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ミッドデイ・ブロードキャスト

    【あらすじ】
    荒廃した地上を旅するソラとエリオは、愛車のランドラッドに乗って、移動し続ける空中都市アウレオラを追いかけている。

    アウレオラから毎日正午に届くラジオ番組『ミッドデイ・ブロードキャスト』。顔も名前も知らない声の主に恋をしたソラは、いつか雲の上の街へ行くことを夢見ていた。

    ある日、アウレオラが補給のため、荒野の大都市サウスベル・ジャンクションに停泊すると知った二人は、ついに空へ近づく好機を得る。だが発着ゲートで許可証を求められ、門前払いに。そんな中、二人の車を盗んだ少女ニコと出会い、アウレオラ行きの許可証を賭けた危険なロードレースへ挑むことになる。

    届かない声を追い続ける、真昼の荒野の冒険譚。


    「エリオ、はやくはやく、はじまっちゃうよ!」
    「はいはい、わかってるって。でかい声出すなよ」

    見渡すかぎりの荒野を、一台のランドラッドが砂煙を巻き上げて走っている。ランドラッドとは、もとは軍で使われていた古い四駆車で、分厚い車体のあちこちには傷と錆がこびりついていた。その荷台には不釣り合いなほど大きな折り畳み式アンテナがくくりつけられ、風にあおられるたび、金属の骨組みがぎしぎしと鳴っている。

    運転席のエリオは、隣でラジオの周波数を合わせているソラをちらりと横目で見る。
    ソラは真剣そのものの顔で、古びた受信機のダイヤルを少しずつ回していた。汗ばんだ黒髪が頬に張りついている。視線はずっと、小さな目盛りに釘づけだった。

    「そんなに焦んなくても、どうせ今日も同じような話だろ」
    「それがいいの」
    「……めんどくせえやつ」

    そう言いながら、エリオはアクセルをもう一段踏み込む。
    開け放した窓から、熱い風が吹き込む。日に透ける金髪が乱れて、エリオはうっとうしそうに掻き上げると、頭に乗せていたサングラスを下ろした。

    乾いた大地のあちこちに、崩れたビルの骨組みがまばらに突き出ている。色褪せた看板には、飲料を手にした笑顔の女性が描かれていた。それが何なのかは、エリオにもソラにもわからない。

    「そろそろ抜けるぞ」

    エリオはハンドルを切る。ビルの骨組みの合間を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
    サングラス越しに、エリオは目を細める。眼前には突き抜けるような青空が広がっていた。

    その目が覚めるような青を切り取るように、巨大な空中都市が浮かんでいる。
    遠くに見える街の輪郭は陽炎に揺れていて、白い塔の群れと、その底に落ちる薄い影は地上からもよく見えた。

    「見えた」

    ソラが小さく息をのむ。
    その声が、エリオにはなぜか、ラジオのノイズよりもはっきり聞こえた。

    二人が小高い丘にたどり着く頃には、太陽が頭の上に昇っていた。
    エリオがランドラッドを停めると、ソラは待ちきれない様子で荷台へ飛び降りる。折り畳まれていたアンテナの留め具を外し、慣れた手つきで金属の骨組みを引き上げていく。
    ぎし、と錆びた音がして、アンテナが真昼の空へ伸びていった。

    「ソラ」

    エリオは運転席から降りると、作業中のソラに水筒を放る。
    ソラは振り向きもせずにそれを受け取ると、汗をぬぐい、ごくりと一口水を飲む。

    「ありがとう」
    「どうも」

    じりじりと陽の光が二人を照りつける。一方で丘の上を吹き抜ける風は乾いていて、思ったよりも心地いい。エリオはボンネットに背を預け、今日は暑くなりそうだな、とぼんやりと空を見上げた。

    ざざ……ざ……ざ……

    受信機からノイズまじりの音楽が流れはじめる。どこか懐かしいような、気の抜けるような、軽快なリズムだった。

    「あっ…」

    ソラは受信機のダイヤルを回す手をとめる。

    「エリオ、はいった!」

    振り向いたソラの目は、真昼の光を映してきらきらと輝いていた。

    『ざ……ざざ……みなさんこんにちは。空中都市アウレオラより、お昼の放送、ミッドデイ・ブロードキャストのお時間です』

    耳に残るジングルのあと、のんびりとした声が放送のはじまりを告げる。

    『みなさん、素敵な午後のお時間をお過ごしですか?今日のお天気は…晴れ!といっても、雲の上の街だから、いつも晴れなんですけどね。あはは。そういえば先日、第三地区のセラ・パークではひまわりが見頃をむかえてーー』

    「ひまわり」

    ソラが不思議そうな顔でエリオを見上げる。

    「エリオ、ひまわりってなんだろう」

    エリオは聞き慣れない単語に、眉をひそめた。

    「植物かなんかじゃないか、話の流れ的に」
    「そっかぁ」
    「あいかわらずぬるい放送だな」
    「それがいいの」

    先ほどと同じソラの言葉に、エリオはふっと気が抜けたように笑ってしまう。
    ソラは砂がつくのも気にせず、その場に寝転んで空中都市を見上げていた。ラジオに聞き入る横顔はうっとりとしていて、まるで雲の上の街にいる誰かを見つめているみたいだった。

    エリオは少しだけ黙って、それからソラの隣に腰を下ろす。

    『ーーそういえばね、この前気になっていたパン屋に行ったんですよ。雲海テラスの、雲みたいなふわふわクリームパン。口に入れたら、ふわっとなくなっちゃった感じがして、あれ、今何を食べたんだろうって…なんだったんですかね、とってもおいしかったです』

    ラジオの声に耳を傾け、ふふ、とソラは笑う。

    「ふわふわクリームパンだって、食べてみたいね」
    「……別に」
    「エリオも、甘い物好きじゃん」
    「…………別に」
    「いつか行ってみたいな」

    エリオは小さくため息をつくと、ソラの隣に寝転び、そっと目を閉じた。

    じりじりと照りつける陽の光を遮るように、二人の頭上をゆっくりと空中都市が通過する。乾いた風が吹き抜け、からからと草が鳴る音がした。

    * * * 

    『ミッドデイ・ブロードキャスト』

    それは、空中都市アウレオラから毎日正午に三十分だけ流れるラジオ番組だった。

    語られる内容は、なんてことない日常のひとコマばかり。その日の天気。街のちょっとした出来事。おいしかったもの。
    パーソナリティの日記代わりのような個人的な話がほとんどで、エリオには正直、何がそんなに面白いのかよくわからなかった。

    「今日も元気そうだったね」

    ぱちりと薪がはぜる音がした。
    野営の準備をしながら、ソラがぽつりとつぶやく。昼間はあんなに暑かったのに、日が暮れると途端に気温が下がってきて、エリオはランドラッドの荷台にいつもより一枚多く毛布を敷いた。

    「いつもあんなもんだろ」
    「そうかも。でも、元気じゃないよりかはいいよね」

    ソラはもうずっと、顔も名前も知らないラジオの声の主に恋をしていた。

    最初にその声を聞いたのは、八年前のことだった。

    当時のソラとエリオは、砂色の小さな街でくず鉄ひろいの仕事をしながら暮らしていた。朝から晩まで、近郊に残された街の残骸へ二人で繰り出しては、崩れた建物の隙間から鉄骨や銅線を引きずり出し、まだ使えそうな部品を袋いっぱいに詰めて帰った。

    日々の楽しみといえば、帰り道、その日稼いだささやかな金でチョコレートをひとつ買うことくらいだった。それを二人で分け合って、かじりながら日が沈むのを眺める。そうしてまた、次の砂色の朝を迎えるのだった。

    そんな代わり映えのない日々に、唐突な衝撃が訪れたのは、いつもと変わらない午後のことだった。

    「ソラ、エリオ、見てみろ!」

    袋いっぱいに詰めたくず鉄を抱えて回収屋へやってきた二人に、おやじが声を張り上げた。油で黒ずんだ太い指が、店の窓の外を指している。

    「空だ。空を見ろ」

    ソラとエリオは顔を見合わせ、それから言われるままに窓の外を見た。
    砂埃にかすんだ空の向こうに、巨大な影が浮かんでいた。

    「なんだあれ…」
    「ありゃあ、アウレオラだ。雲の上の街だよ。なんてこった、実物が拝めるなんてな…おいばあさん!外出てみろ!」

    おやじは店の奥にいるばあさんを呼びに行く。
    残された二人は、弾かれたように店を飛び出し、一気に外階段を駆け上がる。

    それは、幼いソラとエリオにとっては、忘れられない光景だった。

    「すっげぇ…」

    屋上につづく扉を開け放つと、見慣れたいつもの砂色の街の上を、白い都市がゆっくりと通過するところだった。

    はじめ、ソラはそれを雲だと思った。

    けれど雲にしてはあまりにも輪郭が硬く、あまりにも白かった。丸く広がった都市の底から、何枚もの大きな翼のようなものが突き出している。それらはゆっくりと上下に動き、まるで見えない水面を掻くオールのように空を押しわけ進んでいた。

