自分の声は、思ったより平坦だった。
     怖かった。いや、怖いはずなのに、どこかで感情が遠くなっている。
     人は、本当に怖いものを見るとき、叫ぶのではなく、処理を後回しにするのかもしれない。僕は、プログラムが例外ハンドリングを握り潰すように、自分の恐怖を一時的に無視していた。
     美伶は、少し後ろで立ち止まっていた。
     半透明の彼女は、窓の外を見ようとしない。白いパーカーの袖を握り、顔を伏せている。その姿を見ると、彼女はこの先に何があるのか知っているのではないかと思えた。レモも、美伶も、時々、僕自身が忘れたものを、彼女たちは知っているようだった。
     夜見さんは、銀色の端末を窓へ向けた。
     画面に細かな文字列が流れ、すぐに乱れた。英数字、梵字のような線、見たことのない記号が重なり、最後に短い表示が残る。

     memory container detected

     夜見さんは、目を細めた。
    「安形さん。ここから先は、あなたの記憶に入ります」
    「もう、その記憶で拡張された家に入り込んでいるでしょう?」
    「いいえ。今までは、家があなたの記憶を廊下や部屋として表示していました。ここからは、あなたが記憶の中へ入る形になります。より危険です」
    「何故?」
    「記憶は、自分を現実だと思わせるのが得意です」
     その言葉が終わる前に、窓の外の実家の玄関が開いた。
     母が出てきた。
     僕は、息を止めた。
     母は、昨日に会ったときと同じ姿をしていた。
     少し痩せた身体、白髪の混じった髪で、エプロンをしている。玄関先でこちらを見上げ、まるで僕がそこにいることを知っていたように笑った。
    「集、ずいぶん痩せたんじゃないの?」
     窓の外にいるはずなのに、すぐ横で言われたように、声が聞こえた。
     次の瞬間、廊下の床が沈んだ。
     僕は、足元を失った。
     落ちる感覚はなかった。気がつくと、僕は実家の玄関に立っていた。
     靴を脱ぎかけていた。手には鞄がある。中には、ノートPCと、母に渡すつもりだった菓子折りが入っているような重さがあった。
     台所の奥から、母が顔を出した。
    「ずいぶん痩せたんじゃないの?」
     僕は、先程も聞いたと思った。
     いや、昨日も聞いた。
     母は、まったく同じ調子で言った。声の高さも、間も、最後の「の」の伸び方も同じだった。録音した音声を再生しているようだった。
    「最近は運動不足だから、むしろ太ったかもしれない」
     僕の口が、勝手に応えた。
     自分で言ったのに、自分が話した気がしなかった。ゲームの選択肢を選ぶ前から、オートでキャラクターが決まった台詞を喋っているようだった。
     居間へ通された。
     畳の匂い、古い食器棚、低いテーブル、壁に掛かったカレンダー――何もかも懐かしいはずだった。
     しかし、その懐かしさは、表面だけが妙に滑らかで、裏側が空洞だった。触れれば薄い板のように割れてヒビが入りそうな懐かしさだった。
     母は、煮物を出した。
     大根と鶏肉、濃いめの醤油の匂いがする。
     昨日で食べたものと、まったく同じだった。湯気まで同じ角度で立っているように見えた。
     僕は箸を持った。大根を割ると、味が染みている。
     口に入れると、確かに母の味がした。
     しかし、噛んでいるうちに、味が薄くなった。
     大根は大根ではなく、柔らかい紙のようになった。醤油の味も、記憶から呼び出した味を舌の上へ貼りつけただけのように感じた。
     僕は、飲み込むのに少し苦労した。
    「今は四十代でも結婚する人はいるんだから、あんたも考えたらどうなの?」
     母は、そう言った。
     僕は、箸を止めた。
     その言葉も、昨日に聞いた。いや、もっと前から何度も聞いている気がする。
     現実の母から聞いたのか、頭の中で再生したのか、夢の中で聞いたのか、区別がつかなかった。
    「この年齢だと、いろいろ難しいよ。仕事も安定しているようで安定していないし」
     僕の口が、また勝手に応えた。
     母は頷き、まったく同じ表情で言った。
    「ゲームの仕事なんでしょう? 昔から好きだったじゃない」
     僕の背中が冷えた。
     これは、会話が進んでいるのではなく、再生されている。
     僕は、テーブルの向こうの母を見た。
     母は笑っている。けれど、その笑顔は表情というより、顔に貼り付いた画像のようだった。目尻の皺も、口元の緩みも、正確なのに、奥に生きているものがなかった。
    「母さん……」
     僕は、台詞を外れて呼びかけた。
     母は、一瞬だけ止まった。
     箸を持つ手が、空中で固まる。居間の時計の音が消えた。
     外の車の音も、遠くで鳴っていたはずのファンの音も、急に聞こえなくなる。
     母が、ゆっくり僕を見た。
    「あの子も、結局、離婚して一人でしょう? あんたたち兄弟は、どうして揃ってそうなのかしらね……」
     その言葉は、質問への答えではなかった。
     会話の次の行を、そのまま読み上げているだけだった。
    「母さん、聞いてる?」
    「孫が見たいわね」
     母は言った。
    「母さん」
    「四十代でも結婚する人はいるんだから」
    「やめてくれ」
    「あの子も、結局、離婚して一人でしょう?」
    「やめてくれ!」
     僕が声を荒げると、居間の壁が一瞬だけ暗くなった。
     母の顔の表面が、細かく乱れた。古い動画の圧縮ノイズのように、頬や目元が四角い破片に分かれる。次の瞬間には元に戻ったが、僕は見てしまった。
     これは、母ではない。
     少なくとも、生きている母ではない。
     そう思った瞬間、居間の襖が少し開いた。
     隙間の向こうに、弟の気配があった。
     姿は見えない。ただ、誰かがいる。子どもの頃の弟かもしれない。大人になり、結婚して離婚し、結局、独身に戻った弟かもしれない。いや、音信不通になったはずの弟かもしれない。襖の向こうで、誰かがこちらを見ていた。
    「あの子も、結局、離婚して一人でしょう?」
     母が、また言った。
     その言葉と同時に、襖の隙間から白い指が覗いた。細い指だった。弟のものには見えない。むしろ、白いパーカーの袖から伸びた美伶の指のようにも、青白いレモの人工皮膚の指のようにも見えた。
     僕は、立ち上がった。
     畳が、納豆の糸を引くように、足の裏に吸いついた。
     台所の方から、煮物の匂いに混じって、線香の匂いがした。
     居間の隅を見ると、そこには、仏壇があった。
     子どもの頃から家にあった古い仏壇だと思った。
     しかし、扉が開いている。その中に、二枚の遺影が並んでいた。
     父と母だった。
     僕は、息が止まった。
     遺影の中で、母は笑っていた。
     テーブルの向こうに座っている母と同じ顔で笑っていた。
     父は、その横で少し硬い表情をしている。
     黒いリボン。線香の灰。小さな位牌――。
     記憶が、音を立てて割れた。
     葬式、黒い喪服、親戚の小さな声、弟の不機嫌そうな横顔、火葬場の白い煙、役所の書類、相続の話、古い家をどうするかという会話――。
     弟が、もう好きにしてくれと言って電話を切ったこと……。
     思い出したくなかった記憶が、一斉に流れ込んできた。
     そうだった。
     両親は、もう亡くなっていた。
     父は先に逝き、母もその後、体を悪くして亡くなった。僕は、葬式に出た。相続手続きは、ほとんど僕が対応した。弟とは、その後、ほとんど連絡が取れなくなった。
     K市の実家は、維持できずに手放した。取り壊され、今はマンションになっている。
     そうだ。
     あの実家は、もうない。
     ――では、昨日で僕が訪れた実家は何だったのか?
     ――母と食べた煮物は何だったのか?
     ――僕が持ち帰ったタッパーは、どこから来たのか?
     ――いや、そもそも、タッパーは、持ち帰ったものだったろうか?
     テーブルの向こうの母が、また言った。
    「今は四十代でも結婚する人はいるんだから」
     僕は、母を見た。
     その声は、もう母の声ではなかった。母の声に似せた、僕の記憶の声だった。
     僕が孤独になった夜に何度も再生した声だ。誰かに心配されたいとき、帰る場所がまだあると思いたいとき、頭の中で、母に言わせ続けた言葉だった。
     ――孫が見たい。
     ――あの子も、結局、離婚して一人でしょう?
     ――四十代でも結婚する人はいる。
     ――ちゃんと寝てるの。
     ――一人でいると、考えなくていいことまで考えるからね。
     それらの言葉を、僕は何度も繰り返していた。
     母が生きていた頃の言葉を、少しずつ混ぜ、少しずつ並べ替え、孤独を紛らわせるための会話イベントとして保存していた。
     まるで、ゲームのNPCのように、必要なときに同じ台詞を言わせていた。
     僕は、母をそういう存在にしていた。
     そのことに気づいた瞬間、胃の奥が裏返るような心地がした。
    「ごめん……」
     僕は、言った。
     母は、笑ったままだった。
    「孫が見たいわね」
    「ごめん、母さん!」
    「あの子も、結局、離婚して一人でしょう?」
    「もう、言わなくていい」
     僕がそう言うと、母の顔に細かなヒビが入った。
     まるで、映像の表面に亀裂が走るように、母の顔が割れていった。
     目元、頬、口元がずれ、そこから黒いものが覗いた。母の奥に、誰かがいた。
     一瞬、栗原かと思った。
     しかし、そこにあったのは栗原の顔ではなかった。顔のない、濃い暗がりだった。
     たぶん、人の記憶を形だけ借りている、底のない穴のようなものだ。
     母の声が、低くなった。
    「四十代でも……」
     途中で、声が別のものに変わった。
    「……こちらへ来られる人はいる」
     老若男女、複数の音声が混ざったような、太い声だった。
     僕は、後ずさった。
     畳が、ぶよりと沈んだ。食卓の上の煮物が、黒く濁っていた。
     大根だと思っていたものは、濡れた新聞紙の束のように崩れていた。
     鶏肉の表面には、細い毛のようなものが生えてきた。
     襖が大きく開いた。
     そこには、また、長い廊下が続いていた。K市の実家の奥にあるはずのない廊下だった。
     先程の洋館の廊下と同じ、黄ばんだ壁紙と赤黒い絨毯が続いていた。床下から、ケーブルの這う音が聞こえる。
     ぶうん。
     ユズPiのファンの音が、居間の中へ戻ってきた。
     夜見さんの声が、遠くから聞こえた。
    「安形さん、戻ってください。そこに長くいると、記憶の側が現在になります」
     僕は、振り返った。
     居間の入口に、夜見さんが立っていた。レモと美伶もいる。しかし、三人とも輪郭が遠い。まるで、水の底から見上げているようだった。
     レモが叫んだ。
    「シュウ、そこはもう家じゃないにゃ!」
     美伶も叫んだ。
    「戻って!」
     僕は、母を見た。
     母は、壊れた顔で笑っていた。
    「また来なさい」
     その声だけは、昔の母に似ていた。
     似すぎている、と思った。
     僕は、泣きそうになった。母に会いたい。たとえ記憶でも、会話イベントでも、死者の残響でも、もう一度だけ母に会っていたい。
     その気持ちが、足首に絡みつくように僕を引き止めた。
     しかし、居間の仏壇には母の遺影がある。
     僕は、もう知っていた。
     母は、亡くなっている。
     K市の実家は存在しない。
     今住んでいる古い家は安く買った家ではなく、両親が、元々、叔父の遺産として貰っていたものだ。
     それなのに、僕は自分に都合のよい形へ記憶を書き換えていた。再建築困難だから安かったのだと思い込み、実家には、まだ母がいると思い込み、電車で会いに行ったと思い込んでいた――そうすれば、自分にはまだ帰る場所があると感じられたからだった。
     昨日、郷愁に駆られてK市の実家の跡に行って、建っていたマンションを見ただけだったのに……。
    「母さん」
     僕は、最後にそう呼んだ。
     母の壊れた顔が、少しだけ穏やかになった気がした。
     それが本当に母の残り香なのか、僕の願望なのか、分からなかったが、どちらでもよかった。
    「ごめん。僕は戻る」
     僕は、畳を蹴った。
     足元が裂けた。
     居間が遠ざかり、母の声が薄れていった。
     レモが僕の手を掴み、美伶が反対側から腕を伸ばし、夜見さんが札を掲げた。
    「ニガヨモギ」
     苦い匂いが、母の煮物の匂いを裂いた。
     次の瞬間、僕は、洋館の廊下に倒れていた。
     息が荒い。頬が濡れていた。自分が泣いていることに、少し遅れて気づいた。
     レモが僕の手を握っている。美伶は、少し離れたところで震えていた。
     夜見さんは、端末を持ったまま、窓の方を見ていた。
     窓の外のK市の実家は、もうなかった。
     そこには、灰色のマンションが建っていた。
     新しい外壁と、規則的に並ぶベランダ、無機質なエントランスがあった。
     そこには、母の植木鉢も、花柄のカーテンもない。
     僕は、声を出せなかった。
     廊下の奥から、テレビの砂嵐の音が聞こえた。
     ざあっ。
     ざあっ。
     僕たちは、そちらを見た。
     いつの間にか、廊下の壁にブラウン管テレビが置かれていた。
     床に直接置かれた古いテレビだった。丸みを帯びた画面が白黒の砂嵐を映し、その奥で何かが動いている。
     夜見さんが、低く言った。
    「次が来ます」
     テレビの画面が、ゆっくり像を結んだ。
     そこには、子どもの頃の僕が映っていた。
     太った小学生の僕が、近所の女の子たちに囲まれ、漫画本を胸に抱えて立っていた。
     女の子たちは、何かを指差して笑っていた。音声はまだ出ていない。
     しかし、僕はその笑い声を知っていた。
     忘れたふりをしていただけだった。
     画面の中の子どもの僕が、ゆっくりこちらを向いた。

