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インターホンの向こう側で、彼女は私の「ゴミ」を愛していた。

    「すいません、その、ベランダに出ている青いゴミ袋、私が引き取ってもいいですか」
    それが、隣の302号室に引っ越してきた「佐伯さん」という女との、最初のまともな会話だった。
    築26年の木造アパート。壁が薄く、隣の人間が深夜にポテトチップスの袋を開ける音まで聞こえるような場所だ。私はそこで、鳴かず飛ばずの同人漫画を描きながら、深夜のコンビニバイトで食いつないでいる。
    佐伯さんは、いつも髪を後ろで適当に束ね、色の褪せたカーディガンを着ている、影の薄い女だった。年齢は20代後半だろうか。
    「ゴミ、ですか?」
    私はドアの隙間からチェーンをかけたまま聞き返した。
    「はい。あの、不法投棄とかじゃなくて。私が、その、個人的に処理しますので」
    不気味だった。だが、その時の私は締め切り前で3日徹夜しており、思考能力が完全に麻痺していた。毎週のゴミ出しさえ億劫だった。
    「……じゃあ、勝手に持っていってください。生ゴミとかも入ってますけど」
    「ありがとうございます!」
    佐伯さんは、まるで高級ブランドのバッグでも譲り受けたかのような、本当に嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。その顔が、頭の芯にこびりついて離れなかった。
    それから、奇妙なルーティンが始まった。
    私がベランダの隅に指定のゴミ袋を置いておくと、翌朝には綺麗になくなっている。カラスに荒らされる心配も、ゴミ分別を大家に怒られる心配もなくなった。
    だが、2ヶ月が過ぎた頃。私はある異変に気づく。
    ベランダのゴミ袋がなくなるとき、かすかに「カシャ、カシャ」という金属音が聞こえるのだ。気になって、ある夜、ゴミ袋の中に壊れた古いスマートフォンのボイスレコーダーを、録音状態のまま忍ばせてみた。
    翌朝、ゴミ袋はいつも通り消えていた。
    その日の夕方、302号室のチャイムを鳴らす。
    「あの、すいません。昨日、間違えて必要な書類をゴミ袋に入れちゃったみたいで……」
    嘘だ。
    佐伯さんは少し焦った顔をしたが、「あ、じゃあ、これですかね」と、すでに綺麗に分別された私のゴミの山(信じられないことに、プラスチックや紙類が完全に洗浄されていた)から、スマートフォンの入った袋を渡してくれた。
    自室に戻り、私はすぐに録音データを再生した。
    スピーカーから流れてきたのは、静かな部屋の音。そして、袋が破かれるカサカサという音。
    そこまでは予想通りだった。だが、その後に聞こえてきた音が、私の背筋を凍らせた。
    『……あ、これ、先週のネームの没原稿。……こっちのコマの方が、先生らしいのに。……あ、今週はセブンの冷やし中華、2回も食べたんだ。夏バテ、してるのかな……』
    衣服が擦れる音。そして、吸い込むような音が聞こえる。
    『……生きてる。先生、ちゃんと生きてる……』
    佐伯さんは、私のゴミを分析し、私の生活を、私の呼吸を、その指先と鼻腔で、狂信的にトレースしていたのだ。彼女にとって、私のゴミ袋は「私という人間の最新刊」だった。
    驚怖で震えが止まらなかった。すぐに警察に、大家に言うべきだ。
    しかし。
    私はパソコンの画面に目をやった。
    そこには、ここ数ヶ月、信じられないほどスラスラと描けている、新しいホラー漫画の原稿があった。SNSでの評価も、今までの10倍以上に跳ね上がっている。
    なぜ描けているのか。理由は分かっている。
    「誰かに、異常なほどに見つめられている」というこの極限の緊張感と恐怖、そして歪んだ万能感が、私の脳を異常に活性化させていたからだ。
    私はボイスレコーダーを机に置いた。
    そして、新しく買ってきたゴミ袋を開けた。
    中に、わざと「次の作品のプロットの切れ端」を破って入れた。それから、わざと少し高価な、普段は買わないメーカーの缶コーヒーの空き缶を入れた。
    「私は今、調子が良いぞ」というメッセージを込めて。
    私は、彼女の異常性に恐怖しながら、同時に、彼女という「世界で最初の熱狂的な読者」を失うことが、何よりも怖くなってしまっていた。
    今夜も、薄い壁の向こうから、かすかに私のゴミを愛でる音が聞こえる。
    私はペンを握る。私たちは、このゴミ袋というインターホンを通じて、世界で一番深く繋がっている。

    #創作大賞2026 ⁠ #オールカテゴリ部門 ⁠ #ミステリー部門  ⁠#短編小説⁠

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