    都市の上には、白い塔が何本も生えている。どれも細く、まっすぐで、汚れひとつない。砂色の街で暮らしてきたソラとエリオには、その白さが妙にきれいすぎて、不自然に見えた。

    「なに、あれ」

    ソラがつぶやく。エリオも、恐怖を覚えるほどの雄大な光景に、何も言葉を発することができなかった。
    『ざ……ざざ……みなさんこんにちは。空中都市アウレオラより、お昼の放送、ミッドデイ・ブロードキャストのお時間です…』

    二人の沈黙を破るように、近くのスピーカーから、ノイズとともにのんびりとした声が流れはじめる。

    エリオがはっとして振り返った。

    屋上の隅、錆びた支柱にくくりつけられた古い拡声器が、砂埃をかぶったまま震えている。普段はほとんど使われないそれから、聞いたことのない声が流れていた。その声は、女の人のようにも、少年の名残を残した男の人のようにも聞こえる。やわらかくて、少し眠たげな印象だった。

    「なんだ、これ」

    エリオは拡声器の下に駆け寄り、壁に取りつけられた受信機を覗き込む。割れた透明カバーの奥で、細い針が小刻みに震えていた。おやじがいつも適当に合わせている古い受信機が、たまたま空中都市の周波数を拾ったらしい。

    『暑い日がつづいてますが、みなさん元気ですか?わたしは最近朝涼しい時間帯にね、テラスでコーヒーを飲むのにはまってて――』

    「……ラジオ?」

    エリオが眉をひそめる。

    「ソラ、これ…」

    エリオが振り返ると、ソラは空を見上げたまま、息をするのも忘れたように、その声に聞き入っていた。

    目を大きく見開いて、白い都市の方をまっすぐに見つめている。
    まるで、砂色の世界に、はじめて色がついたみたいな顔だった。

    エリオはその顔を見て、なぜだか少しだけ胸の奥がざわつく。
    その時のソラの表情を、エリオはきっと忘れられないだろうと思った。

    白い都市はゆっくりと頭上を通り過ぎていく。

    『それでね、そのコーヒーが……ざざ……とても……ざ……』

    ノイズ音とともにラジオの声が途切れ途切れになる。やがてプツンと消えると、いつもの街の喧騒がどっと耳に流れ込んできた。

    「すげ……」

    エリオはやっとの思いで声を発する。ソラは、もう見えなくなった空の彼方をまだじっと見つめていた。

    その日の夜は、二人ともなかなか眠れなかった。薄い毛布にくるまっても、目を閉じるたびに、空を泳ぐ白い都市がまぶたの裏を通り過ぎていく。スピーカーから聞こえた、あの不思議な声だけが、いつまでも耳に残っていた。

    その声を求めて、アウレオラを追いかける旅に出たいとソラが言い出したのは、あの衝撃的な光景からちょうど五年がたった、ある日のことだった。
    くず鉄ひろいの仕事は、もうすっかりと板についていて、稼いだ金をその日のチョコレートだけに使い切ることも減り、少しずつ貯金に回せるようにもなっていた。

    その夜、ソラとエリオはいつものように、砂埃の小屋で毛布にくるまっていた。五年前より少し厚くなった毛布のおかげで、日が暮れてからの寒さもずいぶんマシだった。

    「僕、あの街に行ってみようと思う」

    ソラが隣に寝転ぶエリオの背中にむかって、ぽつりとつぶやく。
    遠くで、夜風にあおられたトタン板が、かたかたと鳴っていた。

    「あの街って…あの?」
    「うん、空中都市アウレオラ」

    エリオは深くため息をついた。ソラが正午になるたびに空を見上げるようになった日からずっと、いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。
    それでも、実際にその言葉を聞かされると、腹の奥が重く沈んだ。

    「馬鹿、オレたちみたいなのが行けるとこじゃねぇだろ」
    「そうかもしれないけど……」
    「おやじも言ってたろ、あそこは一握りの金持ちの街なんだ」
    「でもね」
    「はい、この話はおわり、明日も早いんだから寝るぞ」

    エリオは乱暴に毛布を肩まで引き上げ、話を切り上げようとした。
    けれど、その日のソラはいつもと違った。

    「エリオ」
    名前を呼ばれて、エリオは仕方なく目だけを向ける。

    「エリオ、僕本気だよ」
    「……」
    「エリオは来なくていいよ、危ないし、何があるかわからないから」
    「……本気か?」
    「うん」

    ソラは、まっすぐな目でエリオを見つめていた。エリオはがばりと起き上がると、はぁと長く息を吐いて、片手で顔を覆う。わかっていた。ソラは一度こうなったら、絶対に曲げない。

    「……お前運転下手だろ」
    「え」
    「ランドラッド、ひとりで荒野に出せると思ってんのか」

    ソラはぱちぱちと瞬きをした。エリオは顔を覆っていた手を下ろし、そっぽを向く。

    「勘違いすんなよ。オレは別に、あの街に行きたいわけじゃねえから」
    「エリオ」
    「お前が途中で干からびたら、後味悪いだけだし」

    ソラは少しのあいだ黙っていて、それから、毛布の中で小さく笑った。

    「ありがとう」
    「うるせぇ。早く寝ろ」

    そうして、ソラとエリオはランドラッドに乗り、移動し続ける空中都市アウレオラを追いかけて、荒野の旅を始めたのだった。

    「エリオ、聞いてる?」

    はっとして顔をあげると、すぐ目の前にソラの顔があった。

    「……近い」
    「全然返事しないから」
    「悪い、考えごとしてた」

    ちょうどその時、焚き火にかけていたポットからひゅう、と間の抜けた音が鳴った。
    ソラは慎重にそれを火から下ろすと、インスタントコーヒーの粉が入った二つのカップにお湯を注ぐ。ひとつをエリオに差し出し、二人は焚き火の前に腰を下ろした。

    「何考えてたの?」
    「別に……で、何の話だっけ」
    「あ、そうだ」

    ソラは古びた布カバンをごそごそと探り、小さな地図帳を取り出した。

    「もう俺が使うこともないから、お前たちにやるよ」

    故郷を出るとき、回収屋のおやじがそう言って持たせてくれたものだ。ところどころに油染みがあり、長いあいだ陽にさらされていたせいか、表紙はすっかり色褪せていた。
    ソラはぱらぱらとページをめくり、目当ての場所を見つけると、地図帳をエリオの方へ寄せる。

    「今この辺にいるでしょ、たぶん」
    「たぶん、な」

    エリオはカップに口をつけながら、地図を覗き込む。

    その地図帳は、二人が生まれるずっと前に作られたものだった。書かれている街や道のいくつかは、もう地上のどこにも残っていない。ソラとエリオは、通りかかった街の残骸や、半分砂に埋もれた道路標識を頼りに、おおよその位置を割り出しながら旅を続けていた。

    「でね、ここ、南にすすんでいったところに街があるでしょ」

    ソラの指がたどった先には、サウスベル・ジャンクションという名前の街があった。地図の上でも、その街が大きいことがわかる。こういう大きな街は、まだ崩壊せずに残っていることが多い。

    「アウレオラの進行方向からすると、たぶんここの上を通ると思うの。それに、前回の補給のタイミングが半年前でしょ。だからちょうどここに停泊するんじゃないかなって」
    「なるほどな」

    アウレオラは、暮らしに必要なもののほとんどを空の上だけでまかなっている。食料や電力も、基本的にはあの白い都市の中で完結しているらしい。
    けれど、数ヶ月に一度、航路上にある大きな街の上空で数日だけ停泊し、水、金属、機械部品、嗜好品、種子や薬品など、空の上では作りきれないものが地上から積み込まれるのだ。

    「サウスベル・ジャンクションか」

    エリオは小さくつぶやいた。

    「補給なら、人も物も集まる。アウレオラの業者も来るだろうな」
    「でしょ」

    ソラの目が、焚き火の光を映して明るくなる。

    「もしかしたら、近くまで行けるかもしれない」

    エリオは地図から顔をあげると、ふっと口の端を上げる。

    「決まりだな」

    * * *

    『ざざ……ざ……ミッドデイ・ブロードキャストがお送りしました。ざ……それではまた明日!……ざ……ざざ……』

    二人がサウスベル・ジャンクションにたどり着いたのは、三日後の昼過ぎのことだった。
    ランドラッドのフロントガラス越しに、巨大な街並みが見えてくる。その上空には二人の読み通り、空中都市アウレオラが、青空を背景に静かに停泊していた。

