ニアリーイコールな僕らの夏
あらすじ
2024年。夏。
少しだけ頭が悪いことがコンプレックスのそらたは、夏を有効活用するべく、冒険をする。
たどり着いた駅は動きだす不思議な駅で…!?
駅で出会った少年、ゆうたと共に、動く駅のこと、時間のズレの謎を解き明かしていく。どうして、二人は出会ったのか。どうして、二人の間で時間の感覚が違うのか。
ある夏の、少しだけ不思議な話。
本編
僕は夏が好きだ。なんでかって言うと、暑くて駅に誰もいないから。
その駅っていうのは、僕の近所にある小さくて廃墟みたいな駅のことだ。駅名が書かれた看板はツルとかすすで薄汚れていて、ほとんど読めない。もちろん、電車なんてとうの昔に来なくなっている。
改札は壊れていて、僕みたいな子供でもお金を払わずに自由に入れてしまう。改札の隣には、使う人もいないのに「おしるこ」専用販売機があって、冬場はよく知らないお兄ちゃんたちで賑わう。
いったい誰が中身を補充しているんだろう。
そのせいで、冬場は怖くて来ることができないけど、夏はがら空きだからすごく快適だ。何か辛いことがあったり、大変なことがあったりすると、僕は駅に来るようにしている。駅はなんだか僕のことをすべて肯定してくれる気がするし、包み込んでくれるような気がするんだ。
ほぼ廃墟のような駅、これがちょっとした僕の秘密基地。
それに、夏ってすごくわくわくする。プールにセミにかき氷。町がちょっとだけいつもより活気づいてるようにみえるんだ。
まあ最近の夏は溶けちゃいそうだけどさ。
なにより、梅雨がある。雨がいっぱい降ると、かたつむりたちが活動し始める。
よく変だ、って言われるけど僕はかたつむりが大好きだ。理由は簡単。殻がかっこいいから。なんとあの殻は生まれた時からついているらしい。僕はてっきり、どっかで貝を拾ってくるもんだと思っていたから衝撃だった。小っちゃい殻を背負ったかたつむりがたくさん生まれているところを想像すると、ふふふ、とお腹があったかい気持ちになる。
でもなぜか、かたつむりのことを考えると頭の端が痛くなる。そして、ぱっと図鑑を読んでる僕が頭の中に現れる。
その僕はいつだって、泣いている。
そんな夏という一年の中で三か月くらいしかない大事な時期を有効活用するべく、僕はいつもより早起きをして冒険に出ることにした。
そして疲れたら駅に行って、涼む。
やばい、完璧すぎるプラン。
玄関先で、僕は荷物をもう一度だけ確認した。
えーと、水筒よし、ハンカチも……あと――
「お弁当を渡し忘れてたわー!」
お母さんが慌ててぱたぱたとこちらに走ってきた。
「ありがとう、お母さん」
お弁当箱を受け取る。危ない、忘れるところだった。
「行ってきまーす」
「あんまり遠くに行っちゃだめよ、特に大通りは危険だからね?絶対行かないのよ?」
「分かってるって」
心配性だなぁ、まったく。
ドアを開けて外へ出ると、突き刺すような日差しが僕を貫いた。眩しくて、目の奥がずきずきする。アスファルトからは、もうもうと湯気が立ち上っていた。
僕の家がある通りをそれて、猫公園を突っ切る。この公園は、水飲み場に集まる猫のたまり場になっていることから、猫公園と呼ばれている。今日は白黒で、おでこの上に八の字のような模様がある猫が一匹、水飲み場の上にじっと座っていた。鼻の上には黒い点が付いていて、かわいい。
「あっ!!」
視線を下ろすと、近くの葉っぱにかたつむりがむにょむにょと動いていた。ちょんちょん、と頭を撫でてやる。なんだかぬるぬる。かたつむりも冒険したい気分なのかな。へへ、僕と一緒。
こんなに暑いのに溶けちゃわないか心配で、そっとリュックの中に入れてやる。きっとこんな所より涼しいはずだ。
よーし、幸先いいぞ。かたつむりに会えるなんて今日はとってもラッキーな日だ。
ぼーっと歩いていると、突然、目の前を人が横切った。
ビックリして尻もちをついてしまう。
「昨日の配信見た?がちやばくてさ」
「もーまじで彼氏がうざい!!顔だけじゃん、あいつ」
「うお、今回のガチャえぐい」
「ってか佐藤先輩さー」
がちゃがちゃとした人の騒めき。びゅんびゅんと通る車。
――気づかなかった、大通りに出てしまったんだ。
「お母さんに怒られちゃうなあ」
たくさんの人の声をずっと聞いていると、なんだか帰りたくなってしまった。
そのとき。
「よろしくお願いします。よろしくお願いします」
必死な声が聞こえて思わず声の方向を見る。
「よろしくお願いします。ありがとうございます」
チラシを配っているみたいだ。髪はぼさぼさでうちのお母さんに比べたらずっと老けてみえる。疲れているのか目の下にはパンダみたいなクマがあった。女の人なのに、、、可哀そう。
なんだか泣きそうな気分になった。
「よろしくね」
その人はかがんで、僕にもチラシを差し出した。
まさか僕にも渡されると思っていなかったので、びっくりして固まる。
おずおずと受け取ったチラシには、写真が一枚。知らない男の子みたいだ。隣には文字がバーッと書いてあって、最後にちょこんと小さなかたつむりの絵。
「かたつむりだ!!!」
思わず声が出る。
チラシを渡している人はものすごく驚いたようにこちらを見た。
どうしよう、知らない人に喋りかけてしまった。
「あ、えっと……」
その人は、まるで幽霊を見ているかのように僕のことを凝視する。
「……ゆうた?」
「?」
ゆうたって誰だろう。おばさんの友達?
