
ただの、青 第4話
黄金の境界線
ファミレスではない場所へ、今度は私から彼を誘った。
「少し、歩きませんか」
そうスマートフォンに文字を打ち込んだのは、すっかり風が冷たくなり始めた11月の終わり。
前回の別れ際、車のドアを閉める直前に口にしてしまった「また、ドライブ連れて行ってください」という、最大級の焦らしの約束を回収するための、私なりの口実だった。
待ち合わせ場所に現れた彼は、いつもの実直なシャツの上に、仕立てのいい上着を羽織っていた。
どこまでも広く、世界の果てまで続いているようなその公園は、見渡す限りの鮮やかな黄色に染まっていた。
頭上を覆う見事なイチョウの並木。
少し歩けば、芝生の広場がどこまでも広がっていて、そこでは家族連れが小さなテントを広げていたり、恋人たちが肩を寄せ合って笑っていたりする。誰もがそれぞれの、温かくて眩しい「日常」をそこに持ち寄って、穏やかな時間を過ごしていた。
すれ違う人たちの幸せそうな声に混じって、どこからか美味しそうな匂いが漂ってくる。
広場の隅には何台ものキッチンカーや屋台が並び、温かいスープや湯気を立てるおやつを買い求める人たちで賑わっていた。
そんな、あまりにも平和で、あまりにも開かれた昼下がりの風景。
「……賑やかですね」
彼が、上着の襟元に少しだけ首を埋めるようにして、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。みんな楽しそう」
私も笑い返す。けれど、胸の奥は少しだけチクリと痛かった。
ここにいるたくさんの人たちはきっと、誰に見られてもいい、堂々と太陽の下を歩ける関係なのだろう。私たちのように「外部委託」なんて言い訳を抱えて、お互いの昼間の世界に怯えながら歩いているわけじゃない。
だからこそ、この広大な、誰も私たちを気にしていない賑やかさのなかにいると、まるで世界に2人きりで取り残されたような、不思議な錯覚に囚われる。
並んで歩く。足元には、一面に落ちた黄色い葉が絨毯のように広がっている。
踏み締めるたびに、カサリ、カサリと静かな音が鳴った。
クリスマスの派手なイルミネーションのような特別感は何もない、ただ季節が巡っていく普段の、でも奇跡のように広い景色のなかで。
「この葉っぱが全部落ちたら、冬が来て、今年も終わっちゃうんですね」
何気ない日常の会話。
けれど、終わりを予感させる冬の気配が、私たちの「いつ終わるか分からない関係」に重なって、胸の奥をきゅっと締め付ける。
家庭に戻れば、それぞれにいつも通りの冬があり、いつも通りの正月が来る。ここには、私たちの未来を保証してくれるものなんて、何一つない。
だから、私は、彼の横顔を見つめながら、祈るようにその言葉を口にしていた。
「……来年の秋も」
そこまで言って、言葉が勝手に止まった。
その先を言ってはいけない、と頭のどこかでブレーキがかかる。
来年の秋も、またこの広い場所へ、あなたと来たい。
それは、お互いの昼間の世界を侵さないというルールの、完全な違反だった。
言えなかった言葉が、冷たい空気の中に白く濁って消えていく。
芝生の方からは、子供たちの無邪気なはしゃぎ声が風に乗って聞こえていた。
私の途切れた言葉に、彼は一瞬、息を呑んだように足を止めた。
黄金色の光に照らされた彼の瞳が、激しく揺れている。
彼は、私が飲み込んだ言葉のすべてを理解したように、真っ直ぐに私を見つめ、少しだけ震える声で答えた。
「……はい。来年の秋も、必ず」
その切実な声の体温に、私の胸の防壁が、またひとつ音を立てて崩れていく。
彼が、ゆっくりと上着のポケットから白くて綺麗な手を出した。
「手が、冷たそうですね」
そう言ってそっと伸ばされた彼の手が、私の手に重なる。
触れてしまった。
生まれて初めて触れる、彼の体温。
どうして拒まなかったんだろう。
自分で決めた「外部委託」のルールなのに。ここで拒まなければ、もう後戻りはできないと分かっていたのに。
――ああ、きっと、あの「全肯定」のせいだ。
言ってはいけないと私が飲み込んだ、未来への臆病なわがまま。それを彼は、濁らせた言葉の奥からすべてすくい上げて、真っ直ぐに、何一つ否定せずに受け止めてくれた。
ルールを破ってでも、私との未来を約束する。あの実直な彼がそこまでの覚悟をくれたから、私の理性のブレーキは、もう何の意味も持たなくなってしまったのだ。
キッチンカーの賑わいも、芝生の上で笑う家族たちの声も、繋いだ瞬間に、すべてが遠い世界の出来事のようにフェードアウトしていった。
寒さで強張っていた私の指先を、彼の大きな手のひらが、じわリと熱を帯びながら包み込んでいく。
誰の目にも留らない、でも私たちにとっては世界のすべてのような、黄金色の並木道のなかで。
私たちは手を繋いだまま、お互いの熱だけを確かめるように、静かに歩き続けた――。