
薄給の賢者 ― 第一話の未来(JTCの理・マトリックス編 第七話)
薄給の賢者
再雇用の人たちを見ていると、
ときどき、空気の温度が変わる瞬間がある。
役職定年で給料が下がり、
さらに再雇用で肩書きも変わる。
責任も権限も曖昧になり、
どこに立っているのか分からなくなる。
その中には、
家にいても居場所がなく、
とりあえず会社に来ているだけの人もいる。
そういう人たちは、
存在しているのに、誰からも呼び出されない。
害はないが、役にも立たない。
ただ CPU の片隅で待機し続けるだけの、
idle プロセスのようなものだ。
ps の一覧には確かに残っているのに、
実行キューに入ってもすぐに他のプロセスに追い抜かれる。
nice値だけが高く、スケジューラに後回しにされ続ける。
そんな中に、一つだけ、
**“idle 化しなかったアカウント”**がある。
私はその人を「薄給の賢者」と呼んでいる。
処理速度は誰より速い。
例外処理も正確で、ログの読み解きも深い。
若手のエラーを検知すれば、
アラートが上がる前に静かに修正している。
資料の欠損も、手順のバグも、
気づいたときにはパッチが当たっている。
なのに、権限は半分。
評価テーブルにも載らない。
会議ログにも名前は残らない。
それでも、その人は idle 化しなかった。
むしろ、静かに CPU を割り当てられている。
nice値が低く、必要なときに必ずスケジューラに呼び出される。
若手は気づいている。
「あの人がいなかったら、今日の障害はもっと深刻だった」と。
上司も気づいている。
「誰が直したかは言わないけれど、助かっている」と。
ただ、誰もログに残さないだけだ。
そのアカウントは、
ルートプロセスにも、デーモンにもなれなかった。
いや、
idle 化しなかった唯一の再雇用者
と言ったほうが正しい。
私は知っている。
その人は昔、
“気づいてしまった側”のエンジニアだった。
バグも、無駄な処理も、曖昧な仕様も、
誰よりも早く検知してしまう人だった。
そして、管理職という上位レイヤーに昇格した瞬間、
なぜかアクセス権を剥がされるように迫害された。
正しさは、システムの均衡を壊す。
均衡を壊す者は、構造から見れば異物だ。
だから、その人は静かに階層の端に追いやられた。
でも、エラーにはならなかった。
正しさを捨てなかったからだ。
ただ、ログに書き込むのをやめただけだ。
その結果、“薄給の賢者”として、
静かにシステムを支える存在になった。
CPU負荷は低い。
でも、いなくなると全体の処理が歪む。
そんな不可視のプロセス。
これからの職場には、
こういうプロセスが増えていくのだろう。
いや、正確には──
賢者ではない“idle プロセス”のほうが圧倒的に増えていく。
忖度だけで昇格した人の引退後の末路は、
そのまま“ゾンビプロセス”になる。
すでに終了しているのに、
誰も wait してくれないまま、プロセス表に残り続ける。
家に居場所のない人たちは、
“意味なしスレッド”として職場に滞留する。
害はないが、役にも立たない。
ただ CPU の片隅で待機し続ける。
そんな未来の中で、
薄給の賢者だけが、プロセスとしての意味を保ち続ける。
気づいてしまったがゆえに迫害された人。
正しさを捨てず、ログだけを静かに手放した人。
その人だけが、
“必要なプロセス”として認知され続ける。
増え続ける idle プロセスの中で、
唯一の救いのように。
このプロセスはこのまま常駐し続けるのだろうか。
それとも、ある日静かに SIGKILL されるのだろうか。
それは誰にもわからない。
そして、誰もログに残さない。
私はその背中を、
今日もまた静かに見送った。
二つのパラレルワールド
🏮 JTCの理 ― 憑き物落とし篇 組織の澱みを「怪異」として解剖する、京極夏彦的作品へのリスペクトを込めた物語。
🕶️ JTCの理 ― マトリックス篇 システムのバグを「アノマリー」として捉え直す、SF映画的世界観の物語