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小説「双終の夢物語」

    【あらすじ】

    生まれつき全盲の少女・松下牡丹は、暗闇の中で「色」や「形」を夢想しながら、不自由で退屈な日常を送っていた。ある日、彼女は夢の中で蝶のような謎の声に誘われ、一時的に鮮やかな「偽色の世界」を体験する。その美しさに魅了された牡丹は、塞ぎ込んだ過去から解き放たれ、現実の世界でも「色」を知りたいと強く願うようになる。夢なのか、現実なのかも分からない、つぎはぎの物語。


    プロローグ「夢にまで見た偽色」

     甘い夢、楽しい夢、愉快な夢、心地よい夢、幸せな夢、真っ暗な夢。

    「ねむい」

     苦い夢、悲しい夢、怖い夢、痛い夢、辛い夢、儚い夢。

    「ねむい」

     誰もが持っている夢への鍵。誰かが忘れた現への鍵。

    「やめて」

     全て投げ出し夢の世界へ。さあ遊びに行こう、何もかも捨て。ガラクタの蝶もどきが稼働して、ぼやけた視界が広がれば、楽しく儚い夢の幕開け。

    「がさごそ」

     そんな夢のようなつぎはぎの物語。

    「くんくん」

     鍵の閉め忘れにはご用心。開け放たれたつなぎ目の扉。

    「もぐもぐ」

     輪郭が歪み、表と裏が重なり合い、曖昧になった空を見て、流す涙はどんな味か。

    「ぐちゅぐちゅ」

     朝が来た。朝が来た。忌々しい朝が来た。

    「ばいばい」

     目を覚ませ。目を覚ませ。今日はどちらの体で起きたかな?


     ムームー…… スースー…… モユモユ……

    「アハハ……ハ……う〜ん……あっ……」

     暑さで何もかもが嫌になる季節。楽しげな様子で松下牡丹(まつした ぼたん)は目を覚ました。

     朝だと言うのに目に光は映らない。朝なのか、昼なのか、夜なのか、もはやどうでもよいことだ。

    「あれ? また夢? こっちが夢? ……まあいいや……」

     静かに目を瞑る。

    「おやすみなさい……」

     誰かの声が聞こえたような気がするが関係ない。

     数分経つ間もなく夢の世界へと堕ちていく……

     一瞬意識が途切れると、真っ暗なような、そうじゃないような空間に立っていた。きっと夢を見ているのだろう。こんなにも綺麗に音が聞こえるのだから。

     何もない無の空間をひたすら目的もなく走り続ける。行き先なんて見えない。とても幸せな夢だ。

     聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚まで鮮明に感じる。ここが現実なのではないかと錯覚するほどだ。まさに理想の世界、天国とはこのことだろう。

     縦横無尽に走り回っていると不思議な匂いのする何かに引き寄せられる。

    「あれ? なんだろう……」

     その瞬間匂いのする方向から甲高い声が聞こえた。

    「ネエネエネエネエ ミタイ?」

    「何……?」

     牡丹の潜在意識のあらわれか、謎の声は牡丹に「見たい?」と語りかける。どこかで聞いたことがあるような、懐かしい声だ。

    「ミタイデショ、キットソウデショ ミタイデショ!」

    「だ、誰……? その声、もしかして……さ」

     牡丹は恐る恐る声の主に話しかける。

    「マアマア ダレデモ イイデショ、ココハ ユメノナカ、ナニガ オキテモ フシギジャナイヨ!」

    「ココダケ イマダケ トクベツ シュッケツダイサービス!ユメノセカイへ ゴショウタ〜イ!」

     甲高い声が耳を貫いた瞬間、牡丹の身に異変が起こる。「視える」のだ。

    「えっ……えっ……え……?」

     今までずっと、十五年間、暗闇しか映さなかった瞳に初めて光が灯った。

     困惑する牡丹、普通の人間の見え方とは大きく異なる世界が映る。本来見えるはずの「色」と「形」をこの目で見たい、という牡丹の強すぎる願いと想像、理想、幻想が生み出した産物だろう。

    「ああ……! え……! 嘘……!」

     強い想いにより生み出された奇跡の世界を目にし、心臓の鼓動が早くなり牡丹は涙を流して感動する。

    「フフフ、ヨロコンデクレタ? ワタシカラノ サプライズ ダヨ!」

     声の主は牡丹が話を聞き、頭の中で描き想像した「蝶」のような何かだった。

    「すごい……」

     なんでもできる。今までできなかったことが。なんでも。もう怖いものなしだ。

     少しの間硬直した後、牡丹は色のある、形のある世界を走り回る。前が見えようと行き先が見えないのは変わらない。

    「見える! 視える! すごいよ! こんなに綺麗!」

     瞳が涙で溢れ返り、せっかく見えている美しい世界が歪む。

     無邪気に走り回っていると、自分でも分からない内にいつの間にか視界が暗闇に包まれていた。

    「あれ? えっ? なんで? もどっ……ちゃっ……た……」

     最初は激しい困惑と絶望に襲われたが、徐々に脳が理解していく。

    「そっか……起きちゃったのか……」

     暗闇という名の現実を見て深いため息をついた。

    「また眠れば、もう一度あの世界に行けるかな……」

     喪失感と虚無感に襲われ、目を瞑ってしばらく経つが眠りに落ちる気配はない。

    「流石にもう寝れないか……」

     牡丹は重い体を起こし、手探りで枕元の杖を掴んだ。いつも通りの日常のはずなのに、先ほどまで見ていた幸せすぎる夢の残像が今の暗闇をより一層深く、冷たいものに感じさせる。

    「お腹、空いたな……」

     風が吹けば消えるような小さな独り言が部屋に溶ける。深いため息をついた後、牡丹はゆっくりと立ち上がり、壁を伝って歩き出した。夢とは違う、不自由で退屈極まりないいつも通りの生活に嫌気が差す。

