
「隣にいてね」
―ある不器用な恋の、ぜんぶ
あらすじ
口数の少ない専門学校生・桐島湊は、グループ課題で同じ班になった明るい後輩・宮本陽菜に惹かれていく。毎日の電話、手書きの操作メモ、初夏の丘での語らい、夏の水族館でのほぼ告白——ふたりはゆっくりと、でも確かに距離を縮めていく。そしてクリスマスイブ、鍋の湯気の向こうで口をついて出た一言。「隣にいてね」。男女ふたつの視点で交互に語られる、劇的でも完璧でもないけれど、どこまでも誠実なひとつの恋の物語。
登場人物
◆ 桐島 湊(きりしま みなと)……主人公・男性。23歳。IT系専門学校2年生。口数は少なく内気だが、芯がある。
◆ 宮本 陽菜(みやもと はるな)……ヒロイン。21歳。同校1年生(年下)。明るくよく笑う。実はちゃんと人を見ている。
◆ 田中 祐樹(たなか ゆうき)……湊の同期。明るく社交的。湊の数少ない友人。
◆ 岸本 彩(きしもと あや)……陽菜の同学年の友人。ちゃっかりしていて面倒見がいい。
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第一章 春・最初の印象(湊・視点)
世の中には、「自分から話しかけられる人間」と「そうでない人間」がいる。
僕は間違いなく後者だ。専門学校に入学して最初のオリエンテーション。隣
の席の男——田中祐樹——が「よろしく!ゲームとか好き?」と五秒で声を
かけてきたとき、僕は内心「すごいな、この人」と思った。別に怖くもない
し、嫌でもない。ただ、僕にはそのスイッチがついていない。田中はその日
のうちにクラス中の名前を覚え、放課後には四人でカラオケに行く約束まで
取りつけていた。もちろん僕は誘われたけれど、「ちょっと用があって」と
断った。用なんてなかった。ただ、知らない人間と密室で過ごす想像ができ
なかった。帰り道、ひとりで駅に向かいながら、田中みたいな人間に生まれ
たかったと少し思った。すぐに、でも別に今が嫌なわけでもないか、とも
思って、結局答えは出なかった。こういうことを考えるのも、たぶん僕の悪
い癖だ。
だから、宮本陽菜のことも、最初はただ「同じクラスに明るい子がいるな」
くらいにしか思っていなかった。彼女は入学早々、教室の空気を変えるタイ
プだった。先生が「じゃあ自己紹介を」と言うと、ほとんどの学生が俯いて
「えー……よろしくお願いします」とぼそぼそ言うなか、陽菜は立ち上がっ
て「宮本陽菜です!好きなものはプリンとお昼寝です!よろしくお願いしま
す!」とにっこり言い切った。教室がちょっと笑った。緊張がほぐれた。僕
は笑いながら、プリンとお昼寝、正直でいいな、と思った。自己紹介という
のはたいてい、みんなが「普通に見られたい」という防衛をしながら話す時
間だ。趣味をちょっとだけ小洒落た言い方にしてみたり、笑いを取りにいっ
てすべったり。でも陽菜は、そういう計算がまったくなかった。プリンとお
昼寝。それだけだった。いいなと思った。でも、「どうせ自分なんかが話し
かけても」という声が、いつも通り即座に追いかけてきた。結局その日、僕
は彼女に一言も話しかけなかった。
授業が始まると、陽菜は誰に対してもよく話した。先生の話の合間に小声で
笑わせたり、ノートを見せ合ったり。社交的で、誰とでも話せるタイプ。僕
と、真逆だ。でもひとつ、気になることがあった。彼女は誰に対してもよく
話すのだけれど、表面だけで終わることが多い気がした。クラスの中心にい
るようで、でも「この人のことが一番わかる」という人がいなさそうな、そ
ういう雰囲気。あくまで僕の印象だ。口数の少ない僕が人のことを観察しす
ぎているだけかもしれない。でも、人の話を聞いてばかりいると、なんとな
く「その人の、ほんとうのペース」みたいなものが見えてくることがある。
陽菜のほんとうのペースは、もっとゆっくりしている気がした。
グループ課題の紙が回ってきたのは、そんな頃だった。「班はランダムで決
めます」と先生が言って名前を読み上げた。「桐島くん、宮本さん、田中く
ん、岸本さん」田中が「おっ、宮本さんじゃん!やったー」と隣の席から声
を上げた。陽菜が振り返って、こっちを見た。目が合った。彼女はにこっと
笑って、小さく手を振った。僕は……たぶん、ぎこちなく会釈した。やば
い、ちゃんと笑えてたかな。それが、始まりだった。
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第二章 春・グループ課題(陽菜・視点)
正直に言うと、最初に気になったのは「この人、ぜんぜん喋らないな」とい
う点だった。桐島くん。同じ班になって最初の顔合わせのとき、田中くんは
すぐ「どうする?どう進める?」と仕切り始め、岸本彩——彼女は同じ一年
で私の隣の席——は「とりあえずコーヒー飲みながら考えよ」と言いながら
ペットボトルを机に置いた。でも桐島くんはテキストを開いて静かに読んで
いた。無視してるわけじゃない。ちゃんと聞いている。でも話さない。あ、
この人、寡黙系だ。私はどちらかというと、黙っている人が苦手じゃない。
むしろ、みんながわーっと喋っているなかに必ず一人いる「ちゃんと聞いて
る人」が、密かに好きだ。盛り上がり役は自分がやればいいし、その分、聞
いてくれる人がいると話しやすい。
「桐島くんはどう思う?」作業の途中で聞いてみた。彼は少し間を置いてか
ら、「……この設計、ここの部分が重複してると思う」と言った。確かにそ
うだった。田中くんも「あ、ほんとだ、見落としてた」と言った。なるほ
ど、喋らないんじゃなくて、ちゃんと考えてから言うタイプか。それから私
は、桐島くんのことを少し注意して見るようになった。グループ課題は三週
間ほど続いた。その間に気づいたことがある。桐島くんは、私が話すとき必
ず最後まで聞いてくれる。途中で「でもさ」と割り込んでくる田中くんと違
って、私が言い終わるまで待っている。それだけのことなんだけど、なぜか
話しやすかった。
あと、さりげない。私が「このソフト使い方わからなくて……」とぼやいた
ら、次の授業のときに「これ、操作メモ」とA4一枚を差し出してきた。手書
きで。パソコンで打てばいいのに、なぜか手書きで。文字がきれいだった。
几帳面な人なんだな、と思った。「ありがとう、わざわざ」と言ったら「い
