
もし下町工場の社長が、アダム・スミス、マルクス、ケインズを雇ったら【第4話ー会社の行く末】
【あらすじ】
三期連続赤字の精密部品メーカー・ミツワ製作所に、謎のコンサルティング会社が派遣してきたのは、二百年前に死んだはずの経済学者だった。アダム・スミスの「競争」で会社は蘇り、マルクスの「平等」で社員は満たされ、ケインズの「投資」で業績は過去最高を記録し、そして——。歴史上の天才たちの理論は、いつも正しく、いつも足りない。経済学の知識ゼロの製造課長・高橋は、理論が会社を変えていく過程で、二百年の経済思想史を身体で学んでいく。笑って学べて、最後に胸が熱くなる教養エンタメ小説。
全4話をこちらのマガジンに一括格納しています。
【第4話】振り子
ミツワ製作所は、完璧だった。
はずだった。
*
ケインズが去って八ヶ月後の、六月。梅雨の朝だった。
高橋はいつもの時間に出社した。傘を畳み、駐車場から工場棟を見上げて、足が止まった。
第二工場の窓が、暗い。
ラインが動いていない。朝八時で、動いていない。雨音だけが、動いている建物と止まった建物を、同じ音で叩いていた。
正面玄関を入ると、受付に誰もいなかった。食堂を覗く。社員が数人、コーヒーを前に座っている。始業のチャイムは五分前に鳴ったはずだった。鳴り終わっても、誰も立たなかった。湯気だけが、立っていた。
検査台の横の花瓶が、目に入った。
花が、枯れていた。
いつから枯れていたのか、分からなかった。新しい花を挿していた誰かが、挿さなくなってから、どれだけ経つのかも。
高橋は社長室に向かった。ノックした。返事がない。
開けた。
社長がデスクに座っていた。何もしていなかった。書類がない。パソコンは閉じている。ネクタイは締めていたが、結び目が曲がっていた。送別会の夜、三百人の前でハンカチも出さずに泣いた男と、同じ人間には見えなかった。
「社長」
「ああ。高橋くん」
声が、平らだった。
「第二工場、もうずっと動いてないですけど」
「うん」
社長は窓の外の雨を見た。
「何もないんだよ。何もかも、なくなったんだ」
高橋は社長室のドアを閉めた。廊下の壁に、ケインズの抽象画がまだ掛かっている。その横に、業界誌の切り抜き。「中堅精密部品メーカーの奇跡」。腕を組んだ社長の写真。半年前の紙の中で、社長は笑っていた。紙の中でだけ、まだ笑っていた。
*
何が起きたのか。
デスクに座って、高橋はこの八ヶ月を巻き戻した。
*
ケインズが去った直後の三ヶ月は、順調だった。
社長は第三工場の計画を進めた。土地の選定に入り、銀行に追加融資を打診した。「俺が作る」と言った通りに、ケインズなしで社長は動いた。第二工場は稼働し、医療機器向けの受注は堅調で、海外からの引き合いも続いていた。
最初の異音は、紙から聞こえた。
「課長。一つだけ報告します」木村が言った。「第三工場の融資、銀行が渋ってます」
「なんで。前は即日だったのに」
「前はケインズ先生が事業計画書を作ってました。今回は社長が一人で書いた計画書です。銀行が『需要予測の根拠が弱い』と」
高橋はあの美しい計画書を思い出した。読む人間の疑問が湧く順番に答えが並んでいた、会話のような書類。社長にはビジョンがあった。だが、ビジョンを銀行の言語に翻訳する頭脳は、ケインズのものだった。翻訳者が消えた計画書は、熱意の原文のまま、銀行の机に突き返された。
社長は三回書き直した。三回とも、返ってくる。四回目で、ようやく融資が通った。ただし金利は前より高く、返済期間は前より短い。同じ銀行の同じ支店長が、貸す金の値段だけを、静かに変えていた。
引っかかった。引っかかったが、融資は通った。通ったという事実が、引っかかりを上から塗り潰した。第三工場の建設が、始まった。
*
四ヶ月目。第二工場の受注が、頭打ちになった。
医療機器の市場は堅い。堅いが、大きくはない。田所メディカルとの取引は安定していたが、その先が伸びなかった。海外の引き合いは、為替が動いて二件が保留になった。三百人の会社が世界と繋がるというのは、世界の天気に濡れるということでもあった。
社長は、新しい投資を決めた。自動車部品の高精度ライン。二億円。
「二億は大きいです」と木村が言った。
「先生がいた頃も大きい投資をしてただろ」
「先生がいた頃は、投資のたびに新しい受注が来てました。今回は、受注の見込みが立つ前に投資してます」
「社長は見込みがあるって言ってる」
「社長の見込みと先生の見込みは、精度が違います」
高橋は黙った。ケインズの需要予測は、一つも外れなかった。社長の需要予測は——希望だった。希望と予測は、字面が似ているだけの別物だ。
だが社長は止まらない。デスクの引き出しには、あの名刺がある。需要を止めないでください。社長はそれを実践していた。誰よりも、忠実に。
五ヶ月目。投資の効果が、目に見えて鈍った。
一千五百万の最初の投資は、一ヶ月で受注になった。三千万は展示会で取引先を連れてきた。八千万の認証は海外市場を開き、一億五千万の第二工場は稼働と同時に注文が入った。そして二億の高精度ラインには——ほとんど、何も来なかった。
投資のやり方が悪くなったのではない。同じやり方だった。同じやり方で、返ってくるものだけが、投資のたびに減っていった。
考えてみれば、当たり前のことだった。最初の一千五百万は、止まっていた旋盤を動かした。埃の下で油を差され続けていた機械と、商社の向こうで眠っていた需要。掘れば出る場所を、最初の投資は掘った。掘り尽くせば、次はより深く、より固い場所を掘ることになる。同じ一円で買える需要が、確実に痩せていく。