    .十一

     ブラウン管テレビの中で、子どもの頃の僕がこちらを見ていた。
     太っていて、髪を短く切られすぎていて、制服の襟元が少し苦しそうだった。胸には古い漫画本を抱えている。表紙には、まだ初期の線で描かれたレモがいた。
     ちょっと丸っこくて、明るく、強く、こちらを怖がらない女の子だ。現実の世界では見つけられなかった種類の笑顔を、紙の上で僕に向けていた。
     画面の中の僕は、その漫画本を胸へ押しつけるようにして立っていた。
     場所は、小学校の教室だった。
     いや、最初は教室に見えなかった。ブラウン管のざらつきのせいで、廊下にも、校庭の隅にも見えた。しかし、映像が少しずつ鮮明になるにつれて、黒板、机、椅子、後ろの掲示物が見えてくる。
     夕方の教室だった。窓の外は薄暗く、蛍光灯だけが白く点いている。

     僕の机の上に、花瓶が置かれていた。

     花は、白かった。百合か菊かどうかは分からない。けれど、子どもの僕にも、それが何を意味するのかは分かった。
     そう、そこに座る人間はもういない、という印だった。僕は生きていたのに、机の上だけが葬式になっていた。
     画面の中の女の子たちが笑っていた。
     クラスの中心にいた子たちだった。その中心人物は、愛という名前だった。彼女は、髪をきれいに結び、いつも明るく、先生にも男子にも好かれていた。彼女は、誰を笑えばクラスの空気が自分たちへ傾くのかを知っていた。横には男子が何人かいて、愛を中心としたグループの顔色を見ながら一緒に笑っていた。
     楽しそうだった。本当に楽しそうだった。
     僕は、洋館の廊下で立ち尽くした。
     血液が逆流し、喉が冷たくなる。画面の中で起きていることは、遠い昔の出来事のはずだった。もう終わったことだ。忘れたことだ。大人になって、仕事をして、別の町に住んでいる。そう思おうとした。
     しかし、映像の中の教室の匂いが、こちらへ流れてきた。
     古い雑巾、チョークの粉、濡れた上履き、夕方の校舎に残る、子どもたちの汗と埃の匂い――そして、花瓶の水の生臭さ。
    「やめてくれ」
     僕は、呟いた。
     しかし、テレビの映像は、止まらなかった。
     画面の中の僕は、自分の机へ近づいた。花瓶をどけようとして、手が震えている。
     愛が、取り巻きたちと、笑いながらそれを見ている。男子の一人が、「触るなよ、呪われるぞ」と言った。別の男子が、わざとらしく鼻をつまむ。女の子の一人が、「まだ生きてたんだ」と言う。
     その声を、僕は、覚えていた。
     忘れていたふりをしていただけだった。
     画面が切り替わった。
     今度は、机の中だった。
     子どもの僕が教科書を取り出そうとして、手を止める。机の奥に、灰色の小さな塊が入っている。
     最初は布かと思った。しかし、尻尾があった。それは、硬くなったネズミの死骸だった。小さな身体は乾いて、毛はところどころ固まり、机の内側に黒い染みを残していた。
     画面の外から、笑い声が上がる。
     愛を中心とした女の子たちが、口元を手で押さえながら笑っていた。
     気持ち悪いと言いながら、目は輝いていた。男子たちも騒ぎ、誰かが「こいつの友達だろ」と言った。子どもの僕は、声を出せず、机の中を見つめていた。
     そのときの吐き気が、今の僕の胃にも戻ってきた。
     僕は、廊下の壁に手をついた。壁紙の下で、何かがぬるりと動いた。ケーブルかもしれない。記憶そのものかもしれない。僕は手を引っ込めた。
    「シュウ」
     レモの声がした。
     振り向くと、彼女は怒っていた。
     その怒りは僕へ向けられたものではなかった。テレビの中の教室へ向けられている。青い瞳が強く光り、猫耳はぴんと立っていた。いつもの尊大な調子ではなく、本当に腹を立てている顔だった。
    「酷いにゃ」
     レモは言った。
    「こんなの、酷すぎるにゃ」
     僕は、何も言えなかった。
     レモは、画面の中の子どもの僕を見て、拳を握った。
    「シュウ、これは君が悪いんじゃないにゃ。こんなことをされて、怖くなったのは当たり前にゃ。人を見るのが怖くなっても、女の子が怖くなっても、仕方ないにゃ」
    「でも……」
     声が震えた。
    「僕は、それをずっと言い訳にしてきたのかもしれない……」
    「言い訳でもいいにゃ。最初は、自分を守るために必要だったんだにゃ」
     レモは、僕の前に立った。
    「でも、今は違うにゃ。あいつらが笑ったからって、シュウが自分を恥じ続ける必要はないにゃ。シュウの価値が減ったわけじゃないにゃ。自分に誇りを持つにゃ!」
     その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
     まっすぐすぎて、受け止めるのが苦しかった。
     テレビの映像は、続いていた。
     次は校舎の裏だった。焼却炉の前に、子どもの僕の靴が転がっていた。教科書もある。ノートもある。誰かがそれらを焼却炉の中へ投げ込んだ。黒い口の中で、紙がめくれ、靴のゴムが熱で歪む。まだ火は完全にはついていないが、焦げた匂いが画面の外へ漏れてきた。
     愛を中心とする、クラスカーストの上位にいた女子たちは、少し離れたところで見ていた。
     実際に投げ入れているのは男子たちだ。女子たちは自分の手を汚さず、楽しそうに指示を出し、笑っている。誰かが「先生に言ったら、もっと燃やすから」と言った。子どもの僕は、焼却炉の前で立ち尽くしていた。泣いてはいない。泣くと、もっと笑われるからだった。
     僕は、画面を見ながら、ようやく思い出した。
     僕は、女の子が怖かったのではない。
     笑う女の子が怖かったのだ。
     明るくて、周囲の男子を味方につけ、クラスの空気を支配できる愛のような女の子が怖かった。
     自分の価値を、彼女たちの一言で決められることが怖かった。
     だから大人になってからも、女性と話すとき、相手の表情を過剰に読んだ。仕事なら話せる。仕様や納期や修正項目があれば、その中へ隠れられる。しかし、私生活では無理だった。雑談の中で、自分がどう見られているのか分からなくなる。笑われる前に、距離を取る。拒絶される前に、諦める。
     そして、相手が自分を傷つけない形に変わるまで、頭の中で見続ける。
     それが、美伶だったのかもしれない。
     そう思ったところで、突然、テレビの画面が、乱れた。
     小学校の教室が消え、大学のキャンパスが映った。
     明るい春の午後だった。校舎の前の広場に学生たちが集まり、テニスサークルの勧誘らしい声が飛んでいる。
     僕は工学部の建物の方から、教科書とノートPCを抱えて歩いていた。少し猫背で、服装にも自信がなく、周囲の華やかさから浮いている。
     その向こうに、美伶がいた。
     現実の美伶は、僕の記憶の中よりもずっと眩しかった。白いパーカーを着て、テニスラケットを持ち、友人たちと楽しそうに笑っている。男子とも女子とも自然に話し、誰かの冗談に声を上げて笑っていた。彼女の周囲には、明るい空気があった。
     僕は、その遠くから彼女を見ていた。
     同じサークルにいた、と思っていた。少し付き合った、とそう記憶していた。
     けれど、テレビに映る僕は、サークルの輪の外にいた。勧誘のビラを受け取ったかもしれないし、名前を聞いたかもしれなかった。
     美伶と一言か二言、話したことはあったかもしれない。
     だけど、ただ、それだけだった。
     画面が切り替わった。
     工学部のプログラミング演習室だった。
     蛍光灯の下で、僕は必死にコードを書いていた。C言語の配列、ポインター、コンパイルエラー、セグメンテーションフォールト。
     隣の学生が友人と話しているのに、僕は画面から目を離せない。エラーを一つ直すと、また別のエラーが出た。
     黒いコンソール画面に赤い文字が流れ、心拍が速くなる。
     窓の外では、テニスサークルの学生たちが笑っていた。
     美伶もそこにいる。