    「ビンゴ!」

    助手席で、ソラが地図帳を握りしめたまま声を弾ませる。

    「さすが、読み通りだったな」
    「やったね」

    ソラが差し出した手に、エリオは片手でハンドルを握ったまま、ぱん、と手のひらを合わせる。

    常に移動し続けるアウレオラを追いかけるのは、思っていたよりずっと大変だった。どれだけ進路を予測しても、二人が野営をしているあいだにまったく違う方角へ進んでしまうこともあり、数日見失うことだって珍しくない。だからこそ、進路予測がはまると、気持ちよさが格別だった。

    「わあ。人がたくさん」

    サウスベルの市街地は、アウレオラ停泊の影響を受けて、多くの人々でごった返していた。

    古い高架道路が何本も街の上を交差し、その下には露店や屋台が隙間なく並んでいる。
    窓の外では、車両や人々が砂埃を巻き上げながら行き交っていた。
    ソラが夢中になって見ていると、エリオが何も言わずにウインドウを下げる。

    嗅いだことのない独特の香辛料の匂いと、香のような甘い空気が、ふわっと車内に流れ込んでくる。商人たちの怒鳴り声と、どこかで鳴っているベルや金属の音が混ざり合って、街全体が息をしているみたいだった。

    「見て、エリオ!補給がはじまってる!」
    「危ねえ!」

    ソラが窓の外に身を乗り出す。エリオは慌ててソラの服を引っぱり、車内へ戻した。
    街の向こうに、空へ伸びる巨大な係留塔がそびえている。その塔に沿うように、コンテナを吊った補給リフトが、金属の軋む音を立てながら空へ昇っていくのが見えた。

    ソラは窓に両手をついて、食い入るように係留塔を見つめる。

    「ね、近くまで行ってみよう!」
    「オッケー」

    エリオはハンドルを切った。ランドラッドは車両と荷車の流れに紛れ、砂埃と喧騒の中を、ゆっくりと街の中心へ向かっていく。

    近づくにつれて、金属の軋む音が大きくなってくる。補給のために低い高度で停泊しているアウレオラは、いつもよりずっと近かった。係留塔の根元には、物資が詰めこまれたコンテナが山のように積まれ、白い作業服を着た人々が忙しなく行き来していた。

    エリオは発着場の手前でランドラッドを停める。
    ソラはランドラッドから降りると、熱のこもった視線で係留塔を見上げた。

    「あそこから空に行けるんだ……」

    風が吹き、ソラの黒髪が揺れる。

    「すごいね。ほんとに、ここまで来ちゃった」

    ソラは係留塔から目が離せないまま、少しだけ笑う。

    「エリオがいなかったら、ここまで来られなかったよ」

    振り向いたソラの青い瞳は、まっすぐエリオを見ていた。少し後ろにいたエリオは、突然自分に向けられた視線に、肩を揺らす。

    「な、何いってんだお前。まだ来ただけだろ」

    エリオは気まずそうに視線を逸らし、乱暴に髪を掻いた。

    「ほら、いこうぜ」

    エリオはいつもの調子で、ソラの背中を軽く押した。

    二人が発着場へ近づくと、入口にはゲートがあった。警備員たちが、出入りする人間を一人ずつ確認している。

    「許可証は」

    ゲートの入口で、灰色の制服を着た警備員が、感情のない声で言った。はちきれそうな太い腕には、深い群青の腕章が巻かれている。なめらかな布地に、アウレオラの紋章が銀糸で縫い込まれていた。

    「きょかしょう」

    ソラはゆっくりと繰り返す。隣を見ると、エリオも肩をすくめていた。

    「えっと、許可証はないんですけど」
    「業者登録」
    「それもないです」
    「次」

    警備員は、ソラたちには目もくれず、後ろに並んでいた作業員を呼ぶ。

    「あ、あの、僕たちアウレオラに行きたいんですが」

    ソラは慌てて一歩前に出た。警備員は眉ひとつ動かさない。

    「少しだけでいいんです。どうやったら行けますか」
    「許可証がなければ通せない」
    「それは、どこで――」
    「次」
    「待ってください。許可証は、どこで申請すればいいんですか」

    警備員はもう答えなかった。後ろに並んでいた作業員が、「おい、早くしろよ」と舌打ちまじりに言う。エリオはきっと作業員を睨むと、ソラの腕を掴み、列から引き離した。

    「行くぞ」
    「でも」
    「ここで粘っても無理だ」

    ソラはエリオに引かれながら、振り向きざまにアウレオラを見上げる。
    ちょうど補給リフトが、白い都市の底へ吸い込まれていくところだった。

    「ソラ」

    立ち尽くしたまま動かないソラに、エリオは小さく息を吐いた。いつもより柔らかい声に、ソラははっとしてエリオを見る。

    「……今日はもう無理だ。日が暮れる前に、寝る場所探すぞ」

    ソラはもう一度だけ空を見上げて、それから小さく頷いた。

    * * *

    「また満室かよ!」

    何軒目かの宿屋で、二人はまた断られていた。エリオは金色の髪をくしゃっと掻きむしる。

    「あんたら、この街ははじめてかい。だったら時期が悪かったな。アウレオラが来てる時に予約なしで泊まろうなんて無謀だよ」

    宿屋の店主は申し訳なさそうにするでもなく、さっさとカウンター業務にもどってしまう。
    その宿は外装こそ古びていたが、中は思ったよりも小綺麗だった。壁際には洗いたてのシーツがきちんと畳まれて積まれている。カウンターの奥からは、煮込み料理の湯気がほのかに漂っていた。

    「くっそ、ひさしぶりにシーツで寝られると思ったのに」
    「しょうがないね、今日はランドラッドの中で寝よう」

    ランドラッド、という単語に、店主はぴくりと反応した。帳簿をめくっていた手が止まる。

    「ランドラッドって……あのランドラッドかい?軍用四駆の」
    「知ってるの?」

    店主は帳簿から顔を上げた。さっきまでの無愛想な表情が嘘みたいに、きらきらと少年のような目をしている。

    「知ってるも何も、あれはいい車だった。大戦のあとは払い下げ品として出回っていたが、今じゃもうほとんど見かけねぇ!坊主たち、あんなのに乗って旅をしているのか!」

    大きな身体が、カウンター越しにぐいと乗り出してくる。
    エリオは何かを思いついたように、にやりと笑ってカウンターに肘をつく。

    「おやじ」
    「なんだ」
    「乗ってみたい?ランドラッド」

    店主の顔がぱっと明るくなり、口をぱくぱくさせる。

    「いいのか!」

    エリオはこっそりソラにウインクした。

    「そのかわり、一晩どうにかなんねえ?」

    店主は渋い顔をする。けれど、カウンターの上に置かれた両手の指先は、落ち着きなくくるくると動いていた。

    「宿は無理だ。満室は満室だからな」
    「ちぇ」
    「だが、裏の物置なら空いてる。屋根もあるし、シャワーくらいは貸してやる」

    エリオは満足げにカウンターを指で叩いた。

    「よし、交渉成立だな」

    店主は帳簿を閉じると、待ちきれないようにカウンターの奥から出てきた。大きな体を揺らしながら、入口の方へ歩き出している。

    「さあ、見せてくれ。ランドラッドなんて、最後に見たのは十年は前だ」
    「そんなに珍しいんだ」

    ソラが言うと、店主は鼻で笑った。

    「珍しいなんてもんじゃない!生きてるうちに、また走ってるところを拝めるなんてなぁ」

    三人は宿屋の外へ出た。店主が目を輝かせたまま、店先を見回す。

    「……で、どこだ?」

    店の前に停めていたはずのランドラッドは、影も形もなくなっていた。

    * * *

    「もうだめだ……終わった……」

    部屋の隅で、エリオが膝を抱えてうずくまっていた。

    「気の毒になぁ。まさか、あんなもんを盗んでいく奴がいるとは……」

    店主はそっと、エリオの前に淹れたてのお茶を置いた。ハーブの香りがふわりと立ちのぼり、エリオの鼻先をくすぐる。それでもエリオは、顔を上げることができなかった。

    「ここも昔は、もう少しマシな街だったんだがね」

    店主は重たげに息をつく。

    「外の小さな街が潰れるたびに、行き場をなくした連中がサウスベルへ流れ込んでくる。そこへアウレオラが停まるとなりゃ、人も物も金も一気に膨れ上がる。そうなると、どうしてもろくでもない連中まで寄ってくるんだ」
    「オレの愛車が……」