や、自分用に作ったついでだから」とそっけなく言った。ついでなわけない
じゃん。そういうところが、ちょっとおかしくて、ちょっと好きだった。課
題発表の日、私たちの班は無事に合格点をもらった。終わったあと、岸本が
私の耳元で「桐島くん、いいね」とにやにやしながら言った。「何が」「な
んか、ちゃんとしてる感じ。あと、陽菜のこと見てるよ、あの人」「見てる
って何を」「話聞いてるとき、ちゃんと陽菜の顔見てるじゃん。田中くんは
スマホ見ながら相槌打つのに」言われてみれば、そうかもしれない。「そう
いうこと言わないでよ」「なんで。事実じゃん」岸本はコーラを飲みながら
にやにや笑い続けた。私は「うるさい」と返しながら、なぜかちょっと照れていた。
課題が終わったあとも、なんとなく話すようになった。授業終わりに同じ方
向に帰るから、並んで歩くようになった。それだけだ。でも気づいたら週に
二、三回は話していて、電話もするようになっていた。電話は、いつも桐島
くんからかかってくる。「今日どうだった?」開口一番それだ。他に言うこ
とないのかと最初は思ったけど、だんだんわかってきた。この人は「今日ど
うだったか」を本当に聞きたくて聞いている。私が「今日ちょっと嫌なこと
あってさ」と言うと、「うん」と黙って聞いてくれる。解決策とか、「それ
はこうじゃない?」とか、そういうことは言わない。ただ聞く。最初は「反
応薄いな」と思ったんだけど、しばらくしたら気づいた。ああ、この人、私
の話をちゃんと覚えてる。一週間後に「あのとき言ってた嫌なこと、どう
なった?」って自然に聞いてくれる。それが、じわじわとうれしかった。
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第三章 初夏・新緑の丘(湊・視点)
五月の終わりに、陽菜に「山に行こう」と誘われた。「山?」「山という
か……丘みたいなとこ。去年の春に岸本と行ったんだけど、すごくよかった
から、湊くんにも見せたくて」湊くん、と呼ばれるようになったのは、この
頃からだ。最初に名前で呼ばれたとき、「……なんで急に名前」と聞いた
ら、「苗字より呼びやすいから」とあっさり言われた。嫌じゃなかった。む
しろ、しばらく耳の中でそれが残っていた。
当日の朝は、雲ひとつない晴れだった。待ち合わせ場所に行くと、陽菜は
リュックを背負って立っていた。白いTシャツと薄いデニムのパンツ。髪を
一本に結んでいた。「おはよう!」元気よく言いながら手を振った。なんと
いうか、背景の空と合っていた。きれいだな、と思って、すぐに「お弁当と
かあるの?」と聞いた。「あるよ。朝から作った」「自分で?」「うん。お
にぎりだけど」「……そうか」電車とバスを乗り継いで、一時間ほどで着い
た。
そこは小さな丘で、観光地というわけでもない、地元の人が散歩に来るよう
な場所だった。遊歩道の両側に新緑の木々が並んでいて、新緑の葉のすき間
から午前の光が細かく温かく差し込んでいた。
初夏の空気というのは、なんとも言えない。冬の乾いた冷たさでもなく、夏
の濡れた暑さでもない。柔らかくて、少し青くて、呼吸のたびに肺が広がる
感じがする。地面から草のにおいが上がってきて、新緑の木の葉がざわめく
たびにそれが揺れた。陽菜は「ほらほら、見て見て」と先を歩きながら振り
返った。「……うん、きれいだな」「でしょ!来てよかったでしょ!」「来
てよかった」「素直じゃん」「普通のことは普通に言える」陽菜が「ふふ」
と笑った。その笑い方が、学校で見せるときより少し柔らかかった。丘の上
には、小さな広場があった。ベンチがいくつかあって、遠くに街と山が見渡
せた。
平日の昼過ぎだったせいか、人は少なかった。老夫婦が一組、犬を連れた女
性が一人いるくらいで、あとはほとんど静かだった。陽菜はリュックから
シートを取り出して、木の根元に広げた。「ご飯にしよ」「……まだ十一時
だぞ」「おなかすいた」「来てから三十分も経ってない」「おなかは時計を
見ない」理屈がわからないようでわかる気がして、僕は黙って隣に座った。
陽菜が作ってきたおにぎりは、梅と鮭の二種類だった。「どっちがいい?」
「梅」「じゃあ私、鮭もらう」「両方食べる気か」「一個じゃ足りないから」
そう言いながら陽菜は鮭のおにぎりをひとかじりして、「おいしい、自分で
作ったのに」と言った。「自分で作ったのになぜ感動してる」「毎回感動す
るんだよね。自分が思ってたより上手にできると」「……なるほど」僕も梅
のおにぎりをひとかじりした。具が真ん中にちゃんと入っていた。丁寧に作
られていることが伝わった。「おいしい」「ほんとに?」「ほんとに」陽菜
がうれしそうに笑った。ご飯を食べ終えて、しばらくふたりで遠くを見てい
た。風が来るたびに木の葉がざわざわと鳴って、光が揺れた。街の音が遠く
に聞こえて、それ以外はほとんど静かだった。こういう沈黙を、僕は昔から
好きだ。何かを言わなければいけない気がしない沈黙。ただ、そこにある時
間。
陽菜が「ねえ」と言った。「うん」「湊くんって、なんで口数少ないの?」
「……性格」「生まれつき?」「そう……というより、しゃべるより聞いて
る方が楽だから」「楽、か。なるほど」陽菜は少し考えてから「私はしゃべ
ってないと落ち着かないときある」と言った。「知ってる」「え、知ってたの」
「なんとなく」「……どういうところで?」少し考えた。「しゃべってると
き、たまに目が少し焦ってる」陽菜が「え」と固まった。「なんかまずいこ
と言った?」「……いや、的確すぎて」「的外れだったら言って」「当たっ
てる。なんか、黙ってたら相手が引くんじゃないかって思うときある」「引
かない」「湊くんは引かないけど、みんながそうじゃないから」「……そう
だな」少し間があった。陽菜が「湊くんみたいな人、珍しい気がする」と言
った。「何が」「人の話、ちゃんと聞く人。無理に何か言おうとしない人」
「何も言えないだけ」「それが心地いいんだよ」風が、また来た。新緑の葉
が揺れて、光が細かく散った。陽菜は膝を抱えて、少し目を細めて空を見て
いた。遠くで鳥が鳴いた。僕はそのとき、この人のそばにいたいな、と思っ
た。はっきりとした言葉になったのは、たぶんあのときが初めてだった。