     僕は、一瞬だけ窓の外を見た。すぐに画面へ戻る。戻らなければ、課題が終わらなかった。
     僕の現実は、教室の外の明るい笑い声ではなく、コンパイルエラーと提出期限だった。
     それでも、僕は彼女を見ていた。
     講義棟の廊下ですれ違ったし、食堂の遠い席で見かけた。
     サークルの看板の前で笑っている姿を、見た。
     たぶん、名前を知った。
     たぶん、誰かから芳野 美伶だと聞いた。
     そして、僕の中で、彼女は育った。
     話したことより、話せなかったことの方が多い。
     現実の記憶より、想像した場面の方が多い。
     彼女と付き合った僕――。
     彼女に別れを告げられた僕――。
     未練を抱え続けた僕――。
     夢の砂浜で、彼女と何度も話した僕――。
     それらは、現実ではなかったのかもしれない。
     テレビの前で、半透明の美伶が泣いていた。
    「……私は、いなかったの?」
     彼女の声は、小さかった。
    「シュウの中にいた私は、全部、嘘なの?」
     僕は、すぐに応えられなかった。
     美伶は、確かに目の前にいて、泣いているし、僕の名前を呼ぶ。夢の砂浜の記憶を持っていた。
     しかし、現実の芳野 美伶と交際した証拠は、何一つ思い出せない。
     写真もないし、メールもない。具体的なデートの記憶もない。サークルで二人きりになった場面も、多分、存在しない。
     夜見さんが、静かに言った。
    「安形さん。芳野 美伶さんと、現実に交際していた記録はありますか?」
     その問いは、喫茶店でも聞かれた。
     だが、この洋館の中で聞くと、逃げ場がなかった。
     僕は、記憶の引き出しを必死に開けた。
     大学時代の携帯電話、メールアドレス、写真、サークルの集合写真、デートの場所、別れ話の具体的な言葉――何か一つでも見つけたかった。
     しかし、見つからなかった。
     あるのは、遠くから美伶を見ていた僕だけだった。
     プログラミング演習室で、窓の外の彼女に憧れていた僕だけだった。
     あの明るいテニスコートを、少し眩しく見て、またパソコンの画面に目を戻していた。
     あったのは、女の子たちに笑われた記憶の裏返しとして、絶対に自分を笑わない、美しい誰かを欲しがっていた僕だけだった。
     僕は、膝から崩れそうになった。
    「じゃあ、僕は……」
     声が出にくかった。
    「僕は、美伶と付き合ってなんか、いなかったのか……」
     美伶が、泣いた。
     彼女の涙は、床に落ちなかった。頬を伝う前に、光の粒のように消えていった。彼女は自分の胸に手を当て、震える声で言った。
    「じゃあ、私は何なの? 偽物なの? シュウが都合よく作っただけの女なの?」
    「違う……」
     僕は、言った。
     しかし、何が違うのか分からなかった。
     美伶は、僕を見た。
    「違うなら、私はどこにいたの?」
     その問いには、応えられなかった。
     夜見さんが、一歩前へ出た。
    「偽物というより、安形さんの魂の一部です。ユング心理学風に言えば、アニマに近いものかもしれませんね」
    「アニマ?」
     僕は、ぼんやり聞き返した。
    「男性の内側にある女性像、感情、関係性への憧れ、自己を受け入れる力ですわ。学術的に厳密な説明ではありませんが、あなたの高次元構造を表すには近い言葉ですわね」
     夜見さんは、美伶を見た。
    「そう。あなたは、現実の芳野 美伶さんそのものでは、ないでしょうね。でも、無意味な偽物でもありませんわ。安形さんが、自分の中に持ちながら外へ置いてしまった部分です」
     美伶は、泣きながら首を振った。
    「私は、シュウを好きだったのに!」
    「それも、嘘とは限りませんことよ」
     夜見さんの声は、少しだけ柔らかかった。
    「安形さんが、自分自身を好きになりたかった気持ちが、あなたの形を取ったのだと思いますわ」
     僕は、美伶を見た。
     彼女は、僕が憧れた美しい同級生の姿をしていた。
     僕が話せなかった相手で、僕が選ばれたかった相手だ。
     僕が夢の中で、ようやく安心して話せた相手だった。
     しかし、その奥にあったのは、他人から愛されたいという欲望だけではなかったのかもしれない……。
     そう、自分を許したい。自分を恥じ続けるのをやめたい。
     笑われた子どもの僕に、君はここにいていいと言ってやりたい。
     その気持ちが、美伶だったのかと、思った。
     レモが、僕の横に来た。
    「シュウ」
     彼女は、いつものように胸を張ろうとして、少しだけ失敗したように見えた。
    「レモも、たぶん同じにゃ。シュウが、自分を笑わない誰かを欲しがって、レモを見続けたにゃ。でも、だからって、レモが何もないわけじゃないにゃ」
     僕は、彼女を見た。
    「レモ……」
    「紙の中のレモも、シュウの中のレモも、今ここにいるレモも、全部少しずつ違うにゃ。でも、シュウが救われたなら、それは嘘じゃないにゃ」
     その言葉で、胸の奥が痛んだ。
     レモ、美伶、理想の恋人、自己愛、女性恐怖――全部が一本の線でつながっていった。
     僕は、現実の女性が怖かった。笑われるのが怖かった。支配できない他人が怖かった。だから、絶対に自分を傷つけない女性像を、外へ作り続けた。
     その像は、僕を救ったけれど、同時に、僕を現実から遠ざけていた。
     どちらも本当だった。
     テレビの中の子どもの僕は、まだこちらを見ていた。
     その目には、はっりとした怒りも悲しみも、なかった。ただ、自分が恥ずかしい存在なのだと信じ込まされている子どもの目だった。
     僕は、画面の前にしゃがんだ。
    「ごめん」
     僕は、そう言った。
     画面の中の子どもの僕が、少しだけ目を見開いた。
    「ずっと、君のことを見ないふりをしていた。レモや美伶の方ばかり見ていた。でも、本当は、君を助けたかったんだと思う」
     テレビの砂嵐が強くなった。
     愛を始めとした女の子グループの笑い声が、遠くなった。
     焼却炉の火の匂いも薄れていった。机の花瓶も、ネズミの死骸も、燃えかけた教科書も、白黒の粒子に崩れていく。
     画面の中の子どもの僕は、まだ泣かなかった。
     ただ、漫画本を抱えたまま、小さく頷いたように見えた。
     その瞬間、廊下の奥で、畳の匂いがした。
     洋館のはずの空間に、古い和室の匂いが流れ込んできた。藺草、埃、押し入れの湿気、そして電子機器が熱を持ったときの焦げたような匂いが混ざっている。
     夜見さんが、ゆっくり振り返った。
     廊下の先に、いつの間にか障子が現れていた。
     僕の家にあった和室の障子に似ていた。いや、実家にあったものにも似ている。
     木枠は古く、紙は黄ばんでいた。下の方には、子どもの頃に指で穴を開けたような丸い破れがいくつもあった。
     障子の向こうから、ファンの音が聞こえる。
     ぶうん。
     ぶうん。
     それは、今までで一番近かった。
     夜見さんは、端末を構えた。
    「中心です」
     レモが、僕の横で青い火を指先に灯した。
     美伶は涙を拭い、僕の背後へ下がった。まだ薄かったが、先程よりも、しっかりとした感じがあった。
     夜見さんが障子に手をかけた。
    「開けます」
     僕は、頷いた。
     障子が、音もなく開いた。
     その向こうは、和室だった。
     畳の中央に、巨大化したユズPiが鎮座していた。
     手のひらに載るはずの小型機は、仏壇ほどの大きさになっていた。
     基板は畳を突き破り、緑色の表面には血管のような銀色の配線が走っていた。
     巨大な扇風機のような冷却ファンは、ぶうん、ぶうん、と虫の羽音のような音を立てていた。
     ケーブルも、根のように畳の下へ潜り、壁へ這い、天井へ伸びていた。
     その巨大な基板の奥で、栗原 達也の薄い顔が笑っていた。