    店主は気の毒そうに、エリオの肩をぽんと叩いた。

    「今日は泊めてやる。裏の物置じゃなくて、ちゃんと屋根のある部屋を用意してやる……少し埃っぽいが……」

    きぃ、と扉がきしむ音がして、ソラが外から帰ってくる。片手に持った地図を見ながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。

    「ほら金髪の坊主、お友達が帰ってきたぞ。おい、何かわかったか」
    「ね、おじさん、このあたりの、もう少し詳しい地図ってある?」

    ソラが顔を上げるなり言った。店主は目をぱちぱちと瞬かせる。

    「地図?」
    「うん、この街の地図……僕らの地図帳、古いし、ざっくりとした地形くらいしかわからなくて」
    「あるにはあるが……それがどうしたっていうんだい」
    「タイヤの跡を辿ってみたんだ」

    その言葉に、隅でうずくまっていたエリオがぴくりと肩を揺らした。

    「店の前から北の方に向かっていったみたい。しばらくは跡が残ってたけど、大通りに出たところで車輪の跡が多すぎて分からなくなって」
    「北だと?ちょっとまて」

    店主は眉をひそめると、カウンターの後ろから観光客向けの地図を取り出し、ばさっと音を立てて広げた。胸ポケットから取り出したペンで、きゅっと丸印をつける。

    「北の大通りは、古い高架に上がる坂につながってる。そこを越えられたら厄介だぞ。この高架は街中につながってるからな。どこに行くか見当もつかねえ」
    「坂……」

    ソラは地図を覗き込み、丸印の少し手前を指でなぞった。

    「たぶん、その坂の手前だ」
    「え?」

    店主は素っ頓狂な顔をする。

    「待て、どういうことだ」
    「ランドラッド、坂が苦手なんだ」
    「坂?」

    エリオは膝を抱えたまま、低く呻いた。

    「低速ギアの入りが悪いんだよ。特に上り坂」
    「エリオなら動かせる。でも、初めて乗る人には難しいと思う」

    ソラはそう言って、部屋の隅にうずくまるエリオの隣にしゃがむと、顔を覗き込む。

    「ねえ、エリオ。まだ終わってないよ」

    エリオはゆっくりと顔を上げた。ソラはエリオの手を取る。

    「行こ」
    「は、お前ちょっと待てって……!」

    二人は店主が広げた地図を掴むと、宿の外へ飛び出した。

    「おい、地図は返せよ!」

    店主の叫び声が、背中の向こうで小さく聞こえた。

    * * *

    「ビンゴ」

    ソラの読み通り、ランドラッドは高架の坂の手前で立ち往生していた。
    運転席からは、苛立った声とともに、ハンドルを叩くような音が聞こえる。

    「くそっ、くそっ。動けよこのポンコツ!」
    「誰がポンコツだって?」

    エリオが勢いよく運転席のドアを開ける。すると中にいた犯人はぎょっと目を見開き、弾かれたように飛び出してきた。

    「うわっ」

    ぶつかられたエリオが、ふらっと後ろへよろめく。

    「待てコラ!」

    犯人は帽子を深くかぶったまま、細い路地へ逃げ込もうとした。けれど、焦って足がもつれてしまう。ソラはすぐに追いつくと、ぱしっとその腕を掴んだ。

    「待って!」

    犯人が振り返る。その拍子に帽子が落ち、押し込められていた長い髪が、はらりと肩にこぼれた。ソラは目を丸くする。

    「……女の子?」
    「女だろうが男だろうが関係ねえ!」

    ようやく体勢を立て直したエリオが、怒鳴りながら近づいてくる。

    「よくもやってくれたな、この盗人野郎!」

    少女はソラに腕を掴まれたまま、きっと二人を睨み上げた。

    「うるさいな!あんたたちが悪いんでしょ、こんな変な車、道端に置いとくから!」
    「なんだとこのクソガキ!」

    エリオが一歩詰め寄る。少女はびくりと肩を揺らしたが、目だけは逸らさなかった。日に焼け、砂埃に汚れた顔。吊り気味の大きな黒い目が、ぎらぎらと光っていた。ソラは少女の腕を掴んだまま、同じ目線になるようにしゃがむ。

    「ランドラッドは返してもらうよ。僕たちの大切な仲間だから」
    「……わかってる」

    少女は悔しそうに下唇を噛んだ。ふと、ソラは少女の腕を見る。
    細い指先は黒く汚れ、爪の間には鉄粉が入り込んでいる。袖口はほつれ、腰に下げた布袋からは、錆びたネジや折れた金具がのぞいていた。

    「……君もしかして、くず鉄拾いしてるの?」

    少女の鋭い目が、エリオからソラに向けられる。

    「だったら何。ていうか、腕離してくれる」
    「あ、ごめん」

    ソラは慌てて手を離した。

    「僕たちも昔やってたんだ」

    少女は黙ってソラを見上げる。一瞬その瞳が揺れたような気がした。エリオは盛大にため息をつく。

    「おいソラ、今その話関係ないだろ」
    「そうだけど」
    「それに、オレたちは盗みなんか……」

    ゴーン……ゴーン……

    その時、サウスベルの時計台から、夕方を告げる鐘の音が響いた。
    少女ははっとして、鐘の鳴るほうを見る。

    「間に合わない」

    ぽつりとこぼれた声は、さっきまでの強がった声とはまるで違っていた。ソラは少しだけ眉を寄せる。

    「間に合わないって、何が?」
    「おい、ソラ」

    振り向いたエリオが、ソラの肩に手を置く。

    「深入りすんな。やめとけって」
    「けど」
    「ソラ!」

    エリオは信じられないという顔でソラを見て、強くたしなめる。
    少女は言おうか言うまいか迷っているようだった。やがて、観念したように小さくつぶやく。

    「……レース」
    「レース?」
    「明日、ロードレースがあるの。廃墟になった隣町で。出走登録の締め切りが、今日の十八時までだった」

    ソラはちらりと腕時計を見る。十八時まで、もう三十分をきっている。

    「それでランドラッドを……」
    「うん。レースに出るには、車が必要だったから」
    「どうしてレースに出たいの?」

    少女は腰にさげた布袋をちゃり、と鳴らす。

    「くず鉄拾いだけじゃ、母さんの薬代が買えない」
    「……」
    「勝てば、賞金が出るから」

    ソラは黙って少女を見た。エリオはそんなソラの耳元に顔を寄せ、小さく囁く。

    「わかってるだろ。これが本当の話かなんて、わかりゃしない。同情狙いで嘘をついてる可能性もある」
    「わかってるよ」
    「わかってるなら行くぞ、ほら」

    エリオは運転席に乗り込もうと、ランドラッドに足をかける。

    「じゃあな、ドロボー。オレたちはもう行く」
    「待って!」

    少女が叫ぶ。エリオの足が止まった。

    「まだ何かあんのかよ」

    少女は一瞬ためらって、それからソラを見た。

    「今回のレース、ただのレースじゃないの。アウレオラが停まってるから、いつもより賞金が高い」
    「それが何だ、オレたちには関係ない」
    「車、貸してくれない?一日でいいの」
    「話にならねえ」

    エリオは吐き捨てるように言うと、運転席に乗り込もうとする。少女はソラに食い下がると、早口でまくし立てた。

    「そ、そうだ、車貸してくれたら賞金山分けしてあげる!あんたたちだって、旅人なら金が必要でしょ……」
    「他をあたりな」
    「お願い!」

    少女の声が、少しだけ震えた。

    「あたしには、もうこれしかないの。お願い、車を貸して」
    「ソラ!」

    エリオはいい加減苛立ったように、ソラの腕をひっぱった。その時、少女は何かを思い出したように、半ばやけくそで叫んだ。

    「そうだ、アウレオラ!」

    その瞬間、ソラの足が止まった。エリオも、その腕を引いたまま動きを止める。少女は二人の背中に向かって、必死に続けた。

    「言ったでしょ、今回は特別なレースだって。優勝したらもらえるのはお金だけじゃない!」

    ソラとエリオはゆっくり少女を振り返った。

    「優勝者には、アウレオラ行きの許可証がもらえるの!」

    * * *

    すっかり陽が暮れたサウスベル・ジャンクションは、昼間とは違うざわめきに包まれていた。家々に明かりが灯り、露店は軒先にランタンを吊るし始めている。窓の外からは、調子の外れた笛の音と、人々の笑い声が風にのって流れてくる。