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第四章 初夏・帰り道と、気持ち(陽菜・視点)
丘から帰る電車の中で、私はこっそり考えていた。好きだな、と。岸本には
言えなかった。言ったら絶対に「だよね!?わかってた!」と言われるのが
わかっていたし、そうなるとなんか恥ずかしかった。だから電車の中で窓の
外を見ながら、ひとりで整理していた。湊くんのどこが好きなのか、具体的
に考えてみた。話を最後まで聞いてくれること。さりげなくて、押しつけが
ましくないこと。余計なことを言わないこと。今日、「目が少し焦ってる」
と言われたこと——それが的外れじゃなかったこと。自分が隠しているつも
りだったものを、静かに見ていてくれた人が、ちゃんといたということ。そ
れが、うれしかった。
考えてみると、私は「ちゃんと見てもらえている」という感覚に、ずっと飢
えていた気がする。明るくしていれば周りは笑ってくれる。笑っていれば場
はなごむ。それはそれで本当に好きなことだし、やめたいとは思わない。で
も、その奥にある自分——疲れてるとか、実はちょっとしんどいとか——を
ちゃんと見てくれる人は、なかなかいなかった。湊くんは、それを見てい
た。だから、うれしかった。帰り道、バスを降りてから駅まで歩く間、夕方
の光が長く伸びていた。新緑のにおいがまだ少し残っていた。湊くんは相変
わらず口数が少なかったけれど、隣を歩くペースが自然に合っていた。速す
ぎず、遅すぎず。気がついたら、それが心地よかった。駅の改札の前で、
「じゃあね」と言った。「うん、また」と湊くんが言った。それだけだった。
でも家に帰ってから、なんとなくずっとにやにやしていた。岸本からLINEが
来た。「今日どうだったの?」「楽しかった」とだけ返した。「それだ
け!?」と返ってきた。「それだけ」と返した。「ちょっとー!!」という
スタンプが来た。私はスマホを置いて、天井を見て、また少し笑った。好き
な人ができた。それだけで、夜がなんだかいつもより明るかった。
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第五章 夏・水族館と、ほぼ告白(湊・視点)
好きだと自覚してからが、長かった。陽菜と話す時間は増えた。電話も毎日
になった。でも、どう伝えればいいかわからなかった。田中に相談した。
「……陽菜のこと好きなんだけど、どう伝えたらいいかわからない」田中は
三秒くらい無言だった。「……え、桐島、そういうこと言うの?」「言う」
「はじめて聞いた」「一回しか言ったことないから」「誰かに告白したの?」
「今してる」「俺に!?」「違う。陽菜のことを俺が好きだという話をして
る」「ああそうか!わかった!」田中は少し笑ってから「ふつうに気持ち伝
えたらいいんじゃない?大袈裟にしなくていいから」と言った。「大袈裟に
しなくていいのはわかってる。でもどのタイミングで何を言えばいいか
が……」「なんか一緒に行くとこある?」「……水族館、誘おうと思って
た」
「いいじゃん。そこで言えば」「そんな簡単に」「簡単だよ。好きな人に好
きって言うのって、シンプルなことだから」田中はそう言って、自分のコー
ヒーをひとくち飲んだ。こいつはこういうことをあっさり言う。でも間違っ
てはいない気がした。
七月の終わり、陽菜を水族館に誘った。陽菜は「行く!」と即答だった。当
日、館内は平日の午後だったせいか空いていた。エントランスを入ると、す
ぐに大きなクラゲの水槽が現れた。薄暗い空間の中で、青い光を受けながら
クラゲたちがゆっくりと漂っていた。陽菜が「わあ」と小声で言った。僕も
立ち止まった。「……きれいだな」「うん。なんか、時間がゆっくりになる
感じ」「わかる」「湊くんってクラゲ好き?」「嫌いじゃない。見てると落
ち着く」「私も。なんか、焦らなくていい感じがする」しばらくふたりで黙
って、クラゲを見ていた。こういう沈黙が、陽菜との間では苦じゃない。む
しろ自然だった。水槽をひとつひとつ見て回った。マンタの大きさに「でか
い!」と声を上げる陽菜の隣で、僕はどこかでずっと、どう言おうか考えて
いた。でも言葉がまとまらなかった。
出口近くのベンチで少し休んだとき、陽菜が「ねえ」と言った。「うん」
「湊くんって、好きな人いるの?」唐突すぎて、一瞬固まった。「……なん
で」「なんとなく。聞いてみたかっただけ」しばらく黙った。陽菜は水槽の
方を見ていた。「……いる」陽菜の視線が、こっちに来た。「そうなんだ」
「うん」「……どんな人?」「よく食べる」少し間があって、陽菜が「……
それだけ?」と言った。「あと、笑い方が好き」陽菜が止まった。「……それ、
もしかして」「そういう意味に取ってもらっていい」陽菜はしばらく黙って
いた。それから、前を向いたまま「……ちゃんと言ってよ、いつか」と言っ
た。「言う」「いつ」「……考える」「えー」「でも、言う」陽菜が「……
わかった」と小さく言った。水族館を出たら、夕方の光の中に蝉の声が混
じっていた。帰り道、陽菜はいつもよりほんの少し口数が少なかった。でも
隣を歩く距離が、少しだけ近かった気がした。家に帰ってから、田中にLINE
を送った。「うまく言えなかった」。すぐに「でもまあ伝わってると思う
よ」と返ってきた。根拠はないだろうに、そういうことをさらっと言う。こ
いつのそういうところが、たまにありがたかった。
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第六章 秋・すれ違い(陽菜・視点)
九月になって、湊くんの就職活動が本格的に始まった。電話の頻度は変わら
なかった。毎晩かかってきた。でも、なんとなく声のトーンが違う日があっ
た。「今日どうだった?」といつも通り聞くと、「……まあ、普通」と返っ
てくる。普通、の言い方がいつもと違う日がある。少しだけ疲れた色があ
る。私は最初、「就活うまくいってない?」と直接聞こうとした。でも、聞
かなかった。この人は、準備ができたら話してくれる。聞きすぎると、か
えって話しにくくなるタイプだということが、この数ヶ月でわかっていた。
だから私は、そういう夜は「しょうもない話」をするようにしていた。「今
