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宇宙に還る日


    「#創作大賞2026」「#エッセイ部門」


    【宇宙に還る日】Ⅰ.ロケットの絵 


    いつからだったか明確にはもう覚えていないが、子供の頃の私は絶対に宇宙飛行士になりたかった。
    月へ行きたいとか火星に行きたいというよりも、まずは宇宙空間に飛び出してみたかったのだ。
    何故なら、宇宙の正体とは一体何で、そしてどんな場所なのかを知りたいと思っていたから。

    無重力という未知の世界を体験したい。
    今自分がいる地面から一体どれくらい遠い場所なのか。

    そもそも、宇宙とは何なのか?

    だから夜空を見上げることは決して恐怖ではなく、その暗闇に対してさえ、暖か味と尊さを感じていたのだ。
    地上の明かりが全て消えた夜空を見たいし、実際に宇宙へ行って私たちの青い地球を自分の目で眺めてみたい。
    そうしたらきっと私は何か答えを見つけられる。
    何を問いたいのかは自分でもよくわからないけれど。

    そんな風に考えていた。

    だが現実はまぁまぁ残酷で(おそらく誰にとっても)、大人になるにつれ、
    それは実現不可能なのだ、とわかるようになっていく。
    物語の中でなら、実現不可能と思われた夢を諦めずに手にするという熱血ストーリーが描かれるかもしれないが、私の現実は本当によくある、ただの事実だった。

    一つに私は頭が悪い。
    特に数学が致命的。
    努力すればよかった?いや、数学や数字が絡む科目が極端に理解できなかった。自分も先生も驚くほどに。
    他の科目に比べるとその成績の差はあまりに大きく開いていて、それはもう恐ろしいレベル。
    10段階評定で言えば「数学1:国語10」というくらいだ。

    ただの努力不足もあったことはもちろん認める。

    そして二つ目。
    こちらの方が実は重い。
    私の家が本当は機能不全家庭であったということだ。
    子供だった当時はわかっていなかったし、自分の置かれている環境が=普通としか思わなかったので、これもだいぶ後になってからその事実に向き合うことになる。
    これはかなりキツイ。

    時間の経過と共に親子関係は崩れ落ち、外でも対人関係をうまく保てなくなり、私は何かを求めて、或いは家から逃げて、日本の外へまで飛び出して行くようになっていた。

    ざっくり言えば、中高生時代は博物館に入り浸り、大学生時代は所謂バックパッカーとして海外放浪をして、その上更に留学もした。

    家に居場所がなかったのだ。

    もちろん宇宙を嫌いになることはなかったし、空はよく見上げた。
    中高生の頃は博物館にいたわけだから、それはもう大好きな宇宙が幼少期の頃より更に近くにあったと思う。

    けれど、大学生からその後の人生においての私は、徐々に宇宙から自分を引き離していった。

    そもそも宇宙とは何なのか?

    この純粋な好奇心による明確な疑問と期待を私は自ら手放した。

    これは逃げなのか?
    いや、人生とはそういうものではないか?
    子供の頃のふわふわとした純粋な思いは維持できない。

    人は現実と共に大人になって生きて行かねばならない。

    そう、現実の私の道は宇宙や月へ繋がってはいなかった。

    ただそういうことだ。


    幼い頃、市が主催する「未来の夢」という絵画コンクールがあった。
    私は有難いことに賞を頂いたのだが、クレヨンで力いっぱい描いたそれは【銀色のロケットとその横で宇宙服を着て月面にいる私】だった。
    貼りだされたその絵を見に行った時、確かに私は嬉しくて満足していた。

    だが、その絵のことはやがて記憶からデリートされた。

    宇宙が何なのかを考えてみたところで、自分の生活に還元されるものは何もないからだ。
    私の宇宙は頭上遠くで闇に飲みこまれていった。



    【宇宙に還る日】Ⅱ.宇宙は遠く


    大学時代、私と宇宙との距離は遠かったと思っていた。

    私は大学で歴史・考古学を専攻していた。
    理系に進むには数学ができなさすぎて、理系に近い科目は何かと考えた結果、考古学を選んだ。
    もちろん興味がなかったわけではないが、宇宙を好きなほどの熱意をもって臨んだわけでもない。