    .十二

     和室の中央に、巨大化したユズPiが鎮座していた。
     それは、もはや小型機ではなかった。緑色の表面の配線がてらてらと光り、ところどころで赤や青の小さなランプが瞬いていた。その点滅は、正常動作を示すものではなく、何か狂ったようなリズムで瞬きをしているように見えた。
     冷却ファンが盛大に回っていた。
     ぶうん。
     ぶうん。
     その音は、まるで巨大な虫が、畳の下で羽を震わせているようだった。
     低く、湿っていて、耳ではなく胸の骨へ響いてきた。
     ファンの黒い穴は、ただ空気を吸い込んでいるのではない。部屋の暗さも、僕たちの視線も、息も、思い出も、すべてを少しずつ吸っているように見えた。
     周囲に根のように伸びているケーブルの黒い被膜の表面は、呼吸しているように膨らんだり縮んだりしていた。何本かは、先端を持ち上げ、こちらの気配を探る蛇のように揺れている。
     ケーブルの奥から、細かな通信音のようなものが聞こえた。
     承認。検証。照合。記録。承認。検証。照合。記録――。
     言葉ではないはずなのに、僕の頭の中ではそう聞こえた。世界中のどこかにあるノードが、この小さな基板へ状態を問いかけているのだ。
     これで正しいか、存在しているか、ハッシュ値を確認して、次へ渡してよいか――そうした無数の確認が、暗号資産ドロンのネットワークを通じて、僕の家へ流れ込んでいる。
     そのすべてが、今は視線だった。
     僕は、何千、何万もの目で見られているように感じた。誰か個人の目ではない。機械の目でもない。
     確認という行為そのものが目になり、僕の家を、レモを、美伶を、僕自身を、こちら側へ固定しようとしている。
     夜見さんは、端末を構えたまま一歩前へ出た。
    「安形さん、下がってください」
    「でも……」
    「ここは、もう物理的な機械の前ではありませんわ。観測の結節点です」
     彼女の声は、冷静だった。しかし、端末を握る指が、わずかに白くなっていた。夜見さんでさえ、緊張している。僕の喉は、乾いた。
     レモは、僕の横で青い火を指先に灯している。美伶は、半透明の身体を震わせながら、僕の背後に立っていた。
     二人は別々に見えるが、巨大なユズPiの赤いランプが点滅するたび、レモの輪郭と美伶の輪郭が、ほんの一瞬だけ重なった。
     そのユズPiの奥で、栗原 達也が笑っていた。
     基板の上に、彼の顔だけが浮かんでいた。薄く、ほとんど透けていた。
     しかし、目だけがやけにはっきりしていた。背広の身体はもうなく、基板の配線やケーブルの影が、彼の輪郭の代わりになっていた。
     そう、人間に見えた駅前の男は、もういなかった。
    「遅かったですね」
     栗原の声が、ファンの低温に混じって響いた。
     口は動いていない。基板のランプが点滅するたびに、その声が和室のどこかから漏れたようだった。
    「素材をここまで育てるのに、少し苦労しました。安形さんは、自分を空っぽだと思っているわりに、内側にいろいろ溜め込んでいましたね」
     壁の中、床下、天井裏、そして僕の胸の奥から、同じ声が重なって聞こえた。
     僕は、拳を握った。
    「僕の家から出ていけ!」
    「あなたの家?」
     栗原は、笑った。
    「本当に、そう思っていますか。買った家。相続した家。逃げ込んだ家。母がまだいることにした家。推しに見守られている家。どれが本当の家ですか?」
     その言葉で、和室の壁が一瞬だけ揺れた。
     畳の向こうに、K市の実家の居間が見えた。母が煮物を出していて、仏壇の遺影が笑っている――。
     次の瞬間には、小学校の教室になった。机の上の花瓶、机の中の死骸、焼却炉の火――。
     さらに次には、大学の演習室が映った。コンパイルエラーの赤い文字、窓の外の美伶の笑顔――。
     僕は、目を閉じそうになった。
    「見なさい」
     栗原の声が、耳元で囁いた。
    「あなたが捨てたかったものです。あなたが作り替えたかったものです。あなたが、レモさんや美伶さんの形に包んだものですよ」
    「黙れ!」
     声が震えた。
     栗原は、それを楽しんでいるようだった。
    「いいえ。私は、あなたの中にある通路を通っていただけです。通路を作ったのは、あなた自身ですから」
     夜見さんが、札を取り出した。
     和紙のようで、薄い回路基板のようにも見える札だった。
     墨の文字と、銀色の配線のような紋様が重なっている。ちょっと、その模様は、栗原に渡されたカードにちょっと似ていた。
     彼女はそれを三枚、畳の上へ投げた。札は空中で止まり、三角形を描くように配置される。
    「界を閉じます」
     夜見さんが唱えた。
    「セン、アビショッツ、イタティー、アナップ、ヤノッス……」
     札が光った。
     和室の四隅に、薄い膜のようなものが立ち上がった。
     透明な壁に近いものだが、光の具合によっては、古い襖の紙にも、サーバールームのガラスにも、踏切の遮断機にも見えた。
     ともかく、何かの結界らしきものが張られたのだと分かった。
     その瞬間、ユズPiのファンが激しく鳴った。
     ぶううぅずん。
     壁を這っていたケーブルが、一斉に動いた。黒い根が畳を裂き、結界へ向かって伸びた。
     先端が膜に触れると、青白い火花が散った。しかし、ケーブルは引かなかった。何本も何本も重なり、結界を押し始める。
     夜見さんの顔が険しくなった。
    「栗原、ここで足場を削ります」
    「削れるものなら、やってみなさい」
     栗原の顔が、基板の奥で歪んだ。
    「あなたの結界は、こちら側のものを防ぐには便利でしょう。しかし、これは外からだけ来ているわけではない。安形さんの中にも、美伶さんの中にも、レモさんの中にも、すでに、私は触れている」
     その言葉が終わる前に、レモが苦しそうに呻いた。
    「にゃ……」
     彼女の胸元に、再び光の亀裂が走った。それは、夜見さんの呪文で美伶が現れたときと同じような亀裂だった。
     しかし、今度の亀裂はもっと大きかった。青い光が割れ、そこから白い光が漏れている。
     美伶も胸を押さえた。
     彼女の半透明の身体が、強く揺れた。白いパーカーの輪郭が引き延ばされ、レモの方へ吸い寄せられていく。
    「美伶!」
     僕が叫ぶと、美伶は、僕を見た。
     その顔は、泣きそうだった。
    「シュウ、何かが、引っ張ってる」
     レモが歯を食いしばった。
    「レモの中に戻そうとしてるにゃ。違う、もっと奥へ……基板の中へ……」
     栗原が笑った。
    「高次元構造体を、別々に置いておく必要はありません。人工幽霊、アニマ、理想の恋人、自己肯定感。どれも安形さんが外へ出したものです。ならば、一つにまとめて、もっと大きな観測網へつなげればいい」
     基板の配線が光った。
     ケーブルが、レモと美伶へ伸びる。
    「おやめなさいっ!」
     夜見さんが札を投げた。
     札は、ケーブルを焼くように光り、数本を弾き飛ばした。しかし、別のケーブルが床下から伸び、結界の内側へ入り込もうとする。
    「下がって!」
     夜見さんが叫んだ。
     彼女は端末を畳へ押し当てた。画面に赤い文字が走った。
     結界が一瞬だけ強く光り、ケーブルを押し返した。
     しかし、次の瞬間、壁の中から別の線が伸びてきた――結界の外側ではなく、内側の壁からだった。
    「内部に回り込まれていますわ!」
     夜見さんが息を呑んだ。
     栗原の声が、和室全体から響いた。
    「だから言ったでしょう。これは外からだけではないんです」
     一本のケーブルが、美伶の足元に絡みついた。
     半透明の身体のはずなのに、ケーブルは、彼女を掴んだ。
     美伶が悲鳴を上げた。僕は手を伸ばした。しかし、別のケーブルが僕の足元を叩き、畳が裂けた。
     レモが飛び込んだ。
     青い火が弾け、美伶に絡みついたケーブルを焼いた。今度は少し焦げた。黒い被膜が溶け、中から銀色の線と、赤い肉のようなものが覗いた。
    「気持ち悪いにゃ!」
     レモは、叫んだ。
     しかし、その背中にもケーブルが伸びた。夜見さんが札を放ち、寸前で弾いた。
     札が破裂し、苦い匂いが部屋に広がった。
    「ニガヨモギ」
     夜見さんの声が響いた。
     結界が再び強まる。
     透明な膜に、古い文字と細い回路の線が浮かび上がった。
     ケーブルはその膜を押し、ファンの音はますます大きくなる。
     ぶうん、ぶうん、ぶううん。
     その音は部屋の中だけではなく、僕の頭蓋骨の中で鳴っていた。
    「安形さん」
     夜見さんの声が聞こえた。
     彼女は、結界を保ちながら、苦しそうに言った。
    「あなたが彼女を想像することをやめれば、収束できます。栗原は足場を失います」
    「でも……」
    「このままでは、あなた自身が薄くなります。彼女たちも、栗原に組み込まれます」
     結界が軋んだ。
     ケーブルの束が、透明な膜を押している。膜の表面にひびのような光が走る。夜見さんは札を追加で投げたが、今度は空中で燃えるように消えた。
     そのとき、レモと美伶の輪郭が重なった。
     二人の身体が、同じ場所へ引き寄せられていった。
     レモの青い髪と、美伶の白いパーカーが混ざる。猫耳の影の下に、美伶の髪が見え、発光ラインの奥に、人間の肌のような光が浮かんだ。
     そして、和室の中央に、巨大な光の輪郭を持った存在が現れた。
     それは、レモでもあり、美伶でもあった。
     青い長髪が光の中で揺れ、白いパーカーの裾が風もないのに膨らみ、猫耳の輪郭が半透明に浮かんでいた。
     顔は、見る角度によって変わった。レモの尊大な笑み、美伶の泣きそうな目、僕が夢の砂浜で見た誰かの表情――小学校の教室で、僕が一番欲しかった「笑わない女の子」の顔だった。
