
冥界の宴(JTCの理・マトリックス編 第八話)
仕様検討会議の前日、私は深夜までバックログを整えていた。
若手が顧客ヒアリングを重ね、
現場のメンバーが実際の運用を想定し、
必要な機能を洗い出し、
新しいフレームワークの採用も含めて、
“正しい順番”で並べたバックログだ。
ユーザ空間での理は、いつだって美しい。
要件は整合性があり、依存関係は明確で、
ユーザーが気づいていなかった真のニーズも汲んでいて、
優先度は合理的に決まる。
顧客のキー担当者が本当に必要としている機能。
現場のメンバーが“これがあれば楽になる”と語った改善点。
若手が提案した新しいプロセス設計。
すべてが、
“ユーザ空間で最適にスケジューリングされたプロセス”のように、
整然とそこに並んでいた。
私はそのバックログを手に、仕様決定会議へ向かった。
幹部が入室した瞬間、空気が変わった。
「この機能、入ってないよね?
××取締役の知り合いが“ぜひ”って言ってたやつ」
最初の割り込みが入る。
バックログの優先度が、一瞬で書き換えられた。
「こっちの機能は?
社長が気に入ってたよね。
今回の記事と連動して“売り”にしたいんだよ」
特権フラグ付きの要求だ。
ユーザ空間の正しさは、ここでは無効。
「この処理の順番、いまの手順と違うよな。
この部門は昔からこういう流れでやってるだろ?」
せっかく最適化したプロセスも、
過去の互換を強制適用。
新しい設計は、ベテランや権力者の成功体験の武勇伝の前に消える。
若手が顧客と何度も調整した仕様も、
現場が汗をかいて作ったプロセスも、
合理的に並べたバックログも、
すべてが幹部のフィーリングで上書きされていく。
私は理解した。
これは仕様検討会議ではない。
カーネル空間での優先度再計算だ。
ユーザ空間でどれだけ正しく設計しても、
カーネル空間の一言で、すべての順番は崩れる。
「じゃあ、この仕様書とバックログをさ、
決まった順番に合わせて書き直しておいて」
ああ、目眩がする。
耳鳴りがする。
もう、遠くのほうで誰かがご機嫌に話していることしかわからない。
そうだ。
私は知っていた。
長い間、これを繰り返してきたじゃないか。
何度も開発メソッドの変更がアナウンスされてきた。
ウォーターフォールは古い、テスト駆動型だ、アジャイルだ、バイブコーディング、リーンキャンバスだ・・・
素敵な新しい“聖書”を読み直させられてきたが、
結局、根本の世界は変わらない。
会議室を出るとき、
一瞬だけ黒猫が通り過ぎるのが見えた。
世界の画像が、わずかに揺れて元に戻る。
ああ、まただ。
正しさを追求した先は、
いつも“アノマリー”として扱われ、
世界は静かに再計算される。
そして実績は、また意味を失う。
この人の物語の始まり 第一話はこちら
この人の前のお話 第七話はこちら
二つのパラレルワールド
🏮 JTCの理 ― 憑き物落とし篇 組織の澱みを「怪異」として解剖する、京極夏彦的作品へのリスペクトを込めた物語。
🕶️ JTCの理 ― マトリックス篇 システムのバグを「アノマリー」として捉え直す、SF映画的世界観の物語