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小さな手、カナリアの檻(シロクマ文芸部)

使い込んだバックパックの重みとすり減った登山靴だけを頼りに、地図の染みのような村へ迷い込んだのは、底なしの悪天候に追いつかれたからにほかならない。

鉛色の空から降り続く雨は霧とも区別がつかないほど細かく、確実にあらゆるものの輪郭を奪っていく。

フードを打つ水音と、濡れた地図を押し込んだポケットの湿り気だけが、旅を続ける現実を辛うじて繋ぎ止めている。
行くあてなどなかった。
ただ、この湿った闇と冷気から逃れられる屋根が一つでもあればいい
――そんな自暴自棄な焦燥に突き動かされるようにして、視界の端に濁った川と、それを渡るための古びた板橋、そして山の斜面に張り付くような家々の影が浮かび上がった。


村の名前は看板すら見当たらなかった。
軒を連ねる家々の窓という窓から、一様に黄色く濁った灯りが漏れている。
誰も外を歩いていない。
人の気配がない代わりに、生きた巨大な生き物が息を潜めているような、重苦しい静寂だけがそこにあった。



「……誰か」


声を漏らしても、雨音にかき消される。
だが、一番手前にあった古びた木造の家の引き戸に手をかけた、まさにその時だった。

背後でごうっ、と地響きが轟いた。
振り返ると、ついさっきまで自分が渡ってきたばかりの板橋が、濁流の中に音を立てて引き裂かれ、呑み込まれていくところだった。


――一瞬の出来事だった。


冷や汗が背中を滑り落ちる中、目の前の引き戸が、音もなく内側へとスライドした。

そこに立っていたのは、十歳くらいの少女だった。

大きすぎる袖の古びたカーディガンを纏い、細い手首の先には、血の気のない小さな手がぶら下がっている。
あどけなさが残る丸い輪郭をしているのに、その瞳だけは、底知れぬ深さを持った沼のように冷たく、濁りがなかった。


少女は驚く様子もなく、ただずぶ濡れのコートを着た旅人の姿を、じっと見つめていた。


「……雨、すごいですね。橋が、落ちたばかりで……」

言葉を継ごうとした喉が、冷気でかすれた。
少女は返事をしない。
代わりに、すっと身を引き、中へ招き入れるように小さな一歩を引いた。


外では濁流が木々をなぎ倒し、橋を呑み込む轟音が響いているというのに、家の中は奇妙なほど静まり返っていた。
壁の古びた柱時計の振り子が「チク、タク」と乾いた音を刻み、暖炉では湿った薪がパチパチと爆ぜている。


「……どうぞ」

少女が小さな手でテーブルの上に置いたのは、無骨な陶器の器だった。
スプーンを差し入れ、口に含んだ瞬間、旅人は思わず息を呑んだ。
ゴボウや根菜の旨味が溶け込み、塩気が絶妙に効いた、驚くほど美味しいスープだった。
冷え切った内臓の隅々まで、あたたかな液体が染み渡っていく。


けれど、美味しければ美味しいほど、奇妙な悪寒が背筋を這い上がった。

少し前に橋が落ち、自分がいきなりこの村に行き詰まることなど、誰にも予測できなかったはずだ。それなのに――まるで客人が来ることを最初から知っていたかのように、スープは完璧な温度で用意されていた。

少女は自身の分のスープには手をつけず、ただ虚空を見つめるようにじっと座っている。
その細い手首の先にある小さな手が、微かに震えていた。


「……君は、俺が来るって、分かってたのか?」


問いかけた声は、薪の音にかき消されそうになる。
少女は答えず、ただゆっくりと首を横に振った。けれど、その瞳の奥には、これからこの家を訪ねてくるであろう「別の足音」を予期しているような、冷たい沈黙が張り付いていた。


美味しいスープの余韻が冷めきらないうちに、玄関の引き戸が、ことりと上品に叩かれた。
荒々しいノックではない。
それはこの家が村人たちにとってどれほど神聖で、同時に恐れられている場所であるかを物語るような、慎ましい物音だった。



「――おや、失礼するよ」

低い声とともに、すっと引き戸が開いた。
そこに立っていたのは、初老の男だった。
煤けた外套を脱ぎながら、男の視線は一直線に部屋の奥――テーブルの前に座る少女へと向けられた。

その眼差しには親愛というより、もっと歪んだ信仰の熱が帯びていた。

男は少女が無事であることに満足したように一度うなずいてから、ようやく、テーブルの隅に座る旅人の存在に気づいたように視線を巡らせた。


「おお、やはり来ていたか。無事で何より」

その言葉には、旅人が濁流の橋が落ちながらも命拾いしたことに対する、素直な安堵の響きがあった。



「橋が落ちて出られなくなったらしいな。――あの子が言っていた通りだ。
お前さんがここにたどり着くことも、あの橋が呑まれることも、あの子は昨日のうちに教えてくれていたよ」


男は少女の小さな肩に、重々しく手を置いた。

「やはり、お告げどおりだったな。
お前さんがこうして無事にたどり着いたことで、今回も証明された。
橋が落ちるという厄災はあったが、こうして客人が無事に収まった。
……ありがたく思いなさいよ、旅の人。
この子が、あなたをここに導いてくれたんだから。当分は、この村でゆっくりしていくといい。」


村長は「今回も大きな災難をうまくやり過ごせた」という満足げな顔で静かに引き戸を閉めて去っていった。

あとに残されたのは、再び一定刻みで響く柱時計の音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけだった。

旅人はテーブルの縁に手を置き、ふうと浅い息を吐いた。
外の濁流の轟音は相変わらず激しい。
村人たちは口々に「あの子のおかげで無事に厄災をやり過ごせた」と安堵し、橋が直るのを待つ日常へと戻っていく。