     その時、生暖かい風が牡丹の頬を撫でた。

     風と共に夢の中でしか嗅いだことのない匂いが鼻をくすぐる。この世のものとは思えない、いや…この世のものではない匂いだ。

    「ヤッパリミタイ? ツヅキ、ミタイ?」

     背後から突然あの甲高い声が聞こえた。驚いて振り向くが、そこには暗闇が映るだけだ。

     牡丹は恐怖を感じつつも、心のどこかで強烈な期待感を抱いていた。もしまたあの世界を見られるなら…

    「見たい! 続きを見せて!」

    「アハハ! メイワクニ ナッテナクテ ヨカッタヨ! イキナリ セカイヲ ミセテアゲテ モシアリガタメイワク ダッタラ タイヘン ダカラネ!」

     甲高い声が耳元で弾けると、瞬く間に牡丹の周囲が偽物の楽園に包まれていく。砂嵐のような妄想色が広がり、牡丹はもう一度魂が震える。

    「あぁ……すごい……綺麗……」

     牡丹はいつの間にか杖を放し、無人の花園へと走り出していった。

     花園を翔ける牡丹の足取りは、信じられないほど軽やかで、まるで世を知らない小さな子供のようだった。


    前編「未成熟な幸せを」

    「ごめんね。小学校には行かせてあげられなかったけど、中学校には行かせてあげるからね」

     十三歳の誕生日を迎えた牡丹の手を優しく握りながら、母親がゆっくりと語りかける。

    「別に行きたいわけでもないよ……不安だし、今からクラスに馴染めないし」

     牡丹が冷たい口調で話す。世間では既に夏休みが終わろうとしていた。

    「不安だろうけど、このままずっと家にいるわけにもいかないし、案外楽しいはずよ」

    「そうかなあ……まあ頑張ってみるよ」

     そして夏休みが明け、入学の日。母親の車で中学校に送り届けられた。

    「大丈夫? ちゃんと一人で歩ける?」

    「うん、頑張って練習したから。行ってくるね」

     だんだんと遠ざかる車の音を背にしながら、中学校に一歩足を踏み入れた。

     玄関で待っていた担任と軽い会話を終え、杖と担任のアシストで無事階段を上りきり、緊張で体を小刻みに震わせながら教室に到着した。

     担任が教室のドアを開けて中に入り、牡丹もそれに続いて教室に入る。

    「はーい、静かに。今日からみんなの新しい友達になる、松下牡丹さんです」

     くだらない雑談で溢れかえる教室の喧騒を制止させ、担任が牡丹の紹介をした。

    「松下牡丹です……よろしくお願いします」

    「松下さんは家の都合で少し遅れての入学となりました。生まれつき目が全く見えないそうです。なのでみんな、サポートしてあげてね。」

     教室中がざわめく。

    「それじゃあ松下さん、一緒に席に行こっか」

     杖が机に当たり、カンカンと音を鳴らしながら、担任に誘導されてゆっくり席へと向かって行く。

     慎重に席に着き、机の横に杖を掛けた。

    「はい、それじゃあ朝のホームルームを始めます」

     教壇に戻った担任が出席を取り始める。牡丹は自分に向けられる無数の視線が肌を刺すような感覚を覚えていた。

    「……………はい、以上。夏休み明けだけど、一時間目から授業だから準備してねー。宿題は三時間目に回収するよー」

     牡丹は少しもたつきながらリュックから厚みのある点字教科書を取り出した。その時、隣の席から聞き心地の悪い椅子を引く音が聞こえた。

    「ねえ、それ全部点字なの?」

     不意に声をかけられ、牡丹の肩がビクッと跳ねる。声の主は女子生徒だった。

    「うん、そうだよ」

    「すごーい、全く読めないや。あ、私は隣の席の未黒(みくろ)。よろしくね、松下さん」

     屈託のない明るい声。牡丹は少しだけ緊張が解けた。

     担任が教室を去ると、牡丹の周りにはさらに数人の足音が集まってきた。

    「本当に何も見えないの?」

    「この杖どうやって使うの?」

     矢継ぎ早に飛んでくる質問に、牡丹は戸惑いながらも一つずつ丁寧に答えていく。母親の案外楽しいはずという言葉がほんの少しだけ現実味を帯びて感じられた。

     しかし、教室の隅からはそれを見つめる冷ややかな視線と、小さなひそひそ話も聞こえてくる。

    「……なんか、面倒くさそうな奴が来たね」

     その声は牡丹を取り巻くクラスメイトの声にかき消されても、牡丹の鋭い耳には届いていた。

     一時間目、数学の授業。

    「この問題、分かる人手挙げて」

     隣から手が机に当たったような、ガタッとした音が聞こえた。

    「じゃあ百合野さん」

    「はい。」

     すぐ隣から声が聞こえてくる。声の主は未黒だった。一切の迷いなく問題の答えを言い当てる。

    (すごいな……未黒ちゃんって頭良いんだ……)

     授業が終わるチャイムが鳴ると、教室内は一気に騒がしくなった。

    「松下さん、次の時間は音楽室に移動だよ。一緒に行こう?」

     未黒が優しく声をかけてくれる。

    「ああ……うん、ありがとう」
     
     少し戸惑いながらも、牡丹は小さく頷き、杖を手に取った。

     廊下に出ると、教室の中とは違う冷たい空気が流れていた。不慣れな場所での移動は杖から伝わる感覚だけが頼りだ。

     未黒は牡丹の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、段差や曲がり道などを的確に教えてくれる。

    「未黒ちゃんは、どうしてそんなに親切にしてくれるの?」

     ふと気になって尋ねると、未黒は少し意外そうに笑った。

    「親切っていうか、ただおしゃべりしたいだけだよ。私、友達いないし」

    「えっ、そうなの……?」

     牡丹は驚いて足を止めた。あんなに明るく、授業でも堂々と発言していた未黒に友達がいないなんて、想像もできなかったからだ。

    「あはは、そんなに驚かないでよ。私、思ったことすぐ口に出しちゃうから、女子グループとか苦手でさ……」

     未黒の自嘲気味な笑い声が、廊下の喧騒に紛れる。

    「でも、松下さんは裏表がなさそうだから。……あ、ここ段差あるよ。気をつけてね。」

    「うん、ありがとう」

     未黒の腕に導かれ、牡丹は慎重に足を下ろした。

     音楽室に到着すると、そこには独特の静けさと、古いピアノの匂いが漂っていた。

     授業が始まり、合唱の練習が始まる。隣から聞こえてくる未黒の歌声は、透き通るように綺麗で、どこか寂しげだった。

     授業の合間、牡丹がトイレに行こうと一人で廊下に出た時のこと。

     杖を頼りに壁際を歩いていると、背後から数人の足音が近づいてきた。

    「ねえ、ちょっといい?」

     それは朝のホームルームで聞こえた、冷ややかな声だった。

    「……はい」

     牡丹が足を止めると、三人の女子生徒に囲まれる気配がした。

    「あんたさ、未黒と仲良くしてるみたいだけど、やめたほうがいいよ。あいつ、中学上がる前にちょっと問題起こして浮いてるんだから」

    「問題……?」

    「そう、正義ぶって他人のことに首突っ込んで、結局クラスをめちゃくちゃにするタイプ。あんたみたいなお荷物が一緒にいたら、余計に目立つし迷惑なんだけど」

     お荷物という言葉が、鋭い棘のように牡丹の胸に突き刺さった。

    「でも、未黒ちゃん、親切にしてくれたから……」

    「親切?あんなのただの点数稼ぎでしょ。先生に気に入られたいだけ。盲目の転校生を助ける優しい私、ってね」

     クスクスという嘲笑が、牡丹の周囲を取り囲む。悪意に満ちた声の輪郭だけが、鮮明に浮かび上がった。

     放課後、迎えの車を待つため、牡丹は昇降口の近くにあるベンチに座っていた。体が疲労していると訴えかけてくる。

    「松下さん、お疲れ様! 家まで一緒に行こうか?」

     駆け寄ってきた未黒の声に、牡丹は思わず肩をすくめてしまった。

    「……ううん。お母さんが迎えにくるから、大丈夫」

     少し距離を置くような牡丹の態度に、未黒が小さく息を呑む。

    「そっか……何か言われた?」

     見透かしたような問いかけに牡丹は言葉を詰まらせる。

    「……未黒ちゃんには、関係ないよ」

    「関係あるよ。私のせいで松下さんが嫌な思いしてるなら」

     未黒の声から、先ほどまでの明るさが消えていた。

    「私ね、小学生の時、いじめられてた子を庇って、代わりにターゲットにされたんだ。だから一人でいる方が楽だと思ってた。でも、今日松下さんが来て、一生懸命前を向こうとしてるのを見て、また誰かと話したいって思っちゃったんだよね」

     夕方の風が、二人の間を吹き抜ける。未黒の言葉は、とても嘘をついているようには聞こえなかった。

    「ねえねえ松下さん! 松下さんって、色とか、全部見えないの?」

    「えっ?」

     未黒の表情は見えないが、空気が重くならないように無理矢理話題を変えたことは目に見えて分かった。

    「色……お母さんがずっと言ってるけど、なんなのそれ?」

    「色は……色としか言えないなあ……目が見えないってどんな感覚? 真っ暗なの?」

    「真っ暗? ……わかんない。説明できないよ。今まで違和感を持ったこと、なかったから……逆に目が見えるってどんな感じ?」

    「え?それは、あそこに木が生えてて、あっちに家があって、上に雲があって……」

     二人の質問合戦が始まった。

    「そう……なんだ……目が見えるのって楽しい?」

    「楽しいっていうか、目が見えない生活が想像できないよ」

    「へえ……私は目が見える生活が想像できないな」

    「それってなんか面白いね!」

     未黒が明るい声で話すと、牡丹もそれにつられて静かに微笑む。

    「ふふっ、確かにね」

    「ねえ、松下さん。これからは下の名前で呼んでいい?」

     牡丹はとても驚いた表情を見せていた。

    「いいけど……」

    「ありがとう! これで私たち、友達だね! 牡丹ちゃん!」

     驚いたような表情から、徐々に顔が優しくなっていき、最終的には人生で初めての満面の笑みを浮かべ、首を大きく縦に振った。

    「うん!」

     翌日、牡丹は昨日よりも軽い足取りで母親の車を降りた。

    「行ってきます」

     アスファルトの感触を確かめながら校門をくぐる。昨日感じた刺すような視線は相変わらずそこかしこにある気がしたが、昇降口で待っていたのは聞き慣れた明るい声だった。

    「おはよ!」

    「未黒ちゃん!おはよう」

     未黒は自然に牡丹の横に並び、歩幅を合わせる。二人が雑談をしながら教室に入ると、一瞬空気が凍えた。明らかに誰かに睨まれている。未黒はそれを無視して堂々と牡丹を席まで案内する。

