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正吉

     あらすじ
    江戸の呉服屋で奉公する見習い小僧・正吉は、絵師になる夢を胸に秘めながらも、自分の才能に自信を持てず、現実との間で苦しんでいた。ある日、勇気を出して自作の絵を人に見せたことで夢への決意を固めるが、その勢いのまま店の売上金で筆を買ってしまい、自らを追い詰める。罪を告白し謹慎となる中、思いもよらぬ形で家族の真実が明らかになる。家族を捨てたと思っていた父もまた絵師を志し、夢を追って京へ旅立っていたのだった。葛藤や後悔、周囲の人々の温かな支えを受けた正吉は、自らの過ちと向き合いながら、夢を貫く覚悟を固めて京へ向かう。夢を信じる勇気と、人との絆が人生を切り拓く姿を描いた、成長と再生の物語である。



    正吉(しょうきち)は道端で途方に暮れていた。そして、これは自分の出来心が招いた当然の結果に他ならないと思うと自分自身への嫌悪と絶望が腹の底から渦巻いて込み上げてきた。
     
    どうしよう…帰って何と言うべきか…いや、帰りたくない、帰れない…
     
    正吉は三年前から中野にある呉服店で住込みで働く見習い小僧だっ
    た。普段は店番や仕入と売上の勘定を行う正吉であったが急な使い走りや売上金の回収に外へ使いに出ることもあった。正吉は絵を描くのが好きで外に出た時に見た風景や人などを絵の題材にして描くのが楽しみだった。正吉は以前に訪れた寺で見た襖絵に感銘を受けて以来、自分ももっと絵を描く技を磨いてあのように立派な襖絵を描ける絵師になりたいという思いを秘かにもっていた。正吉にとってはそろばんをはじいて勘定をしているよりも筆をもって思いのままに描く方がよほど楽しかった。そんな風だから勘定もよくはじき間違えていた。自分はこのままこの店でずっと奉公していけるのだろうか、このままでは自分のことはおろか家族の支えになることもできないなどとしばしば溜息混じりに思うのであった。正吉は絵を描くのが好きで絵師になりたい願望があるにもかかわらず自分の描いた絵に対する自信は全くと言っていいほど無かった。
     
    正吉には三つ下の弟と五つ下の妹がいた。父親は五年前に家を出たきり戻って来なかった。母親はいくつか内職を請け負っていたが生活していくには厳しかった。正吉はなぜ父親が出て行ったのかは知らなかったが、家族が厳しい生活を強いられる要因ともなった父親に対して正吉はいつしか嫌悪感を抱くようになっていた。そんな中正吉は母親の親戚筋の伝手で島田屋という呉服屋に奉公することになったのだ。この島田屋の主人は甚右衛門(じんえもん)という名で、正吉のことを温かく迎えてくれた。おかげで正吉は『不自由のない生活』を送ることができていた。決してこき使われるなどということはなく、衣食住も十分なものだった。しかし正吉の内心は『不自由のない生活』を送ることはできていなかった。見習い小僧として三年間店番と勘定をやってきたが、やればやるほど自分は商売をするには不向きな人間だと実感するばかりである。一人で店番をして誰もお客が来ない時などは店に飾られている着物の絵を描いたりしていた。やはり正吉は絵を描いていたいのである。正吉はどこかの絵師に弟子入りさせてもらおうかと考えることもあった。が、本当に自分が絵師として生活して行くつもりなのかと問うてみると正吉ははっきりと肯定出来なかった。正吉は自分の書いた絵を誰にも見せたことがなく、絵師として見込みがあるのかどうかも分からなかった。もっとも自分が描き溜めた絵は、自分が気の向くままに描きたいものを描いただけでわざわざ他人に見せるような物ではないと思っていた。それは自分に対する一種の言い訳であり自信の無さから人にみせることをためらっていたのだ。また、正吉はこの店を辞めるという決心も付け兼ねていた。この店を辞めたとして生家にもどっても食い扶持を増やしてしまうだけであるし、この店を辞めることは母親や母親の親戚筋に面目が立たないことであり、良くしてくれている甚右衛門にもどこか申し訳ないという気持ちがあった。いや、突き詰めていくとそれよりも何より『不自由のない生活』を失うことを恐れているのであるという胸の内に正吉は行きついてしまうのであった。このことについて正吉は今まで気付いてはいたが気付いていないふりをしていた。正吉は悶々として、自分の境遇に腹が立つこともあった。しかし冷静になると、奉公先で「不自由のない生活」を送っている自分は幸いだと思うのである。奉公先で不自由な生活を送っている者はあまたいるだろうし、自分の母や弟妹はどうだろうか。こうして正吉は自分の中で平静を保つのだが、暫く経つとまた悶々として腹立たしさが沸いてくる、そして冷静になり先と同じように思うのだ。正吉は結局自分をなだめることしか出来なかった。
    ここ半年程そんな思考を繰り返すばかりですっかり袋小路にはまっていた正吉だったが、絵師になりたいという願望は消えていなかった。そして、思い切って一歩踏み出せばこの袋小路から抜け出せるのではないかと思い始めていた。
     