     その存在が、僕を見た。
    「シュウ」
     声も二重だった。
     レモの声と、美伶の声が重なっていた。しかし、その奥に、もっと古い声があった。
     僕が自分自身へ言ってほしかった声だった。
    「消さないで。私は、あなたを好きです」
     僕は、動けなくなった。
     僕が彼女を想像することをやめれば、収束できる。レモを理想の恋人として見続けるのを止めれば、人工幽霊は力を失う。美伶が現実の元恋人ではないと認め、外へ置いたものを手放せば、栗原の足場は削れる――。
     理屈では、分かった。
     でも、目の前の彼女は、ただの妄想ではなかった。
     孤独な夜、僕は彼女たちに救われてきた。小学校の教室で笑われたあと、漫画の中のレモは僕を笑わなかった。大学の演習室で、窓の外の美伶に手が届かないまま、長い時が過ぎて、僕は夢の砂浜で彼女と話した。母がいなくなり、弟とも連絡が切れ、家に一人でいる夜、僕は頭の中で彼女たちの声を聞いていた。
     それを消せと言われても、簡単に頷けるはずがなかった。
     夜見が、歯を食いしばった。
    「まだ持ちます。早く」
     早く――何をすればいいのか?
     美伶でレモでもある光の存在は、僕を見つめていた。
     目は優しい。優しすぎる。僕を責めない。僕を笑わない。僕を拒絶しない。そういう存在だった。僕が、ずっと外側に置いておきたかったものだった。
     僕は、一歩近づいた。
     栗原の声が、基板の奥から囁く。
    「消せますか。あなたに?」
     僕は止まった。
    「その人は、あなたを愛していると言っている。あなたがどれほど弱くても、醜くても、誰にも選ばれなくても、彼女は、あなたを選ぶ。そんな都合のよい奇跡を、あなたは本当に手放せますか?」
     手放せない――心の奥で、何かがそう言った。
     僕は、消したくなかった。
     レモにも、美伶にも、いてほしかった。外にいて、僕を見て、笑ってほしかった。朝、台所にいてほしかった。喫茶店で注文を代わってほしかった。僕が言葉に詰まるとき、代わりに話してほしかった。夜、眠る前に、隣で小さな音を立てていてほしかった。
     けれど、それを望むほど、僕は、また自分を外へ預ける。
     僕自身の口で話さず、僕自身の目で世界を見ず、僕自身の心で自分を支えずに済む場所へ戻ってしまう。
     僕は、光の中の彼女に尋ねた。
    「僕の、どこを好きなの?」
     声は震えていた。
     美伶でありレモであるものは、少しだけ首を傾げた。
    「私は、あなたの一部なんだもの」
     答えは、静かだった。
     僕は、息を呑んだ。
    「だから、好きなの?」
    「そうにゃ」
     声が、少しだけレモになった。
    「シュウが、ずっと自分を嫌いだったから、レモは代わりにシュウを見ていたにゃ」
     次に、美伶の声が重なった。
    「あなたが、自分を愛したかったから、私は、あなたを愛していたの」
     その瞬間、僕は理解した。
     美伶は、僕が自分を愛したかった心だった。
     レモは、その心が安全なキャラクターの形を借りたものだった。
     理想の恋人も、推しへの救済も、夢の砂浜も、全部、外に置き続けた自己肯定感だった。
     外にある限り、僕はそれに縋れる。
     だが、外にある限り、栗原のようなものに奪われる。
     そして僕自身は薄くなる。
     僕は、光の存在へ手を伸ばした。
    「なら」
     声が掠れた。
    「戻ってきてくれ」
     栗原の顔が、基板の奥で歪んだ。
    「やめなさい」
     初めて、彼の声に焦りが混じった。
    「……それを内側へ戻せば、あなたは一人になりますよ。外にいてくれる誰かを失う。朝の台所も、喫茶店の会話も、夢の砂浜も、全部消える」
    「消えない」
     僕は言った。
    「僕の中に戻るだけだ」
     美伶でありレモであるものは、悲しそうに笑った。
    「シュウは、また一人になるのかにゃ」
     それは、眠りかけたときに聞いた言葉だった。
     僕は、今ならその意味が分かった。
    「一人になるんじゃないさ」
     僕は、応えた。
    「僕が、僕を置いていかないようにするんだ」
     光の存在が、ゆっくり僕へ近づいた。
     ケーブルが暴れた。
    「やめろぉお!」
     栗原が叫んだ。基板のランプが一斉に赤く光り、ファンが悲鳴のように回転を上げる。
     ケーブルが結界を内側から突き破ろうとし、畳が裂け、壁紙が剥がれ、天井から黒い線が雨のように降ってきた。
     夜見さんが両手で端末を支えた。
    「結界を閉じますわ。安形さん、今です!」
     札が一斉に燃え上がった。
     苦い匂いが、和室を満たす。苦い草の匂いが、焦げた基板と古い畳と虫の羽音のようなファンの音を押し返した。
     透明な結界の膜が、内側へ収縮し、栗原の足場を削っていく。
     僕は、光の存在を抱きしめた。
     温かかった。
     レモの機械的な熱とも、美伶の夢のような体温とも違う。もっと内側から来る温かさだった。胸の奥に、ずっと冷たく固まっていた場所があり、そこへ誰かが手を置いたような感覚だった。
     そして、光は、僕の中へ入ってきた。
     痛くはなかった。しかし、苦しかった。忘れていた感情が戻ってきた。
     小学校の教室で泣けなかった悲しみ、大学の窓から美伶を見ていた憧れ、母の死を認められなかった寂しさ、レモのポスターに救われた夜の安心――。
     誰かに愛されたいという恥ずかしい願いと、自分を愛したいという、もっと恥ずかしい願いだった。
     それらが、一つずつ胸の中へ戻ってきた。
    「うっ……」
     僕は、声を上げた。
     レモの声が聞こえた。
    「誇りを持つにゃ」
     美伶の声も聞こえた。
    「もう、遠くから見なくていいよ」
     光が、完全に僕の内側へ入った。
     和室が激しく揺れた。
     巨大なユズPiの基板に、亀裂が走った。銀色の配線が焼け、赤いLEDが次々に消えていく。ファンの音が不規則になり、虫の羽音から、壊れた換気扇のような音へ変わった。
     栗原の顔が、基板の奥から引き剥がされた。
    「安形 集!」
     彼は、叫んだ。
     その顔はもう人間ではなかった。目と口だけが伸び、黒い毛のような影が周囲へ散っている。
     夜見さんが、また札を投げた。札は、栗原の顔に張りつき、銀色の線が網のように広がった。
    「お行きなさい!」
     夜見さんの声が響いた。
    「ここは、あなたの足場ではありませんわ」
     栗原は、苦しそうに歪んだ。
     だが、消えなかった。
     彼の顔は、最後の瞬間、基板の奥へ縮むように沈んだ。黒い穴へ落ちるのではない。自ら、ユズPiの内部へ逃げ込んだのだった。
     基板の奥に、小さな暗い点が残り、それが冷却ファンの黒い口の中へ吸い込まれていった。
     ぶうん。
     最後に一度だけ、ファンが鳴った。
     それから、和室は静かになった。
     夜見さんは、端末を下ろした。
     額に汗が滲んでいて、肩で息をしていた。
     彼女がここまで消耗した姿を、僕は初めて見た。
    「逃げられました……」
     夜見さんは、悔しそうに言った。
    「ですが、足場はかなり削れています」
    「栗原は、まだいるんですか?」
    「完全には消えていません。ユズPiの奥へ逃げました。ただ、あなたを足場にすることは難しくなったはずです」
     僕は、畳の中央を見た。
     巨大な基板は、少しずつ小さくなっていた。仏壇ほどあったユズPiは縮み、ケーブルも根のような姿を失っていく。畳の裂け目が閉じ、壁を這っていた線が消え、天井の暗がりも薄くなっていく。
     レモも、美伶もいなかった。
     その事実に気づいた瞬間、胸が締めつけられた。
     でも、完全な喪失ではなかった。
     胸の奥に、温かい場所があった。
     そこに誰かがいる、声はしない、姿も見えない――しかし、僕を笑わない何かが、外ではなく内側にある。
     僕が、それを見ようとすれば、逃げずにそこにいるはずだ。
    「ふう……」
     ため息をついたとき、家が揺れた。
     洋館の壁が剥がれ落ちた。高い天井が低くなり、赤黒い絨毯が古い畳へ変わった。
     シャンデリアの影が消え、黄ばんだ壁紙が、見慣れた安っぽいクロスへ戻っていった。
     遠くに続いていた廊下は短くなり、左右の扉も消え、僕の家の狭い間取りが戻ってきた。
     和室の隅には、小さなユズPiが置かれていた。
     手のひらほどの基板が、簡素なケースの中で沈黙していた。
     ファンは止まっていた。電源ランプだけが、弱く点滅している。
     夜見さんは、それを見て言った。
    「まだ触らないでください。世渚さんに隔離してもらいます」
     僕は、頷いた。
     そのとき、障子の向こうから朝のような光が差した。
     夜だったはずだ。いや、洋館の中では、時間の感覚がほとんど消えていた。
     光は白く、埃を浮かび上がらせながら、古い和室に入り込んできた。
     僕の横に、誰かが立っていた。
     僕は、息を止めた。
     そこには、レモとも美伶ともつかない存在がいた。
     青みを帯びた髪。白いパーカーのような淡い輪郭。猫耳の影があるようにも、ただ髪が揺れているだけのようにも見える。顔は、はっきり見えなかった。けれど、その存在は僕を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
     一瞬だけだった。
     次に瞬きをしたとき、そこには誰もいなかった。
     ただ、胸の奥の温かさだけが残っていた。