    実のところ、考古学は理系とは言えないがフィールドワークや年代測定においてはおそらく理系要素も含むかもしれない、とは思う。

    だが、宇宙とはあまりにかけ離れているのが事実だ。

    それまで、私の目は自然科学に向かっていたのに、ここからはあまり好きではなかった「人間」に向かうことになる。

    この星の上で人類が生まれた後の歴史を扱うわけだ。

    地球科学でも、哺乳類が全盛期になる前までの時代が好きだったのに、私はこれから人類史をやるのだ。
    興味はあったが宇宙程楽しくはなく、自ら選んだものの後悔の欠片くらいはあった。

    人類史を紐解けば戦争の痕跡ばかりなのだ。
    宇宙の時間の流れの中で人の歴史などどれほどのものと言うのだろう。

    人間は、その他の生物と異なり、環境を自分たちに合わせて変化させる。
    その他の生き物は環境に合わせて生きる術を持つというのに。
    人類のこのやり方は、私にはつまらなく思えて、人の歴史を紐解いてみたいという好奇心はあまり生まれなかった。

    ならば、せめて歴史学より考古学をやりたい。

    まだ文明が未発達で戦争もなかった時代、或いは戦争と関わらない遺物や美術について扱いたい、と。

    そうして私は、故郷の博物館を完全に離れると大学で歴史学や考古学の基礎を学びながら、専攻した歴史の対象国へ単身で出かけるようになった。

    宇宙を好きで、宇宙とは何なのかを知りたかった私だが、結局この大学の四年間は図書館にこもっては諦めたように人の歴史のことばかり調べるようになり、その国を歩き回った。
    史料ページをめくる度に、また、大学で出逢う先生からの影響、そんなもので次第に好きではなかったはずの世界に没頭していった。

    大学は遠くて通学は大変だったが、冬場のこの往復時間は星を見上げる唯一の時間となった。

    春夏秋冬、課題を脇に抱え、書物を抱えて東京の町を歩く、そして電車に乗る。

    桜の花びらが電車の座席に舞い込む春。
    止まらない汗を拭きながらエアコンのついた電車に飛び込んで一息つく。
    どこかへふと出かけたくなる紅葉鮮やかな季節。
    寒くてこたつから出るのも億劫な日に半分寝ながらやる課題。

    季節は繰り返すだけに見えるが、それでも世の中は日々変化し、様々な事件が起きていく。

    私はその人類の発祥からのわずかな歴史の中で他の人と同じように歩いている。
    春休みは掛け持ちバイトをして資金を作り、夏はまるっと二か月近くを海外放浪する。
    そこで見たもの、聞いたもの、触れたものはたくさんある。
    それは私に新しい世界を体験させ、また人間への好奇心を引き出すことになった。

    歴史はずっと繋がっている。
    遥かこの地球上に生命が生まれてから人類に至るまでずっとこの星の上で起きてきた流れだ。
    私はその流れの中にいる。

    とある海外の町でふと夜中に散歩をしてみた。
    一か月以上日本から離れていると、ふいに帰りたくなるものだ。
    私は歩きながら日本の歌を小さな声で口ずさんだ。

    赤い目玉のさそり♪
    ひろげた鷲のつばさ♪
    青い目玉の子犬♪

    ………それからなんだっけ?

    この歌なんだっけ?

    あぁ…そうか宮沢賢治だ。
    どこでこの歌を覚えたのか記憶にない。

    けれど、何故だか鼻の奥がツンとした。

    夜の砂漠をジープで走るツアーに入った知人から聞いた話を思い出す。
    360度見渡せる砂漠では星が多く見えすぎて、地平線にまで輝いている。
    その地平線の星の明かりを、旅人は良く家の明かりと間違えるのだ、という話。

    私の宇宙は本当に遠いのだろうか。
    もう二度と故郷の博物館を訪ねることも、宇宙を見上げる資格もないと思っていたのだが、本当にそうなのだろうか。

    歴史書の中にたくさんの星に関わる記述がある。
    古代の人は国を問わず星の位置を読んで暮らしに取り入れ、旅をする時も星を頼りにしたことだろう。

    人間と星はずっと繋がり続けているんじゃないか?