日ね、コンビニでプリン買おうとしたら一個しか残ってなくて、うろうろし
てたら後ろから来たおじさんに取られたんだよ」「……それは」「悔しかっ
た。本当に悔しかった」「買えばよかったのに」「うろうろしてたのが悪い
のはわかってるんだけどね。でもそのおじさん、すごく美味しそうに食べて
て」湊くんが笑った。声に出さない笑い方。でも笑ってるのはわかる。「笑
わないでよ」「笑ってない」「笑ってた」「……少し」そういう夜の電話を
切ると、なんとなく自分もほっとしていた。ちゃんと笑えた。よかった、と
思っていた。十月に入ったころ、会う時間が急に減った。「なんか最近、会
えてなくない?」と言ったら、湊くんは「……ごめん、忙しくて」と言った。
「うん、わかってる。でもちょっと、さみしいな」責めたわけじゃなかった。
ただ、正直に言いたかった。この人には、正直に言ってもいいと思っていた
から。「来週、時間作る」「ほんとに?」「うん」「じゃあ、チーズケーキ
食べたい」「……わかった」「駅前に新しいカフェできたんだよね。行って
みたかったやつ」「了解」「あと、ランチも食べたい」「……ランチとカ
フェ、別々に行くの?」「当然じゃん」その週末、ちゃんと来てくれた。ラ
ンチのあとカフェに行って、私はチーズケーキを食べて「最高」と言った。
湊くんは隣のテーブルの人のパフェを「あれも食べたい」と言う私に「今日
はもう終わりにして」と言った。「えー」「終わり」「……ケチ」「ケチじ
ゃない」ぷっと笑ったら、湊くんも少し笑った。こういうやりとりが、好き
だった。
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第七章 秋・支えるということ(陽菜・視点)
付き合ってから気づいたことがある。湊くんは、しんどいとき、自分からは
言わない。言えないというより、言葉にする前に黙って消化しようとするタ
イプだ。それは長所でもあるし、私からすると少し心配になることでもあ
る。就職活動が佳境に入ったある夜、電話をかけてきた湊くんの声が、いつ
もより静かだった。「今日どうだった?」と聞いたら、「……面接、落ち
た」
と言った。いつもは「まあ、普通」で終わらせるのに、その夜は珍しく言っ
てくれた。「そっか」私はそれだけ言った。「うん」「何社目?」「四社目」
「そっか」また沈黙。「……悔しい?」と聞いたら、少し間があって「うん」
と返ってきた。その「うん」が、正直な声だった。私は何も言えなかった。
励ましの言葉を考えてみたけど、どれもしっくりこなかった。「大丈夫だ
よ」も「次があるよ」も、なんか違う気がした。だから、ただ聞いていた。
湊くんが少しずつ話すのを、遮らずに。面接でうまく話せなかったこと。準
備してきたことが全然出せなかったこと。悔しいというより、情けない気が
すること。ひとつひとつを、黙って聞いた。話し終えたあと、湊くんが
「……話聞いてくれてありがとう」と言った。「いつもあなたがしてること
じゃん」と返したら、少し間があって「そうか」と言った。そのあと、ふた
りで少しだけ笑った。
翌週、湊くんが「今日、一次通った」と電話してきた。声がいつもより少し
だけ明るかった。「よかった!」「うん」「次も頑張れ」「うん」「あとご
褒美に、なんか食べに行こ」「……ご褒美は一次通過ごとに発生するの?」
「発生する」「何社受けるかわからないんだけど」「全部分、食べに行く」
しばらく黙ってから、湊くんが「……わかった」と言った。その声が、ちょっ
とうれしそうだった。私もうれしかった。
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第八章 冬・クリスマスイブ(陽菜・視点)
十二月二十四日。クリスマスイブにひとりでいるのが嫌すぎて、「湊くんち
で鍋しよ」と連絡したのは私だった。岸本は「彼氏と過ごすから」と言っ
て、なんだかすごく楽しそうだった。湊くんのアパートは、駅から歩いて十
分ほどのところにある。築年数は古めだけど、部屋はきれいに片付いてい
た。本棚に技術書と文庫本が並んでいて、デスクにはパソコンが一台。余計
なものがない。なんか、この人らしいな、といつも思う。アパートに着いた
ら、鍋の準備がもう全部できていた。白菜も豆腐も肉も、きれいに切り揃え
られて、出汁まで取ってあった。「……手が込んでるね」「いや、普通に作
った」「普通じゃないよ。出汁取ってるじゃん」「昆布と鰹節を入れただ
け」
「それが普通じゃないから」湊くんは少し首をかしげた。この人、ほんとに
自覚がない。
鍋をつつきながら、いろんな話をした。学校のこと、将来のこと、どうでも
いいこと。窓の外には街のイルミネーションがぼんやりと光っていた。クリ
スマスソングがどこか遠くから聞こえてくる。部屋の中は鍋の湯気でほんの
り温かくて、なんだかこのまま時間が止まればいいのにと思った。ふたりで
いると、会話が途切れても気まずくならない。それが好きだった。この人と
いると、沈黙がただの沈黙で、何かを埋めなくていい。鍋が半分なくなった
ころ、なんとなく「ねえ」と言った。「うん」「湊くん、将来結婚式とかす
るの?」「……まあ、するなら、したいとは思う」「じゃあ招待してね」友
達として言った言葉だった。なんとなく、口から出てきた。湊くんは少し間
を置いた。いつもより長い間だった。そして——
『隣にいてね』
え、と思った。え?「……今、なんて言った?」
『隣にいてね』
繰り返した。今度は、ちゃんと聞こえた。「……それって」「そういう意味
です」湊くんは鍋を見たまま、耳だけちょっと赤かった。私はしばらく、何
も言えなかった。水族館で「ちゃんと言ってよ、いつか」と言ったこと。そ
の「いつか」が来たのだということが、じわじわと広がっていった。毎日電
話してくれていたこと、操作メモを手書きで作ってくれたこと、私の話をい
つも最後まで聞いてくれたこと。丘の上で「目が少し焦ってる」とそっと
言ってくれたこと。全部、そういうことだったのか。「……うん」気づいた
ら、そう言っていた。「わかった」湊くんがこっちを見た。少し驚いた顔
だった。自分で言っておいて、信じられなかったのかもしれない。私はおか
しくなって、笑ってしまった。「なんで笑うの」「いや、だって——なんか、