「あなた、ゆうたなの!!???」
あれ、勘違いしてるみたい。
「違うよ。僕そらただよ。」
しばらくおばさんは何度も「本当に?」とか「ゆうたじゃないの?」とかいろいろ言っていたけれど、最後には「この子を見つけたら教えてね」とかなんとか言って、ふらふらと立ち去っていった。
僕は、再びまじまじとチラシをよく見つめる。
「なんて書いてあるんだろう?」
僕はまだ字が読めないから分からないけれど、びっしりと文字が並んでいて怖い。
描いてあるかたつむりは、何なんだろう。
「この男の子はかたつむりが好きなのかな?僕と一緒だ、ふふっ」
考えるのをやめにして、チラシをぐちゃぐちゃとリュックへ丸め入れた。
早く大通りから抜け出さないと。
僕はあの駅へと急いだ。
藪道を抜けて、やっとのことで駅に着く。
途中で服が木の枝に引っかかって、抜けなくなったときは、もうダメかと思った。あのまま一生ここにつかまってるんじゃないかって、本気で覚悟したくらいだ。何とか取れて本当に良かった。
改札機をくぐり抜けて、朱色のペンキが剥げたベンチに座る。ここは僕の特等席なんだ。
どこからか漂ってくる鉄のにおいが、ふっと僕の鼻をかすめた。
あ。
そうだ。逆上がりの練習をした、あの鉄棒のにおいだ。
汗がにじんで、口の中にはなぜか砂が入ってじゃりじゃりしてて、鉄の棒はもう殺人的に熱くて、そんな、あの鉄棒のにおいだ。
タオルを使って、初めてくるん、と鉄棒を一回転できた時は飛び跳ねて喜んだんだよな。懐かしい。
昔の思い出に浸りながらひんやりとするコンクリートに背中をあずけると、今日の疲れがどっと押し寄せてきた。
足元にはガラスの破片が散らばっていて、ギラギラと太陽の光を反射している。
ちょっときれいかも。
ふと見上げると、上には時計がドーンと存在を主張していた。
時計の針がむき出しになっているからきっとここのガラス板が割れたんだろう。それでもまだ動いているんだから不思議なものだ。
今日も見る人なんていないのにチッチッと正確に時を刻んでいる。
今の時刻は十三時三十分か。
時間を見て思い出したのか、僕のおなかがぐうううっとセミにも負けないような大きな音を出した。
そうだ、お昼ご飯を食べよう。
リュックをあけると、さっき避難させたかたつむりが「やあ」とでもいうように触角を曲げた。かわいい。
「一緒にご飯を食べようね」
ベンチにそっと乗せてやる。
お弁当をリュックの奥底から取り出す。
「いただきます!!」
パカっとふたを開けると、黄色の卵、赤色のケチャップで描かれたくまさんがバーンと出てきた。そう、僕の大好物の
「オムライスだ!!!」
急いでスプーンを取り出し、ものすごい速さで口に詰め込む。あっという間に僕の口の中はいっぱいになった。
「ん~!!!んまい!!」
卵とケチャップとお米の甘さが絶妙にマッチしていてものすごくおいしい。やっぱり僕のお母さんが作るオムライスは格別だ。
もぐ、もぐ、とまた一口口に入れた。
「そうだ、君にもあげないとね」
お弁当に入っていたレタスをちぎって、かたつむりの前においてあげる。
あー、セミがよく鳴いてるな。
ぽたっと、額から汗がしたたり落ちた。
ミーンミーンミーン
バーンッッッ!!!
すると突然、爆発みたいな音が響いた。驚いてスプーンを落とす。
そして、僕が状況を理解する前に眩いばかりの光が僕を照らしあげた。白くて、熱くて、何も見えない。
「――っ」
思わず目を閉じる。
しばらくして、恐る恐る目を開くと、
「電…車?」
そう、僕の前には紛れもない電車が止まっていた。
緑色とクリーム色の車体。行き先の表示は薄汚れていて、何が書いてあるのか分からない。それとは対照的に窓だけは新品みたいに磨き上げられていて、異様なくらい透き通っていた。そして、何より僕の目を引いたのは金色のドアだった。落ち着いた感じの車体とアンバランスで、とても違和感がある。
爆発だと思ったのはどうやら電車が到着した時のブレーキ音だったらしい。線路なんてとっくに使われてないはずで、ここに電車が来ることなんてないはずなのに。
どうして。
ぷしゅっ
控えめな音と共にドアが開く。「どうぞ、お入りください」と言わんばかりの音だった。
どうしよう。入りたい。けど入ったら帰れなくなってしまうかな。帰ってこれなかったらどうしよう。お母さんに、会えなくなるかもしれない。
途端に怖くなって足がすくんだ。
しばらく迷っている間にドアはゆっくりと閉まり始める。
やっぱり、乗っとけばよかったかなあ。
そんな後悔をよそに電車はすごい速さで僕を置いていく。
風が僕をぶわっと吹き飛ばす。
「あははっ、速い!!」
思わず立ち上がって遠ざかっていく電車を目で追う。その時、おかしなことに気づいた。
さっきまで見えていた山々が、消えている。代わりにカラフルな屋根たちがずらっと並んでいた。かと思えば、見覚えのない建物が次々に現れては、消えていく。まるで、コマ送りのアニメを見ているかのように景色がびゅんびゅんと変わっていくのだ。
「え?」
どうして?
その場に立っているはずなのに、景色だけが横に流れていく。
どうやら、僕は大きな勘違いをしていたらしい。
「……違う」
電車が走り去ったんじゃない。
「駅が、動いているんだ」
気が付くと、もう電車の姿は見えなくなっていた。それどころか、住宅街を越え、とうとう僕はどこかの海に出てしまったらしい。
ざざ、ざざ、とさざめく波の音がどこか心地いい。顔を夏の涼しい風が吹き抜けていった。
潮の香りだ。
そう、あれは何歳だったっけ。昔、僕は家族で潮干狩りに行ったんだ。顔も口も目もしょっぱくて、べたべたしてて。小さなカニが砂浜をとことこ歩いてて。
懐かしいなあ。
「すごい!すごいよ!」
あり得ない状況に心が弾む。いや、気づけば実際にぴょんぴょんとその場で跳ねていた。線路側に一歩でも踏み出したら落ちてしまいそうだ。ちょっと怖くてぺたり、と地面に座りこむ。
はしゃぎすぎて疲れた…。
どれほど時間がたったのだろうか。ハッと目を開ける。どうやら寝てしまっていたみたいだ。
「んー何時?」
眠い目をこすりながら時計を見上げると、短い針は1、長い針は6を指していた。
「え~、全然時間たってない。ついに壊れた?」
確かお昼を食べた時間は十三時三十分だったはず。おかしいな。
しばらくすると、駅の改札口の方から何か音が聞こえることに気が付いた。コツコツ、と革靴を鳴らすような音だ。さっき大通りで嫌ほど聞いた。
――誰かいる。
もしかしたらさっきのチラシの人かもしれない。息をひそめて、そろそろと改札に近づくと、ピッと交通ICをかざす軽快な音が聞こえた。
「わ!!!!」
思わず、後ろに飛び下がる。
スーツを着たさらりーまん?のようなおじさんが入ってきたのだ。この駅は滅多に人は来ないはずなのに。しかも、今、改札が使えてた……?
