
渚 #1-看板のない店
モニターを三時間睨むと、眼の奥に、四角い影が残る。
その日は秋冬カタログの最終チェックだった。
ソファとローテーブルと、横に置くフロアランプ、三点が揃って一枚の写真になる。
一点でも雰囲気が合わないと成立しない。
ちゃんと揃えるのは、思っているより難しい。
帰る前に、蔵前の革職人のところへ制作の打ち合わせで寄った。30分で用は終わった。
来た時とは違う道で、駅に戻ろうとしたが、たぶん、どこかで進む先を間違えていた。
見覚えのない店名が並ぶ、電灯も少ない通り。
すぐにマップを開けばいいのだけれど、もう画面をじっくりと眺める気にはなれなかった。
細い路地の突き当たりに、明かりが、ひとつだけ点いていた。
看板はなかった。店だと気づくのに、すこし時間がかかった。
それからしばらく、店の前で立ち止まっていた。
「入りなよ」
店から女が出てきて、僕にそう言った。
「あ、いえ、ちょっと」
「迷ってるでしょ」
彼女は、こちらの顔を見ないまま言った。視線は、店の前の道路のほうを向いている。
「いえ、迷ってるというか」
「うん、入りなよ」
少し笑ったような、笑っていないような顔で、店の中へ戻っていった。ドアは開いたままだった。
入っていいということ、なのだろう。
僕は、またしばらく立ち止まってから、店に入って、扉を閉めた。
店の中は、思っていたより広かった。
古い紙と、香水と、わずかに金属の匂いがする。
天井が高くて、奥行きがあって、入り口から見ただけでは奥が見えない。
古い木の棚がいくつもあって、棚の上に、ぜんぶ違うものが乗っていた。
古い時計、ガラスの瓶、本、写真集、片方だけの靴、海外のお菓子の空き缶、古いゲームソフト、ドライフラワーの束、レコード、使いかけの香水。
ビンテージショップというには、品揃えがまとまらない店だった。
「適当に見てて」
女は、レジカウンターの中に入って、椅子に座った。こちらを見もせずに、手元の本を開いた。
細身の小柄な人で、黒い髪を後ろでひとつに結び、黒のニットの下に白いシャツを着ていた。
顔立ちは僕よりも若そうに見えるが、背中はぐっと曲がっていた。
僕は、棚を、ひとつずつ見て回った。
値札がついているものと、ついていないものがあった。
ついているものも、不思議な値段で、古い時計が三千円、隣に置いてある何でもないように見える石が八千円。
石のほうが高いんですか、と聞きたかったが、聞けなかった。
棚の前で、またしばらく、立ち止まっていた。
「気になる?」
彼女が、本から顔を上げずに言った。
「いや、なんで時計より石のほうが高いんだろうって」
「ああ、それ」
彼女は本を閉じて、ゆっくりと、こちらへ来た。
「それね、フィリピンの市場で、八十のおばあちゃんが、これは絶対に売らないって言って手放さなかった石なんだよ」
「絶対に売らないやつが、どうしてここに?」
「次の日、急に売ってくれた。八千円くらいで。理由は、教えてくれなかった」
「それで、ここでも八千円で売っているんですか」
「うん。値段を変えると、石に悪い気がして」
そういうものか、と僕は思った。
「他のも、そういうのが?」
「ぜんぶ、そう」
ぜんぶ、と聞き返したかったが、聞き返す前に、ドアが開いた。
別の客が入ってきた。四十代くらいの女性で、髪を後ろで結んで、手にトートバッグを下げていた。
「いらっしゃいませ」
彼女は、その客に向かって、頭を下げた。
声のトーンが、僕に話していた時と、まったく違った。
「先日はありがとうございました。あの本、すごく良かったです」
「嬉しいです、ありがとうございます。今日は、何かお探しですか」
「いえ、とりあえず、見せていただけたら」
「どうぞ、ごゆっくり」
彼女は、僕に背を向けたまま、その客を奥の棚のほうに案内した。
背筋が伸びているし、ちゃんと目を見て話している。
僕は、棚の前で立ったまま、その光景を見ていた。
「お客さん」になれるあの女性のことを、すこし、いいな、と思った。
しばらく話してから、彼女はレジに戻った。
客は、奥でゆっくり、棚を眺めていた。
「敬語、使えたんだ」
彼女は、座りながら、こちらを見た。今度は、ちゃんと目が合った。
まどろんだような、やわらかい目をしていた。
奥のほうが、よく見えない目だった。
「お客さんには使うよ」
「僕、お客さんじゃないんですか」
「うん」
「なんで、ですか」
「んー、分かんない」
彼女は、本に視線を戻した。
僕は、また棚を見て回るふりをしながら、頭の中で、同じ言葉を繰り返していた。
僕、お客さんじゃないんだ。
そのことが嬉しいのか、よく分からなかった。
帰る前に、棚から小さなガラスのペーパーウェイトを取って、レジに持っていった。
「これ、ください」
「はい、千二百円」
彼女は、ペーパーウェイトを白い紙でくるんで、紙袋に入れた。
それから、レジ下の引き出しを開けて、しばらく、中をめくっていた。
四つに折った、手紙くらいの大きさの紙を一枚、取り出して、紙袋の中に品物といっしょに入れた。
「これも?」
「うん」
「何ですか」
「家で、読んで」
僕が外に出るときも、彼女はレジに座ったままで、ひらひらと手を振っていた。
歩きながら、さっきの石のことを考えていた。
ほんとうにフィリピンのおばあちゃんが手放さなかった石なんだろうか。あれは、彼女が考えたつくり話、なのかもしれない。