湊くんっぽいなって」「……どういう意味」「いい意味だよ」鍋の湯気が白
くたちのぼっていた。外は寒そうだったけど、部屋の中はあたたかかった。
この夜のことを、たぶんずっと覚えていると思った。
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第九章 冬・付き合い始めてから(湊・視点)
付き合い始めてから、毎日電話するのは変わらなかった。ただ、「今日どう
だった?」の前に少し間ができた。電話が繋がると、最初の三秒くらい、お
互い無言になる。それから陽菜が「もしもし」と言って、僕が「うん」と言
う。それだけで何か確認した気持ちになれた。「今日どうだった?」「今日
ね、授業中に先生が教科書逆に持ってたのに三十分気づかなかった」「……
どういう状況」「みんな遠慮して言えなかったんだよ。最終的に一番前の席
の子が小声で教えてたけど」「かわいそうに」「先生が?それとも一番前の
子が?」「両方」陽菜がけらけら笑った。こういう時間が、好きだった。就
職活動は、思った以上にきつかった。書類で落ちることもあったし、一次面
接で手応えがあったのに二次で落とされることもあった。そういうとき、陽
菜には報告しなかった。心配かけたくないというより、うまく言葉にできな
かった。でも陽菜は、何も言わなくても気づいていた。声のトーンで何か感
じとっているらしく、そういう夜はいつも「しょうもない話」をしてくれ
た。どれも他愛のない話だった。でも、電話を切ったあとは必ず、少し肩が
軽くなっていた。田中に「陽菜さんと付き合ってるって聞いたけど、ほん
と?」と聞かれたのは、年が明けてからだった。「うん」「……報告くらい
してよ!」「しなきゃいけない?」「しろよ!友達だろ!」「ごめん」田中
は「まあいいや、よかったじゃん」と言ってから「まさか桐島の方からアク
ションするとは思わなかった」と笑った。「一応した」「どうやって?」
「……鍋食べながら」「鍋!?」田中はしばらく笑い続けた。失礼だとは思
うけど、否定もできなかった。
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第十章 冬・ある冬の朝(陽菜・視点)
付き合ってから初めての冬、湊くんがめずらしく風邪を引いた。電話をかけ
てきた声が、いつもよりかすれていた。「……声、おかしい」「風邪」「熱
は?」「……三十七度八分」「それ普通に熱じゃん。病院行った?」「明日
行く」「今日行って」「……大丈夫」「大丈夫じゃないから熱出てるんだよ」
しばらく沈黙。「……わかった」珍しく素直に言った。よほどしんどかった
のかもしれない。翌朝、病院に行ったと連絡が来た。「インフルじゃなかっ
た。ただの風邪」「よかった。ご飯食べてる?」「……あまり食欲ない」
「何か持っていこうか?」少し間があった。「……いい。迷惑かけたくない
から」「迷惑じゃないけど」「でも」「でも、じゃなくて。行っていい?」
また間があった。今度は少し長かった。「……うん」お粥とゼリーとスポー
ツドリンクを買って、アパートに向かった。インターホンを押したら、しば
らくしてドアが開いた。湊くんはパーカーを羽織って、少し顔色が悪かった。
「来てくれたの」「来たよ」「……ありがとう」ぼそっと言った。お粥を温
めて、テーブルに置いた。「食べれそう?」「……食べる」湊くんはゆっく
りスプーンを動かした。あまり食欲がないと言っていた割に、半分以上食べ
た。「おいしかった?」「……うん」「自分で作ったやつじゃないけど」「そ
れでもおいしかった」素直に言うじゃん、と思った。熱があると少し正直に
なるのかもしれない。帰り際、「また来ていい?」と聞いたら、「……来て
ほしい」と言った。私はそれがおかしくて笑ったら、「笑うな」と言われた。
「笑ってない」「笑ってた」「……少し」今度は湊くんが笑った。かすれた
声で、でもちゃんと笑っていた。その顔が、なんかとても好きだった。
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第十一章 春・両親への挨拶(陽菜・視点)
付き合って八ヶ月のとき、湊くんが「ご両親に挨拶したい」と言った。正
直、びっくりした。まだ私、学生なのに。湊くんだって来年から社会人にな
る段階で。早くない?と思ったけど、彼の顔を見たらなんか笑えてきた。真
剣な顔だった。あ、この人、本気だ。岸本に話したら「はやっ!」と言われ
た。「でも、湊くんらしいかも。不器用にしっかりしてるよね、あの人」と
も言っていた。不器用にしっかりしてる。なんか、言い得て妙だと思った。
「……うちの父ちゃん、ちょっと怖いよ」「どのくらい怖い」「無口で、
鋭くて、最初会う人みんなびびる」「……そうか」「湊くんに似てるかも」
「え」「無口なところが」湊くんは少し考えてから「それなら話が合うかも
しれない」と言った。なにその自信、とは思ったけど、まんざらでもなかっ
た。両親への挨拶は、日曜日の昼に実家でやった。湊くんは前日の夜、電話
口で「何を着ていけばいい」と聞いてきた。「スーツとかじゃなくていい
よ。普通でいい」「普通って何が普通なのかわからない」「じゃあ、いつも
より少しきれいめな感じで」「きれいめって何がきれいめなのかわからな
い」「……チノパンとシャツとかどう」「持ってるかわからない」「何持っ
てんの」「デニムとパーカー」「……買いに行こうか」こうして前日に急遽
一緒に服を買いに行くことになった。湊くんは選ぶのが遅くて、三十分以上
かかってようやく薄いブルーのシャツとチノパンを買った。試着して出てきた
とき「どう?」と聞くから「似合ってる」と言ったら、「……そうか」とぶっ
きらぼうに言いながら、ちょっとうれしそうだった。「その顔、もっとや
れ」「何が」「うれしそうな顔。普段やらないじゃん」「……してるつもり
だけど」「してないよ」湊くんが少し困った顔をした。それがまたかわい
かった。当日。父は案の定、無口だった。「はじめまして、桐島と申します」と湊く
んが頭を下げると、父は「うむ」とだけ言った。うむ、って……でも湊くん
は動じなかった。むしろ自然体だった。食事をしながら、父が仕事の話を聞
いてきた。湊くんは丁寧に、でも飾らずに話した。「正直まだわからないこ