おじさんは少しびっくりしてから聞いてくる。
「そんなところで、何をしているんですか?」
ビックリして黙りこくる。なんだか目が冷たい。怒られているみたいでお腹の奥がすぅー、と冷たくなった。
「…まあいいや。どいてください」
おじさんはそう言うと僕を押しのけて、線路の方へ飛び降りた。
「ぎゃっ!!」
絶対、海に落ちたはずだ。
しばらく固まっていたが、おそるおそる線路の方を覗く。
「何?今の…」
絶対ホームから線路へ飛び降りたのに、おじさんは跡形もなく消えてしまっていた。下には綺麗な海がさっきと同じリズムで、ざざ、ざざ、と波の音を響かせている。
どこへ行ったのだろう。もしかして落ちてしんじゃったのだろうか。
ぶるっ、と体が震えた。
ビビッ
改札が閉まる音がした。覗き込んでいた体を慌てて引っ込める。
この改札、動けたんだ。
「あちゃ~、これ切符かと思ったら名刺だったか」
女の人が呟く。
真っ赤なハイヒールに真っ赤なワンピース。パーマがかった髪。黒いでっかい電話のようなものを肩から下げている。変わった人だ。
「ん?君不思議なかっこしてんね」
にこっと赤い唇が動く。
お姉さんに言われたくないよ、と思ったけど黙っていた。
お姉さんはしばらく駅のホームに突っ立っていた。
そして、何の迷いもなく線路へ降りた。
「まただ!」
急いで覗きに行く。するとやっぱり、またおじさんのように消えてしまっていた。
「何が起こってるんだよぅ」
波の音だけが、ざざ、ざざ、と変わらず響いている。
ほぼ半べそをかきながらまた朱色のベンチに座った。僕はあの海に飛び込むなんて絶対無理だ。心臓が嘘みたいにばくばくしていた。
また改札の音が鳴る。
ピッ
コツコツ
次の人が入ってくる。
ピッ
どんどん入ってくる。
ピッ
小さい女の子も。
急ぎながら走ってきた男の人も。
大荷物を持った家族も。
やさしそうな顔をしたおばあちゃんも。
泣きながら来た女の人も。
結局はおじさんや女の人と同じだった。
迷いなく、線路へ降りていく。そして、消える。それの繰り返し。
止めることもできない。声も届かない。
僕はそれをただ茫然としながら見つめていた。
今もまた、二人の女子高生が消えた。
「何してるの?」
驚いて振り返ると、僕と同じくらいの男の子が立っていた。
半袖に短パン、体操服みたいな恰好をしている。手には回数券が握りしめられていて、汗でしわしわになっていた。
「どうしたの?困ってる?」
何も答えられずもじもじしていると、男の子が隣に座ってくれた。
泣きそうになっている僕を見かねて話しかけてくれたんだろう。
「今日は暑いね」
うまく声が出なくて、うん、と力なくうなずいた。
「行く途中にかたつむりを見たんだ!捕まえてきたよ、ほら!」
小さな手の中にちょこんとかたつむりが座っている。
「わー!!」
思わず声が漏れてしまった。
「好きなの?かたつむり」
「うん」
気づいたら、少し食い気味で答えていた。
「好き、すごく」
「僕もだよ!」
そう男の子は嬉しそうに答えると、ニカっと健康そうな歯を出して笑った。
「いいよな。かたつむり」
「うん」
「でもさ、お母さんとかに見せると怒られない?」
「あー……怒られる」
キャーっとお母さんに悲鳴をあげられたことを思い出して、思わず苦笑いしてしまう。
「汚いからやめなさいってね。かたつむりだって生きてるんだよーだ」
べーっ、と舌を出しておどけている様子が何だか面白くてぷっと吹き出してしまった。
「でもさ」
男の子がかたつむりを持ち上げる。
「かたつむりって触覚とか可愛いじゃん。なにより殻がかっこよくない?」
「うん、僕も殻が好き」
「たまにさ、変な色のやついるじゃん」
「いる」
「こいつとかさ」
よく見てみると、水色っぽいようなピンクっぽいような不思議な色の殻をしていた。
「きれいだね」
「だろ」
少し得意げな顔。
「あ、僕も」
思い出して僕のかたつむりを見に行く。リュックの近くでのそのそ動いていた。
よかった、まだいた。
「実は僕も行く途中で捕まえてきたんだ。見て」
誇らしげにかたつむりを手のひらに乗せて見せる。僕のかたつむりは殻に茶色っぽいふちどりがあった。
「おー!お前のもかっこいいな!なんか強そう」
「強そうって」
思わず笑う。
そこから、たくさん話した。話は尽きることがなかったし、こんなにしゃべるのは久しぶりだったから、息切れがした。でもすごく楽しかった。
そして、男の子と僕は驚くほどいろんなことが一緒だった。
冷ややっこは好きだけど味噌汁に入っている豆腐は嫌いな事。
オムライスがすきなこと。
たこさんウィンナーはもっと好きなこと。
猫はちょっと苦手だけど犬はもっと苦手な事。
それから、それから、夏が好きな事。
しばらくして、男の子は突然何かに気づいたように喋るのをやめた。
「あ」
遠くを見る。
「もう来ちゃった」
「え?」
「電車」
「電…車?」
電車はさっき本来駅があった場所に置いて行かれたはずだけど。
「ずっと喋ってたいけどさ、もう行かないと」
寂しそうに呟いた。
「まって!えっと」
まだ喋っていたくて、何かいい言葉がないか必死に考えを巡らせる。
「僕、毎日ここにいるよ!」
思わず何の確証もないのに口から飛び出た。
「ほんとに?」
「うん」
ゆっくりと男の子が瞬きをする。
「だからさ、また会える?」
恐る恐る訪ねた。
「俺は、来週もその次も、この時間にここにくる。その時に絶対会おうよ!」
男の子は嬉しそうに言った。
「うん、うん!」
来週ってどのくらいだろう。
「絶対、約束だからな」
そういうと男の子は、立ち上がって小走りで線路に向かっていった。
「あの!」
僕が呼び止めると、線路に歩きだしていた足を止めて、こちらを振り返る。
「あの、僕はそらた。君は?」
一瞬、きょとんとして、すぐに何だそんなことかといった風にニコッと笑った。
あ、この顔、良い。
「俺はね」
一瞬大きな風が吹いて思わず目をつぶってしまう。木の葉がバラバラと舞った。
「ゆうた!」
目をあけると、そこにはもういなかった。
そういえば、ゆうたってどこかで聞いたことがあるような気がする。それも比較的最近。
すっかりがらんどうになったホームを見つめながら、ぼーっと考えた。どこで聞いたんだっけ、えーっとえーっと
「ばっ!」
「わっビックリした!!」
僕の後ろにゆうたが立っていた。
「…え」
あれ、さっき消えたはずなのに。
「どうしたの?」
いつも通りの顔で、首をかしげる。
「いや……あれ、さっき」
うまく言葉が出てこない。
「飛び込んだよね?」
「何の話?」
本気で分かっていない顔だった。
「来週来る、って言ってたじゃん」
「うんそうだよ」
ゆうたが、あっさりうなずく。
「今日があれから一週間たった土曜日じゃん」
えええええ。
僕的には1分もたっていないつもりだったけどゆうた側では1週間たっているのか。
「そうだ、聞いてよ」
「俺と同じクラスの女子がさ、すっごい足速いの」
何事もなかったかのように、話し始めた。
「俺も結構速いほうなんだけどさ、この前の50m走測定で0.1秒負けちゃってさ、悔しいのなんのって」
楽しそうに話す声、笑い方。
全部、普通で。
この世界で僕だけがおかしいみたいだった。
「ゆうたに勝つなんてよっぽど速いんだね」