    「……それで、出走登録をしてきたって?」

    店主は三人の前にマグカップを置くと、砂糖がたっぷり入ったミントティーを注いだ。清涼感のある香りが、ふわりと湯気に混じって立ちのぼる。

    「オレはこのドロボー抜きでレースに出ようって言ったんだ。けどコイツが登録場所を教えねえし、締め切りまで時間もなかったし……」

    エリオはミントティーをひと口飲み、熱かったのか、わずかに顔をしかめた。ふう、と息を吹きかけて冷ましながら、不満たらたらで文句を言っている。そんなエリオの隣で、すっかり元気を取り戻した少女が、腕を組んでふんぞり返っていた。

    「当たり前でしょ。あたしは賞金がほしい。あんたたちはアウレオラの許可証がほしい。あたしはレースの登録場所を知ってて、あんたたちは車を持ってる。交渉成立ってわけ」
    「はは。この嬢ちゃんのほうが一枚上手だな」

    店主は愉快そうに笑いながら、空になりかけたエリオのマグカップに茶を足す。エリオはなおさらムスッとした。

    「それにね、あたしのことドロボーって呼ぶのやめてくれる?あたしの名前はニコ」
    「うるせぇ、ドロボー」
    「ニコ!」

    そんなやかましい二人の隣で、ソラはじっと地図を見ていた。

    「にしてもなあ、大丈夫なのかい、そのロードレースは」
    「どういうこと?」

    ソラは地図から顔を上げる。店主は手に持っていたミントティーをぐびりと一口飲んだ。

    「非合法なロードレースだろう。優勝賞品がアウレオラ行きの許可証ってのもうさんくさい」
    「……」
    「レース会場は廃墟になった隣町だ。それに、荒くれ連中が集まる。お前さんたちみたいな若造、怪我ですめばいいが……」

    ソラはまっすぐ店主を見つめた。柔らかな表情の奥に、静かな炎が灯っている。

    「それでも、できることは全部やりたいんだ。ここまで来たから」

    ソラは再び地図に視線を落とす。古い地図帳と、店主が貸してくれたサウスベル周辺の地図。そのふたつを見比べながら、ソラは鉛筆の先で、コースをなぞっていく。もうすっかり、周りの音が聞こえていないみたいだった。店主はほう、と感心したように息を吐く。

    「ずいぶん集中するんだな」
    「ソラは昔からこうなんだよ」

    エリオが横から口を挟む。さっきまでむくれていたのに、その声はどこか誇らしげだった。

    「ぼんやりしてるように見えるけど、こういう時のこいつはしつこいんだ。一度決めたら、絶対に諦めねえ」
    「へえ、優男に見えるのに。意外ね」

    ニコは興味深そうにソラを見る。エリオはマグカップを置くと、なぜか得意そうに鼻を鳴らした。

    「こいつ、昔から変なところで根性あるんだよ。くず鉄拾いしてた頃も、みんな諦めろって言ってるのに、ソラだけは決まっていい部品を見つけてくるんだ。誰も敵いっこない。アウレオラ探しだって、ソラの予測はすごいんだ……」

    そこまで言って、エリオははっと口をつぐんだ。店主とニコが、にやにやとこちらを見ている。

    「……なんだよ」
    「いやあ」

    店主は楽しそうに笑った。

    「若いっていいねえ」
    「は?!」

    エリオはがたっと立ち上がると、足音荒く宿から出ていこうとする。ソラはその物音で顔を上げた。

    「エリオ、どこ行くの」
    「ランドラッド。調整してくる」

    エリオは赤くなった耳を隠すように、乱暴に髪を掻いた。

    「ありがとう。エリオの運転なら、きっと勝てるね」
    「当たり前だろ!」

    エリオはそう吐き捨てると、今度こそ宿の外へ出ていった。
    店主はその背中を見送り、やれやれと肩をすくめる。

    「よーし、お前ら、明日に備えて、今夜は俺が飯をおごってやる。しっかり食っときな!」

    窓の外では、眠らない街の喧騒が続いていた。
    その上空には、アウレオラの白い影が、夜の雲に静かに浮かんでいる。

    * * *

    その日、サウスベル・ジャンクションは朝から異様な熱気に包まれていた。
    街の南部に設けられたレースのスタート地点には、改造車がずらりと並んでいる。あちこちでエンジンをふかす音が鳴り響き、砂埃と油の匂いがたちこめていた。

    「おいおい、今どきランドラッドかよ!おばあちゃんのお下がりかい?」

    すれ違いざま、顔に古い傷のある男が鼻で笑った。隣にいた筋骨隆々の男も、ランドラッドの車体を見ると、馬鹿にしたように口笛を鳴らす。

    「なんだって?」

    ランドラッドの最終調整をしていたエリオが、噛みつかんばかりの勢いで顔を上げた。

    「見ろよ、なんだこのヒョロヒョロな乗り手は。ガキの来るところじゃないぜ!」
    「もっぺん言ってみろ!」
    「エリオ!」

    ソラは慌てて助手席から飛び出すと、後ろからエリオをがっちりと捕まえた。エリオは毛を逆立てた猫みたいに、歯をむき出しにしている。
    男たちは、がははと笑いながら自分たちの車両へ向かっていった。

    「もう。エリオは喧嘩っ早いんだから……」
    「言われっぱなしでたまるか!」
    「あんたたち、何やってるの」

    受付をすませたニコが呆れた様子で戻ってくる。

    「スタートは正午ちょうどよ。さっさと位置につきましょ」

    ニコはそう言うなり後部座席に乗り込む。エリオはまだ何か言いたげだったが、最後にもう一度だけ男たちの背中を睨むと、運転席の扉を開けた。

    ソラは頭上のアウレオラを見上げる。昼の光を受けたアウレオラは、いつもより白く見えた。

    「行くぞ、ソラ」
    「うん」

    ソラはぐっと手を握りしめると、助手席に乗り込んだ。

    『さあさあ、お集まりの皆さん!サウスベル名物、命知らずどものロードレース、スクラップダービーの時間だ!』

    古いスピーカーから、割れた実況の声が響いた。怖いもの見たさの観客たちが続々と集まってくる。会場の熱気が一段と高まった。

    『舞台は廃墟になった隣町、旧ノースベル市街!サウスベルを出発して、三つのチェックポイントを通過し、最初に戻ってきた一台が勝者だ!』

    「これがチェックポイントよ。さっき発表されたの」

    ニコは後部座席から身を乗り出すと、ソラとエリオのあいだに、折り目のついた紙を差し出した。赤い印が三つ、旧ノースベル市街のあちこちに打たれている。

    「このスクラップダービーはね、毎回チェックポイントが変わるの。しかも発表されるのはレース直前。だから、対策が立てづらい」
    「どういうことだ?」
    「要するに、この三つのポイントさえ通れば、高架だろうが、地下道だろうが、どこを走ってもいいってわけ」
    「なるほどね」

    ソラはニコが差し出した地図を見つめると、納得したように頷いた。エリオはその横顔をちらりと見た。

    「いけそうか?」
    「まかせて。大体の道は頭に入ってる」
    「頼りにしてるぜ、相棒」

    窓の外に見える古い高架に吊るされた大型モニターでは、日に焼けた司会者が両腕を振り上げ、観客たちを煽っていた。

    「……で。ソラはさっきから何をしてるの?」

    ニコは後部座席から、不思議そうにソラを覗き込む。ランドラッドの助手席で、ソラは受信機のつまみを慎重に回していた。

    「お前、こんな時にもラジオかよ」

    運転席のエリオが呆れた声を出す。

    「だって、ほら。今日はアウレオラが真上にいるでしょ。アンテナを伸ばさなくても、入りそうな気がして」
    「そういうことじゃねぇ」
    「ラジオ?」

    ソラは窓の外を見上げる。

    「今日は今までで、一番近い」

    エリオは何か言いかけて、結局やめた。

    「ちょっと、あたしにわからない話しないでよ!」

    ニコは後部座席でむっと頬を膨らませる。その時、スピーカーから更に大きな声が響いた。

    『今年はアウレオラ停泊記念の特別レース!賞金はいつもの倍!そして優勝者には、なんとなんと!アウレオラ行きの許可証が贈られるぞ!』

    ざざ……ざ……ざ……

    「はいった」

    『まもなく正午!スタートまで10秒前!9!8!』
    「いくぞ、ソラ」

    エリオはぐっとハンドルを握り直す。

    『ざ……ざざ……みなさんこんにちは。空中都市アウレオラより、お昼の放送、ミッドデイ・ブロードキャストのお時間です』

    その穏やかな声に重なるように、実況が叫んだ。

    「3、2、1――行けえええ!」

    号砲が鳴る。次の瞬間、エンジン音が一斉に弾けた。

    * * *

    号砲と同時に、荒くれ者たちの改造車が一斉に飛び出した。
    砂煙が舞い上がり、前方では早くも車体同士がぶつかり合い、火花を散らしながら先頭を奪い合っていた。その中で、ランドラッドだけが一拍遅れて動き出す。

