
第16話 白い猫とアイスティー
まだ暑さが残る季節の昼下がり。
クロウは、グラスを磨きながら歌うように口ずさんでいた。
「アウレリス……ソアリエ・シーイング……エレンフィア……フェルシア……ソアラ……フィーネ……」
カラン――。
静かにベルが鳴った。
入ってきたのは、帽子をかぶり、汗をいっぱいかいた十歳ほどの少年だった。
「あの……猫。首に青いリボンをつけた白い猫、来ませんでしたか?」
「いらっしゃいませ。猫さんですか……。特に見かけてはいませんね。」
少年は残念そうにうつむき、そのまま店を出ようとした。
そのとき、クロウは、少年と一緒に白く淡い靄のようなものが店へ入ってきたことに気づいていた。
「その白い猫さんを探しているのですか?」
「うん……。五日前から戻って来なくて……。ふらっといなくなることはあっても、必ず翌日には帰ってきていたんだ。」
「そうですか……それは心配ですね。」
クロウは優しく微笑んだ。
「よかったら、少し休んでいきませんか?」
「僕、お金持ってないから……。」
「大丈夫ですよ。アイスティーでもいかがですか?」
「じゃあ……お言葉に甘えて。」
クロウは静かにアイスティーを淹れ始めた。
透明な氷の入ったグラスへ、ゆっくりと紅茶を注ぐ。
特製のガムシロップを少しだけ加え、ストローで二度、静かにかき混ぜた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
少年はカウンター席に腰を下ろし、汗をぬぐうと、一気に喉へ流し込んだ。
「ふぅ……おいしい。本当は、のどカラカラだったんだ。」
クロウは思わず微笑んだ。
実は、少年がカウンター席へ座ったときから、その隣には白い靄のような影が静かに寄り添っていた。
クロウは、小さな声で唱えた。
「アウレリス……ソアリエ・シーイング。」
すると、その白い靄はゆっくりと姿を変え、青いリボンを首につけた上品な白猫が、ちょこんと椅子の上に座った。
「にゃあ。」
「あれ? 今、鳴き声がしなかった?」
少年の声に、クロウは優しく微笑む。
「そうですね。近くにいるのかもしれませんね。」
「ブラン! いるの? 出ておいでよ。」
「猫さんは、ブランというお名前なのですね。」
クロウがブランへ目を向けると、ブランは嬉しそうにしっぽを揺らした。
「そう。ブランっていうの。白い毛がふさふさで……ブラン……。」
「ブランさんにも、何か事情があるのかもしれませんね。」
「ブランに事情? 変なの!」
少年は照れくさそうに笑い、残っていたアイスティーを飲み干した。
そのとき――。
「にゃあ。」
「あっ! また聞こえた!」
クロウは静かに言った。
「ブランさんが、『ありがとう。ごめんね。』と言っているようですよ。」
「えっ……? ブランが……。」
少年は目を潤ませながら、ブランと過ごした日々をひとつひとつクロウへ話してくれた。
しばらくして、少年は何かを悟ったように微笑んだ。
「ブラン、そこにいるんだね。わかったよ。ありがとう。」
「マスター、ありがとう。」
「ブランさんは、あなたの記憶の中で、これからもずっと一緒にいますよ。」
「うん。」
少年は何度も振り返りながら、月影亭をあとにした。
ブランも、クロウへ向かって小さく、
「にゃあ。」
と鳴いた。
その声は、「ありがとう」と言っているように聞こえた。
そして少年のあとを追うように歩き出すと、その姿は午後の光に溶ける霧のように、静かに消えていった。
店内には、再び穏やかな静けさが戻る。
クロウは、誰もいない店内で小さくつぶやいた。
「アウレリス……ソアリエ・シーイング……」
不思議と今は、その言葉の意味がわかる気がした。
──未練を抱え、迷える魂を安らぎへ導く、癒しの言葉。
すべてを思い出したわけではない。
けれど胸の奥には、小さな灯がともったような温かさが広がっていた。
ブランは、お礼を伝えたかったのだ。
「ありがとう。」
「もう心配しないで。」
「ごめんね。」
その想いだけを届けるために、この店へ導かれてきたのだろう。
クロウは、もう一度だけ静かに唱えた。
「アウレリス……ソアリエ・シーイング……エレンフィア……」
でも――
どうして僕は、この言葉を知っているのだろう。
記憶を失う前の僕は――
いったい、何者だったのだろう。
窓の外では、蝉の声がまだ賑やかに響いている。
クロウは苦笑して、そっと肩の力を抜いた。
「……考えても、今は答えは出ないか。」
今日、一つの魂が癒された。
それだけで十分だ。
そう思いながら、クロウは新しいグラスを静かに磨き始めた。