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創作大賞2026応募作【中学盛日記~生きることに盛んだったあの頃】

    【本記事は創作大賞2026エッセイ部門応募作です】


    「あたし、あんた、きらい」

    すれ違いざまにこう言われて耳を疑った。

    そう言ってきたのは、隣のクラスの女。

    45年経った今でも忘れもしない。

    中学校の廊下━1階の昇降口にほど近い消火栓のところで、いつも一緒にいる髪の長いコと談笑していたその女は、横を通りがかった私に、いきなりその言葉を浴びせたのだ━。

    強烈な出会いは、今でも語り草。

    まさか、”この女”が私の親友になろうとは、お釈迦様でも知らぬがホットケーキミックス、くすっ(伊賀野カバ丸風)。

    これは、昭和に生まれ、昭和に育ち、昭和の内に成人した私の、思い出の宝箱であり、笑撃の、ほぼ実話。

    ”不特定多数が見るブログには書きづらい。しかし墓場まで持っていくにはあまりに惜しい”話である。

    THE梅岡理恵(仮名)という女

    経緯不明の親友誕生


    中学の時、私は親の都合で転校した。

    浮いている自覚はあったが、そんなことは構っちゃいられなかった。

    英語の教科書が前の学校とは違っていたことで、大パニックだったから。

    それに、浮いている転校生とはいえ、関西弁の響きが飛び交う中、なぜか私の周りには、関西なまりのあまりない生徒たちがいて、心細い思いをせずにすんでいた。

    梅岡理恵(仮名)との出会いは強烈で、第一声が「あんた、きらい」。

    クラスも違えば、話したことすらない人物に、そんなことを言われた私はとっさに、
    「なにこの子……おもしろい!」
    と思ってしまった。

    なぜか憎めなかった。

    梅岡理恵も関西なまりがなく、聞けば私と同じ県から、小学生の時に転校してきたのだという。

    さて、何をどうしてそうなったのか、そのキャラ立ち爆裂の梅岡理恵と、ある日自宅の方向も違うのに、一緒に帰ることになる。

    帰る、という名目で、私の家に「寄り道」した彼女を部屋へ通し、紅茶を台所で用意して戻ると、梅岡理恵は勉強机の椅子に座って、なんと私の日記を読んでいた。

    「な……」

    言葉を失っている私を後目に、椅子を左右に回しながら悪びれもせず、日記を元に戻した。

    しかも、書いてある内容に言及したので、さすがの私も腹を立てたが、

    「いっただきまーす」

    と紅茶を飲み、

    「そーいえばさーあ」

    と話し出す梅岡に、やっぱり言葉を失ったままだった。

    そのうちにごろごろと床に寝ころびだし、挙句の果てに、

    「かゆーい、リアンちゃんの家、顔がかゆくなる」

    と顔を搔き始めた。

    当時、私の家には猫がいた。

    昭和のこのころ、「猫アレルギー」という言葉は一般的ではなかったため、わからなかったが、彼女は猫アレルギーだったのだ。

    そうとは知らず、人の家に来ておいて、勝手に寝ころび、顔が痒いとは失敬な、と思った私であった。


    海に叫んだことはありますか?センチメンタル・スガキヤガール


    ただ、私は梅岡といるのが楽であった。

    その当時は理解できていなかったが、梅岡は嘘がない人間だったのだ。

    嘘をつかない、のとは違うのだけれど、嫌なことは嫌といい、こうありたい自分を包み隠さないところが、私には気楽で、魅力的な部分だったのだと思う。


    ある日、梅岡は海へ行くという。

    私も行く、と言ってのこのこついていくと、彼女はまるで私なんぞいないかのように、そして少し怒っているかのように、スタコラ歩いてゆく。

    梅岡は、失恋したらしい。

    海へ行くのは、彼女のセンチメンタル・ジャーニーなのだ。

    海へ行くには電車に乗るが、その電車に乗るためにバスで街へ出なければならない。

    街に着いた梅岡が、前を向いたまま何かブツブツと呟き、突如入っていったのが寿がきや(=スガキヤ)だった。

    関東で生まれ育った私には馴染みのない店だったが、学生御用達のそのラーメン屋さんは、当時、一杯180円で、たまごも薄いチャーシューも入っていて、感激してしまった。

    なにより、味がなんとも癖になるおいしさ。

    煮干しととんこつ?ジャンクで、ノスタルジックで、ステキなハーモニー。

    ぽっかり空いた胸の奥に、詰め込む寿がきやラーメン食べさせる、そんな失恋レストラン?を後にして、いよいよ海へ向かう我ら中学生2人。

    海に着くと、梅岡は握りしめていたネックレスを砂浜へ埋めた。
    (不適切な表現が含まれておりますが、作品の時代背景を尊重し、オリジナルのまま記載します。)