    「ちょっと、遅いじゃない!」

    後部座席で焦ったようにニコが叫ぶ。重たい車体が、低く唸っていた。

    「ランドラッドは加速に弱いんだよね」

    ソラが振り向くと、なんてことないように言う。

    「はあ?!そんなの聞いてない!」
    「うるせえ、こいつはここからなんだよ!」

    エリオは歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。
    ランドラッドのエンジンが、ブロロロロロ……と腹に響くような音を立てる。古い車体がぎしぎしと軋み、荷台のアンテナが大きく揺れた。速度がじわじわと上がっていく。

    車窓の向こうでは、初動でぶつかり合った改造車の一台が、すでに道端に乗り上げていた。ひしゃげたボンネットから白い煙が噴き出し、観客たちが歓声とも悲鳴ともつかない声を上げている。

    「なるほど」

    助手席で、ソラがつぶやいた。

    「だからスクラップダービーなのか」
    「感心してる場合か!」

    エリオが怒鳴る。その横を、鉄板だらけの大型車が、砂煙を巻き上げながら抜けていった。中から、先ほどの顔に傷のある男と、筋骨隆々の男の二人組が、馬鹿にしたような顔でこちらを見てにやにやと笑っていた。

    「お先に失礼、のろまのガキンチョ!」
    「あの野郎!」

    エリオが顔を真っ赤にしてアクセルを踏み込もうとする。

    「エリオ。挑発にのっちゃだめだ」

    エリオの指が、ハンドルの上でぎり、と止まる。その瞬間、ランドラッドのすぐ前で、二台の改造車が激しくぶつかった。がしゃん、と鈍い音が響く。片方の車体が横向きに滑り、もう片方は火花を散らしながら幹線道路の脇へ弾き飛ばされた。

    「うわっ危ねえ!」
    「きゃっ!」

    エリオはすかさずハンドルを切った。ランドラッドの車体が大きく傾き、後部座席のニコが、ぐわんと横へ揺さぶられる。

    『出た出た出たあ!スクラップダービー、序盤の名物、雑魚狩りだ!ここで気を抜いた奴から鉄くずになるぞ!』
    「雑魚狩りって何よ!」

    ニコが青ざめた声を上げる。前方では、すでに何台もの車が潰れていた。外れたタイヤが、砂埃を巻き上げながら道の端を転がっていく。その間を、まだ走れる車たちが縫うように走り抜けていた。

    「まずは第一チェックポイント」

    ソラは地図を押さえながら、前を見る。

    「旧ノースベル入口の料金所跡まで、このまま幹線道路をまっすぐいこう」
    「まっすぐって言われてもな!」

    右側から、鉄板を貼りつけた小型車が、ランドラッドめがけて突っ込んでくる。エリオは舌打ちをした。

    「掴まってろ!」

    思い切りハンドルを切る。鉄板の角がランドラッドをかすめ、嫌な音を立てた。ニコが悲鳴を上げる。車内の受信機からは、場違いにひどく穏やかな声が流れていた。

    『ざざ……ざ……今日はセラ・パークの噴水広場で、小さな音楽会が開かれているそうです……』

    ランドラッドは白い煙を突き破り、ひしゃげた車体のすぐ横をすり抜ける。
    崩れかけた料金所のゲートが、砂煙の向こうに見えてきた。

    「あそこだ!」
    『さあさあ、続々と最初のチェックポイントを通過していくぞ!一位通過はスクラップダービー常連、ホッグ兄弟だ!どんな車も押しつぶす、相変わらず、品性のかけらもない走りだあ!』

    実況の声に重なるように、砂煙の向こうで歓声が上がる。
    先ほどランドラッドを馬鹿にしてきた二人組の大型車が、料金所跡のゲートを抜けていく。続いて、二位、三位と車両が通過していった。

    『今年も荒れてるぞ、スクラップダービー!序盤ですでに半分近くが脱落だ!もう後続はいないか?いや、待て。砂煙の向こうに見えるのは……?』

    その時、砂煙の奥からランドラッドが姿を現す。

    『ランドラッドだあー!初参加の旧式ランドラッド、まだ生き残っているぞ!』
    「古くて悪かったな!」

    エリオが怒鳴る。ランドラッドは料金所跡を抜け、第一チェックポイントの旗を突っ切った。

    「よし!」

    ニコが後部座席で小さくガッツポーズをする。ソラは小さく息を吐き、地図の次の印へ目を落とす。

    「次は町中に入るね」

    旧ノースベル市街。かつて街の中心だったその場所は、今では半分が砂に埋もれ、廃墟と化していた。崩れた建物の隙間を、何台もの改造車がばらばらの方向へ散っていく。
    市街地に入ると一気に道が狭くなり、さっきまで遠くから響いていた実況と観客の声が、急に遠ざかった。

    「いやに静かだな」

    エリオが低く言う。

    その直後、細い裏路地の奥から、がしゃん、と派手な音が響いた。続いて、誰かの悲鳴が上がる。ニコが顔をしかめた。

    「ここからが厄介なのよ。旧市街は、道を間違えるとすぐ袋小路に入っちゃうの。残ってる道も、いつ崩れるかわからないし…」
    「第二チェックポイントは……旧市庁舎前広場か。街のど真ん中だね」

    ソラは地図に視線を落とした。

    「最短ルートは、市場跡を抜けて、高架から行く道だけど……」

    ソラの指が、地図の上で止まる。

    「そっちはやめよう。エリオ、そこ右に曲がって」
    「オッケー」

    エリオは迷わずハンドルを切る。ニコは後部座席から身を乗り出した。

    「なんで?そっちは遠回りよ」
    「こういう潰れた街の高架は、脆くなっているんだ。特にこの高架、大きな車が何台も通るようには作られていないと思う」
    「なんでわかるの」
    「ずっと旅してたから」

    エリオが、なぜか得意げに補足する。
    その時、前方に見えていた高架へ突っ込んでいった一台が、ぐらりと大きく傾いた。
    ひび割れた路面が、音を立てて沈む。次の瞬間、車体は高架の端を突き破り、砂煙の中へ真っ逆さまに落ちていった。

    「……ほんとに落ちた」

    ニコが青ざめる。エリオはハンドルを握りしめたまま、短く息を吐いた。

    「で、次はどうする」

    ソラはすぐに地図をめくり、別の道を指でたどる。

    「中央広場を突っ切るか、地下道か…」
    「待って、広場はだめ!」

    ニコが鋭く叫んだ。

    「下が空洞なの。昔の地下駐車場がそのまま残ってて、今は床が抜けて穴だらけだって聞いたことがある」
    「助かる」

    ソラは短く答えると、迷わず地下道の入口に指を置いた。

    「じゃあ、こっちだね」
    「地下道?」
    「市場跡の手前に、地下道の入口がある。旧商店街の下を通って、市庁舎前広場の南側に出られるはず」

    エリオが眉をひそめる。

    「ランドラッドで通れるのかよ」
    「たぶん」
    「たぶん?!」

    ニコが後部座席で叫ぶ。エリオはにやりと口の端を上げる。

    「たぶんでじゅうぶん!」

    ランドラッドは崩れた市場跡の手前で大きく左へ曲がり、半分砂に埋もれた地下道の入口へ突っ込んだ。

    その頃、旧市庁舎前広場では、砂埃にまみれた実況の声が響いていた。

    『おーっとお!ここで優勝候補のレッドジャッカル、まさかの高架から転落!これは予想外!今年のスクラップダービー、いよいよ何が起きるかわからなくなってきたぞ!』

    旧市庁舎前広場には、まだ一台の車も姿を見せていなかった。崩れた時計塔の下で、係員たちが赤い旗を手に、落ち着きなく周囲を見回している。観客たちのざわめきが、じわじわと広がっていった。