    オリオンは高く歌い♪
    露と霜とを落とす♪

    私は続きを思い出して歌った。

    そして、どういうわけか涙が止まらなくなった。

    あぁそうだ、いつだったか、もうずっと昔、大好きな博物館のプラネタリウムでこの歌を聴いたことはなかっただろうか…。
    空の巡りの目当ては、北半球を旅する私にはいつも見えていた星だったのだ。

    私は大学を卒業した後、一旦埋蔵文化財センターの発掘現場で仕事をし、お金を貯めてから考古学に専念するために海外留学することを心に決めた。

    私が選んだのは遺跡や遺構、仏教美術についてだ。
    そして東西の人の戦争以外の交流について。

    語学の習得は自分でやりながら、留学先の大学構内で行われていた発掘に少し携わったり、歴史や考古学の授業を取った。

    そのうち歴史科の留学生担当の先生が、敦煌・トルファン学の権威だった先生を他校から引っ張て来てくれて、なんとマンツーマンで私につけてくれることになった。
    今思い出してもあれほど楽しい授業はなかったと思う。
    博物館で先生たちについて教えてもらった時の感覚に近いものがあった。
    先生の知識が私に渡されることの幸福感だ。
    宇宙と離れた自分の寂しさを考える時間もなく、私は歴史学・考古学に没頭した。

    この頃の私は、博物館にしろ、大学にしろ、その分野は問わず、その道の専門家の先生に特化した知識を分けてもらえることこそが私の幸せなのではないか、と少しずつ思うようになっていた。

    留学先の町はいつも砂煙で空が霞んでいたが、その霞の中の月はとても美しかった。
    きっと古代の人もこの月を見上げたことだろう。
    時を超えて同じ月を見て、その美しさに感動する。

    多分きっと、私は歴史・考古学を選んで良かった。

    宇宙はそれほど遠くないのかもしれない。
    そう思った。


    そんなある日、本科の歴史主任の先生から外で突然声をかけられた。
    「君、大学院に進む気はないか?」
    とのことだった。
    「私が推薦状を書く。進学してみないかね?」

    私はフリーズしてすぐに言葉を返せなかった。
    きっと私の瞳孔は大きく開いて、視線は先生の口元にフォーカスしていただろう。
    心地のよい風が、樹木の葉を盛んに揺らしている。

    私の背中のまだ白い一対の翼がその瞬間に大きく開く音がした。



    【宇宙に還る日】Ⅲ.はくぶつかん


    歴史学も星と繋がっていると段々気づいてきた私だが、さて、ここから時計の針をぐるんぐるんと逆に回して、小学生の頃に戻ろうと思う。
    時間軸が行ったり来たりしていることは大変申し訳ないが、どうしてもこの話を書きたい。

    つまり、中高生時代に棲みつくように入り浸った博物館と私の物語についてだ。

    先にも述べたように、私は子供の頃「宇宙好き」であった。
    同時に「恐竜」や「化石」も大好きであった。
    これには繋がりがある。

    宇宙が好きなので当然のように宇宙のカラー図鑑を良く読んでいた。
    何度も繰り返し読むわけだが、その中に「地球の成り立ち」という項目があった。原始の地球がどんなだったのか、生命はどうやって生まれたのか、海に落ちる巨大な雷が描かれた、地球創世期の物語をカラーページで読んだ時、私の心の海にもズドーンと大きな雷が落ちたのだ。

    それは一見すると恐ろしいイラストでもあったのだが、同時にとても神秘的で、そこから生命が進化して広がる様を想像すると両手に希望の光の束を握っているような不思議な高揚感があった。

    命を創る物質は宇宙からやってきたのか?雷から偶然生まれたのか?
    子供の私にその仕組みはわからなくても、心に生まれた好奇心は止めることはできなかった。

    地球創成期の海は、当時はまだ有機物の溜まるポケットというより、海全体を指して「有機スープの海」と説明されていたと思う。
    その原始の海があまりに魅力的で、私は地球創世時代を見たかったし、カンブリア紀の海に潜ってみたかった。

    図鑑の中にはいつも「知りたい」がぎっちぎちに詰まっている。

    地球と宇宙は同じところにあるもので、同時に地球で起きた命の進化も私にとっては同じところにあるものだった。

    つまり全てが「宇宙」にあるのだ。

    天文学なのか、地球科学なのか、古生物学なのか…細かな区切りはわからなかったが、子供の私はそういう学問をやりたいと思うようになった。

    そう、私は疑問に思うことの全ての答えを知りたかった。


    これは小学生時代の話である。


    その小学校1年生の頃に、居住地市内にこじんまりとした「博物館」が出来た。
    一番嬉しかったのはその小さな博物館には、なんと「プラネタリウム」があったことだ。
    小学校の中学年頃になると結構な頻度で通っていたと思う。
    博物館主催の「星を見る会」というものもあって、屋上で学芸員の先生が望遠鏡で星を見せてくれる行事もあった。
    もちろん何度か参加している。