    そしてやおらに顔をあげると、海へ向かって叫んだ。

    「ばかやろー!新田先輩の、ばかやろー!」

    私はワクワクして叫んだ。

    「バカヤロー!」

    これが、私の初めてのシャウトだった、かもしれない。

    私は後にロックバンドで歌いだすのでありました(笑)

    ひとしきり海で騒ぎ、電車で再び街へ戻ると、梅岡は

    「おなかすいた」

    と再び寿がきやへ。

    「え、また?」と思いながらも、当時の私は大食漢。

    ラーメン2杯くらい平気だし、なにより子供の財布にやさしい180円、喜んで半地下の寿がきやへ続く階段を降りて行ったのであった。

    かくして、私にとってデビューにしていきなり「追い寿がきや」体験となった。

    スガキヤラーメンは、今でもときどき無性に食べたくなる、わが青春の味、そして親友の失恋の味、なのである。


    梅岡伝説

    持て余したエネルギーの行方


    梅岡理恵(仮名)通称、ウメ。

    私の親友だが、私は皆と同じ「ウメ」とは呼ばず、「理恵ちゃん」と呼んでいた。

    それもそのうち、お互いが男子生徒のように苗字で呼び捨てるようになるのである。

    ある日の梅岡は興奮していた。

    それは、おらが町にファミリーレストランが出来て間もない頃のこと。

    梅岡は、勇敢にも一人でそのファミレスに挑んだのだそうだ。

    しかし、彼女の逆鱗に触れるような、何事かが起こり、店を出た梅岡はこう吐き捨てたそうだ。

    「つぶれてしまえ!」

    ファミレスデビューの武勇伝のように聞いていた私であったが、その約一週間後、本当にファミレスは潰れた。

    今思えば単なる経営不振だったのだろうが、この話は、「梅岡の呪い」「ウメを怒らせると恐ろしい目に遭う」と、しばらくは都市伝説のように語られるのであった。

    予測不能な女


    学校の帰り、公園に寄り道してダべリングを楽しんでいた私たち。

    なぜか、木枯らしの中、アイスクリームを2つも3つも食べながらダべる、ということが、当時の”流行り”となっていた。

    公園から商店街はほど近く、ダべりが温まってきたころにアイスを買いに行くのがお決まりのコース。

    ある日、アイスクリームを買った後、突然梅岡が私にアイスを押し付けて、

    「待ってー」

    と叫びながら駆け出して行った。

    渡されたアイスクリームを持って、唖然としながら梅岡の駆けていった方向をみると、男女二人連れと白い犬がいた。

    梅岡は一見、その白い犬を追いかけているようだったが、彼女が犬を飼っていないことを私は知っている。

    だから、それが「犬を追うフリ」なのだとすぐに察した。

    そしてそのまま、並んで歩く男女の間を割って入り、駆け抜けて行った。

    一周して戻った梅岡にアイスを渡すと、梅岡は一言

    「けっ。」

    と言った。

    刺身が食えないわたしたち


    ある日の梅岡は、噂話に興じていた。

    学年でも評判の不良、和美(仮名)についての噂で、彼女は高校生の彼氏ができたという内容であった。

    和美と同じクラスの梅岡は、和美本人から聞いたのか、それとも又聞きなのか、思春期にありがちな”ABC”の話題を興奮気味に語る。

    「でね、北公園で、暗くなってから、キ、キ、」

    ここまで言うと、堪えきれずに吹き出し、お腹を抱える梅岡。

    「キスしたんだってー!」

    きゃははと声を上げて笑う梅岡に、つられて笑ってはみたものの、はてどこがおもしろいのか?今でもピンとこない。

    分からないまま笑っていると、その後、さらに衝撃の一言を放つのである。

    「で、で、しっ…したっ…舌を入れたんだってー!おえー!げー!」

    涙すら流しながら笑う梅岡は、おかしいのか、苦しいのか、もうわけがわからない。

    ひとしきり笑って

    「もう、やだあ、刺身が食えない!って思ったァ」

    この後数ヶ月、私も刺身が食えなくなった。

    回覧板「富士見ロマン文庫」