    『第二チェックポイント、いまだ通過車両なし!まさか、全員旧市街で脱落か?一体どうなっちゃうんだあ!』

    その時だった。旧市庁舎前広場の南側、半分砂に埋もれた地下道の出口から、低いエンジン音が響いた。

    『ん?なんだ、この音は……?』

    次の瞬間、地面から砂埃をまとったランドラッドが飛び出した。

    『地面から出てきたのは、ランドラッドだあああ!第二チェックポイント一位通過は、なんと旧式ランドラッド!これはまさかの番狂わせ!』

    赤い旗が振られる。ランドラッドは旧市庁舎前広場を横切り、第二チェックポイントを突っ切った。

    「げほっげほっ……」

    砂埃を吸い込んだニコが、後部座席でむせていた。車内は砂まみれになっている。

    「生き埋めにならなくてよかった……あんたたち、なんて無茶すんのよ!」
    「そのおかげで一気に順位をあげたぜ」

    エリオは笑い、ハンドルを握り直す。ソラは次の印へ視線を落としていた。

    「最後のチェックポイントは、旧係留塔跡か……」

    ソラが地図の端を指で押さえた。

    「係留塔?」
    「うん。昔、アウレオラがここで補給を受けていた頃の塔だと思う。地上から物資を吊り上げるための。ただ…」
    「どうした」
    「このあたりだけ、詳しい地図が残ってないんだ。たぶん、アウレオラに関する施設だったから」

    ソラは地図に指を滑らせる。

    「でも、貨物線の跡と、古い搬入路の向きを合わせると……塔に続く道はあっちのはず」

    ソラが指さす方角、砂埃の向こうに、折れた塔の影が見えてきた。

    かつて空へ向かって伸びていたはずの係留塔は、今では半ばから折れ、錆びた骨組みだけをさらしている。根元には古いコンテナの残骸が積み上がり、地面には使われなくなった貨物用レールが敷かれていた。
    ソラはその骨組みを見上げ、目を細める。車内の受信機からは、相変わらずノイズまじりののんびりとした声が流れていた。

    『ざ……ざざ……今日は……洗濯日和で……ざ……ざざ……』
    「塔がこんなふうになるくらい、ずっと前からアウレオラってあるんだ」

    ランドラッドは瓦礫を踏み越え、残骸だらけの搬入路を進んでいく。古いレールをタイヤが乗り越えるたび、車体が大きく跳ねた。やがて、折れた係留塔の根元に立つ赤い旗が見えてくる。

    「あそこだ!第三チェックポイント!」

    ランドラッドは錆びたレールを踏み越え、赤い旗の横を突っ切った。

    「よし。あとはゴールに向かうだけだな」

    エリオがサウスベルの方角へハンドルを切る。その時だった。
    背後から低い排気音が迫ってくる。気づいた瞬間、ランドラッドの後部に凄まじい衝撃が走った。がん、と鉄がぶつかる音が響き、三人の身体がシートの上で跳ねる。

    「うわっ!なんだ!」

    ソラが窓から身を乗り出して後ろを見る。砂埃の向こうから現れたのは、黒い鉄板で覆われた大型車だった。前面には牙のような金属片が並び、ランドラッドの後部を狙っている。見覚えのある二人組、ホッグ兄弟だった。

    「ガキども、お前らここでおわりだぜ!」

    筋骨隆々の男が、助手席から身を乗り出し、盛大に笑いながらこちらを煽っていた。
    再び、がん、と衝撃が来る。ぐらりと大きく体勢をくずしたソラは、慌てて窓枠を掴んだ。

    「エリオ!ぶつけられてる!」
    「くそっ!」

    エリオは舌打ちをし、必死にハンドルを立て直す。

    「あいつら、どこから湧いて出やがった!」

    ホッグ兄弟の車が、更に車体を寄せてきた。黒く巨大な車体が、ランドラッドの横腹すれすれをこする。運転席の傷の男が、窓越しに歯を見せてきた。

    「油断したな、マヌケ!」
    「エリオ、右!」
    「無理だ、避けきれねえ!」

    次の体当たりは、これまでで一番重かった。
    ランドラッドの車体が大きく跳ねる。エリオはすぐにアクセルを踏み直したが、足元から嫌な震えが返ってきただけだった。そのままランドラッドは、砂埃の中で止まってしまう。

    ホッグ兄弟の車が、すぐ横を通り過ぎる。

    「あばよ、オンボロ!」

    筋骨隆々の男が、窓から身を乗り出して叫んだ。

    「優勝は俺たちだ!」

    黒い大型車は砂煙を巻き上げながら、ゴールへ続く道を走り去っていった。

    「くそっ」

    ホッグ兄弟が走り去ったあと、旧係留塔跡には、砂煙だけがしばらく残っていた。聞こえるのは、廃墟となった街を通り抜ける風の音。遠くからかすかに届く実況と歓声。そして、ランドラッドのエンジンが、ぶおん、と空しく唸る音だけだった。

    「エリオ?」
    「……低速ギアが噛まねえ」

    エリオはもう一度アクセルを踏み込む。けれど、ランドラッドはぴくりとも動かなかった。

    「壊れちゃったの?」

    後部座席から、ニコが不安そうに声をかける。

    「ちくしょうっ……動け、動けよ!」

    エリオは悔しそうにハンドルを叩き、もう一度アクセルを踏み込んだ。ニコは、なんと声をかけていいかわからず、小さく息を吐いて黙っていた。
    その隣で、地図を見ていたソラだけが、ぶつぶつと何かをつぶやいている。突然、何かに気がつき、助手席のドアを開けた。

    「ソラ?」

    ニコの声にも振り向かず、ソラは砂埃の中へ飛び出していく。
    遠くでは、実況と歓声がまだ続いていた。ホッグ兄弟の名前が、砂混じりの風に乗ってかすかに聞こえる。壊れたように唸るエンジン音だけが、車内に低く響いていた。

    「ソラを……」

    エリオは額をハンドルにつけて、消えそうな声でつぶやく。

    「ソラをアウレオラに連れてくって、決めたのに……」

    エリオはぎり、と歯をくいしばる。

    「こんなところで終わってたまるかよ……」
    「エリオ」

    軽く息をきらしてソラが戻ってくる。

    「まだ終わってないよ」
    「ソラ?」
    「みんな降りて」
    「え?」
    「早く。時間が無い」

    ソラに言われ、エリオとニコはランドラッドから降りる。

    「あそこ見て。塔の裏」

    ソラが指した先、崩れたコンテナの山の奥に、砂に半分埋もれた細い道が口を開けていた。

    「昔の搬入路があった。あそこを抜ければ、ゴール手前に出られる」
    「ソラ」

    エリオが顔をしかめる。

    「そもそも、そこまで行けねえだろ。ギアが噛まないんだ」
    「車体をあそこまで押す」
    「はあ?」
    「あの道、急な下り坂になってた。入口まで乗せられれば、あとは勢いがつく」

    エリオが、はっと目を見開いた。次の瞬間、口の端がにやりと上がる。

    「そういうことか」
    「ちょっと!」

    ニコが二人を見比べる。

    「あたしにわかるように説明してよ!」
    「止まったままだと、ギアが噛まない。でも、ランドラッドを少しでも坂に乗せられれば、下りの勢いで車体が動くでしょ」

    ソラは坂の入口を指さした。

    「その間に、エリオがギアを入れるんだ」
    「そんなこと、できるの?」

    ソラとエリオが目を見合わせて笑う。

    「やるしかない」

    三人はランドラッドの後ろに手をかけた。重い車体が、坂へ向かってぎしりと動き出す。

    サウスベルに戻るゴール手前の直線では、観客たちが、今か今かとその瞬間を待ち構えていた。砂煙の向こうから、一台の車が姿を現す。

    『いよいよスクラップダービー、ゴールの瞬間が近づいている!やってきたのは……ホッグ兄弟だあああ!やはりこの兄弟、強い!他の追随を許さない!このまま決まりかあああ!』

    観客たちが、声援とも野次ともつかない歓声をあげる。
    勝ちを確信したホッグ兄弟は、車窓から拳を突き上げながら戻ってきた。

    その時だった。旧補給線の斜面の方から、低い地響きが近づいてくる。
    最初に気づいたのは、観客席の端にいた一人の男だった。男が、ぽかんと口を開けて坂の上を指さす。