どっちでも、よかった。
電車の座席に座ってから、紙袋の中を覗いた。
白い紙にくるまれたペーパーウェイトの横に、四つ折りの紙が入っていた。
取り出して、膝の上で、ゆっくり開いた。
細い字で、文章が、書かれていた。
読み終えてから、しばらく、何も考えなかった。
紙を、また四つに折りたたんで、紙袋に戻した。
* * *
二週間後、僕はまたあの店に行った。
別に欲しいものがあるわけではなかった。
仕事の帰り道に、たまたま寄り道した、ということにしておきたかった。
今日は、入口のドアが、開いたままだった。
彼女はレジカウンターの中にいて、本ではなく、みかんを剥いていた。
細い指で、皮を、丁寧に剥がしている。
半分くらいまで剥いて、こちらに気づいた。
「あ、きみ」
僕を見て、彼女は短く言った。それだけだった。
「こんばんは」
「適当に見てて」
二週間前と、同じ言葉だった。
違うのは、「あ、きみ」だけ。
「あげようか、半分」
「いいんですか」
「うん。一人で食べきれない、これ」
彼女は、剥き終わった小さなみかんを半分にちぎって、片方を僕に差し出した。
指から指へ、冷たさが移った。
みかんを食べ終わった彼女は、二つ目をすぐに剥き始めた。
* * *
それから二週間ほどして、僕はまた店に行った。
この店の奥の棚には、変なものが、まとめて並んでいる。
茶色い紐で結ばれた古い手紙の束、片方だけの古い革靴、ぜんぶ違うラベルの海外お菓子の空き缶、片方だけのイヤリング、使いかけの香水、誰の写真かも分からない一枚、何に使うか分からない小さな金属の道具。
「ここ、変なもの、多いですね」
「変?」
「変、っていうか」
「変」
僕は、棚から、茶色い紐で結ばれた手紙の束を、手に取った。
「これは?」
「長野の家を取り壊すとき、押し入れの天井裏から出てきたやつ」
「読んだんですか」
「読んでない。紐を、解いてないから」
「へえ」
「届かなかった手紙、なのかも」
めずらしく笑みを浮かべながら続けた。
「届かなかった、っていうのが良いんだよ」
「そうなんですか」
「届かなかった、っていうのは、誰でも、ひとつくらい、ありますもんね」
「……きみ、感傷的だね」
「そうですか」
「うん。けっこう」
「嫌いじゃない」
そう言って、彼女は、また本に視線を戻した。
僕は、手紙の束を、棚に戻した。
その日は、帰りに、片方だけのイヤリングと、古いボタンを買って帰った。
それぞれの物語を、彼女が、短く話してくれた。
紙袋に入れるとき、渚はまた、引き出しから紙を取り出した。今日は、一枚だけだった。
物語は、ぜんぶ違った。
物語を作っているのか、それとも本当に、ぜんぶどこかから来たものなのか、僕には分からなかった。分からないままにしておきたかった。
考えていると、少し笑いたくなった。
それでも、嫌な気はしなかった。
むしろ、品物に値段を付けているのは、その物語のほうなのだろう。
家に帰って紙袋を開けると、紙は、ボタンのほうに、くるまれていた。
* * *
四回目に会った日だった。
カウンターの横に、配達伝票が置いてあるのが目に入った。
受取人のサイン欄に、細いマジックで「ナギサ」と書いてあった。
「ナギサさん、っていうんですか」
僕は、伝票を見ながら言った。
「うん。波打ち際の、なぎさ」
渚は、指で空に字を書いた。
「へえ、素敵ですね」
「そう?」
「波打ち際、好きで」
「ふうん」
渚は、それ以上、何も言わなかった。
僕は、しばらく、彼女の名前のことを考えていた。
それから、こう言った。
「僕、湊といいます」
「へえ、よろしくね」
それだけだった。
それからも、みなと、と呼ばれることは、なかった。
* * *
冬の初め、十二月の最初の週だった。
店に入ると、渚は、窓際に立って、外を見ていた。
「雪、降るかな」
僕に言ったのか、独り言なのか、分からなかった。
「降るらしいよ、今夜」
「ふうん」
「雪、好き?」
「嫌いじゃない」
「『嫌いじゃない』って言葉、よく使うね」
「好きとも嫌いとも、決めたくないものに、使う」
渚はそう言って、僕のほうを振り返ったが、目はずっと向こう側を見ていた。
電車に乗って、家に帰る途中、僕は、もう一度、彼女の言葉を口の中で繰り返していた。
──好きとも嫌いとも、決めたくないものに、使う。
彼女の言葉は、文字になって頭に浮かんだ。
僕も、書きたくなった。
家に帰ると、いつもより、遅い時間だった。
気づかないうちに、あの店に長居するようになっていた。
ジャケットを脱いで、机の引き出しを開けた。
何年か前に買ったまま何も書かれてないノートが、奥のほうに入っていた。
ノートの手前には、四つ折りの紙が、何枚か、重ねて入っていた。
ボールペンを取り出して、ノートを開いた。
何から書けばいいのか、分からない。
ペンを持ったまま、しばらく、何も書けなかった。
けれど書かないと、彼女が、いつかどこかへ、消えてしまう気がした。
机の上には、これまで彼女から買ったものが、いくつか並んでいた。
ぜんぶ、それぞれの物語を、持っていた。
僕は、ノートの最初の一行に、こう書いた。
「入りなよ」
それだけ書いて、ノートを閉じた。
表紙に 「湊」 と、書いてみた。
ペンで、その文字を、線で潰した。
潰してから、ノートを引き出しの奥にしまった。
その夜、雪は降らなかった。