「ホント女子かよ、って感じ」
どこか嬉しそうに話すゆうたをみて「その子の事好きなんだな」と思った。
しばらくゆうたはその女の子の事とか学校での出来事とかをぺらぺら喋っていたけれど、僕が相槌しか打たないからだんだん話が弾まなくなってきて、最終的には二人とも押し黙ってしまった。
静かになる。
「あのさ」
急に改まってゆうたが話し出した。
「そらたのお母さんってどんな人?」
僕にゆうたがちゃんと質問を投げかけてきたのは初めてで、少し戸惑った。なんて答えたらいいか分からなくて黙ってしまう。でも、ゆうたはそんな僕をじっと待っていてくれた。
「すっごい、やさしい人」
考え抜いた結果、優しいこと以外、思いつかなかった。
言い終わった後、なぜか少しだけ息が苦しくなる。
「そっか」
ゆうたが、小さくうなずく。
「俺のお母さんもね、優しいよ」
何故か悲し気な顔をした。
「じゃあ、またね」
「うん」
ゆうたは線路に飛び込んだ。
ゆうたと入れ替わるように、ルーズソックスを履いた怖そうなお姉さんたちが改札から入ってきた。ギャハハ、と大きな声を上げて笑っている。
目が合ってしまった。
「うわマジ怖いんですけど、なんかーーーし。ニーーーーーさっさとーー見つけろよな、社会のーーー」
キンキンとした声だったから途中何言ってるのか分からなかったけど、僕を罵ってるみたいだった。あのサラリーマンのような冷たい冷たい目だ。
とても、怖い。
「ま、いっか。プリ行こー」
ネイルチップのダイヤがギラギラと輝いていた。
「やべー!!!」
「ゆうた!!」
ゆうたが走りながら改札を抜けてくる。ゆうたの顎から、玉のような汗がじわっとアスファルトに染み込んだ。
最後に見た悲し気な顔が嘘だったかのように晴れやかな顔だ。
「ごめん、遅れた。もう電車来てるから乗っちゃうわ、バイバイ!」
早口でそう告げると線路に飛び込んだ。
僕には電車なんて見えたことないのに。
「そらたー!!」
また同じ声。もはやギャグだ。もう驚かなくなってきた。
「そらたに見せたいものがあるんだ」
手に冊子のようなものが乗っている。字は何て書いてあるか読めないけれど、かたつむりのイラストだけは分かった。
「なにそれ」
「自由研究だよ」
胸を張る。
「俺、かたつむりの観察っていうテーマで自由研究やったんだけど、それをコンテストに応募したら入賞したんだ!」
確かに、表紙に金色のリボンのようなものが付いていた。
「よくわかんないけど、凄いね!」
「だろ~?」
自慢気に冊子をふりふりと振ってから鞄に戻す。
「元気してた?俺は腰が痛くってさあ」
腰をポンポンと叩く。
「もうおじいちゃんなんじゃよ」
「ふはは」
ゆうたじいさんの演技が上手すぎて思わず爆笑してしまう。
僕の声につられてゆうたも笑い始める。
二人で息もできないくらい笑って、落ち着いてきたころに、ふとゆうたを見た。
「元気もなにも僕ね、ゆうたと出会ってから5分くらいしかたってないんだ」
話そうと思っていなかったのに思わず口から飛び出た。
「何言ってんの?」
ゆうたは冗談だと思ったらしい。さっきの爆笑の熱が冷めないみたいに目尻の涙を拭った。
「一か月くらいたってるっしょ」
でも、もう、止まらなかった。
「ほんとなの」
信じてもらえないだろうけど、僕はやっと真実を話そうと思った。
この動く駅の事、そして突然改札からやってくる人たちの事。
ゆうたになら話したい、と思った。
「ゆうたが線路に飛び込むとね、新しいゆうたが改札から入ってくるの」
「何それ、面白い。ピタドラスイッチかよ」
本気にしていないようだったけど、構わず話す。
「ゆうたから見たら電車なんだと思う。でも僕から見たら、線路に飛び込んでるみたいなんだ」
のどが渇く。
「なにそれ」
ゆうたが苦笑した。
構わず、続ける。
「線路の下、覗いたことある?」
「え?」
「海なんだよ。波の音がしてさ」
「……」
「あとこの駅」
「動いてるんだ」
さすがに、ここは笑われると思った。
でも、ゆうたは身を乗り出して真剣に聞いていた。あまりしゃべらない僕が真剣に話したせいかもしれない。
「へえ。それで?」
「あと、時間もおかしい」
声が、少し震える。
「さっき別れたばっかなのに、ゆうたは”一週間後”だって言うし」
しばらく沈黙が落ちた。
「それって多分あれだよ!」
急にゆうたが思いついたように言う。
「えーっとなんだっけ、あれだよあれ」
えーとうーんと、と頭を抱えだす。
「そうだ!ぱられるわーるど、とか?」
はっと思いついたように言う。
「あとは……たいむりーぷ、みたいな?」
ゆうたが言った2つの単語はまったく聞き馴染みがなかったけどそのとおりだと思った。そのくらいしっくりくる言葉だった。
「なんかそういう不思議ななんかなんだよ。そらた、変なとこに来ちゃったんじゃね?」
「多分そうだよ。たいむわーるど?みたいなことが起きてるんだと思う」
僕はうなずいた。
「違うよ、タイムリープ、パラレルワールド、ね。僕も詳しくは知らないんだけど友達がそう言うのに詳しくてさ」
「じゃあ僕はすっごい不思議な状態なんだね」
「うん」
大真面目にゆうたが肯くと、さらにつづけた。
「あのさ」
「一緒にそらたがどうしてこんなことになったのか調べない?」
「え?」
「で、それを自由研究にしてまとめるの。そしたら俺、今よりすんごい賞もらえちゃうかもしんない!」
「楽しそう!」
なんだか、胸の奥がじんわり暖かくなる。
「だろ?」
あ、またあの良い笑顔。
「やろうやろう!」
「あ、やべ」
ゆうたが振り返る。
僕にも遠くでうっすらと何かが近づいてくる気配を感じた。
「もうすぐ電車が来るから行くわ」
「うん」
「今度、ちょっと早めに来るからさ。一緒にいろいろ準備しよ」
「わかった」
「じゃあな」
ふたりで手をがっしりと握り合った。
あったかかった。
「もう、そらた!どこ行ってたんだよ」
ゆうたの強い声が聞こえて、びくっとする。振り向くと、ゆうたが立っていた。肩で息をして、額の汗を手の甲でをぬぐっている。青色のTシャツは汗で黒に近い色になっていた。
「どういうこと?」
「三十分も早く来たのに全然そらたがいなくてさ」
「え、僕ずっとここにいたよ」
「1時にここに来たのにそらたなんてどこにもいなかったぞ!」
「ずっとここで待ってたよ!」
ハァ、ハァ、とお互い荒い息を繰り返す。
若干険悪な雰囲気が流れて気まずくなった。僕はずっとここにいただけだからよく分からないのだけど。もしかして、と僕は思った。
「もしかして…」
「ん?」
「時間の制限、があるんじゃない?」
ゆうたが首をかしげる。
「十三時三十分にしか僕とゆうたの世界はつながらないのかも」
「どういうこと?」
「僕が駅に来た時、時計を見たら十三時三十分だったんだよ。そこから時間が動いてないんだ」
「それに」
「それに?」
少しだけ、声を落とす。
「それに僕たちよく考えたら毎回五分くらいしか喋ってないと思うんだ」
ハッとしたような顔をゆうたがする。
「…あ」
「確かに、俺は毎回13:35発の準急に乗るよ。お昼ご飯を食べてすぐに家から出て駅に着くころには」
「十三時三十分に駅についてるかもな」
こくりと肯く。
「ということは十三時三十分からの五分間しか僕ら会えない、ってことか?」