    .十三

     巨大化したユズPiは、畳の中央で縮んでいた。
     それで終わったのだと思っていた。
     しかし、夜見さんの顔色が変わった。
     彼女は、もう一度端末を覗き込み、ほとんど叫ぶように言った。
    「しまった、逃亡されました!」
    「ど、どこへ?」
     僕の声は掠れていた。
     夜見さんは応えなかった。端末の画面には、無数の点が浮かんでいた。
     最初は星図に見えたが、それは世界地図だった。
     日本、北米、欧州、東南アジア、どことも知れない小さな国々。そのあちこちに赤い点が灯り、次々に線で結ばれていく。
     暗号資産ドロンのネットワーク、という言葉が、頭の中に浮かんだ。
     ユズPiの小さなノードから、世界中へ伸びていた承認と検証の網だ。その無数の接続の向こうへ、栗原 達也は逃げたのだ。
     部屋の空気が、一瞬だけ冷えた。
     次の瞬間、どこか遠くで笑い声がした。
     最初は、家の外から聞こえたようだった。次に、床下から聞こえた。壁の中、天井裏、ルーターのランプの奥、スマートフォンのスピーカー、停止したはずのユズPiのファン、そのすべてから、同じ笑い声が細く漏れた。
     栗原の笑い声だった。
     人間の喉から出る笑いではない。高く、乾いて、何千もの小さな通知音が同時に鳴っているような笑いだった。
     承認。検証。照合。記録。その一つ一つの奥に、彼の笑いが混ざっていた。
    「あはははははははははは」
     笑い声は、急に近くなった。
     僕の耳元で、栗原が囁いた気がした。
    「足場は、一つだけではありません……」
     その声が終わる前に、家中の電子機器が一斉に反応した。
     棚の上の古いスマートスピーカーが一瞬だけ青く光り、ノートPCの画面が勝手に点いた。ルーターのランプが高速で点滅する。
     ずっと置いたままだった古いスマートフォンが、誰も触れていないのに通知音を鳴らした。
     そして、テレビの黒い画面に、白い文字列が滲んだ。