     
    今日はある得意先へ売上金の回収へ出向く日であった。その得意先の主人は六兵衛という名の人物で、毎度新しく入ったものはどれかと聞いてはそれを買って行くのであった。いつも気さくに接してくれる六兵衛に対して正吉は好意的な印象を抱いていた。そこで正吉は、新しいものが好きな六兵衛ならきっと何か興味深い感想をくれるのではと思い切って六兵衛に自分の絵を見せて見ることにした。
     
    正吉はこの呉服屋にやって来てはじめて描いた絵を懐に忍ばせて出発した。その絵は、まだ父がいた頃家族みんなで川に魚を捕まえに行った時のもので昔を懐かしんで描いたものだった。
    正吉は道中、緊張感と淡い期待感が入り混じった感覚の中で六兵衛に自分の絵を見せた時の反応を想像しながら向かった。
     
    とうとう着いた。
    「ご免くださ~い」と声を掛けると中から使用人と思われる男が出てきたので名乗ると中の部屋に通された。間もなくして夫人が入ってきた。夫人は「お待ちどうさま、約束のお代です」と言って袱紗に包まれたものを正吉に手渡した。正吉は「どうも」と言って受け取った代金を勘定した。そして勘定を終えると、「きっちり頂戴いたします」と言って証文を手渡し、代金を自分の布袋に収めた。
     
    少し間が空いてから正吉は、「今日は、あの、旦那様は…」と言うと、夫人は、「今日は仕事の用で一日出ておりますのよ」と言った。
    正吉にとって夫人が応対するというのは想定外のことであった。
    しかし、せっかく絵を持って来たのだから夫人に見せることにした。
     
    「実はわっし、絵を描いておりまして…」と言って懐から絵を取り出した。
    正吉が取り出した絵を見るなり夫人は、「あら、よく描けてらっしゃるわ」と言い、「これはもしかしてあなたじゃない?」と絵の正吉を指さして尋ねた。
    すると正吉は、「そうですわっしです、そんでこれが父でこれが母です、でこっちが弟でこっちが妹です」とそれぞれ指さして答えた。
    「ご家族の絵ね、素敵だこと。」夫人は言った。
    「わっしの絵、どうですか?」
    「え、どうって?」
    夫人はたった今素敵だと言ったのにまたしても、どうかと訊かれたので反射的に聞き返した。
    「おいらは絵を描くことを仕事にできそうですかね?」
    正吉はつい言ってしまった。
    夫人は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いて、
    「そうね、この絵一枚だけだと分からないわ。」
    と答えた。夫人には正吉が本気で尋ねたのか冗談で尋ねたのかは分からなかったが、じっと夫人の顔を覗き込む正吉に尋ねた。
    「絵を描くことを仕事にするって具体的にはどのような?」
    「えっと、例えば、お寺の襖絵を描いたりする仕事ですよ。」
    「そう。他の人は何とおっしゃってるの?」
    「他の人においらの絵を見せたことはありませんし、絵師になりたいと誰かに話したこともありません。」
    「あら、そうなの?どうして?」
    「絵を描いて生活して行けるかどうか分かりませんし、今は自分が気ままに描いているだけで誰かに見せるために描いているわけではないからです。それに見せる人も特にいませんし。」
    「それじゃあ、どうして、今日は私に絵を見せてくれたのかしら?あ、私ではなく旦那様に見せようとされてたのよね。・・それに、見せる人がいないとおっしゃるけど、この絵に描かれているご家族のみんなに見せればいいじゃないの。」
     
