続・吉原遊廓の絵葉書を読み解く(丸屋根の建物の正体)
丸屋根の建物の正体
時は明治後半。所は花の吉原の京町二丁目。
仲之町通りを間に挟んで、前方の京町一丁目を見つめているという絵柄。
右に進むと仲之町の茶屋と大門、左に進むと水道尻、吉原病院、といったところ。

絵葉書より

構図の中で目立つのは左側にある丸屋根の建物。周囲の建物より低く、一階の庇ほどの高さがある。色は白。形は、特徴的な丸屋根を持つ筒型で、窓があり、細長い板が横に張ってあるように見え、上には尖りが付いている。ピッケルハウベ(プロイセン軍の尖りのあるヘルメット)のようにもみえる。

前回の説明で交番所ではないかと書いたが、きちんと、この絵はがきの建物の正体を探ってみようと思う。
「吉原史話」の記述
国立国会図書館で当時のことが書かれている本を探す。歌舞伎役者 市川小太夫の「吉原史話」で同じ写真が使われていることに気がついた。
『京町二丁目から十字路の横の通りが仲の町。向うが京町一丁目。~左側の妓楼の格子先の角に自働電話のポックス~があり、向うの角には郵便ポストが立つている。右側の角に車屋の溜りがあって車夫が何か話をしているのが見える。この角を左へ曲って小半丁行くと吉原公園へ出て、突当りに吉原病院があります。軒の花のれんや右に桜の技が見えますから、夜桜時分の昼の廓風景です。』とすると、
と記述されている。とすると、交番所は間違いで、自働電話(後の公衆電話)だったのだろうか。
東京の絵葉書・古写真にある交番所
ここで古い絵葉書、古写真、絵画が役に立つ。まずは、明治時代の東京を写した絵葉書をネットで探ると、両国橋の橋詰に似たものがあった。

絵葉書より
この絵葉書は鉄橋となった両国橋を移しており、路面電車、大八車、手前は子供を背負ったご婦人。
その左側に同じ建物があった。絵葉書を入手して細かく見ると、両脇を電柱に挟まれているように写っており、右側の柱との間、丸屋根の庇の高さに黒い小さな丸が見える。
次を見てみよう。今もそうだが、当時も大きな橋の近くには交番所がある。明治時代の橋で探すと、永代橋東詰で、同じ形の交番所が設置されていることがわかった。巡査がいるのでわかりやすい。

山本松谷 画 ほか『明治東京名所図会』,講談社,1989.7. 国立国会図書館デジタルコレクション
さらに、こちらの古写真を見てほしい。ネットで交番所の写真を総当たりしたときにオークションサイトで 見つけて入手した古写真の複製ものだ。

古写真(複製)より
同じ形の建物に、巡査がいる。庇のあたりに黒い電球らしき物。書かれている文字は読みにくいが「日比谷警察署 常盤橋派出交番所」となっていた。
ということで、この丸屋根の建物は交番所だったのだ。
複数の事例が見つかることから、これは交番所で間違いないだろう。
なお、この「交番所」の名前の由来は、「交替で番をする所」ということから「交番所」と言われたようだ。入口の赤色灯は、赤色の提灯や六角柱型の紅色ガラスの中にろうそくや油で灯火していたものが交番所のシンボルとなり、これ以降、交番、駐在所の「赤い門灯」として定着したものだそうだ。絵葉書や写真に写る黒い丸は位置から考えてこの赤い門灯なのだろう。
他の写真で同じ交番所を見る
交番所を吉原内の古写真、絵葉書で見ることができないかとさらに国立国会図書館の書籍を探ってみると、明治44年(1911年)の雑誌グラヒック3(10)に写真があった。

『グラヒック』3(10),有楽社,1911-05. 国立国会図書館デジタルコレクション

冒頭の絵葉書とほぼ同じ向きの写真。目をこらすと中央の、京町二丁目の入り口辺りに、交番所がある。やや遠くから撮られたように思われる。白い衣裳の姿勢の良い人物が近くにいて、この人は巡査だったのかもしれない。
盛り場と交番所
幕府/政府は盛り場の治安を守る必要がある。江戸時代には 唯一の入口である大門を入ったすぐのところに町奉行所配下の与力同心、岡っ引きの詰所である面番所や、私設の四郎兵衛番所があった。遊女が廓の外に出ないよう切手(女通り手形)を改めるのは四郎兵衛の方である。明治の頃も大門近くだが廓の外側、五十間道に交番所があったことはわかっている。明治時代以降は、江戸時代とは違い、大門の反対側、水道尻に新たに道が開かれたため、この京町二丁目の交番所が設置されたのだろうと思う。
考察
さて、建物の謎は解けたが、冒頭に書いた内容に戻ると、「あれ? 市川小太夫さんは自働電話と書いていたのでは。」という点が残る。
まず、明治末期から大正時代にかけて、自働電話や交番所は京町近くにあったので、市川小太夫さんが幼少期から青年期にかけてその両方を目にしていた可能性は十分ある。
当時の自働電話と交番所は大きさ、形が似ていることもあり、モノクロの写真からは判別が難しい場合もあったと考えられる。文章の記述も当時の街並みの印象や記憶の重なりによるものだったのかもしれない。
次の記事で明治・大正期の自働電話についてもう調べて書いてみたいと思う。