     一時間目が始まる直前まで、牡丹は「色」について考えていた。

    (色かあ……みんなには見えてるんだよね……一度でいいから見てみたいな……)

     そんな時、後ろからわざとらしい大きな独り言が聞こえてきた。

    「ねえ、この教室変な匂いしない?前の方の席から臭う気がするんだけどー」

    「やめなよー、聞こえちゃうじゃん。まあ事実だけど」

     クスクスという忍び笑いが聞こえ、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚を覚える。

     しかし、その言葉が言い終わらないうちに、隣でガタッと椅子が鳴る音がした。

    「今、なんて言った?」

     未黒の声だった。先ほどまでの明るさは微塵もない、低く鋭い声。

    「何よ、別にあんたのこと言ってないし」

    「牡丹ちゃんのこと言ったよね。匂いって何? 自分の性格の悪さが鼻についてるだけじゃない?」

     教室に静寂が訪れ、空気が張り詰めている。

    「……チッ、うざ。まだ正義の味方ごっこやってんの?」

     女子生徒たちは舌打ちして自分の席に戻り、それ以上言葉を重ねることはなかった。

    「未黒ちゃん、もういいよ……」

     牡丹が小声で制すると、未黒は深く息を吐いて座り直した。

    「ごめんね、黙っていられなくて、……怖かった?」

    「ううん、嬉しかったよ。私のために怒ってくれる人がいるなんて、思わなかったから。」

     牡丹は机の下でそっと自分の小さな手を握りしめた。今までの人生、全ては牡丹の家の中だけで完結していた。一般常識は教わったが、悪意も、善意も、牡丹には分からなかった。そして遂にその両方を理解する時がきた。

     その後の休み時間、牡丹は未黒に誘われて屋上へと続く階段の踊り場にいた。そこには人通りがなく、二人だけの秘密基地のような静けさがあった。

    「これ、なあに?」

    「ビー玉。昨日、色の話をしたでしょ? それは『青色』空とか、海の色だよ」

     牡丹は指先でその小さな球体を転がした。

    「これが、空の色……」

     牡丹はその「青」を、自分の世界の中に大切に並べてみた。未黒が教えてくれる言葉は、今まで母親から聞いていた説明よりもずっと鮮やかで、温度を持っていた。

     しかし、平穏な時間は長くは続かなかった。二人が教室に戻ろうと立ち上がった時、階段の下から数人の足音が響いた。

    「しつこいなあ……」

     未黒が小さな声を漏らす。

    「あーあ、また二人でコソコソやってる。未黒、あんた本当に懲りないね。何が楽しくて欠陥品のお世話係やってんのか」

     足音の正体は牡丹と未黒に噛みついてくる女子生徒たちだった。足音が雨音のようにバラついている。

    「何か用?」

     未黒が牡丹をかばうように一歩前に出る。

    「うん、あんた、ちょっと調子に乗りすぎ」

     冷酷に言い放つと、取り巻きが未黒を囲んだ。

    「ちょっと、何するの……!」

     未黒の焦ったような声と、衣擦れの音が聞こえる。牡丹は状況を把握しようと杖を握り直したが、視界のない彼女には周囲で何人が、どんな状況で未黒を追い詰めているのか分からない。

    「牡丹ちゃん、逃げて!」

     未黒の叫びと同時に鈍い衝撃音が響いた。誰かが未黒を突き飛ばし、彼女が壁に打ち付けられたのだ。

    「何それ、ビー玉?そんなの持たせてどうすんの。見えもしないのに」

     未黒の悲痛な叫びにより、女子グループの内の一人が牡丹の手元に視線を落とした。

    「見えないけど……見えないけど、あなたたちより、ずっとずっと見えてるよ!」

     牡丹が震えた大声を発し、女子生徒の動きが一瞬だけ止まる。その声が恐怖によるものなのか、怒りによるものなのか、本人も理解していない。

    「はあ……バカみたい」

     一人の女子生徒が手を伸ばし、牡丹の指先からビー玉を弾き飛ばした。

     硬い音が階段に響く。カン、カン、コロコロ……と、青い光の粒が階下へと転がり落ちていく。

    「あっ……!」

     牡丹は思わず手を伸ばしたが、そこには虚空しかなかった。大切な何かが遠ざかっていく音だけが耳に残る。

     牡丹が足を踏み出したその時、誰かの足が彼女の杖を引っ掛けた。バランスを崩し、牡丹の体が地面に強く激突した。声にならない悲鳴が漏れる。

    「何するの!」

     未黒が叫んだのと、予鈴のチャイムが鳴り響いたのは同時だった。

    「あ、授業始まる。行こ」

     女子達は勝ち誇ったような笑みを残し、足早に立ち去っていった。

    踊り場に残された二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

    「牡丹ちゃん大丈夫? 怪我はない?」

     未黒の手が牡丹の頬に触れる。その手もまた、微かに震えていた。

    「ごめんね……私のせいで、こんなことになって……」

    「ううん……未黒ちゃんこそ大丈夫?」

     未黒が牡丹を優しく抱きしめながら、消えそうな声で囁いた。

    「これくらい平気だよ。本当に、全然何ともない……」

     未黒の声は、少しだけ泣いているように聞こえた。しかし、その温もりは本物だった。

    「ならいいけど……」

     牡丹は上半身と膝がビリビリする感覚を覚えながらも、手探りで杖を探し、しっかりと握り直した。

    「行こう。授業遅れちゃう」

     鋭く痛い悪意を知り、未黒が差し出してくれる善意の温かさが、より鮮明に「色」を持って牡丹の心に染み渡っていく。

     次の日の朝。雲一つない快晴の空で、太陽光が身を焦がす。校門の前を歩くと、変わらず未黒が声を掛ける。

    「おはよう! 牡丹ちゃん!」

     未黒の声が昨日より大きくなっていた。しかし、その奥に明るさは感じられない。

    「……おはよう、未黒ちゃん」

     牡丹は足を止めて挨拶を返したが、杖を持つ力は強まった。未黒の声はまるで自分自身を鼓舞するかのような、あるいは周囲の視線を跳ね返そうとするかのような、硬い響きを帯びていた。

     二人が並んで歩き出すと、昨日までよりも露骨な「静寂」が二人を包み込んだ。すれ違う生徒たちの話し声が、二人が近づくとピタリと止まる。

     教室に入ると、牡丹の机には油性ペンで数々の罵詈雑言が書かれていた。

    「何これ……!」

    「どうしたの? 未黒ちゃん」

    「誰……誰がやったの!」

     未黒の叫びが教室に響き渡る。しかし、返ってくるのは無関心を装った沈黙と、楽しげな鼻歌だけだった。

    「未黒ちゃん……? 大丈夫?」

     未黒が自分の机を強く叩く音が聞こえた。

     その時、教室の後ろから一人の女子生徒がゆっくりと歩み寄ってきた。昨日、階段でビー玉を弾き飛ばした主犯格の声だ。

    「そんなに怒らなくてもいいじゃん。どうせ見えないんだから、何もしてないようなもんでしょ? それにさ、未黒。あんたが余計なことしなきゃ、この子だってこんな目に遭わずに済んだのに」

