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記憶の曖昧モコモコ、覚えている?覚えてない?忘れた?忘れてない?何が幸せ?

大学時代の友人と話していると、

〜こんなことなかった?

と聞かれる。私は覚えてないので

覚えてない。
その時は私はいなかったんじゃないかな。

と答える。

ただあまりにも昔のことなので、
本当はその場に私もいたが覚えていないのか、
本当にその場にいなかったのか、
どちらもあり得る。

複数人が同じ時間を過ごして
後でそのことを振り返る。

それぞれ自分の目を通したものを見ているので、
意外と自分自身の行動は忘れていて
他の人からなになにしていたよと言われたりする。

現代ならばスマホがあって写真があって
簡単に振り返ったり確認できたりするが、
数十年前にはそんなに写真を撮らない。

また写真があっても、これはどこ?とか
この人は誰?とかもうわからなかったりもする。

架空の物語なら、
素晴らしい記憶力の持ち主が出てきて
鮮やかに謎解きをしてくれるのだろうが、
現実には物忘れの激しい凡人たちが
どうにもはまらない曖昧な記憶のピースを
持ち寄ってああでもないこうでもないと悩む。

別にたいした事件でもないし、
謎が解けなくてもまったく何も問題もないのだが、何やら気になる。

古い出来事が、
本当にあったのか、
誰と一緒だったか、
どういう状況だったか、
すべてがモヤモヤとした闇の中。

そこまでボヤけるともう夢だったのか、
それとも誰にも思い出してもらえなくても
現実だったのか?

記憶は曖昧模糊としてモコモコになっている。
人間はいろんなことを忘れてしまう。

でも忘れるから生きていけるのかもしれない。
もしすべてを覚えていたら?

自分の人生の一コマ一コマが何もかもありありと思い出すことができたならどうだろうか?

テストの点のためにはいいだろう。
教わったことをすべて覚えているのだから。

だけど誰にでもある厨二病や黒歴史を
くっきりはっきり覚え続けていたら
それはとてつもない拷問である。
その記憶を抹消できるなら喜んでするだろう。


この前まさに中学生の頃に書いていた日記を
読み直したという知人の話を聞いた。

書いてあることをよく思い出せないらしい。
そういう事実はあったのだろう。
その前後の事情などは書いた当初にはわかっていたのだろう。当たり前だが数十年後に読んでみると
何がどうしてそうなった?と本人でもなる。

先日、昔勤めていた学校で私が始めた取り組みの
経緯を聞きたいということで
高校生からオンラインインタビューを受けた。

けっこう大変なこともあったのだが、
かなり忘れていた。辛いことを思い出さないようにしていたら忘れてしまった。

まあいいかと思う。
そんなに辛かったことを覚えていても
特にいいこともないし。

こうして考えると、
忘れるということは一種の祝福なのだろう。
覚えているということは一種の呪いとも言える。

忘れるともう取り戻せないが、
だからこそ新しく物事に向かうことができる。

覚えていると便利なこともあるが、
つい過去に囚われてしまいがちになることもある。

かつては記憶力がよくて今でも根に持つタイプの私だが、最近は忘却力の成長が素晴らしい。

図書館で借りてきた本を読み進めてから、
あれ?この本読んだことある、 
と気がつくがそれでもどういう結末だったかは
思い出せないのだ。

かつては記憶力の良かった自分が
忘れてしまったのが驚きだった。

だが最近は自分が忘れていることに対する
驚きさえなくなったことが
ちょっとした驚きである。



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