とも多いですが、ひとつずつやっていくつもりです」と言ったとき、父が少
し目を細めた気がした。食後、父と湊くんが二人になる時間があった。私は
キッチンで母の手伝いをしていた。「いい人ね」と母が言った。「うん」
「お父さんも気に入ってると思う」「ほんとに?」「うむ、ってすぐ言わな
かったでしょ。あれ、気に入ったサインだから」「……そんなサインあった
んだ」あとから湊くんに「父とどんな話したの?」と聞いたら、「仕事の話
と、あと、釣りが趣味だと言ってたので少し」と言った。「釣り!?湊くん
釣りするの!?」「しない」「なんで釣りの話したの」「父親の話を聞いて
たら自然に」……この人、本当に「聞く」のがうまいな、と思った。帰り
際、玄関で父が「また来い」と言った。湊くんは「はい、ありがとうございます」
と深く頭を下げた。帰り道、「よかったよ、本当に」と言ったら、湊くんは
「うん」とだけ言った。その「うん」が、ほっとした音だった。
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第十二章 春・将来の話(湊・視点)
将来の話を、僕から切り出したことがある。付き合って十ヶ月のころだっ
た。電話でいつも通り話していたとき、陽菜が「卒業したら何したいとかあ
る?」と聞いてきた。「……仕事、ちゃんとやっていきたいとは思ってる」
「それ以外は?」「……それ以外?」「なんか、住みたいとこあるとか、し
たいことあるとか」「うーん」少し考えてから、「狭くてもいいから、自分
の家がほしい」と言った。「自分の家?」「うん。アパートでもいい。でも、
ちゃんと自分の場所って言える家がほしい。あと、ご飯を一緒に食べられる
人がいたら、それで十分な気がする」電話の向こうで、陽菜がしばらく黙っ
た。「……それって」「うん」「私のこと?」「うん」また沈黙。「……湊
くんって、言い方がすごく自然だよね」「そう?」「普通、もっと大袈裟に
言わない?」「……大袈裟に言える気質じゃない」「知ってる」クスクス笑
う声が聞こえた。「でも、そういう言い方のほうが、なんか信用できる気が
する」「そう」「うん。わかった。一緒にご飯食べよ」簡単に言ってくれる
な、と思いつつ、うれしかった。陽菜の前では、なぜか素直に言えた。計算
してたわけじゃない。ただ、正直に言ったら、そういう言葉になっていた。
就職が決まったのは、交際から半年が過ぎたころだった。IT系の会社で、給
料は決して高くないが安定している。内定が出た夜、陽菜に電話した。「決
まった」「ほんとに!?やったじゃん!」「うん」「すごいよ、ちゃんと頑
張ってたもんね」「……まあ」「なんで素直に喜ばないの」「喜んでる」
「声が全然そう聞こえない」「これが普通の声」「湊くんの喜んでる声と困
ってる声、おんなじだよね」「……そんなことない」「ある」電話口で陽菜
が笑った。僕も笑った。電話を切ったあと、じわじわと「あ、うれしいな」
と思った。内定のことより、「頑張ってたもんね」と言ってもらえたこと
が。
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第十三章 入籍前夜(湊・視点)
入籍の前の夜、僕は眠れなかった。緊張というより、いろんなことを思い出
していた。初めて陽菜に目が合ったとき。操作メモを差し出して「ついでだ
から」と言い訳した自分のこと。丘の上で新緑の光の中、「この人のそばに
いたい」とはっきり思ったこと。水族館でクラゲを見ながらふたりで黙って
いた時間。面接に落ちた夜に、はじめて「悔しい」と正直に言えたこと。風
邪の夜に「来てほしい」と正直に言えたこと。「隣にいてね」と言った瞬間
に自分でも驚いたこと。たいした出来事じゃない、と言えばそうかもしれな
い。ドラマみたいな展開は何もなかった。でも、そのひとつひとつが、今の
自分にとっては全部「大事なこと」として残っていた。陽菜が選んでくれた
理由は、今でも正直よくわからない。でも、一つだけわかることがある。僕
はこの一年間、できる限り正直に、陽菜のそばにいようとしてきた。格好つ
けたこともあったかもしれないし、うまく言えなかったことも何度もあっ
た。でも、嘘はついていない。それだけが、唯一自信を持って言えること
だった。明日、役所に行く。陽菜と一緒に、書類を出す。それだけのことな
のに、なぜかじわじわと「大事なことが起きようとしている」という感覚が
ある。スマホを見たら、陽菜からメッセージが来ていた。「明日、緊張す
る?」「少し」と返した。すぐに「私も」と返ってきた。それから「おやす
み」と来た。「おやすみ」と返した。それだけで、なんか、大丈夫な気がし
た。目を閉じたら、今度はすぐに眠れた。
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第十四章 入籍(陽菜・視点)
入籍したのは、付き合い始めてからちょうど一年が経ったころだった。正式
なプロポーズは、なかった。「プロポーズは?」と後から聞いたら、湊くん
は「クリスマスイブにしたと思ってた」と言った。「あれがプロポーズ?」
「そうじゃないの?」「……まあ、そう言われればそうかもしれないけど」
「じゃあよかった」よくないよ!と言いながら笑ってしまった。この人は、
本当に。岸本には前日に「明日、入籍するんだ」と伝えた。「え!!」とい
うメッセージのあと、しばらく間があって、「おめでとう。幸せになって
ね」と来た。岸本らしくない真剣なメッセージで、なんかちょっと泣きそう
になった。入籍の日は、平日だった。役所に書類を出して、窓口の人が「お
めでとうございます」と言ってくれた。湊くんは「ありがとうございます」
と頭を下げた。私も下げた。外に出たら、晴れていた。「お昼、何食べた
い?」と湊くんが聞いた。「パスタ食べたい。あとケーキも」「それ全部入
るの」「入る」「……そうか」「湊くんは?」「何でもいい」「何でもいい
って言うと私が全部決めることになるんだけど」「……じゃあ、パスタで」
「ケーキは?」「……食べる」「よし」手を繋いで歩いた。特別なことは何
もない、普通の昼だった。でも、それで十分だと思った。むしろ、これがい
い。大切な日ほど、普通のほうがいい。