「多分そう、なのかな」
「短すぎるよー!!そんなんじゃ何の謎も解決できないじゃん」
ゆうたが困ったように頭をかいた。
「そんなことは……ないと思うけど」
邪魔、と大人の人に押しのけられたから、ぼくとゆうたは端っこのほうに移動する。
すると、ゆうたが鞄の中から何かを取り出した。
「何それ」
取り出したのは、薄緑色のノート。表紙には、マジックでぐにゃぐにゃの字。
「じゃじゃーん、不思議調査ノート」
ぱん、と表紙を開くとまっさらなページが出てきた。
うわあ、僕こういうのすごい汚したくなるんだよなあ。
「ここにわかったこと全部まとめていこうぜ」
ゆうたは筆箱からかたつむりのイラストが描かれた鉛筆を取り出し、さらさらと文字を書いていった。
「できた」
"そらたとおれわ、いちじさんじゅっぷんしかあえない"
下には丸い時計の絵。
「ゆうた、文字書けるんだ!」
「あたりめーだろ?一年生だし」
うぐぐ、と言葉に詰まった。
「それよりもっと謎を解き明かそう。他に不思議なことはなかった?」
「うーん…」
少し考える。
「あ、そうだ。ゆうたの一週間は僕にとって、一分くらい?かな。僕の体感だけど」
「なるほどなるほど」
すぐにノートに書き足す。
"おれのいっしゅうかん=そらたのいっぷん"
「その二重線、なに?」
「イコールって読むんだ。同じ、って意味だよ」
ふーん。ゆうたはいろんな物事を知っている。
「ゆうたってすごいよね。色んなこと知ってるし文字書けるし」
「そんなことないよ。一年生として当たり前だし」
誇らしげに胸をそらす。
「でもまあ、そらたも難しい言葉知ってるけどね」
「え?」
僕?そんなことは絶対ない。そもそもあんま喋んないし。
「たまに俺も言ってること分かんないときあるよ。えもい、とかばずってる、とか」
「僕も使ったことあるけど意味なんて分かんなくてなんとなくで使ってるんだよ」
僕だって最近の流行り言葉は分からない。
「ふーん、そんなもんか」
興味なさげに口を尖らせた。
「じゃあさ、じゃあさ!僕たち似てるし、そらた=ゆうたってことだね!」
笑顔で僕は言う。少しびっくりしたようにゆうたの目が見開かれた。
「確かに…そうかもしれない。本で読んだときそんな使われ方はされてなかったけど確かに僕とそらたは=の関係だ。いや、ちょっとまてよ」
ゆうたはそう言って、ノートによく分からない記号を描いた。
"ゆうた≒そらた"
なにそれ、と聞く前にゆうたは得意げに説明を始めた。
「この記号はニアリーイコールっていって、ほとんど同じって意味なんだよ。本で読んだんだけど人は一人一人みんな違う個性をもっていて同じ人間は一人もいないんだって。例えば、俺とそらたで時間の流れが違うようにさ。だから、ニアリーイコール」
「ニアリーイコール」
声に出すとなんだかすてきな響きに聞こえた。ニアリーイコール、ニアリーイコールと何回も心の中で唱える。
「いいね、それ」
ゆうたは、だろ?とでも言うような笑顔を浮かべた。そして、いつもみたいに線路の向こうへ消えていく。
でも今日は消えても不思議に思わなかった。僕とゆうたはニアリーイコールで、必ずしも感覚が同じではないのだから。
「ニアリーイコール」
もう一度空に向かって言ってみる。
同じじゃない。
でも、遠くもない。
その、あいだ。
分からないことは多いけど、これから解き明かせると思ったらわくわくした。
「じゃあそらたは、オムライスを食べてたら電車が来たのを見て、駅が動いていることに気づいたんだな」
ゆうたはそう言いながら、鉛筆をくるくる回す。ホームの上を行ったり来たりして、まるで探偵気取りだ。
今日のゆうたは赤色のTシャツに緑色のズボンをはいている。季節外れのクリスマスみたいで、少しだけ可笑しい。
「そう」
「うーん」
ゆうたは立ち止まり、しゃがみ込む。
「どうして僕らは出会ったのかな」
「どうしてってどういう意味?」
「こうやってタイムリープとかパラレルワールドとかに飛ぶ現象は何か強い意味があるはずなんだ」
少し間がある。
「例えば誰かが死ぬ、とかね」
そう呟くゆうたは小学生に見えないくらい大人びて見えた。
「じゃ、また明日」
なぜか寂しそうな笑顔を浮かべた。
ふと、ずいぶん前のゆうたを思い出す。
僕たちの調査はあれから少し行き詰っていた。
どうして、そんな現象が起きたのか。
どうして僕たちは出会ったのか。
わからないことばかりだ。
でも、分かったこともある。
ゆうたに見えているベンチは朱色に塗りたてだということ。僕には、塗装の剝げた汚いベンチにしか見えないのに。
そして、ゆうたはプレステ2を誕生日に買ってもらったということ。とても嬉しそうに話していた。(僕たちは誕生日が同じなんだ!)
そこから分かる僕とゆうたの時間のズレ。もう5ヶ月もズレてしまった。ゆうたのところではすっかり雪が降っているらしい。
なんてぼーっと考える。最後に別れてどれくらい経っただろう。
ゆうたが、来ない。
今まで一度だって休んだことなんてなかったのに。
どうしたのだろう。風邪かな。
唐突にゆうたのあの良い笑顔が思い出される。
何か、あったのだろうか。
そんな不安が映し出されたように空は土砂降りの雨だった。
「あ、ゆう…た」
ゆうたの姿が見えて思わず手を振りかけて、すぐに口をつぐんだ。
ゆうたの目が明らかに泣いて腫れていたのだ。涙の筋が頬にたくさんついている。雨と涙で顔がぐちゃぐちゃだ。改札の前で立ち尽くしている。
やがて、何かを決めたみたいに、顔を上げた。そして、こちらへ歩いてくる。
「よっそらた」
「どうしたの?ゆうた」
ゆうたが無理やり笑顔を作る。とても痛々しかった。全然良い笑顔じゃなかった。
「何でもないよー!!」
「そんなわけないじゃん」
腕をつかんだ。途端にゆうたの顔がゆがむ。
「…っ…ヒック…」
次の瞬間、糸が切れたようにゆうたが泣き始めた。子供みたいに、ぐしゃぐしゃに。
今までの大人びたゆうたはどこにもいなかった。
そこには、見た目通り、年齢通りの等身大のゆうたがいた。
そんな姿にどこか安心している自分がいる。
泣き止むまでゆっくり背中をさすってあげた。
だんだん落ち着いてくると、
「俺さ、お母さんが入院してるんだ」
ゆっくりと、ぽつ、ぽつとゆうたが話し始めた。
「俺のお母さんはすっごい若くて綺麗なんだ。友達のお母さんの誰よりもかわいい」
途切れ途切れに、詰まりながら、それでも懸命に話す。
「お母さんはいっつも働きに行ってた。一緒にご飯を食べたことなんて、数えるくらいしかないよ」
「寂しかったこともあるんだけどね。でも俺には誕生日の時買ってもらった生き物図鑑があるんだ」
懐かしそうに目を細める。
「ずっと、かたつむりのページを眺めてた。ヒメリンゴマイマイ、ニッポンマイマイ、ミスジマイマイ、手でなぞって。お母さんまだかなって」
慌てたように手を振る。
「お母さんは何も悪くないんだ。俺がまだ小さいしお金もかかるからさ」
「そしたら突然病気になっちゃって」
「だんだんやつれて前みたいに綺麗!元気!って感じじゃなくなっていって」
「そらたは知ってる?知ってる人が、どんどん知らない人になっていく、あの感じ」
ふるふると首を振った。
よく、わからない。
「そっか」
弱弱しくゆうたは笑った。
「でも、でも今だって俺の自慢のお母さんなんだよ」