ならば、止めればいい。
——そうは、ならなかった。
投資で作った需要は、投資が続いている限りの需要だった。第二工場の稼働も、増えた雇用も、膨らんだ受注も、すべてが投資の水位の上に浮かんでいる。水を止めれば、船ごと沈む。止めれば止まり、続ければ金が尽きる。進むも退くも塞がっている、ということの意味を、高橋は初めて、数字で理解した。
社長は、間違えていなかった。それが一番、恐ろしかった。需要を止めないでください——先生の言葉を、社長は忠実に実行した。そして忠実であることが、そのまま、出口のなさだった。
社員も、変わっていた。
「課長。佐藤が『次の仕事は何ですか』って聞いてきたんですけど」と田中が言った。
「うん」
「あいつ、前は自分で仕事を見つけてたでしょう。工具を三メートル動かしたのも、新ラインに手を挙げたのも、自分からだった」
「そうだな」
「今は、会社が仕事を用意してくれるのを待ってる。先生が作った空気だけが、先生が帰った後も残ってるんです」
田中は窓の外を見た。
「松葉杖を外したのに、松葉杖で歩く癖が抜けてない。自分の足で歩けるのに、杖がないと不安で、動けない」
高橋は返す言葉を持たなかった。きっと大丈夫ですよ、とあの人は言った。俺が作る、と社長は言った。大丈夫では、なかった。
*
六ヶ月目。キャッシュが尽きかけた。
社長は三度目の追加融資を申し込んだ。ケインズの計画書はもうない。社長が一人で書いた計画書だけがある。
銀行の支店長は、計画書を読み、顔を上げた。
「社長。率直に申し上げます。需要予測の根拠が、不足しています」
「前回は即日で承認していただいたじゃないですか。ビジョンに投資すると——」
「前回はケインズ先生の分析がございました。今回の計画書には——失礼ですが——希望が書かれています。希望と予測は、違います」
社長は、何も言えなかった。
帰りの車で、社長はずっとネクタイの結び目を触っていた。送別会の日と同じネクタイだった。
「高橋くん」
「はい」
「俺は先生なしで、何もできないのかな」
答えられなかった。仕様変更の三日間、受話器から手を離して自分で立ち上がった社長を、高橋は知っている。だがあのとき、ケインズは出張中なだけだった。戻ってくる先生と、もう戻らない先生。同じ不在でも、重さが違う。戻らないと分かった途端に、あの決断の背骨が、抜けていた。
その夜、残業の帰りに社長室の前を通った。明かりがついていて、ドアが少し開いていた。
社長がデスクで、名刺を見つめていた。ケインズの名刺。需要を止めないでください。
社長は名刺を裏返し、表にし、また裏返した。何度も。万年筆の一行の続きが、どこかに書いてあると信じているみたいに。だが名刺の裏は、白紙だった。この会社に来る名刺は、いつも裏が白紙だった。
高橋は、声をかけなかった。かけられなかった。
*
翌朝、木村が社長室に入った。高橋も同席した。
「社長。報告があります」
木村はノートパソコンを開いた。グラフが映る。売上と、投資額と、借入金。三本の線が、画面の中で交差していた。
「売上は横ばいです。投資額は伸び続けています。差額は、全て借入金です。現在の残高は——」
木村が数字を読んだ。社長の顔から血の気が引いた。
「このままのペースで投資を続けた場合、三ヶ月後に運転資金がショートします。国であれば紙幣を刷ることができますが——御社は、刷れません」
社長は長いあいだ、グラフを見ていた。三本の線が作る図形は、ケインズが万年筆で描いた右肩上がりとは、まったく違う形をしていた。
「第三工場は」
「凍結を推奨します」
「自動車部品のラインは」
「稼働を見合わせるべきです」
社長は目を閉じた。デスクの上の名刺に手を伸ばし、引き出しに、しまった。ゆっくりと。蓋を閉めるのと、同じ速度で。
*
翌朝の朝礼で、社長は言った。
「新規プロジェクトを、一時凍結します」
工場が、凍った。
社員の手が止まる。ラインが止まる。新プロジェクトのために積まれていた部材が、通路の途中で行き場を失った。段取り表の明日の欄が、白いままになった。
佐藤が高橋のデスクに来た。「課長、凍結って何ですか。俺、次のラインの準備してたんですけど」
「凍結は凍結だ」
「じゃあ俺、何すればいいんですか」
何すればいいんですか。高橋はその問いに、答えを持たなかった。持たないことよりも、佐藤がその問いを口にすること自体が、答えのように思えた。二年前、誰に言われるでもなく工具を三メートル動かした男が、何をすればいいか、人に聞いている。
工場を歩いた。第一工場のラインは動いている。昔からの取引先の仕事だけが、昔からの音で続いている。第二工場は半分止まり、第三工場は鉄骨だけが建って、窓のない骨組みが梅雨の空を透かしていた。降る雨を、遮る屋根がまだなかった。
社長は社長室にいた。何もしていなかった。
「経営の本質」と誌面で語った男が、曲がった結び目のまま座っている。第三工場の計画書が、棚の上に積まれたままになっている。
カリスマが、嘘だったのではない。決断は本物だった。銀行に頭を下げたのも、三百人の前で泣いたのも、まだ足りない、と言ったのも、全部本物だった。ただ、あの決断力は「動けば需要が来る」という時期の上に立っていた。動いても需要が来なくなったとき、この人から抜け落ちたのは、自信ではなかった。
足場だった。
*
HKAの担当者が来たのは、翌週だった。
いつものグレーのスーツ。いつもの無表情。「また、ご連絡します」——その言葉の通りに、連絡してきた。