    「年の瀬には里へ帰るのですが、絵を持ち帰ったことはありませんし、昔の楽しかった頃の絵など見せられません。今は父親もおりませんし。」

    うつむき加減に言う正吉を見た夫人は、これ以上正吉に彼の家族について尋ねるのはやめようと思った。
    「この絵は旦那様にも見せますのでここへ置いて行ってくれないかしら。
    今まで描いた他の絵もこれから描く絵ももっと色んな人に見せた方がいいわ。そうよ、まずは甚右衛門さんに見せるといいわ。」
    「そ、そんなことをしたら島田屋を辞めるのかって叱られますよ。」
    「そんなことないわよ。甚右衛門さんは絵を見せただけで呉服屋を辞めるのかだなんて叱ったりしないわ。それに呉服屋を辞めてはいけないの?あなたは絵を描く仕事がしたいのでしょ?」
    そう言われて正吉ははっとした。やはり自分は島田屋を辞めることに対して何かためらいと恐れがあるのだ。そして、何か目には見えない暗く重苦しい圧力が自分にのしかかっているのを感じた。
    「実は、わっしは迷ってるんです。絵を描く仕事がしたい気持ちはあるんですが、絵を描く仕事がわっしにできるかどうかは分からないんです。だから誰かに自分の描いた絵を見てもらってその人の感想を聞いて決めようと思ったんです。それで、今日はこちらにお邪魔することになっていたのでちょうど旦那様に見て頂こうと思って絵を持って来まして、旦那様がおられずにご夫人がおられるのでこうしてご夫人にお見せしている次第なのです。」
    「そうでしたの。
    私はこの絵しか見ていないし、細かいことは分からないけれど、これだけの絵を描いているのだからきっと仕事としてやっていけるに違いないわ。それに、絵を描く仕事がしたいのだったら、できるかどうか分からないなんて言ってないで実際に仕事をするつもりでどんどん描いていけばいいじゃない。そうすればもっと上達してもっといい絵が出来上がるし、迷いなんて無くなってしまうわ。」
    正吉は夫人の言葉を聞いて、今までのしかかっていた圧力が希望に変わるのを感じた。
    「ご夫人、ありがとうございます。おいらは絵を描きます、絵を描いて生きて行きます。」
    夫人は微笑みながら小さく二、三度頷いた。
     
    こうして妙に清々しくなった正吉は六兵衛の家をあとにし、自分は絵を描く仕事をするのだと、絵師になるのだと意気込み、これから描こうとする絵を想像してみた。そして実際に仕事をするつもりで絵を描くならそれなりに絵描き道具も必要だと思った。今までは店に置いてあった筆と紙を使って書いていただけであった。
    正吉は今すぐに絵描き道具が欲しくなった。
    新しい自分だけの絵筆が欲しい。描いた絵に色も付けたい。となると顔料も欲しい。
    しかし正吉は絵描き道具を買う銭など持っていなかった。住み込みで働く見習い小僧であるため基本的に給金などは貰っていなかった。
     
    甚右衛門さんに頼んで買って貰おうか…いや、自分がそんなことを頼む理由を説明すれば何か厄介なことになるかも知れない…しかし自分はもう絵を描いて食べていくことに決めたのだから甚右衛門さんにはっきり言うべきだ。
    そんなことを考えながら歩いていると丁度商店の立ち並ぶ通りに差し掛かった。正吉は通りを歩きながら無意識のうちに絵描き道具を売っている店がないか探していた。少しして正吉の足は止まった。正吉の視線の先には筆や顔料を売る店があった。
     
    正吉はその店に吸い寄せられるかのごとく近づき、商品をまじまじと見つめた。
    一本の筆が正吉の目に留まった。
    ああ、この筆が欲しい。この筆で描きたい。
    でも今の自分にはそれを買える銭は無い。
    …待てよ、わっしは今銭を持っている。…いやこれは商品の代金だ。店の銭でおいらの銭ではない。もし甚右衛門さんに頼んで買って貰うならこの銭から買っても同じじゃないか…いや同じではないだろう。しかし、今この筆が欲しい。この筆はわっしの出発点だ。
    わっしは決めたのだ。わっしは絵師になると決心したのだ。だから絵師として絵を描くのだ。筆代はあとで返せばいいだろう。
    そして正吉は持っていた銭で筆を買った。
    正吉は満足した様子で正吉は再び島田屋への帰路へついた。
     