帰り道、私はぽつりと言った。「ねえ、湊くん」「うん」「ありがとうね」
「何が」「何でもないときに電話してくれてたこと。話を聞いてくれてたこ
と。操作メモを手書きで作ってくれてたこと。丘の上で、ちゃんと私のこと
見ててくれてたこと。面接落ちた夜に、ちゃんと話してくれたこと。全部」
湊くんが少し止まった。「……覚えてたの」「ぜんぶ覚えてる」「そうか」
「そうだよ」また歩き出した。手を繋いだまま。「俺も」と湊くんが言った。
「え?」「俺も、ぜんぶ覚えてる」うるっとしそうになって、それを誤魔化
すために「じゃあ早くパスタ行こ」と言ったら、「……急に」と苦笑いされ
た。それでいい。これが、私たちらしかった。
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第十五章 社会人・最初の春(湊・視点)
社会人になって最初の春は、思ったより慌ただしかった。研修が続き、覚え
ることが山積みで、帰宅すると疲れてそのまま寝てしまう日が何度もあっ
た。陽菜はまだ学生だった。生活リズムが違う。電話する時間が、少しずれ
た。それでも、電話は毎日続いた。僕が帰り着いたのが夜の十時を過ぎてい
ても、陽菜は「おかえり」と言って電話を取った。「今日どうだった?」と
聞くのは、今度は陽菜の方だった。役割が逆になった気がして、少し笑え
た。「……まあ、普通」と答えたら、「それ、私のセリフじゃん」と言われ
た。「……確かに」「どのくらい疲れてる?十点満点で」「……七点」「じ
ゃあしょうもない話するね」陽菜がけらけら笑った。でも、本当にしょうも
ない話をしてくれた。岸本が職場体験でミスをして上司に怒られた話。スー
パーで試食をもらいすぎてレジに行けなくなった話。どれも他愛のない話
だった。それでも、笑えた。肩が軽くなった。これは、陽菜が就活中の僕に
してくれていたことだ。そのことに気づいたのは、電話を切ってからだっ
た。
ある日曜日、陽菜と近所を散歩した。桜がそろそろ終わる頃で、歩道に花び
らが積もっていた。陽菜は「はかない」と言った。「桜が?」「うん。一週
間くらいで散っちゃうじゃん」「そうだな」「でも、だから毎年ちゃんと見
ようと思えるのかも」「……そうかもしれない」しばらく歩いた。風が来
て、残っていた花びらがいくつか舞った。陽菜が「ねえ」と言った。「うん」「湊くんは、今幸せ?」唐突な質問だった。でも、嫌な感じはしなかった。
少し考えた。「……うん」「何が?」「今ここにいること」陽菜が少し黙っ
た。それから「私も」と言った。それだけで、十分だった。田中に「最近ど
う?」と聞かれたとき、「……まあ、悪くない」と答えた。田中が「それ、
桐島的には最高ってこと?」と言った。「……そうかもしれない」「だよね」
田中は笑った。こいつはたまに、妙にわかってる。
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第十六章 田中の結婚式(湊・視点)
田中が結婚すると聞いたのは、僕たちが入籍してから半年ほど経ったころ
だった。「式に来てほしい」と言われた。「……当然行く」「桐島がそんな
に即答するとは思わなかった」「失礼だな」「いや、うれしいよ。ありがと
う」田中は電話口で笑った。式の日、陽菜と一緒に会場に行った。田中は緊
張しているのか、いつもよりおとなしかった。あの田中が、だ。「珍しい
な」と小声で言ったら、陽菜が「かわいいじゃん」と返した。確かに、かわ
いかった。披露宴の途中、田中がスピーチをした。「俺は人に恵まれてると
思ってて、その中でも桐島って友人がいるんですが、こいつが実はすごくて
——」突然名前を出されて、固まった。陽菜が隣でぷっと笑った。「——口
数は少ないんですけど、ちゃんと人の話を聞いてくれる人で。そういう人が
近くにいてくれたから、俺も正直に生きてこれた気がします」田中はそこで
少し照れたように笑って、「まあ、桐島には直接言わないですけど」と言っ
た。会場が笑った。僕も笑った。帰り道、陽菜が「田中くんのスピーチ、よ
かったね」と言った。「……照れた」「聞こえてたよ、ちゃんと」「だから
照れた」「湊くんって、人に大事にされてるんだね」「……そうかな」「そ
うだよ」陽菜が笑った。人に恵まれてる、と田中は言った。たぶん、僕もそ
うだと思う。ただ、それをうまく言葉にできないだけで。
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第十七章 岸本からの電話(陽菜・視点)
入籍してから三ヶ月が経ったころ、岸本から電話がかかってきた。「ねえ、
陽菜ってさ、湊くんのどこが一番好きなの?」開口一番それだった。「なん
で急に」「気になったから」「それだけ?」「それだけ」岸本らしかった。
少し考えた。どこが一番、なんて考えたことがなかった。好きなところを挙
げればきりがないし、でも「全部」と言うのもなんか逃げてる気がした。
「
……話を聞いてくれるところ」「それだけ?」「それだけじゃないけど、
一番はそれかな」「ふーん」岸本はしばらく黙った。「なんか、陽菜らしい
な」「どういう意味」「陽菜ってさ、ずっとしゃべってる子じゃん。だか
ら、聞いてくれる人が一番大事なんだろうなって」言われてみれば、そうか
もしれない。「岸本って、たまにするどいよね」「たまにじゃないし」「た
まにだよ」「失礼な」岸本が笑った。私も笑った。「湊くんって、陽菜のど
こが好きなんだろうね」岸本がぽつりと言った。「知らない。聞いたことない」
「聞いてみなよ」「恥ずかしい」「聞けばいいじゃん」ふたりでしばらく笑
い続けた。
その夜、寝る前に湊くんに「ねえ、私のどこが好き?」と聞いてみた。しば
らく間があって、「……正直なところ」と返ってきた。「正直なところ?」
「うん。嘘をつかないところ」思ってたより真剣な答えだった。なんか、照
れた。「それだけ?」「あと、よく食べるところ」「それは褒めてる?」
「褒めてる」湊くんが言った。その声が、ちょっとうれしそうだった。私も
うれしかった。
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第十八章 雨の日の電話(湊・視点)