     その言葉は、毒のように牡丹の心に回った。

    (そうだ……私のせいだよ……私が欠陥品だから……こんな迷惑……)

     そんなはずはない。そんなことあり得ない。しかし、自分たちが一緒にいることで、お互いの世界が壊れていくような恐怖が牡丹を支配した。

    「牡丹ちゃん、行こう。私、」

     未黒が牡丹の手を引こうとした。しかし、牡丹はその手を振り払ってしまった。

    「……もう、やめて!」

     牡丹の声に、未黒がビクッと体を震わせる。

    「牡丹ちゃん……?」

    「未黒ちゃん、もう私に関わらないで。……これ以上、色なんて教えてくれなくていい」

     杖を握りしめ、牡丹は一人で教室を飛び出した。壁と杖に体をぶつけ、何度も足をもつれさせながら、ただひたすらに「音」を頼りに走った。背後で未黒が自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、牡丹はただただ耳を塞ぎたかった。

     意識もせずに辿り着いたのは、昨日の踊り場だった。

     荒い息を吐きながら、牡丹は冷たいコンクリートの床に座り込む。

     真っ暗な世界。色なんて存在しないはずだった。母親の言う通り、家にいればこんな痛みを知ることはなかったのに。

     その時、何かが手に当たる感触がした。

     手探りで床をなぞると、指先に丸い物体が触れた。

     それは、昨日失くしたはずのビー玉だった。

     牡丹はそれを拾い上げ、顔に近づけてみる。

     見えない。けれど、手のひらの中にあるそれは太陽の熱を吸い込んで、体を包み込むほどに優しく、温かかった。

     牡丹の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

     未黒が教えてくれた「色」は、目で見えるものだけではなかった。

     怒ってくれる時の震える声。守ろうとしてくれる手の温もり。一緒に笑った時の、弾けるような空気の振動。

     それら全てが、牡丹にとっての「色」だった。

     背後で、静かな足音がした。

     追いかけてきた未黒が、少し離れた場所で立ち止まっているのが気配で分かった。彼女は何も言わず、ただ牡丹が顔を上げるのを待っているようだった。

     牡丹はビー玉を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がる。

    「……未黒ちゃん」

    「……うん」

    「今日の空、まだ青い?」

     少しの間を置いて未黒の、いつもと何も変わらない、優しい声色が視えた。

    「……うん。最高に青いよ。人間なんて、ちっぽけに思えちゃうくらい」

     牡丹は一歩、未黒の方へ踏み出した。

    「私、もっと知りたい。未黒ちゃんが見てる世界のこと、全部」

     二人の間に、昨日よりも少しだけ強い風が吹き抜けた。

     それは冷たく、どこか清々しい、新しい季節の匂いがした。

     その日、未黒は担任に一部始終を話したが、クラスメイトは担任含め見て見ぬふりを続けている。目は視えているのに見えないふりをするとは贅沢だ。

     しかし、そんなことは、あまり気にならなかった。

     下校時間、昇降口の前で二人は話す。

    「ねえ、未黒ちゃん。私、これから一緒に登下校したいな。」

    「えっ? いいけど……なんで? 牡丹ちゃんが大変なだけだよ?」

     牡丹は照れくさそうに言う。

    「だって、未黒ちゃんと、少しでも一緒にいたいから」

     未黒は驚愕した後、大きく明るい声を発した。

    「ありがとう……! 嬉しいよ!」

     車の音が聞こえる。母親が迎えに来た。

     未黒は母親との軽い会話を終え、もう一度大きな声で叫ぶ。

    「じゃあ、また明日ね! 牡丹ちゃん!」

    「うん、また明日。未黒ちゃん」

    「どうだった? 今日も楽しかった?」

     母親の問いかけに、牡丹は少しだけ間を置いてから答えた。

    「……うん。大変なこともあるけど、友達ができたから」

    「そう、良かったね」

     翌日、牡丹が家を出ると、玄関の前で未黒が待っていた。

    「それじゃあ牡丹をお願いね」

    「はい! 任せてください!」

     未黒が自信満々に言う。

    「本当に大丈夫?」

    「大丈夫だよ、お母さん」

    「「じゃあ、行ってきます!」」

     未黒の元気な声と、牡丹の少し控えめな、けれど確かな足取りが重なり合い、二人の新しい日常が始まった。

     母親の車が角を曲がって見えなくなると、未黒はそっと牡丹の左腕に自分の右腕を添えた。

    「今日はね、空は青いんだけど、少しだけ白い雲が混じってるよ。綿菓子をちぎって散らしたみたいに」

    「綿菓子……甘い匂いがしそうだね」

     牡丹が微笑むと、未黒も笑い声を上げた。

     信号機の色について話しながら横断歩道を渡っていると、法定速度を明らかに超えた軽トラックが突っ込んできた。

    「……! 牡丹ちゃん危ない!」

     未黒の叫び声と同時に、牡丹の体は強い力で突き飛ばされた。

     アスファルトに叩きつけられ、杖が手から離れて乾いた音を立てる。何が起きたのか理解する間もなく、鼓膜を切り裂くような急ブレーキの音と、鈍い衝撃音が響き渡った。

    「……あ、……未黒ちゃん?」

     牡丹は震える手で周囲を探った。膝の擦り傷が熱く痛むが、それどころではなかった。

     先ほどまで隣にあったはずの、大切な色が消えている。

    「未黒ちゃん! どこ!? 返事して!」

     牡丹の悲鳴が虚しく響く。

     遠くで誰かが叫んでいる声がする。救急車やら大丈夫かやら大騒ぎ。

     牡丹は這いつくばりながら、必死に未黒を探した。指先が何かに触れる。それは、未黒がいつも着ていた制服の布地だった。

    「未黒ちゃん……未黒ちゃん!」

     触れた先は、驚くほど熱かった。そして、生暖かい液体が牡丹の指を濡らしていく。

     「色」を知らない牡丹にも分かった。これが、命の色なのだと。

    「牡丹……ちゃん……」

     消え入りそうな声が、すぐそばで聞こえた。

    「未黒ちゃん! 今、助けがくるから! 動かないで!」

     未黒の手が、力なく牡丹の頬に触れた。その指先は、みるみるうちに力を失っていく。

     未黒の言葉が途切れ、頬に触れていた手の力が抜けて重力に従って地面へと落ちる。

    「未黒ちゃん? ねえ、未黒ちゃん!」

     牡丹は未黒の体を抱きしめ、何度もその名前を呼んだ。

     しかし、返ってくるのは遠くから近づいてくるサイレンの音と、吹き抜ける風の音だけだった。

     その後の数日間は、ほとんど記憶がない。唯一明確に覚えている事は未黒に二度と会えないという残酷な現実だけだった。

     生ぬるいビー玉を握りしめながら、牡丹は覇気のない声で話す。

    「お母さん」

    「うん」

    「学校行きたくない」

    「…………そっか」


    後編「腐り溶けた双児」

    「これは……ほぼ間違いなく先天性全盲でしょうね」

     生後四ヶ月の牡丹を抱き抱えた母親に、絶望的な真実が襲いかかる。

    「そんな……どうにかならないんですか!」

     医者は淡々と説明する。

    「彼女にとっては、これが世界の『普通』になります。光を知らないことは、必ずしも不幸と直結するわけではありません。彼女には、彼女にしか聞こえない音や、感じられない温もりがあるはずです」