    1970年代の終わりから80年代くらいは、ノストラダムスの予言などで人類滅亡論が大変流布した時代だったと思う。
    その中で「惑星直列」という言葉があり、これが来たら大災害で滅亡する、という話もあった。
    私はこの妄言にまんまと乗って海まで惑星直列を見に行った。
    1982年のことだ。
    けれどその光景を見て自然災害や人類の危機を感じることはなく、真っ暗な海で見上げた星空と並んだ惑星の配置の美しさにただ感動した。
    人類滅亡よりも何故惑星がこんな風に並ぶのかの方が知りたかった。

    同時にこの頃、ハレー彗星の話題も始まっていたと思う。
    1986年にハレー彗星が帰ってくるので、それも相まって大災害が来るというような話が世間では盛り上がっていた。

    あの頃はSNSはなかったが考えてみれば起きていることは今の時代と変わらない。
    非日常的な何かを恐れ、反面で期待して皆で騒いだ。
    そこに正しい知識はないまま噂は広がってゆく。

    私も小学校のクラスでそんな本を回し読みしてはちょっと怖くて面白がっていたと思う。

    天体現象が実際に地球や人類に影響を与えることは本当にあるのだろうか?私は知りたくて本を読んだ。
    すると、1910年のハレー彗星の時にも人々が彗星の接近により毒ガスが広まるという噂に翻弄されていたことを知った。

    だが私が本で見たその当時のハレー彗星の姿はとてつもなく大きく美しいものだった。
    私はそのサイズの彗星を自分の目で見たくて1910年を羨ましく思い床を踏み鳴らした。

    見たい!
    自分の目で!


    そして、この1986年のハレー彗星が実際に見えた頃、私は高校2年生になったばかりの時期で、かつ、既に博物館の研究室に棲みつく小妖怪のような女の子になっていた。

    もう当然のように彗星や惑星直列が人類滅亡につながる説は信じていなかった。


    中学1年から縁があって博物館の研究室に出入りするようになった私だったが、それを許してくれた当時の博物館の方針や学芸員先生方の忍耐に改めて心から感謝の気持ちでいっぱいになる。

    私の思春期はこの博物館と共にあった。

    何もわからない子供時代に、自分の周りに専門家の大人たちが当たり前にいて、わからないことを質問するとすぐに答えてくれたり、一緒に調べてくれるということがどれほどその子供の心を育み、どれほど幸せにするか。
    とても私の拙い表現力では伝えきれない。

    この博物館では複数の分野を取り扱っていた。
    天文学、生物学、考古学、歴史・民俗学。
    所謂博物学を学ぶ土壌がそこにはあった。

    この地球の上にあるもの、そしてこの地球の外にあるもの、そのすべてへの興味と好奇心を育て受け止めてくれる。
    その環境が当たり前のように自分にあったことを、私は生涯忘れることはないだろう。

    そこにはいつも同じ年頃の仲間もいれば、当時大学生や大人だったお兄さんやお姉さんもいた。
    年齢も性別も関係なく、同じことに興味を持った者がそこには集っていた。


    今「放課後博物館」という概念がある。
    それを生み出した人がいた。

    私が博物館に出入りしなくなってからその概念は生まれ、全国に広まったことを後から知ることになる。
    それを生み出した人こそが、私が研究室に棲む妖怪になるきっかけとなった、最初に出会った学芸員の先生だった。

    博物館側が私を忘れても、私は生涯忘れない。
    奇跡のようなあの日々をくださった先生の名を。そして私と宇宙の繋がりを受け止めてくださった先生方の名前を。
    それから、その星仲間であり私に影響を与えた旧友の名前を。



    【宇宙に還る日】Ⅳ.背中の翼


    さて、時計の針を再度留学先から帰国する頃にまで進めてみる。
    ぐるんぐるんと針をぶんまわす。

    博物館に育てられた私は大学で歴史・考古を学び、その後海外留学をして考古学の続きを学んでいた。

    そんなある時に歴史科の先生から声がかかる。
    「大学院に進学しないか?」
    という奇跡の言葉だ。

    私は嬉しくて空を飛んでしまいそうだったが、院へ進むなら、学費や生活費を捻出するために一度帰国して働いてこなければならなかった。
    他に方法もないので、とにかく私は一旦帰国することになる。