社会人になって二年目の梅雨、仕事でミスをした日があった。大きなミス
じゃない。でも、自分の確認不足で、先輩に迷惑をかけた。謝って、修正し
て、それで終わりだった。でも帰り道、雨の中を歩きながら、なんとなく気
持ちが沈んでいた。陽菜に電話した。「どうしたの?」声を聞いただけで気
づくのか、開口一番そう言った。「……仕事でミスした」「そっか」「うん」
「怒られた?」「……先輩に謝った」「そっか」また「そっか」だった。で
もその「そっか」が、責めてないことを伝えていた。しばらく黙っていた
ら、陽菜が「ミスしたってことは、それだけちゃんとやろうとしてたってこ
とじゃない?」と言った。「……どういう理屈」「適当にやってる人はミス
しても気にしないから」「……そうかな」「そうだよ」なんか、少し楽になっ
た。理屈として正しいかどうかはわからない。でも、陽菜がそう言うと、な
んか信用できた。「ありがとう」「うん」「……陽菜って、こういうとき何
で正しいこと言えるの」「正しいかどうかわかんないけど、湊くんのことは
なんとなくわかるから」「なんとなく?」「うん、なんとなく」陽菜が笑っ
た。なんとなく、か。それが一番信用できる言い方な気がした。雨の音が聞
こえていた。傘を差しながら、電話を持って歩いた。少し遠回りして帰っ
た。そのくらい、話し続けたかった。家に帰ったら、陽菜からメッセージが
来ていた。「明日はうまくいくよ」それだけだった。短い言葉だったけど、
なんかじんわりした。明日も頑張ろう、と思った。陽菜がいるから、という
より、陽菜がいるのに情けないところは見せたくない、という気持ちに近
かった。それが、僕なりの「頑張れる理由」だった。
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第十九章 ある春の夕方(陽菜・視点)
入籍してしばらく経ったある夕方、私はキッチンで夕飯を作りながら、なん
となくあの頃のことを思い出していた。専門学校に入学した春のこと。グル
ープ課題で同じ班になった、口数の少ない男の人のこと。あのとき、まさ
か一緒に暮らすことになるとは思っていなかった。いや、正確に言うと、な
んとなくそうなる気がしていたのかもしれない。あの人が操作メモを手書き
で作ってくれた日から、ずっとどこかで。「何作ってるの」背後から声がし
た。湊くんが仕事から帰ってきていた。「肉じゃが」「……好きだ」「知っ
てる」「なんで知ってるの」「前に言ってたから」湊くんが少し黙った。
「……覚えてたの」「ぜんぶ覚えてる」そう言ったら、湊くんが「そうか」
と言った。いつもの言い方だった。でも、耳がちょっと赤かった。
夕飯を食べながら、今日あったどうでもいい話をした。職場の自販機が突然
壊れて、百円入れたら二本出てきた話。湊くんは「……ラッキーだったな」
と言った。「でも二本飲んだら夜眠れなくなった」「自業自得」「そう」ふ
たりで少し笑った。食後、湊くんがお茶を淹れてくれた。聞いてもいないの
に、ほうじ茶を。私がほうじ茶好きなの、ちゃんと覚えてくれてる。こうい
うさりげないことが、何年経っても変わらない。それがうれしかった。「あ
りがとう」と言ったら、「うん」とだけ返ってきた。それで十分だった。窓
の外に、夕焼けが広がっていた。オレンジ色の光が部屋の中に差し込んで、
ふたりの影を長く伸ばしていた。湊くんは窓の外を見ていた。私も見た。ど
こにも行かなくていい、ここにいるだけでいい、そういう夕方だった。「ね
え」と言った。「うん」「幸せだね」湊くんは少し間を置いてから、「うん」
と言った。その一言が、全部だった。
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終章 それから(湊・視点)
あれから何年も経った。子どもが生まれ、小さな家に引っ越し、日々は目ま
ぐるしく過ぎていく。陽菜は相変わらず、よく食べる。相変わらず、よく笑
う。そして、相変わらず、正直だ。
『正直に過ごしてたら、何も怖くない』
陽菜がよく言う言葉だ。シンプルな言葉だけれど、本当にそうやって生きて
いる人を、僕はあまり知らない。子どもたちを見ていると、陽菜の背中をそ
のまま受け継いでいる気がする。何かあったとき、正直に言える子たちだ。
隠したり、誤魔化したりしない。僕はそこまでできていない。ずるく考えて
しまうこともあるし、見栄を張りたくなることもある。でも、陽菜の隣で、
その背中を見ていると、「もう少しちゃんとしよう」という気持ちになる。
それだけで、十分だと思っている。なぜ彼女は僕を選んでくれたのか、正直
まだよくわからない。ただ、クリスマスイブの夜に言えたあの一言だけは、
今でも「よく言えたな」と思う。『隣にいてね』
準備していた言葉じゃなかった。計算した言葉でもなかった。ただ、正直に
出てきた言葉だった。たぶん、それでよかったんだと思う。ちなみに陽菜は
今日も、夕飯のあとに「デザート食べたい」と言っている。「さっきご飯食
べたばかりじゃないか」と言ったら、「胃袋は別腹を持ってる」と言われた。
意味がわからないようでわかる気がして、僕はプリンを買いに行った。帰っ
てきたら、子どもたちが「パパ、プリン!」と駆け寄ってきた。陽菜が「こ
っちだよー」と言いながら笑っていた。その笑い方が、出会った日と、ぜん
ぜん変わっていなかった。それが、僕の日常だ。それで十分だと、本当に思
っている。
番外・子どもの寝顔(湊・視点)
子どもが生まれてから、夜中に目が覚めることが増えた。たいした理由じゃ
ない。ただ、ふと目が開く。隣で陽菜が寝ている。その隣に、小さな寝顔がある。
こんな夜に、なぜか専門学校の頃のことを思い出す。グループ課題で同じ班
になった日。陽菜が「プリンとお昼寝が好きです」と言って、教室を笑わせ
た日。あの頃の僕には、今の自分が想像できなかった。
静かな部屋の中で、子どもの寝息だけが聞こえる。陽菜が少し寝返りを打っ
て、また静かになった。何もしなくていい。ただ、ここにいる。それだけで
いい夜だった。こんな何気ない日々の繰り返しが、長く続くことが何よりの
幸せだと今でも感じている。ありがとうと妻に感謝することばかりだと感じ
る。
──────────────────────────────────
了
著者:はたまめゆき