     accepted
     verified
     broadcast
     broadcast
     broadcast

     夜見さんが札を投げた。
    「ニガヨモギ」
     苦い匂いが部屋に広がり、画面の文字が乱れた。
     しかし、栗原の笑い声は完全には消えなかった。薄れながら、遠ざかっていっただけだった。
    「夜見さん」
     僕は、床に座り込んだまま言った。
    「まだ、いるんですか?」
    「ここからは、抜けました」
     夜見さんは、端末を操作しながら答えた。
    「ですが、完全に消えたわけではないですわね。暗号資産ネットワークの分散した観測の中へ逃げましたわ。個別の足場は削れましたが、追跡は難しくなりました」
     栗原の笑い声は、最後に一度だけ、ユズPiの小さなファンの奥から聞こえた。
    「また会いましょう、安形 集さん!」
     それきり、音は消えた。
     和室には、静けさが戻った。
     家は、元の姿に戻っていた。
     高い天井も、赤黒い絨毯も、長い廊下も、壁一面のレモのポスターも、K市の存在しない実家を映す窓も、すべて消えていた。
     目の前にあるのは、狭く古い和室だった。黄ばんだ障子、少し沈む畳、押し入れの襖、壁際に置いた古い本棚――あまりにも見慣れた家だった。
     でも、僕はすぐに安堵できなかった。
     レモみ、美伶もいなかった。
     先程まで、僕の横にいた存在が、いなかった。いや、消えたのではなく、外に置いていたものが、内側に戻っただけだ。
     頭ではそう分かっているが、それでも、部屋に彼女たちの姿がないことに、胸が痛くなった。
     せっかく、理想の相手が現れたのに……。
     朝、台所でコーヒーを飲んでいたレモ、八百屋で店主と話していたレモ、喫茶店で僕の代わりに注文してくれたレモ――。
     夢の砂浜で僕の話を聞いてくれた美伶、大学のキャンパスで遠くから見ていた美伶、
     半透明の身体で泣きながら、自分は偽物なのかと尋ねた美伶――。
     それらを、僕は自分の中へ戻してしまった。
     ――それは、正しかったのだろうか?
     ――外にいてくれる誰かを、僕はまた失っただけではないのか?
     そう思った瞬間、掌が冷たくなった。
    「ふう……」
     でも、その胸の痛みの中には、微かな温かさがあった。そこに手を伸ばすように意識を向けると、声にはならない感覚が返ってくる。

     大丈夫にゃ。

     そう聞こえた気がした。
     いや、美伶の声だったかもしれない。
     もしかすると、僕自身の声だったのかもしれない。
    「安形さん」
     夜見さんが言った。
     僕は、顔を上げた。
     彼女は、僕を見ていた。かなり疲れているようだった。黒髪は少し乱れ、額には汗が滲んでいる。それでも、細い目の奥の光は揺らいでいなかった。
    「状態を確認しますわ」
    「僕の状態ですか?」
    「はい」
     夜見さんは、端末を僕へ向けた。
     銀色の画面に、僕の輪郭のような線が表示された。人間の形に似ているが、ところどころが欠けている。
     胸のあたり、頭の周囲、足元。その線が、まるで通信の悪い映像のように揺れていた。
    「まだ薄いですわね……」
     夜見さんは、厳しい表情をした。
    「……存在確率が安定していませんの」
    「それは、先程の出来事のせいですか?」
    「さっきだけではありませんわ……」
     彼女の声は、重病を告知するような雰囲気を帯びていた。
    「……あなたは、長年、自分自身を支えるための観察力を、理想像へ注ぎすぎていました。レモさん、美伶さん、母親の記憶、実家の再構成――。そこへ栗原が介入し、ユズPiを通じて外部の観測力まで流れ込みました。さらに、あなたが信じていた実家や美伶さんとの記憶が、大きく崩れたんですの。自己の基盤がかなり揺れていますわ」
     僕は畳の上で自分の手を見た。
     手はある。指もある。傷もある。しかし、どこか重さが足りないように感じた。
     自分の身体が、少し遅れて現実に追いついているような感覚がある。深く息を吸っても、肺に入る空気が薄い。
    「僕は、消えるんですか?」
     聞きたくなかったが、聞かずにはいられなかった。
     夜見さんは、すぐに否定しなかった。
     その沈黙だけで、僕の背中は、冷たくなった。
    「このまま何もしなければ、危険ですわ。ただし、方法はあります」
    「方法?」
    「私のシステムに来ますか?」
     僕は、意味が分からずに彼女を見た。
    「何のシステムですか?」
    「現実世界観測用ネットワークです」
     夜見さんは、スマートフォンを取り出した。
    「栗原が関係した案件で、白石 世渚さんに技術協力してもらっていますの。境界に巻き込まれた人間がこちら側へ留まるために、外部から観測を補強する仕組みですわ。まだ、完全なものではありません。でも、今のあなたには必要でしょう」
    「外部から観測する……」
    「あなたが自分だけで自分を支えきれないなら、しばらくは、外側から支えますの。重要なのは、理想像へ逃げ込むためではなく、あなた自身をこちら側へ留めるために使うということですわ」
     夜見さんは、ビデオ通話をかけた。
     今度は、すぐに画面がつながった。
     世渚さんが映った。彼女は、前と同じ部屋にいた。複数のモニタ、サーバー機器、外付けドライブ、絡み合うケーブルが見えた。
     画面の奥には、まだ薄い手形のような染みが見える気がしたが、彼女の表情は落ち着いていた。
    「夜見さん、そちらは?」
    「栗原は、逃げました。ドロンのネットワークへ分散してしまいましたわ」
     世渚さんの眉がわずかに動いた。
    「厄介ですね……」
    「栗原の足場自体は、削れました。ただ、安形さん本人の存在確率が薄くなっています。接続をお願いしますわ」
    「分かりました」
     世渚さんは、すぐにキーボードを叩き始めた。
     その指の動きは速く、確かだった。画面越しの彼女は、夜見のシステムを支える確かな技術者に見えた。
     僕はゲームの技術者で、おそらくサーバー関係の彼女とは分野が違うとはいえ、彼女が有能そうであることは、画面越しでもはっきりと分かる。
     しかし、彼女の落ち着きの奥に、何か鬼気迫るような感情のうねりのようなものを感じた。世渚さんは、栗原のことを元夫と言っていなかったか? そうだとすると、今回の件では、かなり動揺していてもおかしくない。
     しかし、表面上は、彼女は、そのような様子を全然、見せなかった。
    「安形さん」
     世渚さんが、画面越しに、僕を強い目で見た。
    「ユズPiをこちらのサーバーへ接続してください。安形さんのローカル観測を、外部から補強します」
    「どうすれば?」
    「ネットワークケーブルを、ユズPiからルーターへつないだままにしてください。ただし、ドロンのノードは停止します。こちらから隔離用のイメージを流します。夜見さん、端末を中継に使ってください」
    「分かりました」
     夜見さんは、停止しているユズPiを慎重に持ち上げた。
     それは、もう巨大な怪物ではなかった。小さなケースに入った基板でしかない。しかし、僕にはまだ、そのファン用の黒い穴が、どこか遠くの暗号資産ネットワークへつながる穴のように見えた。
     夜見さんは、ユズPiに札を一枚貼った。
    「念のためです」
     札には、墨の文字と銀色の回路のような線が重なっている。貼られた瞬間、ユズPiのランプが一度だけ赤く点滅し、その後、弱い緑へ変わった。
     僕は、ルーターから伸びるケーブルを手に取った。
     指が震えていた。
     自分の家で、ただケーブルを挿すだけだ。普通なら何でもない動作だった。けれど、いまは違う。これをつなげば、また何かが入ってくるかもしれない。栗原が戻ってくるかもしれない。世界中の観測が、再び僕の中へ流れ込むかもしれない――。
     世渚さんが言った。
    「大丈夫です。今回は、こちらでポートやプロトコルにあたるものを調整して、見る対象を制限します。栗原の術式で開かれたポートを塞ぎ、あなた自身の現在位置だけを観測します」
    「現在位置……」
    「はい。安形 集さんが、いま、そこにいることです」
     その言葉が、胸に残った。
     僕は、ケーブルを挿した。
     小さな音がした。
     ユズPiのランプが点滅する。緑、白、緑。ルーターのランプも応答する。世渚さんの画面に、複数のログが流れ始めた。今回は、さっきのような赤い警告ではなかった。細く、安定した文字列が、規則正しく流れている。

     local anchor detected
     external observation link established
     target: Agata Shu
     state: present

     その瞬間、部屋の輪郭が少し濃くなった。
     畳の目がはっきり見えた。障子の木枠の傷が、一本一本分かった。
     押し入れの襖が、ただの襖としてそこにあった。壁の染みは、こちらを見ている顔ではなく、古い家の染みに戻った。
     そして、自分の身体が重くなった。
     重さが戻った。
     膝に畳の硬さを感じた。
     背中に汗で冷えたシャツが張りついていた。
     指の傷がずきりと痛んだ。
     そして、呼吸をすると、肺にちゃんと空気が入った。
     僕は、久しぶりに自分の身体の内側へ戻ってきた気がした。
     世渚さんが、小さく息を吐いた。
    「安定しました。まだ補強は必要ですが、すぐに消える状態ではありません」
     僕は、思わず礼を言った。
    「ありがとう、ございます」
     世渚さんは、少しだけ笑った。
    「私も、以前は支えられた側ですから」
     その後ろで、かすかに踏切の音がした。