    「…………」

     母親は、牡丹の小さな頬をそっと撫でた。その指先に触れる肌の柔らかさは、確かに生きていて、ここに存在している証だった。

    「牡丹……」

     名前を呼ぶと、赤ん坊はわずかに口角を上げ、笑ったように見えた。その無垢な微笑みが母親の凍りついた心に小さな、けれど消えない灯をともした。

     家で父親に全てを話すと、父親は激昂して怒鳴りつけた。

    「はあ!? ただでさえお前が双子なんか孕んだせいで、余裕がないってのに!」

    「そんな……」

    「ふざけるな! 目が見えない子供なんて、これからどうやって育てていくんだよ!」

     父親の言葉は、鋭い刃となって母親の胸を突き刺した。

    「……そんな言い方、しないで。牡丹は私たちの子供なのよ」

    「俺は認めないぞ。こんなはずじゃなかった。相菜はあんなに元気なのに……」

     隣のベビーベッドでは、もう一人の娘、相菜がすやすやと眠っている。同じ日に生まれ、同じ血が流れているはずの二人の運命は、この瞬間に残酷なまでに分かれてしまった。

     母親は震える手で牡丹を強く抱きしめた。

    「私がこの子を守る。この子が、この世界を愛せるように」

    「じゃあ牡丹はお前が一人で育てればいいさ」

     父親は捨て台詞を吐き捨て、寝室へと戻っていった。

     静まり返った部屋で、牡丹は母親の鼓動を聞きながら、再び小さく笑った。彼女の瞳には何も映っていない。けれど、母親が流した一筋の涙がその頬に落ちたとき、牡丹はまるで見えない悲しみを感じ取ったかのように、小さな手で母親の指をぎゅっと握りしめた。

     それから十数年の月日が流れた。二人は離婚し、牡丹と相菜は離れ離れになってしまった。

     相菜は活発な少女へと成長し、外を元気に走り回るようになった。一方で牡丹は掴みかけたはずの色を落とし、この世界に絶望してしまった。もう夢の中でしか、自分を見つけることはできない。

     牡丹は、自室の窓辺で外から聞こえてくる子供たちの声をじっと聞いていた。

    「……お母さん、今日は仕事?」

     返事はない。

    「もう行っちゃったか……」

     離婚後、母親は牡丹を養うために必死に働いた。その献身的な愛は理解しているが、牡丹の心には寂しさが生まれている。

     牡丹はそっと、机の上に置かれた点字盤に触れる。

     彼女にとって、この世界は冷たい指先の感触と、形のない音の集まりでしかない。

     かつてどこかで見た、鮮やかな色彩の記憶。それが何だったのか、もう思い出すこともできない。

     その時、玄関のチャイムが鳴った。

     憂鬱になりながらも、牡丹は壁を伝って玄関へと向かった。

    「……どなたですか?」

     ドア越しに問いかけると、しばらくの沈黙の後、震えるような声が返ってきた。

    「……牡丹?  牡丹なの!?」

     その声は、自分よりもずっと明るい、外の陽だまりのような響きを持っていた。

    「私だよ。……相菜だよ!」

    「誰ですか?」

     牡丹の問いかけに、ドアの向こうで息を呑む気配がした。

    「百合野 相菜(ゆりの さな)。あなたの、双子の妹だよ」

     その言葉が、牡丹の脳裏で古い記憶の断片と衝突する。幼い頃、まだ家の中に自分以外の子供の気配があった、あの遠い日の感覚。

    「相菜……そういえば、お母さんが前に話してくれたような……」

     牡丹が震える手で鍵を開けると、勢いよくドアが開いた。

    「牡丹!  会いたかった……ずっと、お父さんに止められてて……」

     飛び込んできたのは、夏の終わりの風のような、熱を帯びた空気だった。相菜は牡丹の両肩を掴み、その顔を覗き込む。

    「……本当に、何も見えないの?」

     無遠慮な言葉だったが、そこには悪意ではなく、純粋な戸惑いと悲しみが混じっていた。

    「うん、そうだよ。何も見えないの」

     相菜は部屋に上がり、牡丹に言葉のマシンガンをぶつける。

    「ずっと会いたかったんだよ。牡丹。お父さんはね、あなたのことを『いなかったこと』にしてたの。でも、私はずっと覚えてた。お母さんとあなたが家を出た日のこと、あの時、あなたが置いていったぬいぐるみの匂いまで、全部!」

     相菜の声は、まるで堰を切ったように溢れ出した。

    「……そう。私は何も覚えてないよ。だから私に構わないで」

    「そんなこと言わないで! ほら、一人なら難しいかもしれないけど、私となら外に出れるはずだよ。一緒に行こう?」

     相菜はそう言って、牡丹の手を力強く握りしめた。その手の熱さは、かつて未黒が教えてくれた「色」の記憶を呼び覚ます。

     しかし、今の牡丹にとって、その熱は救いであると同時に、耐えがたい苦痛でもあった。

    「……相菜ちゃん、ごめんね。せっかく来てくれたのに。私、もう外のこと知りたくないの」

    「えっ……どうして?  私、あなたに教えたいことがいっぱいあるんだよ。海の色とか、夜の街の光とか……」

    「いらない」

     牡丹は冷たく言い放ち、相菜の手を振り払った。

    「見えないのに、言葉だけで教えられても、それはただの空想でしかないの。期待して、手を伸ばして、結局何も掴めない……。そんな思いをするくらいなら、この暗闇の中で静かにしていたい」

