
アイロンの匂い【シロクマ文芸部】
ハンカチを胸ポケットに入れるようになったのは、妻が亡くなってからだ。
通夜の日、泣かないと決めていた。
けれど、棺に花を入れるとき、どうしようもなく手が震えて、涙がこぼれた。
そのとき、何気なく手に取ったのが、妻が最後に畳んでくれていたハンカチだった。
白地に小さな花の刺繍。
アイロンの匂いが、まだ少しだけ残っていた。
あれから毎日、それを持ち歩いている。
使うわけじゃない。
ただ、ポケットに入れているだけだ。
それだけで、なんとなく安心できた。
ある日、駅のホームで、妻と通った喫茶店の名前を広告で見つけた。
たわいないやりとりや、席の位置まで思い出してしまって、胸の奥がきゅっとなった。
涙は出なかった。
でも、自然とポケットに手が伸びて、ハンカチを握りしめていた。
それが温かかった。
もう大丈夫、と、誰かに言われたような気がした。