    落ちるような勢いで、一台の車が坂を駆け下りてくる。

    『な……なんだ、あの車は!?あれは……ランドラッドだああああ!まさかの新人ランドラッド、ここでラストスパートに合流だあああ!』

    ランドラッドはゴール前の直線へ滑り込むように合流した。
    ホッグ兄弟が、背後についたランドラッドを見てぎょっとする。

    「今度こそ終わりだ!」

    黒い大型車が、再び車体を寄せてくる。

    「エリオ!」
    「二度も食らうかよ!」

    エリオはハンドルを切る。ランドラッドの車体が大きく傾き、牙のような金属片が、すんでのところで空を切った。

    「いけえええ!」

    後部座席からニコが叫ぶ。

    『ざ……ざざ……それではみなさん、今日も素敵な午後を――』

    砂煙の向こうに、ゴールラインが見えた。

    「踏み込め、エリオ!」
    「ああ!」

    『ミッドデイ・ブロードキャストがお送りしました。ざ……ざ……ざざ……』

    二台が、白い線を突っ切った。砂煙が観客席まで流れ込む。
    誰も声を出さない。

    一瞬の静寂の後、実況の声が荒野の街に鳴り響いた。

    『優勝は……ランドラッドだあああ!』

    * * *

    アウレオラへ続く係留塔は、昼の光を受けて、白くそびえ立っていた。

    発着ゲートの前では、白い作業服を着た人々が、せわしなく行き来している。補給リフトが金属の軋む音を立てながら、地上と空のあいだをゆっくり昇り降りしていた。
    ソラとエリオは、ランドラッドの荷台を確認すると、ゲートの手前で振り返る。

    「許可証は持ったか」

    宿の店主が確認すると、ソラは首からさげた許可証を持ち上げる。

    「うん。ちゃんと持った」
    「まさか本当に優勝しちまうとはなあ。まったく無茶しやがって」

    店主は呆れたように笑うと、ランドラッドへ目を向けた。

    「こいつも、アウレオラに連れていくのか?」
    「うん。係留塔のリフトに乗せてもらえるんだって」
    「そうか、そうか」

    店主は嬉しそうに目を細め、ランドラッドの傷だらけの車体をぽん、と叩いた。

    「こいつも、よく頑張ったな」

    それから、ソラとエリオの方を見ると、二人の頭をぐしゃっと撫でた。

    「わっ」
    「ちょ、おい、やめろ!」
    「行ってこい、坊主たち」

    店主は大きな手を離すと、にっと笑った。
    その隣で、賞金の袋を抱えたニコが、何か言いたそうに二人を見ていた。

    「これも全部、あたしがあの時ランドラッドを盗んだおかげね」
    「最後までかわいくねえガキ」

    エリオはじっと睨む。ソラは微笑むと、ニコの前にしゃがんで目線を合わせた。

    「ニコ、ありがとう。君がいたから、僕たちはここまで来られた」
    「……」

    ニコは唇をむずむずさせる。それから、ぐっと何かを決めたように顔を上げると、ソラとエリオに飛びついた。

    「ほんとに、ありがとう」

    小さな腕が、二人をぎゅっと抱きしめる。

    「二人のおかげで、母さんの薬が買える」

    言い終わるなり、ニコはばっと二人から離れた。頬が少し赤くなっていて、そんなニコを見てソラはやさしく笑う。エリオは困ったように視線を逸らし、乱暴に髪を掻き上げる。

    「……最初からそう言えよ」
    「うるさいな!」

    ニコは目元をこすって、それから強がるように胸を張った。

    「ちゃんと行きなさいよ、アウレオラ」
    「うん」
    「そろそろ時間だな」

    店主は手に持っていた懐中時計を見る。

    「ありがとう、またね!」

    ソラとエリオは、二人に手をふると、発着ゲートに向かう。
    あれほど遠かったアウレオラが、今はすぐ目の前にあった。

    前方では、灰色の制服を着た警備員が、並んだ人々の許可証を一枚ずつ確認していた。ソラとエリオは、列の最後尾に並ぶ。

    「いよいよここまで来たね」
    「だな」

    ソラは、まっすぐエリオを見る。

    「エリオ、ありがとう。エリオがいなかったらここまで来られなかった」
    「なんだいきなり。てか、この前も似たような会話したな」

    エリオは照れくさそうにソラから視線を外す。

    「今度こそちゃんと言っておきたくて」
    「お前はすぐ、そういう恥ずいことを……というかなあ……」
    「次」

    エリオが何かを言いかけたところで、列が進んだ。先日の警備員が、感情のない声で言う。

    「許可証は」
    「今度は持ってきたよ!」

    ソラは少し誇らしげに、首から下げた許可証を差し出した。警備員はそれを受け取り、横の読み取り機にかざす。ソラは目を輝かせて、その手元を見つめていた。

    エリオは、そんなソラの横顔を見る。
    真昼の光を映した、ソラの青い瞳。

    「これからだって」

    エリオはソラに聞こえないくらい、小さくつぶやいた。

    「オレが、どこにでも連れて行ってやる」
    「え?」

    ソラが振り向く。その瞬間。

    ビコーン。

    間の抜けた電子音が発着ゲートに鳴り響いた。警備員は表情を変えず、許可証を突き返す。

    「偽造許可証だ」
    「え」

    ソラが固まる。

    「偽物……?」

    エリオが一歩前に出た。

    「は?なんでだよ!」
    「次」
    「ふざけんな、こっちは命がけで……!」
    「次」

    警備員はもう、二人を見ていなかった。後ろに並んでいた作業員が、「はやくしろよ」と舌打ちまじりに言う。エリオの肩が、わなわなと震えた。

    「ふざけんなよおおおお!」

    * * *

    ざざ……ざ……ざ……

    見渡すかぎりの荒野を、一台のランドラッドが砂煙を巻き上げて走っている。荷台にくくりつけられた折り畳み式アンテナが、風にあおられて、ぎしぎしと音を立てていた。

    「エリオ、もう少しだけ北の方」

    助手席で、ソラが受信機のダイヤルを慎重に回しながら言う。

    「はいはい」

    運転席のエリオは、片手でハンドルを握ったまま、うんざりしたようにため息をついた。

    「結局、うまい話なんかなかったな」
    「そうだね」
    「命がけでレースに出て、許可証は偽物でしたって、な。まあ、非合法のレースなんてそんなもんか」

    ガタン、とランドラッドが大きな瓦礫に乗り上げる。通り過ぎた看板はすっかり色褪せていて、描かれた笑顔の女性がこちらを見ていた。

    「せめて賞金だけでも手元に残ってりゃよかったんだけどな」
    「うん」

    ソラは少しだけ笑って、膝の上の地図帳に目を落とした。

    「でも、ニコがお母さんの薬を買えたなら、よかったよ」
    「まあな」

    エリオは、頭に乗せていたサングラスを下ろす。

    「あ、そうだ。いいもの買ったんだ」

    ソラはごそごそとポケットを探り、銀紙に包まれたチョコレートを取り出した。

    「なつかしいな、そのチョコ。まだ売ってたのか」
    「ああいう大きい街にしかないよね」

    ソラはチョコレートを半分に割って、エリオに差し出した。エリオは黙ってそれを受け取ると、口へ放り込む。

    ざざ……ざ……。

    受信機から、ノイズまじりの音楽が流れはじめる。
    どこか懐かしいような、気の抜けるような、軽快なリズム。

    「あっ」

    ソラの指が止まる。

    「エリオ、はいった!」
    『ざ……ざざ……みなさんこんにちは。空中都市アウレオラより、お昼の放送、ミッドデイ・ブロードキャストのお時間です』

    のんびりとした声が、いつものように放送のはじまりを告げる。ソラは、ふふっと笑った。

    「今日も元気そう」
    「いつもと同じだろ」
    「それがいいの」

    エリオは、呆れたように息を吐く。サングラス越しに前を見ると、抜けるように高く青い空の向こうに、白い都市がゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。

    「で?」
    「ん?」
    「次はどっちだよ」

    ソラは地図帳を膝の上に広げる。古びた紙の上に、鉛筆で何本もの線が引かれていた。

    「アウレオラの進路からすると、次はきっと、東の旧水上都市かな」
    「また遠いな」
    「うん」
    「食料は?」
    「たぶん足りる」
    「たぶん、な」

    エリオがため息をつく。ソラは小さく笑うと、何気ない声で言った。

    「でも、エリオがどこにでも連れて行ってくれるんでしょ」

    エリオの手が、ハンドルの上で一瞬止まる。

    「……聞こえてたのかよ」
    「あはは」

    ソラは前を向いたまま、いたずらっぽく笑った。

    「だから、大丈夫」

    エリオは何か言おうとして、結局やめた。その代わりに、ぐっとアクセルを踏み込む。ランドラッドのエンジンが、ブロロロロロ……と腹に響く音を立てた。

    「掴まってろよ」
    「うん」

    今日もランドラッドは、真昼の荒野を走っていく。
    声が聞こえる、その方へ。

    『ミッドデイ・ブロードキャスト』

     
     
    漫画原作者 | 『サテライト・コインランドリー』🛰️ 外資 IT 企業で働きながら、少し不思議なSF日常物語を描いています。 ✉️:ame.ame.natsuno@gmail.com 活動まとめ: https://linktr.ee/ame_natsuno

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