受付で担当者の姿を見たとき、高橋は妙な感覚に襲われた。この二年で、会社は三回変わった。競争の工場になり、平等の工場になり、成長の工場になり、いま、止まった工場になっている。その全部の局面で、この男だけが一度も変わらなかった。同じスーツ、同じ声、同じ温度。崩壊の中で、グレーの背広だけが定点だった。
そして、足が止まった。
この男が歴史の続きを持ってくるのは、いつも、副作用が出たあとだった。
小会議室に、社長、高橋、田中、佐藤、木村が集まった。担当者が前に立つ。
「まず、ケインズ先生が去った後に何が起きたか——あるいは、いま御社で何が起きつつあるか——をお伝えします」
「先生の理論がもとになって、戦後の欧米は高度成長を遂げました。政府が積極的に投資し、公共事業を起こし、仕事を生み出した。二十年以上、経済は拡大し続けました」
「うちの最初の一年と同じですね」
「はい。そして二十年が過ぎた頃、問題が起きました。政府の支出が膨れ上がり、止められなくなった。支出を止めれば経済が止まる。だから止められない。だが続ければ、インフレが進む。一九七〇年代、インフレと不況が同時に来る、スタグフレーションという状態に陥りました」
「うちで言うと」高橋は言った。言いながら、答えはもう手の中にあった。「投資を止めたら工場が止まった。続けたらキャッシュが尽きた。同じ構造ですか」
「はい。国であれば紙幣を刷って時間を稼げます。一企業には、その手がありません。御社は国より早く、同じ壁に着きました」
社長は黙って聞いていた。デスクにいたときと同じ、何も映っていない目で。
「ケインズ先生は、この結末を知っていたんですか」
「いいえ。先生は一九四六年に亡くなっています。スタグフレーションは一九七〇年代です。先生は、自分の理論がどこまで有効で、どこから壊れるか、ご存じありません」
「知らないから、笑顔で帰れた」
「はい」
三人目も、同じだった。振り返らなかった人も、振り返った人も、手を振った人も——全員、自分の理論の続きを知らないまま、自信とともに帰っていった。残されるのはいつも、続きを引き受ける側の人間だった。窓の外で、梅雨の雨が同じ強さで降り続いていた。
*
担当者は一拍おいて、続けた。
「ここからが、本日お伝えしたいことです」
声の調子が、わずかに違った。無表情は無表情のまま、その下で何かが姿勢を正した気配があった。
「スタグフレーションに陥った欧米で、ケインズ先生の理論に代わる処方箋を出した経済学者がいます。ミルトン・フリードマンという人物です」
佐藤が小声で言った。「リザードマン?」
高橋が返した。「爬虫類じゃねえよ」
田中が少しだけ笑い、社長の口元も緩んだ。崩壊寸前の会議室で、一瞬だけ、空気がほどけた。
「フリードマン先生の考えは、こうです。——フリーランチはない。タダのものは存在しない。政府が需要を作ると言っても、その金は誰かが払っている。税金か、借金か、インフレか。必ず、誰かが負担している」
高橋はうなずいた。ケインズの投資の裏で、借入金が膨らんでいた。タダでは、なかった。三ヶ月後にショートする数字として、請求書はもう届いていた。
「処方箋はこうです。政府は手を引け。個人に自由と責任を返せ。規制を取り払い、市場に任せれば、経済は自律的に回復する」
「市場に任せる」高橋は繰り返した。
繰り返した瞬間、舌の上に既視感が残った。何かが引っかかる。引っかかったまま、言葉にならない。
先に言葉にしたのは、佐藤だった。
「それ、スミス先生と同じじゃないですか」
会議室が、静まった。
入社四年目の若手が、全員の胸の中にあったものを、そのまま口にした。担当者は佐藤を見た。少しの間があった。
「はい」
静かな一言だった。静かなまま、部屋の空気の成分を変える一言だった。
「構造は似ています。スミス先生もフリードマン先生も、自由な市場を信じている。競争を信じている。個人の判断を信じている」
田中が腕を組んだまま言った。「つまり、一周して戻ってきたってことですか」
「その通りです」
担当者はホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを外した。
線を、一本引いた。横に長い、ただの直線。左端に「自由」、右端に「規制」。
「経済学の歴史は、振り子です」
「スミス先生。十八世紀。自由な市場に任せろ。振り子が左に振れた」左端の近くに、スミス、と書く。「結果、産業革命が起きた。国は豊かになった。同時に、労働者が壊れた。振り子が、行きすぎた」
「マルクス先生。十九世紀。労働者を解放しろ。振り子が右に振れた」右端の近くに、マルクス。「結果、ソ連ができた。格差は消えた。同時に、誰も動かなくなった。行きすぎた」
「ケインズ先生。二十世紀前半。政府が介入しろ。振り子が真ん中に戻ろうとした」中央に、ケインズ。「結果、高度成長が起きた。同時に、支出が膨らみ、止められなくなった」
「フリードマン先生。二十世紀後半。政府は手を引け。振り子が、また左へ」
左端の近く——スミスの隣に、フリードマン、と書いた。
「先生の理論は、一九八〇年代のアメリカとイギリスで採用されました。その結果については——」
担当者は、マーカーを置いた。
「お呼びになるかどうかのご判断に関わります。私の口からは、申し上げません」
言わない、ということが、この男の言い方だった。スミスの続きも、マルクスの続きも、この男は先生が去った後にしか語らなかった。順番は、いつも同じだ。理論が先で、結末が後。歴史は、その順番でしか進まない。
「一つだけ、申し上げられることがあります」担当者は、線の全体を手で示した。「行って、戻って、また行って、また戻る。二百年以上、振り子は同じことを繰り返している、ということです」