    そのころ、氷室冴子が私たちの間で流行っていた。

    中でも『恋する女たち』にハマって、”葬式ごっこ”を真似てみたり。

    その『恋する女たち』の中に、恋する主人公が何があったか覚えていないが、とにかく、富士見ロマン文庫の『エロティックな7分間』を購入した場面があった。

    梅岡は、商店街の中にある書店でそれを見つけ、

    「表紙を表にして買ってやった」

    と自慢げにしたものの、その割に本そのものは読めなかったということで、じゃあ、私が読んでみようと借りた。10ページくらいしか読み進めなかった。

    そんな話を梅岡のクラスでしていると、それなあに?ってことで女子生徒が寄ってくる。

    「やだー、なにそれー」

    と言いながらも、じゃあ私も読んでみる、となり、かくして梅岡のクラスでは、ポルノ小説『エロティックな7分間』が回覧板のごとく、女生徒の間を回っていったのであった。

    黒山の人だかりの中心は


    ある日、梅岡のクラスを過ぎて、自分の教室に入ろうとした私は、梅岡のクラスの異様な熱気に気づく。

    男子生徒が団子になって騒いでいる中心をかき分けてみると、梅岡がいた。
    机には、ロリータポルノの写真集が開かれていた。

    「きれいでしょう?」

    とうっとりする梅岡に、

    「う、うん。きれいだね」

    としか返せなかった私であった。

    しかし、やはりその写真集も借りて帰った私であった。

    赤いブラウスの女


    出会ったころにはすでに、失恋を経験していた梅岡に後れを取ったが、私にも意識する男子が現れた。

    意識する、と言っても、彼の話には面白いものが多かったので、友達の延長線上のものだった。

    それでも「男子」を意識したわけで、いよいよ私もいろいろと有り余るエネルギーが、空回りを始めるのである。

    ある時、梅岡と私、他数人とその男子生徒の家に行くことになった。

    どういう経緯かは忘れたが、私服で遊びに行ったのだから、休みの日に待ち合わせて向かったのだろうと思う。

    当時は、まだおしゃれにも目覚めていなくて、男の子の家に行くのに、どんな服装がふさわしいのか、頭を悩ませた。

    つきあっている相手でもなく、また訪ねるのも1人で行くわけではないのだから、悩む必要はなかったのだが、そこは「意識」しているので悩むわけです、はい(笑)

    私は、母親の服装で、自分が気に入っているものを、思い浮かべた。

    親が似合っているなら、自分にも似合うだろう、という結論を出して、親の服を借りて着ていくことにした。

    梅岡と顔を合わせると、開口一番

    「赤いブラウスの女」

    と言い放った。

    当時、永島敏行主演の「赤い帽子の女」というポルノ映画があり、町のそこかしこにポスターが貼られていた。

    それになぞらえて、赤い、というか、臙脂色のブラウスを着た私を指したのである。

    一同爆笑。

    私はしばらく「赤いブラウスの女」呼ばわりをされた。

    思春期とは、時にとんでもなくズレたことをしてしまうものである。

    臙脂のブラウスを、イケてるとチョイスしてしまった己の渋すぎるセンスと、初恋もどきに、アデューしたい(笑)

    村下秀隆(仮名)くん、お元気ですか?


    梅岡とはその後、互いが親になるまで付き合いが続いたのに、私がアドレス帳を失くし、さらに同じころ、頻繁に電話をくれていた梅岡からの連絡も途絶えてしまったのだった。


    梅岡捜索大作戦

    途絶えた連絡、アドレス紛失。


    45年が経った今でも、彼女との思い出は信じられないほど色鮮やかだ。

    しかし、当時の私たちは知る由もない。

    やがてお互いの道が進むにつれ、音信不通になってしまう未来が待っていることを。

    彼女は今、どこでどうしているのだろう。

    思い出話で、彼女と「再会」する私。

    梅岡とは、学校をさぼり、ディスコに行って門前払いを食らったり、お酒やたばこをのんだり。

    (昭和の頃は、不良でなくともそういうことを早くからやっておりました。ダメですよ、ホントは)