    島田屋の店構えが目に入ると正吉はさっきまでの出来事が夢だったかのようにふと我に返った。そしてどこかからこの現実に引き戻されたような感じになり、自分が大変なことをしてしまったことに気が付いた。自分は、得意先から回収した商品の代金をくすねて自分の物を買ってしまったのだ。
    そんなことをすればどうなるかは住み込みの見習い小僧でなくとも容易に想像できることだ。あとから返すなどとさっきは思ったがそんなことは一方的な勝手な理由に過ぎない。その上いつ返せるかもわからない。そもそもきちんと返すつもりでそう思ったのか、もしかすると心のどこかで甚右衛門さんが大目に見てくれるとでも思っていたのではないか…。
    たかが筆一本、されど筆一本だ。してはいけないことを自分はしてしまったのだ。世話になっていた島田屋で正吉はこれまで真面目に奉公してきたのだ。正吉はとうてい甚右衛門に合わせる顔がないと思った。この筆をさっき買った店に返しに行こうかと考えたが、そうすると自分の決心が覆りそうな気がして足が向かなかった。やはり甚右衛門さんに全て話すしかない。そうすればすぐにでも島田屋を追い出されるだろう。自分は絵師になると決めたから島田屋を辞めるつもりだがこんな形で島田屋を去るとは何と情けなく不義理なことだろうか。第一、今の自分には極めるべき技法を教わる師匠を見つける方が新しい筆をもつことよりも先であろう。正吉は自分が決意を固めた証が欲しかったのだ。そして正吉は六兵衛の家をあとにするときに感じたこれまで自分に取り巻いていた悶々としたものから解放されたような清々しさをこの筆にとどめておきたかったのだ。
    正吉は、今度はこの筆代を誰かに借りることを考えた。売上の代金をきっちり揃えればその場の問題は凌げるのである。
    正吉には島田屋の番頭甚五郎しか思い浮かばなかった。島田屋の人間に頼むならはじめから白状するのと同じことだ。
     
    正吉は腹をくくった。自分の決意をゆるがせないためにも腹をくくるしかなかった。
     
    正吉は言い得ぬ恐れと緊張感に囚われたが同時に腹の底から一筋の希望のような力が湧いてくるのを感じた。
    そして島田屋へ入っていった。
     
     
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    夫人は家へ戻ってきた六兵衛に今日の正吉の話をし、正吉の絵を見せた。六兵衛は、「ほお、大したものだ」と言ってその絵をまじまじと見た。その絵には正吉のほかにも六兵衛がよく知っている顔が描かれていた。…
    平吉ではないか⁉ 額の左端に傷跡がある…間違いなく平吉だ。
    そして夫人に尋ねた。
    「これは正吉の家族を描いたものだと申したな?」
    「ええ。」 
    夫人は答えた。 
    「ということはこの人は正吉の父親かい?」
    六兵衛は平吉だと確信したその人物を指して尋ねた。
    「ええ、そうよ。」
    夫人は答えた。
    「正吉は平吉の息子だったのか。」
    六兵衛がそうつぶやくと、夫人は
    「ええ?平吉さん?あなた正吉さんのお父上をご存じなの?」
    と驚いて言った。
    「ああ、平吉と私は幼いころ同じ寺子屋で共に学んでいたことがある。彼の額の左側に傷跡があるだろう、これは寺子屋からの帰り道に見つけたカブトムシを平吉が捕まえようとして木に登ったが降りるのに失敗して顔面から地面に落ちた時に付けた傷跡だ。この顔にこの傷跡は間違いなく平吉だ。正吉は平吉について何か言っていたか?」
     
    「それが…正吉さんは、父はもういないとおっしゃてたの。お父上のことはあまり触れられたくなさそうだったからそれ以上は私も何も聞かなかったわ。まさか亡くなっただなんて。」
     
    「何を申すか!平吉は亡くなってなどおらんよ。
    平吉は絵師になるために京の御用絵師に弟子入りするために江戸を離れたのだ。」
     
    「何と!正吉さんがあまりにも暗い顔をしたものだから私てっきり…。」
     
    「正吉は平吉が自分たち家族を捨てたのだと思っているのだろう。」
     
    「でも正吉さんは平吉さんと同じ絵師になりたいと言っていたのよ。」
     
    「正吉はきっと何も知らんのだろう。明日にでも正吉と話すよ。」
     
    翌日、六兵衛は正吉に会いに島田屋へ行ったが店に正吉はおらず、居たのは番頭の甚五郎だけだった。六兵衛はその甚五郎から、何か厄介事があったらしくしばらく正吉は店の仕事はしないということを聞いた。六兵衛はとにかく正吉と話がしたいので会いたいと言うと、甚五郎は階段の方を指さしながら、正吉は上がったとこすぐの部屋にいるからと言って中へ通してくれた。
     