会議室が沈黙した。
高橋はホワイトボードを見つめた。一本の線の上に、四つの名前。人類の二百年が、マーカーの一往復に収まっている。そして思い出したのは、工場の壁だった。日焼けの中の、白い長方形。貼って、剥がして。競争して、平等にして。あれはうちの壁に残った、振り子の跡だったのだ。二百年の線と、二年の白い跡。縮尺が違うだけで、同じ図形だった。
「御社はこの二年間で、スミス先生からケインズ先生まで、三つの振り子を体験されました」担当者は言った。「残っているのは、四つ目です」
担当者が、社長を見た。
「フリードマン先生を、お呼びしますか」
社長は、黙っていた。
高橋が口を開いた。
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「先生たちは全員、自分の理論の後で何が起きたか知らないんでしたよね。スミス先生は産業革命の続きを知らない。マルクス先生はソ連の崩壊を知らない。ケインズ先生はスタグフレーションを知らない。——フリードマン先生も、同じなんじゃないですか。自分の理論の続きを知らないまま、自信だけを持って、うちに来るんじゃないですか」
担当者は、答えなかった。
田中が言った。「つまり、また同じことが起きるってことですか。競争して、壊れて、平等にして、止まって、金使って、弾切れして、また競争して。振り子が揺れるだけで、どこにもたどり着かない」
担当者は、答えなかった。
答えない、という答えを、二度続けて置いた。
社長が、初めて口を開いた。
「少し……考えさせてください」
担当者はうなずいた。「承知しました」
社長は立ち上がり、会議室を出た。ホワイトボードの上では、スミスとフリードマンが、隣同士に並んだままだった。
*
議論は、食堂で始まった。
会議室ではなかった。高橋が「食堂でやろう」と言った。理由を聞かれて、うまく答えられなかった。ただ、あの小会議室はもう飽きたのだ。スミスの分業も、マルクスの委員会も、ケインズの投資も、全部あの部屋で始まっている。あの部屋で始まったものの行き先を、三回見た。今度は、違う場所で始めたかった。
食堂の壁には、ケインズの抽象画がまだ掛かっている。誰も外そうと言わなかった。上下がどちらかは、いまだに誰も知らない。
佐藤と若手が、マルクスの買ったホワイトボードを会議室から運び込んだ。一枚四万円の、あのホワイトボードだ。「これ、初めて元を取るんじゃないですか」と佐藤が言い、小さな笑いが起きた。ケインズのコーヒーメーカーは、朝から湯気を立てている。三人の先生が残していったものが、先生たちのいない議論のために、初めて全部同時に働いていた。
議題は一つ。フリードマン先生を呼ぶかどうか。
——いや、違う。この会社を、どうしたいか。
初日は五人だった。社長、高橋、田中、佐藤、木村。出入りは自由にした。昼には十人になり、夕方には十五人が座っていた。
*
口火を切ったのは、佐藤だった。
「フリードマン先生を呼んだら、またランキングが始まるんですよね。競争と、自己責任」
「たぶんな」と高橋が言った。
「俺、正直、あの頃は楽しかったです。きつかったけど、燃えてた。でも、田中さんがランキングの下に沈んで、検査が傷を見逃して、会社が吹っ飛びかけた。あれをもう一回やるのは——」
佐藤は言葉を探した。探して、簡単な言葉に着地した。
「やりたくないです」
田中が缶コーヒーを開けた。「俺もだ」
木村が手帳を開いた。「感情の話は横に置いて、数字の話をさせてください。現在の借入金と返済スケジュールを考えると、何も打たなければ九ヶ月後に資金がショートします。呼ぶにせよ呼ばないにせよ、何かはしないといけない。何もしない、という選択肢だけは、数字が消しています」
「何かって何だよ」と田中。
「分かりません。分からないことは、分からないと言います」
社長は、端の席で黙っていた。委員会の頃と同じ端の席。ただ、あの頃と違って、誰もこの人を端に押しやってはいなかった。自分で選んで、端から聞いていた。
沈黙を破ったのは、また佐藤だった。
「あの、素朴な疑問なんですけど。……なんで会社って、ずっと成長しないといけないんですか」
十五人が佐藤を見た。
「いや、変なこと言ってるのは分かってるんです。でも、この二年ずっと、増やせ増やせだったじゃないですか。効率を増やせ、それから、幸せを増やせ、で、需要を増やせ。増やして増やして、弾切れになった。だったらもう、今の工場と今の人数で、みんなの給料がちゃんと出る分だけ稼ぐ。それじゃ、駄目なんすか」
誰も笑わなかった。笑えなかった。それは全員の腹のどこかにあった問いで、口にする言葉を、誰も持っていなかっただけだった。
意外なところから、返事が来た。
「昨日の夜、同じことを考えました」
木村だった。
「考えて、調べて、計算しました。佐藤くんの言っている考え方には、名前までついています。定常経済。成長を目的にしないで、いまの規模を維持して回し続ける。学者が大真面目に議論している、れっきとした考え方です」
「じゃあ——」
「結論から言います。うちは、今からそれを選べません」
木村は手帳の数字を示した。
「借金です。今の借入金は、成長する前提で組んである。売上が横ばいだと、利息を払った時点で赤字になる。定常経済は、身の丈で始めた会社なら選べます。でも背伸びをした後の会社は、まず背伸びの分を返し終わらないと、身の丈に戻ることすらできない」
「じゃあ、借金しなきゃよかったんじゃないですか」