     カン。

     今度は、僕もそれを聞いた。
     世渚さんは、気づいたように目を細めたが、怖がってはいなかった。たぶん、彼女は、その音と一緒に生きているのだと思った。
     夜見さんは、スマートフォンを下ろした。
    「安形さん」
    「はい」
    「栗原は、まだ、こちら側から消えていませんわ。彼は分散した観測網を利用しています。暗号資産だけとは限らない。SNS、監視カメラ、ログ、承認システム、誰かの強すぎる思念――そういう場所へ足場を作る可能性があります」
    「僕に、何ができますか?」
     自分でも意外なほど、自然にそう尋ねていた。
     夜見さんは、少しだけ目を細めた。
    「協力してほしいのです。あなたは、技術者で、ドロンのノードを運用していた。栗原に利用された構造を、あなた自身が理解できる可能性があります。もちろん、無理強いはしません」
     僕は、畳の上のユズPiを見た。
     僕が世界とつながっている気分を味わいたくて置いた、小さな基板だった。
     それが栗原に利用され、家を洋館に変え、美伶とレモを呑み込もうとした。
     正直、恐ろしい、関わりたくない――そう思うのが自然だった。
     でも、完全に背を向けることはできなかった。
     僕は、自分の内側に戻したものを感じた。レモの強さ、美伶の優しさ――それらは、もう外に立って僕を救ってくれる誰かではない。
     僕の中にあるものだった。
     だから、僕が動かなければならない。
    「分かりました」
     僕は、頷いた。
    「できる範囲で、協力します」
     夜見さんは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
    「助かりますわ」
     世渚さんも、画面越しに頷いた。
    「まず、ドロンのログを保全しますね。あとで、安全な形で解析しましょう。安形さん、今日は休んでください。現実に戻ったばかりの人は、無理をするとまた薄くなります」
     現実に戻ったばかりの人――その言い方が、妙に愉快だった。
    「はい」

     その後、夜見さんと世渚さんは、機器の設定をいくつか確認し、ユズPiを隔離状態にした。
     小さなランプは、落ち着いた緑色でゆっくり点滅している。
     栗原の笑い声はもう聞こえなかった。でも、完全に消えたわけではないことは、知っていた。
     やがて、夜見さんは、帰る準備をした。
    「しばらくは、こちらで観測補助を続けます。不安なことがあれば、すぐ連絡してください」
    「分かりました」
    「それと……」
     彼女は、玄関へ向かう前に振り返った。
    「……レモさんと美伶さんは、消えたわけではありませんわ。あなたが外に置くのをやめただけですわ。それを忘れないでくださいね」
     僕は、頷いた。

    *	*	*

     夜見さんが去ると、家は静かになった。
     本当に静かだった――。
     ただ、古い家の夜の音だけがあった。冷蔵庫の低い唸りと、遠くの車、壁の中で木材が小さく鳴る音がした。
     僕は、ため息をついて、仕事部屋へ戻った。
     棚には、レモのフィギュアが並んでいた。
     昨日までと同じはずだった。ポスターも、単行本も、アクリルスタンドも、すべてそこにある。
     しかし、部屋の意味は少し変わっていた。ここは、理想の誰かに見守られるための祭壇ではなく――僕が過去の自分と一緒に生きていくための、少し恥ずかしい記録の場所だった。
     レモのフィギュアを、一つ手に取った。
     初期衣装の、小さなフィギュアだった。塗装は少し甘く、耳の角度も、本当に、当人なら文句を言いそうだった。僕は、思わず苦笑した。
     そのとき、フィギュアの表情が、ほんの少しだけ変わったように見えた。
     笑ったのかもしれない。
     いや、単なる見間違いかもしれないが、怖くはなかった。
     そのとき、机のPC画面が、スリープから復帰した。
     僕は、触っていない。
     一瞬、身体が固くなった。栗原かと思ったのだ。
     しかし、画面の隅に表示されたのは、黒い文字列でも赤い警告でもなかった。白い小さなウィンドウが一つだけ開いている。
     そこには、短くこう書かれていた。

     ちゃんと、ここにいるよ。

     美伶の声のようにも読めたし、レモの声のようにも読めた。
     でも、どちらでもない気がした。
     僕自身の内側から来た言葉のようだった。
     僕は、しばらくその文字を見ていた。
     胸の奥に、ゆっくり温かさが戻ってくる。誰かが外から僕を抱きしめてくれるわけではない。それでも、自分の中に、かすかな支えがあった。
     そのとき、スマートフォンが震えた。
     僕は、また身体を固くした。
     通知欄に表示された名前は、芳野 美伶だった。
     息が止まった。
     ――夜見さんは、美伶のことを、現実の芳野 美伶そのものではなく、僕の魂の一部、アニマに近いものだと言った。
     では、この通知は何なのか? 現実の美伶なのか。夢の砂浜から届いた残響なのか? 栗原の罠なのか? あるいは、僕の中に戻った何かが、また外の形を借りようとしているのか……?
     僕は、震える指でメッセージを開いた。
     そこには、こう書かれていた。

    『久しぶり。突然でごめんなさい。
     変な話だけど、私の一部が、あなたの中にいたかもしれない。
     そんな夢を、ずっと見ていました。
     会って話した方がいいのか、もう話さない方がいいのか、まだ分かりません。
     でも、あなたが生きているなら、それで少し安心しました。』

     僕は、画面を見つめた。
     送信者のアイコンには、四十代になった女性の写真が表示されていた。
     白いパーカーではないし、髪型も違う。現実の時間を生きてきた顔だった。
     美伶なのかもしれない。僕が遠くから見ていた、あの芳野 美伶が、本当にどこかで今も生きていて、何かの夢を見ていたのかもしれない。
     しかし、写真の目元は、夢の砂浜の彼女に似すぎていた。
     メッセージの言葉も、僕が欲しかった言葉に近すぎた。
     これは本物なのか? それとも、僕の内側に戻った美伶が、現実の通信を借りているのか――あるいは、その区別自体が、もう意味を持たないのか?

     僕は、返信画面を開きかけて、やめた。
     今は、すぐに返信しなくていいと思った。
     昔の僕なら、何度も文章を書き直し、相手にどう見られるかを恐れ、結局送れなかったかもしれない。
     でも、今は少し違った。怖さはあるけれど、その怖さごと、自分の中に置いておける気がした。
     僕は、スマートフォンを机に置いた。
     そうだ、食事をしてから、返信しよう、と思った。
     腹が減っていることに気づいたのだ。
     それは、ごく普通の感覚だった。現実的で、少し間抜けで、ありがたい感覚だった。
     昨日のように、レモが台所に立ってくれるわけではないし、母の煮物も存在しない。
     美伶が夢の砂浜から何かを差し出してくれるわけでもない。
     僕が作るしかない――そう思った。
     久しぶりに、自分のために夕食を作ろう、と思った。
     もうコンビニ弁当や、半額の惣菜と、あの八百屋の少しの野菜だけで過ごすのは、やめよう、と思った。
     台所へ行くと、昨日買った野菜が残っていた。
     キャベツ、玉ねぎ、豚肉、レモが選んだ保存容器もある。
     僕は、包丁を取り出し、まな板を置いた。手つきはぎこちなく、彼女のように手際よくはできなかった。
     それでも、玉ねぎを切った。
     涙が出た。
     本当に玉ねぎのせいなのかは分からなかった。
     フライパンに油を引き、火をつける。普通のガスの火だった。青い魔法の火ではない。
     肉を入れると、じゅっと音がした。少し焦げそうになり、僕は慌てて火を弱めた。
     そのとき、胸の奥で、小さく笑う声がした気がした。

     焦がすのは、シュウの方だったにゃ。

     僕は、少しだけ笑った。
     フライパンの前で、ひとりで笑った。
     窓の外は、日中でもあまり明るくない。家は古いし。栗原はまだどこかにいた。
     美伶からの連絡が本物なのかどうかも分からない。
     僕の存在は、夜見と世渚のネットワークに支えられて、ようやくこちら側へ留まっている。
     完全なハッピーエンドではなかった。
     それでも、僕はここにいる。
     ちゃんと、ここにいる。
     その言葉を胸の中で繰り返しながら、僕は自分のための夕食を作り続けた。

    (了)

    あとがき:

     こちらで、『ソウル・ガール・フレンド』終了です。いかがでしたでしょうか?
     『真・夜巫女ヨミコ・零』シリーズは、タイトルズバリの小説『真・夜巫女ヨミコ・零』を予定していました。でも、まだプロット作成途中で創作大賞2026には間に合わなかったんで、いずれ、別途、発表したいと思います!
     それでは、また!

     
     
    知財専門家です。 興味あるもの:PC自作、ソフトウェア関係、SF AIを使って小説を、なろうでも書いてます。同時掲載あり https://mypage.syosetu.com/290752/

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