    かと思うと、早朝ジョギングをしてみたり、学校のプール解放に足しげく通ってみたり。

    振り返れば、いつも梅岡と一緒にいたような気がする。

    結局中学時代は、一度も同じクラスになったことはなく、高校進学も別々、そのうち梅岡が、お家の都合で転校していってしまった。

    それでも、電話をくれた梅岡とは、互いが結婚し、子供が生まれ、という頃まで付き合いが続いていたのに、気づけばプッツリと音信が途絶えた。

    また、タイミングの悪いことに、私の方でも、梅岡の連絡先を記したアドレス帳を誤って処分してしまい、こちらから連絡を取ることも、出来なくなってしまっていた。

    今思えば、共通の友人に聞けばよかったことなのに、ナゼかその時は全く思いつかず。

    結局、その共通の友人と梅岡について話したのは、連絡が途絶えて何年も経ってからのことであった。

    梅岡のことだから、忘れたころに電話をくれるのではないか━?

    そんな期待も持っていたが、電話はおろか、年賀状すら届かぬままだった。

    ある時、中学時代の同窓会をするというのを小耳にはさむ。

    梅岡は、在学中から、中学の同窓会があったら必ず行く、行きたいと言っていたので、これは是非とも梅岡に知らせたい、知らせねば!

    と、私は当時広まりつつあった「インターネット」を駆使して(私なりに)、梅岡を探し始めた。

    果たして、梅岡本人が撮影された画像にたどり着くも、それが載っているサイトは個人ブログで、連絡のとりようもなかった。

    その後も、私はインターネットで梅岡を探したが、ヒットすることはもうなかった。


    音声配信から始まった奇跡


    月日は流れた。

    私は50代半ばで音声配信を始めた。

    そこで、梅岡の思い出をしゃべり始めると、バカウケなのである。

    こちらも、思い出の中とはいえ、梅岡と再会しているようでうれしくなり、つい調子に乗って、本人が聞いたら怒られちゃうな、なんていいながら梅岡との思い出話の暴露を止めなかった。

    すると、リスナーさんから
    「ウメちゃんを探しましょう」
    という声が上がるようになった。

    「私も是非、ウメちゃんに会ってみたい」
    「みんなで探せば見つかるのでは?」

    と、次から次へと出される提案に、私は胸が熱くなった。

    あれだけ探して見つからなかったのだ、もうこの世にいない可能性もある。


    しかし。


    しかし!

    皆さんに励まされ、私はもう一度梅岡を探す決心をした。

    さあ、今度はどこから探そうか。

    探偵ナイトスクープ、という提案もあったが、まずは自分でできること、ということで、インターネットで探してみることにした。

    すると、今度は一発で探し当てたのである。


    今思うと、私はいつのまにか、梅岡を知っている人を探していたが、この時は、しっかり梅岡理恵本人を探そうと心に決めていた。

    だから、拍子抜けするほどすぐに、探し当てられたのかもしれないと思っている。


    7月10日は地獄で仏記念日


    かくして、約25年ぶりに梅岡とネット上で再会を果たしたのだが、それがちょうど1年前の今頃、7月10日のことだ。

    本当に不思議、ミラクルとしか言いようがない出来事であった。

    ”再会”後、私たちは週に1,2度、数時間にわたってインターネットを通じて喋ることを、何週間も続けた。

    時は、80年代に戻った。

    積もり積もった話の中で、梅岡は私に言った。
    「それでこそ、小幡だよ」


    会話をするとき、私たちは思い出す。

    世界が自分を中心に回っていた、傍若無人な夏のことを。

    持て余したエネルギーを振りかざし、どこまでも進んでいけると信じていたあの頃を。

    私たちは、盛んに背伸びをした。

    小さい出来事を、大きく盛って騒いだ。

    生きるのに盛んだった━。

    私は今、時を経て、あの万能感と隣り合わせている。

    梅岡に再会する前の年にいろいろな出来事があって、私は人生をやめたくなっていた。

    まさに、生き地獄を味わっていた。

    その最中での梅岡との再会。

    これこそ、地獄で仏、地獄で梅岡理恵。


    ちなみに、初対面の「あんたきらい」については、梅岡は全く覚えていないらしい。

    電話の向こうで彼女は、
    「あんた、友達は選びなさいよ」
    と笑いながら言った。


     
     
    昭和に生まれ、昭和に育ち、昭和の内に成人した小幡リアンです。現在6つのブログを運営中。ブログには書けない、より個人的な思い出や毒舌な本音を有料限定の『裏メニュー』として綴っています。

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