ぐっとこぶしを握る。
「土曜日の十三時三十五分の電車に乗って、病院まで行くの。そしたらお母さんがいちごみるくを用意してくれてて、お母さんと話しながら飲むんだ。今日会ったこととか、嬉しそうに聞いてくれるよ。お母さんは薬のせいで体が痛いのにコンビニまで買いに行ってくれるの、優しいでしょ?」
「でも…」
辛そうに少し黙った。
「昨日からお母さんの具合が悪くて。部屋も移っちゃって」
「もう……会えないかもしれない」
そんな…。言葉が出なかった。
なんて言えばいいのか全然わからなかった。
「別に心配してないよ、お母さん強いし、絶対病気なんかに負けないし」
顔を上げる。
「でもねでもね、お母さんが頑張ってる間にも僕は普通に学校に通って、普通に友達と笑って、元気に過ごしてるんだよ」
「そんなのおかしいじゃん!!!」
悔しそうに顔をゆがめた。
「昨日ゆうとの家に行ったんだ。ゆうとっていうのは俺の友達ね。ゆうとのお母さん、凄く優しくて元気だった。一緒に庭でバドミントンもした」
「俺にはそんなこと絶対出来ねえのに。ずるい。ふびょうどうだ」
嗚咽が混じり始める。
「それに、怖いんだ。お母さんに会うの」
「前より痩せてたらどうしよう、もう俺の知ってるお母さんじゃなかったら、もし俺の…目の前で……」
言葉が途切れる。ゆうたの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「俺だけ幸せでいいのかな、こんな俺がお母さんに会いに行っていいのかな」
「会いに行っていいに決まってるじゃん!」
思わず間髪入れずに僕が叫ぶと、ゆうたは「ありがとう」と小さい声で呟いて下を向いた。
「お母さん、薬で治すのが難しいくらい進行してるらしい。なんでもっと早く病院こんかったのって怒られた。」
「しょうがないんだ。お母さんは俺のために働いてたから。俺がもっと早く気づけば、俺が…」
「俺はお母さんの枷なんだ」
ふたりとも少し沈黙した。かせ、ってなんだろう。
「俺はそんな自分が許せねえんだよ」
「でも、きっと治るよ、治るに決まってるよ」
「なんでそんなこと簡単に言えるんだよ。何も知らないくせに」
少し強い口調にビックリする。
「僕だってインフルエンザにかかったことあるけど、薬飲まなくても一週間もすれば治ったよ!お母さんだって治るよ!」
「そういう話じゃねえんだよ」
吐き捨てるようにゆうたは言った。
「お前はいいよな。幸せな脳みそしてて」
お前、とゆうたに呼ばれたことなんてなかったのでどぎまぎする。
「?ありがとう」
「ちげーよ、バカだって言ってんの!」
「え」
「じゃあ俺もう行くから」
乱暴に立ちあがると、雨の音にかき消されてゆうたは消えてった。その奥で、心なしか、電車の通り過ぎる音がした。
一気に雨の匂いが強くなる。アスファルトとか、葉っぱとか、いろいろ混ざった、あの匂い。
***
「おかあーさん!!おかーーーさん!!!」
幼い子供の叫ぶ声がどこかで聞こえる。
必死でもがくような、聞くだけで胸が張り裂けそうになるような、そんな声。
でも俺は知っている。この声はきっと届かない。
***
いつの間にか晴れていた。さっきまでの音が嘘みたいだ。
僕のそばにいるかたつむりも、心なしか踊っているように見える。
「そらた」
「ゆうた!」
さっきあった時とは打って変わって少し晴れやかな顔をしていた。
「ゆうた、あのさっきは……っていうか前は、ごめん」
「いや、その俺も言い過ぎた。悪かった」
そして、照れたようにそっぽを向いた。
「俺も気が動転してて。無責任なことを言うお前に腹が立った。傷つけたよな、ごめん」
「え、全然いいよ。そんな気にしてないし」
胸の前で手をパタパタと振る。確かにちょっとびっくりしたけど。
「おかあさん大丈夫なの?」
「まあ前よりそんな危険な状態じゃなくなった。お母さん頑張ったんだってさ」
へへ、と鼻の下を指でかく。
「あ、そらたのかたつむり、まだいる?」
「うん、ここにいるよ」
ゆうたの手に乗せてあげる。触角がぺこりと下がった。お辞儀したようにみえてふたりであはは、と笑いあう。
「面白いな、このかたつむり」
「ほんとほんと、あーおかしい」
「はい、返すわ」
ふふふ、とまだ笑いながら手を伸ばす。その瞬間、ゆうたが僕のカバンに手が当たってリュックが倒れた。
「おっと、ごめん」
「んーん、いいよ」
よいしょ、とリュックを立て直す。
すると、はらり、と何かが落ちた。
「ん?」
ゆうたがそっとそれを拾い上げる。どうやら、一枚の紙のようだ。
「どうしたの?」
近づこうとする。でも、ゆうたは顔を上げなかった。じっと見つめて、全然動かない。
「おーい、ゆうたさん?」
手を振ってみても、反応がない。しばらくその紙を眺めた後、やっと、こちらを見つめ返してくれた。
「そらた」
声が、少し震えていた。
「何だよ…これ」
差し出された紙を見る。
それは、行きにもらったチラシ。
「俺じゃねえか」
そのチラシの写真の少年は紛れもないゆうただった。
「あ!」
ずっとどこかで見たことあると思ってたんだ。胸の奥の引っ掛かりが、するりとほどけた気がする。いや、ほどけたというより、逆にもっと深いところで絡まった感じだ。
「それ、駅に来る途中にもらったんだよ」
僕の声が届いているのかどうか。ゆうたは、興奮したようにふむふむとチラシを読みこんでいる。
「"ふじもりゆうた君を探しています”だってさ。…まあつまり俺のことなんだけど」
「ふじもりって名字だったんだ」
「そうだよ、かっけえだろ」
かっけえかどうかは分からなかったけど、とりあえず肯いておいた。
「そらたは?そらたは何て名字なの?」
「えー、僕?しらないよ」
「知らないの!?お前ヤバすぎ」
確かになんて名字なんだろう。家に帰れたら聞いてみよう、と思った。
「で、ほかにはなんて書いてあるの?」
「えーっと、7歳の男の子で、髪は茶色っぽいです。かたつむりが好きな男の子です。失踪当時の恰好…白い……?なんて読むんだろ、分かんないや」
漢字が徐々に難しくなって、ゆうたが首をかしげた。
「ゆうたが読めないんじゃわかんないよ」
「そうだな」
ゆうたはせっせとチラシの内容をノートに書き写していく。
「俺を探してるんだってさ、ここにいるのにね」
「ほんとにね」
あははと笑う。
「…ん?このチラシ、日付が載ってるじゃん」
チラシの端に、小さく印字されている。
"2024/6/30"
今日の日付だ。きっと、チラシが刷られた日なんだろう。
「2024…ってなんだ?発行部数か?」
「違うよ、年だよ。今は2024年でしょ」
ゆうたでもこんな簡単なことが分からないのか、とぷっと笑う。
「違うだろ、今は2009年だろ」
「…え?」
お互いに顔を見合わせた。
「…月だけじゃなくて、年もズレてるな」
「えー!!」
「まあ、当たり前っちゃ当たり前か」
「僕、未来人じゃん。ふふふ、ゆうたより先取りだ」
「未来の人間は文字も読めないほど馬鹿なのか?」
「僕、馬鹿じゃないし」
「ふーん」
にたにたとバカにしたようにゆうたが笑う。パタン、とノートを閉じた。
「今日はすごいことが分かったな。じゃあ、俺もう行くわ」
「待ってるね」
「おう」
ゆうたが背を向けて立ち上がった、その瞬間。