    けれど、これが私の運命の分かれ道となった。

    帰国後はとにかく仕事をしたが、日本での生活にもお金が必要なため、すぐに学費を貯めることができなかった。
    同時に院への進学は母から反対されてもいた。

    ともあれお金を貯めなければ、という日々の中で、ある時かねてから交流のあった知人男性と流れで会うことになり、実際に会ってみると何故だかとんとんと話が進んで結婚をすることにまでなってしまった。
    もはや進学どころではない。


    なんやかんやとあったものの、結局私の学問はここでピリオドを打つことになる。


    別に結婚が嫌だったとは思ってはいない。
    私は二人の息子を産んだし、自分の博物館の経験も留学の経験も、寿命までにその子供たちに伝えることができる素材となったことは嬉しいことだ。

    ところが、先に言えば、実は30代で【鬱病】を発症してしまう。
    その時は早く死なねばと毎日思っていて、何やら何も見えない暗闇の底でひとりポツンと体育座りをしている感じが本当に苦しかった。

    やがて治療により鬱は寛解したものの、揺り返しは何度もやってくるので気が抜けない。
    揺り返しては都度そのメンタルと向き合い、親との確執にも向き合い、私はここまで生きてきた。

    おまけに子宮頸がんにひっかかって全摘手術をしたり、階段から転がり落ちて腰椎の骨折をしたり、といろいろやらかしている。
    脳内の未破裂脳動脈瘤まで見つかる始末だ。

    息子にも病気があったし、夫は単身赴任だし、実家は遠いし、結婚と育児のその間、私はもう宇宙も生き物も、好きなことは全て封じてしまうしかなくなった。

    そうして、背中についていたはずの白かった翼は黒く汚れて傷み、片方はついに腐ってもげてしまったのだ。地面に落ちた片翼は小さく溶けて消え、黒い煙が空中に霧散した。

    残ったのは薄汚れて空は飛べない片翼のみ。

    けれど、現実とはいつもこのようなものなのだ。
    お金も必要であるし、好きなことだけで生きていくことは難しい。
    だから私は淡々と日々を過ごして生きている。

    結婚生活は多分楽しかったはずなのだが、いつ頃からか、自分の中の宇宙を閉じ、やがて自然科学そのものを閉じて心の奥底に埋めると、更に上から土をかけて痕跡すら見えないようにしていたと思う。
    これは私の脳内で科学への興味を埋葬していることになる。

    そう、私は埋葬した。

    宇宙とは何なのかを考えることをやめるために。
    結局今思うと、科学を閉じた私に対し、代わりにやってきたものはほとんど災厄に近いものだった気がして笑える。

    見上げなくなった星空はいつからか冷たくなり、子供の頃に確かに生えていた背中の真っ白な翼は、片翼がもげたきり生えてくることもない。

    例えば宇宙に関するニュースは耳に届いていたし…ISSが見れる時間の情報も目にしていた。
    帰省のついでに筑波宇宙センターにぶらりと寄ったり、友人に誘われて居住地のプラネタリウムに行ったことももちろんある。
    はやぶさの帰還の時の盛り上がりも当然記憶しているし、故竹内結子さんが主演された映画も拝見している。

    私の心の奥底に埋め込んだ「科学」への興味はもちろん埋葬されたままであったが、土の上にわずかに染み出したものが私の心をチリチリと揺らし続けていたのかもしれない。

    ただ、そこに熱量はなかった。

    水と水酸化ナトリウムを混ぜると起こる溶解熱のようなものは、もう心の中に生まれることはなかった。

    たまにニュースになる流星群の情報、日食や月食の情報を目にすると、子供に見せようと思って動く程度だ。それは自分自身の興味と言うより、教育的意味合いというものに過ぎない。
    2012年の金環日食の時は近所の中学校で観測会があったので子供を連れて行った。月食は起こる度に子供に伝えて一緒に見た。