    六兵衛は階段を上って部屋の外から正吉に声を掛けた。
    「正吉、六兵衛だ。少し話がしたいんだ。開けてくれないか。」
    すると部屋の中から
    「おいらは今店の仕事はできませんから、そういう話でしたらお引き取り下せえ。」
    と正吉の声が聞こえた。
    六兵衛は
    「仕事の用じゃねえんだ。昨日お前さんがうちへ置いていった絵のことなんだ。」
    と言うと、ゆっくりとふすまが開き中から正吉が顔を出した。
    「おいらの描いた絵を見て下さったのですか?」
    「ああ見せてもらったよ。とても良い絵だ。」
    正吉のこわばった表情は少し和らぎ、
    「おいらの絵は見込みがありそうですか?」
    「それは絵師になる見込みがあるということか?それならあると思うよ。」
    そう言うと六兵衛は持ってきた正吉の絵を懐から取り出し、
    「お返しするよ」と言って正吉に渡した。
    「それから、平吉のことなんだが…」
    と六兵衛が言いかかけると正吉は
    「父を知っているのですか?」
    と驚いて尋ねた。
    「ああ、私と平吉とは幼いころからの友達だ。」
    驚いて突っ立っていた正吉は、
    「あ、どうぞ入ってください」
    と言って六兵衛を部屋の中へ招き入れた。
    「父は数年前に出て行ってしまってそれっきりです。どこで何をしているのかも知りません。」
    正吉がそっけなく言うと腰を落ち着けた六兵衛は、
    「平吉は絵師になるために京の絵師に弟子入りしたのだ。」
    正吉はさっき以上に驚いて、
    「絵師!?父が絵師に!?」
    「そうだ。平吉は幼いころから絵師になることを夢見ていたのだが両親に反対されて一時は諦めていたのだ。しかし平吉には絵師になりたいという思いがずっと残っていたのだ。所帯をもってからもその思いは消えなかった。そんな時たまたま京からやって来ていた名のある絵師に蕎麦屋で出会ったのだ。その絵師と話をしているうちに平吉は自分の思いを打ち明け、絵師になるべく弟子として京に行くことになったのだ。」
     
    「そんな…父が絵師になりたかったなどと聞いたことはありません。
    …何も言わずにわっし達を捨てて出て行ったのは絵師になるためだったなんて…母は知っていたのだろうか。」
     
    「母上殿は承知のはずだ。確かにお前さんたちは苦労したであろうが平吉は決して家族を捨てた訳ではない。やがては江戸に戻ってくるつもりで京へ行ったのだ。」
     
    「父が本当に戻ってくるつもりなら今頃母たちのところにいるはずです。結局はわっし達のことはどうでもいいんですよ。」
     
    「そう平吉を拒絶するな。お前さんも絵師になりたいと言うておるではないか。やはり親子ではないか。平吉の気持ちも少しは分かるのではないか。
    ところでお前さんは昨日まで島田屋の仕事をしておったのに先ほど今日からは仕事が出来なくなったと言っていたのはどういうわけだ?絵師になるから島田屋を辞めたということか?」
     
    「わっしは島田屋を辞めるつもりですがまだ辞めたわけではありません。今は謹慎中なのです。」
     
    「それはどういうことだ?」
     
    「実は、昨日六兵衛さんの家で商品のお代を頂戴したあと、絵師になると決心したおいらはどうしてもその証として新しい筆が欲しくなったんです。んで、帰り道に丁度いい筆を見つけたんです。どうしてもその筆が欲しくてその筆で新しい絵を描きたくて…」
     
    「…店の売上金で筆を買ったのか。」
     
    「…はい。」
     
    「何ということだ!」
     
    「…でも、おいらは踏ん切りがつきました。謹慎が明けたらここを去って京へ向かいます。」
     
    「京で絵師の修行をするのだな。京に行けば平吉にも会えるだろう。」
    と六兵衛は言った。
     
    すると正吉は、
    「父に会うつもりはありませんし、会いたくもありません。」
    と言って視線を落とした。
    「ではなぜ京に?」
    「京に襖絵の名絵師がいると聞いたことがあるからです。ただそれだけです。」
    ちょうどその時、甚右衛門が出先から店へ戻ってきた。
    階下のその様子に気付いた六兵衛は、
    「そのうちにお前さんも平吉の気持ちがわかるだろう。それに同じ絵師になろうとしているんだからいずれ会うことになるんじゃないか。私はそろそろ行くよ、邪魔したね。」
    そう言って下へ降りて行った。