頭がズキンと強く痛んだ。視界が揺れる。とても立っていられない。
「そらた?」
ゆうたの笑顔がゆがんで見える。
「ーーーー!――――――!」
何か言っているのに、声が遠い。水の中でしゃべってるみたいだ。
「う、あ……」
その場に崩れ落ちる。意識を手放した。
***
だんだん意識が浮かんでくる。
ミーンミーンミーン
セミの声。うるさいなあ。
ミーンミーンミーン
目覚ましみたいだ。僕はまだ寝てたいのに。
ミーンミーンミーン
腕が痛くてしかたない。じんじんと、ずっと痛む。
―――これは何の記憶だろう。
「そらた」
「そらた?」
「あなたはそらたなのよ」
「違うよ、俺は―――だよ」
目の前の女性が、困ったように首を振る。
「じゃあ、今日もごはんは無しね」
また仕方なく、図鑑を開いた。
「でんでんむーしむしかーたつむり…おーまえのあたまは」
「黙れ!」
怒鳴られてびくりと体を震わせる。
お腹が空いた。寒い。
はあ、と白い息を吐きながら、空に手を伸ばして、ひらひらと動かす。
俺はそらた。
俺は―――。
「おーまえのあたまはどこにある」
ドン、とお腹に鈍い衝撃。おえ、と口から液体がこぼれた。
「汚ねえな。拭いとけよ」
お腹の空く頭で考えた。この女性は誰だろう。
お母さん?そうだ母親だ。
でも、なんだか違う。もうちょっと目は細かった気がするな。
あれ、誰だっけ。そんな人、いたっけ。
横たわったまま、かたつむりの写真を指で撫でた。
「あなたの名前は何ですか?」
「俺の名前はそらたです」
「俺?」
ぎろりとにらまれる。
「ぼ、僕の名前はそらたです」
「はい、よくできました」
やった。初めて褒められた。
うれしくて、にんまりとする。
「そーらた」
「お母さん!」
お母さんが僕の横に寝転がった。
「一緒に、アイスクリーム食べよっか」
「うん!僕がとってくるね」
たたた、と走って冷凍庫に手を突っ込む。シャリシャリ君を二本取り出して、またお母さんのもとへ走った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
包み紙をぺりぺりとはがすと、途端にソーダの甘ったるい匂いが部屋中に充満する。
「おいしいね、お母さん」
「そうね、そらた」
「今日はそらたの好きなオムライスよ」
突然、その言葉に、強烈な違和感を覚えた。
頭の奥で、誰かの声がする。ノイズが混じって、聞き取りにくい。
優しそうな声。それでいて必死な声。
誰の声だろう。どんどんノイズが少なくなっていく。
「―――!―――!――た!―うた!!!」
「僕はそらただよ!」
思わず頭の中の声に言い返した。
自分で言いながら、吐きそうになる。
僕はそらただ。他の誰でもない。
僕は――。
***
「そらた…?」
心配そうにのぞき込む、ゆうたの顔。
「わっ」
むくりと起き上がる。
相変わらずセミがけたたましく鳴いていた。
朱色のベンチ、割れた時計、おしるこの自販機。何ひとつ変わっていない。
「どうしたの?」
「なんか急に頭痛くなっちゃって…今は全然大丈夫」
なんだか、さっきまで長い夢を見ていたみたいだ。でも、内容はひとつも思い出せない。思い出さないといけないような、大事な夢だったような気がするんだけど。
「なんで泣いてるんだよ」
「分かんないよ」
気づいたときには、頬を涙が一筋、つたっていた。
とても悲しい夢だったのかもしれない。
なら、思い出さないほうがいいか。
「気をつけろよ。最近、俺のとこでも風邪のやつ増えてるんだからさ」
「うん、ありがとう」
「じゃあ、本当に俺行くから」
キキーッ、と耳をつんざくブレーキ音が鳴る。
思わず顔をしかめた。
ゆうたが―――確かに、何かに、乗車した。
しばらくぼーっとしていると、
「うっす元気?」
すぐに、またゆうたが現れた。
「うん、平気。それで、どこまで分かったんだっけ?」
「それぐらい覚えとけよ。お前にとってはさっきの話なんだろ?」
えへへ、と首に手をやる。
「俺はお前の十五年前を生きてるっていう重要なことが分かったんだよ!」
「そうだったそうだった」
「そらた、今何月?」
「んー……六月三十日だと思うけど。多分。あんまり時間の流れとか分かんないんだよね。お腹とか空かないし」
「俺は今、五月二十六日だから……ちょうど五週間後でぴったり十五年前って感じだな」
「2009年6月30日に何か起こるかもね」
「それ、俺も思った」
ゆうたはノートに、でかでかと書き込む。
"6がつ30にちXデー!!!"
もう出会ってから、ゆうた側では一年が経とうとしてるんだな、と思ってしみじみとする。
「そういえばさ、そらたはこの改札から出れないの?」
「それがさ、改札から先には何もないんだよ」
前に一度、ゆうたがいないときに試したことがある。
けど、改札の向こうには床も何もなくて、そのまま落ちてしまいそうだった。
「なんだよそれ、怖いな」
「僕、駅に閉じ込められてるみたいだね」
二人で何となく、空を見上げる。雲一つない、すっきりとした快晴だ。
「ここから出る方法も探していこうぜ。結構わかってきたじゃん。そらたの謎」
「僕たちなら、何かできそうだね」
ぱん、ハイタッチすると、そのままゆうたは歩き出した。
今回は、確実に、電車の音を聞いた。
15年前の今日が近づくたびに僕の頭が激しく痛む。
僕は確実に何か大切なことを忘れてしまっている。
でも、確信していた。
あの時、そう15年前の今日、僕は何か重大な体験をした。
「そらた!!」
元気よくゆうたが飛び込んでくる。
「聞いてくれよ」
「なになに」
「お母さん、もうすぐ退院できそうなんだよ」
「ほんとに!?」
すごいすごい、と手を合わせてその場を飛んだ。
「そらたの言う通り信じててよかった。本当にありがとう」
「頑張ったのはお母さんでしょ」
「それもそうだな」
ふふふ、と笑い合う。
「それでさ、退院したらお祭り行くんだ」
「何のお祭り?」
「祇園祭だよ、もうすぐあるだろ?知らないの?」
知らない、と正直に言ったら笑われそうなので黙っておく。
「あー楽しみだな」
"祇園祭"
その言葉を聞いた瞬間、僕は何かすごく胸に迫るものを感じた。でもそれをうまく言語化することができない。もやもやしてぐるぐるして気分が悪い。
「そらたも祇園祭、いったことある?」
「え、ないよ」
「すっげえんだぜ、毎年毎年すごい量の人がさ、道路を歩いてて、夜はピカピカしてて、屋台もいっぱい出てて、、、」
「僕も行ってみたいな」
「もし、この駅からそらたが出れたらさ」
ゆうたが小指を差し出してくる。
「絶対、一緒に行こう。約束な」
僕も、それに従った。
「うん」
小指を絡ませあって、二人で笑う。
「「約束!」」
声がそろって、またさらにけたけた笑う。
「また来週!」
「うん!またね!」
ゆうたがいなくなると、あたりは急に静かになった。
あれ?と違和感を覚える。前まで聞こえていた、あの波の音が、もうしない。気になって、恐る恐るホームの下をのぞき込む。
すると、そこには線路がきちんと引かれてあった。
錆びてもいない、まっすぐに伸びたレール。
海なんて、どこにもなかった。
しばらくすると、荷物をたくさん持ったおばあちゃんが来た。
どこかで見たことある顔だな、とついじっと見つめる。
そのとき、
「……っ」