けれど、少女は一度たりとも村人たちの安堵の気配を振り返りはしなかった。


その大きな瞳は、薄暗い部屋の窓の向こう、濁流の先で重く沈み続ける山肌を、ただじっと見つめたまま動かなかった。


二日ほど降り続いた雨は嘘のように上がり、鉛色の雲の切れ間から、じっとりとした湿気を帯びた陽光が差してきた。

だが、濁流に抉られた橋の復旧にはまだ何日もかかる。外の世界へ通じる道は断たれたままだ。


やることがない。
旅人はバックパックから財布や地図を取り出し、退屈と居心地の悪さに背中を押されるように、家を出て村の細い路地を歩いてみることにした。

すれ違う村人たちは、旅人を見る目にどこか親愛の色を滲ませていた。


「おお、あそこの家に泊まっている方か。無事で何よりだ。
あのおかげで、今回も危ないところを救われた。」


井戸端で野菜を洗っていた初老の女が、手を止めて得意げに語り始めた。

去年の凶作も、数年前の土砂崩れも、あの十歳の少女が事前に言い当てて村を救ってきたのだと。橋が落ちたことさえ、彼女が村を救うための
「予定された厄災」だったのだと誰もが信じ込んでいた。

「あの子がいなければ、この村はもうとっくに潰れていた。あの子はこの村の命綱なのさ」


誰もがその「奇跡」に甘え、自分たちで考えることを放棄している。
あの少女は敬愛されているのではなく、村中の不安を一身に引き受ける「生きた避雷針」としてそこに置かれているにすぎなかった。

その日の夕暮れ、旅人は家に戻り、窓辺に座る少女に問いかけた。

「すごいな。村の人たちは、橋が落ちたことこそが君の予言した厄災だって言って安心してる。
……どうやって、あんな大雨の日のことまで分かるんだ?」


少女は冷たい瞳を向け、驚くほど乾いて平板な声で答えた。



「……大きな災害の前には、いつも誰かが迷い込んでくるの。
風の匂いが変わって、大人たちの足音が、その準備を始めるから」

「迷い込んでくる?」

「うん。あなたが来る少し前、みんなの靴の裏の泥が重くなった。
……ああ、また新しい厄災がこの村に近づいているんだって、それだけで分かったの」


それは予知でも奇跡でもなかった。
大人たちのわずかな動揺や恐怖を誰よりも敏感に察知し、そのすべてを小さな身体のフィルターを通して「予言」に変換させられていただけなのだ。

そして村人たちは、その
「厄災の前に誰かが迷い込む」という法則すらも都合よく捻じ曲げ、「橋の崩落」こそがその厄災のすべてだと思い込んで油断しきっていた。


「辛くないのか?」


旅人の問いに、少女は少し首を傾げた。



「……辛いって、なに? 分からないよ。……ずっと、こうだったから」


底なしの虚無を孕んだその返事に、旅人は何も返すことができなかった。


それから数日が経ち、泥に埋もれていた橋がようやく仮復旧したその朝のことだった。

旅人は使い込んだバックパックを背に担ぎ、部屋の隅に立っていた。
ようやくこの村を出られるという安堵を胸に、窓辺にいる少女へと声をかけようとした
――その時。

少女の顔が真っ青に凍りついていた。
その小さな手は、恐怖で激しく震えている。



「ここにいたら死んじゃうから……お願い、逃げて」


少女はかすれた声で窓の外、村の背後にそびえる山肌を指差した。

村人たちがいまや「厄災はもう過ぎ去った」と安心しきって見向きもしないその斜面は、雨を吸い込み続け、今にも音を立てて崩れ落ちようとしていた。


けれど旅人は言葉もなく、その震える小さな手首を乱暴に掴んだ。


「……っ」


不意を突かれた少女が小さな息を呑み、わずかに見開いた瞳が揺れる。
抵抗する間も与えず、そのまま硬くこわばった身体を椅子から引き剥がすように引っ張り起こす。少女の足元はもつれ、細い足首が頼りなくよろめいた。


振り返ることもせず、足早に古びた引き戸をガラリと開けて飛び出した。
二人は仮復旧したばかりの橋を渡り、村の出口へと駆け抜ける。



背後で、ようやく通行止めが解除されたことに気づいた村人たちが、ざわめきながら家々から顔を出しているのが見えた。


「おい、どうしたんだ?」


「もう通っていいのか?」

誰もが安堵の表情を浮かべ、いつものように
――思考のすべてを放棄するように、村の中心にあるはずの「あの家」へと視線を向けた。



しかし、そこに彼女の姿はない。
いつもなら窓辺にちょこんと座っているはずの小さな影が、どこにも見当たらない。


村人たちの顔から「安心」の色が消え去り、戸惑い、焦燥、そして底知れぬ恐怖が浮かび上がる。



「……あれ? あのお告げの子はどこだ?」



「おい、あの子はどこへ行った……!?」



誰かが声を荒げた。
誰も自分で周囲の異変に気づこうとせず、ただ自分たちの頭脳代わりだった「カナリア」の不在だけを確認して、血の気を引かせていく。





村人たちが狂ったように名を呼び始めたその瞬間、村の背後にそびえる山肌から、ごうっ、と地盤を引き裂くような不気味な地響きが轟いた。
本当の巨大な土砂崩れが、まさしく生き物のように一気にうねりを上げて斜面を滑り落ちてくる――。

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平岡 悠 温かい応援をありがとうございます!いただいたサポートは、この物語を綴るための大切な糧として活用させていただきます。 皆さんの応援が、私の言葉に熱を灯す大きな力になっています。これからも悠の秘密の記録を、どうぞ密やかに見守ってください。