    「牡丹は、お母さんと二人でいるんでしょ。きっと寂しい思いしてると……」

    「私はもう何も失いたくないの!」

     牡丹が大声を出し、部屋に沈黙が流れる。相菜の戸惑うような吐息だけが狭い空間に響いた。

    「……ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」

     相菜の声が、先ほどまでの勢いを失って小さく震えた。

    「会えたことが嬉しすぎて、牡丹のこと考えてなかったかも……」

     牡丹は荒くなった呼吸を整え、壁に背を預けた。振り払った手のひらが、まだ相菜の体温を覚えていて、それがひどく疎ましかった。

    「……帰って。お願い」

    「……わかった。今日は帰るよ」

     相菜は力なく答えた。玄関へ向かう足音が聞こえ、ドアが開く。けれど、彼女は去り際に一度だけ振り返り、決意を込めた声で言った。

    「でも、諦めないから。私は牡丹の妹だもん。……また来るね」

     バタン、とドアが閉まり、部屋には再び重苦しい静寂が戻ってきた。

     牡丹は床に座り込み、膝を抱えた。相菜が持ってきた「外の空気」の匂いが、まだ鼻腔に残っている。それは眩しくて、痛くて、残酷なほどに自由な匂いだった。

     数日後、相菜は本当にまたやってきた。

     今度は無理に部屋に入ろうとはせず、ドアの隙間から、あるいは窓越しに、外の世界の話を置いていく。

     牡丹は無視し続けた。けれど、相菜が語る言葉は、塞ぎ込んだ牡丹の心を揺さぶり続けた。

     相菜の言葉は、単なる視覚情報の伝達ではなかった。それは、音や匂いや肌感覚を混ぜ合わせた、牡丹の世界に歩み寄ろうとする「翻訳」だった。

    「今日はね、晴れやかな気分になるような、雲が一つもない青い空だよ」

     牡丹の目から、自分でも気づかないうちに涙がこぼれ落ちた。

     暗闇は何も変わらない。けれど、相菜が差し出す言葉の光が、凍りついていた牡丹の記憶を少しずつ溶かし始めていた。

    「相菜ちゃん……」

    「なあに?」

    「海って……どんな色?」

     牡丹の小さな問いかけに、ドアの向こうで相菜が息を呑む気配がした。

    「……青だよ。すっごく綺麗な」

     牡丹はゆっくりと立ち上がり、まだ見ぬ世界へと続くドアノブに、震える手を伸ばした。

    「ねえ、牡丹。一緒に行こう。海は遠いけど、近くの公園に大きな噴水があるの。そこなら水の音も、風に乗って飛んでくるしぶきも、全部感じられるよ」

     牡丹は躊躇した。外の世界は怖い。けれど、今自分の目の前にあるドアの向こうには、自分と同じ血が流れる少女が、懸命に「光」を翻訳して待っている。

     カチャリ、と小さな音がして、鍵が開いた。

     ゆっくりとドアが開くと、夏を感じさせる少し湿り気を帯びた熱い空気が待っていた。

    「……牡丹!」

     相菜が嬉しそうに声を弾ませる。牡丹は恐る恐る一歩を踏み出し、差し出された相菜の手を握り返した。

    「……ゆっくり、歩いてね」

    「うん、任せて。私が牡丹の目になるから」

     二人は並んで歩き出した。

     杖で地面を叩く音と、相菜の弾むような足音。

    「今はね、街路樹の影に入ったよ。少し涼しくなったでしょ?」

    「……本当だ。空気が、急に湿った感じがする」

    「あ、右側に花壇があるよ。クンクンしてみて。甘い匂いがするから」

     牡丹は鼻を動かした。むせ返るような土の匂いの中に、微かに混じる百合のような芳香。

    「……白。これは、白い匂いがする」

    「えっ、すごい!  当たり。白いユリが咲いてるよ!」

     相菜は驚き、そして笑った。牡丹にも、いつの間にか微かな笑みが浮かんでいた。

     視界は相変わらず漆黒のままだ。けれど、相菜の言葉が重なるたびに、牡丹の脳裏には色彩の飛沫が飛び散り、真っ暗だった世界が、手触りと音と匂いを持った多層的な空間へと作り変えられていく。

     公園の噴水に着くと、牡丹は相菜に導かれるまま、冷たい水しぶきを肌に浴びた。

    「これが……青?」

    「そう。これが私の大好きな、自由な青だよ」

     牡丹は空を仰いだ。まぶたの裏に、かつて触れた青色が見えた気がした。

     かつて絶望と共に閉ざした世界は、まだそこにあるが、隣で繋いだ手の温もりが、その世界は決して冷たいだけではないのだと教えてくれていた。

    「相菜ちゃん……また、明日も教えて。あなたの見てる世界のこと」

     相菜は牡丹の手をぎゅっと握りしめ、力強く頷いた。

    「もちろん。全部、全部話してあげる。私たちが離れていた時間の分まで、全部ね」

     二人の影が、西日に長く伸びて重なり合う。

     次の日、目が覚めると、相菜が母親と会話していた。

    「おはよう、牡丹。起こしちゃった?」

     相菜の明るい声が、カーテン越しに差し込む朝の光のように寝室へ届いた。牡丹がゆっくりと体を起こすと、台所の方から懐かしい朝食の匂いと、母親の穏やかな笑い声が聞こえてくる。

    「相菜ちゃん、もう来てたんだ……」

    「うん!  お母さんと相談して、今日は朝から出かけようと思って」

     母親が傍らに寄り添い、牡丹の肩を優しく抱いた。

    「牡丹、相菜から聞いたわ。昨日、外に出たんだってね。……ごめんね、お母さん、あなたを傷つけたくなくて、ずっと家の中に閉じ込めるようなことばかりして……」

    「ううん、お母さん。私、怖かっただけなの。でも、相菜ちゃんが教えてくれたから。外は怖いものだけじゃないって。……そんなこと、もうとっくに分かってたはずなのに……」

     牡丹は杖を握りしめ、立ち上がった。

    「今日はどこへ行くの?」

    「今日はね、駅前の商店街!  あそこは音がいっぱいあって面白いよ。焼き立てのパンの匂いとか、魚屋さんの威勢のいい声とか。世界は色だけじゃなくて、鼓動してるんだってことを教えたいの」

     相菜はそう言って、牡丹の腕に自分の腕を絡めた。

    「お母さん、行ってくるね!」

    「気をつけるのよ。二人とも」

     玄関のドアを開けると、昨日よりもずっと鮮明な世界の気配が牡丹を包み込んだ。

     遠くで走る車の走行音、近所の犬の鳴き声、そして隣を歩く相菜の軽やかな足音。

     牡丹は地面を確かめながら、一歩ずつ、確実にアスファルトを踏みしめる。

    「ねえ、牡丹。やっぱり見たい?」

    「えっ? 何が?」

    「目が見えるようになりたいのかなって。きっと見たいでしょ? 色も、この世界も」

     相菜の問いかけに、少し間を置いて牡丹は答えた。

    「……そうだね。できることなら、この目でみんなにどんな世界が見えてるのか、知りたいけど……そこまで執着はしてないよ」

    「へえ……そうなんだ。それじゃあ『眼球移植』に興味はない?」

    「眼球移植?」

     牡丹はその言葉に、妙な嫌悪感を覚えた。

    「そう。最近できるようになった手術で、他の人の目と視神経を脳に繋ぐんだって。これで目が見えるらしいよ」

    「えっ……それは、ちょっと怖いな……」

    「……まあ、そんなお金もないし、一応可能性の一つとして話しておきたかっただけ。さっ、行こ」

    「あっ……うん」

     牡丹と相菜は、商店街に向けて軽快に足取りを進めていく。

     次の日の朝、目を覚ました直後に、牡丹はものすごい勢いでベッドから体を起こした。

    「ああっ……起きちゃった……」

     相菜はその様子を驚愕の目で見ていた。

    「ビックリした……どうしたの?牡丹」

    「相菜! あの……私! 眼球移植受けたい!」

     急な言葉に相菜はますます困惑する。

    「えっ……眼球移植を?」

     相菜の声が、驚きでわずかに上ずった。昨日まではあんなに消極的だった牡丹が、朝一番にそんなことを言い出すなんて思ってもみなかったのだ。

    「……うん。夢を見たの。多分、全部私の妄想だけど……色が見える幸せな夢を。相菜ちゃんが教えてくれる世界は、すごく温かくて、美味しそうな匂いがして、楽しそう。でも……」

     牡丹は自分の両手を顔の前に持っていき、何も映らない瞳をその方向へ向けた。

    「でも、相菜ちゃんの顔が見たい。私を外に連れ出してくれた、私の妹の相菜ちゃんが、どんな顔をして笑うのか……それを知らないままなのは、やっぱり嫌だって思ったの」

     相菜はしばらく黙り込んでいたが、やがて牡丹の手をそっと包み込んだ。その手は、昨日よりも少しだけ震えているように感じられた。

    「……そっか。牡丹がそうしたいなら、私、全力で応援するよ。お母さんにも相談してみよう。お金のこととか、ドナーのこととか、調べなきゃいけないことは山ほどあるけど……二人で頑張れば、きっと……」

     その日から、二人の生活は「光」を取り戻すための戦いへと変わった。

     母親は最初、手術のリスクを恐れて反対したが、牡丹の強い意志と相菜の熱心な説得に、最後には涙を流して頷いた。

     しかし、現実は甘くなかった。移植手術には莫大な費用がかかるだけでなく、適合するドナーが見つかる保証もない。相菜は学校の合間を縫って、最新の医療情報を集め、支援団体に片っ端から連絡を入れた。

     数ヶ月が経ったある日、相菜が血相を変えて帰宅した。

    「牡丹!  見つかったかもしれない。適合する可能性が高いドナーの候補が……!」

    「本当……!?」

     牡丹の胸が高鳴る。ついに、夢にまで見た「色」のある世界へ手が届くかもしれない。

     だが、相菜の次の言葉に、部屋の空気は凍りついた。

    「でもね、その……ドナーが現れるのを待つんじゃなくて、生体移植……つまり、生きてる人から片方の目を譲り受けるっていう選択肢も提示されたの。もちろん、すごく特殊なケースだけど、血縁者なら拒絶反応も少ないって……」