おばあちゃんの体がフラっと傾いた。
「だいじょうぶ!?」
とっさに立ち上がって、支えてあげる。
おばあちゃんはびっくりしたようにこちらを見つめ返す。
「え、ええ。ありがとね」
優し気に微笑む顔がすごく安心した。
そのまま離れようとすると、
「ねえ」
そのおばあちゃんに呼び止められた。
「もしかして、そらたくんかい?」
「え、なんで」
「やっぱりそうかい。そのノート」
おばあちゃんが僕の足元を指さす。そこには、僕たちの不思議調査ノート。どうやらゆうたが忘れていったみたいだ。
「ゆうたがね、嬉しそうにせっせと描いてたなあと思ってね」
うんうん、と微笑みながらうなずかれる。
「やっぱり、話で聞いてた通りの子だね」
するとすぐに、表情を変えて、まじめな顔をした。
「あの子ね、ゆうたはね、大人びてるように見えて凄い弱い子なの」
僕は、何も言えずに見つめ返す。
「なんというか、あなたはどこかゆうちゃんに似ているわ」
「ゆうちゃんを、守ってあげて」
まっすぐに見つめられた目から、強い意志が込められているのを感じる。
「うん。わかった」
僕は、小さく、うなずく。
それを見て、おばあちゃんはくしゃくしゃっと笑顔になった。
「よろしくね」
その時、僕はあの時以来の電車を見た。
電車はまだその場に留まっている。
まるで、誰かを待っているみたいに。
「そらたー!!!」
「あ!ゆうた!」
いつものように駆け寄ろうとして、止まった。
ゆうたの隣に、"ナニカ"がいる。
「誰…?」
「前言っただろ」
「俺の、お母さんだよ!」
その瞬間。ズキン、と今までで一番強烈に頭が痛んだ。ゆうたのお母さんの顔が靄がかってよく見えない。
思い出さないといけない記憶、そうだ。俺はいつだって何かを忘れていて――。
***
十五年前のあの日。
俺はいつものように、母さんのいる病院へ向かっていた。
白い壁。
強烈なほどの消毒液の匂い。
背伸びしないと届かないカウンター。
顔なじみの看護婦さん。
そして、通えば通うほど痩せていく母さん。
毎日2番線のホームにやってくる、緑色とクリーム色のクリームソーダみたいな電車に乗り込み、窓の外の空を見上げる日々だった。
そんなある日、母さんが退院した。正確には退院ってわけじゃなくて一時帰宅、みたいな感じだったんだけど。でも、俺は嬉しくて嬉しくて何度も母さんに抱き着いた。入院する前よりは明らかに痩せてしまった体だ。でも、前と同じ母さんの優しい匂いがした。
あの日も同じように電車を待っていた。
いつもと違うところは、母さんが隣にいること。
一緒に病院まで必要な荷物を取りに行くことになったのだ。
"一人"じゃない電車を待つ時間はとても楽しかった。
俺は「どこどこの席がいちばん涼しくて~」とか無駄な知識を母さんにいっぱい教えていた。母さんは嬉しそうに、ずっと笑ってくれていた。その日はお祭りで、電車に乗り込む人はいつもよりたくさんいて。俺たちも荷物を取り終わったら行くはずだった。
だった。
白い浴衣がひらひらと揺れる。母さんに久しぶりに着付けしてもらったのだ。俺は気分が良かった。
「おかあさん、うるさいね」
「ええ、今日はお祭りだもの。楽しみだね」
「うん!」
その時、誰かに腕を取られた。
とても強い力で痛かった。
ずんずん引っ張られて、母さんと離される。
「え、なに?」
「僕、私とお祭り行こうか」
「行かないよ!だって俺、おかあさんと行くし!」
俺のことは無視して電車のドアへ近づく。この電車は病院のある駅には止まらない。
乗っちゃダメ!
「やめて、やめてよ、おかあさん、ねえおかあさん!」
どれだけ大きい声で叫んでも母さんは振り返ってくれはしない。駅に貼ってあるポスターをぼーっと見つめているだけだ。
「ねえおかあさんったら!!!」
叫ぶ。何度も、何度も。
でも、母さんは振り向かない。
「おかーさん!!!おかあさん!!!!」
たくさんの人の声ですぐに僕の声はかき消された。大勢の人が波のように電車から降り、飲み込まれるように乗り込んでいく。
俺は海で溺れているような気分になった。
「おかーさん!」
そこで、ようやくハッとしておかあさんがこちらを振り返った。
「ゆう……!!!」
ドアが、閉まる。
視界が、途切れる。
その日から、俺の時間は止まった。
***
だから。こいつは絶対にそんな目に合わせない。こいつだけは絶対に助ける。俺は俺を守るんだ。
おばあちゃんと約束したように。
母さんがチラシを配らなくて済むように。
「ゆうた!」
ビクッとしたようにゆうたが振り返る。
「なあに、そらた?」
電車へ向かう足を止めて、人懐っこい笑みを浮かべた。
古びた時計が十三時三十六分を指していた。秒針がチッチッチと正確に時間を刻む音がする。
時が、時が動き出した。自分の中でも時間が進んでいるのがわかる。今まで以上に心臓が早鐘を打つ。
そうだ。きっとそうだ。
このために俺はゆうたと会ったのだ。
過去の僕自身を救う。これがきっとこの不思議な現象の原因。
あれから15年。体はすっかり成長し、ろくに運動もしていないからどう戦えばいいのかもわからないけど。
擦り切れたスニーカーの紐を結び、その時に集中を巡らせる。
後30秒。
20。
10。
9、8、7、6、5、4、321。
アイツが現れた。
黒いサングラスに、犬の写真がプリントされたおかしなTシャツ。間違いない。アイツだ。
俺を「そらた」にして母さんから俺を奪ったやつだ。
俺は知っている。アイツは、母さんの隣の病室の、そらたくんのお母さんだ。そらたくんは残念ながら病気で亡くなってしまって、俺を"代わり"にしたんだ。
アイツに俺は青春を奪われ、言葉を奪われ、時間を奪われ、すべてを奪われたんだ。
絶対に許さない。
ゆうたの腕が、掴まれる。
迷いはなかった。思いっきりタックルをかます。人が多い駅のホーム内でどよめきが起こった。
「痛いでしょ!どきなさいよ!」
甲高い声。俺は無視して羽交い絞めにする。
「何してるの…?そらた」
ゆうたがおびえた顔でこちらを見ていた。
「ゆうた!」
振り返らずに叫ぶ。
「ここから母さんを連れて今すぐ離れろ!」
「怖いよ、そらた……死んじゃわない…?」
「大丈夫だって」
笑った。
「俺は22歳なんだぜ」
少しだけ、誇らしく。
「ゆうたよりは何倍も強い。だから、任せろ」
あいつのポケットに何かが煌めいた。
「ほら早く!」
「待って危ない!そらた!!」
腹のあたりにどろりとした痛みを感じる。酷く生暖かい。
「そら…そらた…」
ゆうたが絶句して目の前にへたり込んでいた。何驚いてんだよ。なんでそんな顔、してるんだよ。
「すごい、楽しい夏だったよ。ゆうた。俺たちが出会ったのは偶然じゃない、俺は」
意識がどんどん遠のいていくのを感じる。もう目も、あまり見えない。鉄のにおいがつん、とする。
この鉄の匂いは、血液の匂いだ。
「俺は、ゆうただ」
よかった、やっと言えた。やっと思い出せた。
「そうだ、これでよかったんだ」
やっと、使命を果たせた。
似ているようで、似ていない。
でも、確かに重なっていた。
そんな、僕たちのニアリーイコールな夏。
俺のやっと進み始めた時間は、ここで終わってしまった。
2030/6/30
俺はあの駅へとまた出かけた。
いつか会えるかもしれない、ゆうたのために。