「借金しなかったら、ケインズ先生の投資はできなかった。投資がなかったら、取引先は戻らなかった。取引先が戻らなかったら、今頃この会社はない」
「じゃあ、借金は正しかったんですか」
「正しかった。そして、正しかった借金が、いま首を絞めている」
佐藤が黙った。
高橋も、別の道を出してみた。
「平等は失敗した。それは見た通りだ。でも、あの一年の全部が間違いだったのか、って俺はずっと引っかかってるんだ。食堂の線が消えた。田中さんが仕分けに移れた。あれは、良かっただろう」
何人かがうなずいた。
「前にテレビで見たんだが、北欧の国って、税金はべらぼうに高いのに、医療も学費もタダで、幸福度の世界ランキングでいつも上にいるらしい。競争はさせる。ただし、稼いだ分で全員を守る。マルクス先生みたいに競争ごと消すんじゃなくて——競争と平等を、両方やる。会社でいえば、ちゃんと利益を出しながら、福利厚生を分厚くする。そういう道は、ないのか」
「あります」木村が言った。「計算上は」
「計算上は?」
「北欧型を成立させている国は、国民一人あたりの稼ぎが日本よりずっと大きい。高い福祉は、高い稼ぎが払っています。うちに置き換えると、あの水準の福利厚生を維持するには、利益率が今の三倍要ります。もしくは、社員を三分の一に減らすか」
「リストラか」
「そうです。手厚く守るには金がかかる。金には利益が要る。利益には競争が要る。競争すれば格差ができる。格差を埋めようとすれば、また金がかかる」
高橋は、その理屈の輪郭に見覚えがあった。どの理屈も間違っていない。間違っていない理屈が、手を繋いで輪になって、出発点に戻ってくる。田中を仕分けに選ばなかったあの日、自分の頭の中で回っていたのと、同じ形の輪だった。あのときは一人で回した。いまは、十五人で回している。回している人数が増えただけで、輪は、輪のままだった。
田中が言った。「格差をなくそうとしたら金がかかる。金を稼ごうとしたら格差ができる。どっちに行っても壁がある。——それが振り子ってことだろ」
食堂が、静まった。
初日は、そこで終わった。答えは出なかった。ただ、帰り際に誰も「無駄だったな」と言わなかった。それだけが、初日の成果だった。
*
二日目は、木村の報告から始まった。
「悪い報せです。保留になっていた海外の二件のうち、一件が正式に流れました。理由は、円高です」
「円高」佐藤が繰り返した。「……うちの工場、円高とか関係あるんすね」
「海を渡った瞬間から、あります。円が上がると、向こうから見て、うちの部品は何もしなくても値上がりする。だから、他の国の安い部品に切り替えられる」
「うちは何も変えてないのに」
「うちは何も変えていません。変わったのは、地球の側です」
佐藤はしばらく黙っていた。それから、鞄からスマートフォンを出した。
「実はそれ、昨日の夜、調べてたんです。うちの受注がなんで為替で飛ぶのか、悔しくて」
目の下に、隈があった。
「世界って、この何十年かでどんどん繋がったらしいんです。貿易が自由になって、関税が下がって、会社が国境を越えて工場を建てて。うちの部品が海を渡れたのも、その流れの上にいるからで。こういうのをまとめて、グローバリズムって呼ぶらしいです」
「ほう」と田中。
「で、最近はその揺り戻しが来てて。自分の国の産業を守れ、移民を制限しろ、関税をかけろって。壁を作る方向です。セクショナリズムとか、保護主義とか言うらしいです。ニュースでやってる関税合戦って、あれです」
「開いて、閉じて、か」田中が腕を組んだ。「振り子と同じだ」
「そうなんすよ。世界そのものが、開くのと閉じるののあいだで揺れてるんです」
田中がホワイトボードの線に目をやった。「端まで振れたら、鎖国か、世界統一か、ってことか」
「そこまで行くかは分かんないですけど、軸としては、そうらしいです」
しばらく間があって、田中がもう一つ聞いた。「その振り子は、そのうち止まらないのか。二百年も揺れてるんだろう。人間だって、いい加減学ぶだろう」
「それも調べました。二つの説があるんです」佐藤は指を二本立てた。「一つは、だんだん狭まってるって説。人類は失敗のたびに学んでて、対応が速くなってる。恐慌が来ても、昔みたいに十年沈まないで、数年で戻るようになったとか」
「もう一つは」
「逆です。広がってるって説。世界が繋がった分だけ、一箇所が崩れたときに、全部が道連れになる。リーマン・ショックのとき、アメリカの住宅ローンの問題が世界中に飛び火したじゃないですか。うちの親父の勤め先、あのとき残業が消えたらしいです。振り子の支点が地球規模になったから、振れたら、地球ごと揺れる」
食堂が静かになった。学ぶから、狭まる。繋がるから、広がる。どちらの説にも、うなずける材料がこの二年の中にあった。
「で——」佐藤は画面を消して、顔を上げた。「昨日の夜、一番ぞっとしたのは、その先です。うちが、その振り子にぶら下がってるんですよ。ケインズ先生の投資で海を渡ったでしょう。渡った瞬間から、うちは世界の振り子の先っぽにいる。地球のどこかで振り子が揺れたら、三百人の工場が揺れる。今回の円高が、もう、それです」
高橋は黙って聞いていた。ミツワは三百人の会社だ。渡り廊下と、工場が二棟と、鉄骨だけの三棟目。それが、地球規模の振り子の先端にぶら下がっている。繋がるというのは、豊かになることだと思っていた。豊かになることと、揺れを受け取ることは、同じ一本の糸だった。
「佐藤」高橋は言った。「お前、いつからそんなこと調べるようになったんだ」
「凍結で暇だったんで。……でも、常識っす」
田中が笑った。四人の先生の名前をボケ倒してきた男の「常識っす」に、食堂の何人かが吹き出した。