     牡丹は息を呑んだ。

    「そんな……誰かが犠牲になるなんて、そんなのダメだよ……」

    「……そうだよね。ごめん、変なこと言って……」

     相菜は力なく笑った。

     その夜、牡丹は夢を見た。

     どこかで見た少女が笑っている。その少女は、自分の右目を指差して静かに笑っていた。

     目が覚めると、頬を伝う涙があった。

     隣のベッドでは、相菜が静かな寝息を立てている。

     牡丹は、見えない暗闇の中で相菜の気配を感じながら、ふと思った。

     相菜はなぜ、あんなにも必死に自分を外へ連れ出し、手術の話を持ってきたのだろうか。ただの姉妹愛以上の、何か切実な決意が彼女の中にあるような気がしてならなかった。

    「相菜ちゃん……?」

     小さく呼びかけてみたが、返事はない。

    「……まだ夜中だし、もう一回寝るか……」

     日が出かかっている頃、牡丹が寝静まっているのを確認し、相菜は静かに外に出た。仕事の時間だ。

     保険込みでの手術費用、約1500万円を稼ぐため、相菜は牡丹にバレないように毎日仕事に出かけている。

     幸運なことに相菜の顔は整っていた。それに中学生の体はとても需要がある。相菜は身を粉にして働いた。全ては愛する姉のために。

     牡丹の瞳に光が宿る未来が近づく。その確信だけが、相菜を支えていた。

     数ヶ月後、ついにその日がやってきた。

    「牡丹、準備はいい?」

     病院の白いベッドの上で、相菜が牡丹の手を握る。

    「うん……怖いけど、楽しみ。相菜ちゃんの顔、早く見たいな」

     牡丹は微笑む。彼女はまだ知らない。手術費用がどうやって工面されたのかも、そして、ドナーが誰なのかも。

    「……私も、楽しみだよ」

     相菜の声は、どこか遠く、震えていた。

     手術は数時間に及んだ。

    数日後、牡丹の目に巻かれた包帯が解かれる時が来た。

    「ゆっくり、目を開けてみて」

     医師の声に促され、牡丹は恐る恐るまぶたを持ち上げた。

     最初は、暴力的なまでの真っ白な光。やがて、輪郭が結ばれ、色が溢れ出す。

    「……あ……」

     視界に飛び込んできたのは、泣き崩れる母親の姿と、清潔な病室の色彩。

    「お母さん……?  お母さんなの!?」

    「牡丹!  見えるのね、本当によかった……!」

     二人は抱き合って喜んだ。しかし、牡丹はすぐに辺りを見回した。

    「相菜ちゃんは?  相菜ちゃんはどこ?」

     病室の隅、パイプ椅子に座っていた少女がゆっくりと立ち上がった。

     一目で相菜だと分かり、牡丹は息を呑んだ。彼女の右目には、痛々しい眼帯が当てられていた。

    「……相菜ちゃん、その目は……」

     牡丹の問いに、相菜は残された左目を細めて、いつものように明るく笑った。

    「あはは、驚いた? ……どう? 私の見てた世界は。綺麗かな?」

     牡丹は言葉を失った。ついに手に入れた光も、すべてはこの代償の上に成り立っていたのだ。相菜は自らの体と尊厳を切り売りして費用を稼ぎ、最後には自らの視力さえも姉に分け与えた。

    「……ひどいよ、相菜ちゃん。こんなの、私……」

    「いいんだよ、牡丹。これが私の本望だから」

     相菜は歩み寄り、牡丹の頬に触れた。

    「ねえ、牡丹。今度は二人で見に行こう。私が教えた海よりも、もっともっと綺麗な本物の海を」

     牡丹の新しい瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

     それは、かつて暗闇の中で流した絶望の涙ではなく、分かち合った光の痛みと、あまりにも重い愛の証だった。

     牡丹は相菜の手を握り、愛しい妹の顔をじっと見つめていた。

     退院から数週間後、牡丹と相菜は約束の海へと向かった。

     牡丹の右目には、かつて相菜が見ていた世界が映っている。初めて見る本物の海は、相菜が言葉で紡いでくれたどの表現よりも深く、そして残酷なほどに鮮やかだった。

    「……本当に、綺麗だね」

     牡丹が呟くと、隣に立つ相菜は左目だけで水平線を眺め、満足そうに微笑んだ。

    「でしょ?  私の言った通りだった?」

    「うん。でも、相菜ちゃんの方が、ずっと綺麗だよ」

     牡丹は相菜の横顔を見つめた。眼帯は外され、そこには義眼が収まっている。その瞳に光が宿ることは二度とない。牡丹は自分が手に入れた光の重さを、潮風の中で改めて噛み締めていた。

    「ねえ、相菜ちゃん。これからは私が、あなたの右目になるから」

     牡丹は相菜の右側に回り、その手を強く握った。

     相菜は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに幸せそうに目を細めた。

    「それはお互い様だよ」

     二人は砂浜を歩き出した。

     かつては相菜が牡丹を導いていたが、今はもうその必要もない。

     牡丹の心には、まだ消えない罪悪感があった。この世界の美しい色が目に入る度に牡丹の胸が締め付けられる。けれど、相菜が差し出したこの光を拒絶することは、彼女の決意を無にすることだと悟っていた。

    「相菜ちゃん、見て。夕日が沈んでいくよ。空がオレンジ色から、少しずつ紫に変わっていく……」

     牡丹の拙い、けれど懸命な「翻訳」を聞きながら、相菜は空を仰いだ。

     見えないはずの右目の奥に、牡丹の声を通じて新しい色彩が広がっていくのを感じる。

    「すごく綺麗な色だね……」

     失ったものと、分かち合ったもの。

     二人の少女は、一つの光を分け合うようにして、新しい世界を歩み始めた。


    エピローグ「環状双星夢」

     しかし、相菜の心には、違和感が残っていた。

    (なんでだろう、牡丹を見ると心臓がドキドキして、頭がクラクラして、息が苦しくなってたのに……今は……なんでそうならないの?)

    「それじゃあ帰ろっか」

    「あ……うん」

     牡丹は一人で前を向き、自分だけの力で歩いている。

    (私がサポートしなくても歩けてる……もっと……私を頼って!)

     家でベッドに横たわり、部屋の照明を消す。

    「それにしても、今まで見えなかったものが急に見えるようになると疲れるね」

    「……きっとすぐに慣れるよ。私がずっとそばにいるんだから」

     暗闇の中、相菜の声が隣のベッドから響く。

     しかし、その声は以前のような弾けるような明るさではなく、どこか湿り気を帯びた、重い響きを湛えていた。

     牡丹は新しい右目を閉じ、眠りにつこうとした。まぶたの裏には今日見た海の青と、相菜の欠けた視界が交互に現れ、意識をかき乱す。

    (相菜ちゃんは、本当にこれで良かったのかな……)

     翌朝、牡丹が目を覚ますと、相菜が至近距離で自分を覗き込んでいた。

    「おはよう、牡丹。……ねえ、私のこと、ちゃんと見えてる?」

    「……おはよう。うん、見えてるよ。相菜ちゃん」

     牡丹が微笑むと、相菜は満足げに目を細めた。だが、その直後、相菜は牡丹の右目の端を、指先で執拗になぞった。

    「この目は、もう私のものじゃない。あなたのもの。……でも、私の体の一部だったものが、あなたの頭の中で世界を映してる。そう思うと、なんだかゾクゾクするね。」

    「相菜、ちゃん……?」

     その指先の冷たさに、牡丹は思わず身をすくめた。

     それからの相菜は、以前にも増して牡丹に執着するようになった。

     牡丹が一人で本を読もうとすれば、横から取り上げ、「私が読んであげる」と耳元で囁く。牡丹が母親の手伝いをしようとすれば、「危ないから座ってて」と、まるで見えない頃の扱いを強いる。

    「相菜ちゃん、私、もう見えるんだよ?  自分でできるよ」

    「ダメだよ、牡丹。その目はまだ慣れてないんだから。もし転んで、その目を傷つけたら……私の『贈り物』が台無しになっちゃう」

     相菜の言葉は、愛の形をした呪縛だった。

     牡丹は気づき始めていた。相菜が求めているのは、共に光の中を歩く対等な姉妹ではなく、自分がいなければ何もできない、暗闇の中にいた頃の「依存する姉」なのだということに。