    ただ一つ、上の子が3歳の頃、私は子供を寝かしつけてから一人ベランダで流星を見ようとしたことを覚えている。

    2001年のしし座流星群だ。

    その年はかなり流れた記憶があって、子供に見せるためではなく、自分が見たくてベランダに出たことを覚えている。

    その行動は私の宇宙への憧憬の燃え残りだったのか、あの時の気持ちがどんなものだったのかは覚えてはいない。

    いずれにせよ、宇宙を含めた自然科学への好奇心と、子育てや自分のメンタルを保つこととの両方を、同じ重さで持ち続けることはできなかった。

    子供の頃確かに暖かかった宇宙は、結婚後にはただの冷たい夜空になっていたのだ。

    それでも子供がいたので例え無感情でも天体現象に触れ続けることができ、鬱と戦うこともできたと思う。
    片翼を失っても不幸だったとは思ってもいない。


    だから今、いつか先に逝く自分が我が子に残したいと思うことを伝えたくてこれを書き記している。



    【宇宙へ還る日】Ⅴ.つながる世界


    突然だが、今から数年前に私は自宅庭でアゲハチョウの幼虫を見つけた。

    画像
    撮影:著者

    私は本来昆虫が苦手だったのだが、この時は何故か強い好奇心に駆られた。それは一つの変化だったのかも知れない。

    私はそこから猛烈に観察欲がわいてくるのを感じ、幼虫を保護しては育ててみた。
    蝶の成虫への成功率がとても低いこと、羽化までにたくさんの試練があること、その生態の興味深さを知るに、久しぶりに何かを思い出しかけた。
    食草を探して山に行く。
    失敗も重ねる。


    ある日、わからないことがあった時に市立昆虫館の学芸員の方にお尋ねするメールを出した。
    すると、何だか懐かしい感覚に私の背中がむずむずしてきたのだ。
    その昆虫館の館長さんは私の恩師の名前をご存じだった。

    こんな遠くまで【放課後博物館】の先生の名前は知れ渡っていたのだ。

    私の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

    先生はもうだいぶ前にご病気でご逝去されている。
    けれど先生の残された考え方は今も遠くの博物館にまで広がり受け継がれていることを知った。

    私は涙を拭いて顔を上げた。
    それ以来、我が子のためではなく自分自身のために、星の輝く夜空を見上げたいと思うようになった。

    去年と今年、もと星仲間の現音楽家に再会した。
    お互いに面白いと思った漫画の話から哲学の話へ。
    あの頃共に流星群の星の数を数えた話へ。
    とめどなく会話が続く。

    そう、私の中で長く時は巡っていたようだ。

    2026年、私は自分を育ててくれたあの博物館にその旧友と共に帰ってみることにした。
    ちょうど当時の天文学芸員の先生お二人も来るとのことで奇跡的な再会となった。

    新しい先生たちもご活躍で、有名になっている旧友は人気者で、新たな星の仲間に囲まれていた。

    時代は変わっている。
    だが私は寂しくはない。



    私の中にはずっと子供の頃から「知りたい」が心の真ん中にあった。

    思春期には博物館に育てられ、星だけではなく生き物についても教えて頂いた。
    それから考古学は自分で選んだ。
    今当時の賢い仲間と違って手には何も持っていない私だが、実はずっと「博物学」を辿って生きてきていたのではないのかと思う。

    我知らず博物学を両手に溜めて、やっと帰って来た気がした。

    3階のプラネタリウムの横に研究室に続く扉がある。
    当時と何も変わらない扉。
    だが今は入れない扉。
    子供の頃、あたりまえに3階へ上がる階段をダッシュして飛び込んだ私がいた。

    そして今、その扉を開けた自分の背中が見える気がする。
    真っ白な翼を生やした子供の自分の背中が。
    そのイメージは私に残された黒い染みだらけの片翼の色を白く染め直してゆくような気さえした。

    画像
    撮影:著者

    蝶を育て、宇宙を見上げ、仕事で子供たちに自然科学の話をする私は博物館で育ててもらった魂を今やっと掘り起こしている。

    そうだ、私は宇宙が好きだ。

    ねぇ還ろう。
    私たちの宇宙に。

    故郷「平塚市博物館」を愛した心と、故浜口哲一先生、まだまだご活躍中の鳫宏道先生と澤村泰彦先生に深い深い感謝の気持ちを捧げて。
    また旧友ミマスくんに深い友情を捧げて。


    ある夜、私は久しぶりに息子と一緒にISSを探した。
    時間になると、予定の高さと方向に真っ白な光点が視界に入り、私たちの方に向かって進んでくるように見えた。

    ねぇ宇宙、君の正体は何なの?
    ねぇ、ダークマターの正体を知りたいんだよ!

    画像
    AI生成画像

    ※トップ画:AI生成による


     
     
    @Fomalhaut0421(X) 宇宙や鉱物・生き物が大好きで思考をこねくり回す系です 博物館に入り浸っていた日々や鬱病についてなど少しずつお話していきます フォロー頂けましたらとっても嬉しいです♫ ⇩アイコン作成はこちら @myu_prompt_ai(Threads)

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