「暇の成果か」と田中が言った。
「勉強の成果って言ってください」
二日目の夕方には、食堂に三十人を超える社員がいた。
*
その夜だった。
経理部の若手が、食堂に入ってきて言った。遅れて議論に加わった、まだ流れをよく知らない社員だった。
「社長、結局あの投資って失敗だったんですか。ケインズ先生に、乗せられたんですか」
食堂が、凍った。
椅子が鳴った。社長が立ち上がっていた。
「乗せられたんじゃない」
声が、大きかった。テーブルの上の缶が、微かに揺れた。朝礼の「頑張りましょう」でも、決算の「ありがとう」でもない。二年間で一度も聞いたことのない声だった。
「俺が決めたんだ。先生に言われたからじゃない。俺が、この会社を何とかしたくて、自分で決めて、自分で銀行に頭を下げて、自分で金を使ったんだ。失敗したのは俺だ。——先生のせいにするな」
若手は、固まっていた。三十人が、固まっていた。
社長は、息を吐いた。長い息だった。それから、静かに座り直した。
「……すまん。声を荒げた」
誰も、何も言わなかった。社長の手が、テーブルの上で少し震えている。怒りが引いた後に残る、むき出しの震えだ。高橋はそれを見ていた。三回決めて、三回失敗して、三回とも、誰のせいにもしなかった。この人のこれだけは、鬘の先生が来る前から、一度も変わっていない。
長い沈黙が、続いた。
社長は、それきり何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。端の椅子に座り直したまま、夜が更けて解散になるまで、みんなの話を、ずっと聞いていた。
議論は、日付が変わる少し前に終わった。帰り際、高橋は駐車場で振り返る。食堂の明かりが、まだ点いている。二年間、この会社でいちばん遅くまで灯っていたのは、社長室の窓だった。今夜、その明かりは、食堂に移っていた。
*
三日目の朝、雨が上がっていた。
食堂の窓から、久しぶりの日が差していた。梅雨の晴れ間の光は、蛍光灯と違って床に濃い影を作る。テーブルの上の、飲みかけの缶と、ホワイトボードの振り子の線に、朝の光が斜めに当たっていた。
最初に口を開いたのは、佐藤だった。
「昨日の夜、フリードマンの続きを調べようとしたんです」
三十人が佐藤を見た。
「検索窓に、名前まで打ちました。この人の理論が採用された後、世界がどうなったのか。調べれば、たぶん一発で出てきます。担当者さんが言わなかった結末が、歴史にはもう書いてあるはずなんで」
佐藤は、そこで一度切った。
「で——消しました。調べませんでした」
「なんで」と田中。
「打ちながら、気づいたんです。結末を知ってから呼ぶかどうか決めるのって、それ、答え合わせじゃないですか。当たりなら呼ぶ。ハズレなら呼ばない。……でも、それをやってる限り、俺たち、ずっと次の先生を探し続けると思うんです。四人目の結末を調べて、五人目を探して、六人目の評判を調べて。どこかの誰かの理論の、当たりハズレを引き続ける」
佐藤は、ホワイトボードの線を見た。
「俺たちが決めなきゃいけないのは、フリードマンが当たりかハズレかじゃなくて——もう、くじを引くのをやめるかどうか、なんじゃないですか」
食堂が、静まった。
スマートフォンを置いた佐藤を、高橋は見ていた。工具を三メートル動かした男が、二年かけて、検索をやめる場所まで来た。調べることを覚えた人間が、調べないことを選ぶ。それは後退ではなかった。どの答えなら外から買えて、どの答えは買えないのか——その仕分けが、できるようになったということだった。
*
「俺の話を、させてくれ」
高橋が言った。立ち上がらなかった。座ったまま、テーブルの上の缶コーヒーを見つめて話した。
「スミス先生が来たとき、田中さんが反対した。俺は押し切って、ランキングを入れた。田中さんは沈んだ。俺は途中で気づいてたのに、止めなかった」
田中は、何も言わなかった。
「マルクス先生のとき、田中さんが目覚めかけた。止めるべきか、ずっと迷ってた。結局、田中さんが自分で止まった。俺は、何もしなかった。ケインズ先生のときは、投資が当たって、嬉しくて、キャッシュの悪化から目を逸らした」
高橋は、缶を手に取った。
「三回とも、途中で気づいてた。気づいてたのに、止めなかった。なぜ止めなかったのか、ずっと、怖かったからだと思ってた。空気を壊すのが怖い。数字が落ちるのが怖い。——でも昨日の夜中に、やっと本当の理由が分かった」
食堂は静かだった。
「止めたら、次は俺が答えを出さなきゃいけなくなるからだ。先生の理論に乗っている限り、責任は先生にある。失敗しても、理論のせいにできる。でも止めたら、じゃあお前はどうするんだと聞かれる。それに答える力が、自分にないと分かっていた。だから止めなかった。止めないことで——考えないで済む側に、いた」
缶を、置いた。
「気づいていたのに止めなかったんじゃない。考えたくなかったから、気づかないふりをしていたんだ。それが、この二年の、俺の一番の失敗だと思う」
高橋は顔を上げた。
「今度は、考える側に回りたい。誰かの答えに乗るんじゃなくて、自分で考えたい。たぶん、間違える。でも、自分で間違えるほうが、誰かの正解を借りて失敗するよりは、まだましだと思う」
長い沈黙のあと、田中が言った。
「課長。二年遅いですよ、それ」
「分かってる」
「分かってるなら、いい」
田中は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がった。研磨台に向かうときと同じ、まっすぐな立ち方だった。
「俺からも、一つ言っていいですか」