     ある日の午後、牡丹は内緒で一人、外に出た。

     自分の足で、自分の目で、誰の解説もなしに世界を確かめたかった。

     咲き誇る花の色、空を流れる雲の形。それは相菜の言葉というフィルターを通さない、剥き出しの現実だった。

    「……綺麗。本当に、綺麗……」

     牡丹が独り言を漏らしたその時、背後で激しい物音がした。

    「……なんで?」

     振り返ると、そこには形相を変えた相菜が立っていた。

    「なんで一人で外に出てるの?  私がいないと、あなたは何も見えないはずなのに!」

    「相菜ちゃん、落ち着いて。私はただ、自分で……」

    「自分って何!?  その目は私の目だよ!  私があなたに与えた光なの!  私の許可なく、勝手に世界を見ないで!」

     相菜は牡丹に掴みかかり、その右目を覆い隠すように抱きしめた。

    「お願い、牡丹。私を置いていかないで。私を必要として。みんな間違ってる。私だけが、あなたを本当に愛してる。だから……」

     相菜の震える肩越しに、牡丹は残された光を何も映さない左目で空を見た。

     皮肉なことに、相菜から譲り受けた右目は、今、相菜の歪んだ愛の表情をあまりにも鮮明に映し出していた。

    「……わかったよ、相菜ちゃん。私はどこにも行かない」

     牡丹は静かに答えた。

     手に入れた光は、自由への翼ではなく、妹という名の深い沼へと繋がる鎖だった。

     牡丹は相菜の背中に手を回し、ゆっくりとその目を閉じた。

     光があるからこそ見える絶望。

     二人は、分かち合った一つの視界の中で、新しい暗闇へと堕ちていった。

     数日後、牡丹は相菜に連れられ、再びあの海を訪れていた。しかし、以前のような開放感はない。相菜は牡丹の手首を、痛いほどの強さで握りしめていた。

    「ねえ、牡丹。今日は波が荒いね。私の目には、真っ黒な壁が迫ってくるみたいに見えるよ」

     相菜は、光を失った右目の義眼を愛おしそうに撫でながら囁く。

    「……うん。そうだね、相菜ちゃん」

     牡丹は、右目に映る穏やかで美しい紺碧の海を否定し、相菜の望む「暗い世界」を肯定した。そうしなければ、相菜の精神が壊れてしまうことを本能で察していたからだ。

     その日の夜。

     牡丹が寝室で一人、相菜から隠れて本を読もうと、小さな手元灯をつけた時のことだ。

    「……何してるの?」

     音もなく部屋に入ってきた相菜の声は、凍りつくほど冷徹だった。

    「あ、相菜ちゃん……これは、その……」

    「光が欲しいの?  私の言葉じゃ足りないの?」

     相菜は牡丹に馬乗りになり、その右目をじっと見つめた。

    「その目は、私とあなたを繋ぐ唯一の絆。なのに、あなたはそれで私以外のものを見ようとする。……いっそ、また見えなくなればいいのに。そうすれば、あなたはまた私の腕の中で、私の声だけを信じて生きてくれるでしょう?」

     相菜の指先が、牡丹の右目の瞼に食い込む。

    「やめて、相菜ちゃん!  痛い……!」

     牡丹の悲鳴に、相菜はハッと我に返ったように力を抜いた。しかし、その瞳に宿っていたのは後悔ではなく、底知れない悦楽だった。

    「……ふふ、冗談だよ。壊したりしない。だって、これは私の『一部』だもん。大切に、大切に、私が管理してあげる」

     翌日から、相菜の行動は常軌を逸していった。

     部屋の窓はすべて厚手の遮光カーテンで覆われ、牡丹は一日中、薄暗い部屋で相菜の語る「世界」を聞かされることになった。

    「今日は太陽が死んだよ。世界はもう、私とあなた以外、誰もいないの」

     相菜の紡ぐ狂った翻訳が、牡丹の右目に映る現実を少しずつ侵食していく。

     ある日、母親が部屋の異変に気づき、カーテンを開けようとした。

    「触らないで!」

     相菜は母親を突き飛ばし、狂ったように叫んだ。

    「お母さんは黙ってて!  牡丹に光をあげたのは私!  牡丹の運命を決めるのも私なの!」

     母親は恐怖に顔を歪め、部屋を飛び出していった。

     静まり返った暗闇の中で、相菜は震える牡丹を背後から抱きしめた。

    「ねえ、牡丹。お母さんも、外の世界も、みんな私たちを邪魔する敵だよ。……二人で、もっと静かなところへ行こうか」

     牡丹は、右目に映る相菜の歪んだ笑顔を見つめた。

     その瞳は、かつて自分が憧れた「光」そのものだった。しかし今、その光は自分を焼き尽くそうとしている。

    「……いいよ、相菜ちゃん。どこへでも連れて行って」

     牡丹は悟った。

     自分に光を与えたのは、救済のためではなく、永遠の所有のためだったのだと。

     そして、その狂おしいほどの愛を拒絶した時に、自分は終わるのだと。

     このまま相菜の狂気に付き合い続けるのは不可能だと判断した牡丹には、この目がなければ解放されるのでは、という考えが脳を支配していた。

     牡丹は、相菜が眠りについたのを確認すると、暗闇の中で静かに立ち上がった。

     右目に映る月光は、相菜が語る「死んだ太陽」とは裏腹に、あまりにも冷たく、美しく部屋を照らしている。

    (この目があるから、私は相菜ちゃんを拒絶してしまう。この目があるから、相菜ちゃんは私を縛り付ける……)

     牡丹は洗面所へ向かい、鏡の前に立った。右目に宿る、相菜から譲り受けた光。それは二人を繋ぐ絆であり、同時に二人を破滅させる鎖だった。

     牡丹は震える手で、棚の奥に隠されていた裁縫用の小さな鋏を手に取る。

    「……これで、元に戻れるよね。相菜ちゃん」

     鈍い銀色の刃が、月光を反射して鋭く光る。

     牡丹がその刃を、自らの右目へと向けたその時。

    「……何してるの?」

     背後から、低く、湿った声が響いた。

     鏡の中に、影のように立つ相菜の姿が映り込む。相菜は怒っているわけでも、驚いているわけでもなかった。ただ、ひどく悲しそうな、慈愛に満ちた笑みを浮かべていたのだ。

    「自分を傷つけて、私から逃げようとするなんて……。牡丹は、本当にわがままだね」

     相菜はゆっくりと歩み寄り、牡丹の手から鋏を優しく、けれど抗えない力で取り上げました。そして、牡丹を背後から包み込むように抱きしめ、鏡の中の「二人の瞳」を見つめます。

    「いいよ。牡丹がそこまでこの目を嫌うなら、私が潰してあげる」

    「え……?」

     相菜の言葉の意味を理解する前に、牡丹の目は突き立てられた鋏により機能を停止させる。

    「アハハ! アハハハハ!」

     相菜の狂った笑い声が響き渡る。

     牡丹は抵抗する気力を失い、相菜の腕の中で崩れ落ちた。


    ムームー…… スースー…… モユモユ……

    「アハハ……ハ……う〜ん……あっ……」

     暑さで何もかもが嫌になる季節。楽しげな様子で松下相菜(まつした さな)は目を覚ました。

     朝だと言うのに目に光は映らない。朝なのか、昼なのか、夜なのか、もはやどうでもよいことだ。

    「あれ? また夢? こっちが夢? ……まあいいや……」

     静かに目を瞑る。

    「おやすみなさい……」

     誰かの声が聞こえたような気がするが関係ない。

     数分経つ間もなく夢の世界へと堕ちていく……

     
     
    色々書きます。たまに小説も書きます オタクが好きなものは大概好きです 初心者の為、色々と至らない点があるかと存じますがご容赦下さい フォローバックはしません。ご了承下さい 当アカウントで使用・掲載している画像・動画・台詞などの著作権・肖像権等は全て各権利所有者様に帰属いたします

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