    甚右衛門は番頭の甚五郎と何やら話をしていたが、六兵衛に気が付くと声をかけた。
    「これは六兵衛殿。」
    「おおこれは甚右衛門殿。しばし正吉と話をしておりました。」
    「正吉は大人しくしとりましたかな?」
    甚右衛門が笑いながら言うと、六兵衛も笑いながら、
    「いやまったく大人しくしておりました。」
    と答えた。
    すると、甚右衛門は
    「六兵衛殿、私はこれからその先の道具屋に用があるので途中までご一緒しましょう。」
    と言って二人は島田屋の店を出た。
     
    しばらく歩いたところで六兵衛は、
    「正吉のことですが…」
    と切り出すと、
    甚右衛門は被せるように言った。
    「あやつは大丈夫ですよ。六兵衛殿もことのいきさつをお聞きになったようですな。支度が整えば私は正吉を京へ送り出してやるつもりです。
    あやつが絵師を志望しておることは私も知っておりました。もっとも本人はそのことを口にしたことはありませんでしたが。」
     
    「そうでしたか。昨日正吉の絵を見て分かったのですが、実は私は正吉の父親である平吉とは旧知の仲でして、数年前に彼が江戸を離れるにあたって相談を受けたこともありました。」
     
    「私は正吉の父親については知らんが、母親は正吉をうちに連れて来た時正吉に商売のやり方をしかっり叩き込んでくれと言っておりました。今思うと息子には何か手堅い商いをさせたかったのかも知れませんな。正吉はうちに来た当初からよく絵を描いておったから絵を描くのが好きなやつだとは思っていたんですよ。描いた絵は、ただ大事そうに閉まっておりました。正吉は自分の本意でうちに来たわけではなかったろうが、うちでは毎日実直に働いてくれておりました。絵師になりたいというなら応援してやりたいですよ。」
     
    「私からも一つ正吉をよろしくお願いします。」
    六兵衛がそう言うと甚右衛門は「分かりました」と言って静かに頷いた。
     
     
    ---
    翌朝、甚右衛門は正吉に
    これを全部持っていくといい
    と言って旅道具一式と筆や顔料や紙などの絵描き道具を差し出した。
    正吉は目を丸くし
    「これ全部わっしにですか?」
    尋ねると、甚右衛門は
    「そうだ。お前の前途祝いってやつだ。」
    と答えた。
    「しかしおいらは謹慎中で…」
     
    「お前の支度が整えば謹慎は終いだ。
    一昨日お前言ってたじゃないか、京へ絵師の修行に行くって。
    ところで京へ行ってあてはあるのか?」
     
    「住まわせてくれるお寺を探して、そこでしばらく絵を描かせてもらうつもりです。あの、甚右衛門さん、おいらが売上代から使った筆代は必ず返しますから…」
     
    「そういうなら立派な絵師になって返しに来い。売上代は私が補填しておいたから。私は気長に待っておる。」
     
    「ありがとうございます。どうか待っていてください。」
     
    その夜正吉は今回のいきさつと今後のことを郷里へ送る文にしたためた。そして自分が島田屋に来た時から今までを振り返ってみた。
    自分は一種の不運を背負ってここにやって来たのだと思ったこともあった。しかし、それはとんだ思い違いであった。自分はここに来たから絵師の修行にこれから出ることができるのだ。自分はここに来たから絵師になる道へと進めることができるのだ。自分がここに来たのは自分にとって不運どころか幸運そのものだったのだ。甚右衛門さんは今まで自分の面倒をよく見てくれた上、売上金で自分の筆を買ったことを白状したときは怒鳴り上げたりせずに静かに反省する時間を与えてくれた。そのうえ今朝はこれからの道中で必要となるであろうものまで用意してくれたんだ。甚右衛門さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。
    自分は今まで甚右衛門さんに描いた絵を見せたこともなく絵師になりたいと言ったこともなかった。それは甚右衛門さんがよからぬ反応をすると思っていたからだ。どうしてそんな風に思ってしまっていたのだろう…。そんな思いは単なる自分の思い込みに過ぎなかったようだ。自分の独りよがりな思いで自分が悶々としていただけなのだ。
    そう思うと正吉は今までの自分が何だか恥ずかしくなった。それと同時に、今までの自分とは違う新たな自分になったような気分で、これからのことを思うと楽しみで仕方なかった。

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    メンタルと心理学の知見に基づき、個人のパフォーマンスを最大化するメソッドを研究しています。

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