「どうぞ」
「三人の先生が来て、三回やって、三回壊れた。制度の話は、もういいんですよ。競争がいいか平等がいいか、そんなのは頭のいい人たちが二百年議論して答えが出てないんだから、俺たちが三日で出せるわけがない」
田中は食堂を見回した。
「順番が逆なんです。制度が先にあって、人がそれに合わせるんじゃない。まず人がいて、暮らしがあって、その先に会社があって、制度がある。俺が二十五年やって分かったのは、一つだけです。丁寧に作ったものは、誰かの役に立つ。ランキングがあってもなくても、委員会があってもなくても、俺は研磨台の前に立って、部品を磨く。それが俺の答えです。——かっこいい答えじゃ、ないですけど」
田中はポケットから、白い封筒を出した。
退職届、と書いてあった。封筒の角は擦れて丸くなり、白かったはずの紙は、うっすらと黄ばんでいた。二年間、ロッカーと作業着のポケットを往復し続けた紙の色だった。
高橋は、息を止めた。
田中は封筒をテーブルに置き、両手で持ち直し、ゆっくりと、破った。
紙の裂ける音が、静かな食堂に、二度、響いた。
「もう、いらない」
破った紙を、田中はゴミ箱に落とした。
佐藤が言った。「……かっこいいっすよ、それ」
「お前に言われると、こそばゆいな」
小さな笑いが起きた。小さくて、温かい笑いだった。
最後に、木村が口を開いた。
「俺は数字しか分からないので、数字の話をします」
全員が木村を見た。
「この三日間、過去二年の数字を全部、洗い直しました。スミス先生の制度でも、マルクス先生の制度でも、ケインズ先生の制度でも、立ち上がりは成功して、長期では同じ形の問題が出ています。数字だけ見ると、結論は一つです。どの制度が良い悪いではなく——どの制度でも、運用しているのが同じ人間だから、同じ問題が出る」
木村は手帳を閉じた。
「つまり、制度の問題じゃなくて、人間の問題です。仕組みを変えても、中の人間が変わらなければ、同じことが起きる。逆に言えば、中の人間が変われば、どの仕組みでも、そこそこうまくいく可能性がある」
一拍おいて、木村は言った。
「以上です」
高橋は木村を見た。数字しか信じない男が、二年分の数字を洗い尽くした果てに、数字ではないものを、結論として置いた。それがこの三日間で一番意外で——たぶん、一番正しかった。
*
三日目の午後。社長が、立ち上がった。
食堂の全員が社長を見た。三日間で、入れ替わり立ち替わり、ほぼ全社員がこの食堂を通過していた。
「決めました」
静かな声だった。送別会で「乾杯」と叫んだ声とも、誌面で「経営の本質」と語った声とも違う。借り物の張りが、どこにもない声。自分の言葉を、自分で選んでいる声だった。
「フリードマン先生は、お呼びしません」
食堂がざわめき、それから、静まった。
「理由を話します。少し、長くなる」
社長はホワイトボードの前に歩き、振り子の線の横に立った。二年前の朝礼で、鬘の先生の隣に立っていたのと、同じ立ち方だった。あのときは、先生を紹介するために立った。今日は、先生を断るために立っている。
「俺はこの二年で、三人の先生に教わった。スミス先生には競争を。マルクス先生には平等を。ケインズ先生には、需要を作ることを。三人とも本物の天才で、三人とも本気だった。教わったことは全部、正しかった。そして全部、足りなかった」
食堂は、静かだった。
「ゆうべからずっと考えてた。どこが足りなかったのか。理論の中身じゃない。俺には理論の良し悪しなんて分からん。ただ、一つだけ、三人とも教えてくれなかったことがある。——答えが分からないときに、どうするか、だ」
社長は、振り子の線に指で触れた。
「スミス先生は『市場に任せろ』と言った。マルクス先生は『社員に任せろ』と言った。ケインズ先生は『俺に任せろ』と言った。全部、どこかに答えがある前提の話だった。任せる先があるうちは、正直、楽だった。任せて、待って、駄目なら、次の先生を呼べばいい。俺は二年間、それをやった。三回、やった」
「フリードマン先生を呼べば、四つ目の『任せろ』が来る。たぶん、また正しい。たぶん、また足りない。それで、この線がもう一往復するだけなら——」
社長は一度、言葉を切った。
「四人目の先生に払う金で、考える時間を買いたい」
高橋は、その言い方に少し笑いそうになった。答えを外から買い続けた男の、最後の買い物が、考える時間だった。
「この三日間、みんなの話を聞いた。答え合わせをやめる、と言った奴がいた。考えないで済む側にいた、と白状した奴がいた。二年持ち歩いた封筒を破った奴がいた。数字を洗い尽くして、人間の問題だ、と言い切った奴がいた」
社長は、食堂を見回した。
「答えは、出てない。でも、考える頭数は揃ってる。この三日で、それだけは分かった」
社長はテーブルに手をついた。
「だから、少し、自分たちで考えてみたいんです」
「大丈夫なんですか」高橋は聞いた。
社長は高橋を見た。
「分からない」
その一言が、この二年間で社長の口から出た言葉の中で、一番正直に聞こえた。
「分からない。でも、決める仕事だから。分からないまま決める。それが俺の仕事だって、二年かかって、やっと分かった」
*
HKAの担当者を、呼んだ。
担当者は小会議室に現れた。いつものグレーのスーツ。いつもの無表情。二年間、同じ服で同じ顔で、三人の天才を連れてきて、三人の天才を連れて帰った男だった。
「フリードマン先生は、お呼びしません」
担当者は、表情を変えなかった。「理由を伺っても」
「少し、自分たちで考えてみたいんです」
「承知しました」
それだけだった。引き止めもせず、警告もせず、四人目の売り込みもしなかった。担当者は鞄を手に取った。
