
傾く世界(JTCの理・妖怪編 第九話)
「沈みゆく船の上で」
特需が続いていた。 システムのキャパシティは、静かに削られていく。 数字だけ見れば、まだ余裕があるように見える。 だが、現場にいると分かる。 空気の奥で、何かがゆっくりと膨らんでいる。
——ああ、そろそろ“出る”な。 そんな気配だけが、淡々と積もっていく。
ルール上は、まだ増設基準には達していない。 でも、ルールはいつだって過去の世界の話だ。 今の現場には合っていない。 それでも、ルールは“正しさ”として残り続ける。
私は、収容変更と先行増設の稟議を上席に相談した。 間に合わなくなる前に、少しでも手を打つために。
当然、 「よく気づいた、すぐやろう」 そう言われると思っていた。
返ってきたのは、別の世界の声だった。
「増設基準のルール的には、まだなんでしょ。 変えたいなら、まず基準変更の審議をかけてからだよ」
「収容変更って、定型手順なの? 違うなら重要工事審議会にかけてからだね」
淡々とした口調だった。 まるで、天気の話でもしているような。
私は、少しだけ静かになった。 怒りでも落胆でもない。 ただ、理解しただけだ。
——ああ、この人たちは“妖怪”を見ていないのだ。
彼らにとって大切なのは、 トラブルを避けることではない。 ルール通りに動いている、という“物語”を守ることだ。
沈みかけた船の上で、 明らかに傾いているのが見えていても、 避難アナウンスが出るまでは動かない。 なぜなら、本当に沈むときは、 より上席の人間から先に逃げられるからだ。
現場には見える妖怪は、 上層部からは見えない。 いや、見たくないので見逃すのだ。 彼らの世界には害を及ぼさないから。
彼らが恐れるのは妖怪ではない。 自分に責任が及ぶような、余計なことをすること、 それだけだ。
仮に何かを決断して実施したとして、事がうまく運ばなかった時の責任を取ることが何よりも嫌なのだ。
それだったら、ルール通りに何もせずに、ただ様子見を決め込んで予定通りに落とし穴に落ちる方がましなのだ。
落ちた責任はルールにあり、自分はそれを遵守しただけであり、判断に間違いはない。
ルールを策定した人は、過去の話として、それはそれで責任は問われない。
完璧に誰のせいでもないポテンヒットが量産される、そんな世界がすでに構築されているのだから。
私はそっと目をそらした。 頑張るのをやめた。 それは敗北ではなく、ただの選択だ。
会議室を出るとき、 妖怪の気配が通り過ぎた気がした。 風もないのに、書類の端がふっと浮いた。 世界がわずかに揺れて、すぐに元に戻る。
——影が濃くなったな、と思う。
怖くはない。 嫌いでもない。 ただ、僕の住む世界とは違うだけだ。
沈没船に残されるのは、 いつだって私たちなのだろう。 それもまた、この世界の自然な姿なのだ。
二つのパラレルワールド
🏮 JTCの理 ― 憑き物落とし篇 組織の澱みを「怪異」として解剖する、京極夏彦的作品へのリスペクトを込めた物語。
🕶️ JTCの理 ― マトリックス篇 システムのバグを「アノマリー」として捉え直す、SF映画的世界観の物語