社長が言った。「あの——一つだけ」
「何でしょう」
「先生方には、感謝しています。スミス先生にも、マルクス先生にも、ケインズ先生にも。やり方は違ったけど、全員、本気でうちのことを考えてくれた。全員、善意でした。——それは、伝えてください」
高橋は、はっとした。
先生方は全員、善意で来ています。それだけは——。
二年前、この男が言いかけて、飲み込んだ一文。その続きを、いま、社長が反対側から完成させていた。それだけは、分かってほしい。言えなかった続きは、たぶん、そういう一文だった。二年かかって、言われる前に、こちらが分かった。
「……承知しました」
声のトーンが、ほんの少しだけ、変わっていた。
担当者は帰り支度をした。ファイルをまとめ、鞄に入れ、スーツの前ボタンを留めた。
社長が言った。「あ、そうだ。連絡先を教えてもらえませんか。何かあったときのために」
「弊社の名刺には、連絡先がございません」
「知ってます。裏が白紙なんですよね。二年間、ずっと気になってたんですけど」
「弊社からご連絡することはございますが、お客様からご連絡いただくことは、通常、ございません」
社長は困った顔をした。「じゃあ、もう会えないってことですか」
担当者は、すぐには答えなかった。証明写真のようだった顔の、その奥で、何かが順番を待っていた。
「社長。一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「社長の名刺を、いただけますか」
社長が驚いた。高橋も驚いた。二年間、この男が何かを「お願い」したことは、一度もなかった。
「うちの名刺でいいんですか。連絡先、載ってますけど」
「はい」
「何に使うんですか」
担当者は、間を置いた。証明写真のようだった顔の、その奥で、何かが動いた。
「何十年後かに、なるかもしれませんが」
担当者は言った。
「社長を、弊社にアーカイブさせていただくかもしれません。そのときのために」
会議室が、静まった。
社長が目を丸くした。
「……それ、褒めてます?」
「はい」
顔は、もう無表情に戻っていた。
社長は名刺入れから名刺を出し、渡した。担当者は両手で受け取り、しばらくそれを見てから、スーツの内ポケットに、丁寧にしまった。鞄ではなく、内ポケットだった。
担当者は立ち上がり、会議室の全員を見回した。
初めてだった。いつも高橋か社長しか見なかった男が、一人ずつ、顔を見た。田中を。佐藤を。木村を。高橋を。社長を。二年前の朝礼で、髭の男が三十人を見回したときと同じ丁寧さで——ただし、あれが調書なら、これは、別の何かだった。
「皆さん」
担当者は言った。
「ようやく、スタート地点ですね」
深く、頭を下げた。二年間で一番深い礼だった。それから、部屋を出た。
足音が廊下を遠ざかっていく。スミスがおどおどと歩いた廊下。マルクスが三歩先を歩いた廊下。ケインズが社長と笑いながら歩いた廊下。同じ廊下を、革靴の音がひとつだけ、遠ざかっていった。
*
夕方。
高橋はデスクに座った。机の上に、名刺が二枚。HKAの名刺——表に社名と部署、裏は白紙。ケインズの名刺——需要を止めないでください。
二枚とも、引き出しにしまった。
窓の外で、六月の空がゆっくり暮れていく。工場の音が聞こえる。第一工場のラインは動いている。第二工場は半分。第三工場の鉄骨が、夕日を骨組みのまま透かしている。
完璧では、なかった。赤字は続いている。借金は残っている。答えは、出ていない。
でも、問いを持っている。日経平均と聞こえたらチャンネルを変えていた男が、二年かけて覚えたのは、答えではなく、問いの持ち方だった。
高橋は立ち上がり、工場に降りた。
田中が研磨台の前にいた。いつもの場所で、部品を手に取り、指の腹で表面をひと撫でしていた。一個ずつ。二十五年間と、同じように。
「田中さん」
「何だ」
「何を作ってるんですか」
「人工透析の部品」
「今日中に終わりますか」
「終わる。急がないけど、終わる」
佐藤がラインの向こうから声を上げた。「課長、明日の工程確認ってもうしました?」
「まだだ。今からやる」
「じゃあ俺も手伝いますよ」
「頼む」
どこかで木村がキーボードを叩いている。返済のスケジュールか、来月の資金繰りか。窓の外の駐車場には、社長の車。今日も、最後まで残るのだろう。
高橋は工場の真ん中に立って、耳を澄ませた。機械の駆動音。空調の唸り。金属と金属の触れる音。二年前と同じ音だった。同じ音の中身だけが、全部、変わっていた。
「田中さん。明日の朝礼、俺が話していいですか」
田中が手を止めた。「朝礼は社長の仕事だろ」
「社長にも話す。でも、最初は俺が話したい」
「何を話すんだ」
「中身は、まだ決めてない。決めてるのは、一つだけです。今度は、俺が最初に口を開く。誰かの答えを、待たないで」
田中は、手の中の部品に目を落とした。「三百人の前でか」
「三百人の前で」
「大した度胸だ」笑った気配があった。「で、うまく話せる根拠はあるのか」
「根拠なら、あります」
高橋は答える代わりに、工場を見回した。研磨台の手元灯。ラインの向こうで工程表を覗き込んでいる佐藤。どこかから続くキーボードの音。窓の外の、いつもの場所の、社長の車。
「——ここに、全部」
田中はしばらく高橋を見て、それから、研磨台に向き直った。
「課長、それ本当に分かって言ってますか」
高橋は笑った。
翌朝の朝礼で、高橋は社長の隣に立った。社長がうなずいた。三百人の社員が、高橋を見ていた。
窓の外は、晴れていた。
高橋は、口を開いた。
*
(了)